― ねこのチョコレート―
( 2 )
(可愛い寝顔だなぁ…ほっぺたぴかぴかじゃん…コイツ、肌きれー…
お?この角度だと鼻の穴まで見える。…ひゃあっ、塔矢の鼻毛なんて…見たくねえけど…でも、塔矢のカラダだったらどこ見ても…………何か俺、平気みたい―――)
ヒカルの体(猫体である)を抱き締めているうちに、アキラはそのぬくもりに癒されるかのようにすとん…と眠りに落ちた。
何度も目尻の涙を舐め取り、尻尾で髪を撫で付け、ヒカルは猫の体で出来ることは精一杯やってみた。混乱しているらしいアキラを、慰めたかったのだ。
そしてアキラが一番喜んでくれたのは、ヒカルがじっとその目を覗き込み、甘えたような声で鳴くことだったように思う…
アキラの寝顔は、いくら見ても見飽きない気がした。
起したくないからもう舐めることは遠慮しなきゃいけない。でも、このままずっと見るだけは見ていたい…
もっとハッキリ言えば、ずっとアキラの傍にいたいと思う。
アキラのことが好きで好きでたまらないんだと、改めて意識するヒカルであった。
(…なあ、お前は?さっき言いかけたみたいに…お前も俺のこと…そうなの?俺、うぬぼれちゃってもいいの?)
ヒカルは身を捩っては、再びアキラの頬に自分のうなじの辺りを擦り付けた。
するとアキラが、ううん…と唸って身じろぎする。慌てて、背筋を伸ばした体勢で、ヒカルはアキラの顔から離れた。
(ヤバ…このまんま一緒の布団にいると塔矢のこと起しちゃいそうだ…)
どうしようかと少しだけ迷った末、ヒカルは布団を抜け出した。
後ろ髪を引かれるが、眠たくなったらまた戻ればいいかと、部屋を後にする。
にゃうんん…
(ちょっとばかり散歩して来るな、塔矢…絶対、帰って来るから、さ…)
深夜の塔矢邸は、鎮まり返っていた。
外に出ようかとも思ったが、確か縁側も雨戸を閉められていたし、下手に出てしまって帰れなくなっても…と思案し、ヒカルはとりあえず家の中をウロウロしてみる。
意識していないのに足音を立てないまま静かに歩けることに、ヒカルは密かに感動していた。
(軽いせいもあるだろうけど、本当に静かに歩くんだなぁ…この肉球が床に触れる感覚が何とも言えないぜ。…うん、気持ちイイ。今だったらどんな高いところにも軽々と昇っちゃえそう!)
ヒカルは今、猫になったという信じ難い事実を前に動転するよりも、ただ現状を楽しもうとしていた。ある意味、ヒカルの逞しさがそうさせているのだろう。
塔矢邸内をふらふらしていたら、ふと、入り込んだ台所の窓に心惹かれた。流し台に昇って、それから窓の淵まで辿り着く。
窓辺には、小さな緑色の鉢が置かれている。ツン…と、鼻腔をくすぐるそれ
はミントの香りだったが、ヒカルには「歯磨き粉みてえな匂いだ」としかわからなかった。
ただ、猫になってからは、鼻もいつもより利くような気はしていた。
ブラインドの閉められていない窓の外には、月が出ていた。しかも―――満月。
見上げると、こっちを見下ろして笑っているようにも見える。
(そっかぁ…満月だから今夜は不思議なことが起きたのかな。あの俺が食ったチョコレート…まだあったよな…もし、明日になって食っても、満月じゃないと効果はないのかなぁ…)
ヒカルは首を伸ばして月を見上げる。
(…佐為…)
みゃあぁ…
思わず、その名前を呟いていた。
こんな月が冴え冴えと美しい夜は、佐為が喜んでいたと思い出す。
…千年経っても変わらぬものはいくつかありましたが、月は常に高い位置にあるお陰か、何にも汚されても歪められてもいないように見えます…月日が変えられないことも、この世には多くあるのですねぇ…
そんな話をしていたと、ヒカルの胸に懐かしさが込み上げて来た。
月を見詰めれば、そこに佐為の顔が浮かび上がって来るような気までして来る。
(佐為が空の上からこの姿を見ていたら、俺だってわかるかな?面白がるかな?平安の夜には幽霊や怨霊がウジャウジャいたっていうからさ。きっと、まあまあ、ヒカルも大変ですね、そんな格好では碁が打てないじゃないですか…なーんて苦笑いしそうだ…ははは…)
最近では空き時間といえばすっかりアキラと会うことに費やし、棋戦も忙しくなったヒカルであるから、佐為との思い出をゆっくりと懐かしむ時間は激減していた。
猫に変えられるなどという不思議のお陰でそんな時間が持てたのだとしたら―――感謝したくもなる。
(あの変なチョコを食べたから…そうだ、あのチョコ…まだあとニ粒あった。あれはどこに置いたんだっけ?)
不意に、自分をこんな体にした原因であるチョコレートのことが思い出され、同時に軽い空腹を感じた。
胸がざわざわする。あのチョコのことが酷く気になり出したヒカルは、部屋へと戻ることにした。
しゅた…と、身を翻らせる様子は最初よりも随分こなれており、しかも素早い。台所を出て行く直前、振り向いて見上げた月に向かってヒカルは小さく鳴いた。
にゃううぅ〜〜〜ん…
それはさっきアキラに向かって投げ掛けた声よりも、ほんの少しだけ頼りなく、そして哀しげだった。
さて、アキラが二人分のチョコレートを置いた場所はどこだったかと、ヒカルは思い出そうとする。
そうだ…押入れに片付けていなかったっけ。芦原さんがやって来たから慌てて隠していたような…
幸い、そのふすまはほんの少しだけ開いていた。そこに猫手を差し入れ力を込めるが、なかなか開かない。
とうとうヒカルは本能的にふすまの淵に歯を立てて齧り付き、そのまま全身の体重をかけて押した。
ゆっくりとふすまが開き、自分の体が滑り込めるだけの場所から入り込んだヒカルは、目ではなく鼻を頼りに進む。チョコの袋を見つけ、ごそごそと漁った。
件のチョコはすぐに見つかった。一つだけ開いている箱がそれなのだから、判り易い。
箱の淵を咥えて明るいところに引っ張り出し、それからそのチョコと、そこに入っていた例のメッセージを見比べた。
(う〜ん、見た目は特に変わったところもないし…メッセージも…)
鼻先でクンクンと嗅いでみるが、甘い臭いにうっとりとしてしまってそれだけで終わってしまう。
でもやっぱり、これを食べるには勇気がいる。二粒目を食べたら猫のまんまで二度と人間に戻れないのではと、流石のヒカルも怖くなって来るのだった。
ともかく、明日が来るまでは下手に動かない方がいいだろうと、ヒカルはチョコの箱を部屋の隅まで押し遣った。
(でもさ、俺たち…いつの間にかこんなにバレンタインのチョコを貰っちまう歳になっちゃったんだ…)
紙袋いっぱいのチョコを見ていると、嬉しさよりもむしろ切なさに近いものが、胸の奥を甘酸っぱく浸す。
アキラに堂々とチョコを渡せる女の子たちが羨ましいというよりもうざったいというのが本音で、本当は全部捨ててしまいたいくらいだった。
子供っぽいと言われても、やっぱり嫌なものは嫌だ。
同じように、アキラも自分に対して好意を持ってくれているのだとしたら、尚更こんなもん、受け取るなって叫びたい。
(人間に戻ったら…俺、言うよ…絶対、言う…塔矢に俺の気持ちをコクる。だって他の女なんか近付けたくない…誰にも渡したくない…)
そう思いながら、ヒカルは寝ているアキラの方を見た。いてもたってもいられず、鼻先で布団を掻き分けてはアキラの布団に潜り込むヒカル。
するとアキラは夢の中にいるのか、ヒカルを胸に抱いてぎゅう…と、力を込めて来た。
どこに行ってたの…お前がいないと、寒かったよ…
まるでそう言われているみたいだ。
ほんのりと笑顔のアキラが(当然、目は瞑ったままで)何とも言えずに可愛らしい。
アキラの体温が己の体温と混ざり合って、一人(…もとい一匹)でいるよりも温まる。二月の古い一軒屋の中は、実は寒かったのだということに改めて気付いた。
ブルリ…と身を震わせると、ヒカルはアキラの胸元に全身を甘えるように擦り付けた。
そしてそのまま、急速に襲って来た眠気に身を任せ…
深い眠りについた。
目が覚めた時、ドラマ(…悲劇か)は起こった。意識がはっきりして来ると、何やらぶつぶつ呟く声と耳障りな物音がしている。
ヒカルはうるせえなぁ…と、眉間にシワを思いっきり寄せては、大きなあくびを一つした。
人間でもあくびをするのは気持ちのいいものだが、猫のあくびはもっと…そう、もっと恍惚感に近い気持ち良さを伴うものなんだと知る。…本当に気持ちがいい。
音の方へと目をやると、アキラがしゃがみ込んでいた。まだパジャマのままだから、起きてすぐなんだろう。
そのアキラが紙袋から取り出して眺めているものは―――例のチョコレートの箱だった。
ヒカルは一気に覚醒する。
(ヤバッ…塔矢があのチョコを…待てっ!お前、勝手なことすんなっ!)
「進藤が戻って来たんだ…じゃなきゃ、この袋が押入れから出ている筈がない…あっ!この箱だけ開いていたんだ…………一粒…なくなってる!」
それからのアキラの表情の変化は、ヒカルが今まで見たことのないものだった。
驚きが怒りに変わり、やがて悲しみの色が混ざり、複雑に揺れ動く心を映し出すかのように、瞳を取り囲む水分が一気に増した。
くっ…と、噛み締めるような音がしたと思ったら、アキラはその箱を持ったまま部屋の隅へと向かった。
そこにあるのは…ゴミ箱。
その真上で、アキラは今まさに箱をひっくり返して、中身をゴミ箱にぶちまけようとしているらしかった。
(塔矢!?待てっ!おい、待てって!―――塔矢っ!)
慌てたヒカルは、寝起きとは思えない素早さで一直線にチョコへと突進した。
一方のアキラはと言うと―――いざ捨てようとして躊躇っていた。
ヒカルの貰ったチョコだ。きっと誰かの想いがこもっている。
しかも、ヒカルがこの箱を真っ先に開けて食べたのだ…
胸が焼ける。バレンタインのチョコ、ほんの一粒如きで…
こんな失礼なことをすべきではないという理性的思考と、人のことを置き去りにしてどこかへ行ってしまったヒカルへの苛立ちと。
混乱の只中で止まったままだったアキラの手が、少しだけ傾き…
チョコが一粒だけ、落ちかけた。
しかしそれは、間一髪で間に合ったヒカルの口へと、見事におさまる。まさにナイスキャッチ、ミラクルパフォーマンスであった。
ところが、それを見たアキラの形相が変わった。先程とは微妙に変化し、明らかに怒りが勝っているように見える。
アキラに見据えられて、ヒカルは固まった。チョコを口に挟んだままで。
「お前…やっぱり進藤の代わりなのか?進藤の貰ったそのチョコは大事なものだから…だからお前がそんな…。」
最後まで言い終わないうちに、アキラの体は動いていた。
両手でヒカルを抱き上げると、その口元に自分の唇を寄せる。
(ぎゃあっ!塔矢、お前、なななななにす…っ―――?)
目を開けたままだった。ヒカルもアキラも。
アキラは口を開けると、歯茎を剥き出しにするように唇を広げ…
そう…ヒカルは、口に咥えたチョコをアキラが奪おうとしているのだと、瞬時に理解した。
したが…ヒカルには、もうどうすることも出来なかった。そんな時間的余裕なんてある訳ない。
アキラの歯が、チョコの表面にガツ…と食い込んだと同時に、ヒカルの唇とアキラのそれも、僅かな面積で触れ合った。濡れた感触。
その瞬間、ビリ…と電気が走り、互いの体が一つに束ねられているみたいに大きく跳ねた。
振動で、チョコはヒカルの歯から抜けた。するとそれは当然、中途半端に合わさっているアキラの口へと滑り落ちる…
とっさのことに、アキラもなす術がない。
気付くと。ごっくん…咽喉が大きく鳴って―――アキラはそれを丸呑みしてしまったのだ。
(…わ、わーっ!塔矢っ!お前…………食っちまったのかっ?)
塊のまんま飲み込んだ衝撃に、アキラはこれ以上は有り得ないくらいに目を見開いた。
アキラの初びっくりまなこを見て、ヒカルもびっくりする。
(お前、こんなに大きな目、してたんだな…きゅうって…吸い込まれそおぉ…)
その時。閃光が走って目が眩み、意識が遠退きそうになった。
にゃあにゃあにゃぎおにゃごい…
あるべき場所にあるべき感覚が戻って来た時、全ては終わっていた。
ヒカルの耳に、必死というか半狂乱というかもの凄い鳴き声が聞こえる。
耳を澄ますと、何故だか「なぜだ、どうしたんだ、一体これは…」と、パニックしている人間の言葉にも聞こえる。
…ヒカルが閉じた瞼を恐る恐る開けると―――一匹の猫がいた。
限りなく黒に近い銀鼠色の毛並みは、光を反射して艶々している。触れば、きっと手に吸い付くように滑らかな手触りだろう。間違いない。
そして足元には…アキラが着ていたパジャマがとぐろを巻くように落ちていた。
「お前…まさか…その声、話し方…………塔矢!」
猫になりたくなったら 一粒どうぞ
好きな人も猫にしたくなったら 口移しで一粒あげて
一日経ったら元通り
二人で もいちど猫になり 猫の世界へ行きたくなったら
最後の一粒 半分こ
ヒカルの脳裏に、昨晩読んだメッセージが蘇った。
そうか…俺、口移しってヤツをやっちまったんだ…と、納得する。
口移しと言っても、実感はほとんどなかった。何せコッチは猫だ。一瞬の出来事だ。しかも不可抗力、アクシデントだ。
結局、このチョコは本当に猫にする力があったんだなと、妙なところで感心していたら、アキラ―――猫になった塔矢アキラがこっちを見て、呆然としている…ように見えた。
ヒカルは深呼吸を一つする。
それからアキラに向かって歩み寄り、声を掛けた。
「塔矢…お前、塔矢だよな?俺だけど…わかるか?」
「し、しんどっ?その声は…。」
「ああ、何だか言葉は通じるみたいだな…耳にはにゃあにゃあ聞こえるけど、頭ではちゃんとお前の言ってること、はっきりわかる。うまく出来てるなぁ…。」
「き、君っ!なに感心してるんだっ!」
「仕方ねえだろ?お前だってもうわかってるんだろうが…お前が猫に…。」
「わわわーっ!言うなっ、猫なんてっ、言ったら本当になるっ!」
「本当も何も…まだ夢だと思いたい訳?じゃあさ、お前だけでなく俺まで登場する、こーんなリアルな夢ってさ、有り得るかよ?」
「だって…だってどうして僕が…いや、君は…でも…。」
パニック状態が解けないアキラを見ていると、哀れになって来る。
(こんな塔矢アキラを見たくねえや…)
ヒカルは意を決した。アキラの前に屈みこむと、その前脚をぺろり…と、舐めた。
「落ち着けって、塔矢…俺がいるじゃんか…お前は一人じゃ…一匹じゃないんだぜ?今からちゃんと説明してやるから…。」
舐める合間にも、優しく声を掛ける。宥められているのだとわかって、アキラも静かになった。
ヒカルに舐められている脚が、くすぐったい。
くすぐったいけど…気持ちがイイ。
気持ちイイから、ヒカルを振り払えない。
されるがままでいたら、ヒカルのざらざらした舌はアキラの足先から徐々に昇って行き、いつしか胸元辺りまで来ていた。
「…ぁ…そこ…――っ…。」
どうやら猫のアキラには、弱い部分があるらしい。
いや、人間のアキラも同じかもしれないが、ヒカルが知る訳もない。
昨日の晩、人間のままのアキラを残して自分だけが猫になったヒカルとは状況が違う。唐突に我が身に起こった猫同士の触れ合いの快感に呑まれ、アキラは何も考えられなくなって来る。
みゃあぁう…
アキラの咽喉から、甘い鳴き声が漏れた。いっそ色っぽいと言った方がいいくらい、それは緊張感とは程遠い声だった。
「塔矢…お前、猫の方が素直だな?」
「…っ!ば、ばかっ!」
ヒカルの声に我に返ったアキラは、しゅた…と、飛び退る。
ぎゃうん?
驚いた。こんな身のこなしがとっさに出来てるなんて、猫になったばかりのアキラには驚きでしかない。
展開に付いて行けなくて、アキラはふらふらとその場にへたり込んだ。
優雅な体つきの猫アキラがそんな風に坐ると、それだけで絵になる。
ヒカルは我を忘れ、うっとり眺めていた。
「一体…どうすれば…ああぁ…。」
身をくねらせる様子も、艶かしい。本人は意識していなのだろうが、ヒカルのものよりも細く、長い尻尾が、しなやかに波打っていた。
あの綺麗な尻尾に己の尻尾を絡ませたいと、ヒカルの中に、訳のわからない衝動が湧く…
アキラが体を動かす度に、光の加減で色が変わるように見えるその肌も、何とも言えず上品だ。見るものに、気高い印象を与える。
「進藤っ!人を見て何をニヤニヤしてるんだっ?」
(…へ?ニヤニヤって…お前、猫の俺でも顔の表情、わかるの?…っつか、お前、今は人じゃねーってば…)
「わかったわかった…そんなに気に病むなって。俺が事情を説明してやるから。…あ、それに俺の方が半日は猫の先輩だからな。何でも聞いてくれやっ!」
「半日って…猫の先輩って…………君、それくらいで偉そうに威張るんじゃないっ!」
うぅごご〜、にゃごっ!
人間でも美人の一睨みは効くものだが、美猫の雄叫びも身を竦ませるほどの迫力があった。
しかし、どんなにアキラが抵抗しようと喚こうと。
朝の光に照らされるシルエットは一人と一匹ではなく。
どう見ても間違いなく―――二匹の猫だった。
猫になってからの二人は…もとい二匹は、やっぱり人間でいた時と変わらない調子で過ごした。あれこれ揉めたり戸惑ったりはしたものの、結局、どうしようもないのだ。
お腹がすいたので、取り敢えずは昨日の残り物を二人で分けた。
猫として皿から直接食べることに、最初は抵抗がなくもなかったアキラだが、誰しも空腹には勝てない。
一旦動いてみると体は本能に忠実に従ってくれるから、アキラにとっても予想していた以上に満足のいく食事だった。
「猫のご飯って意外とイケるね。美味しかった。」
「それ、人間に戻っても言えると思う?多分さ、味覚も猫になっちまってんじゃねえ?」
「そうかなぁ…どっちにしてもお腹イッパイになったから…いいんだけど。」
「お前、猫になっても食べ方お上品だなぁ。おちょぼ口からペロペロって舌が出て…いひひ…。」
「っ!…き、君はガツガツしてるよねっ!人間の時と変わらないっ!全然!」
にゃうにゃごなな〜ん…
みゃうにゃおんにゃごご…
ヒカルが猫になっても、アキラが人間のうちは仲良しだった。優しい雰囲気が流れていた。
それなのに、どうだ?二人ともが同じ立場になった途端にこれだ。
いつもの調子で言いたい放題、喧嘩越しで張り合ってしまう。十七歳の少年であった時と、姿以外は何も変わらない。
(折角甘い雰囲気になりそうだったのになぁ…)
ヒカルは密かに舌打ちした。
食事が終わると、今度は手持ち無沙汰になった。目隠し碁をしたいというほど、切羽詰っている訳でもない。
猫になった利点をいかす為にも、散歩に出掛けようということに話がまとまった。
玄関には鍵がかかっている。はて、どうしようとアキラが当惑していると、ヒカルがこともなげに言った。
「だって猫なんだから、庭から出ればいいじゃん!」
「でも靴…。」
「…履く必要ねえだろ?」
「そうだった…。」
「ひゃはは…お前、まだ慣れてねえの?順応性?…ってヤツが足りねえな!」
「ほっといてくれ!」
音もなく流れるように身を翻すアキラは、見惚れるほどに格好良い。うっかり溜め息が出そうだ。
そのせいで、ヒカルはアキラに数歩遅れをとった。慌てて黒い肢体の後を追う。
アキラの尻尾が左右にリズミカルに振れる様は、言いようもなく優雅だった。
(…あ…なんか…塔矢の黒い尻尾見てると…なんか、俺…どうしよ…ああぁ…)
どうしようとヒカルが心で呟いているうちに、身の内に湧き起こった欲望が、理性に勝ったらしい。
自分の家の庭を猫視点から見上げていることに驚き、新鮮な想いで見回していたアキラは、ある意味隙だらけだったのだ。
ぎゃうんっ!!??
アキラの背後から忍び寄ったヒカルは、そのまま背中に馬乗りになる。猫の手を広げ、アキラの首根っこ辺りを押さえると、後ろ足をアキラのそれに絡ませた。
見ようによっては、ヒカルがアキラに襲い掛かっているようでもある。つま
り、とら縞の猫が、黒猫に覆い被さっている。…いや、実際もそれと変わらないのだった。
「ななな何するんだっ!」
「ごめ…俺もどうしてだかわかんねえけど…お前見てると…つい…。」
「わかんないなら止せ!どけっ…進藤…っあ…っ…ん…。」
ヒカルは、アキラの背骨から後ろ首辺りをザラリ…と大きく舐め上げた。
その瞬間、バタバタと暴れていたアキラの尻尾はピン…と針金でも通したみたいに硬直し、ヒカルの体の隙間から現れた。
アキラの首に辿り着いたヒカルはうっとりと目を細めており、それは見ている者までうっとりとさせるような、猫に特有な表情だった。
ヒカルはそのまま、アキラの顔や顎や首筋を舐めたり、甘噛みしたりした。
体毛に覆われた肌と肌が、柔らかく絡み合う。
しなやかな二匹の肢体は、重なり合ったままくねる。
間も無くアキラの全身からは抵抗する力が抜け、咽喉が気持ち良さげに鳴った。
アキラがゴロン…とその場に寝そべる格好になると、すかさずヒカルが上向いた白い胸や腹にも舌を這わせる。猫の、長くてザラついた、刺激的な舌を。
「し、ん…こらっ…止め…ん…みゃ…。」
「気持ち、いいだろ?気持ち…いいよにゃ?」
人間の言葉なのか、猫の鳴き声なのか、陶酔感の中でアキラの頭は混乱する。
横倒しになって四本の足を伸ばし、首を仰け反らせてノビをするアキラの上で、ヒカルは必死で頭を動かし、忙しないリズムでアキラの全身を舐め回した。
―――それは、人であったら完全に「愛撫」というものであった。
庭の隅っこ、木の根元に生えた雑草の上で。最初は嫌がっていたアキラも、今では自ら進んでヒカルとじゃれ合っている。
この瞬間、ヒカルとアキラは既に人ではなかった。…いや、人の心を持つだけではなかったと言うべきか。
二人は身も心も猫になり切って、本能のままに相手を求めているのだった。
「塔矢…俺…。」
「進藤?」
ヒカルは、いつしか己の体が変調を来たしそうになっていることに気付き、慌てて身を起した。
アキラも体勢を建て直し、ヒカルを見上げる。小首を傾げる細身の黒猫は、息が止まるほどに美しいポーズでヒカルの欲望を直撃した。
…みゃうん?
じゃれ合いの後ですっかり棘の抜け切ったアキラの甘ったるいひと声が、駄目押しだった。
「ご免!俺、どっか行ってる!人間に戻ったら…お前を探しに来るからっ!」
「え…はあっ?…進藤!」
ヒカルは一目散で駆け出す。どこへ行けばいいのか自分でもわからないまま、木を昇り、塀を乗り越え、あっという間に塔矢邸から飛び出していた。
一瞬面食らったアキラも、急いでその後に続く。
こんなに跳躍したのは初めてで、自分の身のこなしに驚きつつも、アキラも懸命にヒカルの後を追った。
「進藤!待てっ!」
にゃごごっ!
「ついて来んなっ!」
ふぎゃあぁっ!
「何でだっ?」
みゃうん!
「何ででもっ!」
にゃおん!
いくら動物とはいえ、車も走る車道を走るのは危険だ。
二匹が際どい目に遭いながら辿り着いたのは、塔矢邸からはかなり離れた河原だった。
今度は、ヒカルの上にアキラが乗っかった。細身ではあるが、力は見た目以上にあるらしい。
暴れるヒカルをバシン!…と片手(片足?)で叩き付けると、首筋に噛み付いた。
「や、止めろっ…塔矢…俺、そんなことお前にされたら…。」
「君が悪いんじゃないか!僕を一人にするなっ…君が猫になった時は僕がいた。でも…でも、今僕が一人で残されたら…ど、どうした、ら…。」
「塔矢…お前…やっぱ猫になると…どっか違うな…。」
「余計なことは言うなっ!そんなのどうだって、いい…馬鹿進藤…。」
「ご免…ご免って…塔矢ぁ…。」
ヒカルはアキラに身を寄せ、宥めるように首裏を擦り付けた。
「だって、お前も悪いんだぜ…猫になってもそんなに…だから…。」
「そんなにって…一体、何が言いたいんだ?僕らは、たった二人なんだぞ。こんなとんでもない…恐ろしいことに巻き込まれて…君と…僕、二人だけ…。」
アキラの言葉は、どれもこれも真剣だった。聞いているヒカルの胸まで、ぎゅうっと締め付けられる。
この広い広い世界で。今、お互いだけが、信じがたい不思議の中で心を許し合える、唯一の相手なのだ―――
「塔矢…俺、お前と二人だったら、どんな世界へでも行けるぜ…。」
にゃ?
「そこがすっげえ怖いところでも…もう二度と自分達の世界へ帰って来れなくても…お前と一緒なら―――」
それまで猫らしい仕草をするのもされるのも慣れてしまったヒカルだったが、今は違った。人がするように、その手を(前足を)アキラの頬の辺りにそっとあてる。ゆっくりと撫でる。
思わず目を閉じたアキラも、ヒカルの言葉を聞いて落ち着いたのか、力を得たのか、目を開くと、真っ直ぐにヒカルの目を見返した。
「進藤…君の瞳…猫そのものだな…宝石みたいに綺麗だ…でも、進藤ヒカルだってちゃんと感じられる…わかる…僕には…。」
「俺だって…もし、先にお前が猫になっても俺には絶対、絶対わかった…お前がどんな姿になったって…。」
みゃう〜んにゃごご…ごろごろ…ごろ………
二人の会話は、そこで途切れた。
言葉のいらない時間。人智を超えた空間。ヒカルの瞳にはアキラが、アキラの瞳にはヒカルが映っている。
とうとう、その時が来たのだろうか?
ヒカルはゴクン…と、自分が咽喉を鳴らす音を聞いた。口を開けると牙が覗くが、自分では見えない。
そのまま言葉を探し、アキラに向かって大切なことを言おうとして―――
「…どうした?進藤…。」
「ううう…駄目。駄目だよ…こんな格好で言うこっちゃねえ。」
猫のヒカルは、迷いを吹っ切るように振りかぶる。すぐ間近に姿勢を正して座るアキラも、ヒカルをじっと見詰めたままだ。
「あのメッセージが本当なら、俺は今日の夕方には人間に戻れる。いや、本当だからこそ、俺もお前もこうやって猫にされちまった。そうとしか思えねえ。俺は信じる。だったら…。」
「だったら?」
「人間に戻ってから…それから言う。お前に言いたいことは、人間の姿で言いたいんだ―――」
ヒカルは頭を下げ、うやうやしくアキラの前足の甲を舐めた。ペロリ。
アキラは、その心のこもった仕草に、小さく身震いして応える。毛並みのいい黒々とした肢体の表面が、しなやかに光を弾く。
ヒカルのしたそれは、騎士が主に捧げる誓いのキスのようでもあった。
そして。
二匹はもう何も語らずに、ただ河原で全身を使って戯れ、残り少ない時間を楽しんだのだった。
見慣れない二匹の猫の姿に、近所の人が幾人も心惹かれ、足を止めたことは間違いない。
…夕暮れが近付く。ヒカルの魔法が解け、人間に戻る筈の時間がやって来ようとしていた。
(進藤…今頃、どうしているかな…無事に人間の姿に戻れたのかな…)
ヒカルが自分の元へ戻って来るということは、微塵も疑っていない。
だが、そろそろ行くねとヒカルが去って行くのを見送るのは辛く、アキラは思わず追いかけ、その尻尾に己の尻尾を絡ませたのだった。
「塔矢?…な、なに…もう一度会えるってば…心配すんなよぉ…。」
「そっ、そんなこと…心配なんて…別に…。」
「ええ?別に、なのかよ。じゃあこの尻尾は何?」
ヒカルが、絡まり合った尻尾でアキラのそれを軽く引っ張るようにする。
するとアキラの尻尾はしなやかにヒカルの尻尾に寄り添い、言葉とは裏腹な気持ちを表現してくれた。
離れ難い。でも、ヒカルは行かねばならない。
スル、スルリ…アキラの尻尾は、最後の感触を味わいつくすようにゆっくりゆっくり、ヒカルの尻尾を撫でてから―――離れた。
(まだかな…)
夕焼けを見詰めていると、心の中までオレンジ色に染まって行きそうだ。
だからだ。だからこんなに、普段だったら有り得ないくらいセンチメンタルになるんだ…
次第に焦れて来たアキラは、夕陽に向かって鳴いた。
にゃああぁん…
人の耳には、ただの猫の鳴き声にしか聞こえない。
「…待たせたな、塔矢。」
みゃっ?
「おいで。すぐに真っ暗になっちゃうよ。冷えて来るよ。…ほら。」
進藤だ。進藤が戻って来た。ちゃんと、人間の進藤ヒカルとして。
真っ直ぐに伸ばされた腕は、アキラの為だ。温かそうな胸も、アキラの為だ。
…いや、進藤ヒカルの存在そのものが、アキラの為に、今、そこにある。心の全てが、アキラに向けられている。
(遅いぞ、進藤!どれだけ僕を待たせるんだ…)
ぐるるるぅ…
「悪かった悪かった…そんなに唸るなよ〜、お前ってば猫になっても迫力あり過ぎ!」
そしてヒカルは猫であるアキラの足元に、手を伸ばしたまましゃがみ込んだ。
「それよりも見ろよ!塔矢、俺を見ろって!ちゃんと人間だろ?ほら、この手も。足も。そんで尻尾はないだろ。戻れたんだ、俺!あのチョコの力はやっぱり本物だった。本物の魔法だった。そっちを喜べって。」
(確かに…匂いがする…進藤ヒカルの、匂いだ…)
アキラは目を細めると、さも気持ち良さそうに咽喉を鳴らした。
「お前ってさぁ、人間でも猫でも何て言ってるか判り易いわ…俺たち、どっちがどっちの姿でもやってけそうだな?」
完全に夜へと滑り落ちる濃紺の空の端で、ヒカルの幸せそうな笑顔が一番星のようにチカリと光った。
それからヒカルはアキラを胸に抱いて、塔矢邸へと帰った。アキラも特に抵抗も見せず、抱かれていた。さすがに疲れてもいたのだろう。
一日ぶりに風呂を借りてこざっぱりしてから、ヒカルはコンビニで買った夕飯を食べた。
アキラは食欲がない。ヒカルの手から、ほんの少し食べただけだ。
だが全く元気がないという訳でもなく、ヒカルも特に心配はしていなかった。自分だけが猫のままなので、ちょっぴり心細いのかもしれないと、アキラの心境が想像出来たからだ。
「さて、寝るか。お前の体が元に戻るのは明日の朝だもんな。打つのも無理だし、他にすることもないし…お前にしてみれば、早く明日が来て欲しいよな…。」
はにかんだように笑ってから、ヒカルはゴソゴソ布団に潜り込む。
それから掛け布団の端をめくってそこに空間を作ると、アキラへと目を向けた。
低く、静かな声が、響く。
「―――入れよ。」
ドッキーン!…ドキドキドキドキドキドキドキドキ…
たったそれだけのことなのに。
いきなり、アキラの心臓は全速力で駆け出した。止めようと思っても止められない。
一緒に寝ようと言われた―――落ち着いた、でも、心に響くような声で。
自分が猫だから、ヒカルがそうしてくれるのはわかっている。片方が猫でなければ、同じ布団に寝るなんてことは有り得ない。
だがそこには、昨晩とは根本的な違いがある。
アキラは、その猫がヒカルだったことを知らなかったが、ヒカルはアキラのことをわかっている。
それでもヒカルは自分を抱いてくれ、世話をしてくれ、こうして一緒に寝ようと誘ってくれているのだ。
しかも、布団に誘って来た時のヒカルの様子は、アキラが今まで見たことのないものだった。
アキラが猫で、ヒカルが人間だという、生物としての力の差ではない。もっと…もっと根本的な部分で、ヒカルは自分が思っていた以上に男らしく、堂々としていた。
…もしも。もしも進藤がいつか女性を誘う時が来たら、こんな風に相手がドキドキするようなリードをするのだろうか…
普段はあんなに子どもっぽいくせに、特別な人の前では全く違うんだろうか…
「どした?ん?…心配ないって。ほら!俺はちゃんと戻れた。夢じゃない。だから一晩寝ればお前だって…。」
そこまで言うと、不意にヒカルの顔が歪んだ。
「あ、あはっ…変だな、俺…ちょっと淋しいかな〜なんて思ったり。だって猫のお前、スゲエ綺麗だし、素直だし…さっきみたいに抱っこしてさ、どこへでも自由に連れてける…。」
(進藤?)
「俺たち、どっちかが猫のまんまの方がうまくやってけるのかも…同じ人間だったり、猫同士だったりするとさ、どうしても張り合っちまうっつーか…。」
でも―――
ヒカルはそこまで言うと、もう一度真面目な顔に戻って腕を伸ばした。
次第に近寄っていたアキラの頭を、ヒカルの指先がくすぐる。アキラは身をすくめ、咽喉を鳴らした。
こんな声を出せる「奇跡」も、あと数時間で終わりを迎えるのだろうと思えば、アキラも全く残念ではないと言い切れない。
やがてヒカルの指先からは限りない優しさが伝わり、アキラは余計なことを考えるのを止めた。一歩を踏み出す。
「お前、歩き方も優雅だなぁ…猫になっても…や、例え犬だって、どんな動物になったってお前はお前―――塔矢アキラなんだ。」
俺、よくわかったよ…とヒカルが満面の笑みを浮かべた時には、アキラの体はすっかりヒカルの温もりに包まれていた。
「いつか…猫じゃなくて、人間のお前を抱く…力いっぱい、抱くから…。」
みゃあっ?
呟きは、ヒカルの胸の奥深くにいるアキラの耳には聞こえない。それでいい。
明日、アキラが人間に戻れたら絶対に告白しようと決めているヒカルには、今夜は猫アキラとの、最初で最後の大切な想い出になる筈だ。
一人と一匹は、布団の中で丸くなって眠りについた。それは、とても自然な形だった。
アキラも、猫である肌のあちこちをヒカルに撫でられても嫌悪はなかった。服を着ていない無防備な状態なのに、勿論、恥ずかしいということもない。
むしろ、これが最後になるかもしれないと思うと、人間に戻れる喜びよりも切なさが勝り、そんな自分を不思議に思いながら、アキラは想いをこめてヒカルの手の甲を舐めた。
ヒカルがくすぐったがるのもまた嬉しくて、何度も何度も舐めた…
「…ぁ…あ?………塔矢!」
ヒカルが目を覚ました時、既に、隣に温もりはなかった。猫のアキラも、人間のアキラも、どちらもいない。
ヒカルは辺りをキョロキョロと見回して、人間に戻っている筈の塔矢アキラを探した。
するとヒカルは気付いた。石を打ち付ける音が、かすかに聞こえることに。
実際のところは碁石の音が聞こえるほど近い場所ではないのに、ヒカルの耳には届いたのだ。
ヒカルは転げるようにして、音のする部屋へと飛び込んだ。
「塔矢っ!」
「おはよう。顔を洗って来たら、一局どうだ?」
「お前、体は…。」
「…体?」
「完全に戻ったのか…」
「何の話だ?」
「何のって…猫はっ…昨日は猫の体だったろ…ちゃんと元通りになったのかって…。」
「猫?猫がどうした。うちでは猫なんて飼っていない。そんなこと知っているだろう?」
ヒカルはキョトン…となる。
アキラは朝っぱらからやけにスッキリした顔で、背筋を真っ直ぐに伸ばして碁盤の前に正座している。
長年ヒカルが馴染んでいる、塔矢アキラそのものだ。
「ま、さか…まさかお前は、何にも覚えていないのか…俺だけで…お前の記憶は…。」
ガクリとその場に膝をついたヒカルを、アキラがますます不審そうな顔付きで覗き込む。
「何を訳のわからないことをブツブツと…君、昨日の夜中に僕に内緒でチョコレートを食べ過ぎて、おかしくなっちゃったんじゃないか?変な夢でも見たんだろう?」
「ゆ、め…ええっ…まさか、夢だったって…全部、夢だったっていうのか…。」
ヒカルは混乱した。
アキラの態度が演技や冗談でなければ、自分がチョコレートを齧って猫になったところから、今朝、目が覚めるまでの全部が、夢の中の出来事だったというのか。
眠気に勝てずにうっかり寝てしまった自分が、一晩かけてみた夢のような夢だったと―――
「そんな…。」
「進藤。」
「そんなのってアリかよ…。」
その時、ヒカルは閃いた。そうだ…あのチョコレート!
「食べてみればいいんだ。あのチョコを…夢じゃなきゃアレはちゃんとあって、食べたら…そしたら…。」
ヒカルは部屋を飛び出した。アキラも立ち上がってそれを追う。
「進藤、何する気だっ?」
「俺が証明してやるよっ、あのチョコさえあったら間違いないって!」
「待てっ、進藤!そんなことしたら今度こそ本当に猫になって、元に戻れなくなるぞっ!」
「―――っ!………塔矢…。」
アキラの言葉を理解した途端、ヒカルは足を止め、パッと振り向いた。
ヒカルのすぐ後ろにいたアキラは、とぼけた顔でヒカルを見ている。そして、その引き締まった唇が、おもむろに開いたかと思うと…
「にゃあぁ…。」
ヒカルが腰を抜かしそうなくらい驚いたのは、言うまでもない。
元々大きな瞳が、零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「―――このっ…馬鹿野郎!」
「あっ!…しん…。」
すっかり騙された腹いせとばかりに、ヒカルはアキラに飛びついた。そしてそのまま腕の中にアキラを拘束し、ぎゅうぎゅうと締め付ける。
アキラがご免と詫びても許さずに、いつまでもその細い体を―――猫ではない、紛れもなく人間の塔矢アキラの体を、強く強く抱き締め続けた。
…良かった。お前も俺も、ちゃんと人間に戻れて…
でも、昨日の出来事が夢じゃなかったってことも…なんか俺、嬉しいみたいだ…
…うん、うん…そうだね…僕も、そう思うよ…
もう触れ合わせる尻尾はないけれど、その代わり、この腕で、全身で、二人は大切に思う相手に触れることが、存分に出来るのだった―――
NOVEL
↓にオマケがあります。
まず最初に緑の字はヒカアキバージョン、そして次に出て来る水色の字はアキヒカバージョンです。
「ねこのチョコレート」は2007年の冬コミ、お友達のスペースに30Pくらいの無料配布本として置かせてもらいました。
その時の書き下ろしオマケ部分ですが、少ししか作らなかったのでお読みになった方は少ないかと^^;
両バージョンとも15禁程度になりますが、お楽しみいただけたら幸いです。
【ヒカアキバージョン】
(うひぃ〜、さみっ!今年の冬は冷えるなぁ…温暖化ってどこへいっちゃったんだ?)
その日の夕方、芦原は塔矢家へと急いでいた。
腕には大きな紙袋が二つ。更にその中にはチョコレートを中心とした、贈り物の束。
アキラが仕事もオフで、碁会所にも寄らなかった為、棋院と市河と、二箇所からの預かり物を抱えていたのだ。
(アキラのヤツ、年々モテ度が上がってやがる。何だよ〜、このとんでもないチョコの数!)
密かに舌打ちしたくなる。確かにアキラはこの一年くらいの間に急に大人びたが、それもいい感じに清潔感を残しながらだから、人目を引くことこの上なかった。
(そう…ここんとこ、ふとした拍子に男の色気みたいなもんを感じるし…ありゃ、もしかして好きな子でも出来たのかな?だったら俺に一番に言えよなっ!)
二月の風は、未だ恋人のいない芦原には何よりも冷たく吹き付けるのだった。
「あれ、進藤君?」
「ちーっす。」
「うわぁ…これ全部僕宛に?重たいのにご免ね、芦原さん。どうもありがとう。」
芦原が着いた塔矢家には既に先客があり、ヒカルとアキラは夕食の鍋を囲もうとしているところだった。
そんな美味しい状況に、芦原が黙って帰る訳はない。早速上がり込もうとするが…
「えっ、あ、あの、芦原さん?今日はバレンタインだよ?どこか出掛けなくていいのかな。」
「アキラ〜、お前、それは酷だよ?一人モンの俺をこの寒空に叩き出すのかよ〜。」
「でも、そのぉ…進藤が…。」
「いいじゃん、塔矢。鍋だから足りないってこともないだろ。」
「え…いいのか?」
「だって芦原さんには去年、スゲエ世話になったし。」
「…あ。」
意味深に目と目を見交わすヒカルとアキラ。それには構わず、横から口を挟む芦原。
「なになに〜、俺、進藤君のこと世話したっけ?」
「進藤!変なこと言うと、芦原さんが誤解するだろう。…さあ、上がってよ、寒かったでしょ。」
「んー、それじゃ遠慮なく。」
何だか上手く誤魔化された気もするが、台所から漂って来る美味しそうな匂いの前には全てが掻き消されそうになり…
その時だった。急に、芦原は思い出したのだ。
(そうだ…去年のバレンタインも、俺はここに来た…あの時は――)
「猫!」
「えっ…。」
芦原の言葉に、アキラたちはギョッとなる。
「そうだ〜、去年のバレンタインにも俺、ここに来たんだ。アキラが迷い猫に困っちゃってさ、それで…。」
「へえ、そうなんだ!去年は俺、さっさと帰っちゃったから。ねえ、食べながらその話してよ。鍋、始めよう。も〜う腹ペッコペコ!」
ヒカルに促されて、芦原は嬉しそうに靴を脱いだ。
そして散々食べて飲んだ芦原は、こたつで潰れていた。どうせこのまま泊まったところで、一人暮らしの部屋で待っている人もない。気楽なものだ。
「…あ、これってまさか…。」
「そう、覚えてる?一年前のチョコレート…。」
目を覚ましかけた芦原の耳に、声をひそめた会話が飛び込んで来た。
「君、とっておいたのか…。」
「だって捨てられないじゃん。勿論、食べたりはしねえよ。だけど最後の一粒だから…。」
「そうか…あ、これが一緒に入っていたメッセージだね。猫になりたくなったら、一粒どうぞ…。」
「…お前がそれを口にするの、初めて聞いた…なんか変な感じ…ふふ…。」
「懐かしい…と言ってもいいのかな?あれはとても不思議な体験だった…。」
「夢みたいだったよな。どうしてあんなことが…今でも全然、わかんないけど…。」
「でもあの事があったから…。」
「ん…だから俺たち、今、こうして…。」
「こら、進藤。――っ…ここじゃ…ん…っ…。」
「いいじゃん。どうせ目ぇ覚まさないって。こんなことしても、わかんない…。」
「だっめ…そこは、まだ…もしも………れた、ら…やっ…ぁ…――」
そのやり取りには、親密さがあった。友達以上にも思える、親密さが。
…いつから二人はこんなに仲良しになったんだ?いや、そもそもバレンタインに年頃のイイ男が二人だけで過ごしているなんて、有り得なくないか?
芦原が酔った頭でぼんやりと考えているうちに、どうやらヒカルとアキラは部屋から出て行ったらしい。一人残された芦原の体には、温かい布団が掛けられていた。
しかし芦原は、妙に目が冴えてしまった。体を起して辺りを見回すと、テーブルの上にはまだ鍋も食器も残っている。
こんな風に片付けもしないでどこかへ行ってしまうなんて、几帳面なアキラらしくない。よっぽど急ぐことでもあったのか――
(もしかしたら…碁?進藤君と打っているのかなぁ…)
あれこれ思い巡らす芦原だったが、ふと、黒い粒がその目に止まった。チョコレートだ。可愛らしい猫の形をしている。
今日もらった中の一つだろうかと思いつつ、手を伸ばす。丁度甘いものが欲しい気分だった。
芦原がそれを口にしたことを、間も無くヒカルとアキラも知ることになる。それはヒカルが大事に仕舞っておいた、一年前の魔法のチョコレートだったのだから――
「妙に近くから猫の鳴き声がするから…変だと思ったら…。」
「芦原さん、アレを食べちゃったんだ。」
「君が置きっぱなしにしておくからだよ。」
「でも、お前が我慢出来ないって目で俺を見るからさぁ、慌てちまって…。」
「しっ、進藤!そういうことを言うな。猫でも理解出来るんだぞ。」
「あっ…あ、そうだったな。去年のこと、思い出した。」
「チョコレート、全部なくなっちゃった…これでもう、僕らは猫の世界には…行けなくなったね…。」
「お前、なりたかったの?猫に。」
「そうじゃないけど…。」
「でも?」
「意地悪…。」
「わかってるって。お前の言いたいことは何となく…。」
にゃうん、にゃごにゃごごご…
(そそそそんな悠長な会話してる場合かっ、アキラ!俺、どうなっちゃったんだ?アキラ、進藤君、助けて、お願いだあぁ…)
次第に、芦原の声は悲壮なものに変わってゆく。パニックに陥っている芦原には、ヒカルが真冬なのに上半身裸であることも、アキラの髪や襟元が乱れていることも、目には入らない。
「ふぅん、芦原さんって猫になるとこんな感じなんだー、結構可愛いじゃん?毛もフサフサしてて…。」
ヒカルがしゃがみ込んでその頭を撫でると、猫になった芦原は、全身の毛を逆立てるようにして身構えた。
「こわがんないでよー。大丈夫、丸一日経ったら元通りになるから。」
「あーあ…これで芦原さんも秘密の共有者になっちゃった。進藤のせいだからね、ご免ね。」
「ちぇーっ、お前だって意地悪!」
ヒカルの横に並んでしゃがみ込んだアキラも、芦原の咽喉の辺りを指でくすぐった。今度は抵抗感がなかった。相手がアキラだからだろうか。
「俺さ、もしも最後の一粒を誰かに食わせるなら、緒方さんなんてどうかなって思ってたんだけど。」
「緒方さん?何で。」
「だって白スーツ着てると、猫になっても白猫かな?」
「馬鹿なっ…失礼なヤツだな、君…っくっく…それより僕は、緒方さんちの熱帯魚が心配になっちゃうよ。」
「それ、お前の方が失礼だってばー。」
二人は肩を寄せ合い、いかにも楽しそうに忍び笑いをしている。
猫になった自分を前にして大して驚きもしなければ、こんなにゆとりがあるのはどうしてだろう。そもそも、猫である自分をすぐさま認めてくれたことが、不思議でならない。
みゃう〜ん…
芦原が淋しげに鳴くと、ヒカルとアキラは顔を見合わせた。
「可哀想だね…でも、僕らにはどうしようもないんだ。一日待つしか…。」
「なあ、そろそろ部屋、戻ろうぜ?」
「ん…芦原さんも気に病まないで、グッスリ寝て。」
(えええっ!アキラ、進藤君、俺のこと、ここに残して行っちゃうのか…そんなー…)
ぎゃうぎゃうっ…
「ああっ、こんなに鳴いて…不安なんだ…ねえ進藤、僕の部屋に連れてってあげないか?」
「はあぁ?それでまさか布団に入れるとか言わねえだろうな?」
「だって寒いよ。」
そこでヒカルはアキラの袖を引くと、芦原に聞こえないよう声をひそめる。
しかし、その大きな瞳は濡れていて、ヒカルの中の何かが溢れそうになっていることを表わしていた。
「じゃあ今夜は別々に寝るっていうのか?ヤだよ、そんなの。我慢出来ねえ、バレンタインの夜じゃんか。」
「でも…。」
「一年…一年待ったんだぜ?お前がどーしてもって言うから、付き合い始めて一年は我慢した。だから俺が今夜をどんだけ…どんだけ待ち侘びてたか…ずっとずっと、お前を最後まで抱きたかった…愛したかった…。」
「進藤、そんなことをここで…は、恥ずかしいよ…もう…っ…んん…。」
芦原からは死角になっているところで、ヒカルの手がアキラの体の一部に悪戯をしたらしい。
アキラがクッ…と唇を端を噛み、眉根を寄せた。
「俺はするよ、芦原さんがいても。見られてても。俺たちの声、聞かせるのか?そんなのお前が一番困るだろう。」
「…わかった。」
アキラは芦原の頭をもう一度優しく撫で、それからすまなそうに言った。
「今日はここで休んで。布団、いっぱい置いていくから。…そうだ、一年前に芦原さんが用意してくれた猫のグッズ、まだとってあるんだ。ネズミのおもちゃもあるし、出してあげる。」
んにゃ…(アキラ…)
「心配ないよ、病気じゃないんだ。明日には絶対に元に戻れる。だって――僕らが生き証人だもの。」
…それに、芦原さんにもう一つの秘密を背負わせるのは、気の毒だから。
アキラの微笑がどことなく儚げに見えたので、そこで芦原は初めて鳴くのを止めた。
するとヒカルも芦原の背中を大きく、派手にさすっては、ワリイな、でもおやすみと囁いた。
ヒカルの手が、さり気なくアキラの手を引く。すぐに、指と指が絡まる。まるで猫の尻尾のように――
それから二人は立ち上がり、身を寄せ合うようにしてその場を去って行った。
一度だけアキラが振り返ったようだが、引き返して芦原を抱き上げてくれることはなかった。
今、見た光景は夢だろうか。それとも、自分が猫であることが夢だろうか。
どっちでもいい。ともかく寝よう。寝て、朝が来れば、きっと何もかもがハッキリする。…絶対に、解決する。
芦原は自分が楽観的で柔軟性があることと、酒が入っていることに感謝しながら布団の下へと潜り込み、体を丸めた。
温かい…人間なんていなくても充分温かいと、芦原は感じていた。
夜中に遠くから聞こえて来た、細く、長く尾を引く、人の声のような物音は、北風のせいだろう…決してあの二人が作り出す音じゃないと、芦原は思いたかった。
【アキヒカバージョン】
十八歳になって一人暮らしの許可が出たということで、ヒカルは家探しを始めた。ところが、熱心だったのはむしろアキラの方だった。
「ここは周囲が危険過ぎる!空き地や廃屋が多いのは、環境が良くない証拠だ。」
契約する前に物件を一度見たいと言われて連れて行ったアキラに、結局は一蹴された。
「お前、過保護過ぎだろっ!そうやって何件ボツにしたと思ってんだ…。」
「当然だろう。君は僕の大切な人なんだから、危険な場所に住まわせたりは出来ない。」
(そういう恥ずいことを、よく言えるなぁ…)
気持を確かめ合った途端にこうだ。ヒカルを好きだという気持ちを、隠そうともしない。元々、照れるということがない、何事にも堂々と臨む性格なのだから。
そんな時、ヒカルは嬉しいような、ムズ痒いような複雑な気持ちになるが、これが逆であったらヒカルとて、アキラに負けないくらいアキラのことを心配し、口うるさくなったのは間違いなかった。
そんなアキラの厳しいおめがねに適う物件が見つかったのは、寒さ厳しい二月。アキラに手伝ってもらい、早速引っ越したのは――奇しくも二月十四日、バレンタインの日だった。
「何とか片付いたなぁ…うん、部屋らしくなった!」
バレンタインでもあるし、食事に出るものだと思っていたヒカルは、アキラがさっさと食材を持ち込み、料理を始めたので驚いた。
この一年で、アキラは見違えるように料理の腕が上がっていた。それはヒカルも認めざるを得ない。
何せ、ヒカルに食べさせるためにもアキラは頑張ったのだ。最近の芦原との会話は、碁の話題よりも料理のレシピの方が多いという、何とも奇妙な状態だった。
(塔矢って…いい嫁さんになりそうだな。世話女房っつの?へへ…予想外だったぜ)
ヒカルは、嬉々として炊事洗濯掃除に励むアキラの姿が容易に想像出来て、思わずニンマリするのだった。
美味しい料理もすっかり平らげ、未成年のくせに最後はシャンパンなぞ開けていた。
ヒカルはさり気なく部屋の照明を落とし、雰囲気を作る。外はおあつらえ向きに雪が降り始め、付き合い始めて最初のバレンタインに、いやがおうにもムードは盛り上がっていた。
「進藤…これ…。」
アキラから包みを差し出され、ヒカルにしてみれば当然とは思っていたけれど、やっぱり嬉しいものは嬉しい。喜びを言葉だけでなく、顔いっぱいで表現した。
「ありがと、塔矢!スゲエ嬉しい。…俺さ、バレンタインのチョコ、今年は他のヤツラのは一個も開けてないから。」
「去年は大変だったものね。ふふふ…僕も今年はまだ、棋院に預けたままだ。」
「思い出すなーっ、去年の騒動!」
「うん、僕も忘れられないよ。あんな不思議な出来事はきっと、一生に一度きりだろうね。」
「不思議…か。――もしかしたら、お前と俺、他にも不思議なことを、知らないうちに経験してるのかもしれないぜ?」
「えっ…。」
「や、コッチの話!チョコ、開けてもいい?」
「あ、うん…。」
そしてヒカルが開けた、その箱の中には――
「うわっ!」
ヒカルは大声を上げて、箱を放り出す。アキラがすかさずそれをキャッチした。
「こらっ、何をするんだ、食べ物を…。」
「い、いや、だってそれ…猫の形…ま、さか…去年と同じもの?」
箱から飛び出したチョコの粒を拾い上げながら、アキラは笑った。
「そんな筈はないだろう?君があの後、さっさと処分してしまって、もうないんだから。」
これは偶然入ったお店で見つけた、よく似たチョコだよ、だってあれは手作りっぽかったし、結局、送り主もわからなかったし…と、ヒカルに良く見えるように、アキラがその一粒を摘んで見せた。
「そうだよな?ああ、びっくりした…でも、よく似てるな、それ…。」
「だけど、あの魔法のかかったチョコじゃない。それが証拠に…。」
言いながらアキラはそれを口に含んだ。上品に動く口元に、ヒカルの視線は吸い寄せられる。
「うん…美味しい。何の刺激もない、甘いだけだ…でも、何となく思い出すね?」
にっこりすると、アキラはヒカルの肩を抱き寄せた。すかさず唇が重なり、ビクッと跳ねたヒカルの頭を、アキラの腕が包む。
触れ合った唇がアキラの舌でこじ開けられ、残りのチョコが押し込まれる。そのままアキラの舌は奥まで甘い塊を進めると、それだけでは満足せずにヒカルの口内を辿った。
熱で溶け出すチョコに、思わずむせそうになる…必死で飲み下そうとするヒカルを、アキラは容赦しなかった。勢いに任せ押し倒し、ヒカルの柔らかい髪を愛しげにかきまぜながら、激しく貪る。
既に硬くなりつつある股間を押し付けられ、さすがのヒカルも慌てて唇をもぎ離した。
「ちょっ…ちょっと待てっ…何でお前が、上…え、え…ええー―――っ!」
「あ、あの、進藤?心配しなくていいから。僕がこの一年、一生懸命勉強したのは…その…料理だけじゃないんだ!」
見るとアキラの顔は――真っ赤ではないか!
それが酔ったせいだけではなく、自分に対して欲情しているせいだと思うと、ヒカルの全身もカーッと熱くなる。
「進藤…好きだ…。」
「だって…お前、まるで新婚さんみたいに甲斐甲斐しくて…俺、てっきり…。」
「君が望むなら、僕は何だってするよ?去年、君にチョコを渡せる女性たちに嫉妬した、あの胸を掻き毟りたくなるような…苦しさを思えば何でも――」
プライドの高いアキラがここまで言い切るのも全て、ヒカルへの愛と執着故なのだろう。
今、アキラは意を決したように、想いのこもった瞳を自分に向けて来る。
…この怖いくらいに真剣な目に魅せられて、俺は出会いの日から死に物狂いでコイツを追って来たんだ…
ヒカルがおとなしくなっただけでなく、アキラの肩に甘えるように手をかけてくれたことが、アキラに自信を取り戻させたらしい。
「自信は…ある。僕が君を気持ち良くさせる。決して痛い思いはさせない。愛している人に、嫌な想いなんかさせない。」
「塔矢…。」
そこで、アキラは嫣然と微笑んだ。キスで濡れた唇は、誘うように赤く光っている。王子様みたいに綺麗な顔で、娼婦のように甘い言葉をくれる、天然の塔矢アキラ。
ヒカルは全身から力が抜けていくのを感じながら、言った…
「ちっくしょー…もう、どうにでもしやがれ…俺だってお前のこと、めちゃくちゃ愛してんだからっ!ナニされたっていいくらい、愛してんだからっ!」
「進藤!」
気付いたらまた、チョコにまみれた舌をアキラに吸われ、頭の芯がボーッとなるくらい感じてしまっていた。
アキラはアキラで必死なのが伝わる。唾液を飲み込むのを忘れ、ヒカルの柔らかい唇や舌を吸い上げる。
力加減が出来ないらしく、痛みスレスレの愛撫に、ヒカルがうめき声をあげた。
「おまっ…落ち着け…って…どうして、そんなにお前って真っ直ぐなんだ…激しいんだ…。」
「ご免…夢中で…僕…。」
「猫のお前はさ、何だか無性に可愛かったのになぁ…。」
あん時は、俺の方がお前を翻弄してた気がするのに、この一年で随分変わった…と。
ヒカルは呟き、その毛並みを輝かせていた、美しい黒猫のアキラを思い出していた。
…まあ、どっちがどっちでもー―今更いいや。
コイツが喜ぶんだったら…お手並み拝見といこうかー―とりあえずはな!
アキラとずっとずっと一緒にいられるなら、こういうことは大した問題でもない気がして来た、幸せなヒカルだった。