−愛し君へ−

(第二部 ヒカル12歳 アキラ17歳)








「塔矢先生!」
「はい?」

呼び止められ、アキラは振り向く。
その視界を桜の花びらが横切り、思わず微笑が浮かんだ。
一体どこから紛れ込んだのか。風が運んだのか。

この季節になると、自分のような人間でも心が浮き立つものなのだなぁ…と。
アキラは春の魔力に想いを馳せる。

…しかし、それも一瞬のことだった。

「落し物をされませんでしたか?事務局に届いていましたから、後で寄って下さい。」
「え、落し物って…何かしたかなぁ…あの、それはどういう?」

アキラは事務局に勤める中年の女性に尋ねた。覚えはない。

「さあ?塔矢先生が落として行ったからって、紙袋を持って来た子がいて。」
「紙袋?」

ますますアキラは訝しく思う。
しかし、相手は別段気にもしていない様子だ。

「あの…どうしてそれが僕のものだと?」
「いえ、塔矢先生のものかどうか確認はご本人にしていただこうと、誰も覗いてはいないと思いますよ。でもその子は、間違いなく塔矢先生が置き忘れて行ったって…。」
「…その子?」

もしも、見ず知らずの子が得体の知れないものをアキラのものだと棋院に預けて行ったとしたら、物騒な話に発展しないとも限らない。
ファンからのプレゼントだと言われる方が、まだいつものことと安心出来た。

「だって先生、その子ってここの院生ですから!嘘を言う訳ないでしょう?」

ほほほ…と笑って、その女性はガラスの向こうに目をやる。そこは院生が打っている部屋だ。

アキラたちが入段した頃とは事情も大きく変わり、今では100人を超える院生がいる。
プロ棋士への道は、ますます険しくなっているのだ。

「えっ…ど、どの子ですか?それは…。」
「う〜ん、と…そうねえ…とっても目立つ子なんだけど…今はいないみたい。」
「そうですか。」

スッキリしない気持ちを抱えたまま、アキラはその女性に会釈をして別れた。



落し物なんてしていないと、改めてここ数日の自分の行動を思い返しても自信がある。
だがしかし、その届けてくれた子どもが自信を持って断言したというのが気になる。

一体、どういう子なのだろう?
院生だということしかわからない。少年なのか少女なのかも、わからない。聞きそびれてしまった。

アキラは後ろ髪を引かれる想いで、たくさんの若い院生たちがいるガラス窓の向こうに視線を送ってから、エレベーターへと向かった。



事務局で渡されたのは、確かに紙袋だった。
その中身は、誰でも見ればすぐにわかる―――本だ。初心者向けの碁の入門書。

「これは…。」

見覚えがあった。
更に、手に触れた途端馴染む感触にも、覚えがある。

「僕の本…。」

この本がアキラの元から旅立ち、数年の間、置かれていただろう場所の匂いが、そこはかとなく残っている。
とっさに、それがどうやって自分の元へと戻って来たのかと思うと、アキラの心は音を立ててざわめき出した。
さしずめ、空っぽだったグラスに炭酸が注ぎ込まれた途端、一気に膨らんだ泡が、チカチカと痛みを伴いながら弾けていくような感じだ………

「これ…ずっと昔、あの子にあげた本だ。」

たったこれだけのことで胸が高鳴るなんて、一体どうしたんだ。

やっぱり春のせいか…そうなのか…

今年の春もいつもと変わらないと思っていたのに、それはいい意味で裏切られようとしているのか―――



「あの、すみません!これを届けた子の名前は…。」
「えっと…何だったっけ…あの子…凄〜くひと目を引くんだけど、名前が…。あ、そうだ!一緒にいた友達と売店に寄るって行ってたようだったけど…まだいるかなぁ…。」
「ありがとうございます!」

言い終わらないうちに、駆け出した。
相手が院生なら、会おうと思えば急がずとも叶う筈だ。そんなことはアキラには嫌というほどわかっている。

それでも。
アキラは待ち切れなかった。

今すぐにでも、一度きり打っただけで去ってしまった少年に、この本をプレゼントした少年に会いたいと―――強い衝動が湧いたのだった。



「あのっ…ここに、今…っ…院生の子たち、が…。」
「あらぁ、塔矢先生。大丈夫ですか?息が…。」
「っと…十二、三歳くらいの…男の子…。」
「院生?そうね〜、ここんとこ院生も増えちゃって、大体がその辺の年頃だから…。」
「あ、多分…目が大きくて…色が薄くて…ハーフに見える…。」

そこまで言うと、相手の顔が輝いた。

「ああっ、あの子!最近院生になったんだけど、他の子とはどことな〜く雰囲気が違うのよねぇ…。」
「い、いたんですかっ!?」
「ええ、ええ、いましたけどね、さっき帰っちゃったみたい。真っ直ぐ駅に向かったとしたら、電車に乗っちゃってる頃かしら〜。」
「ありがとうございました!」

アキラは身を翻すと、階段を一気に駆け降りた。
出口へと向かう途中、もう一度院生の群れの中にその姿を探す。
しかしそれも無駄に終わり、道に飛び出して左右を見回し、それから駅へと走り出そうとして…



「…馬鹿な…一体僕は、何を焦って…。」

ようやく立ち止まると、アキラは大きく息を吐いた。
乱れた黒髪をかき上げ、息を整える。

会える。
間違いなく、あの少年に会える。
彼はすぐそこまで、来ている。

不思議な確信があった。
あの少年は、きっと僕に会いに来る。
本を…あげた筈の本をわざわざ届けてくれたのには、何か意味があるのだ。

手にしていた本に、目がとまった。
開いてパラパラとめくれば、本に染み付いた匂いが再びアキラの鼻腔をくすぐり、何やら甘酸っぱい気分になる…

その時、ハラリ…と何かが落ちた。
拾い上げてみると、それは薄くて小さな、欠片。

「花びら………桜の?」

押し花になってそこにはさまっていたものは、おそらくあの頃を知る桜なのだ。

アキラは、十七歳になっても未だ美しい黒髪に縁取られた端正な顔に、薄っすらと笑みを浮かべ、それを元に戻した。
秀策の偉業が初心者にもわかるよう平易な言葉で綴られた、そのページだった。






















「塔矢先生!探しましたよ〜。今日こそはお手合わせ願いたいわ。」

背後からはしゃいだ声がしたと思ったら、その声の主はアキラが避ける間も無くアキラの腕を掴んでいた。

例の少年とのすれ違いから、数日後のことだ。
今日のアキラは対局ではない仕事で棋院に来ており、事務局を出るところだった。

「坂本さん…こんにちは…。」
「なかなか指導碁していただけないし、勉強会も違うし…私、今年こそは入段したいんです。だからどーしても、塔矢先生の力をお借りしたくて。」
「あの…すみません、忙しくてなかなか時間がとれず…。」

相手は、アマ有段者の学生だ。
小さい頃からモデルもしていたというのでメディアへの露出が多く、まだプロでもないのにプロ以上に注目されている。
棋院関係者も一目置かざるを得ず、実際、その美貌は人目をひいた。

アキラは自分が気に入られているらしいとはわかっていたが、年上の女性に対してどう接していいのかわからない。
目上であるというだけで礼儀正しくあらねばという意識が働くので、無碍に振り払うことも出来ないのだ。
それがアキラの美徳であり、同時に弱点でもあった。

大人びた態度や、落ち着いた物腰。臆することなく、堂々と意見も言う。
しかし、どこかぼっちゃん臭さも抜けないまま、アキラは十七歳という大人と子どもの端境期を迎えていた。
心と体のアンバランスさの目立つ、微妙な時期とも言える。



ふと気付くと、事務局中の視線がこちらに集中していた。
これ以上、衆目の元で迫られてはかなわないと、アキラは坂本を促して何とか廊下へと出た。

「今日はこれからお暇?だったらお食事でもして、それからゆっくり…。」
「いえ、申し訳ありませんが…。」
「あら、今日は一日仕事が半日で終わったって聞きましたよ。だったら、あらかじめプライベートのお約束もない筈よね?」
「…え…それは…。」

普段だったらキッパリと断るところだが、まさか相手が自分の予定まで押さえているとは思いもよらず、さすがのアキラも動揺を見せた。



―――その時だった。
まだ僅かに甲高い、しかしよく通る、意志の強そうな声が廊下に響いた。

「塔矢先生はさ、ストッキングをデンセンさせてるような女とは、歩きたくないってさ!」
「…はあっ!?…え、え…?」
「君は…。」

振り向くと、そこには一人の少年が立っていた―――ヒカルだ。

先ほどまでアキラが思い描いていた姿は、小学校低学年、幼いままのヒカルだった。
だが、今、アキラの目の前にいるのは、背も顔も縦に伸び、頬のあどけなさも消えかかり、今や思春期の入り口に立っている、そんな少年だった。

「アンタッ、何なの?」
「目、吊り上げてる暇があったら、さっさと履き替えたら?」
「失礼だよ、大人に向かってそんな口のきき方。」

最初は驚きにボーッとしていたアキラも、すぐに我に返った。
坂本をチラリと見やると、顔を歪めてヒカルを睨んでいるその様子に、内心ギョッとなった。

「アキラ先生は俺と打つ約束なの。」
「ア、アキラ…先生ですって?塔矢先生、この子とお知り合いなんですか!」
「え、あ、それは…。」
「そう、ふっる〜いお知り合いなんだよ、オ・バ・サ・ン!だから―――」
「オバッ…―――っ!」
「あっ…そんな…。」

坂本をフォローするどころか、呆然としているうちに、アキラはその手を握られた。少し汗ばんだ、そこだけはまだ幼さを残した、ヒカルの手に握られたのだ。

とっさに会釈だけすると、後はヒカルに手を引かれるままにアキラはその場を後にした。






「君っ、ヒカル君だね?…はぁ…そうだろう?」

棋院を出る頃には繋いだ手は解かれていた。さすがにここでは目立って仕方がない。
アキラは息を整えながら、口を開いた。

「へえ、覚えててくれたんだ?じゃ、あの本を受け取ってくれたんだ。」
「あの本がなくても、君のことは顔を見れば思い出したよ。…忘れるもんか!」

アキラは立ち止まり、ヒカル少年の肩に手を置く。
ヒカルが振り向く。
アキラが手をすっと離す。

五年前よりも身長が二十センチ以上伸びたアキラは、当時と変わらずヒカルを見下ろす格好だ。
その顔に、自然と微笑みが浮かぶ…

「あの本はあげたのに、どうして返してくれたんだ?」
「だってもう、俺には必要ない。あの時、お兄さんが自分には必要ないからってくれたけど、俺だってあんな子ども向けの本は必要ないんだ。」
「そうだっ…君はもう…。」
「うん、院生になった―――お兄さんの近くに、来たんだ!」

得意そうに顔をほころばせるヒカル。
それを眩しそうに見るアキラ。

出会いから、五年目の再会だった。



「じゃあ、どこにする?棋院の中じゃ今のねえちゃんがヤバイし。」
「…え?どこって…。」
「言ったろ、打つ約束だって。」
「ああ、そう言えばさっき…でも、あれは僕を彼女から遠ざける…。」
「違うよ、本当に約束したじゃん!昔!覚えてないの、お兄さん?俺、ずっとずっと待ってた―――」

今度は、ヒカルがアキラに大きな笑顔をくれた。

それを見た途端、話したいことがいっぱいあるような、心が急くような、不思議な感覚がアキラの中に湧き起こった………






















差し出された手は、アキラの記憶にあるものとは違った。
ずっと大きく、分厚くなっている。指も長く伸びた。

その手はとても確かな力で、アキラに握ってくれと訴えている。

誘われるように手を伸ばし、それに触れた瞬間、心のどこかがピリリと痺れるような気がした。
新しい季節が始まる合図のようにも、アキラには思えた―――



◆◇◆



「ヒッカル君!…あ、足が速いねっ…僕の方が引っ張られているみたい、だ。」
「だって早く打ちたいじゃん!」

駅までの短い道のりで汗ばんだのは、初めてだ。
時間に正確なアキラは遅刻しそうになって駆け込むこともなければ、慌てて棋院から飛び出すこともない。

誰かと、一秒でも早く打ちたくて打ちたくて。
逸る気持ちに、足が、体が、追いつかない―――

目の前の少年の気持ちがアキラには嬉しくもあり、こそばゆくもあり。

繋いだ手を、周りからどう見られるのだろうというのも気にならないでもなかった。
見た目からして兄弟ではありえない。
五歳という年齢差はあれど、相手は手を繋いであげなければならないほど幼い訳でもない。

しかし、ヒカルはそんなこと気にする素振りもなく、一心に前を見ていた。
アキラと打ちたいと、キラキラと輝く大きな瞳は、それだけをひたすら願っているようだった。

結局、碁会所よりもアキラの家に行くことにした。
父の碁会所は見知った客ばかりだけに、ヒカルのことを何と説明していいか、アキラにはわからなかった。
院生を連れて行ったことなど、いや、友達ですら一度も連れて行ったことなどないのだから。

「何子置こうか。」
「互い先。」
「ほんとに?」
「それで俺の実力をはかってよ。」
「相変わらず強気だなぁ…小学生の頃と変わってない。」
「へへ…あん時は口だけだったけど、今はホントに力もあるよ。喧嘩も碁も、簡単には負けねえ!」

アキラの家に着くと、最初ヒカルは懐かしそうに辺りをキョロキョロと見回していた。
その遠慮のない様子は、かえってアキラを安心させる。
手を引かれた時は戸惑ったが、やっぱりまだまだ子どもだとアキラは思った。微笑ましいじゃないか。

この子をここに招き入れるのは五年ぶり。
あの時は急な別れが寂しかったがどうすることも出来ずに、ヒカル少年のことはアキラの想い出の引き出しに仕舞われるしかなかった。

そして、長い長い時間が流れ…
出会った当初は碁の何たるかも知らなかったヒカルは中学生になり、アキラの前に院生として現われるとは、まるで「出来過ぎ」の再会ではないかとアキラは感慨深い。

「お願いします。」
「お願いします!」

頭を下げ、対局が始まる。
黒のヒカルが石を掴み、息を吸うと、静かに盤を見下ろした。

それを見て、アキラははっとなった。
ヒカルの目が、いきなり棋士の目に変わったのだ。

凄い…
たった五年で、君はこんな目をするようになったのか…

アキラが受けた衝撃は、単なる「始まり」でしかなかった。打ち続けるうちに、アキラの心は抑えきれないほど躍った。
目の前にいるのはただの院生ではなく、底知れぬ才能の片鱗を見せる、伸び盛りの打ち手。
この子は間違いなく入段する、自分の前にプロ棋士として立つ日も遠くはないだろうと、アキラは確信した。

「あーっ!やっぱりここまでかっ…くっそ…。」

負けましたと頭を下げられはしたものの、アキラは興奮を隠せなかった。

「凄い!凄いよ、ヒカル君!どうしたんだ、こんなに強くなるなんて…そうだ、どんな先生についていたんだ?」
「んー、俺の師匠のことはまた話すよ。まあ、俺がひとりで頑張っても院生は無理だったかもなー。」
「いや、それでもここまでになるとは…君がどんなに努力したのか、僕にだってわかるよ…。」

思わず、アキラはヒカルの頭に手を乗せた。
小さい子を褒める時には頭をそっと撫でることがあるが、ヒカルにはもっと強く想いを伝えたい気がして―――
こんな風に言葉や態度でいくら褒めても足りないような、不思議なもどかしさがアキラを苛んだ。

ところが、当のヒカルは子ども扱いするなとばかりに、アキラの手を振り払うように頭を揺らした。
乱暴に石を崩して、アキラを睨み付ける。

「検討!俺、左辺が納得いかないんだよね!」
「あっ…ああ、そうだね。」

それから数時間、打ち続けた二人だったが、アキラの指導にも熱が入った。
普段の指導碁だったら決して声を荒げるなどということはないのに、ヒカルに対するといつもの自分ではなくなった。
ヒカルもよく食らいついて来る。その貪欲さに、アキラも大いに刺激される。
手応えのある対局の時はいつもそうだが、いつしか、年齢の差など頭の中から消えていた。



「ねえ、今夜は泊まってってもいいだろ?」

何局目かが終わった時、ヒカルが甘えたように尋ねた。

「泊まる?んー…でも今、僕の家は両親がいないし、君のご家族も急だと心配なさるだろう?」

アキラは常識的な答えを返したが、ヒカルは諦めなかった。

「あっ、そういうのはお構いなく!俺、お兄さんと二人の方が気をつかわなくていいしさ。家には電話するから、それでいいって言われたら問題ないよね?」

心底嬉しそうな顔で迫られたら、もうアキラには拒めなかった。
ヒカルの願い通り、その夜ヒカルは泊まって行くことになった。急展開と言えば急展開だ。
年上なのだからヒカルのわがままに流されたりせず、それらしく振舞おうとしつつも、奇妙な興奮がアキラを包んでいた。

どうしたんだろう…僕らしくない…浮かれている…
まるで弟でも出来たみたいで、やっぱり嬉しいのかなぁ…

戸惑いながらも、アキラはヒカルと店屋物の夕食を済ませ、寝床や風呂の用意をした。
ヒカルに貸す衣類やタオルを選びながら、自然と顔がほころぶ。
一方のヒカルは「俺、料理も得意なんだ。今度、時間のある時は作ってやるよ!」と言うと、テキパキと片付けをしてアキラを助けた。

やがてアキラがお風呂をすすめると、ヒカルはあっけらかんと言った。

「お兄さん、一緒に入ろ!」
「えっ…どうして…。」
「いいじゃん!男同士なんだから〜。」
「でもいくら君と僕でも、二人一緒は狭いよ。」
「狭くても平気。楽しそうじゃ〜ん。」

ここでもアキラは押し切られた。確かに男同士なのだから、頑なに断るのも変と言えば変だ。
アキラが承諾すると、ヒカルは飛び上がらんばかりに喜んでさっさと裸になった。
風呂場に駆け込んで行く後姿を、アキラは苦笑いしながら見送り、後に続いた。

風呂場に入ると、湯気がもうもうと立ち昇って浴室を煙らせていた。
うちの湯温は子どもには少し熱いだろうかと、アキラが湯船に屈みかけた時、ヒカルに腕を掴まれた。

「立って。そこに。」
「…えっ…ヒカル君?」
「真っ直ぐ立って動かないで。体、見せて。ちょっとの間でいいから。」

その声には、逆らえない何かがあった。
アキラは石像のように固まり、立ちつくす。

すぐに湯気が生き物のように揺らめき、白い壁は割れて霧散し、二人の間を隔てるものがなくなった。
するとヒカルは澄んだ瞳と、そして少年らしい手で、アキラの肌を辿り始めた。

「ちょっ!ヒカル君、何をっ…っ―――…ぁ…。」
「黙って。ほんの三分…や、一分でいいから。」

その声には矢張り威圧感があった。とても年下とは思えない。
アキラは呪縛にかけられたように動けなくなる。

ヒカルはアキラの肌に顔を近付け、そしてさっきまで碁石を握っていた指先を広げてなぞった。
胸やわき腹、それに肩。腕や手首までしっかりと見られた。

肌が粟立つ。背筋が震える。
アキラは全身を強張らせ、その接触に耐えた。

「…っ…ま、だ?一体、何をして、る…。」
「うん………うん、大丈夫そうだ。」
「は?」
「さすがに今はもう、苛められたりしてないみたいだね。体、綺麗だ…。」
「あっ…。」

ヒカルの言葉の真意が、いや、ヒカルの行動の真意がわかって、アキラは目を見開いた。

―――五年前。
アキラが進学したばかりの中学校で嫉妬心から来る苛めに遭い、傷を負ったことを覚えていたのだ。
今でもそのような目に遭っているのではないかと、心配してくれたのだ。

驚きの余り声も出せないアキラに向かって、ヒカルはようやく顔を上げて笑った。

「痩せてても立派なオトナの体じゃん!俺も早くお兄さんみたいになりてー。まだちゃんと生えてもいないんだぜ。やんなるなぁ…。」

声変わりが始まったばかりの不安定さを秘めた少年らしい声が浴室に響き、それは、アキラの心まで小さくざわめかせた。





















「えっ…俺にこれ?」
「そう、僕が以前着ていたパジャマ。探したらとってあったんだ。」
「いいの?」
「いいに決まってる。僕はもう着れないんだから。…というか、お下がりで悪いけど。」
「そんなことない!ないない!やった!」

数年前まで着ていたパジャマは明るいブルーのチェック。
風呂に入る前にアキラが用意しておいたものを脱衣所で渡すと、ヒカルは無邪気に喜んだ。

慌てて着ようとする様子が微笑ましい。
弟がいたら本当に、こうやって自分の着ていたものを「お下がり」としてあげたりもするのだろう。
一人っ子であることを別段寂しいと思ったこともなかったアキラだが、そんなことを考えるとくすぐったくなる。

「サイズ、丁度良かったみたいだね。」
「へへ…似合う?」
「まあね。」
「んだよ〜、それ。」
「パジャマ如きで似合うも似合わないもあるか。」
「そっかなー、俺はお兄さんの白いパジャマ、スゲエ似合ってると思うけど?」

片目を瞑ってみせる少年に、アキラは肩をすくめて生意気な…と突っぱねるしかなかった。



布団をどこに敷こうかと迷う暇もなく、ヒカルはアキラの部屋に入ると「手伝うよ!」と押入れに向かう。

他人を自分の部屋に泊めたことはなかった。
アキラの家には客間として使える広い座敷があるのだし、泊まりに来るような親しい同年代の友人だってひとりもいなかった。
アキラにとっては初めての経験になるのだ。
自然と心が弾む。
ヒカルと並んで布団に横たわった時、アキラは今夜は寝られるかなぁと、ちょっとだけ自分のはしゃぎっぷりが可笑しかった。

「ねえ?一緒の布団…っつーのは駄目だよな?」
「一緒って…君と僕が?」
「そう、添い寝ってヤツ?ほら、俺さ、こんな古い家に泊まるの初めてだから、もしもお化けでも出たら〜って想像すると、怖いんだよね。お兄さんが優し〜く隣に寝てくれたら、きっと安心して眠れると思うんだよね。」

そこでアキラは吹き出した。

「はははっ…よくもそんなことが言えるな!ヒカル君、君がお化けを怖がるような子じゃないって、僕にはよーくわかってるよ!」
「ふん…バレてるか。」

唇を尖らせたヒカルに向かって、さっさと布団に入りなさい、電気を消すよと、アキラの精一杯大人ぶった声が飛んだ。



その夜。ヒカルの寝相は、なかなか凄まじかった。

春とはいえ、まだ夜中は肌寒い。
アキラは何度も起き出して、ヒカルが跳ね除けた布団を掛けてやる羽目になった。
ヒカルの脚がアキラの体に乗り上げたこともあれば、寝言に驚かされたことも。

アキラが一番ドキドキしたのは、ヒカルがアキラの布団に潜り込むように転がって来た時だ。
さすがに「ヒカル君、狭いから君はあっち…。」と言いながら、押し戻す。
するとヒカルはまだ無邪気な頬を緩めて、ムニャムニャと訳のわからないことを呟く。
その寝顔に溜息をつきつつ、憎めない少年だとアキラはしみじみしたのだった。



「あれー、お兄さん、寝不足?目が赤いぜ?」

誰のせいだと思っている?という言葉は、かろうじて飲み込んだ。
ヒカルのせいで昨晩眠りが浅かったと打ち明けるのは、年上としてのアキラの意地が許さない。

「そんなことはどうでもいいから。打つか?それとも君は、朝ご飯が先?」
「打つに決まってる!俺、朝起きて一番最初にするのはしょんべんと碁だもん!」

しょんべんは別に言わなくても…と内心ツッコミながら、アキラは感心もしていた。

朝―――アキラは必ず父と打った。
いくつの頃からか、それが大切な習慣だった。父が対局などで家にいない朝は、棋譜を並べた。
そういう棋士は他にもいるかもしれないが、ヒカル少年も自分と同じだと思うと、アキラは無性に嬉しくなったのだ。



一局打った後、二人でワイワイ言いながら朝食の準備をする。
ヒカルはその年にしては手際が良かった。火を使うのも平気だ。
両親不在の折には時々家政婦さんに来てもらっているアキラの方が、よっぽど家事には慣れていない。

「あー、ゴミはちゃんと分別!それに野菜もこんな切り方したら勿体ねえなぁ…。」

ヒカルの作った料理は、味も良かった。味噌汁ってこんなに美味しく作れるものなんだと、アキラは改めて思う。
素直に褒めると、ヒカルはこともなげに言った。

「母さんは仕事で忙しかったし。金もらえなかったらコンビニに買い物も行けないし、家にあるもん使って自分で何か作るしかないだろ?」

アキラは何と答えてよいかわからず、黙り込む。
箸まで止まってしまった様子を見て、ヒカルは明るい口調で話題を変えた。
やっぱ、お兄さんちの台所は高級品だらけだねー、冷蔵庫の中も美味そうなもんばっかで!…と言うヒカルに、アキラは思わず言ってしまった。

「良かったら欲しいもの、何でも持って帰っていいよ。」
「はあ?別に欲しくて言った訳じゃねえよ。そんなに卑しくはないぜ。」
「いや…っ…僕だってそんなつもりじゃ…。」

しどろもどろになるアキラ。
それを見て、ヒカルは口元の汁椀越しに視線だけをアキラに送りながら、ニヤッとした。

「ねえ、もしも俺になんかしてやりてーとか思うんならさ、ここに住まわせるってのはどう?」
「…え?」
「住み込みの内弟子、第一号ってことで。家のことも楽になるぜ?俺、結構使えるヤツだしー。な?…アキラ師匠。」
「ええっ!?」

面食らうアキラをよそにヒカルは味噌汁を飲み終えると、静かに汁椀を置いた。

お兄さんじゃなくて、先生って呼ばせてよ―――?





















―――俺を弟子にしない?ここに住まわせてくれない?

唐突な申し出に驚いたアキラは、思わず手にしていた味噌汁の椀を取り落としそうになった。

「あ、わわっ…!」
「気を付けなよ〜、っつかさ、そんなにびっくりすること?」
「だ、って…そんな弟子なんて。第一、君はお母様がいるんだろう?」
「あー、今俺、親戚んちに世話になってんの。母さんはコッチに出て来てないんだ。」
「え、ああ、そうだったの。…まさか親戚のおうちで肩身が狭い、とか?」

思いつくままに口にしたことを、とっさにアキラは恥じた。こんな立ち入ったことを聞いてはいけない。

「いーや、別に。俺がプロになったら大金でも転がり込むとでも思ってんじゃねえ?」
「そうか、良かった。応援してくださっているんだね?」

ヒカルはまあねと応え、さっさと食器を片付け始める。
こういうことは早く言わなきゃと、アキラは慌てて口を開いた。

「ヒカル君、ご免ね!僕はひとり暮らしにも慣れたし、人がいてはやっぱり何かと碁以外のことが気になってしまうと思うんだ。それに第一、僕は弟子を取るほどの何ものでもないし。」
「ふうん…わかった。」

…あれ、とアキラは思う。
もっと強引に出られるかと身構えていたのに、その予想を裏切ってヒカルはアッサリ引いた。
アキラは安堵したのと同時に、拍子抜けしたのも事実だ。

そしてそれっきりその話は終わった。
―――と、アキラは思っていた。



その時だった。

「…あれ?お兄さんの携帯、鳴ってるよ。」
「あっ!ありがと!」
「へえ、着メロなんて使うんだ?いがーい。」
「貸して!」

ひったくるようにしてアキラは携帯を受け取る。

「はい、塔矢…お久しぶりです…はい…ええ…。」

誰からの電話かわかった途端、アキラの顔が輝いた。窓から陽でも射したかのように、パッと明るくなったのだ。
ヒカルはそんなアキラの横顔を、軽く睨み付けるように見詰めていた。

「恋人?」
「えっ…そんなんじゃないよ。」
「でも、女、だろ?」
「そういう言い方をするもんじゃない。確かに女性だけど。」
「どういう関係?」
「どういうって…僕が参加している研究会のメンバーだよ、今のはその連絡。」
「そういうの、メールでもいいんじゃね?どうしてわざわざ電話?」
「それは…他にも色々あったし…。」
「アキラさんの声が訊きたかったのーとか言われてんじゃないのー、お兄さん!」
「目上をからかうもんじゃない!」

いい加減この話は終わりだとばかりに、アキラは席を立った。ヒカルの視線が背中に痛いと感じながら。
こんな子どもにからかわれてアタフタするなんて情けないとは思うものの、今の電話の相手とのことを突かれると、アキラは平静ではいられない。
サラブレッドと称され、碁の実力も折り紙つき、順風満帆に見える若き棋士塔矢アキラにとって、それは今現在、唯一の弱点と言っても良かった。

だが。
その相手についてヒカルが知るのは、もう少し先のことになる―――



ヒカルとの再会からしばらく経ったある日、アキラは院生師範の篠田に呼び止められた。
アキラがヒカルと知り合いらしいと事務局の誰かに聞いたらしく、研修を続けて休んだヒカルの様子を尋ねられたのだ。

「提出して欲しい書類もあるから誰か友達はいないかと探したんだか、院生の誰とも親しくしてはいないようで…。」
「僕が彼のうちに行ってみます。」
「えっ、塔矢君…忙しいのにいいのかい?」

結構遠いよ、と申し訳なさそうに言う篠田に向かって、アキラは大きく頷いた。

実を言うと、アキラもここしばらくはヒカルと会えていないのだった。
考えてみれば連絡先も知らないし、中学生のあの子は携帯電話すら持っていないだろう。
アキラは、どうして自分がちゃんと彼のことを把握していなかったかと後悔したが、遅かった。
事務局で電話番号を聞いたが、残念なことに誰も出なかった。

篠田にはそんな事情は伏せ、アキラはヒカルの元を訪ねることにしたのだ。



ヒカルが下宿しているという親戚宅は、都内からかなり奥まった隣県にあった。
中学生がここから通うのは大変だろう、交通費だって馬鹿にならない筈だとアキラは思う。

呼び鈴を鳴らすとかなり待たされた後、ひとりの少女が出て来た。

「ヒカル?…って、ああ、あのクソチビね。」
「あの、あなたは…。」
「チビのくせに妙に大人びてて、アイツ、キモイのよ。同じ家にいると思うだけでゾッとする。…って言ったら、どっかに飛び出してったわ。」

どうやら、この家にはこの少女が同居しているらしい。
顔はアキラと同い年くらいに見える。
しかし体格も態度も大きく、思春期特有とでもいうのだろうか、自我の肥大したピリピリした様子がアキラを圧倒した。

「ヒカル君はどこへ?まだ中学生でしょう?」
「中学生なんて可愛いもんですか、アイツ!きっとゴカイジョってトコだよ。金賭けて稼いでブラブラしてるみたい。そのうちヒモにでも何でもなるねアレは、顔だけはハーフでイケてるから。」

吐き捨てるように言う少女の口を、アキラはこの手で塞ぎたいと怒りに震えた。




















アキラには全てがわかった気がした。
この少女の言動だけで十分、ヒカルがこの家でどんな扱いを受けているのかが知れるというものだ。

アキラはこみ上げる怒りをグッと堪えて、再び尋ねた。

「ヒカル君の行きそうな碁会所はわかりますか?」
「どうせ駅前辺りじゃない?それよりアンタ…アイツの何なの?どういう知り合いよ?」

相手の少女は見るからにギャル風のメイクを施した黒々とした縁取りの目で、アキラをジーッと見詰める。

「僕ですか?僕は棋士です。」
「キシ?はぁ?それって高校の名前?」
「高校…って、そうじゃなくて囲碁のプロです。高校には行ってません。」
「はあぁ?高校行ってないってマジ?やるじゃん、真面目そうに見えて度胸、あんね。アイツもどうせ高校なんか行かないんでしょ?勉強どころか、一日中オセロみたいなことやってるもんねー。」

ムカムカする。
これ以上、同じ空気を吸うのもご免こうむりたいとアキラの嫌悪は膨らむばかりだ。

軽く会釈をすると、アキラはその場を辞した。まだ何か言いたそうにしている少女を残して。

自然と早足になった。
そして駅前まで戻ると、アキラは碁会所を探して歩き回ったのだが―――


「お兄さん!?」
「あっ…ヒカル君!」

何という偶然だろうか。
アキラがそれらしい場所を見つけられず、いよいよ交番に尋ねようと足を向けた時、背後からヒカルの声がしたのだ。

「良かった…会えて。」
「どしたの?こんなとこで。…あっ、俺に?」
「当たり前じゃないか!君、院生研修も休んでいるっていうし、僕のところにも現れないし、篠田先生だって心配されて…。」
「はーん、そゆこと。じゃあ俺、今から小遣い稼ぎに行くからさっさと用事、済ませてよ。」
「小遣いって…まさか!あの女の子が言っていたのは本当なのか?賭け碁のようなことをしているって…。」

アキラの顔が厳しくなったのを見て、ヒカルも顔色を変えた。

「あの女の子って…家まで行ったの?あのブスに会ったの?」
「こらっ、そんな言い方をするな!棋士には品性も大事だと言わなかったか。」
「ヒンセーイ?難しい言葉、使うなよ。俺はまだ中一だぜ。」
「ともかく賭け碁はいけない。院生を止めさせられるぞ。どうしてそんなことをするんだ?」
「どうしても何も。金がいるんだって言わせて、俺を惨めにさせたいの?」

アキラは言葉に詰まった。そういうことなのかと理解する。
おそらく、彼の母親は仕送りをするほどの余裕はない。下宿先でも歓迎されていない。
だとしたら、小遣いは自分で何とかするしかないのだろう。

急に、アキラの目の前に現実が迫った。
そう…これは現実だ。
裕福な家庭で何不自由なく育ち、13歳でプロになって稼ぎもあるアキラには、全く経験のない不安―――それが金銭的な不安だった。

ヒカル少年は僅かこの年で、厳しい環境の中で、ひとり、生き抜こうとしている。
そこには、他人の同情や哀れみが入り込む余地などないように思われた。

「帰りなよ。お兄さんみたいなのがこんなとこウロウロしてると、カツアゲされちゃうぜ?日が沈むと、この辺もガラ悪くなるからさ。」
「ちょっと待て!」

アキラがさっさと歩き出したヒカルの腕を掴むと、その細い体が僅かによろけた。
そして瞬間的だったが、袖口からヒカルの腕がのぞき、アキラは肘から下の内側の皮膚に爛れたような痕を見つけたのだ。

「どうしたんだ!?その傷…火傷?」
「別に。お湯、引っ掛けただけだよ。」
「嘘を言うな!この前にはなかった、最近の傷だね。お湯を引っ掛けたってそんな…誰かに意地悪をされたんじゃ…。」
「もういいじゃん。あのブスがさ、俺がアイツの下着を触ったの、風呂を覗くのって嘘ばっかり言いやがるから、おじさんがキレちゃっただけだよ。」
「ヒカル君!それじゃ虐待…。」
「もういいじゃん!だからそんなに俺を惨めにしたいのかっつーの!」

ヒカルの大声に、道行く人が足を止めた。
アキラもはっとなって、ヒカルの手を離す。

「だからお兄さんには何の関係もないだろ…も、帰って。」

急に力を失った声は、変声期特有の不安定な音の中に幼さを滲ませていた。
アキラの胸も強く締め付けられる。

だがしかし、ここで引く訳にはいかない。
おぼっちゃまおぼっちゃましたところはあるが、アキラも一度思い込んだらなかなか曲げない意思の強さがある。

アキラは意を決し、ヒカルの目を覗き込んだ。

「わかった。僕の家に行こう。一緒に住もう。」
「…は?」
「君も言ってたじゃないか、この前。あの時は僕も君の事情を知らなかったし、急なことだったし…でも今は違う。」
「いい加減にしてくれる?俺を馬鹿にしてそんなに楽しい?」
「ヒカル君…。」

ヒカルの口調は落ち着いていた。
いや、むしろ乾いていた。
そして淡々と語る12歳の瞳は、どこか虚ろだった。

「俺はね、同情でかまって欲しいんじゃない。誰かに可愛そうになんて思われて生きるなんて、ヤだ。俺は俺の力で生きる。碁を打つ。」
「……。」
「あの女…俺の親戚じゃあるんだけど、アイツも最初は優しかったんだぜ?弟が出来たみたいーなんて言って街を案内するの何のって。でもさ、俺が碁以外に一切興味を示さなくて打ってばかりいるから、今度は頭にキたんだよ。単純なもんさ。折角連れ回すには丁度いいおもちゃだと喜んでたのに、それがちっとも愛想なしで言うこときかないもんだからさー。」
「そう…。」
「どこに行っても一緒なんだよ。わかる?俺が碁に関係のない家に行けば、どこででも嫌がられるんだ。子どもらしくない、変わってるって。碁打ちの家庭だったら褒められるとこだよなぁ?ははは…。」

最初は静かだった声に、次第に波が現れ始めた。
泣きそうなのだろうかと、聞いているアキラの鼓動も次第に早まるのだった。

「だから俺は平気。あと何年もしにないうちに入段して一人暮らしして…自由になる。」
「同情じゃないと言ったら?」
「…は?」

ヒカルがアキラを凝視する。
アキラは自分の心が失速しないようにと、畳み掛けるように続けた。

「弟子にしたい、君を。君の事情が可哀想とかそういうことじゃない。君はプロになれる器だと思っている。君と打つことは僕にも刺激になる。片方だけがいい思いをするんじゃないよ、これは双方にメリットがある提案だ。」
「メリット?得ってこと?俺はね、俺がタイトルとれるくらい強くなる為なら、どんなことだってするつもりだ。その為なら何だって利用するし、誰だって踏み台にしてやる。」


―――何というプライドだ…僅か12歳で!

この若さでここまで言い切れる人間を目の当たりにして、アキラは驚愕すると同時に、自分がこの少年に惹かれずにはおられない理由もわかった気がする―――


「俺は強くなる。入段して昇段して、誰よりも早く頂点へ駆け上がる。」

アキラはしばし言葉を見つけられず、ただ、ヒカルの目を見て頷くばかりだった。

「お兄さん…俺はその為の踏み台にするって言ってるんだぜ?いいの?」
「踏み台結構。それで僕の方もまた、最強の対局相手を得ることになるのだったら。…君にその自信があるのなら。」
「…本当に?」
「ああ、本当に。」

やっと声が出た。笑顔を見せることも出来た。
今度こそ、ヒカルも少しだけ口元を歪めて応えてくれた。

「ヒカル君、打とう。たくさん打って、もっともっと強くなろう。…僕と一緒に!」

夕暮れの街中。
人波に押されながらも、揺らぐことなく毅然と立つ、17歳のアキラと12歳のヒカル。

真っ直ぐに差し出されたアキラの手を、ヒカルの成長途上の手が握り返した時。
二人の新しい関係が始まった。


…そうだ。
今度あの女の子に聞かれたら、僕は堂々と答えよう。

僕はヒカル君の師匠です。

そしてこれからは兄にもなり
同居人にもなります。

彼が望む、何者にでも僕はなるつもりです――――


それはアキラの心に湧き上がって来た、新しい感情だった。





















「アキラ!聞いたよ、内弟子取るんだってー?」
「内弟子なんてそんな大袈裟な…僕みたいな若輩ものが。
それよりも今度ね、ヒカル君の歓迎会を塔矢門下でやりたいんだけど、芦原さんも協力してくれるでしょう?」

アキラが五歳年下の院生、ヒカルに一緒に住まないかと提案してから数日が経っていた。

アキラは両親を説得し、ヒカルの親戚にも挨拶に行った。
話はすんなりとは行かなかったものの、ヒカルの意思は固かったし、何よりこういう時の周囲のアキラへの信頼度は抜群である。
電話で話したヒカルの母も承諾し、アキラの両親も近いうちに一時帰国するということになり、ここでヒカルを皆に紹介して一気に固めたいとアキラは考えていた。

アキラの頼みに一旦は頷いた芦原だったが、急に何か思い出したようにその顔は複雑そうな様子に変わった。

「アキラがそんな風に他人に関わるのも珍しいからさ、俺も全面的に協力…と行きたいところだけど…。」

芦原の言葉を聞きながら、アキラははっと身を引き締める。

「その子、結構問題アリなんだって?だからアキラ…。」
「芦原さん。」
「っは?」

アキラは真剣なまなざしで、芦原を見詰めた。

―――今のアキラは、ヒカル少年が院生の中でも浮いた存在であることや、碁は強いがそれ以外の素行に関して周囲がいい顔をしていないこともわかっている。
そしてそれは、見た目や境遇が醸し出す影の部分のせいであることもまた、よくわかっているものだから、決してヒカルだけの責任ではないのだとアキラは言いたくてしょうがなかった。

だがそれを、ヒカルを知らない相手に一体どう伝えたらいいのか―――

「ヒカル君はいい子だよ。…いや、いい子というのはちょっと違うかな…うん、そういう表面的なことじゃないんだ。」
「アキラ?」
「いや、そのうちにわかるよ。芦原さんも、あの子に会って、あの子と打てば…そう、きっとわかる―――」

もどかしい気持ちを押さえ、アキラはヒカルの力強い瞳と、深い碁を思い出していた。

―――同情なんかで誘われたくない。
俺の碁を認め、俺を弟子にすることが自分の為になると思うんだったら、一緒に住んでやってもいいぜ…

ヒカルの言いたいことは、つまりそういうことだ。
あの子の精一杯のプライドがそう言わせているのだと感じた時、アキラはもう自分が引き返せないくらいこの少年に魅力を感じ、傍にいたいと望んでいることを悟った。

そして一度思い込んだらまっしぐらであるのも、アキラの性分であった。



生まれた時からずっと一緒にいた家族ではない、赤の他人と暮らす―――

アキラにはそれがどういうことなのか具体的なことは何ひとつ想像もつかないまま、二人の同居生活は踏み出すことになる。

「まずは、役割分担を決めるところから始めようと思うんだけど。」

転校手続きも終わり、親戚の家から荷物を持ってヒカルがやって来た日、アキラはそう切り出した。
ところがヒカルはあっさりと言う。

「役割も何もさ〜、俺はただで置いてもらうんだから、何でもするつもりだぜ?料理に洗濯、掃除…細かく言えば買い出しだろうとゴミ出しだろうと、俺が出来ることはする。」
「ちょ、ちょっと待て!別に家政婦さんじゃないんだし、僕だってほとんど一人暮らしのようなもので、今では一人で何だって出来るんだから。」
「んー、じゃあ気付いた方が先にやる。そんで、出来るだけたくさん打つ時間を作るってことでどう?」

…打つ時間。
そうだ…これからこの家はただ暮らすための場所でなく、父がいた時のように四六時中、石の音が響くようになるのだ!

その為に出来ることを出来る方が片付けるというのは、効率的なやり方だ。
だからこそこの提案に同意したものの、アキラはすぐに事態は自分の想像と違っていたことに気付いた。

ヒカルは何事も、アキラより先回りして家のことをやり終えてしまう。フットワークが軽いというか、こだわりがないというか。

結局、アキラは以前よりも雑事にとらわれる時間が格段に減ったことを感じ、同時にそれは二人で打つ時間へとあてられる。嬉しいことではあった。

だがしかし、物事はそんなに上手くはいかない。
基本的にはヒカルはアキラの家だからこそ、これまでのアキラの暮らしを尊重し、やみくもに自分の意見ややり方を通そうとはしないが、それでもヒカルとアキラでは当然、細かい生活感覚の違いというものがある。
ゴミひとつをとってもそれは捨てていい、それは資源だともめては、ネットで調べてどちらかに軍配が上がるという場面もあった。

そんな小さなやり取りさえも、わずらわしいと思ってしまえば同居はおしまいだ。
けれども幸いなことに、アキラにとってみればちょっとませた弟でも出来たみたいに、楽しいことの方が多い。

問題は他にもあった。
相手は年下の男の子とは言え、家でのくつろいだ様子や無防備な寝起きの顔を見られたりすることに、最初はどうしても慣れなかったのだ。

「おはよ、先生。…へえ、先生でも髪、跳ねることあんだ!」
「洗濯もの、畳んでおいたよ。結構、オシャレっぽい下着、着けてるんだねー。」

そんなことを不意に言われると、自分の生活はこの子に丸見えなのだとドギマギしてしまう。
しかし年上であるというプライドだってあるから、動揺を悟られたくもない。

そういうせめぎ合いにも次第に慣れて来た頃、プライベートを隠せないとはこういうことかと、改めてアキラもヒカルも実感するような出来事が起きた。





















二人が同居を始めて数日。
夕方、ヒカルが学校から帰宅してみたら、居間でアキラがテレビを見ていることがあった。
珍しいと思いつつも、ヒカルは普段どおりに居間に足を踏み入れる。
ところが。
そこで普段とは違うことが起きた―――アキラが「おかえり」を言う前に、慌ててビデオを停止させたのだ。
…そう、正確にはテレビではなく、アキラは録画してあったビデオを見ていたのだった。

「ビデオだったの?別に止めなくても…って、まさか…そういうビデオ!?」
「ち、ちがっ…ヒカル君!」

ヒカルは、アキラの手から滑り落ちたビデオのリモコンをキャッチすると、再生を押す。
素早い行動に不意をつかれたアキラは、なす術がなかった。

「…女流?」

映し出されたのは対局の様子だった。

「っ、そうだよっ…この前の女流○○戦。明日の研究会でお会いするから…。」
「どうして隠すのさー、エッチなビデオかと思って期待しちゃったじゃん?」
「エッチ…っ!こらっ、変なことを言うんじゃない!子どものくせに!」

髪の毛を逆立てんばかりの勢いで、アキラに怒鳴られた。
とは言え、そのくらいで怯むヒカルではない。

「あー、大人ぶっちゃって!先生だってまだ十代じゃん、オンナにだって興味あるだろ?」
「おん…っ、もっいいから!続きを見るのか見ないのか!」

こんなにアキラが慌てきっているのもツンケンしているのも、ヒカルは初めて見た。
ムッとするというよりも、むしろ好奇心の方が強く湧いたヒカルは、見るよと答えるとビデオを再生させた。

「―――松村…えりな?」

ヒカルが指し示した画面に映っているのは、その実力とともにアイドルのような容姿のせいで誰もが認める人気棋士、松村えりな女流であった。
一般の囲碁愛好家ばかりでなく、ファンクラブ会員だと公言しては憚らないプロ棋士までいる。

「松村さん?そうだね、顔に似ず、なかなかの力碁だ。」
「なあんだ…やっぱ先生もさ、フッツーの男なんだ…ふうん…。」
「ん?何か言った?」
「いーや!別に。」

ヒカルは面白くなさそうにソッポを向くが、アキラは画面に食い入っている。ヒカルの方をチラとも見ない。それどころではないらしい。

ヒカルは盗み見るようにして、横目でアキラを窺った。
すると…アキラの頬は僅かだが紅潮し、目もキラキラと輝いているではないか!
そこには名局に興奮するというよりも、気になる相手を見る時に発散させる時の素直な喜びがあるようだ。

…クサクサする。局面なんて目に入るもんか。

アキラが碁以外に興味関心を示すというだけで面白くないのに、それが若く美しい女性であるのだから、子どもっぽいと言われても嫌なものは嫌だった。

エッチビデオでも見てくれてた方が、まだマシだよ…

すっかり苦り切っていたヒカルだったが、やがて、自分が大きな誤解をしていたことに気付くことになる。



「あっ!そうか、こんな手が…さすが竹沢さんだ…凄いや…。」
「…は?竹沢…。」

アキラの呟きにはっと頭を上げたヒカルは、アキラの顔と、テレビの画面を交互に見た。
その視線の先にはどうやら松村えりなではなく、その対局相手の女性が映っているらしいとわかったものの、ヒカルにはそれが俄かには信じられなかった。

「だって竹沢女流って…あれって…。」
「ヒカル君、ちゃんと見てるか?竹沢さんの碁はとても勉強になるから、後でもう一度感想戦をしよう。」
「先生…あ、あのさ…一人でめちゃくちゃ盛り上がってねえ?」

アキラの横顔を見ながら、ヒカルはボソリと言った。
だが、アキラからの返事はない。再び局面に集中し出したようだ。
…いや、まさか竹沢自身に…だろうか?

そこでヒカルは思わず、「竹沢女流より、先生の方がよっぽど…」と言いかけて―――口をつぐんだ。
画面に時折映し出される竹沢よし子は、ガッシリした肩の上に乗った頭を振って、次手を考え込んでいた。
その顔は、アイドル的容姿の松村と交互に映し出されると、女流対局ということを忘れてしまうくらい凛々しかった。
それが、厳しい局面のせいで生まれる表情ではなく、竹沢という女性の持って生まれた顔立ちであることは一目瞭然だ。
お世辞にも美人ではないこの女流にアキラが抱いている感情は、あくまでも碁打ちとしての憧れ以上のものではないだろうと…そうに違いないと―――ヒカルは信じたかった。









最初のショックから立ち直ったヒカルは、ともかく真実を確かめたいと思った。
ストレートに「先生って竹沢女流が好きなの?」などと訊いてみても、相手が年下のヒカルであるだけに正直な答えが返って来るとは思えない。

そうこうしているうちにある日ヒカルは、偶然にも棋院で二人を目撃した。

「塔矢君のMHK杯の決勝、素晴らしかった!特にあの七十六手目…あの荒らし方は新鮮だったわ。さすが塔矢君。」
「えっ…そうですか?いえ、あれは僕も会心の一手でした。」
「でしょう?塔矢君の碁はいつも勉強になる。私とタイプも似ているしね。」
「そんなっ…竹沢さんの先日のさばきも、凄いと思いました。僕なんてまだまだです。」

誰に褒められるよりも嬉しい。その気持ちが、素直に顔に出ていたのだろう。
アキラは、打っている時とは別人のようなはにかんだ笑顔を浮かべ、竹沢の言葉に何度も頷いている。信頼し切っていることが、よくわかる。
たまたま通り掛った廊下でその光景を見たヒカルは、どっと力が抜けていくのを感じた。

どっからどう見たって、先生より竹沢さんの方がガタイもいいし、見た目からしてオトコ前だよ…

しかし、それをアキラに言ったってどうにもならない。
アキラにとっては、女性の見た目などどうでもいいのだろう。一に棋力、二に棋力、そして最後にかろうじて来るとしたら人柄…だろうか。

そういうところは、ある意味まだ身も心も成熟した男性の恋情には程遠いのかもしれないし、ある意味、一生変わらないアキラ自身の異性に対する根本的な嗜好なのかもしれない。

まだ十二歳のヒカルには、どちらがより正しい答えなのかわからない。

それでもおそらく塔矢アキラらしいのは、碁を抜きにして人を見ることはないということだ。
それがそもそもアキラの青さを表しているのだろうが、ヒカルは次第に、そんなアキラが微笑ましいと思えるようになった。

…やっぱ、先生は先生だ。塔矢アキラだ。
人は「変わり者」って言うかもしれないけどさ。
女性の見た目に左右されないってとこが、如何にも先生らしいよ…



とは言え、ヒカルのモヤモヤした気持ちが完全に落ち着いた訳ではなかった。
これが松村えりなだったら、いくら相手が塔矢アキラでも本気にはならないだろう、もっと大人の男性を選ぶに決まっている。

しかし竹沢。問題は、竹沢にかかっている。
彼女がアキラに本気になったら、アキラのことだから恋愛と碁と、ゴチャ混ぜになったままで突き進むことも有り得る。
確か竹沢は今年21、2歳…丁度ヒカルとアキラの歳の差と同じ、五歳違いだ。
二人がお付き合いでもすることになったら、折角同居まで漕ぎ着けたというのに、ヒカルは相手にされなくなるかもしれない。

何とかしたい。二人が親密になるのだけは邪魔したい。
しかし。
人の恋路ほどどうにも出来ないことも、世の中にはない。

早く大人になりたいと、ヒカルは切実に思った。

早く―――早く―――早く―――!!

心も体も、そして棋力も。
限界までスピードを上げ、全速力で成長したいと、強く強く、願う…



「どうしたんだ…集中していないぞ、ヒカル君?」

毎朝、毎夕、時間があればアキラに打ってもらうヒカルだが、とうとうアキラにまでその小さな苛立ちを悟られた、そのすぐ後のことだ。
竹沢女流本因坊の婚約が、大きく報じられたのは―――





















その知らせを、ヒカルは院生研修の日に知った。当然、研修の合間はその話題で持ちきりだ。
竹沢の相手は台湾出身の棋士であり、破竹の勢いで勝ち続けている若手ナンバーワン。
タイトルも緒方から奪ったばかりの十段を持っているし、近いうち、その数は当然増えるだろうとも評価されていた。

口の悪い中学生くらいの院生だと、「俺だったら碁が強くても竹沢さんはヤダー、尻に敷かれて窒息しそう〜」などと失礼千万なことを平気で口にした。
「松村さんだったらわかるのに、○○先生も…ちょっと変わり者?憧れてたのに」などと声を潜めて揶揄するのは、女子の方だ。

そんな喧騒の中、ヒカルはひとり安堵していた。
これでアキラも諦めがつくだろう。竹沢の婚約者は、当のアキラですら納得する実力の持ち主だし、二人の年齢も釣り合いが取れている。

その後から、ヒカルは少しだけ不安にもなった。
どれだけアキラが竹沢に本気だったのかは推し量る術もなかったが、それなりにショックを受けているだろう。
…まさか。
まさか碁にまで影響するようなことはない…と思うが。

しかし、その日のヒカルはアキラのことがどうにも気になってしまい、打っていても調子が出ないのは本当だった。

全く…どうして俺が先生のこと…しかも女絡みをこんなに心配しなきゃなんないんだよ?

ヒカルの中に芽生えた好意は、未だはっきりとした形を成していないらしかったが、それは同居するうちに次第に固まりつつある。
それでもまだ、幼い。恋情だと断言するには、ヒカルは幼な過ぎる。
早く大人になりたいと願うのも、どこかでアキラに張り合う気持ちが強い。アキラに子ども扱いされたくないとか、アキラに碁で認められたいとか、つまりはそういうことだ。



ヒカルが急いで帰宅すると、家ではアキラが待っていた。

「あ、あれ…先生、早いね。」
「中野に寄る予定だったけど、君と打ちたくなったから。夕飯は買って来てあるから、その前に打とうか。」
「あっ…う、ん…打てるの?」

ヒカルは、アキラを窺うようにじっと見る。その顔に、ショックや哀しみの色がないかと探す。
だがヒカルの目には、アキラは普段とどこも変わりないように見えた。
碁もそうだった。特に乱れた手はない。…ある筈もないか、何てったって先生だもんなー、女のことくらいで揺らいだりする訳ないかーと、ヒカルは納得する。

それからの数日も、アキラに別段変わった様子は見受けられなかった。
しかし、一度聞きそびれてしまうと如何に遠慮のないヒカルであっても機を逃してしまい、竹沢の婚約の話は二人の間でタブーのようになってしまった。
そしてヒカルもいつしか、アキラの中では決着のついた話なのだろうと思い込んでしまった。

…だからこそ驚いたのだ。
数日後、アキラが酔っ払って帰宅した時、ヒカルは初めてアキラの本音を知って―――酷く驚いたのだった。









「先生!?」
「進藤君、悪いんだけどアキラ、頼めるかな?」

送って来たのは同門の芦原だった。ヒカルも既に紹介を受けていたので、互いに顔見知りだ。
それに芦原は、ヒカルが少年なりにしっかり者だということも認めていた。

「一度吐かせて、水も飲んでる。血の気も戻って来ているから、急性アルコール中毒の心配はないけど、まだ酔っ払いは酔っ払いなんだ。何もないとは思うけど、念のために今夜は一緒に寝てやってくれない?」

冷静に指示して、芦原は明日が早いからご免なと言い残し、待たせてあったタクシーで帰って行った。

「あ〜あ…未成年のくせにこんなに飲んじゃって…全く、信じらんないよ、謹慎くらっちゃうよー?せんせーい?」
「ん、う…ヒカル、く?」
「はいはい、先生、俺のこと、わかる?芦原さんが布団に寝かせて行ってくれたよ。…あ、水、飲みたい?」

アキラはうつろな目でヒカルを見上げたが、何も言わない。
ヒカルは溜息をついてアキラに被さると、「ちょっと我慢してね」と声をかけ、シャツの胸元を緩めた。
ネクタイはとっくに芦原が外していたが、ボタンはもうひとつくらい開けた方がいいかもしれない。さも苦しそうに、アキラの手が胸元をさすらっている。

十二歳とはいえ、ヒカルは手馴れていた。酔っ払いの介抱は、初めてではないのだろう。

しかしそこで予想外のことが起きた。
アキラの手が、胸元から離れようとしたヒカルの手を掴んだのだ。それも酔っ払いとは思えないほどの強い力で。

「ひゃっ!ちょ、っと…先生!?」
「ど、して…どう…ぅ…。」

ヒカルの腕を抱きかかえるようにして、アキラは離そうとしない。
とっさのことにどうしていいかわからず、ヒカルもアキラに引き倒されてその横に寝っ転がる格好になったままだ。

「僕じゃ、駄目なんだ…僕なんか、っ…。」

その切ない声を聞いて、ヒカルははっとなった。
アキラの泥酔の理由として思い当たることはひとつ―――竹沢のことだ。
考えてみれば今夜は竹沢とアキラが所属する研究会の日で、おそらく祝いと称して酒が振舞われたのだろう。
いたずら心のある兄弟子に薦められて、アキラも少しだけならとか何とか言いつつ、飲んでしまったに違いない。

あーあ、目に浮かぶようだぜ…まるでお約束じゃないか!…と。
ヒカルは苦々しい想いでアキラを見詰める。
人前では決して失望を見せるものかと、アキラなりに虚勢をはっていたに違いないが、竹沢本人に会って幸せそうな顔を見たら、アキラの中で何か壊れてしまったのだろう。
幸か不幸か、周囲はアキラが酒に弱くて潰れたと思っている筈だ。おそらく、あの芦原ですら真実は知らないかもしれないと、ヒカルは想像する。

アキラの目元は少しだけ赤らみ、目は潤み切っていた。
長い睫毛が震え、瞼が閉じられようとしたり、急に大きく見開かれたり、不安定な様子が続いている。
それは体の不調だけでなく、アキラの心が嘆きに震えていることの証だった…

それなのに。
聞き取り辛い言葉を途切れ途切れに発しながらも、アキラは泣いてはいなかった。
どんな前後不覚の状態でも決して涙だけは零すものかと魂に誓っているかの如く、アキラの目からその潤みが限界を超えて噴出すことはない。

―――ヒカルには、それが何よりも辛かった。

失恋したというのに…いや、はっきりと失恋すらも出来なかったのだろう、アキラは告白も出来ていなかったに違いないのだからそうなのだと思うと、ヒカルはアキラもまた、自分と同じように「早く大人になりたい」と願っていたのではないかと思い至った。
自分が十七歳などという年齢ではなく、男性としても棋士としてももっと成熟しようとしている時期であったなら、竹沢に対しても積極的になれたのに、と。
アキラの心の叫びが聞こえて来るようで、ヒカルは胸を刺される。

「ばっかだなぁ…先生、泣きたきゃ、泣けばいいのに…誰も笑ったり、しないよ。」
「ん…っ…。」
「泣けよ…先生…泣いてスッキリしちゃえって!」

ヒカルはアキラに片腕をあけ渡したまま、もう片方の手を伸ばした。おずおずとその白い頬に、細い顎に、そして小さく痙攣する瞼に触れ、だから泣けよと囁く。

幼い子どもがするように、ヒカルの腕に頬を摺り寄せて頭を不規則に振るアキラの姿は、今まで見たこともなければ想像すらしたことがないものだった。
まだ十七歳。
どんなに早くから大人に混じり、勝負の世界に身を投じ、そこで死ぬまで生き抜くと決めたとて、所詮はまだ少年なのだ。

ヒカルは何故だか申し訳ないような気持ちになった。
どんなに憧れに近いものでも、淡いものでも、誰かを慕うという気持ちは特別なものだ。
周りにいるたくさんの人間の中から、たったひとりだけが他の誰とも違って見える経験は、そう簡単に得られるものでもないし、ましてや他人がそれを軽々しく扱ってはいけない。
自分はアキラの気持ちをちっともわかっていなかった、自分本位でアキラの失恋を喜んでいたのだと、ヒカルは言葉にして整理することは出来ずとも、心の中で詫びたいような気持ちが湧いて来るのを禁じえなかった。

「せっ、先生が泣けないと、俺…お、れ…。」
「ヒカル君?」
「くっそ〜、俺が代わりに泣きたくなるじゃんか!先生が悪いんだ、失恋したらちゃんと泣けよっ!」
「失恋…。」

ヒカル少年の怒りに満ちた顔が自分に向けられているのを見たアキラは、驚いた。
どうしてヒカルが怒っているのか、すぐには理解出来ない。単純に、未成年のくせに飲酒して酔ったことを怒っているのではないような気がした。

それでもヒカルの顔がますます歪んで、その瞳から涙が噴出したのを見た時。
アキラの中で、慣れない酒を飲んですら壊すことの出来なかった頑強な壁に、小さなひびが入ったのは確かだ。
アキラの目はみるみるうちに涙の膜を厚くし、それはやがてツルリ…と、目の縁から涙となって零れ出る…

滑らかな肌を滑り落ちるそれを見た時、ヒカルは涙が生まれる瞬間って綺麗だなと、思わず怒りも忘れてアキラの泣き顔に見とれていた。感動していた。

「ヒカ、ル…く…。」
「先生…の、ばか…ちゃんと泣けるじゃんか…。」
「ん…ご免…こんな酔っ払いで、ご免ね…。」

年上なのにだらしなくてご免ね、と何度もしゃくりあげるアキラを、ヒカルのまだ幼い腕が必死で包もうとする。
アキラもヒカルの柔らかい、お日様の匂いのする髪を撫で付けながら、その温もりを素直に受け取っていた。

…俺なら、絶対に先生を泣かせたりしない!
ずっとずっと、先生の傍にいるのに。先生の望むように何でもするのに。
俺が。
俺が竹沢さんのことなんか、忘れさせてやりたい…そうしたい………

己の無力感と、アキラへの思慕とが大きなうねりを起こし、ヒカルの胸は荒れ狂うばかりだった。



明日の朝。
目が覚めたらきっとどちらも恥ずかしくて恥ずかしくて、今夜のことには触れないだろう。
それはよく、わかっている。
アキラもそうだし、ヒカルもそうだ。二人とも、意地っ張りで負けん気が強い。年の差はあれど男の子なのだ。

それでも今はこうして弱った心を寄せ合って、ひとつの布団にくるまって寝よう…兄と弟が、全てを預け合うようにして―――



二人が初めて本音をぶつけ合ったこの夜から、少しずつ少しずつ、降り積もっていった互いへの深い想い。
それは果たしてどんな未来を作って行くのか、この頃の二人にはまだ何もわかっていなかった。










(第三部に続きます)




NOVEL