― ねこのチョコレート ―
( 1 )
いくつか貰ったチョコレートの包みの中で、それだけが特に目立っていたという訳でもなかった。
変哲のないパッケージに包装紙。赤いリボンはちょっとダサくて今風とは言い難い。しかし、どこからどう見ても、バレンタインのチョコレートという感じである。
それなのに。
ヒカルはそれを手にした瞬間、何故だか不思議な感じがすると思った。
(あれ…何だろう、これ…この、違和感…)
(あ、そうか!これ、手作りなんだ…だからラベルとか一切なくて、感じが違ったんだ)
納得したら安心出来て、ヒカルはその包みを開けた。
箱の中には、手の平に乗るくらいのチョコが三つ。それも、ちょこんとお坐りをしている猫の形をしていた。
…わ、可愛いじゃん?と、ヒカルは思わず声に出して言う。
見ると小さなカードが添えられていて、そこには不思議なメッセージが―――
猫になりたくなったら 一粒どうぞ
好きな人も猫にしたくなったら 口移しで一粒あげて
一日経ったら元通り
二人で もいちど猫になり 猫の世界へ行きたくなったら
最後の一粒 半分こ
(へ〜…このチョコ食ったら猫になるってこと?はっはっは…面白れ〜。こういうの送ってくる子って、ユーモアがあるなぁ…。ん、よっしゃ、折角だから食ってやろうじゃねーの、猫になってやろうじゃねーのっ!)
ごく、軽い気持ちだった。
ヒカルは猫の尻尾の辺りを指で摘むと、あーんぐりと口を開けて放り込む。齧るのは何故だか可哀想な気がして、それならいっそ一飲みで…と思ったのだ。
むぐむぐと頬張る。
口内の熱に溶かされ、たちまち形を崩していくチョコレートは、舌に纏わりつき…僅かだが、ヒカルは痺れを感じた。
(あ、れ…にが…チョコなのに変だ…って、やっぱマズかったかな…誰から送られたかわかんない手作りチョコを食べるなんて…わぁあ、塔矢に怒られそう、君はどうしてそんなにいい加減なんだって…)
ヒカルの脳裏に、アキラの顔が浮かぶ。
綺麗な顔だと思う。
男にしては肌の肌理も細かく、白い。取り囲む絹糸のような黒髪が似合い過ぎて、嫌味なくらいだ。
その塔矢アキラの部屋で、ヒカルは電話の為にアキラが中座した隙に、本日の戦利品とも言うべきチョコレートの山から一つを抜き出したのだ。
もうすぐ、アキラが部屋に戻って来るだろう。
それまでにこのチョコの箱は隠してしまおう、そうしなくっちゃと、ヒカルは慌ててポケットに押し込む。
しかし―――その時には既に、コトは起こっていた。
体の力が急速に抜けていく。視界が狭まる。暗くなる。
意識がなくなる前、最後にヒカルがしたことは、アキラの名前を呼ぶことだった。
「進藤、ご免、待たせたね。ちょっとこみ入った電話で…ん?どこに行ったんだろう。トイレかな。」
まあ、いいか、今夜はゆっくり打つ約束だから、と、アキラは呟いた。
その顔は、嬉しそうだ。余り人前で笑ったりしないアキラの顔が、ほんわりと緩んでいる。
―――今日はバレンタイン。二人は十八歳というお年頃を迎え、棋士として人気、実力ともつけつつあった。
当然、棋院宛てにチョコレートが届く。待ち伏せされて渡される。
そうやってヒカルもアキラも、そこそこの数のチョコレートを手にしていた。
二人は棋院である若手の勉強会に出て、それから連れ立ってアキラの家へとやって来た。
まだ、バレンタインを過ごす特定の相手などいない。互いにそれがわかっているからこそ、今日という日に、簡単に誘い誘われることが出来るのだった。
明日は互いにオフだからゆっくり打とうということになって、早速碁盤を出した。
しかしヒカルは、自分よりもたくさん貰ったらしいアキラの袋が気になって仕方がない。なあなあ、お前いくつ貰った?見せろよ〜、美味そうなのあったか〜と、しつこく言うのを一喝すると、アキラはさっさと打つぞと言い放つ。
丁度その時、電話が鳴ったのだ。
失礼…と、ヒカル相手にも丁寧に断るアキラが、彼らしい。
ところが戻ってみると、その場にヒカルはいなかったのだ。
すぐにアキラは、妙なことに気付いた。ヒカルがいた辺りに、ヒカルのジャケットはいいにしても、ヒカルの着ていたらしい服がごっそり落ちている。まるで、抜け殻のように。ヒカルの体だけが、そこから消えてしまったみたいに。
不審に思って近寄ると、アキラはそこに蠢くものがあるのを見つけた。
「ぅあっ!何だっ!」
飛び退るアキラ。しかし、視線はそこに釘付けになったままだ。
ヒカルの服が盛り上がり、その下からごそごそと這い出して来たものは。
猫だった。一匹の猫が、そこにいた。
柔らかいはちみつ色の毛並みも美しい、トラ縞の猫だ。
「なあんだ…猫じゃないか…はは、びっくりさせるなぁ…って、どうしてここに?」
突然現れた見慣れぬ猫に、再びアキラの疑惑は深まる。
玄関は閉まっている。二月の寒さで窓を開ける筈もない。
じゃあ、一体この猫はどこから入って来たんだろう?…進藤が戻って来たら、それもわかるのだろうか。
でも、ここに彼の服が脱ぎ捨ててある。まさか家主の僕に断りもなく風呂に入ったりもしないだろうし…トイレに行くのに裸になるクセなんて…なかったよな?
こんなことは今までなかっただけに、アキラは戸惑いを覚える。
アキラがぐるぐると考え込んでいると、猫がにゃあ…と鳴いた。力のない声だ。どことなく哀しげな表情で、アキラを見上げている。
アキラはヒカルを探しに行きたい衝動を抑えて、その両手を猫に向かって伸ばした。
猫を抱いたことなど記憶にないから、どうしていいのかわからない。わからないが、それでも目の前の猫を無視することが出来なくて、アキラの体は自然に動いた。
にゃあ、と。再び猫が鳴いた。
鋭い、ケモノの歯が見える。鬚がふるり…と揺れた。
(塔矢っ!)
…え?
アキラは誰かに呼ばれた気がして、振り返る。辺りをぐるりと見渡す。
しかし、その声がどこからしたのか、或いは、声は本当にしたのか…
わからないまま、アキラは立ち尽くす。
にゃあ、と。
三度目に鳴いた時、猫はアキラの腕の中にいた。
猫はおとなしかった。アキラの腕の中で、小さく震えている。子猫というには大き過ぎるが、成猫というには余りにも頼りない感じだ。
アキラは初めて抱く生き物の感触に、ドキドキしていた。
へえ…こんな感じなんだ、猫を抱っこするって、と。
猫を抱く腕や胸だけでなく、心まで温もっていくような気がする。
いつもの習慣で正座をして坐るアキラに恐る恐るながらも優しく抱っこされて、闖入者であるところの猫は次第に震えもおさまって来たようだ。
慣れていなくとも、アキラが決して己に悪意を持っているのではないということは猫にもわかるのだろう。
アキラはその温もりや、リアルな感触に心を奪われた。ヒカルの突然の消失など、どうでもよくなっている。
…いや、正確にはそうではない。どうでもいいのではない。
ただ、ヒカルがいなくても無用な不安を感じる必要はないと、アキラはそう思っているのだ。
彼は戻って来るに決まっている。そこに着ていたものがあるし、荷物だってある。
何故なら、アキラは知っていた。知っていることをヒカルには絶対に言わないが、でも、知っているのだ。
ヒカルには携帯よりも何よりも、大事にしているものがある。それがこの部屋にある限り、絶対に戻って来る。
それは確信だった―――アキラは、ヒカルのデイパックの半開きになった口から、白い扇子が覗いているのを見つけたのだ。
進藤があの扇子を置いたまま、どこかに行ってしまうことはないからね…猫ちゃん…
僕はここで君を抱っこして、彼を待っていればいいんだよ…
アキラは心で呟いて、腕の中の猫を撫でた。頭を、首筋を、それから背中を。
最初はおっかなびっくりだった手付きも、ほんの数分で堂々としたものになりつつある。
不思議だと思った…
この猫に会ったのは勿論初めての筈なのに、昔から知っているような慕わしさがある。どこにでもいそうな猫だからだろうか。
その辺の塀の上を、悠然と歩いている野良猫なのかもしれない。近所で何度もすれ違っているのだろう。
「それにしても進藤、遅いなぁ…打つ時間が減っちゃうじゃないか。それとも今夜は泊まれるのかな。…あ、だったら晩ご飯もどうにかしなきゃ。チョコレートが夕飯なんて嫌だからね…。」
最後は、猫に向かって話し掛けていた。我知らず、微笑が浮かぶ。
猫も想像以上に可愛かったが、ヒカルが泊まっていくだろうと思うだけで、アキラの胸は素直に躍った。
そしてアキラは、ヒカルを探しに行こうと腰を上げた。その腕に猫を抱えたままで。
しかしその晩、アキラはヒカルを見つけることは出来なかった。
その代わり。アキラはその初対面の猫と、一晩過ごすことになる。
それはアキラにとって、不思議なバレンタインの夜になった―――
(いったい全体、どうしてこんなことになっちまったんだよぉ…)
ヒカルは叫んだ。心の中で。
どんなに声を出そうと頑張ってみても、出て来るのはただ「にゃあ」という短い声…いや「鳴き声」だけだ。
言葉を喋ってるつもりなのに、言葉にならない。そのもどかしさと言ったらなかった。
ヒカルにはわかっていた。さっき、あの手紙を読んだせいもあったが、自分の身に起こった変化は圧倒的な力によるもので、これが尋常ではない状況だということは、嫌でも体に教えられる。
信じたくはなかったが、目に映る己の体の一部を見るだけでも、鳴き声を聞くだけでも、ヒカルは認めざるを得なかったのだ―――自分が今、「猫」であるという事実を。
声だけではなかった。体の感覚もすっかり違ってしまっている。あちこちに違和感があって、四肢が思うように動かせない。
最初は重たい洋服に埋もれていたせいもあったが、そこから這い出してもやっぱり思うようにはいかなかった。
…しかし。アキラが手を差し出してくれた時。
その腕に吸い寄せられるかのように、ヒカルは体を伸ばした。
すると嘘のように全身が伸び上がり、前足と後ろ足とが跳躍の為にうまく連動した。
その瞬間の軽やかさと言ったら!
重力から放たれる、まるで魔法にかけられたかのような一瞬。
初めて経験する感覚に、心まで躍る。
驚いているうちに、はっと気が付けばアキラの腕の中だ。
(わ、あぁ…俺、今、飛んだ?なあなあ塔矢、俺、飛んだよな?猫みたいに飛んだよなっ!)
にゃあにゃあにゃにゃああぁぁん…
「わ、猫って…あったかいなぁ…ん〜、もぞもぞする…はっは…ちょっと静かにして。くすぐったいよ…ぅふ…。」
アキラはぎこちないながらも必死で猫を落とさないように、腕の中に包み込む。
猫…もといヒカルは、自分が今、誰の腕の中にいるのかを改めて意識した。
(俺、塔矢に抱っこされてる…これ、塔矢の腕と胸、なんだ…。)
途端に、胸の奥底からぞぞーっと震えが広がった。
嫌悪でも、恐れでもない。しかし、喜びかと問われれば、それも少し違うような気がする。
人間のままの自分では絶対に味わえないであろう感覚が、ヒカルを満たした。
(塔矢の、胸…わっ、ドクドク言ってる…心臓の音って、耳をくっ付けるとこんなに大きく聞こえるんだ…すげ…)
アキラの体温。アキラの鼓動。アキラが声を発するたびに、触れ合った腕や胸から伝わって来る、心地良い振動…
猫であるが故に、それら全てが鋭敏なケモノの五感に、一層鮮やかに訴えて来るのだとまでは、ヒカルは気付いていなかった。
意外なほど、急速に馴染んでいく…猫である自分に―――
(しょうがねえや…あの手紙が本当だったから、俺はこうして猫になっちまったんだよな。だったらさ、手紙に書いてあったみたいに、これが一日限りだってことも、きっと本当なんだろう)
本当だと信じるしかない。それ以外、道はない。
己が猫にさせられたという事実が、皮肉なことにヒカルにとって一縷の望みとなったのだ―――
そもそもヒカルは佐為とともに過ごした経験がベースにあるからこそ、こういう不思議な現象を受け入れる土壌があったと言える。
しかし、アキラは果たしてどうだろう…
ヒカルが気になるところも、アキラがこの異常事態をどう受け止めるかであった。
下手に騒がれてもまずい。明日になって元の姿に戻れるのであれば、ことを大きくしたくない。
確かにアキラは、いくら待っても戻って来ないヒカルを気にしている様子だった。時間が経つにつれ不安も募って来るようで、腕に抱かれたヒカルにも、そこはかとなく伝わって来る。
アキラは、まずはヒカルの自宅に電話してみようかと考えた。
しかしヒカルが居たら居たで、どうして服や荷物をごっそり置いて帰ったのか聞くのも何だかな〜と躊躇われる。
キッチリと正座のままで猫を抱き、ひたすら頭を撫でた。
一定のリズムで撫で続け、そして頭ではヒカルのことを考え続けた。
いつしか猫は、アキラの膝の上で寝そべるような姿勢になっていたが、それでもアキラの手は優しく、ゆっくりと、猫(つまりヒカル)に安らぎを与え続けた…
もしも。誰か他の者がこの光景を見たならば、アキラと猫は小さい頃からの飼い主と飼い猫にしか見えなかっただろう。
不可思議で、それでいて穏やかな時間が二人の上を過ぎて行き…
ようやく、アキラは結論に達した。
そのうちヒカルはひょっこり戻って来るかもしれないし、電話がかかって来るかもしれない。仕方ないが、今夜は様子を見ることにしようと。
さて、何事かを決めたアキラは一切迷わない。明日まではヒカルを待つと決めた以上、くよくよ考えないことにする。
どうやらアキラがむやみやたらに取り乱したり、騒いだりしないようだと見て取り、ヒカルも安心する。
扇子があるから進藤は戻って来る―――そこまで断言されるに至っては、心から嬉しかった。
こういう状況下で奇妙と言えば奇妙なことだが、アキラの自分に対する信頼と理解の深さに対して、感動すら覚えていたのだ。
アキラに撫でられるのも、ヒカルにとって至福だった。こんなに気持ちのイイことは久しぶりだ…って、いつ以来だろう?
…ああ、そうだ…昔、佐為がいた頃。
佐為は、ヒカルにじかに触れることは出来なかったが、時折り空気を揺らしては、ヒカルを風のように撫でてくれた。
転寝をしようとしている、うららかな春の日の昼下がり。
ヒカルの頬を撫でては、ヒカル、頑張ってますね…お疲れ様…と、囁いてくれたのが、まるで子守唄のように聞こえ…
安らかな眠りに落ちて行った日のことが思い出されて、懐かしい。
にゃうん…にゃご…ごろごろ…
「気持ち良さそうだなぁ…慣れてないから、ちゃんと出来てるのかわからないけど…でもお前を見てると、これでいいのかなって…ちょっと自信がついたよ。…ね?本当に気持ちいいかい?」
(うんうん…すっげ、気持ちいいよおぉ、塔矢…お前、猫触るのホントに初めて?それとも…お前に触られて俺が舞い上がってるだけなのかなぁ…)
「でも、猫の世話なんてどうしたらいいんだろう?緒方さん…は、熱帯魚を飼ってるから猫は苦手だろうな。…あ、そうだ!芦原さん、実家で猫飼ってるって言ってなかったっけ?ちょっと電話してみようか。」
(え〜、誰か他のヤツなんて呼ぶなよぉ…もっとお前と二人でいたい…)
今度はアキラの膝の上で、いつしか寝転がって白い腹を見せるヒカル。
背中をアキラの温かい膝に擦り付けながら、宙をかくように手足を動かす。
アキラは珍しいものを見るように、足裏の肉球を見詰めた。
やがて我慢し切れなくなったのか、人差し指を恐る恐る伸ばし…
…ちょんと。アキラの指先が触れて、ヒカルはまたにゃあ、と鳴いた。
「へえェ…足の裏って面白い…うわ、弾力あるなぁ…ふふふ…もしも君が打てたなら、この足で石を置くのかな?…なーんて、それはいくら何でも無理だよなあ…。」
(あ、そっか…俺たち、今から打とうってところだったんだよな。塔矢…打ちたいのか?)
しゅた…と身を翻し、アキラの横に立った。こんな身のこなしも今のヒカルには難なく出来てしまう。
(もしも俺がここで打てたら、お前、俺のことわかるかな?俺が進藤ヒカルだって気が付いてくれるかも…)
「どうした?猫ちゃん…。」
訝しげなアキラをよそに、ヒカルは碁笥に突進する。
じゃら…と、その中に手を…正確には前足を突っ込むと、石を掴もうとする。必死で、掴もうとする…
「こらこら、駄目だよっ!それはおもちゃじゃないんだ、遊ぶんじゃない。」
(違うっ!俺は打ちたいんだって!遊んでるんじゃねーよっ!)
ヒカルがいくらにゃごにゃご訴えても、所詮、アキラには通じない。
更に猫足では、石を掴むことすら到底無理だ。
(せめて…せめて石を代わりに置いてくれたら…なあっ!塔矢、俺、置くとこ言うから…お前が代わりに…)
どんなに焦っても、アキラは眉をひそめるばかりだ。
ヒカルは碁石を諦めて、碁盤へと走る。今度は片足を碁盤に掛けて、がりがりと引っ掻いた。
いや、引っ掻いたつもりはなく、ただ、石を置けとアキラに言いたかったのだが、アキラからすればただ猫が碁盤にいたずらしているようにしか見えない。
「あぁ、今度は碁盤に…こらこら、どうして急に昂奮したんだ?何か僕がいけなかったのか…。」
アキラは叱るというよりも、困惑していた。
ヒカルの代わりに現れた猫と、うまくやれそうな気がしていたのに。
ヒカルが戻って来るまで、この猫が傍にいてくれそうな気がしていたのに。
哀しそうな顔を見せられては、ヒカルもどうしようもなかった。
…碁盤から手を離し、アキラを見上げる。
にゃあと鳴いたヒカルの声音に、アキラは謝罪の色を感じたのように安堵した。幼い者に語り掛ける時のように、小首を傾げて微笑む。
全く…お前はいたずらっ子だなぁ…ホントはまだ、子供なのかな…と。
独り言を言うアキラは、お前の方こそ今日はやたら幼く見えるじゃんかと、ヒカルに猫語でにゃにゃにゃ〜んと返されたのだった。
(しゃあねえなぁ…打つのは諦めるか…そのうちチャンスはあるかもしれないしな…)
ヒカルはまた、アキラの膝に乗せて貰おうと寄って行った。
しかしその時、アキラの視線がヒカルから逸れてある一点に向かった。
アキラは、ゆっくりとそこへ近寄る。そこ…とは、部屋の片隅。ヒカルの荷物が置かれた場所。
アキラはその前に跪きしばらくじっとしていたが、ヒカルがその足に身を擦りつけると、ちら…とこちらを見た。ヒカルを安心させるみたいに、もう一度微笑む。
…やがて、黒髪をひるがえした。
「ちょっと覗くくらいなら…いいよね。…えっと、失礼…。」
(塔矢?お前、何してんの?それ、お前のじゃない…俺の貰ったチョコの袋…)
ヒカルはアキラの行動をただ、呆然と見ていた。
その目の前で、アキラは棋院で用意された紙袋の口を広げ、覗き込む。
それから手を突っ込んで、中の箱を確かめ始めた。ごそごそと音がする。
(一体…どうして俺の…。)
にゃああぁ〜〜〜ん?
「あっ、ち、違うよっ!違うんだ、これは…あ、お前、僕のことを疑ってるの?…あのさ、僕は別に泥棒しようとかそういうんじゃないんだ…チョコが好きな訳でもないし…。」
アキラはヒカルの鳴き声に、詰問されるようなニュアンスを感じたらしい。それは言い換えれば、アキラの中に罪悪感の芽が潜んでいる証でもあった。
―――そう。アキラは確かにヒカルが貰ったチョコレートを盗もうなどと、子供じみたことを考えていたのではないようだ。
それが証拠に、一通りチョコレートの外装を確かめた後は袋を元の場所へと戻した。
(塔矢…じゃあお前、いったい何をしたかったんだ?)
「見逃しておくれよね…何も悪いことしようっていうんじゃないんだ…ただ、進藤がどんなチョコを貰ったかなって気になるんだ…もしも…本命っていうの?そういう感じのチョコがあったらさ…やっぱり…………嫌だし…。」
(…え?)
みゃうん?
「はは…馬鹿だよね、僕…こんなこそドロみたいな真似…いや、だからチョコを盗もうっていうんじゃないけど…でも、黙って中身を調べるなんて…もっと卑怯かもしれない…。」
アキラは、力が抜けてしまったみたいに背中を丸め、その場に座り込んだ。
普段のアキラらしくない姿に、ヒカルも戸惑う。
(塔矢…どしたの?お前、さっき、何をしたくてあんな…何を言いたくて…お、俺、わかんねえ…)
猫のヒカルは、アキラの手の甲を舐めた。
特にそうしようと意識した訳ではなかったが、これも猫の本能なのか、自然と舌を出してアキラの肌に押し付けていたのだ。
アキラを振り向かせたかった…もっと、話して欲しかった…
気持ちが溢れても言葉に出来ないのなら、こうするしかない―――ケモノのヒカルには。
ざらりとしたケモノの舌に不意に舐められ、アキラは身震いする。
「あっ!お前…っふ…こら、舐めるな…って僕のこと、慰めてくれるみたいだなぁ…ふふ…く、くすぐったい、よ…。」
(だってだってお前…どしちゃったんだよぉ…なあ、話してよ…何で俺の貰ったチョコ、気にすんの?)
―――何でお前、そんな淋しそうな顔、すんの?
にゃうにゃうにゃあぁぁん…
ヒカルは舐める。何度も舐める。アキラの手の甲を。白い、滑らかな甲を。
そしてそこから伸びる、綺麗な指を。碁石を掴む指を。
ヒカルをどこまでも魅了して止まない、輝く一手を放つ指を―――
くすぐったそうに身を捩りながらも手を引っ込めないのは、アキラも実は嬉しいのかなと、ヒカルは必死で初めての行為に没頭した。
「進藤が、悪いんだ…。」
(っへ?)にゃ?
頭上から低く、小さな声が降って来て、ヒカルは動きを止めた。
「進藤が悪いんだ…ここにいないから…僕の前から、いなくなっちゃうから…チョコの入った袋なんか置いて…だから僕…我慢出来なくて…。」
…みゃうん?
ヒカルの舌から解放されたアキラは、手を引いた。まだ濡れているだろうそこを摩りながら、ヒカルを見下ろす。
その瞳には、ヒカルが今まで見たことのない色が浮かんでいた。
何かとても大切なことを言いたい…さきほどの自分のように、溢れそうになる気持ちが瞳を揺らしている…
ヒカルは鳴いた。アキラを促すように。
にゃああぁぁ…ん…
「ふふ…お前に鳴かれると、何だかもっと独り言、聞いて欲しくなる…いいの?お腹すいてないかい?僕とこんな風に一緒にいて、お前、少しは楽しい?」
(あったり前じゃん!俺、俺、お前とだったら猫でも何でもいいの…)
アキラはヒカルを抱き上げた。そっと、壊れ物を扱うように優しく。
しかし―――ヒカルは、不思議な感じがしていた。
人間であるアキラが猫のヒカルを抱いているのに、自分の方が弱っているアキラを包んでいるような、そんな感覚だ。
まるで抱き合っている…そんな、幸せな感覚だ……
「ああ、駄目だ駄目だっ…ずっと言っちゃいけないって我慢して来たのに…こんな、ちょっと口にしてしまうだけで…誰かに話したくて…聞いて欲しくて…耐えられなくなるなんて…僕は何て、弱い…。」
アキラの腕に力がこもり、ヒカルは苦しさのあまり、にゃんっ!…と短く鳴いた。
「お〜い、アキラ、来たよ〜。」
「あ、芦原さんだ。…ちょっと待ってて、猫ちゃん。」
…にゃあぁん?
結局、アキラは芦原に電話を入れて猫の世話についての助けを求めたらしい。
ヒカルが消えたことについては混乱を招いてもいけないと一切語らなかったので、ヒカルの荷物も服も全部押入れに片付けてしまう。
これで進藤がずっと出て来なかったら…荷物もなくて、手掛かりもなくて、本当に失踪になっちゃうな…と。
荷物を押入れに隠す時、アキラの胸はチクリ…と痛んだ。
…失踪…進藤が…
自分で呟いた言葉に、逆に切り込まれるようだった。
しかしその不安を掻き消すように、アキラは勢い良くふすまを閉めて、背後の猫を振り向いた。
その、人間で言ったらキョトン…としたあどけない表情に和み、アキラは微笑むのだった。
「大丈夫…進藤は絶対に出て来る。扇子の話はしたよね?あれは進藤が凄く大事にしているものなんだから。それに…この道を行くって…僕の後を追うってずっと前に宣言したんだ、彼は。今日だって打とうって…久しぶりだから凄く楽しみにしていたんだ。…あ、いや僕だけじゃないよ?進藤だって…嬉しそうに言っていたからさ…。」
猫相手だというのに、つい、考えていることを声に出して言ってしまう。それは、目の前で小首をかしげているこの猫が、自分の言葉を理解しているように見えるからだ。
いや、少なくとも理解しようとしているかのように、正面から見詰めてくれるからだ。
不思議だ…猫って…こんなに真っ直ぐに人間と向かい合うものなんだろうか…目と目がしっかりと合うものなんだろうか…
一度も飼ったことがないから、わからないや…
…うん、これも芦原さんに訊いてみようっと!
アキラは猫に手を伸ばす。
するとその手に招かれるのを待っていた猫は、しなやかな動きを見せ、音もなくアキラの胸に飛び込んで来た。
生き物のリアルな感触と温もりが、アキラの腕の中にあった。
…しかし。どうしたことか、芦原の足音が近付くと、猫ヒカルはソワソワと落ち着かない気分になって来た。自分のテリトリーに誰かが入って来ると思うだけで、それは言いようのない不安と混乱を巻き起こしたらしい。
アキラの腕は、本当に心地良い。
それでもヒカルは、芦原の気配を間近に感知すればするほど我慢が出来なくなり、遂にそこから飛び降りる。
自分の身長よりもうんと高いところからなんて、人間であれば躊躇するところだが、今のヒカルにはへっちゃらだ。
シュタ…と、軽い音をさせてヒカルは畳に降りると、アキラを振り返る。
「あっ!どうしたんだ、お前…芦原さんは猫に慣れていて優しい人だから、大丈夫…………え…し、しんど…?」
ふと―――
猫の瞳にヒカルの瞳が重なる。目の前で猫が振り向いた瞬間の様子が、アキラにヒカルのことを思い起こさせる。
それは、首だけを斜め上に捻ってこちらを見上げる格好で、人間のヒカルがアキラの元を去る時にも、よく見せるポーズであったのだ。
(進藤も、よくこんな風に首だけ回して僕を振り返ることがある…いや、必ずと言っていいほど、別れ際にはこうやって僕を見る…)
このところヒカルは、アキラとの別れ際に去りがたい気持ちが募ってしまい、つい、振り向いてはその顔を見るのがクセになっていた。
そして、アキラの「どうしたんだ?」と問い掛けるような表情にぶつかると、ドギマギする気持ちを抑え、「何でもねえよっ!」と、声ではなく態度で言い捨ててから、背中を見せるのだ。
そんなことが何度も続くと、習慣化してしまう。
ヒカルが自分の元を去る時には、必ずするその「振り向く」という仕草を見せられ、アキラの中のヒカルの存在に再び焦点が合ったのだろう…
アキラは思わず、猫の目をじーっと覗き込む。
猫も、アキラの目を見返す。
だがしかし。そこには、灰色がかった深緑色の猫特有の色が、静かに、毅然と、揺れているだけだ…
もの言わぬ猫と、アキラと。視線を結んだまま、二人は…いや、一人と一匹は動けなくなってしまった。
「お〜い、いつまでも開けてくれないからカギ、使っちゃったよぉ…。」
はっとなる。玄関の方から聞こえて来た声に、固まっていた視線がやっと断ち切られた。何かあった時の為にと塔矢家の合いカギを持っている芦原が、ズカズカと部屋へ入って来たのだ。
辺りの空気が一変する。
「芦原さん!ご免ね、急に呼び出したりして…しかもこんな日に…。」
「いやいや〜、どうせ暇だったしいいのいいの。バレンタインつっても彼女持ちじゃない野郎には関係ないって。…なあ、それよりその迷い猫は?どこにいるの?」
「あ、それは…ん?…あれぇ…。」
「どうした…もう逃げちゃったの?」
アキラは猫を探すが、見当たらない。慌てて家中を走り回って探すが、見つからない。
普段のアキラからは考えられない慌てぶりに、芦原も一緒になってにゃあにゃあ猫の鳴き真似を織り交ぜながら、声を掛ける。
今度は、そういう芦原の様子を不思議そうにアキラが見る番だった。
「…ねえ、芦原さん。その鳴き真似って…猫を誘い出すのに効果あるの?」
「え〜、わかんないけどさ、実家で猫が見当たらないとよくこうやって呼んだりしてたからさ〜、ちょっとは警戒を解くんじゃない?」
「そういうものなの?ふうん…。」
「あーっ、俺の言うこと、信用してないな?アキラもやってみろよ、効果あるかもしれないじゃん。」
「え、え?そうかな…う〜ん、じゃあ…っとぉ…………にゃあにゃあにゃあ〜、出ておいでよ〜、猫ちゃん…にゃにゃあああん、怖がらなくていいよ〜…みゃう〜ん。」
「お、いいぞいいぞ〜、その調子だ、アキラ!」
芦原に促され、アキラも意を決したように猫の鳴き真似をしてみたのだが…
…うん、一度やってみたら案外恥ずかしくないじゃないか…と、アキラは思うのだった。
照れ臭そうに、でも、一生懸命鳴き真似をするアキラ。
これが本当にあの塔矢アキラだろうかと誰しも疑うような姿を、高いところから見ている二つの瞳があった。
(…と、塔矢が猫の鳴き真似を?…う、そ…マジかよ…お前、そんな可愛い顔して猫の鳴き真似…それも俺を探す為に…有り得ねえ…有り得ねえよっ…は、鼻血出そう…)
当のヒカルは箪笥の上、小さめのダンボール箱の陰になる場所に、身を潜めていた。芦原が近くに寄って来ると、どうしても落ち着かなくなり、その場所から様子を伺っていたのである。
「にゃあにゃあ〜ん…どこにいるんだ?もう、もう…いなくなっちゃったのかな…みゃうみゃう…。」
アキラの声が次第に力を失い、寂しげになっていく。
いつまでも、アキラのにゃあにゃあと甘えるような声(…ヒカルにとってはそう聞こえるらしい)を聞いていたいと思いつつも…
やっぱりアキラが可哀想に思えて、ヒカルはとうとう応えることにした。
「にゃあああん…。」(塔矢ーっ!俺、ここここ、ここにいるってば…)
「あっ、ああっ!いたいたっ!こんなところに…芦原さん、いたよ。ほら、箪笥の上。…見てっ!」
アキラがヒカルを見上げた瞬間の顔を、ヒカルは一生忘れないと思った。それは―――まばゆいばかりに咲き誇る、花のような笑顔だった。
「ああ、本当だ、あんなとこに…ん〜、首輪はないみたいだからよその飼い猫じゃないんだろうな。でも降りて来ないね。やっぱりヒトに懐いていないのかな?」
「え…でも、僕にはおとなしく抱っこされたよ。僕の手だって舐めたんだよ。」
「そう?そうだよな、だって逃げ出そうと思えば、俺が玄関開けた時に飛び出して行けただろうし。」
芦原は、こっちを見下ろしてはいるものの、一向に降りて来ない猫、つまりヒカルに向かって首を捻る。
横にいるアキラも心配そうな表情をしている。
「アキラ、あのさ…実家にいるうちの一匹は捨て猫でさ、どうも人間に酷い目に遭わされた経験があるらしくって、家族以外には姿を見せないんだよ。そういう神経質な猫もいるから…あれはあれでそっとしとこうか?」
(…お?芦原さんもたまにはいいこと、言うじゃん?そうそう、俺のことはほっといてよ。明日になれば元に戻るから…きっと…や、多分…)
にゃあにゃあにゃああああん…
その声が芦原に同意するように聞こえたのか、或いは、機嫌良さそうに聞こえたのか。
アキラも小さく溜め息をつくと、頷いた。
ヒカルはその成り行きに安堵し、箪笥の上でゆっくりと伸びをすると、その場に丸まった。ここから高みの見物と行くか…そして、さっさと芦原さんが帰ってくれるように祈ろう。
猫ヒカルの三日月のように細められた目を見て、アキラはもう一度柔らかく微笑んだ。
それから人間二人は、猫の話題で盛り上がっていた。
芦原は途中で買って来たというあれこれを広げては、アキラに解説をしている。キャットフードや、簡易トイレ、ブラシやネズミのおもちゃまであった。
(うへ〜、俺、あんな猫のメシ食わされんの?やだよ〜、缶詰なんてご免だよ〜、塔矢んち金持ちなんだからさ、トロとか食わせろよぉ…)
(あ、でもあのネズミはいいな〜…見てると…な、なんか…ウズウズして来る…遊びたい…じゃれてちょっかい出して…い、い、い、い、いたぶりたい…)
「へぇ、こんな上等そうな缶詰、食べるんだ。いただきものマグロが冷凍してあるから、どうかなって思ってたんだけど。」
「ええ〜、迷い猫にそんな贅沢な…猫缶も結構イケるぜ。これで十分だって。適当な皿にあけてやれば?マグロは俺たちでいただこうよ〜、解凍しちゃえ!」
ふぎゃっ?ぎゃぎゃぎゃあああん…
ヒカルが恨みの一鳴きを漏らしたのは、言うまでもない。
芦原が料理上手というのは、噂だけではなかったようだ。電子レンジを使い解凍したマグロをタレに漬け込み、ご飯を炊き始める。鉄火丼を作るというのだが、なかなか手際がいい。
台所の様子までは伺えないが、そちらから何やら食べ物の匂いが漂って来る。
ヒカルは幸せな気分に浸っては、箪笥の上でますます丸くなった…如何にも猫らしく…
やがてアキラたちが部屋に戻って来た。
「あ、アキラ、打つところだったの?棋譜並べ?…それとも誰か帰ったばかりとか…。」
「あっ、いや…そうじゃないんだけど…そう、そうだね…少し前まで進藤がいて…でも、帰ってしまったんだ。」
「あ〜、進藤君ね、君たち凄く仲イイよねぇ…アキラにも親友兼、同等のライバルが出来て俺も嬉しいよぉ〜。」
「そうかな?そんなに僕たち、仲がいいのかな。…そう見える?」
「いいに決まってるじゃん!自覚ないとこがアキラらしいよな。」
「だってぇ…進藤と僕は喧嘩ばっかりだよ?そりゃあ、一番プライベートで打ってはいるけど…でも…。」
(何だよ〜、やっぱり芦原さんといるとさ、塔矢、お前ってちょっと幼くならないか?芦原さんもアキラアキラって呼び捨てにしちゃって!ふん…面白くねーの…)
「ははは…アキラにそういう顔させるだけでも、進藤君は凄いな。…なあ、それよりご飯が炊けるまで時間があるし、一局どう?」
アキラはその言葉を聞いて、顔を輝かせた。打てると思うと、反射的に喜びが顔に出る体質らしい。ある意味、凄く、塔矢アキラらしい。
それを見た箪笥の上のヒカルは、面白くないったらなかった。
(ふん!塔矢のこんな顔、俺だって何べんも見たことあるもん!さっきだって猫の俺に笑い掛けてくれたもん!…ずるい…ずるいよぉ、芦原さん…本当は本当は俺が打つ筈だったんだぜ?それなのに…こんな姿になっちまったばかりに…くっそ〜!)
ヒカルががるがると低く、小さく、唸っているのにも気付かず、二人はいそいそと打つ準備を始める。
それを見ていると自然にヒカルの猫の手が、足が伸び、隠されていた爪がにょきにょきと姿を現すようだった。
いよいよ二人が頭を下げた。挨拶をしているのだ。アキラのおかっぱ頭が揺れて、健やかな髪に覆われた頭頂が光を弾く。
お願いします…と、聞きなれたアキラの声がする。ヒカルの胸が一斉にざわめいた―――
芦原が碁笥に手を伸ばした、その時。
ぎゃあああぁぁぁん、にゃごごご…
「ぎゃっ!」
「あ、こらっ!何するんだっ、お前っ!」
「いったぁい…。」
「大丈夫?芦原さん!お前、どうして急にこんな…何で?」
箪笥から飛び降りたヒカルが、芦原に体当たりするかの如き勢いでぶつかって来たのだ。
碁笥に突っ込んでいた手の甲を、パシン!…と、ヒカルの猫手が叩く。
力加減がわからないから大したダメージではないだろうが、それなりの痛みはある筈だ。
呆然となりながらも、反射的に手を庇う芦原。
その芦原と、ヒカルを交互に見て青くなるアキラ。
緊張感溢れる空気の中で、ヒカルがしたこととは―――
「え?」
「…は?」
(…はあああぁぁぁ…気持ちイイ…俺、俺、ずっとこうしたかったんだ…こうして塔矢と対局するのは俺だって…塔矢の相手は俺しかいないんだって…言いたかった…)
そう―――ヒカルは、アキラと芦原の間に置かれた碁盤の角に、ケモノの毛に覆われた背中を擦り付けていた。
全身を仰け反らせ、しならせ…
人間で言うなら首を辺りをすくめたり、或いは目いっぱい伸ばしたりしながら、背中を角にぴたりとくっ付けて、文字通りスリスリしているのだ。
前足は、踊っているかのように宙をかいている。恍惚とした表情。ごろごろと鳴る咽喉。
「…芦原さん、これって?」
「うん、どう見ても…こりゃマーキングだな。こいつ、碁盤にマーキングしてる…。」
「マーキング?じゃあ、この碁盤が自分のテリトリーだとでも?」
「碁盤っていうか…この部屋にってことかもしれないけど…でも、何だか…。」
「何だか?」
「まるで…。」
「まるで?」
アキラは苛立ちを抑えながら芦原の言葉を待つ。
その合間にも、ヒカルは存分に背中を擦り付けると、やがて満足したかのようににゃあん!…と、高らかに鳴いた。
それからヒカルは、今、一番したいことをした。
自分の体が猫であることなどもう意識していない。ヒカルは碁盤に向かって、手を伸ばす。碁石こそ挟まれてはいないが、まるで棋士が石を打ち下ろすかのような軌跡を描いて、その手が盤面に乗っかった。
たんっ…と。肉球が盤面を叩いた鈍い音が、確かにした。幻の一手が置かれた。
猫の姿であっても俺は打ちたいんだというヒカルの意志が、無理な体勢をものともせずに打たせたのだ。
(塔矢の相手は俺だっ!俺が先に打つ約束してたんだからっ!…悪いけど、人間だからって芦原さんには譲れねえっ!)
にゃごにゃごにゃうううん…
その態度も、声音も、立派に男らしかった…いや、オスらしかったと言うべきか…
そんなヒカル…もとい、猫の様子に大きく目を見開いたアキラだったが、やがてその口元がわなわなと震えた。
「…お前…もしかして、僕と打ちたいの?僕が芦原さんと打つのが、許せないの?…まさか…お前は、進藤の代わりなのか―――」
芦原には聞こえないくらいの小さな呟きだったが、ヒカルには十分伝わった。アキラの顔が複雑に歪み、その目が潤んだのをヒカルが見逃す筈はない。
アキラは手を伸ばすと、そっとヒカルの頭を撫ぜた…
猫に押し退けられた格好の芦原も、黙ってその様子に見入っていた。
何せ、初めて見た―――碁盤にマーキングして、盤上に手を乗せる猫なんて!
呆気にとられている芦原を前に、アキラは碁盤に縋りつく(ヒカルにしてみれは碁盤を死守するポーズだったが)猫を抱き上げる。
腕におさまった命は、温かい。
…わかったよ。進藤が帰って来るまで、僕は誰とも打たないから…
にゃあああぁぁぁ…
アキラの掠れた声が、ヒカルの猫耳をくすぐった。
そしてヒカルの甘い鳴き声も、アキラの心をくすぐった。
「ははは…仕方ないなぁ、猫に邪魔されるとは思ってなかったけど。でもまあ、打つのはいつでも出来るし…、」
芦原のいいところは、鷹揚でものにこだわらないところである。アキラが、迷い猫が気になって落ち着かないから対局はどうも…と申し出ると、すぐに納得してくれた。
いくら相手は猫とはいえ、ここまで挑戦的な態度を見せられれば気持ちも萎えるというものだろう。猫のヒカルは、猫になってもその性質は変わらないようである。
一方、アキラは芦原に対して申し訳ないという気持ちが湧いたのか、あのね、お父さんが中国から面白い棋譜を送ってくれたんだ、見る?なんて…いつも以上に可愛らしい声を出す。
その声を聞きながら、また、ヒカルはちょっとだけ面白くなかった。
(塔矢って…やっぱ芦原さんとは仲、いいよな。俺にはいっつもキツイくせに…ふん…)
にゃごごご……
ヒカルの抗議の唸りに気が付かないまま、二人は和気藹々と話し続けた。
夕飯も済み、夜も更けて来た。芦原は結局、最後まで猫に触ることが出来ないまま、そろそろ帰ると言う。
「じゃあ、アキラ。何か困ったことがあったらまた電話して来いよ。遠慮しなくていいから。もしその猫の飼い主を探すんだったら、近所の動物病院とかペットショップに貼り紙した方がいいしさ。俺も協力するよ。」
「うん、色々とありがとう、芦原さん。遅くまで引き止めちゃってご免ね。又電話する。」
にゃあにゃあにゃああぁぁん…
「あっは!コイツも一応お礼言ってるのかな?おい、アキラの言うこと、ちゃんと聞けよぉ、お前。」
(んなこと言われたくねえっ!そら、マグロもお裾分けしてくれたし、おもちゃも楽しいし、芦原さんには感謝してるけど、さ。でも、俺、早く塔矢と二人っきりになりてーんだから…)
「うふふ…また鳴いてる。猫ってそんなに鳴くもんじゃないと思うけど…芦原さんのこと、気に入ったのかな?きっと今度は抱かせてくれるんじゃない?」
「ええっ?アキラ〜、お前、この猫飼う気じゃないよな?犬みたいに毎日の散歩はいらないけど、やっぱ俺らみたいに地方も多い仕事には大変だぜ?」
「う、うん…わかってるよ。別に飼おうとかそこまでは考えてない…けど…。」
(おいおい、塔矢…お前にしては歯切れ、悪いじゃんか?気にするなって―――俺は明日になれば元の進藤ヒカルに戻れるんだから!)
そこでヒカルは、アキラの足首辺りに摺り寄った。
アキラはヒカルを見下ろすと小さく笑い、それから芦原に向き直った。
「きっとこれも何かのご縁だと思うんだ。今夜はこの猫とたくさん一緒にいるよ。こんなに人懐こい猫なんだもん、きっと飼い主の人、いなくなって淋しいと思うからちゃんと捜してあげたいよ。…でも、今夜はその飼い主の代わりに僕が不安にさせないように世話したい。」
(塔矢あぁ…お前、泣かせるようなこというじゃんか…)
にゃううんんん…
アキラの自信に満ちた笑顔と、ヒカルの鳴き声に見送られ、芦原は塔矢家を去った。
「じゃあ、僕はお風呂に入って来るから。…っと、お前はいいよね?いきなりお風呂に入れるなんて高度な世話は僕には無理だと思うし…。」
(ふ、ふ、ふろっ?塔矢と風呂なんて冗談じゃねえっ!んなことしたらノボセっちまう!)
ヒカルはふーっと唸り声を上げた。毛が逆立つような感覚がある。
思わず全身で否定してしまうことになり、それはアキラにも十分伝わった。
「あはは…わかってるって。きっと苦手なんだよね?濡れたりするの。芦原さんちの猫もお風呂嫌いだって言ってたし。動物は匂いが消えたら気持ち悪いんだろうなぁ…。じゃ、ちょっと行ってくるけど…あの、さ、お前…。」
そこで腰を落としたアキラは、足元のヒカルに顔を近付ける。
アキラの端正な顔がアップになって、ヒカルは仰け反る格好になった。
(…な、に…塔矢、何か…)
「僕がいない間にもしも…もしも進藤が戻って来たら、お前、ちゃんと知らせておくれよ。お風呂はあそこだから。力いっぱい鳴いて知らせて。…進藤に何があったのか知りたいし、困ったことでもあったんだったら…力になりたいんだ。」
(塔矢…)
アキラの手が、ヒカルの頭を撫でた。数回往復したその手は温かく、ありのままのアキラの気持ちをヒカルに教えてくれた。
ヒカルは密かに感動する。アキラが、こんなにも自分に対する友情を感じていたなんて。自分を信頼し、気遣う面があったなんて。
(だって俺たち、喧嘩ばっかしてたよな?お前、いっつも俺にはツンケンしちゃって。…そりゃ、誰よりも長く一緒にはいるけど、その分、衝突も多くて…やっぱ俺たち碁がなけりゃ絶対、一緒にいないって思ってた…)
ヒカルは、離れていったアキラの手の温かさを、その匂いを、名残惜しげに追いながら思う。
(だから…お前がこんな顔をするなんて、思いもしなかった。俺の知らなかったお前を見せてもらえるのも、俺がこうして猫なんかになっちゃったから…)
そう思うと複雑ではある。
それでも知らないままでいるよりは、知って良かったと感じているヒカルだった。
さて。ヒカルはとぼとぼと、アキラの部屋へと向かった。
風呂に行く前にアキラはそこに布団を敷き、ヒカルの為の寝床も用意してくれた。
猫として夜を迎えるのは初めてだから(そして最後になる筈なのだが)果たしてどこでどうやって寝るのが正しい猫の寝方なのかは、見当がつかない。だから本能のままにアキラが開けてくれた隙間から滑り込み、布団の上で丸くなった。
(この布団にも塔矢の匂いが染み付いてる。…ああ、さっき碁盤にしたみたいに、この布団にも俺の匂いを付けたい…塔矢が俺の匂いを嗅いでくれたらどんなに幸せだろう…)
既に、その考え方自体が微妙に猫寄りになっていることに気付かないまま、ヒカルうとうととし始めた…
「あーっ!お前っ、こら、どいてっ!」
ふぎゃあぁっ?
「はあぁ…やっぱり…どうも濡れてるみたいだと思ったら、この匂い…やっちゃったんだね、お前…。」
アキラからは、まだ風呂上りのほかほかした蒸気が漂って来る。黒髪も濡れて、いつもと雰囲気が違う。
ヒカルは、大声に叩き起され何事かとアキラを見上げ、ああ、風呂上りの塔矢、可愛い…などとほんわかしたのもつかの間、アキラにド突かれて布団から転げ落ちた。体がぞくりと震える。寒気が襲う。
振り返ると、アキラがぺたんと膝をついて布団のある一点を見詰めていた。
…そう。ヒカルはアキラの布団の上でうたた寝しようとしているうちに、そそうをしてしまったのだ。
(わわっ!塔矢、すまねえっ!俺、本当に匂いをつけるつもりは…ああ、やっちまったぜ…俺としたことが…)
「ああ、煩いよ、そんな鳴かなくてもいいんだって。慣れてない家では無理もない。僕も悪かった、大声なんか出して。きっとお前はまだ小さいんだろうな。…さ、布団を変えるから…カバーは洗濯機にかけて、掛け布団は縁側にでも干して…あ、下の敷き布団や毛布までは染みてないね。良かった、こっちはこのまま使えそうだ。」
後始末をするアキラを手伝えないかと近くをうろうろしてみるが、猫のままでは何が出来る訳でもない。
ヒカルは必死で口に掛け布団の端を咥え、そこを引っ張っては整えようとしてみるが、猫の体の感覚ではままならず…
アキラには、いたずらをしているとしか映らなかったようだ。
「こらこら、今は遊べないよ。おとなしくして。」
いかにも仕方ないなぁ…といった口調でたしなめられると、苛立ちを覚える。
猫の姿になってもそれほど不自由を感じず驚くべき速さで馴染んだヒカルではあったが、ここへ来て初めて猫の姿であることに苛立ったのだ。
みゃうんっ!
一声鳴いて、アキラの机の上に飛び乗った。
尻尾をぴん…と立ててアキラを見下ろす。アキラもそちらを見る。
「あ、お前ったら…叱られて拗ねたのか?はは…何だか進藤みたいだ。彼も僕が一言注意するとね、すぐふくれっ面するんだよ、全く十七歳になっても幼いんだから…。」
(俺、そんなに幼くなんかねえよっ!それは相手がお前だからっ!お前と一緒にいると何だか…何だか、色々…違うんだよ、違うんだ…お前は他の誰とも違うから…)
「う〜ん、にゃあにゃあ言ってるけどまだ怒ってるのかなぁ…猫語はわからない…ね、こっちおいで。そそうをしないんだったら…いや、してもいいんだけど…一緒に寝ようか?」
(一緒にっ!…って、お前とっ!俺っ!?同じ布団でっ!…え、え、ええっ…)
アキラの申し出は勿論、猫の正体がヒカルだとわかっていないからこそである。そんなことは、冷静に考えればわかる。わかっている。
しかし。しかし、だ。今、アキラの布団に潜り込んで体をくっ付けるなんて、考えただけでもヒカルの全身の血は、沸騰しそうになる…
アキラは無邪気に小首を傾げ、ほら、どうした?おいで、遠慮しなくていいよ、もう怒っていないから…と、何度も声を掛けて来る。優しい声色だ。
…どうしようどうしよう、だって猫だからいいよな、人間の俺だったら激ヤバだけど、でも、猫のまんまなんだからいいよな?だってさっきもずっと抱っこされてたんだし、あの延長みたいなもんだよな…
ヒカルはぐるぐる考える。尻尾がぱたんぱたんと、無意識に動く。
その様子を布団に座り込んで見上げていたアキラは、溜め息をついた。
「やっぱり機嫌が直らないのかな…猫ってわからないや…。」
ヒカルから視線を外して目を伏せたアキラは、どことなく淋しげだ。
布団のへりを掴んだ手に、ぎゅっと力が入ったのが机上のヒカルからも見えた。
「…進藤も、わからない…彼のことも、全然わからないよ。」
(塔矢?)
「いつもいつもこうだ…人よりは近いのかなって思うけど、進藤には他にもたくさん友達がいるし…今夜だってどうしてこんなことになるんだ?バレンタインだし、もしかしたら女の子からの呼び出しに出て行ったんじゃ…ああ、そっか、でも洋服が…荷物も…いや、待て。全部新品を用意していて、デートだからって着替えたのかもしれないし…。」
わからないわからないと頭を振るアキラを見ていると、ヒカルまで切ない気持ちになって来る。
違う、俺はここにいる、バレンタインなんてクソ喰らえ、俺だってどうしてこんな体になっちゃったんだって喚きたいよ、と。
アキラに向かって訴えてもそれは、ただみゃあみゃあみゃあと煩く鳴く声にしかならず、ヒカルは無力感を覚えるばかりだ…
―――その時。
「っくしゅんっ!」
(塔矢っ?)…しゅた。
風呂上りにばたばたしていたせいだろうか。アキラのくしゃみに弾かれたようにして、ヒカルは布団に向かって飛び降りていた。
(ああ、俺のせいだな、お前、湯冷めしちゃったの?ヤバイヤバイよ、もうすぐお前、大一番があるじゃんか。大事な対局に風邪なんてひいてたら…俺のせいでなんてヤダヤダ…)
鼻をすん…と鳴らすアキラの腰にぴたりとくっ付いては、自分の毛に覆われた体を擦り付ける。必死でアキラを温めようとする。
踊るような動きで身をくねらせては、アキラに擦り寄る猫ヒカル…
アキラは何事かに気付き、大きな声を出した。
「ああぁっ、お前!まさか僕がくしゃみしたから気にしてるの?はは、猫がそこまでわかる訳ないかな?…うふ、くすぐったい…ん…そうじゃないね、あったかいよ…うん、そうなんだな…僕のこと、温めてくれてるんだね…。」
(そうだよそうだよぉ…お前に風邪引かせたくないっ、お前が大事なんだっ!人間の時の俺じゃあ絶対に言えないし、こんなことも出来ないけど…)
アキラはヒカルを抱き上げた。丸く、深く抱き込んでは、頬を寄せる。相手が動物であるという抵抗感など、もうどこにもなかった。
「お前、優しいな…凄く優しい…お前の名前、本当は何ていうのかわからないけど…いっそヒカル、にしちゃおうか?だってね、進藤も僕の前では子供っぽくて傍若無人なんだけど…でも、知ってるんだ…。」
―――本当の進藤ヒカルは、優しい。時々だけど、優しい。
この前も僕が咳をしたら驚いた顔して、さっさと帰れ、あったかくして寝ろ、これやるからって、携帯カイロをくれたんだ。言い方はいつも通りぶっきらぼうでね、カイロなんて投げて寄越したんだよ?
でもさ、進藤だって寒いだろうに持ってるカイロ、ぜーんぶくれたんだ。そういうとこ、あるんだ…知ってるんだ…僕―――
どこまでが耳で聞いたのか、どこまでが、直接触れ合った胸の振動で聞いたのか。
猫のヒカルは、最後の方になるとぼんやりと聞いていたようだ。
アキラの体温に包まれ、風呂上りのアキラの匂いで鼻腔をくすぐられ、感覚がいっぱいいっぱいになってしまったらしい…
だからね…僕はそんな進藤のこと、いつの間にか…
知らないうちに…進藤のことが…何故だか…
…にゃごっ?
いつの間にか布団の中に横たわって、アキラの胸に寄り添い、とろとろと至福の時を過ごしていたヒカルだったが、アキラの言葉が何やら核心に近付きつつあるとようやく気が付いた。
(と、と、や?進藤のことって…な、な、に?)
「ああーっ!駄目だ駄目だっ、いくら猫相手でも言葉にしちゃたら…もうきっと引き返せない…そんなことになったら…………死ぬほど、苦しい…。」
ふぎゃああぁぁっ…
「あっ!ご免ご免、ちょっと強く抱き締めちゃったかな?大丈夫?」
苦しいと呟きながら腕に力を込めてしまい、それでヒカルに声を上げさせたアキラだった。
腕を緩めて、優しくその頭を撫でる。頭から降りて顎のラインや、背中からお尻にかけても撫でる。その手付きは、すっかり慣れたものだ。
(ふああぁん、気持ちイイ…そこそこ、塔矢、俺、そこイイみたい…………って、ちょっとちょっとお前、俺のことはいいからさっき何て言い掛けたんだよ?言ってよ…進藤のことが何なんだよおぉ…)
ヒカルの要求がまるでわかったかのように、また暫く黙り込んでいたアキラが口を開いた。
「進藤…。」
みゃう?
「進藤、会いたい…。」
アキラの声は低く、くぐもってはいたが、胸にいるヒカルには十分届く。
「絶対に帰って来るってわかっている、信じている…僕ね、進藤に待たされるのは慣れているんだ。これまでだって最長でも二年以上彼と打てるのを待ったことあるし…全然平気だと思ってたのに…でも、どこに行ったかわからないのは、ちょっと心配、かな…はは…こら、進藤!どこ行っちゃったんだっ!まさか女の子のところじゃないだろうなっ!」
アキラはヒカルの鼻のてっぺんを、指先で突付く。芝居がかった口調やおどけた仕草は、アキラを幼く見せる。
ふぎゃ…と鼻に抜ける声を出したヒカルに、アキラの小さな笑い声が降って来た。
「はは、は…どうしちゃったんだろう…進藤じゃないよ、僕だ…変なのは…あんなに長い間、彼を待っていたことがあるのに…一度仲良くなっちゃたらもう、ほんの一晩でも彼がいないことが耐えられないなんて…。」
ヒカルは伸び上がって、アキラの顔にもっと近付いてみる。
その瞳を見たかった。アキラの瞳に、何が映っているのか…その奥に秘めたものは何であるのか…
知りたいと、ヒカルは強烈に思った。
ヒカルは、布団に横たわるアキラの枕元に坐りなおす。
白い、清潔そうな枕に、アキラの黒髪がつやつやと流れている。
どうしても触りたくなったヒカルは、無意識に体を動していた。
するとそれは前足ではなく尻尾に伝わったらしく、長い尻尾の先がおそるおそる黒髪に触れたのだった。
それからはまるで尻尾を櫛代わりに髪を梳くように、ヒカルはゆっくりゆっくり、撫で続けた…
アキラもされるがままで、静かにヒカルを、猫を、見詰めていた。
「…進藤。」
にゃあ…
(うん、俺だよ…)
「進藤…。」
にゃあん…
(いるんだよ…俺はここに…)
「進藤…。」
みゃうみゃうみゃあぁ…
(ご免な、置き去りにして。でも、本当はいるから、ここに…)
「進藤…進藤…。」
にゃごにゃごにゃああぁぁん…
(何があってもどんな姿になっても、俺は絶対にお前の傍にいるから。もうお前を何年も待たせたりなんてしない。…俺が出来ない)
「進藤、進藤、進藤、進藤、しんど…し、ん…。」
会いたいという代わりに、会いたい相手の名前を呼んでいるのだということ。
そして、諦めがつくまでアキラはそうしていたのだということを、やっとヒカルが確信した時―――
ヒカルは知った。
黒々とした宝石のような、アキラの瞳。吸い込まれそうに深い色をした、ヒカルの大好きな瞳。
その瞳が潤んでいる―――今にも泣き出さんばかりに。
でも、それだけはと踏み止まるかのようにアキラの紅い唇は、きつく噛み締められて。
ヒカルはとうとう我慢し切れずにもっと伸び上がると、アキラの目尻にほんの僅か滲んでいる雫を…舐めた。
いきなり猫のざらり…とした舌で舐め取られ、アキラは肩をすくめる。溜め息のような声が漏れる。頬が上気する。
その全てが、ヒカルの胸にキた―――
(とうや、大好き…)
にゃああぁぁん…
(ああぁっ、早く明日になって!明日になって人間の姿になったら、もうどんなに嫌だって言われても殴られても、絶対にお前のこと…)
ヒカルの決意みなぎる一鳴きを、アキラは驚いた顔で聞いていた。