春コミ発行予定の小説から一部抜粋です
明治中期から大正初期くらいの時代設定ですが
あくまでも「なんちゃって」の世界(汗)
深い突っ込みは何卒ご容赦下さいませ〜
尚、サンプルにも若干の
18禁表現が含まれますので
ご了承くださいませ!





WATER LILIY





  〜 プロローグ 〜


アキラがその少年に出会ったのは、梅雨真っ盛りの頃だった。
生温かい雨が降り続いて幾日。
お屋敷のあちこちに、きのこでも生えそうだと使用人たちが愚痴をこぼすのを、アキラはサンルームの長椅子で詰め碁集を見ながら、ぼんやりと聞いていた。
(爺やたちも大変だなぁ…僕も自由に外に行かせてもらえなくて不便だけど、庭の紫陽花は喜んでいそうだ)
目の前のテーブルでは、運ばれたばかりのホットミルクが仄かな湯気を立てている。
大人たちは舶来のお紅茶というものをよく飲んでいるが、アキラはその香りが好きで、早くお紅茶をいただけるような年になりたいと思っていた。
それでも今は、このミルクが嬉しい。何しろ、外は見るからに肌寒そうなのだから。
アキラがミルクを飲もうかと腕を伸ばしかけた時、コツコツと窓ガラスを叩く音が、雨音に混じって聞えた。
おかっぱの髪を揺らして、背後を振り返る。
「えっ!」
アキラは思わず、椅子から飛び上がった。窓ガラスに、イモリよろしくベッタリと貼り付いていた顔に驚いたのだ。
「誰っ!」
アキラも驚いたが、どうやら相手も驚いたらしい。
感電でもしたかのように窓から飛び退ったが、その人物はすぐに笑った。
「…っ、子ども…?」
窓の外にいたのは、アキラとさして年も変わらぬ少年だった。
違うのは身なりだ。アキラがどこからどう見ても良家の令息でしかないように、少年もまた、市井にごろごろいるような貧しい階級の出身であることは間違いなかった。
だがしかし。
少年の目は、何日も雲の向こうにあって姿を見せない太陽を思い出させるかのように明るく輝き、その目に向かってアキラの意識は吸い込まれそうになった。
少年の名前は進藤ヒカル―――それをアキラが知るのは、もう少し後のことになる。
アキラがどうしようかと迷っているうちに、少年は雨の中、傘もささずに濡れながらこちらを覗いていたのだと気付く。
それなのに、大きな笑みを浮かべたまま濡れそぼることも厭わない少年への不憫さが勝り、アキラは思い切ってサンルームの窓を開けた。
途端に風が起き、アキラは仰け反る。
冷たい雨の匂いが、部屋に侵入して来る。
背後でガチャン! と大きな音がしたが、それは舶来の細長いガラスの花瓶が倒れた音だとアキラにはわかった。
そのくらい、激しい風だった。
アキラの周りで温かい空気と、冷たい空気と、温度差の激しい二つの流れが大きな奔流となってうねり、絡まり…
やがて、ならされていくその過程が、瞬きを数回する短い間に起こった。
アキラの世界にヒカルがやって来た。
ヒカルの世界にアキラが現れた。
それは、二人の異質な少年が出会った運命の日であった。




  ( 一 )


塔矢アキラは華族、塔矢子爵の一人息子である。
明治の世になるまで貴族の家柄であった塔矢家は、現当主の行洋の代になって事業で成功し、帝都東京に豪奢な屋敷を構えた。
当時、日本に招聘されて西洋建築を広めた外国人は何人かいたが、その中の一人であるJ・Cが設計した洋館と、そこから繋がっている和館の複合建築であった。
屋根の上には、風見鶏があった。
神戸の異人館を思わせるそれは、この屋敷のトレードマークではあったが、門から建物までは遠く、とても通りすがりに目に出来るものではなかった。
建物はクリーム色の外壁、レンガ造りの階段、テラスは珍しいことにイスラム風のタイルが敷き詰められ、一階にも二階にも窓がふんだんにある。
それぞれの部屋もデザインが凝っており、また、カーブを多用している為、柔らかい印象だ。
洋館へと続くアプローチは、緩やかなカーブを描いており、常緑樹の他、様々な季節感溢れる花々や木々が配されていた。
春の庭には桜。秋の庭には銀杏と言った具合に、それぞれの一角で楽しめる趣向のようでもあった。
和館の方には、小さいながらも日本式の庭がしつらえてあり、縁側から眺める紅葉は、洋館周辺の大木とは違った趣を添えていた。
家族は勿論のこと、住み込みで働く使用人、出入りの者達、客人、全ての者がこの屋敷に魅せられ、愛していたのかもしれない―――
そんな塔矢邸の中で育ったアキラが、母親と一緒に住み込むことになったヒカルと出会ってから、片手では足りないほどの年月が経った…
この春から、アキラは陸軍士官学校に進学した。
ヒカルは学校を出た後、そのまま塔矢邸で働いている。
そして二人は同い年であるというだけでなく、共通の趣味を持った。それが碁だ。
当主の塔矢行洋は、相当な打ち手であった。もしかしたら、人が身分というものに縛られない世の中であれば、碁に生涯を捧げていたかもしれない。
それくらい行洋の碁は強かった。有名でもあった。
その息子アキラが、父から薫陶を受けたのは言うまでもない。父譲りの、緩急自在で豊かな碁であった。
新しい遊び相手を得たアキラが、真っ先にヒカルに望んだのは、当然、碁を打てるようになること。
上品なおぼっちゃまに見えるが、碁盤を前にすると目付きが変わると、ヒカルはまだ、碁のイロハもわからないうちから驚かされた。
同時に、アキラのその真剣な瞳に魅せられた。
ヒカルにとっても、アキラとの出会い、それから碁との出会いは大きかった。
勉強を終えたアキラと、仕事の合間に抜け出して来たヒカルとは、庭で駆け回ったり、近所の林や池を探索したりする以上に、碁盤を挟んでいることも多かったのだ。
そんな風に二人は身分違いでありながら、文明開化が進んだ東京にある、美しい屋敷で共に育った。
子どもから少年、そして少年から青年へと、季節を重ねた後のある年、二人の関係は激動の渦に飲み込まれてゆく。


○●○


いつもと変わらぬ夜だった。
アキラは士官学校から戻ると、食事、風呂、しばし棋譜並べと終え、両親に「おやすみなさい」と言えば、自室に引き取ることを許される。
部屋に入ったアキラはベッドに近寄り、賭け布団をそっとはがしてみた。
シーツに手をあててみれば、そこは仄かに温かみを宿し、たった今まで誰かがこの寝具を温めてくれていたことを物語っていた。
今日は急に冷え込んだ。秋が深まった。
そろそろ、そういう時期だろうかと思っていたので、今夜、この布団のぬくみがアキラには期待通りで嬉しくてならない。
湯たんぽや「火のし」などを使って温められた寝具の上に横になれば、まるでそうしてくれた者の温みを存分に貪っているようで、胸の奥にも言い知れぬ熱が溢れ、アキラは切なさに身を捩らせた。
「…っ、そうだ!」
思い付いて、アキラはガバッと身を起こす。
急いで枕の下に手を差し込んで探ると、すぐに固く、冷たい感触を指先が捉え、思わず笑みが零れた。
これは合図―――ヒカルとアキラが取り交わした、秘密の…
アキラがそっと取り出したものは、一個の碁石だった。
黒石は外で、白石はビリヤード場で、ヒカルがアキラを待つという約束なのだ。
今日の石は、白。寒さに震えないようにと選んだのだろうか。
アキラは時計を見たが、まだ早い。使用人たちが寝静まるまでは動けない。危険だ。
アキラはもう一度布団に潜り込み、頭の中で棋譜でも並べようかと思いつつ…
結局、脳裏に浮かぶのはヒカルの面影ばかり―――


昼間、アキラはヒカルに酷かった。酷いことをした。
とても愛しい人にしてはならないようなことだが、使用人と主人であれば、それはいたし方がない。
アキラは学校から帰宅すると、馬車から降りようとして、不意にその場所にぬかるみがあるのに気付いた。
ぬかるみのない場所へと移動させとようと、御者に声を掛けようとした時、ヒカルが駆け寄って来るのが目に映った。
その明るく大きな瞳が、今はただ、アキラに奉仕する使用人としての表情のない顔に埋め込まれ、生気はない。
それでも嬉しい…下男であるヒカルの姿を、アキラは日に幾度も目に出来るものではないのだから。
だが、他の使用人達も玄関から見ている前で、ヒカルは何の躊躇いもなくぬかるみに膝をつき、アキラが足を下ろす付近に自らの手を差し出した。
この上に乗れと、言うのだ。この手を、踏んでいいというのだ。
アキラの心が、悲鳴を上げる。
そこまでする必要はないと、本当に音に出してしまいそうになって、必至で堪えた。
「ご苦労…」
抑揚のない声で、アキラは言う。
ヒカルは頭を垂れたまま、「おかえりなさいませ」とだけ返した。
アキラの足に踏まれた瞬間、ヒカルはピクリと肩を揺らしたが、それは一瞬の微かな動きだった。
痛みも喜びも、何の感情も表すことは許されない。
アキラはヒカルの右手を、それから左手を踏み締め、その後で大股で勢いよく敷石へと飛び移った。
カツン…と、上等な靴のかかとの音が響く。
それを合図にヒカルはその場をさっと離れ、アキラは一瞥だにすることはなかった。
…しては、ならなかった。
あくまでも、主人と使用人―――
スラリと伸びた長身を、下ろしたてのようにパリッとした黒い海軍士官学校の制服に包んだアキラは、洋装でありながら若武者の如く凛々しかった。
真っ直ぐに切り揃えられた黒髪の触れる肩先にも、清潔感を滲ませている。
黒曜石の瞳は、民族の誇りをそのまま凝縮したような強い光を奥に秘め、引き締まった薄い唇は意思の固さを思わせる。
すれ違う誰もが、憧憬と感嘆をこめて見るアキラだからこそ、ヒカルの前で幼き日のように親しげな態度を取ってはならないと、当のアキラではなく、ヒカル自身がそうして欲しいと望んだことでもあった。
冷静な口調で命令されることも、人として扱われない屈辱も、ヒカルにはなかった。
ただ、アキラの傍にいることに意味があった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
だからこそ、こうしてただ一人の人間同士として向き合える夜は、二人とも別人になる。
時間を巻き戻し、幼き日に戻る。
―――ただ違うのは、幼き日にはしなかったことをするようになったことだ。
(アキラッ…)
(っ! ヒカッ…)
アキラがようやく部屋を抜け出し、通路へと降りる階段に足を踏み出した瞬間。
待ち構えていたのだろう、ヒカルがアキラの手首を掴んで引く。
そのままダンスでも踊り出すかのように大きく振り回されたアキラは、すんでのところで声を飲み込んだ。
黒髪が綺麗に広がっては落ち着くさまを、暗がりの中にあってもヒカルは息を詰めて見ている。
次の瞬間には、もう二度と離れないとばかりにピタリと細い体を重ね、強く、強く抱き合う。
ヒカルはアキラの髪に己の頬を、鼻を、激しくすり寄せ、それを乱しては吐息を吹きかけた。
音にしてはならない愛しい人の名前を囁き声で呼び合い、冷たい夜の空気の中で混ぜ合えば、静けさを破ることこそが罪だと言わんばかりに必死で声を殺し、それでも押さえ込めない欲望は若い身の内で猛り狂う。
「っ、っ…っふ…ぁ…」
「…ん、っ…ぁ…」
抱擁を繰り返す衣擦れの音だけが地下通路に響き、ズルズルとその場に崩れ落ちそうになって初めて、自分たちのしていることに気付いた。
(続きは、あっちで――)
(…うん)
最後にヒカルがその手を広げ、愛しげにアキラの白い頬を包み込んだ。
アキラもすぐに、同じようにする。
そして、啄ばむような口付けを一度だけ交わすと、二人は縺れ合いながらビリヤード場へと向かった。


鍵を開けようとするアキラの手は、震えて震えてどうしようもなかった。
早く、一刻も早く、ヒカルと抱き合いたいと、身も心も逸るアキラの手は、なかなか言うことをきいてくれないのだ。
「くそっ…っ…」
苛立ちを募らせるアキラは、その端正な横顔を歪ませ、それがまたヒカルの欲望を煽る。
「アキラ、焦るな、俺はここにいるぜ…」
背後から抱き締められて、背中が温かくなる。
ヒカルの切ない呼気がアキラの耳元にかかり、背筋をゾクゾクと駆け上がるものがあった。
思わず鍵を落としそうになるが、ヒカルの手がそれを防ごうと伸ばされる。
アキラの手に重ねられたヒカルの手は、一緒に鍵を回した。
どれだけ近くにいても足りない。離れている間の哀しみとやるせなさが、二人を短くも狂おしい逢瀬へと駆り立てる。
ドアが開くなり、転がるように部屋に入った。
後ろ手で閉めて鍵まで掛けたのは、アキラだったのかヒカルだったのか、定かではない。
すぐに抱擁が始まった。
さっきは掠めるだけだった口付けは、あっという間に深くなり、交互に相手の舌を強く吸い上げては、頭の芯がクラクラするような交歓に没頭した。
溢れる唾液がいやらしく顎から咽喉へと細い道を作るのにもアキラは感じるが、それを広げるようにヒカルの手がアキラのうなじや鎖骨を大きな手でなぞるのにも、たまらなく感じた。
必死でヒカルの頭に縋り付き、柔らかな髪を掻き混ぜる。
アキラもこうするのが好きだが、ヒカルもされるのが好きなのだ。
唇を合わせたままその場にしゃがみ込むが、手をついた拍子に、ヒカルが苦しげに眉を寄せたのに気付いたアキラは、はっと身を離した。
「ヒカル、手をっ…手を見せろっ…」
アキラがその手を強引に引っ張ると、そこには小さな引っ掻き傷のようなものがいくつもあった。
昼間、アキラの靴に踏まれた時に出来たものであることは明らかだ。
アキラが泣きそうな顔でその手を見下し、両手で愛しげに包む姿に、ヒカルの胸も締め付けられた。
「っ、っ! …アキ、ラ…」
ヒカルの手を頬に摺り寄せるだけでは足りなくなったアキラは、その手に口付けを落とし、唇を付けたまま小さな舌先を差し出しては、傷を撫でた。
ヒンヤリと濡れ、柔らかい舌が与えてくれる感触に、今度はヒカルが背筋を震わせて喜びを表した。
「っへえ…舐めて、くれんの? 俺に、こんなヒデエことしやがったお前が…」
背中を丸め、傷付いた手を己の唇と舌で癒そうとするアキラの姿に、普段は押さえ込んでいるヒカルの中の本能が目を覚ます…
アキラへの道ならぬ想いが、ヒカルの獣じみた嗜虐性を増長させるのは、二人の関係が始まった最初からの常だった。
優しく始めた行為でも、肌を重ね、互いを貪っているうちに昂ぶり、甘い言葉の代わりに囁かれるヒカルの言葉は、凶器のような痛みを伴ってアキラを嬲ることがあった。
自分にマゾヒスティックな嗜好があるとは思っていない―――ただ、相手がヒカルだから。
昼間の関係を覆すほどの強烈さがなければ、アキラとてヒカルに抱かれるのが辛いのだ。そうやって、無意識のうちにバランスを取ろうとしているのかもしれない。
…優しくなんて、するな。ひどくしろ。僕を、君のいいように…
常に凛としたアキラが、ヒカルの腕の中ではぐずぐずに解けて、甘える。
それも優しくして欲しいという甘え方ではなく、乱暴に扱えというのだから、若いヒカルはブレーキを壊された暴走車そのものだった。
ヒカルの手をひたすら愛撫するアキラの乱れた息遣いを味わいながら、ヒカルはもう片方の手でアキラの細いうなじを下から上へと繰り返し、大きく、撫で上げた。
「へえっ…上手、じゃんか…いっつも、そうやって俺の、何でも、舐めてれば、いい…」
「ん、っ…」
「手はもういい。今度はこっちな。待ち切れないぜ…ほら」
ヒカルはアキラの頭を掴んで引き剥がすと、その顔を己の股間へと持って行く。
寝巻きの上からでもわかるほど、そこは膨れ上がって主張していた。
ヒカルは腰を突き出したまま、寝巻きの上からアキラの舌に奉仕させ始めた。
「っ…下手くそっ…舌はまだまだだな…手でしろよっ」
今度はアキラの手を寝巻きの中へと導き、すっかり固くなっている己の欲望を握らせた。
アキラの手の平はしっとりとヒカルに吸い付き、長い指をほんの少し上下させるだけでも終わりそうになるから、そうさせたまま、ヒカルは再び唇を奪う。
アキラも口付けに応えながら、ヒカルの滾るものを手の中で刺激する。素直に反応して喘ぐヒカルが嬉しい。
自分がされるよりも、ヒカルにしている時の方が感じるというのは、心のどこかが壊れているからかもしれない。
…外では、木枯らしが吹き荒れていた。
風音は、初めて結ばれた嵐の夜のことを二人に思い出させようとしているのだろうか。
それは遡ること、四ヶ月ほど前のことになる―――




   ( ニ )


アキラの母、明子は、生まれつきの病弱だった。
アキラを生んだ後はほとんどの時間を床の上で過ごし、アキラが成人する前には必死の看病も虚しく他界、ほどなくアキラの父は後妻を迎えた。
アキラは決して後妻の文子を疎ましく思ってはいなかったが、文子の方には連れ子があったせいか、先妻に瓜二つの跡継ぎは目障りでしかなかったのだろう。
勿論、文子とてあからさまなことはしないが、それでも次第にアキラを遠ざける方向へと、文子は周囲を動かし始める。
その夜もそうだった。
家族で観劇に出掛けることになっていたが、アキラは「少しお咳が出ていらしたから、お薬を飲んでお休みになった方がいいわ」と文子に言いくるめられ、反論も出来ないまま自室の窓から馬車を見送った。
咳など一度したきり。何かにむせただけかもしれないのに、文子はアキラのそれを聞き逃さず、すかさずアキラに留守番をさせる理由にした。
アキラも、どうでも良かった。
最近では継母の意図もわかっていたし、一人で棋譜並べでもしている方がましだと思っていた。
その頃アキラは、家族の居室がある和館から、本館の客間へと部屋を移されていた。文子の連れ子達がまだ小さいので、煩くしてアキラの勉強の邪魔になっては申し訳ないからだと文子は言った。
しかしそれもまた、アキラの孤独を深めはしたが、どうでもいいことだとも思っていた。


「ぼっちゃま、ホットミルクをお持ちしました」
深夜に近かった。ぼんやりと窓の外を見ていたアキラに、ドアの向こうから声が掛けられる。
「ヒカル…またそんな言い方…」
アキラはドアを開けるとヒカルを部屋に招き入れた。早速、碁の相手をしてくれと言う。
あの、紫陽花も冷たく濡れる雨の日。
この屋敷にやって来たヒカルは、母親と共に住み込むことになった。
それまで年齢の近い子どもと触れ合う機会の少なかったアキラにとって、ヒカルは恰好の遊び相手となった。すぐに得意の囲碁を教え、暇さえあれば呼び寄せた。
アキラは良家の子息が集う学校に通い、ヒカルは近所の学校に行ってはいたが、屋敷に戻ると雑用が待っている。
それでも跡継ぎ息子のアキラが所望するものだから、ヒカルは渋々許しを与える使用人頭に頭を下げては、アキラの元へと向かった。
ヒカルとて、アキラと一緒にいる方が何倍も楽しいに決まっていた。
だがしかし、年齢が上がるにつれて、互いの立場も否応なく理解するものだ。
ヒカルがアキラのことを「おぼっちゃま」と呼ぶようになって久しいが、二人の間に流れる親密な空気を隠すような知恵もなく、他の使用人には「小さい頃遊んでもらったからって、身分をわきまえないにもほどがある」と陰口を叩かれていた。
それでも、彼らが表立ってヒカルを罵れないのは、矢張りアキラのお気に入りであるという事実が大きかったからだ。
「旦那様たち、今夜は遅いみたいだな」
「そうだね…僕には関係ないけど」
「アキラ…」
「やっとそう呼んでくれた」
「いや、だって…そもそもさ、俺がここへ来た最初から、ちゃんとおぼっちゃまって呼ばなきゃいけなかったのに…」
「母だよね。僕らは同い年だし、ヒカルは使用人の子どもだけど、使用人ではないのだからと言って、僕のことをアキラと呼んでもいいと…」
「うん、奥様だった。俺にそう言って…」
ヒカルが優しい口調で「奥様」と口にする時、それは今の当主の妻、文子のことではなく、アキラの生母、明子のことであった。
一日中寝たきりの明子にとって、時折部屋を見舞うことを許された息子との時間は宝物であった。
そこで息子が語ることに嬉しそうに耳を傾ける明子だったが、ヒカルが来た日のアキラは、明子が驚くほど昂奮していた。
母の直感で、きっとアキラにとってヒカルの存在は大切なものになると悟ったのか、すぐにヒカルも部屋へと呼ぶように言いつけた。
ほどなくやって来たヒカルを手招きし、アキラと二人、ベッド脇に並んで座らせると、「これから仲良くしてね」と言ったのだ。
小鳥のさえずりのようなか細い声ではあったが、奥様に呼ばれたというので緊張に顔を強張らせていたヒカルも、慈愛に満ちた明子の瞳に、全てを許されたかのように安堵したものだ。
横にいたアキラも、お母様のお許しが出たと心からの喜びを顔に表し、それから二人は堂々と一緒に遊ぶようになった。
実際は、アキラには勉強やお稽古があるし、ヒカルとて使用人ではないと言っても、雑用を頼まれれば嫌とは言えず。小僧さんのように走り回っていた。
だがしかし、同じ屋敷に住まう二人は僅かな時間を見つけては、サンルームやアキラの部屋で碁を打ったり、お菓子を頬張ったりした。
ヒカルはアキラの声が好きで、時折アキラに朗読をせがんだりもした。難しい文章はわからないが、和歌などはその音律が心地良いのか、ヒカルはアキラの解説付きでそれを聞くのも好きだった。
使用人の仕事の中でヒカルが興味を示したのは、料理だった。
当時としては珍しく、洋食の勉強をしたというお抱えシェフが調理を担当していたので、日本料理とは違う食材や調理方法に目を見張り、真似したいと思ったのだろう。見よう見真似でオムレツのようなものを作ったり、日本食とは全く違う出汁からスープのようなものを作ったりした。
アキラは勿論喜んで試食したが、そこは子どもでもあり、本来の真っ直ぐな気質もあり、決しておべっかは言わなかった。口に合わない時は正直にそう言う。
だが、美味しいと思った時はヒカルが舞い上がるほど真剣に褒めたし、子どもにしては舌の肥えたアキラの批評は的確だったせいか、ヒカルはそんなに頻繁に厨房に入れてもらえないにも関わらず、あっという間に上達した。
だから、アキラが寝る前に所望すればホットミルクを届けるのも、アキラの好む温度を心得ているヒカルの役目になったのだ。
「母も、ホットミルクが好きだった」
嬉しそうに一口すすってから、アキラが言う。
「うん、俺が最初に奥様にお持ちしたのも、ミルクだった。お砂糖を入れて、甘くするんだよな」
「そう…」
「小さな口をすぼめて、フウフウって少しだけ冷ましてから、飲んでいらした」
「よく覚えているな、ヒカルは…」
そんなの…アキラだって絶対に忘れていないだろう? 母親の記憶は胸に焼き付いている筈だと、言葉にせずとも交わす瞳が知らせる。
「僕も小さな頃は、お母さんの為にフウフウしてあげるって…必死で息を吹き掛けたりもしたなぁ…」
「へえ〜、口を尖らせる小さなアキラ、可愛いかっただろうな。想像するだけで…ムズムズするっ!」
「ムズッ…って。こら、変なこと言うな」
アキラがヒカルの腕を軽く小突くと、すかさずその手をヒカルが掴んだ。
「あっ…こらっ…僕にそんなことしたら、どうなるか」
「うん、知ってる。アキラ、最近剣道も強くなったって聞いた。でも素手だったらまだ、俺に勝ち目がありそうだ」
何と言っても、力仕事はヒカルの方が得意だ。
一方、アキラは士官学校に進学するために数年前から剣道を始め、生来の真面目な性格に加え、剣道自体がアキラの精神性に合っていたのか、めきめき上達していた。
家でも毎日竹刀を振っているが、それを見ているだけでも、アキラがしなやかで強い男に成長しつつあるのをヒカルは感じていた。
だからだろうか。時折、こうやって子どもの時みたいに、アキラに体ごとぶつかっていきたくなる。無性にそうしたくなる。
「ヒカル…僕を投げ飛ばしたいのか?」
しばらくアキラの腕を捻ったまま、その目を見詰めていた。 アキラのおかっぱの髪の裾が、その動揺を伝えるように微かに揺れる。
「どんなに強くなっても、腕は俺より細いな」
「体格だけが全てじゃない。力だって万能じゃないことはわかってるだろう?」
「…うん」
そう言ったきり、また黙る。
アキラはいたたまれない気持ちになる。相手がこれ以上仕掛けて来るのなら何かしようもあるが、動かぬまま見詰められるだけと来ては…
しかも、ヒカルの瞳は誰よりも明るく、どこか異国の血でも混じっているのではないかと思わせるような、魅惑的な色あいをしていた。
その瞳が意味ありげにアキラを見詰めるのだから、心がざわめかない筈はない。
(この目…この目に見詰められるのは、初めてじゃない…僕はもう、随分前からこの目で見詰められていることを、感じていた…)
次第に成長していく心と体。
その速度に合わせるかのように、お互いがどんな人間であり、自分にとってどんな存在であるかを、見極め始めていた。
―――それなのに、 現実の二人の隔たりはますます大きくなるばかりだ。身分の違いはいくら文明開化の世の中になっても、厳然と二人の前途に横たわっていた。
「俺は…俺はどうしたいんだろうな。子どもの時みたいに、取っ組み合いでもしたいのか…それとも…」
ヒカルの抑えた声が、アキラの胸をくすぐる。
その場の空気が濃密になり、ヒカルの顔が近付いたと感じた瞬間、アキラはふっと目を閉じた。ごく自然な行為だった。
だがしかし、ヒカルはそれ以上、何もしなかった。
いや、むしろアキラが目を閉じたことが、ヒカルを我に返らせたのかもしれない。
アキラの手を解放したヒカルは、ゆっくりと開いたアキラの黒々とした瞳を見ながら、そっと口にした。
「そのミルクを飲み終えたら…」
「?」
「蓮池に行かないか―――」
驚いた顔でヒカルを見返したアキラだったが、すぐに頷いた。


○●○


その蓮池は、塔矢の屋敷から坂を下った先にあった。
それほど大きな池ではないが、水面を埋め尽くすかのように花が咲き誇る。蓮池と呼ばれてはいるが、正確には蓮と、小ぶりな睡蓮と、その両方が入り混じっていた。
仏教的に語られることの多い蓮。
それとそっくりではあるものの、趣きが違う睡蓮。
アキラもそういう季節であることは意識していたが、ヒカルに言われて改めてそうだ、見に行きたい、ヒカルと二人で…と、強く思った。
すぐに身支度をして、裏口から庭に出る。ランプの光を布で覆い、足元だけを照らした。
人知れず屋敷を抜け出した二人は、急ぎ足で坂を下りる。
「よく、かけっこしたな」
「そうそう! 下りは危なかったな。転んだらそのまま下まで、ころころっておむすびみたいに落ちたこともあったよね」
「それでお前が怪我してから、かけっこは昇りだけにしようって決めた」
「別に良かったのに。だって、池に向かう時の方が気持ちが逸るだろう? 自然に早足になるものだ」
「でも、大事なおぼっちゃまの手足に傷なんて付けたら大変だろ」
「…あっ、そうだった。そんなことになったら君が責められて辛い目に遭う…だから僕も、承知したんだ」
「俺のため? そうだったの…」
「それ以外、何がある?」
「いや、俺は自分のことなんて考えてないよ、その頃だって。…今だって。ただアキラが怪我するのだけは、どうしても嫌だったからさ。だから危ないことはしなくなったんだ」
「そうだったの?」
今度はアキラが驚く番だった。
かつて長い時間を共に過ごした二人だったのに、幼さゆえか、互いの本心を知らずに過ぎてしまったこともあったのだ。
確かに、男子同士なのだから言葉で多くを語り合った訳でもなかった。
碁を打つことも多く、夢中で「もう一局」と続けたこともあった。
すぐにチャンバラごっこのようなことにもなったし、木登りや虫取り、遊びに夢中だったことだって…
「久しぶりだな…こんなにゆっくり、話すのも」
追憶に胸が熱く疼くのに任せ、アキラは正直な気持ちを口にしていた。
「うん…そうだな」
ヒカルもまた口数こそ少ないが、その声音に嘘のない心が表れている。
普段は抑えている互いへの愛情。それが隣にいるというだけで、一秒ごとに募っていきそうだった。


「わあぁっ…もう、こんなに蕾をつけているんだな」
アキラの驚嘆の声が、深夜の空気を渡る。
蓮池までは、坂を下って十分もかからなかった。子どもの足でもそう遠くなかったのだから、今となっては何と近かったのだろうと思う。
それなのに随分長い間、この距離を共に歩くことが出来なくなっていたことを、改めて知る二人だった。
「朝方になったら、どれだけ開くのかな? 蕾の大きさが違うからなぁ…」
「うん、朝まで見ていたいな」
「大丈夫だよ、折角だからそうしよう」
「どうだろうか…誰にも見つからないように家に戻れればいいが…」
渋い顔をしたアキラに、確かにそうだなとあっさり引きヒカル。
それが寂しい。こんなに簡単に諦めないで、もっと一緒にいたい、朝までいようと、蓮に関わることだけではではなく、自分への想いをさらして欲しいのに…
「昔もあったな、こんなこと」
アキラがぽつりと言う。
「また昔話?」
「だって…そうだろう、子ども時代のことばかり思い出すのは、僕だけなのか?」
「そんなことはないって。俺も覚えている。蓮の花が咲く音を聞けば願いが叶うって…あの朝のことだよな」
「覚えていてくれたのか―――」
当たり前だろう、忘れるもんかと言わんばかりのヒカルの笑顔が、灯りの向こうに揺れていた。
「誰だったっけ…出入りの薬屋さんだっけ? 日本中の不可思議な話をしてくれる、面白いおじさんだった」
「そう、面白いというか、単なる法螺吹きだったけどな。勝手口で面白ろおかしく色々喋るんだよな、あのおじさん。俺だけならまだしも、ぼっちゃんまで一緒になって話を聞くもんだから、爺やさんたちに叱られたっけ」
「だって! ヒカルが悪い。あのおじさんの話、とても面白いんだぜって自慢するから、僕だってと思うじゃないか」
アキラがクスクス、声をひそめて笑う。それを横目で見れば、ヒカルも嬉しくなる。
「それでその時、二人で一緒に嘘っぽい伝説を聞いたんだよな」
それは―――
蓮の花が開く時、ごく稀にではあるがポンッ…と弾けるような音がする。その音を聞いてすぐに願い事をすれば、仏様が叶えて下さるという伝説だった。
「うん、さすがに子ども騙しだってこと、僕も気付いてはいたけれど…」
「わかってるよ、アキラ。あの頃、奥様が心配でしょうがなかったんだよな。どんなに嘘臭くても縋りたくなる気持ち、わかるって…」
「でも、君はあの言い伝えとやらを信じていただろう?」
「あっ! お前、俺がお前よりも幼いみたいな言い方しやがって!」
ヒカルがおどけたように言うと、アキラの肩を抱く。こんなことが自然に出来てしまうのも、屋敷の外だからだ。
ヒカルの温もりを直に感じて、アキラも嬉しい。
「…そうじゃねえよ。俺はさ、アキラと違ってここに来る前も色々なこと見聞きしたし…だからさ、万に一つでも望みがあるとお前が信じるなら、俺も信じるまでだって…子ども心に誓ってたんだよ」
「ヒカルらしいな」
二人は池のほとりにある石段に腰掛け、水面をぼんやりと見ながら語り合う。
夏の夜明けは、静かに訪れようとしていた。
「…朝陽が高く昇ってしまって花が全部咲いてしまっても、どこかで音が聞えるんじゃないかって、お前も俺もなかなか帰ろうとしなくてさ。結局、探しに来た爺やさん達に連れ戻された」
「そうだったな。僕は二度と勝手に抜け出さないようにと叱られたくらいで済んだけど、君には悪かった」
「ああ、あれ? 何でもねえよ、殴られたくらい」
「それだけじゃないだろう? 暫くは、きつい仕事ばかりやらされて、僕の碁の相手もさせてもらえなかった」
「ん…アキラに会えないのは、同じ屋敷にいて辛かったぜ」
「僕もだ…」
―――その冒険の夜。
アキラが蓮の伝説に願いたかったのは、言うまでもなく母、明子の回復であった。
その頃、母の容態は悪化しており、まだ冷房などない頃の関東の蒸し暑い夏は、一年ごとに明子の体力を奪いつつあった。
ヒカルが屋敷に来てからも少しずつ悪くなっていくのは明らかだったし、その分、一人息子のアキラの憂鬱も増えていく。
傍で見ているヒカルも、子どもながらに己の無力さを感じていた。
だから、ヒカルには見付かったらどんなことになるかは予想がついていたものの、アキラがもう少し、もう少しだけと立ち去り難く花を凝視しているのを、引き剥がして連れ帰ることは出来なかった。
やがて。
全ての花が開き切る頃には、願い事のことは少しだけ忘れ…
ただ、花の美しさと神々しさに言葉もなくなったことを、ヒカルもアキラも思い出していた。
「咲き始めた…」
「綺麗だ…」
しばし、見入る。隣にいる人の温もりを感じながら、花を見る。
桃色のグラデーションが花びらを染め上げ、空に向かって真っ直ぐに伸びる茎も、花の姿も、どこか凛とした貴婦人のようだ。
「お母さん…」
「え?」
「あの佇まい、まるで母のようだ」
ヒカルははっとなって、アキラを見る。
泣いてはいない。けれど目は潤み、その美しさは花に負けないほどだとヒカルは思う。
自然に、アキラの肩を引き寄せた。アキラも、ヒカルに背中に手を回す。
母を恋しく思う気持ちを見せるのは、ヒカルにだけだ。他の誰にも…そう、父にすら見せようとはしない。
それがヒカルにもわかるから、アキラがいじらしくてならない。
心を寄り添わせようとすると、自ずと体も動く。
腕を伸ばし深く抱き合えば二人の鼓動は重なり、互いが生きているという証に、胸が熱くなった。
万感込めて抱き締め合った後、照れ臭そうに顔を見合わせると、それからゆっくりと顔を傾け、唇を重ねた。
柔らかい唇を、同じように柔らかい相手の唇で感じる。
少しずつ角度を変え、表面が擦れ合うようにすれば、その弾力にすら感動を覚え、二人の体は小刻みに震え出した。
「ぁ、っふ…」
「ん、ん…っ…」
男同士ですることではないと、理屈ではわかっている。
それでも自然な成り行きで口付けたことは、「睡蓮の見せた夢」なのだろうか―――
もう二人には連れ戻しに来るような大人の監視はないけれど、目に見えない壁が立ちはだかっていることは間違いない。
そしてそれを越えるには、大きな力がいる。勇気がいる。
けれどその時、年若い二人には、この口付けが未来を切り開く力をもたらしてくれることを、互いに祈る余裕すらなかった。
次第に募る昂奮は二人の唇を淡く開かせ、とうとう触れ合った舌と舌とは一瞬、感電したように震えたが、すぐにそれは相手を甘やかすように絡まり合い、二人は初めての口付けに夢中になった。
ゾクゾクと背筋が震え、このまま続けていたらどんなことになるのだろうと、陶酔の中にも切なさが入り混じるまで、二人は貪り合うのだった。
咲きほころぶたくさんの蓮や睡蓮の花だけが、それを見ていた。







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