ここからは完全18禁ですので、年齢に満たない方はご遠慮下さい。
― 変わらぬもの ―
( 3 )
いよいよ引越しの日が近付く。
俺としては別に同じ日でなくとも、塔矢は塔矢の、俺は俺の都合のいい日に荷物を運び込めばそれでいいんじゃないかと思っていた。大袈裟なことは何もない。
――でも結局、俺たちはそうしなかった。
塔矢は住み慣れた実家から。
俺は一人暮らしのワンルームから。
同じ日に、荷物を運ぼう。同じ日に、住み始めよう。
それが俺たちの引越しということで、最終的にはお互いが納得していた。
俺の荷造りはえらく簡単だったけど、塔矢の方はそうはいかない。とりあえず、自分の必要なものだけ運び出す訳だが、その時、ついでに家中のいらないものも廃棄したりして、来るべき塔矢家の取り壊しに備えようということになった。
塔矢の荷作りを手伝うということで、俺は仕事のない日に塔矢の家へと向かった。
しとしとと、雨が降っている。
こういうの小糠雨っていうのかな?傘を差すほどじゃないと思ってそのまま歩いていると、いつの間にか服が、髪が、しっとりと濡れている。
湿気に満ちた空気は、体の表面だけでなく内側までも潤してくれる様だった。
そう言えば、佐為はよくこうやって雨のことを話してくれた。
……雨にはたくさんの呼び名があるのですよ、ヒカル。時雨、五月雨、通り雨…………
俺とは無縁の情緒というものを教えてくれたのは佐為だったが、当時の俺にはピンと来ないことも多かった。
――塔矢だ。
塔矢と一緒にいることで、俺は佐為が残してくれたものを失くさずにすんでいる――
日本情緒を絵に描いたような家、日常。そんなものを、俺に見せてくれる塔矢と塔矢の周辺。そういうものが何度となく、佐為と過ごした時間やそのやり取りを、俺の記憶の底からポカリ……と浮び上がらせてくれる。
佐為と出会ったのも俺の運命だとしたら、塔矢と出会ったことも間違いなく俺の運命だ。
神様にありがとうと言いたい。この雨を降らせている、天の神様。
佐為に会わせてくれたことも、俺に塔矢を愛することを許してくれたことも。
恵みの雨に感謝する気持ちと等しく。
全部全部、ありがとう――
そんなことを噛み締めながら歩いていたら、塔矢家の玄関に辿り着いた。
久しぶりだった。気持ちを確かめ合ってからこっち数ヶ月は、いつも俺の部屋で愛し合って来た。
始まってすぐの恋はお互いの肌のぬくもりを確かめ合うのに忙しく、それ以外のことをなかなかする気になれない。当然、誰にも邪魔されない俺の部屋の方が便利で、塔矢の家からは遠ざかっていた。
だからだろうか。塔矢の家に入ろうとして――俺はちょっとだけ躊躇った。
数え切れないほど来ている。見慣れた家でもある。それなのに。
塔矢とそういう関係になってから初めてだと思うと、足がすくむ気がした。家に拒否されている……そこまではいかなくても、どことなく後ろめたい感じはあった。
最後にこの家に入った日は、まだ友達だった。
でも――今は違う。全然違う。
気持ちは自然と育って来たものだけど、はっきりと将来を決意した今となっては俺たちの間柄は全然違ってしまっている。
指先に冷たさが忍び寄る。雨に濡れて冷えただけじゃなく、心が縮み上がっているんだろうか……
「しんどーっ?そこにいるのは進藤だろう?こっちへ来てくれ。庭にいるんだ。見せたいものが…。」
はっとなる。塔矢の声が、静かな雨音を破って聞こえて来た。
木戸を開けて呼ばれた庭の方へと向かうと、そこに塔矢はいた。
……音が消えた。
目に映るものが、みな、白く煙って見える。
緑の庭の一角――梅の木の横に、塔矢が佇んでいた。
黄色い梅の花は今が盛りと咲いていて、枝に横顔を向けている塔矢は目を伏せていた。
その長い睫毛にまで、雨は降りかかっているんだろうか……
絵のようだった。一枚の、完璧な絵。
まるで梅の木に声もなく語り掛けているかの様な風情が、胸を打つほどに綺麗だ。
言葉になんか表現出来ない。見た者にしかわからない。
目の前に奇跡みたいに広がっている空間と、そこに塔矢が生きて存在することが、不意に夢みたいに思えた――
「…進藤?」
俺は、たまらず手を伸ばした。
壊してはいけない空間だったかもしれない。壊すのが躊躇われたのも嘘じゃない。
それでも俺は、自分はこの空間に踏み込むことを許された唯一の人間だと思いたかった。
背中から抱き締める。
塔矢が振り向く。
顔と顔が凄く近くにある。
二人分の白い息が立ち昇って、俺たちの間に霞をかけた。
「ごめ…何だかお前がさ、梅の花の精みたいだった…このまんま、消えちゃいそうでゾクゾクッ…としちまって…変だよな、俺…。」
「梅の精?はは…君も随分メルヘンなことを言うんだな。…いや、確かにこの梅には何かいそうだけどね。今までにないくらい見事に咲いたんで、見惚れていたところだ。」
「うん…お前、うっとりした顔で見てたろ…この梅…。」
それは、黄色い梅だった。余り見たことがない。
塔矢が、本来は梅の仲間とは違うけれど、ロウのように透き通った花びらから「蝋梅」と名付けられているんだと教えてくれた。
「香りが凄くいいだろう?ほら、雨が降っていてもこんなに力強く漂って来る…女性の香りのようだよね。」
「あ、ホント…いい匂いだぁ…俺、お前の匂いかと思っちゃった。梅の方だったの!」
「僕?全く君は…どうして僕がこんないい匂いをさせるんだ?可笑しなことばかり言う。」
何だか今日の君はいつもと違うなぁ、調子出ないよ、と。
いたずらっぽく笑うから、塔矢の体が震えてくっ付いてた俺の胸まで震えた。
思わず、ぎゅうっと抱き締める――腕の中の塔矢が消えてしまわないように、強く、深く……
首を捻った状態のまま、塔矢が腕を伸ばして俺の髪に触れた。優しい仕草だ。
「こんなに濡れて…風邪ひくよ、もう中に入ろう。」
「何だよ、お前こそどうして傘さしてねーんだよ。」
「縁側で荷物の整理してたらね、蝋梅が香って来て…誘われる様に庭へ出てしまった。自分のうちに庭に出るのに傘を差すのも何だかね…しかもこの程度の雨だ、少しくらい濡れるのもたまにはいいかなって。」
「ふうん…お前らしいかも…。」、
「でも生憎と今日は荷造り日和、じゃないな。…さ、もう入ろう。」
「塔矢…もちょっと、このままで…。」
「え…。」
抗議の声が上がる前に、唇を塞いだ。
手の平の上に塔矢の顎を乗せて、そのままそっと背後にいる俺の方へと運ぶと、首を最大限に伸ばして塔矢の唇を探った。
真正面からでなく少し斜めから合わせた唇は、ヒンヤリと冷たい……
二月の雨に打たれているのだから、仕方ない。押し付けたままの唇の間を、無粋な雨粒が濡らした。
やがて。ゆっくりと、唇を離す。
合わせようとしていた時よりも、もっと丁寧に……
離れていく瞬間の息遣いや感触すらも味わい尽くす様に、ゆっくりと……だ…………
「何だろう…今のキス…今までにないくらい、凄く感じた…。」
「え…マジ?そうなの、今の…え、え、そうかな?」
「うん…ドキドキした…君に後ろから抱かれて無理矢理キスされたのなんて初めてだからかな?それとも…この蝋梅の香りのせいかだろうか…。」
塔矢の声は甘く、少しだけ掠れていた。
最中に昂奮が募ると、塔矢の声は掠れ始める。感じれば感じるほど、掠れて息混じりになる声が凄くいい。
向き直って、今度は塔矢の方から俺に腕を回してくれた。静かで、温かい抱擁。
そっと伺うと、塔矢の睫毛は本当に雨の雫で濡れていた。
思わず、睫毛の水分を吸うように尖らせた唇の先で触れた。
「くすぐったいよ、進藤!」
「花の蜜を吸う虫ってさ、こんな感じかなぁ…お前の睫毛の蜜、甘い…。」
「馬鹿…単なる雨だろう、清潔じゃないよ。舐めたりして…。」
「いいじゃん〜。」
しばらくは笑い合っていた俺たちだったが、次第に体が冷え始めた。半分抱き合った格好のまま、部屋へと歩き始める。
辺りには、俺たちを引き止めるかの様に蝋梅が強く匂っていた。
俺たちは部屋に入ると着替えた。掃除でもしたら汚れるかもと、俺はあらかじめスウェットの上下を持って来ていた。
濡れた髪も乾かし、俺たちは作業を始める。
塔矢の私物は大体仕分けが終わっていた。
それでも最初は塔矢の小さい頃のアルバムを引っ張り出しては笑ったり、作文や通知票を見つけては冷やかしたり(予想通りめっちゃ成績良かった…)して明るく騒いでいた。
楽しかった…生まれてから今までの塔矢の歴史をなぞるみたいで、俺には凄く楽しい時間だった。
ひとしきりはしゃいだ後、塔矢がこれじゃいつまで経っても終わらないから、君は碁関係を頼むと座敷に追いやられた。
客間に使う座敷と続きになっている小さい方の部屋は、縁側に面している。そこに本棚があって、ちょっとした書庫のようになっているんだ。
塔矢先生の蔵書や棋譜や雑誌や…それらを全部を分類して箱に詰める。
欲しいものがあったら好きなだけ持って行っていいよ、なんて言われていたのが敗因だ。やっぱりここでも作業なんてはかどりゃしない。
俺は、昔の棋譜や詰め碁集に夢中になってしまった。
――不意に、背中にぬくもりを感じた。
今度は膝をついた塔矢が、俺を後ろから抱いている。
あぐらをかいて読んでいた俺は、その気配に全く気が付いてなかったから、驚いて声を上げてしまった。
「あ〜、びっくりさせんなよぉ。なに?お前の方、終わった?」
「うん、大体は目処がついていたから、君が邪魔さえしなければもっと早く終わってた。今は、台所の食器とか片付けていたんだ。」
「へえ、そう…俺、やっぱ役立たずかも。面白過ぎて手伝いになんないや。」
俺が手にしていた古い、おそらくは価値のある詰め碁集を塔矢の手が奪う。確かに……と笑う声が柔らかかった。
「いいんだ。急ぐ作業じゃない…まだ、時間はあるし…。」
……あ、また、だ。この頃、こういう表情をよく見せる。
伏せた睫毛の向こう、黒い瞳は、虚ろに、静かに揺れている。
心に投げられた小石がさざなみを起しているような、微妙な変化を告げる、その表情。
何かしたいけど、何をすればいいのかわからない。
ただ、俺の首に回された塔矢の手に自分の手を重ねた。
乾いた手の甲の感触を楽しむように滑らせていると、塔矢が深く息を吐いてから言った。
「進藤…この座敷、よく打ったね。合宿もしたし研究会もした。ここから見える縁側でも、君とは何度も打った。」
「そう言えばそうだな…。」
塔矢の言葉を受けて、俺は改めて辺りを見回した。
この座敷でも散々打った。塔矢とも、他の棋士とも。
検討だって声が枯れるほどやった。何局も何時間も、飽きることなくやった。
もしかしたらこの座敷の畳は俺だけでなく、多くの棋士の涙や汗を吸っているかもしれない。
それを言うと、塔矢も頷いた――そうだね、この部屋は多くの棋士たちを見守って来たんだろう、君の言う通り……
縁側ではもっと色々なことをした。色々な塔矢を目にした。
俺はここにいる塔矢を見るのが、大好きだった。
夏には浴衣で、お決まりのスイカを頬張ったこともある。秋には綺麗な月を見ながら塔矢門下でお月見碁なんてやって、俺も混ぜてもらった。
外との接点。季節を感じる場所。
縁側での想い出は、俺でもこんなにあるんだから。生まれた時からここに住んでいる塔矢にとっては、一体どれだけの……
そこまで考えて、はっとなる。
そうか……そうなんだ…………
この家は、ただの容れ物じゃないんだ。この家は、塔矢先生と塔矢のお母さん、塔矢を今まで育み守って来た環境の全ての象徴でもある。
俺はそのことを、今、塔矢と呼吸を合わせ、この部屋の空気を吸い、しみじみと実感していた。
――すると。
背後にいる塔矢の気持ちが、俺に向かって流れ込んで来るような気がした。塔矢の胸の中には、幾千幾万の、数でははかれない一連なりの想い出があるだろう。
引越しが決まってから。家の取り壊しが決まってから。
そして今――
それはきっと津波のように押し寄せては、塔矢を揺さぶり続けているのに違いない。
一気に込み上げて来た。目元が熱いと思う間も無く、涙が溢れる。止められない。
膝を抱えて体を丸めた俺を、塔矢が前に回りこんで不審そうに見詰めるのがわかった。
「進藤?君…まさか…泣いているのか?」
「う、るせえ…っ…ほっとけ…こっち見んな…ぅ…。」
「進藤…ああぁ…君ってヒトは――!」
声を詰まらせたのは俺だけじゃなかった。
塔矢は無理矢理俺の腕を解いて、頬と頬を合わせる。
濡れた肌が擦れ合って痛みに近いものがあったけど、その感覚は果てしない悦びでもあった。
……じかに肌を合わせると、もっと凄かった。
俺の気持ちなのか、塔矢の気持ちなのかわからない。
俺もこの家がなくなることが信じられないくらいに淋しかったけど、塔矢もそうだろうとその気持ちを想像するだけで胸に堪えた。
それは本当に圧倒的な淋しさだった。言葉なんかじゃ追いつかない。
大事なものが根こそぎ奪われて、心ん中がからっぽになっちゃうような気持ちになるなんて…………
俺は嗚咽しながら塔矢の頭に縋り付いた。目も鼻もグチャグチャだ。
「ご免…ご免な、塔矢…俺、全然わかってなかった。家も、庭も…あの綺麗な梅だって…全部全部、なくなっちゃうんだって…ちゃんとわかってなかった…だか、ら…………っ…………俺だってこんなに淋しいって思うのに…お前はもっと…。」
「馬鹿だな、君は…なんで君が謝る?本当に君は…。」
ぐっ……と、咽喉奥で何かを堪えるような音がした。
それから塔矢はもう泣いてることを隠しもせずに、鼻声のまま途切れ途切れに言った。
「…進藤、君は本当に感情が豊かなんだなぁ…ずっと思ってた…君の方が複雑な心を持ってる。僕は碁のこと以外、あまり興味が持てなくて…。」
「塔矢…。」
「…っふ…あの、さ…心の襞なんて言うけど、君のと僕のとでは全然違う気がする…そう、僕の心の表面はツルツルなんだ…面白みに欠けるというか…。」
「な、何言ってんだよっ!っぶ、お前、おっかし〜っ!」
「あはは、やっと笑った…泣き顔もちょっとクるものがあったけどね。」
「…あ…俺、偉そうだったよな?お前の気持ちがわかるみたいなこと言って…。」
「いや、そうじゃないよ、そんな風に君をはぐらかしたかったとか、触れて欲しくなかったとか…今までだってそういうんじゃない…。」
塔矢が俺を見て、微笑んだ。俺を安心させようとする時、塔矢がよく見せる……
その微笑みに包まれて、俺に降りて来たものは――
わかった。
今俺がしたいこと。
それは、塔矢を抱きたいということ。
心も体も、丸ごと優しく、深く、俺の全部を込めて抱きたい。
降りて来た想いは、真っ直ぐに体に伝わる。
俺は塔矢に飛び付いた。勢いが良過ぎて、そのまま二人は一つの塊になって倒れ込む。
畳に広がった塔矢の黒髪が、蛍光灯の白々とした光の下でも波打つように輝いた。たまらずその髪をかき混ぜながらうなじにキスを落とし、そのまま舌を這わせて吸う。
塔矢が身を捩る。甘い悲鳴が上がる。
その隙に俺は塔矢の両足を左右にさばいて、間に体を入れた。
こういう体勢になると、本能的に腰を押し付けて揺らしてしまう。
いつものようにそうしてしまってから、快感の強さ故に俺は我に返った。少しだけ理性が戻って来る。
慌てて顔を上げた。
「あ、ご免!…や、やっぱここじゃマズイよな。」
「いいんだ…進藤。逃げないで。」
「えっ、でも…やっぱここではこういうの、ナシ、な。だってお前が生まれ育った家だし…いつか取り壊されると思うと…。」
「いいんだって…僕がそうしたいんだ。…したい。この家で……………しよう。」
「…え…して、いい、の…。」
「うん…したい。して。いつもみたいに。」
「本当の本当、に?」
「しつこい。何回言わせる気だ?」
濡れた瞳で睨まれて、俺は悲鳴に近い声で塔矢の名前を呼び顔を沈めた。
きつく抱き締めると、背中や腰に纏わり付かせた俺の腕を押し返すくらい塔矢の全身がしなった。そのうねるような動きが、体の中心に息づくものの興奮までも連想させる。
俺は腰を一層くっ付けて、気を引くように小さく揺らした。
僅かだけど、堅いものが擦れ合う感覚があった。服を着たまま抱き合っているだけで反応し始めている。
この座敷にはどうせ布団はないよなと、俺は塔矢の服を脱がせずにシャツの前だけはだけさせ手を滑らせる。
小さく膨らんだものに指先があたり、夢中で転がした。
音が耳にも脳にも響くようなねっとりとしたキスを繰り返す。絡めた舌先が何かに刺されたように痺れて、頭の芯がクラクラした。
やがて下半身もくつろげる頃には、もう、周りのことなんか気にならなかった。
すぐそこにある縁側も、庭も、そこに咲く蝋梅のことも……
何も考えられなくなって、俺は下から俺に締め付けて来る塔矢と一緒に昇り詰めた。
それから俺たちは、場所をかえて何度もした――
風呂場に向かう途中で、塔矢が子供の頃に身長を刻んだ柱の傷を見せられ、たまらなくなってそこでも立ったまま、まだ濡れている互いのものを掴んだ。
「あ、あ、ああぁ…っふ、ん…―――っ…こんな…。」
「イイ?立ったままでするって、そんなにイイの…。」
湿った空気のこもる廊下に、塔矢と俺の動物的な喘ぎだけが満ちる。それは壁に、天井に、家に吸い込まれてしまったみたいで、全く反響しなかった。
俺は、塔矢の背中を柱に強く押し付ける。
小さな塔矢の身長を記したいくつかの傷は、今は塔矢の腰の辺りだろう。
それを意識しながら欲望を煽り、柱にもたれかかったままで俺たちは射精までした。生温かいものが俺たちの足を伝い落ちる……
心の片隅に罪悪感のようなものが湧きかけると、塔矢が深く口付けて来る。爪を立てる。そうして俺のモヤモヤは、またすっかり散らされてしまうんだった。
最後に行き着くところは塔矢の部屋だった。
風呂場で体は温まったけど、気持ちはクールダウンしたというか。抱き合うだけ抱き合ったら、満足しちゃったのかもしれない。
今度はちゃんと布団を敷いて、裸のままで抱き合っていた。
暖房がきいた部屋でホカホカの肌を重ねると、眠気が襲って来るほどに気持ちいい。
俺たちはまた、ポツリポツリと語り合った――この家にまつわる色々な想い出を。
それは引越しの準備をするよりももっとすべき、大切なことだったのかもしれない。
初めて塔矢家を訪れたのは、第一回の北斗杯の合宿。社や倉田さんもいたっけ。ヨンハを倒すことだけで頭がいっぱいで、他は何も見ていなかった。
それから何度となく訪れたこの家で、降り積もっていった時間。
「…あのさ…お前のこの部屋に初めて入れてもらった時、俺、死ぬほどドキドキしてたって、知らなかったろ?」
「ええ、そうだったのか?」
「そうだったの。お前はどうせわかっちゃいねーって、それもわかったてたけど。俺さ、お前の部屋で打つとほとんど負けてたんだぜ?勝率サイアク。それも気付いてなかったろ…。」
「…なかった…………っ!あ、あ、しん…ぁ…………。」
段々、喋ってるだけじゃ物足りなくなったというよりも、くすぐったくなったんだ。塔矢とこの部屋で昔話をするというシチュエーションが、めちゃくちゃくすぐったい。
愛撫を再開することで、俺はそのくすぐったさを誤魔化そうとする。
塔矢の方は快感を覚えながらも、必死で言葉を続けていた。
「僕はこの部屋で打つのと同じくらい…きっと君のことを考えた。君の棋譜をなぞるのと同じくらい、進藤ヒカル自身の顔を思い出し…君の声を、言葉を…胸で繰り返し…ちょっとはいやらしいこともしたっけなぁ…ふふ…。」
「ちょっと?ちょっとだって…ウソ…いっぱいしてるくせにっ!」
毛布に潜り込んで、塔矢の胸をまさぐった。乳首を口に含むと腰が跳ねる。お尻に回した指先で蕾の周辺をなぞったら、あん……と、抑えた声が頭上で聞こえた。
ひとしきり貪った後、また伸び上がって塔矢を見た。
熱い瞳が俺を捉える。
「嬉しい…凄く、嬉し、ぃ…っふ…この部屋で…君としてる…碁じゃないこと…初めて…ぁ、ああっ…………。」
「忘れられない想い出になりそう?ね…いつか、が来ても…俺としたこと、覚えてる?」
「うん…きっと、忘れない…この空気…この匂い…全部、想い出の中、に…。」
この柱に、この床に、この天井に、この部屋の全てに、この家の隅々にまで――僕らを刻みたいくらいだ。全てに見られたいくらいだ。僕らがこんなに愛し合っているということを――
君と抱き合えて良かった……もっと早くこうすれば良かったのかな……こんなに幸せだなんて想像もしてなかったよ、と。
矢継ぎ早やに囁かれて、俺も頭に血が昇った。
今度は、体よりも先に気持ちが最高潮に達しそうだ。
飽くことなくキスをした。
いつになくお喋りな塔矢の唇を、好きなだけ舐めて吸って、舌を柔らかく弄んだ。
息が続かなくて離した僅かな隙にも、塔矢は語り続ける。
そんなに言いたいことがあったんだな、お前……
「本当に君は豊かで…深い人だ…いつの間にか、口にしなくても僕をわかってくれるようになって…大切にしてくれた…君に、愛されている…こんなにも愛されてるなんて…幸せ過ぎて怖いくらいなんだ…。」
「塔矢、そんな…俺、そんなスゲーやつじゃないって…下心だらけ、だし…ぅ…さっきから持ち上げ過ぎだってば…あぁ、駄目だぁ…そういうの、俺、駄目ぇ…。」
「あはは…君、どうしたの?いつもは、もっと…っ――!」
最後まで言わせなかった。今度は乱暴に唇を塞いだ。
クールダウンしたなんて大間違いだった。聞けば聞くほど、話せば話すほど愛しさが募り、体も繋がりたいと思う。
俺たちは、また深く抱き合った。
さっきは無我夢中だったけど、今はじっくりと……触れた場所の温度を上げていくような触れ方で昂め合う。
塔矢からもたくさん触れてくれた。
日も浅く、躊躇いがちではあるけど、俺の肌を辿る手は熱くて優しくて――必死で愛してくれた。
脇腹や首筋を撫でられると、くすぐったさと気持ち良さがない交ぜになった感覚に、俺はみっともないくらい震えた。
やがて塔矢の中に導かれると、その場所の熱さとうねりとが、俺の快感を深く、大きく、育ててゆく……
塔矢はいつもより乱れた。
俺も、いつもより感じてる。
二十本の指と指を絡ませ、強く握り合い、俺たちは快感の波を合わせようと全身を重ねた。
「どうしちゃったの?お前…すご…感度、イイ…こんな体…知らなかった…。」
「君だっていやらしいよ、いつもより…こんなの…や、ぁ…。」
「もしかして、この部屋だから…お前の…暮らしてる…。」
「言うな…っ…そん、な、ぁ…ぅ…ん…――っ!」
あのワンルームの狭いロフトでするのとは、全く違った。
どこがどう違うのか言葉では説明出来ない。でも、違う。
何年もここにあり続けた古い家の中で、俺たちは命の炎を燃やす様に愛し合った。
かたちあるものは、必ずそのかたちを変える。
しかし中身まで、そこに伝わるものまで、変わってしまうかどうかはわからない。
碁にしても、家にしても、そこに込められた命はかたちを変えても繋がっていくことを、俺たちは知っている。
あの蝋梅の木は、この家がなくなる時にどこかに貰われていくのだと塔矢は言った。
淋しくないの?と訊くと、静かに首を振る……
これまで何年も楽しませてくれたから。
そして。
来年も、それから先も、どこかで誰かに愛され、花を咲かせ続けることだけは信じられるから。
塔矢の言葉に、蝋梅の花の色や香りを思い出しながら、俺も頷いた。