― 十年愛 ―
(一年目の夜)
夜中に、ふと目が覚めた。
隣にある筈の温もりが消えている。そっと手を這わすと、シーツが冷たくて、もうかなり前から君がそこにいなかったことを知る。……僕の心も、途端に冷え始める。
「おやすみ……。」
ドキッとした。
自分に言われたのでないことは、すぐにわかった。驚いたのは、それがとても進藤の声に聞こえなかったことだ。
息を殺して目だけを動かす。進藤はベッドから少し離れた窓際に座っていて、そこに置かれた碁盤に向かってうな垂れていた。
暗闇の中に、ひっそりと溶け込んでいるその横顔は、人が懐かしいものを見る時の穏やかな色をたたえており、彼の手は碁盤の上を撫でるようにさすらっていた。
「今夜から新しい部屋だけど……お前とはここでもずっと一緒だ。よろしくな……おやすみ……。」
小さな小さな呟き。聞こえない方が良かったと思った。どうして、聞き取れてしまったんだろうと、自分の耳が心底恨めしかった。
君は、あんな優しい声で、優しい顔で、僕におやすみなんて言ったことは、一度だってない。
今夜だって、ひどいことをいっぱい言われた。
辛いことも、たくさんされた。
今日は、進藤の引越しだった。
昼間は大勢の仲間が、手伝いと引っ越し祝いと称して集まり、賑やかだった。
何かの拍子に二人きりになった時、囁かれた。
「塔矢……お前は今夜、泊まってけ……。」
耳を唇でイタズラされたみたいに、抑揚のない低い声が掠めていったのが不快だったのか、それともその口調そのものが、命令のようで不快だったのか。
―――でも、僕はそうした。そう。一番不快なのは、彼に逆らえない自分自身だった。
お開きになって皆が去り、僕も一度は辞し、少し時間をあけてから進藤の新しい部屋に戻ると、玄関先で彼は僕を押し倒した。
「お前、戻って来るのおせーよ……もう来ねーのかと思った……。」
「お前が他のヤツラと仲良くしてると、何だかわかんねーけどムカムカ来て、やだった……早く抱きたくて、早く裸にしたくて……。」
「ねえ?オンナみたいによがれとは言わねーけど、もちっと声出せよ?気持ちいいんだろ?ねえ、塔矢……何か言えよ……。」
年齢のせいだろうか。
この頃の君はわざと汚い言葉遣いで、ワルぶっていたように思う。それがかえって、僕の中に快感を注ぎ込むのが僕にも段々わかって来た頃で、悔しくて情けなくて、余計に僕を頑なにさせていたのかもしれない。
絶対に、進藤の思い通りにはなりたくない。
体を許し合う関係でも、心は見せてやるもんかと、僕も精一杯君の言葉に反抗していた。
進藤は、僕がイタイとかここじゃ厭だと言っても、きいてはくれなかった。
まだ潰したばかりのダンボールの束が、すぐそこに立て掛けられているのが目に入る。掃除も適当で、おちこちにガムテープの切れ端とかが落ちているようなこんな場所で……。
彼は凄い力で僕を押さえつけると、冷たくて堅い床の上で僕の体からむしり取るようにして服を剥いでいき、それを引越しで出たゴミみたいにそこら辺に放り投げる。
―――乱暴にされればされる程、進藤は僕が好きだから抱くんじゃないんだ、したいからするんだ、それだけなんだと確認出来る。
それで、僕はとても、安心出来た―――
僕の体をいいように扱って、快感を貪る彼にどんな酷い言葉で挑発されても、僕は彼の名前を呼ばない。気持ちいいとも、感じるとも言わない。
……最初の頃は不思議だった。
どうして、さっさと自分だけ欲望を満たせばいいのに、彼の始まりは必ず僕の方を感じさせるところから……なのだろうと。
その内に、人と肌を合わせることすら初めてで、戸惑うことだらけだった僕にもわかって来たのだ。
相手が歓びに震えるその仕草や表情や、そして何よりも声に、人は官能を呼び覚まされるのだということが。だから進藤は、僕に色々なことを試みて、僕の反応をいちいち観察しているんだなと。
だったら、尚更思い通りになるもんか。
ひたすら我慢する僕を見て、君は悔しがればいい。嘆くがいい。
一体、自分は塔矢アキラに何をしているんだろうと。こんなことして、何になるんだろうと。
―――僕らは、自分達の始めたことの愚かさと哀しさを、魂に鋭いナイフで刻み付け、その傷から流れ出た血が僕らの心を覆うままにし、真実をその血の汚れによって隠そうとしていた―――
「進藤……。」
「あ、起こしてワリイ……新しい部屋で興奮しちまったのかな?何か眠れなくてさ……。」
僕とセックスする時以外の彼は、本当に普通だ。
そういうモードに切り替わると、事後も出来るだけ冷たい感じを装うくせに、友達同士の時は以前と変わらない。
その切り替わり方が、少し怖いくらいだ。
……彼の中に秘められた多面性が顔を覗かせる時、彼はあの僕が狂ったように追い続けた進藤ヒカルなのだと思い出す。
「このベッドも新品だもんね。しかもいくらセミダブルでも、オトコの僕が一緒じゃ窮屈だし。」
「この部屋に初お泊まりしたのは、お前になったな。このベッドで、初エッチもな?」
そう……玄関でした後も僕らは止まらなくて、ベッドの上でも下ろしたてのシーツを汚した。
進藤が笑いながら、碁盤のところから立ち上がる。
僕は、その碁盤の静謐なたたずまいが、まるで生きている人のように思えて、意地悪を言うのを抑え切れなかった。
「その碁盤……随分使い込んでるみたいだけど?今の君ならもっといいものが必要なんじゃないか。僕からの引越し祝いは、新しい碁盤にしようか?」
「…え?碁盤?」
「うん。新しいのを贈るけど?」
人懐こい微笑を浮かべていた進藤が、急に顔色を変えた。というよりも、顔から表情が消えたと言った方がいいかもしれない。
彼の中の別人格が入れ替わって、表に出て来たみたいだった。
「引越し祝いなんていらねーよ!そんなことお前にしてもらうつもりはねーから。」
「その碁盤……君が碁を始めた時からずっと打ってるものなんだろう?誰かに貰ったのか?」
「余計な詮索すんなよ……俺がどんな碁盤で打とうが、お前には関係ねーだろ……。」
進藤が、一歩ずつ僕の方へと歩いて来る。ゆっくりと踏みしめるように足を運ぶのが、彼の怒りを表しているかのようだ。
下半身にはパジャマ代わりのスウェットを着ているが、上半身は何も付けていない。いつの間にか僕よりもひと回り逞しくなった彼の、程好く筋肉に包まれた上半身は、彼が動く度にその生命力をオーラのように発散させていた。
暗闇に慣れた僕の目を、進藤の目がしっかりと見ているのがわかる。自分の内面に踏み込まれることを拒絶している、目だった。
息が詰まる―――君に見詰められると、上手く呼吸が出来ない。
でも、そのことを悟られたくなくて、僕も絶対に君から目を逸らさないと決めていた。
抱き合って、君に僕の心も体も何もかもを、ぐちゃぐちゃに引っかき回されている時も、僕は出来るだけ目を逸らさないで、君の全てを見ていようと思っていた。
対局中、真剣に盤面を見下ろす俯き加減の君も―――
友達みたいに雑談する時の、くつろいだ君も―――
僕と裸で抱き合って、息を激しく乱して、快感に眉をひそめる君も―――
そして。
今みたいに、自分の中の触れられたくない部分を探られた時に、ここから先には来るなと警告する君も―――
どんな進藤ヒカルも、僕が、僕だけが見られるものならば、絶対に見逃したくなかった。彼の全てを、僕の記憶に刻み付けたかった。
今夜のように、彼が僕にうっかり無防備な姿を見せる時―――それは、僕にとっても滅多にないチャンスだった。
君を知りたい。君を感じたい。
その為なら、どんなことだって言うよ?たとえ、君を不快にさせても、僕が君に疎まれても、だ。
「余程、大事な碁盤なんだな。…わかったよ。引越し祝いなんて言い出した僕が馬鹿…っああぁ…っ…!」
「お前、うるせーんだよっ!」
進藤が、ベッドに起き上がって膝を抱えていた僕の髪の毛を乱暴に掴み、これ以上は無理というくらい上を向かせると、痛みに悲鳴を上げた僕の唇に吸い付いてきた。
強く吸い上げられて、苦しさに否応なく開かされたそこから、また深く深く君が侵入して来る。
……こうして僕の言葉を塞ぐことで、君は何を隠そうとしているのだろうか……その内容そのものよりも、君のこんな誤魔化し方が、癪に障ってやりきれないよ………
「髪……ぜってー、切るなよ?暫くはさ…この綺麗な髪が…どんな風に伸びるの…か、はァ…見たいからさ……んんー…。」
進藤が僕の顔中に、せわしなくキスを落としながら、切れ切れに囁く。
「よ、せ…苦し…あっ…も、駄目だ…。」
キスだけで君が飽き足らなくなるのに、いつもそんなに時間はかからない。
ベッドの上に乗り上げて来て、膝を抱えていた僕と向かい合わせの位置に座ると、スラリと伸びた両足で囲むように僕の体を挟んで、しっかりと抱き込んで来た。
……逃げられない……
君がこんな風に僕をその熱で捕らえる時―――
君と触れ合った部分から、どんどん凍りついた僕自身が溶けて流れ出してしまいそうで、それが待ち遠しい。
そうして進藤ヒカルにドロドロに溶かされて、元の形を留めることすら困難になった僕は、今度は進藤の中に流れ込んで行きたい。
君が決して僕に触れられたくない、見られたくない場所を、いつの間にか覆いつくし、そこにあるものを感じたいんだ……。
だから。
だから、僕は君と体を重ねるのかもしれない―――
言葉では跳ねつけていても、態度には欲を滲ませていなくても―――
「はあ、ん…!…言ってるだろ?…は、な、せ…。」
「まだそんなこと…強情なヤツ…こうしてやる…。」
進藤が僕の両腕を僕の背中へと導き、そこで束ねて押さえ付けて離さない。
胸がぐんとそらされる形になり、少し捻じられた腕も痛い。それなのに、進藤は僕の手を戒めたまま、僕の肩や胸や脇腹を、痕を付ける勢いでなぶっていく。
進藤のしつような愛撫に感じ始めていることを知られたくなくて、イヤイヤと頭を振ると、その時、さっきの碁盤が目に入った。
それは、まだカーテンすら付いていない新しい部屋の窓辺に、あった。
―――突然、その碁盤が気になり出す。
さっきまでは意識していなかったのに、同じ部屋に、それがあると思っただけで、何だか落ち付かない。碁盤が生きて、僕らの行為を見ているようで、馬鹿な妄想だと思いつつも、気配を感じずにはおれなくなった。
進藤の成長を見守り、一番身近で彼の碁に賭ける情熱の全てを見て来た碁盤……。
進藤に新しい碁盤を贈りたいなんて言った僕を、責めているのか?
さっきまで自分の表面を優しく撫でてくれていた進藤の手が、僕の体を激しく愛撫するのが、悔しいのか?
それとも……
こんな愚かな行為を繰り返す、若い僕らを、ただ哀れんでいるだけなのか?
黙して語らぬ碁盤の前で、僕は心に誓った。
これから何年進藤とこういう風に抱き合っても、決して本当の気持ちは言わない。どこまでも隠し通してみせる。
僕が彼を欲しくて欲しくてたまらないということを、絶対に悟られないようにするから。
だから、どうか僕を、僕らを許して欲しい。
快感の波に呑まれて、進藤と絡み合うようにベッドに倒れこんでしまうと、もうその碁盤は僕の視界から完全に消えた―――
僕らが、哀しくも愛おしい十年の歳月を始めたばかりの、最初の年の、夜の出来事だった。