― RED (1) ―



















<ご挨拶>

閉鎖された「for one」さんのmさんから頂きました。
あちら様の一万ヒットを踏んだ私が、リクエストして書いて頂いた小説です。
(詳しいリク内容は完結後に載せます)

mさんには言葉に尽くせぬほどお世話になりました。
書かれるお話も、サイトマスターとしての姿勢も、大好きでした。
こんなにも影響を受けた方は他にはないです。

このたび、この小説をこちらに飾らせて貰えることになり本当に幸せです。
たくさんのmさんファンとこの喜びを共有し
また、新たなファンの方と語り合えたらいいなと思いますv

では、↓から始まる切なくも美しい世界を、お楽しみください。



















 見下ろした空の裾は、まだかなり、ほの白くて明るい。
 でも気の早い都会の街は、もう待ちきれずネオンをひとつまたひとつ、ともしはじめている。
 機体は旋回して、少し海のほうに機首を向け、高度を下げはじめた。
 
 窓に頬を寄せて、近づいてくる街の灯をみつめた。
 僕は、変わってしまったなと思う。
 夕暮れの景色に妙に感傷的になって、これから帰ってゆく場所のことばかり夢中で考えている。
 機内のざわめきがこんなふうに暖かく聞こえてくることも、昔はなかった。



「あ、あの緑色っぽいビルの――向こうの角を曲がったところで止めてください」

 タクシーを降りて、時計を見ると5時40分だ。思わず笑みがこぼれてしまって自責する。
 何を喜んでるんだろう、僕は。別に急ぐ理由なんか何もない。思ったより20分も早く着いたからって、どうだっていうんだ。どうせヒカルはまだ、帰ってきてやしない。
 きっと友達と会って、夜中すぎに帰ってくるんじゃないかな。
 構わない。部屋のカギは持っているから、勝手に入って本を読んで待っていればいいし、夕食はお弁当を買いにいけばいいし、あまり遅かったら連絡………いや、知らん顔でベッドにもぐりこんで寝ていてやろう。まさか僕が今日帰ってきてるなんて、彼は夢にも思ってなくて、すごくびっくりするだろう。なにしろ今日の朝まで、韓国で取材されてテレビに出ていたりしたんだから……。
 あ、でも、また飲みすぎて和谷君のところに転がり込んで泊まったり、友達をつれて帰ったりしなけりゃいいけど……。
 いろいろ考えて一喜一憂してしまう自分をつくづくバカだと思いながら、オートロックをキーで開き、エレベーターに乗り込む。しばらくすると到着音が響いて、また心臓が跳ね上がる。
 もしかしたら、やっぱり、部屋にいるかもしれない。チャイムを押して、なんて言おう、つくり声で宅急便だと言ってやろうかな、そうして彼が出てきたら……。



 でも扉がひらいて、夕方のうすむらさき色の空気に身が触れた瞬間、僕の空想は終わりになった。

 うすむらさきの空気を切り取って、ベージュのシフォンのワンピースを纏った女性の姿が彼の玄関のすぐ脇に立っている。僕ははっとして身を固められたように立ちつくしてしまった。



 この女性に会うのは、5年ぶり以上だと思う。3回より多く、会ったこともないと思う。
 それでも、後ろ姿だけで僕には彼女が誰なのか、すぐわかってしまったし、彼女のことを完全に忘れたことは、実はあまりなかった。
 僕が立ち止まってから少しして、ずいぶんゆっくりと頭を廻して彼女は、振り向いた。

「塔矢君……」
 後ろに立っているのが誰か、すっかりわかっていたという調子で、ふりむきざま彼女がつぶやくと、僕はいたずらを咎められた小学生のようなばつの悪さを味わった。
 彼女が夕日を眺めて立っていた場所は、廊下のつきあたり、ヒカルの部屋の脇にある非常階段を2、3段上ったところで、そこに立った彼女の瞳は、僕を少しだけ見下ろす高さだった。それをはにかむようにぐっと頭を垂れて微笑みながら、彼女は階段を下りてきた。柔らかいシフォンの裾が揺れて、足先の細いヒールの、透き通ったようなきれいな赤が目についた。
「塔矢君が来るなんて、知らなかった。……あ、ごめんなさい私のこと、覚えて、ないと思うけど……」
「いえ、覚えてる……もちろん……。藤崎あかり、さん、ですよね。」
「ええ。……うれしい、名前も覚えてくれてるなんて。……」
 そのまま、僕たちはお互いに、どちらが話し出すのか探りあうように目を見交わしたが、僕が言葉を見つけられないでいるうちに彼女がまた、しゃべりだした。



「……私、塔矢君に、5年も6年も会ってないのに、なんだか、足音聞いただけでわかっちゃったの、塔矢君だって。……変ね? 今日来るって知らなかったのに……確かまだ韓国に行ってるって、ヒカルが、……」
「ああ、用事が、思ったよりずっと早く終わっちゃったので……」
「そうなの……じゃ、ヒカルは知らないのね塔矢君が来ること……」
 彼女の言葉が宙に浮いた。
 その時に、愚かしいことに僕は、とっくに気づくべきことにようやく気づいた。ヒカルは今日僕が帰って来るとは夢にも思わずに、彼女を、ここへ呼んだのだ。



 何年も、僕は、初めて知った恋の悦びに夢中になっていて、こんなふうに打ちのめされる気分を忘れていた。

 2年か、3年前だったか、とにかく僕たちが愛し合うようになって1年かもう少しすぎたころ、ヒカルは何週間か続けて約束をキャンセルし続け、僕に会わなかったことがある。
 そのとき彼は、「オマエにちゃんと話しておくけど、」と言って、幼馴染みの女性に「告られた」ことを僕に話した。
 そして、自分の気持ちは変わらないし彼女にはきちんと断ったが、そうかといって彼女のことをこのまま放っておくことはとてもできない、彼女が大丈夫だと信じられるまで自分が支えるしかない、というようなことを言った。

 あの時ヒカルとこの女性の間に何もなかったとは、僕は、思っていない。













毎日のように会っていた僕らなのに、あのときヒカルは2、3週間も僕にほとんど音沙汰なしで、それでもそのあと、何事もなかったように僕のもとへ還ってきた彼に、僕は何があったのか全く聞かなかった。
 あの時も、あれからも、彼の心を疑ったことは一度もなかったけれど、……あの何週間かのことは、真綿でくるまれた刺のようになって、たしかにまだ、僕の心のどこかにある。



「進藤……きみと、約束してるのにまだ帰ってないのかな?」
「あ、……でも、約束は6時だから……早く、着きすぎちゃったの。きっと、買い物にでも行ったんだわ。」
 約束で訪ねてきたのでは、ないかもしれない、そう思ってかまをかけたのに、彼女の答えに僕はまた傷を深くする。平静を装って時計を見る、まだ10分ある。
 逃げてしまおうか。………馬鹿な、何故僕が逃げなければならないんだ。でも、ヒカルがエレベーターを降りてきたら、僕は、どんな顔で彼女とヒカルとの間に立たなければならないのか。それを考えただけで、もう心が決まる。
「じゃ、僕は、……またあらためて来ることにするよ……羽田から近いから帰りに、寄ってみただけだし、別に用事があるわけじゃないんだ、また今度。じゃ……」
「え、帰っちゃうの? せっかく来たのに?」
 彼女は心底びっくりしたようにわずかにこっちに歩み寄りながら言う。
「うん、まあ……」
「でももう6時よ? ヒカル、すぐ帰ってくるわ。塔矢君だって、知ってて、来たんでしょ? 今日、ヒカル、誕生日だって。」



 屈託のない彼女の様子に、もう一度思いなおして彼女を見直す。手に、四角く整った形の紙袋を持っている。小さめのケーキと、なにかプレゼントだろうとすぐに解る。
 でもそんなことより、僕の心を決定的に踏みにじるのは、彼女そのものの存在、夕暮れの中になじむように柔らかく立つ素の姿だ。すこしぽっちゃりした、子供っぽいイメージがあったのに、今の彼女はすらりとして、顔の回りにシャギーを入れたロングヘアがとても大人っぽい。ワンピースはなにか複雑な暗い色がベースになっていて、その上に纏ったベージュのシフォンには、浮き立つように小さな赤い花が散りばめられていた。
 赤いサンダルを履いた足先と、手の爪にもキレイに赤い色を塗ってあるが、それがちっとも派手でなくて、透き通るようなつややかさを湛えている。
 引き裂いてしまいたいほど、綺麗だと思った。



 こういう理不尽な感情と、まったく戦うすべを持たなくて、僕はそこでただ言葉を失った。
 僕が逃げ出したいのは彼女からでもヒカルからでもなくて、自分のこういう醜い感情からなのだろうと思ったが、そうするとどこへ逃げ出しても、それからは逃れることができないわけだった。
「塔矢君?」
 彼女がむしろ僕を励ますように、声をかけてくれたと思ったその瞬間、背後のエレベーターが上がってくる音が微かにして、竦んだ僕の前に、遠慮のない朗らかな到着音が鳴って、ドアが開いた。



 ヒカルは御機嫌で、ドアに押し出されてくるように元気よく廊下に踏み出してきたが、僕の顔を見てびっくりして大きく目を開いて立ち止まる。何か口を開いて言いかけようとしたが、それから目を彼女の顔に目を移すとまた口を閉じた。                      



「うわ塔矢! すげー、びっくりしたぜ! だっておまえ、今日の朝テレビに、」
 ようやく言葉になった彼の声は悪びれたふうに聞こえなかったが、まなざしは僕をちらっと捉えただけですぐに彼女のほうへ帰ってしまう。
「…………ごめん早かったんだな、待たせちまって。ちょっと飲み物が足りないんじゃないかと、急に思ったもんだから。」
 そこで彼女にゆっくり微笑んでみせた彼は、ようやく僕に向き直って言った。「ホントびっくりした。明日まで仕事じゃなかったの?」
 彼は呑気そうに鍵をじゃらじゃらさせて、僕と彼女の間を通り過ぎ、ドアを開けながら、
「んじゃ2人とも入れよ……あ〜やば……塔矢が飲むほど酒買ってきてねぇなあ……」と言って僕を見て笑ったが、そこでようやく僕の目の中に何かを見たのか、う、という表情で唾を飲み込んだ。


「ちょちょちょっと塔矢」
 ヒカルは急にそわそわした様子で僕のほうまで戻ってくると、背中をドアの方へ向かって押しながら、
「オマエなんか勘違いっつーか遠慮してるみたいだから言うけど、オレ今日4人、客呼んであって、……中学ん時の囲碁部の先輩とかなんだけど、違う人もいるから、別にオマエが一緒にいても、オマエさえよければみんな別に、……むしろ喜ぶと思うんだけど。な、あかり?」
「えっ、……あっ、そうか塔矢君、遠慮してたのね、……せっかく来たのにまた帰るなんて言って……あ!じゃ私がひとりで来てると思って……いやだごめん……私ったら鈍くて……もちろんみんな大歓迎だと思うよ。私が言うのも変だけど入って?」
「……っておまえは相変わらずずうずうしいな、もう中入ってんのかよ?」
「なによ1歩入っただけじゃない! だいたいヒカル入れってさっき言ったじゃない!」
「ていうかおまえなんでオートロック抜けてココまできてんだよ?」
「えへへちょうど子供が出てきたからその時一緒に通っちゃった」
「しょうがねぇな〜まぁ子供みたいなもんだからなおまえも……」
 彼らは小突き合って部屋に入っていく。ドアが閉まりかけたところでヒカルがそれを押さえ、廊下に顔を出して真剣な顔で言った。
「塔矢オマエ何だよいつまで突っ立ってんだよっ入れ。入れってば」


 僕は一瞬だけ躊躇した。


 ヒカルが彼女とふたりきりでないのだとしても、彼らの間にはなんとなく僕が入り込めない雰囲気があった。
 それはヒカルが、僕とでは到底作り出せない何かなのだと思った。

 それでも、僕が2人の後について部屋に入って行ったのは、たぶん、自分の動揺を認めたくない、ということでしかなかったんだろうと思う。
 飛び立たぬよう押さえつけていたはずの心を今は重くかかえて、彼女の小さな赤いサンダルから少し離れた場所に、靴を脱いだ。




「うわあすごい眺めね〜! 海よく見える! なんかけっこう立派なマンションね、ちょっとヒカルには似合わない〜!」
 藤崎さんが遠慮ない様子で入っていくと、窓を開けて外に顔を突き出す。
「きゃっすごい風!」
「19階だもん〜開けるといつもそのくらい風吹いてっぜ?」
「洗濯物干せないね?」
「干しちゃいけないんだよ」
「ええっじゃ乾燥機だけ〜?」
「窓際にちょっと干すけど……」
 キッチンから大声を出して、買ってきた飲み物を冷蔵庫に入れながら彼女と会話していた彼は、部屋に戻ってくると僕の顔を見て何気なく、目も合わせずに言った。
「仕事どうしたの? 早く終わったんだ? 明日は?」
「うん……どうせ今日帰れないなら徐先生の所へご挨拶に行こうとだけ思ってたんだけど、キャンセルしてきちゃった……今日の取材がすごく早く終わっちゃったから……そのままあちこち電話してキャンセルしてすぐ空港行って……帰ってきちゃった………」
 僕たちが一瞬だけ視線を絡ませたその瞬間、チャイムが鳴った。
 ヒカルがインターフォンを取ると、「あ、今開けるね、どうぞ」と言う。
 しばらくすると玄関のチャイムが鳴り、藤崎さんもヒカルとふたりではしゃいだように玄関に出ていって、僕はまた少し、取り残された気がした。


「あれっ塔矢くん?」
 にぎやかな挨拶のやりとりが玄関から聞こえた後、背の高い、眼鏡をかけた男性が部屋へ入ってきた。彼はなんだかいろいろ抱えてきた荷物を部屋の隅に置いて、会釈して近寄って来る。髪の長い、控えめそうな綺麗な女性が一緒だ。2人とも僕には見覚えがない。
「塔矢この人ね、中学ン時、……ほらオマエが三将で戦った団体戦さ、あんときに副将だった人。筒井さんていうんだ、覚えてない?」
「ああ! そういえば……はっきりは覚えてないけど……」
「でね、こっちは筒井さんの彼女で、荻原さん。彼女はオレも、会うのたった2度目だけど。」
「よろしく……」
 彼女はそう言ったが、何か言い足りないふうで、もじもじしている。僕が2人に会釈して、促すような視線を向けると、筒井さんが代わりに、
「ああ、彼女は塔矢君のファンなんだ。碁はやらない人なんだけど、ほら、こないだの棋聖戦のテレビ中継、僕が見てたら、この人かっこいい、ってすっかりファンになっちゃって。」
「ごめんなさい本当は碁のことなんて全然、わからないんだけど。」
 荻原さんは慌てて言うと目を伏せる。僕は例によって、いえ嬉しいですとか、普通の方にはなじみの薄い世界ですからというようなことを言って、それからヒカルが座布団をすすめて、5人で座卓についた。
「うわあ荻原さんすごい……これ、手作り?」
「うん、でも、作ったのはサンドイッチだけ………こっちは、買ったのよ。」
「うわあでもこれキレイ……すごくおいしそう!」
 女性たちと筒井さんが包みを開けてきゃあきゃあ言いながらテーブルを整えている間、僕はちょっと探すふりをしながらグラスを出したり、包みを片付けたりした。
 ヒカルがキッチンからピザの箱と、サラダのボウルを出してくると、さっそく藤崎さんが覗き込んで、
「ええっ? 何? このサラダ、ヒカルが作ったの?」
「作った、っていったってまあ、切って混ぜるだけじゃんか〜」
「でもカニ缶とかゆで卵とか、ちゃんと入れてあるじゃないすごいよ〜」
「えへへっ、きゅうりはキレイに切れてないけどな。」
「へえヒカルがねぇ……信じられないな……」
 それから藤崎さんはうしろめたそうにふりかえると、
「これ、ケーキ……買ってきたの……小さいけど、冷蔵庫入れといて。」
「おっサンキュー。」
「それからコレ……ヘタなんだけど作った……あの、ポテトサラダとか、すごくちょっとなんだけど……」
 僕がプレゼントだと思った袋から容器を取り出すと、ものすごく端っこのほうにちょこんと置いた。
 荻原さんが笑いながら、それを中央に出す。
「とってもおいしそうじゃない。そんなに恥ずかしがらなくたって。」
 ヒカルと筒井さんが微笑んで、本当においしそうだとかきれいだとか、口々にほめたので、彼女はますます恥ずかしそうにして顔をそらした。


「んじゃ〜まず乾杯ね。」
「アレ? 彼は? 待ってないの?」
 ヒカルと筒井さんのやりとりに藤崎さんが口をはさんで、
「アイツはねぇ、待っててもムダ。時間どおりになんか来たことないの。今日も7時までは来ないって、賭けてもいいわ。」
「7時〜? ひでぇなそりゃ……そういやこないだも15分くらい遅刻して来たよな。」
「あれはね、すっごくマシな方。それに駅で待ち合わせだったし私もすっごくうるさく言って、アレなのよ。家とか店とかで待ち合わせたら、もう安心して、待たせ放題なんだから。」
「おまえ、もっとちゃんと文句言えよ?」
「言ってるわよ! でも言えば言うほどますますわざと遅れてくるんだってば。わかるでしょ? もうほんっとに扱いにくいんだから……」
 そう言っているそばから、チャイムが鳴った。
「あっ来たんじゃない?」
「えっ……まさか……絶対アイツじゃないよ……10分しか遅刻してないよ?……」
 藤崎さんはぶんぶん首をふりながらそう言ったが、なんだか少しだけ嬉しそうに見えた。
 ヒカルがインターフォンに出ると、眉を上げて目配せしながら、藤崎さんに笑いかける。そして戻って来て僕の隣に座りながら、僕に説明しかけた。
「今来るのがね、……あかりの彼氏でさ……」
 僕はすぐに藤崎さんの顔を見たが、彼女はひどくそわそわして落ちつかなげだ。
 それからまもなく玄関のチャイムが鳴って、みんなの出迎えとともに「彼氏」が入ってきたが、僕は彼の格好をひと目見てすっかり驚いて固まってしまった。













「あれっ………」
 いきなり遠慮のない様子で近づいてくると、その男は僕をためつすがめつしながら言った。
「塔矢……じゃないか……ほんと昔と変わってねえのな、ヘアスタイルも……ええと今、棋聖だっけ? なんだっけ……」
 僕は驚いてしまってどう挨拶していいかわからない。びっくりさせられるのは彼の礼儀知らずな様子だけではない。
 かなり脱色した髪はところどころ長かったり短かったりしており、両耳には2つずつピアスが嵌っている。モノトーンのストライプ模様で織られたズボンの上に、柄あわせで派手な、それでいて色褪せたようなシャツを着ており、どちらも妙な形で僕にはどう見ても古着に見えた。
「あの……」
 まじまじと見られて、どこかで前にお会いしましたっけ、と聞くこともできず、頼るようにヒカルの顔を見る。僕が投げた視線を、しかしヒカルはにやにやして流し、藤崎さんの方へ目をやった。藤崎さんは可哀相なくらい、恐縮している。
「ああ、ごめんなさいね塔矢君。あの、この人まともな挨拶ができなくて。ほら、ねえ、まずちゃんと自己紹介とかしなくちゃ!」
「あ、悪い……ついうっかり……ずいぶん前、囲碁部の大会で会ったことがあるんで、なんだか知り合いのような気がしちゃって。」
 そういうと彼は意外にも赤くなって照れ笑いし、恥ずかしそうに下を向いた。
「こいつがあん時大将だったんだぜ?」
 ようやくヒカルが口をはさむ。
「じゃあ、岸本さんと打ってた……ああ……」
 なんとなく覚えがある気がして、僕は彼のアーモンド型の目を、記憶の中のそれと照合する。
「ちょうど乾杯に間に合ったな三谷。じゃ、座って座って」


 僕たちはグラスを掲げて、ヒカルの誕生日に乾杯した。
「ありがと。イヤそれは別にどうでもいいんだけどさ。まぁ、一人じゃ寂しいんで集まってもらうの今日にしたってのはあるんだけど」
「イヤだなあ進藤君。こんないいマンション借りてて、彼女がいないなんてウソでしょ、普段そんなに忙しいの?」
 筒井さんが苦笑しながら聞くと、ヒカルはグラスに口をつけながら「んん〜まあ……」とお茶を濁す感じで首を傾げて、「そうだなあむしろ最近はちょっと、余裕ないかなぁ……」と言った。
「あっそうか……たまたま今はいないんだ?」
「いや〜、ていうかえっと……まぁいいじゃん。」
 ヒカルはグラスを持ってない方の手を軽く挙げてごまかすと、グラスをおいて箸を取り、食べものの皿をのぞきこんだ。


「うわっこのサラダ!………」
 最初に藤崎さんの持ってきたポテトサラダを口に入れて、ヒカルは箸を浮かせたまま眉を上げて妙な顔をする。
「え? え、え? 何? どうしたの変な味だった?」
 藤崎さんは大慌てで腰を浮かせ、ヒカルの顔をのぞきこんでひどくうろたえたようだった。
 ヒカルは箸を持ってない方の手を、違う違う、というように振ると、サラダを呑み込んで、笑い出しながら、
「ごめんごめん! おまえん家のポテトサラダって、いっつもリンゴ入ってたんだよな。なんかびっくりして、それから思い出しておかしくって…」
「ええどうして〜? リンゴ入ってたら、変?」
「おまえん家だけだよ多分。」
「エエッそうなの?!」
「昔っから変だ変だと思ってたんだけどさ〜、さすがに遠慮して変だとはいえなかったんだよな。でも、今、食ってみると結構美味いじゃん。ていうか懐かしくて笑えるわこの味。」
「うっひっどーい!」
「ほめてんじゃんかよ! ほんと美味いって。」
「ヒカルん家だって夕飯に牛乳飲むじゃないよ?!」
「何の関係があんだよ?!」
「変だ変だと思ってたのよ私も! 給食じゃあるまいし、それに味噌汁と牛乳と交互に飲んだりして!」
「い、いいじゃねえかよもう飲んでねェよ!」
「まぁまぁお二人さん……」
 筒井さんがさらっとした口ぶりで二人のやりとりを止めると、
「僕もリンゴ入りサラダもらうから、こっちも食べて。」
とサンドイッチを皿にとって差し出す。そして僕にも同じように皿を差し出しながら言った。
「そういえば塔矢君、タイトル獲得おめでとう。乾杯するにはちょっと遅いけどね。テレビとか新聞でずっと、見せてもらって。」
「ああ……ありがとうございます……」
 答えながら、僕はまるきり別のことを考えている。
 筒井さんはおそらく、三谷君を気遣って話題を変えさせたのだろう。そしてそれは、実のところ僕にとっても有難い配慮だった。
 ここに2組のカップルがいると聞いたら、その1組は間違いなくヒカルと藤崎さんだと、誰もが思うだろう。
 僕も最初に見た時から思った、顔も、屈託のない笑い方も、すべてが似ていて、絵にかいたような明るいお似合いのカップルだって。
 おそらく何年も、僕といるより長く、同じ楽しみを共有し、同じような笑顔をやりとりしてきた2人なのだ。だから、こんなふうに雰囲気が似てしまったのかもしれない。見るともなく2人の姿を捉えながら、僕はそう思った。

 タイトル獲得について、適当に受け答えをしながら、隣に座っている三谷君のほうもちらりと見る。
 さきほどから、目の前のやりとりについて、彼は何も感じていないように見えた。
 背を丸めて、たいして食事をするでもなく話すでもなく、ときどき、焼酎のグラスをゆっくりと口に運ぶばかりである。
 席も、空いていた藤崎さんの隣に座らず、わざわざ先に別の席に座ってしまって、僕が彼らの間に割り込んだような格好になってしまっている。僕がムリヤリにでも席を替わった方が良かったのだろうか。


 そもそも、藤崎さんはこんな男といて、本当に幸せなんだろうか。













「そうそう! で髪の毛なんかもそこそこきちっとして、なんかサラリーマン×太郎って感じで、……」
「ひ、ひひぃっ……あの加賀が……うひっ……この目で見ないと信じられねぇっ……な、なぁっ塔矢オマエも知ってんだろっ…」
「そんな笑うけど進藤君、加賀はもともと成績よくて、K大だってストレートだよ? あれで間違いなくずっとエリート路線だったんだから。」
「そうよD…だって、すごい一流企業だものねえ。」
「将棋のプロになる気はなかったのかなあ?」
「うん……本当にその気はなかったみたい。僕も何度ももったいないって思ったんだけど、結局そうならない方がよかったんだろうね。彼は案外、プライド崩されると堕ちてっちゃうタイプなんじゃないのかなぁ。自分で、よくわかってるんだと思うよ。」
「オレみたいに打たれ強ければねぇ……」
「本当に進藤君、ムダだムリだって言われても塔矢くん塔矢くん、って言いつづけて、とうとう本当に誰もが認めるライバルになっちゃったもんねえ。」
「ふふ、じゃあそろそろ、対抗してちゃんとタイトルも取ってもらわないとね。」
 僕が口をはさむと、
「なんだよってめーちょっと自分で1つくらい取ったと思って……」。
 ヒカルはちょっとふて腐れたふうをしてみせたが、今期は絶好調で本因坊戦を勝ちあがってきている。実は僕のほうが、冗談を言ってる場合ではないのかもしれない。


「あっそういえばさぁ、三谷〜、ねえちゃんどうしてる? 元気?」
 ヒカルが問い掛けると、三谷君は手にしていたグラスを傾けてからちょっと眉を上げた。
「ああ、アイツな……。アイツ今度、……結婚するらしいな。」
 藤崎さんが呆れてものが言えないというふうで噴き出すと、すぐに声を上げる。
「な、何が『らしい』よ!……バカねえもう、とぼけちゃって……あのねえ、もうこの12月に、結婚式決まってるのよ。で、彼が、……お色直しのドレスをデザインして、用意してあげてるのよ。すっごく、ステキなんだから……」
「えっ用意って?……誰が縫うの?」
「一応彼が……」
「へえ?!」
「三谷君って、そういう仕事なの?」
 僕が聞くと、
「いや」
 三谷君はそこまでしかいわず答えないので、また藤崎さんが、
「まだ美大行ってて……一応ファッション系っていうかテキスタイル?デザインっていうらしいんだけど、布地のデザインとかしてるらしい……」
「ああ、染織……」
「ん〜でも一応全般……」
「来年卒業なんだよな?」
「うん、就職、もう決まってるみたいよ。」
「本決まりじゃねぇよ」
「就職したらおごってもらうんだ。今まではデートっていっても私がおごることの方が多かったんだから。バイトしてたって全部学費に消えちゃうし、今年は学校の課題が忙しいってバイトもあんまりしなくなっちゃってたし」
「就職したらオマエも背広着るの?」
「さぁ? そりゃ着るだろ? おまえだって着てたじゃんか。前新聞で見たぜ。」
「似合わないよねホント2人とも。」
「そりゃ……」
「筒井さんは……」
 ここで三谷君とヒカルが同時に声をあげて、ヒカルだけが後を続けて、
「似合いすぎだよ。塔矢も。三谷に見てもらってもっとドレスダウンしろよ?」
「ええっ……う〜ん遠慮しとく。」
 三谷君の格好を見て僕が言うと、筒井さんも笑って、
「うん僕もムリ。……お姉さんの結婚式のドレスもさ、実は結構過激だったりするんじゃない?」
「そうだな、もしかしてヘソ出させたりしてねーだろうな三谷?」
「してねぇよ!」


 ひとしきり笑った後、話がそこで一段落したので、藤崎さんが三谷君に声をかける。
「ねぇねぇ〜そこにあるブロッコリ入ったの、ちょっと取って!」
 三谷君はめんどくさそうに身体を動かして煮物のパックを取ると、「ほい」と言って藤崎さんの方に寄越した。
「あのさぁ〜これも食べてくれた?」
 藤崎さんは煮物を左手で受け取ると、自分で作ってきた料理の方を右手で差し出す。ふたりの間にいた僕がちょっと身を引く格好をしたので、藤崎さんは「あっごめんなさい?」と言って容器をテーブルの中央に置いた。
「おいしいよそれ。その肉もねぇ……」
「ん〜、だってオレトマトが入ったの、キライだからよ…」
「これは飾りに入ってるだけだから大丈夫なのっ! ほらほら!」
 藤崎さんが血相を変えて食べさせようとするのを見てみんな苦笑したが、その時ヒカルが僕の方を見て、
「だから、塔矢がこっちくればいいんだって。席、替われよ」
と微笑みながら言う。
 僕はなにげなくうなずいて、わざとゆっくり席を立った。
「ごめんね塔矢君……べつに、いいのに……」
 藤崎さんはそういいながらもあわてて立ち上がる。そして、
「あ……」
 と振り向いた。どうやら、バッグを忘れているのに気づいたらしい。一瞬戻って座卓の下からバッグを引っ張り出す。
 左手でバッグを抱えながら、右手で髪をかきあげて後ろへなでつける。とても、女性らしい仕草だ。


「あ……」

 今度声を出したのはヒカルだった。
 僕が見ると彼は眉を切なげに寄せて彼女の顔に釘付けになっている。藤崎さんがびっくりして「なに?」とヒカルの顔を見返す。


 その次の瞬間――ヒカルはすっと引き寄せられるように彼女の顔へ手を伸ばして、その耳に手を触れた。


 立ったまま竦んだ僕のすぐ脇で、さすがの三谷君もぎくりとしたように肩をこわばらせたのがわかった。



「何よヒカルっ?」
 藤崎さんがヒカルの手を払いのけると、思いがけないほど非難に満ちた声を上げた。
 ヒカルはその声に初めて、われに返ったふうで、
「あっ! ごめんっ!」
 ひどく慌てて、彼女から飛びのくように手を引く。
「な、なんか虫かなんか、ついてるように見えて……」
「えぇ?」
 藤崎さんは耳のあたりの髪をぱさぱさと払ってみてから、
「いないよそんなの。まさか、このピアスのことじゃないでしょうね?」
「違……ほんと悪ィ……見間違い……」
 なんとなく気まずい空気が流れ、藤崎さんは眉をひそめたまま、席を立って、僕のいた場所に座りなおした。
 筒井さんが何気なくワインの瓶を差し出し、一瞬ヒカルの方を非難するような目つきで見ていた荻原さんがとりあえず笑顔を作りなおしてグラスを持ち上げた。
 三谷君は相変わらず目をそらしたまま、何も言わなかった。

 僕は、立ったまま少し躊躇した。
 このままヒカルの隣に座るのを心底イヤだと思った。
「虫かなんか……」と言うごまかしの言葉と、吸い寄せられるように彼女を見た目つき、………それを思い出しただけで、燻されるような思いが胸に広がる。冷静に彼らの間に座っていられる自信がなかった。
「あ、ごめん……僕はちょっとタバコ吸ってくるから」
 立ったついで、のようにそう言う。玄関の方へ歩きだしながら、ヒカルがひどく惧れたような目をして僕を見たのを目の端にとめた。


 ごく最近、1日何本かだが、タバコを吸うようになった。タイトル戦や気の抜けない争いがたてこんできて、気分転換がどうしても必要と思ったからだ。そんな時に緒方さんがタイミングよく、リラックスした様子でラークの箱を差し出したりするものだから、とうとう癖になってしまった。
 これについて、ヒカルはいい顔をしない。
「あんまりタバコ臭くなったら、キスしねーからな」とか、「昼メシ食いもしねぇで、身体悪くすっぞ?」とかしつこくしつこく言う。でも多くても1日5、6本だ。もっと吸わない日も多い。そんなにタバコ臭くなるほどは、吸ってない。
 でも今日はつくづく、一箱でも吸いたいと思った。
 ところが玄関で靴をはいていると、またチャイムが鳴るのが聞こえて、インターフォンを取ったヒカルが何か受け答えのあと言うのが耳に入った。
「宅急便だって……ちょっと、待ってて。」
 そうして彼は僕を追うように足早に歩いてきたが、僕は知らん顔でドアを開け、外に出た。しばらくしてヒカルがドアにぶつかるようにしてあわてて、廊下に走り出てきた。

「アキラ!」
 僕はうんざりしながらライターをしまい、それから夜景に目をやって最初の煙をゆっくりと吐き出す。彼の方を振り向きもしない僕を見て、ヒカルはひどく焦ったようすで僕の方へ歩み寄ってきた。
「オレ………」
 ヒカルがそれだけ言ったところで、エレベーターのチャイムが鳴り、ダンボールを抱えて配達の男性が降りてきた。
 ヒカルは恨めしげにそれを見ながら、
「あ、それ、オレです、印鑑もってくるから……」
と声をかけて玄関まで駈け戻る。
 ちらと見ると彼は、玄関の戸をあけたまま、あわてて靴箱の上をかき回しているようだ。

 僕は全然関係ないといったふうで非常階段を上り、踊り場のあたりから夜景を眺めて一服した。


「アキラっ」
 ヒカルは一瞬僕の姿を探して叫んだが、踊り場に僕の姿をみつけると、必死なようすで階段を登ってくる。
 拗ねたように見えるのもどうかと思って一応平静を装って興味なさそうに彼の顔を見た。「何? 何か用?」
 ヒカルは全然平静じゃなかった。
 血走った目で、僕の口からタバコを取り上げると、踏み潰しながら肩を引き寄せ、いきなり両手で頬をとらえて噛みつくようにキスしてくる。
「んっ……や……めろっこんな所で……」
 階段は廊下の角にあって廊下からは見通しがきかないが、ちょうどエレベーターのあたりからはよく見える位置にある。それに上の階からちょうど下りてくる人でもあれば、すぐに見えてしまうことになる。
「離せっ!」
 僕は突き飛ばすようにしてヒカルから離れ、追ってきた彼を睨みつけた。

 こんな場所でという問題だけではない。彼との間に溝ができていることも今は問題じゃない。
 彼が、何の説明も仲直りの努力もなく、ただキスだけで溝を埋めようとしてくる、――その根性がたまらなく嫌なのだ。
 ふたたび触れてきた彼に、あからさまに嫌な顔をすると、彼は激して、僕の手をひねるようにして無理矢理僕の身体を壁におしつけた。
 僕はかっとなった。

 自分でも意識せずしゃにむにヒカルの手をふりほどき、同じ瞬間に彼の頬を平手で打った。













「!………」
 ここまですることは、なかったのだ。呆然となったヒカルを前に、僕は右手を下ろせないまま、声もかけられないままで立ち尽くした。
「う………」
 ヒカルは顔を俯けたままで唸り声を出すと、なにか信じられないといった顔で僕を見て、口をぱくぱくさせる。それからやっとのことで、一言だけ言った。
「こんなことでイヤだ……」
 僕がその顔から目を離せないでいると、彼はもう一度、振り絞るようにかすかな声で言った。
「こんなに簡単に、……こんなにあっと言う間にオレたち……気持ち、離れて……」
「……………。」
 僕は、彼の顔から目をそらし、そっと降ろした右手を力なく身体の脇に添える。掌が燃え上がるように、熱い。


「ムリヤリ抱いたりして、……ごめん………でも、あのときも今も、オマエがめちゃくちゃ遠くにいるような気がして、不安で………。」
 彼の言葉が遠くから、必死に、自分をまさぐる手のように心のなかに触れてくるのを感じる。それに抗うのに僕は必死になる。
 
 赦すものか、もっと焦らして苦しめたい、そんな残酷な征服感と、彼の手をとって流されてしまいたい気持ちとが交錯する。
 キミを信じていいのか、そうするべきでないのか、――それとも信じてなくても、咎め立てすることなくやりすごす努力をすればいいのか。
 そうしたことの全てを、僕は、いつも、僕の気持ちに拠ってではなく、僕のプライドに拠って決めてしまうのだと思う。
 信じていない、でも、そうした全てを気にしていないふりをして、小さなことはどうでもいいという余裕を見せて彼に対している。――対する努力を、している。


「アキラ?」
「……………。」
「うぬぼれなんだろうけど、オマエがオレに会いたくて、早く、帰ってきてくれたのなら、………そうなら、オレも、同じ気持ちだから……」
 彼の真剣な目を見て、またも簡単に陥落しそうになっている自分を自覚する。それを察してなのか、彼がまた畳み掛けるように言う。
「言い訳、にしかならないけど……あかりとは気が合うってだけで全然、そういう気持ちないんだ……耳触ったのはあれは――全然関係ない、違うこと思い出して……昔オレの母親がずっと、アレそっくりの珊瑚の耳飾りしてたのを思い出して……その、ちょっとした思い出があって……それで、……」


 悲しくなった。
 こんなの、嘘だってすぐに判る。
 何も言わないでいてくれたら、よかったのに。
 子供っぽい嫉妬心や、独占欲くらい、ねじ伏せてでもそばにいるつもりなのに。
 キミがみえすいた嘘をついたとたん、そんな嘘に屈服していく自分も、全部薄っぺらに見え透いてしまって、つくづく、やりきれなくなるんだ。


「今日、帰らないでくれるよな?」

 彼の瞳はものすごく真剣だ。
 たぶん、この瞳に抗う気概なんて、今の僕にはもう、ないんだろう。

 それでも、彼の腕の中に飛び込むのに、僕は、きっとまたたくさんの刺を踏んで歩かなければならない。

 こんなふうにしていくつ、彼の小さな嘘を埋めてきただろう。
 彼の思い出――おそらくは昔の恋?に関する嘘、藤崎さんに関する嘘、酔って外泊したりする時の嘘、「佐為」と碁の習得に関するいろいろな嘘、………でも、嘘だとしてもそれはきっと、僕との仲を守ろうとしてつく優しい嘘なのだと信じてやりすごしてきた。
「佐為」に関しても彼は言った。
 ――オマエにはいつか話す、と言ったけれど、その「いつか」はオレが決めることじゃないんだと思ってる。「いつか」は、もっと後で、間違いなく今だ、とわかる形できっと来る。
 だから、そのことについては、待っていてほしい。オマエとは本当にそのことをきちんとわかちあいたいから、どうしても、そうしてほしい。

 そんなのも詭弁だ、と僕は思う。
 言われなくたって、僕が、キミにこうしたことを無理矢理尋ねようとしたことなんてない。
 でも、たぶん、僕たちはあまりに近づきすぎて、プライベートな領域を、お互いに侵しすぎているのだと思う。――無意識な表情や、不用意な沈黙の中までも。


 僕は口を開いた。もう子供っぽい嫉妬なんかしていない、それでもこのことに関してはもう忘れてやりすごしたい、話したくないと僕は思った。

「…………部屋に戻ろう」
「……アキラ……!」
「…………ぶったのは、悪かった。もう別に何も怒ってない。とにかくもう戻らないと、みんなが変に思う」
「そんなこともうどうでも……!」
「…………僕はもう行くよ」


 僕は彼の前を通り過ぎて彼に背を向けた。
 もう何も怒ってないというのは、本当のことだ。けれど、彼がまた嘘をつきとおすつもりなのだと思うと、胸の中がくすぶるように、ただ痛かった。
 藤崎さんに対する嫉妬よりも、薄っぺらな自分に対する失望よりももっと、根の深い絶望が僕の心に巣食っていた。

「珊瑚の耳飾り」に魅入られた彼の瞳は、僕が以前、ある時期に何度も眼にした、あの異様に思いつめた光をはなっていた。

 僕が前を通り過ぎた時に、彼は一瞬僕に手をのばしかけたが、すぐに目を伏せて、またその手を下ろした。
 こんなふうに簡単に彼は、僕をあきらめて、別の人の想い出の中に、すぐ還ってしまうのだ。
 今までもそう思ったことが、幾度もあった。
 降りていく一段一段ごとに、彼と離れてしまう恐ろしさが身を裂くように思えても、それでも僕は一歩、二歩、階段を下りた。









(2に続く)

宝物部屋