― 変わらぬもの ―
( 1 )
塔矢が俺の部屋を訪ねて来たのは、底冷えのする十二月の初めだった。
いきなり来てもいいかと電話があるのも珍しいし、部屋に入って来た時からして、どことなく様子が変だった。何かあったのかなとは思ったけど、俺は黙っていつも通りに振舞っていた。
一人暮らしを始めて数年。俺のワンルームにはロフトがついていて、そこがベッド。下にはソファとローテーブル、パソコン、そして碁盤。
何か飲む?と訊ねたけど、いや、いい……と断ったきり。塔矢は黙り込んだ。
それでも俺は、自分が飲みたいからと言ってコーヒーを煎れる。レンジでチンしたミルクと混ぜて、カフェオレを作った。
「飲みたくないならいいけどざ、せめて手をあっためろよ。」
並々とついだマグカップを、塔矢の前に差し出す。小さく頷くと、塔矢はそのカップを両手で包んだ。
あ……俺の言いたかったこと、わかってくれたんだな……
また、沈黙になった。
碁盤を出して来ても良かったけど、多分そうじゃない。塔矢が求めているものは碁じゃないということだけは、俺にもわかった。
「進藤…。」
「ん?なに…。」
「君はこのカップを買った時のこと、覚えてるか…。」
「え、ああ、そうだな。俺が一人暮らし始めるってんで、お前に買い物付き合ってもらって…駅前のいつもの雑貨屋だろ。あそこで初めて買った中にあったよな、これ…。」
そう……男二人でウロウロするのは、最初はちょっと気詰まりだったけど、そのうちそういうのにも慣れて、足りないものがあると一緒に買いに行くようになった。
高価じゃないけど、和物、洋物、素朴でぬくもりのある雑貨は使い易く、男の一人暮らしの部屋でも馴染んだし、活躍してもくれた。
「さっき通ったら…あそこ閉店セールしてた。あと三日だって。」
「えっ!マジ?わ〜、惜しいなぁ…あの店、気に入ってたのに。ほら、この革のチョーカーとかもさ、あそこで手に入れたんだったよな。」
「君とよく行った定食屋も閉まっちゃったしね。」
「ああ、あそこは…ばあちゃん、腰悪くしたって…美味かったのにな、お前も俺も、あそこのおでん大好きだった…。」
「うん…。」
塔矢は、静かに項垂れた。
そうか……コイツ、言わないけど……その言葉だけは言いたくないのかなぁ……
――淋しいなって。
一度言ってしまえば、本当に雪崩のような淋しさに巻き込まれてしまいそうで、それが嫌なんだろうか……
最近、塔矢の周りでは変化が相次いだ。
塔矢を可愛がってくれた母方のお祖母さんが亡くなり、そのすぐ後には、碁会所で塔矢とよく打っていた常連さんがまだ四十代の若さで亡くなった。
そしてとうとう塔矢家の老朽化が進んだことと、親父さんたちが中国で外国人用マンションを買って移り住んでしまったことで、塔矢家は取り壊されることになった。
塔矢は今、自分が住むマンションを探しているところだ。
「変わらないものって、ないんだな…どんなものでも尽きる時が来る…。」
やっと口を開いた塔矢の声は、ぞっとするくらい力がなかった。軽かった。
俺は、それまでジロジロ見ちゃいけないと遠慮していた視線を塔矢に戻す。
――白い顔だった。遠い目だった。
「何?お前って、そんなにあの店、気に入ってたの?」
「だって、もうこのカップを割っても、新しいもの、買い足せない…。」
俺はどうも手元があやしいらしくて、このカップも既に二個も割っちまった。結構厚手のカップなのに、気に入っているからこそ使う回数もハンパじゃなくて、さ。
「それだったら…似た様なもの探す?他の店で…いや、ネットで探せば同じものも見つかるかも…。」
そこまで言って、俺ははっとなった。
――だから。だから、そうじゃないんだってば!
塔矢が、俺を見た。哀しい瞳だと思った。
塔矢の哀しみの源は、そんな簡単なものじゃない。もっと別のところにあるんだ――
「楽しかったな…君とワイワイ言いながら、食器を選ぶの…最初は他のお客さんが女性ばかりで気になってしょうがなかったけど…そのうち僕ら、検討してる時みたいに派手な言い合いになっちゃって…。」
「おう、そうだったな。だってお前と俺、趣味が全然違うんだもん。」
「それでも、最後にはちゃんと決まったよね。決まったら嘘みたいに、僕達両方とも買った物は気に入って…。僕、あの店の前を通るたび、君と買い物したことを思い出して必ず笑ってたよ。思い出し笑いっていうの。自分でも、そんな自分が可笑しかった…不思議だった…。」
楽しい思い出話をしている筈なのに、どうして?どうしてお前の目はどんどん潤んで、心は深く沈んでいくんだ……
「そこに昨日まであって、明日からもずっとあるものと思っていた…それが急に無くなる…人も…場所も…。」
「塔矢…。」
こんな塔矢、見たことなかった。
いつも強気で、碁のことならどこまでも喰らい付く執念は凄まじい。弱音を吐くトコなんて、一回も見たことなかった。
十二歳で出会ってから約十年――こんなに憂いのある顔を見たのは、初めてだった。
もう、子供じゃない。俺たちはいつの間にか、失くすことの意味を知り、それを畏れる大人になってしまったのだと――
塔矢が、カップを握り締めたのが見えた。白い手の甲に血管が浮き出るくらい、強く握り締めている。
俺は右手でグーを作ると、その丸めた手の甲で矢張り塔矢の手の甲をツン……と、突っついた。
塔矢が、弾かれたように顔を上げた。大きく見開かれた瞳。黒々とした瞳。真っ直ぐに、俺を見る、瞳……
何としてでもこの瞳に応えたくて――俺は言葉を探した。
「この手は変わんないぜ、俺の手はさ。や、ちょっとシワシワにはなるかもしれないけど…あ、桑原先生みたいに染みもデキちゃうかもしれないけど。…でも、俺のこの手はずっとお前と打つ。お前が元気なかったら、頭撫でてやるし。偉そうにしてたら背中、ド突いてやるぜ〜。」
「ふふ…そうか。そしたら時々はこんな風にコーヒーを煎れてくれるか?」
「おう!そのくらい、お安いご用さ。」
「ありがとう…じゃあ、ついでにこうしてもいいか…。」
ついでにって、まだ何かあるのか、お前って意外と贅沢……なんて茶化してたら。
塔矢の手が俺の手を引いて、自分の頬に当てた。最初は軽く。そして次第に強く押し付けられる。
とうとう、頬から耳元近くまで撫でるように動かされて、俺は塔矢が俺の手を愛しんでくれているんだとわかった。
心臓が駆け出した。息が苦しい。
何かを言いたいけど、何も言葉は出て来ない。
俺の手を包む、塔矢の手のぬくもり。頬の滑らかさ。指先に掠る黒髪の生え際。
それ全てを味わうだけで、もういっぱいいっぱいだ……
「この手は変わらない…これからも、僕と打ち、僕を慰め、僕の為にコーヒーを煎れてくれる…ずっとずっと…僕を幸せにしてくれる手だ…。」
「と、や…。」
やっと言葉が出たと思ったら、情けないくらい掠れていた。
「泊まってもいいか、今夜…。」
「え、いいけど…。」
「ただ泊まるんじゃないよ、いつもみたいに。今夜は…君の手に、今まで誰にも触らせたことのない場所を、触って欲しい…。」
君が差し出すこの手に、僕の形を覚えて欲しい。僕を、知って欲しい……もっと…………
急に、胸の奥に熱いものが溢れた。
込み上げる感情を抑え切れずに、俺は塔矢の頬に乗っていた手を滑らせ、髪の中に手を忍ばせる。頭を引き寄せると顔と顔を近付けた――友達同士では有り得ない近さまで。
「塔矢…いいの?本当に?…もし、淋しいだけなら…。」
「馬鹿なっ!僕が淋しさゆえに君とそうなりたいとでも?」
睨まれたのに、俺は嬉しかった。塔矢の本気がそこにあったから――
「じゃあ悪いけど、俺、途中では止めないよ。それに…俺はお前を抱きたい。抱く方がいいんだけど…。」
ここまで言うだけでも、俺的には相当必死だった。うあぁ……こ、声が震えてるかもしれない。
「いいよ、どっちだって。君は僕を…酷い目にあわせるつもりはないんだろう?自信があるから、そうしたいって言うのなら…任せるよ。この手を信頼してるから…。」
微笑みながら喋ると、こんなに優しい声音になるんだと知る。
塔矢のどこまでも柔らかい声が、耳に心地良くて。もっと何か喋って欲しい。聞かせて欲しい……
俺はその唇を塞ぐのを、少し躊躇ったくらいだった。
触れるだけのキスを、何度も何度も繰り返す。
サラサラ零れる黒髪に差し込んだ手に、どんどん力が入る。
塔矢が、コーヒーのお陰ですっかりぬくもった手で俺の首筋を撫でてくれるのも、凄く気持ち良かった。
「君を、失いたくない…一番失くして怖いものは何だろうと考えた時、真っ先に君が浮かんだ…。」
「俺もだよ…だから、簡単に手を出せなかった…お前の存在が、大事だから…。」
「うん…何となく、わかってた…と、思う…よ…………ぁ…。」
もう一度、塞ぐ。今度は最初から深く、そのつもりのキスだ。
塔矢の舌先が俺の唇を割って滑り込んで来る。すぐに俺の舌を探り当てて、掬い上げた。
その瞬間。
頭の天辺から爪先までを一気に貫いた甘い痺れを、俺は生涯忘れないだろうと思った――
翌朝。目覚めて塔矢が俺の横にいるんでビックリした。
いつも俺がロフト、塔矢は下のソファをベッド代わりにしていたから。
ロフトの天井は低くて、完全には立ち上がれない。
天井が間近に迫った狭苦しい空間で、俺たちは激しく求め合って、何度も絡まり合った。頭をぶつけそうになったり、下に転がり落ちそうになったり。
それでもその小さな空間は俺たちを妙に安心させてくれ、荒い息も、互いを呼ぶ声も、甘い喘ぎも、全部がひとかたまりになって俺たちの身近にあった。
あぁ〜、今思い出しても……か、顔が熱くなる…………
どうしよう、どうしたら……と思っていたら、塔矢がぼんやりと目を開けた。
「えっと…はよ…。」
「うん、おはよ…。」
「体、きつくない?シャワー、行けそう?」
恐る恐る訊ねる。
確かにさ、最後までする時には大事に、慎重に、と心掛けたつもりだけど、途中も無我夢中で頑張っちゃったから……
ええっと……最後の方なんか、意識が飛んであれやこれや、凄いこと要求したりされたり……
塔矢は何をしても嫌がらなかった。何をお願いしても拒まなかった。
こういうことに関して言うのはヘンなのかもしれないけど、俺は塔矢の人としての深さを見た気がする――
「不思議だな…もう、君はいないのにまだ入っているみたいで…あそこがジンジン疼いてる…。」
「わわわあぁっ!た、頼むからあまり直接表現、しないでくれる?その…入ってる云々っつーのは俺のことだと思うと…も、も…恥ずかしいっつか何つか…。」
「へぇっ…君、意外と照れ屋だったんだなぁ…うん、新鮮だ。今まで知らなかった進藤だ。」
――そこで、ニッコリ……極上の微笑みとは、こういうことかと思う。
お前にとっても初めての俺かもしれないけど、俺にとっても初めての塔矢だ。
うっとりと見惚れてたら、塔矢がちょっとだけ神妙な……いや、怖いくらいの顔付きになって言った。
「そうだ!あの雑貨屋、閉店セールしてるから行こう。カップを出来るだけ買い占めるんだ、君が割っても大丈夫なように。」
「あ、はいはい〜、わかったから。」
「それからその後で…物件探しを手伝ってくれ。条件を変えたいんだ、一人暮らし用じゃなくて…間取りを変えて、もう少し広い二人暮し用…。」
「は?二人暮しってヘンな言い方だなぁ…って、お前、誰と…。」
驚く俺の胸に、そっと塔矢が頭を擦り付けて来た。毛布の中では、足首に足首が絡まる感触があった。
「知ってるだろう?僕の性格は…こうと思い込んだら脇目を振らない、前しか見えない。もう僕の人生には君しかいない。だったら少しも離れていたくないんだ…いいか?」
君か、僕か。
どちらかの鼓動が止まる、その日まで。
出来る限り近くにいたい。傍で、生きていきたい。
塔矢の心の声が、俺の胸の奥まで届いて。
震えるほどの喜びに、俺は目の前の愛しいヤツを強く強く、抱き締めた。
死ぬまで変わらぬものが、今、互いの腕の中にある――
( 2 )に続きます