−愛し君へ−
(第一部 ヒカル7歳 アキラ12歳)
その日の朝も、アキラは誇らしい気持ちで制服に袖を通した。
海王中学。父の母校でもあり、小さい頃からアキラもそこへ進学するのが当たり前のように思っていた。
囲碁部に入部するのだ。東大にも毎年コンスタントに二桁の合格者を出すこの学校の囲碁部なら、プロにならずともそれなりに強い打ち手がいて、自分を満足させてくれるかもしれない。
「アキラさん、大事なものを忘れているわ。」
母の声に振り返る。
そうだ。今日から新しいメガネだ。海王の制服に合わせて、母がわざわざ新調してくれたのだ。
真新しいメガネはまだどことなく馴染まない。しかし、アキラは母に微笑んで見せた。
「行って来ます。お母さん。」
「行ってらっしゃい。」
入学式は週末だったので、日曜を挟み今日から本登校だ。
ここ数年暖冬が続き、早めに咲いて早めに散っていた桜だったが、今年は少し時期が遅れて今が盛りだ。
アキラの家から駅に向かう桜並木が、春の温かい風に揺れる。
一斉にざわめく木々と舞い散る花びらが、アキラにいってらっしゃいと告げているようだ。
空を仰ぎ見ていると、心まで揺れる。
あれ…何だろう…この感じ………
激しく、揺さぶられる。
心の奥。眠っていた何かが揺り起こされるような、不思議に懐かしい感覚。
アキラは不意に眩暈を覚え、よろめいた。
そこへ、前から歩いて来た小学生らしき集団がすれ違う。
ふざけっこでもしていたのか、その中の一人が集団から飛び出しアキラにぶつかった。
凄い勢いだった。中学生のアキラが尻餅をつくほどの。
「った……。」
「うあっ!お兄さん、ご免っ!」
痛みの後にはすぐに羞恥が襲った。小学生にぶつかられたくらいで尻餅をつくなんて。
「き、君こそ怪我は?」
「はあぁ?ぶつかっただけだぜ。大丈夫に決まってらあ。それよりお兄さん…これ。」
相手の小学生が拾ってくれたのは、おろしたてのメガネだった。
アキラは立ち上がりながらそれを受け取る。
ちょっとだけドロのような汚れがついていたが、アキラはそれを手で払った。
良かった。壊れていなくて。
折角の母の気持ちが数日で無駄になってしまったら、どれほど切ないだろう。
「壊れてない?大丈夫?」
不安げな少年の声にはっとなり、アキラは微笑を返すことで彼を安心させようとした。
「大丈夫だよ。気にしないで。それより、学校に遅れるよ。」
「平気だって。今日は飼育当番でいつもより早いんだ!」
「へえ、そっか。君、この先の○○小?」
アキラにぶつかった少年は大きく頷く。
薄茶色の大きな瞳が、朝日を反射して生き生きと輝いていた。
栗色の髪は見るからに柔らかそうで、その向こうのおでこは艶があって、思わず触りたくなるような愛らしさを感じる。
…この子…もしかしたら外国の血が混じっているのかな?
男の子らしいのに、でも綺麗な子だなぁ…
アキラが半ば呆けて少年を見ている間、同じように少年もアキラを見て何かに感じ入っているような表情を浮かべていた。
それが。
アキラが進藤ヒカル少年に出会った、最初だった。
◆◇◆
それから数日後の夕方だった。
アキラは帰途を急いでいた。いつもなら碁会所に寄るのだが、その日は真っ直ぐに家に帰ることにした。……帰らねばならなかった。
伏し目がちに歩いていたアキラは、角から飛び出して来た誰かとぶつかった。
「あいてえっ…っ…。」
「あ、っとと…君、大丈夫?」
相手を抱き止め、そのまましゃがみ込んだ。
顔を覗き込む。少年の背中でランドセルが黒光りをしていた。
「あれ、君…。」
「ん〜。何だ。この前のお兄さんじゃん!俺たち、よくぶつかるね〜。」
「あはは…確かに。」
アキラは自分の学生カバンをぎこちない様子で拾い上げると、少年の前で立ち上がった。
少年が自分を見詰めているのを感じて、そちらを見る。
「ああ…そっかぁ…何か感じが違うなって思ったのは…今日は最初からメガネじゃないんだ?」
アキラは一瞬、詰まった。
何と答えようか頭が回転するが、口を開くよりも先に少年がアキラの手を取った。
ビクっと体が揺れる。カバンが再び地面に落ちる。
「大変!お兄さん、怪我してるっ!」
少年はアキラの腕を見て、大声を上げた。
アキラは力任せにその手を引く。すると、少年も引き摺られ、アキラにぶつかる格好になった。
少年の頭がアキラのみぞおちあたりに当たって跳ね返り、アキラもさすがに慌てて支えた。
「違うんだ、今の…じゃない。」
「ええっ、でもっ!手首、真っ赤じゃん…。」
「いいからっ!」
アキラは袖口を引っ張って手首の傷を隠そうとするが、少年はその手を阻んだ。子供とは思えない、強い力だった。
アキラがたじろいでいると、見上げて来る少年の目が鋭く光る…
「お兄さんさぁ…もしかしたら―――イジメられてんの?」
「…え?」
心臓が、大きく跳ねた。
「そうなんだろ?その手首、何かで縛られたみたいだもん。しかも両手だから、自分ではやりにくい…っつーか、自分ではそんなことしないよね。」
「……。」
「メガネも壊されちゃったとか?」
「君…。」
「俺の名前はヒカルだよ。その手だったらカバン持つのも辛かったでしょ…。」
言い終わらないうちにヒカルと名乗るその子は、アキラの真新しい学生カバンを拾って走り出した。
「あっ!待て、返せ、僕の…。」
「このカバン、返して欲しかったらついてくれば〜?」
俺の足に追いつけるならね、と。弾けるような声がしたかと思うと、ヒカルは駆け出した。
アキラも追うが、メガネのない視力では足元が心許なく、小学校低学年の少年に追いつけそうもなかった。
人目も気になるし、これではまるでこちらの方が苛めているみたいにも見える。
やっとヒカルの肩を掴んだ時は、既にアキラの家の前だった。
「お兄さんち、ここでしょ?有名人だってみんなが言ってた。」
「君…。」
「だからヒカルって言ってるじゃんか〜。」
「ヒカル君、返してくれ。カバン。もう家に入りたいんだ…。」
アキラが苦しそうに顔を歪めたのを見て、ヒカルも慌てたようだ。
その時、急に足から力が抜けてしまったようにアキラがよろめいた。
「ご免!」
ヒカルは、アキラの腰の辺りに抱きつく。
…いや、ヒカルにしてみれば自分がその小さな体でアキラを支えたのだった。そんな頼もしさや力強さが、ヒカル少年の態度には表れていた。
「手だけじゃないんだね―――ヤラレたの…。」
ヒカルの声に、今まで必死になって崩れないようにと支えて来た何かが、アキラの中でポキン…と折れた。
目の前の小さな体だけが、その時のアキラにとって縋れる唯一のものだったのだ―――
―――お前、生意気なんだよ。すましたツラしやがって。
そんな風に言われることに慣れている訳でもなかったが、言葉の暴力だったら屈しない。
しかし、自分に向けられる敵意をうまくかわせるほどにアキラも大人ではなかったし、むしろ気にもかけないという風な堂々とした態度は、火に油を注ぐ部分があった。
―――名人の息子だと思って。特別扱いには慣れてま〜す…ってか?
最初は何が起こったのかわからなかった。
目に衝撃を感じ、気付いたらメガネが顔になかった。視界が霞む。続いてガラスの割れる音。
メガネが踏み潰されたのだとわかったのは、その音がアキラの耳に禍々しく響いたからだ………
◆◇◆
「大丈夫?お兄さん…。」
アキラを覗き込む瞳はクルクルを光を回転させ、どことなく小動物の無垢なそれを思わせる。
自分よりうんと小さなこの少年は、アキラと共に部屋に入ると、テキパキと働いた。薬箱の場所を聞き、それを持って来るとアキラの傷を消毒する。
自分でするからと言うアキラを、俺、保健室には入り浸ってるから慣れてんのと明るくいなすことまでした。
二年生だというから、相手は自分よりも五歳も年下なのだ。
それなのに結局はヒカルに言いくるめられ、されるがままのアキラだった。
「情けないな…。」
思ったまんまが口に出た。
「何が?イジメられるのはどうせお兄さんが有名人の子供だとか、綺麗な顔してるからとか、そういうくっだんねえことだろ?大勢にヤラれたら仕方ないじゃん。」
「いや…確かにそうだけど…そうじゃなくて…。」
「は?」
「君みたいな小さな子に見抜かれて、こんな…。」
―――こんな風に気を遣われていることが。
アキラは最後まで言うことが出来ず、言葉を濁した。
「小さな子とか言うな。俺はヒカルだ。」
「あ、ああ…別に馬鹿にしたとかそういう訳じゃないんだ。気に障ったらご免ね。」
「だからっ!そういう甘ったるい声を出さなくていいんだってば。」
ガキ扱いするな、そんなのは不快だと言わんばかりに、ヒカルの下唇が少しだけ突き出される。
表情の豊かな顔は、どんなに大人びた態度をとっても矢張り、頬がパン…と張り詰めて可愛らしい。
それを見ていると、アキラの胸に温かいものが満ちてゆく………
「ヒカル君、ありがとう。助かったよ。足にきてたから、ちょっとシンドかったんだ。」
「何かで縛られてたんだろ?それも随分長い間…。」
「わかるのか?」
「まあね…俺も似たような経験あるし…。」
「…え?」
アキラは絶句した。
こんなに小さいのに、ヒカルには自分と同じような目に遭った経験があるとでも―――?
「あ…あれ、驚かせちゃった?別にそんなん大したことじゃねーよ。母さんがヤバイ男と付き合ってた時があってさ、ソイツ酒が入ると俺のこといたぶりやがったから。…あっ、でも、もうソイツとは切れたから平気だよ。」
「そう…良かったね。」
アキラは畳の上に足を投げ出し、ヒカルに足首の擦り傷を消毒をしてもらっているところだった。
目の前で、ヒカルが照れ臭そうに目を逸らす。
アキラはその手をヒカルの頭へと伸ばし、ほんの少しだけ躊躇ってから、そっとその髪を撫でた。
ただそうしたかった。だからそうした。
ヒカルに振り払われるかもしれないと思ったが、しかしそうはならなかった。
柔らかい少年の髪を触っていると、アキラの方が癒される気がするくらいだった…
「…沁みない?」
「んー、大丈夫。ちょっとヒリヒリはするけど。」
「ヒデエことするよな。」
「いいんだ。これで気が済んだだろうし。」
「そうかな?そんな感じだった?また何かされたら…。」
「大丈夫。君にそこまで心配してもらわなくたって。僕だってもう中学生なんだから。…あ、でもっ!」
「なに?」
「そのぉ…黙っておいてくれるよね?周りには…家族には心配掛けたくないし。」
「ふうん…それで自分の身を守れるの?」
ヒカルの大人びた言葉に、アキラは驚く。
二人の視線がカチリと合った。沈黙が流れる。ヒカルの手も止まった。
「―――高いところへ行くんだ。」
「高い?」
アキラの、声変わりへと向かう前のまだ澄んだ声が、部屋に響く。
「そう…中途半端じゃ却って彼らの神経を逆撫でするんだってわかった。いっそ、手の出せない高いところへ行ってしまえばいいんだ。」
「………。」
「そうしたら、もうこんな屈辱的な目には遭わない。もう二度と。」
君に…ヒカル君に迷惑掛けることもないと思うよ、と。アキラはヒカルに向かって微笑んだ。
手当てが終わると、ヒカルは好奇心に満ちた目で辺りを見回し始めた。
「今、ジュースでも持って来るね。頂き物がどこかにあった筈だから。ヒカル君、君は何が好き?」
「あ?おかまいなく〜。怪我してんだからじっとしてなよ。俺、咽喉渇いてないし。…ねえ、それよりパソコンとか弄っちゃダメ?」
「いいけど…ゲームでもしたいの?」
「ゲームゥ?そんなの自分でも持ってるって。友達から巻き上げた中古だけどさ。ネットに興味があるんだよね。顔が見えないからさ、子供でも大丈夫そうな儲け話が転がってそうじゃん。」
「何だか逞しいなぁ…ヒカル君は。」
まだ小学二年生だというのに…外見は可愛らしいのに、この大人びた態度はどうだろう?
アキラは思わずたじろぐ。
そして同時に、この子をヘタに子ども扱いしては失礼なのかもしれない、僕なんかの想像もつかない苦労を越えて今の彼があるのだろうと、しみじみ思うのだった。
「…待って。パソコンよりあっち。」
「え?」
パソコンを起動しようとしていたアキラの袖を引いたヒカルは、視線を部屋の隅の碁盤に注いでいた。
「ああ、あれが碁盤だ。あの上に石を置いて碁を打つんだ。ヒカル君は初めて見るかい?」
「うん…あっ、ううん。見たことはあるけど、でも、ちゃんと近くでは…。」
言いながら、ヒカルは碁盤へにじり寄っていた。恐る恐るといった手付きで、その表面を撫でる。
すぐ触りたくなるところは、やっぱり子供らしいなとアキラは後ろで見守りながら苦笑した。
「打ってみる?教えてあげるよ。」
「いいの?俺みたいな…バカにも出来る?」
「ええっ、君はバカなんかじゃないよっ!何を言ってるんだ。それに、囲碁と学校の勉強は違うんだよ。」
「ホント?」
「うん。ほんと。」
「お金、とんない?お兄さん、強いんだろ?」
「えっ…お金って…もう、ヒカル君ったら…そんなこと心配するんじゃない!小学二年生が。」
アキラが大袈裟に笑い顔を作って見せると、それに釣り込まれるようにヒカルもはにかんだ笑いを浮かべた。
◆◇◆
その日はアキラの怪我も心配だからと、ヒカルは帰って行った。
しかし、次の日、アキラが帰宅するのを近所で待ち伏せしていたらしいヒカルは、アキラに怪我の具合を尋ねた後、碁を教えて欲しいと言う。
アキラは家に誘ったが、ヒカルは家まで上がり込むのは気が進まないらしかった。
「遠慮しなくていいのに。今日は両親ともいると思うけど、うちはお客さんが多い家だから君が遊びに来たってかまわないんだよ。」
「うん…わかってる…そう言ってもらえると嬉しいんだけど…。」
「昨日は僕の家に入ったじゃないか。」
「昨日は緊急事態だってば。そうじゃなかったら、俺みたいな得体の知れないガキがさ、とても入っていいようなうちじゃないよ。」
「君は…。」
昨日も思ったけれど、この子はなんて年齢不相応な考え方をするのだろう…
アキラは、鈍い痛みを覚える。
誰が悪い訳でもないのかもしれないが、こんな風に育つしかなかったヒカルの境遇に、そしてその中にあっても、輝く瞳を失わないヒカルに、普段は滅多に波立つことのないアキラの心は、大きく揺さぶられたのだった。
「行こう。」
「えっ…あっ!ちょ、ちょっと待ってよ!」
「いいから。ついておいで。」
アキラは強引にヒカルの手を取ると、引っ張るようにして歩き出した。
しっかりと握り締めたヒカルの手には、子供らしい柔らかさがあり、温もりがあり、そして少しだけしっとりとしていた…
最初は喚いていたヒカルも、そのうち静かになった。
ヒカルの幼い心に、どこかくすぐったいような、今まで感じたことのない感覚がジワリと生まれる。
きゅっ…と。
ヒカルもアキラの手を握り返し、アキラへの信頼を示すのだった。
短い時間だったにも関わらず、繋いだ手と手は、出会ったばかりの二人の間に、甘ずっぱい共感と喜びをもたらした。
家に着くと、アキラの予想を反して両親は出掛けていた。予定よりも帰宅が遅れているらしい。
アキラは制服を脱ぐ間も惜しみ、そのまますぐにヒカルへの指導を始めた。
「碁はね、つまり白と黒の陣取り合戦なんだ。この碁盤の上に、自分の石で陣地をたくさん囲う。囲った陣地の広い方が勝ちだ。そして…石はこうやって持つ。」
「へえぇ…二本の指で挟むんだぁ…っとと、難しいや。」
「ううん、上手だよ。初めてにしては、ちゃんと出来ている。」
アキラは、ヒカルのまだ短くてふくよかな指が、震えながら必死で石を掴もうとする様子を、懐かしい想いで見守っていた。
「あれ?…あはは…ヒカル君ってば、口まで尖らせて…そんなに力を入れなくてもいいよ。」
「えーっ、だってついつい口がタコチューになっちまう。」
ケラケラ笑っていると、石がヒカルの小さな指から落ち、慌てる様子さえも可愛らしいと、アキラは更に笑った。
アキラには弟はいないが、もしかしたら歳の離れた弟を持つというのは、こういう感じだろうか?
アキラの胸を満たしていく幸福感は、ますます膨らむのだった。
「ねえねえ、お兄さん!早く先を教えて。俺、時間がないんだ。」
「あ、ああ?そうなの。それは大変だ。」
その時。
「時間がない」というヒカルの言葉を、アキラはただ単にこの子が「今日は急いでいる」のだろうという意味にとった。
しかし―――そうではないことに、やがてアキラは気付くのだった…
ピシ。
アキラが碁笥から石を掴む、その所作の優雅さもさることながら、石を打ち付ける瞬間の、言葉にし難い独特な空気に、ヒカルは息を呑んだ。見入ってしまった。
…だったこれだけのことが、何て感動的な。何て―――美しい。
そしてそれは、ヒカルの心に一生消えない映像となって残ることになる―――
アキラとヒカル少年が夢中になって碁盤に向かっているうちに、日もすっかり暮れてしまった。
「わぁ…もうこんな時間になっちゃった!ご免ね、遅くまで引き留めて…。」
「別にいいんだ。遅くなったって誰もいねえし。」
「え…お母さんは?お仕事?」
「まあね…。」
多くを語りたくはないのだろう。
アキラとて、ヒカルの置かれた境遇を根掘り葉掘り訊こうとは思わなかった。
おぼつかない手付きで石を片付けながら、ヒカルがポツリと言う。
「ねえ、お兄さん…俺、強くなれるかな?」
「勿論!どれだけだって強くなれるよ。真面目に勉強すれば。」
「俺みたいな…頭ワリイヤツでも?」
「学校の勉強が出来る出来ないは、関係ないみたいだよ。それに碁盤の前に座ったら、年齢も経験も関係ない。もっと言うなら、どんな家の、どんな子でも…例え言葉が通じない国の者同士だって、ちゃんとルールさえわかっていれば打てる。戦えるんだ。…わかるかい?」
碁を打つ時は、年齢も国籍も、それこそ貴賎も何も関係ないということを言いたいアキラだったが、相手が子供であることを考え、噛み砕いて話したつもりだった。
「ほら…見てごらん。石には白と黒しかない。これは白と黒だけが作る、単純な世界なんだ。」
本当は、その一見単純に見える盤面の奥に、どんなに広大な宇宙が広がっているか、それこそ君に伝えたい。
僕らは打つ限り、全てを超えて繋がっていられるんだと君が知るのは、もっとずっと先のことだろうけれど―――
アキラは、ヒカルの手をそっと取った。
ヒカルは一瞬、ビクッと体を揺らすが、されるがままに手を握られている。
「まだ小さな手だ。僕と比べたら、こんなにも違う。」
アキラは、ヒカルの手に自らのそれを隙間なく重ね合わせ、違いをはかるかのように二人の間に掲げる。
ヒカルの手はさっき握った時のようにしっとりとしており、そしてとても温かかった。
「しょ、しょうがねえだろっ!まだ二年生なんだから…。」
「そうだよね、小さくて当たり前だ。でもね、ヒカル君。さっき君が打った一手と、僕が打った一手の重みは一緒だ。小さな手が置いても、シワだらけの老人の手が置いても、石は一緒だろう?白か、黒か。ただそれだけだ。」
「うん…。」
ヒカルは、重ねられた手をじーっと見ていた。幼いとはいえ、恐いくらい真剣な瞳だ。
小さな胸で、一体何を感じているのだろう…
アキラはただ、この子が碁を好きになってくれればいいなぁと願いながら、微笑んだ。
「さあ、もうお腹がすいただろう。良かったら今夜はうちで食べていく?もうすぐ母も戻ると思うから。」
「えっ、あ、そ、そんなこと出来ねえよっ!」
「遠慮しなくていいのに…。」
「ううん…帰る。今日はもう十分相手してもらったし。」
ヒカルの目に、陰りのようなものが過ぎる。
急激に教え込もうとする余り疲れさせてしまったかもしれないと、アキラは心配になった。
「…あ、そうだ。いっぺんには覚えられないだろうから、本を貸すよ。この家には初心者向けはなかなかないんだけど…確か一冊だけ子供用のがあった筈…。」
アキラは本棚から捜し出したその本を渡そうと、振り返る。
既にヒカルは、帰り支度をしていた。
「借りれないよ、そんな。だって俺…。」
恥ずかしそうに俯いて言うヒカルを、遠慮しているのだと受け取ったアキラは、その手に本を強引に握らせた。
「貸すんじゃない。あげるんだ。手当てをしてくれたお礼だ。僕にはもう必要のないものだから。」
ヒカルの顔が明るく輝いたのを見た時、アキラは喜びだけでない、微妙な切なさが己の心に入り混じるのを感じた。
…ふと、押し黙ってしまう。
何か言いたいのに、何を言えばいいのかわからない。
ヒカルもただ静かにアキラを見詰めているし、アキラもその視線を受け止めて、ただ立ちつくしていた。
その時。
ヒカルがすっと手をあげ、手招きをした。
アキラは誘われるままに近寄り、少しだけ膝を曲げ…
ヒカルを覗き込む。
すかさずヒカルがアキラの首に腕を巻き付け、下からブラ下がるようにして引き寄せた。
「わっ!とっと…ヒ、ヒカル君?」
アキラが呆然としている隙に、ヒカルはアキラの頬に唇をつけた。
ちゅ…と。可愛らしい音を立てて、唇が離れる。
突然のことに驚いたアキラは、反射的にヒカルの体を押し退けた。
ヒカルの体は、ゴムまりみたいに壁にぶつかって跳ねた。
「あっ、ご免!」
「平気平気。それより、お兄さんこそビックリしただろ。おあいこ。」
「おあいこって…今のは…。」
「予約のキスかな?ツバつ〜けた〜ってやつ?」
「予約…って…何なんだ、それはっ!子供のクセにっ!こんなマセたことして…年上をか、からかうなっ…。」
「からかってないよ。ほっぺにキスなんて、外国だったらフツーだろ?次に会った時も俺と打ってよねって…約束のキスくらい、いいじゃんか。」
「約束って………そういう意味の…。」
アキラはまだ成り行きについていけず、口ごもりながら頬を撫でる。
ヒカルにキスされたばかりの、小さくて、生意気な唇が触れたばかりの、その頬を。
心なしか熱いと感じたのは、気のせいだろうか…
ヒカルはそんなアキラの様子を見ながら、満面の笑みを浮かべた。
本当に嬉しそうだ。天真爛漫とはこういうことか。
「お兄さん、マジで可愛いなぁ!このくらいで真っ赤になっちゃって。」
「真っ赤に?そんなこと…まさか…。」
しどろもどろのアキラを残して、ヒカルは背を向けた。
「じゃあねっ!この本、ありがと。大切にするよ。」
「あ、ああ…送ろうか?」
「大丈夫だって。ほら、防犯ブザー持ってるし。家、近くだし。」
「またおいで。いつでもおいで。…ヒカル君。」
「うん…またね…。」
家の前で見送った。
ヒカルは大事そうにアキラからの贈り物を抱えて、何度も何度も振り返っては手を振った。
ヒカルの姿は、陽が落ちて間もない、藍色の薄闇の中へと吸い込まれ、段々小さくなっていく…
今、あの少年が抱えているものは一冊の本だけでなく、もっととてつもなく大きなものへと育つ、大切な芽なのだということに、その日のアキラはまだ気付いていなかった。
そしてヒカルは、二度とアキラの家を訪れることも、アキラの前に姿を現すことこともなかった。
―――数年の歳月が流れ、何度目かの春が廻って来るまでは。
(第二部に続きます)