― 十年愛 ―
(俺の願い)
病院に来るのなんか、久しぶりだった。自分の為にも、人の為にも、来なくて済むのなら、その方がいい場所なんだろう。
その場所に。
俺は今、塔矢を訪ねようとしている―――
「…進藤……。」
「よっ!…入ってもいい?」
病室は個室だった。午後の日差しが部屋中に溢れていて、ここがどこだか一瞬判らなくなるほどだ。
塔矢は白いパジャマにグレーのカーディガンを羽織って、ベッドの上で本を読んでいた。多分棋譜か、碁関係の本だろう。
あまりジロジロと見られては塔矢も厭だろうし、俺もそういうのは落ち着かないから、すぐに焦点を塔矢本人からはずして、ぼんやり部屋を見渡した。
綺麗な花や見舞いの品物がそこら中に置かれていて、塔矢が本当にこの部屋の今現在の主なんだと、思い知る。
「えっと…お袋さんとか、塔矢先生とかは?」
「母は今用事で家に帰ってる。父はもう中国に発ったよ。僕も明後日には退院だから。」
「そっか…うん、もうここを出るって聞いたから、家の方に見舞いってーのも何だし。俺、来週は地方が多くて、棋院にも行かねーし、今日はたまたま午後、こっち方面の仕事だったし、だから…。」
「…何しに来たんだ?」
「…!!…塔矢……。」
「何をしに来たかって、聞いてるんだ、進藤。」
塔矢の言い方には怒りが滲んでいるという訳でもなくて、ただ純粋に、疑問に思ったことを質問をしているだけだという感じだ。
俺はあらためて、塔矢を真っ直ぐに見た。
―――痩せた……塔矢……服を着ていたって、すぐにわかるさ。
元々ない頬の肉が極限まで削がれ、顎が尖って見える。
眼は少し落ち窪んでるけど、宿す光は変わらずに強く。
薄い形のいい唇は、病院の空調のせいだろうか、乾いて白けている。
首なんて……とてもじゃないが、直視出来ない。だって、触れたら折れそうなくらい、細くなっちまってるじゃないか……!!
「何をしに来たんだろうな、俺は……。」
呟きながら、ベッドに近付き、塔矢の髪に触れた。
耳の脇に流れる一房をそっと掴み、指先で揉むようにしてその感触を確かめる。
汗でちょっと湿っているけど、その黒々とした輝きは損なわれていなくて、俺はちょっとだけほっとする……。
塔矢はされるがままだが、それでもまだ俺をじっと見ていた。質問に答えろと、その瞳が訴えている。
「この髪がさ、折角こんなに長くなったのに……病気のせいで切っちゃったんじゃないかって、それが心配だったのかな?」
「じゃあ、十分安心しただろ?ちゃんと洗えてないから、触るのは止めてくれ。」
今度は、俺の言葉にはっきりと反発した。そして髪に触れていた俺の指を、塔矢の右手が振り払った。
―――その手が!手首が!パジャマから覗いた腕が!
人形のように白くて、細くて、俺は心臓が何かに手掴みされて、それからぎゅっと握り締められたみたいに苦しくなって―――
俺は、あっけなく降参した。
「違う……見舞いに、お前の見舞いに来たんだ、俺は……。」
それを聞いて、塔矢が笑った―――ように見えた。
……日差しの中で、花がほころぶように、綺麗に笑ったと思った。
もしかしたら、塔矢は俺が来るのを待っていてくれたんだろうか?
そんな考えが、頭を過ぎる。
……いや、それは、ないな、絶対に。
でも、目の前の塔矢が、少なくとも俺の訪問を嫌がってはいないことは、その緊張の解けた顔から察せられて、俺は安堵した。
―――来て……良かった……まだ、その軽くなっただろう体の線を見ることは、辛いけれど……。
「お前〜、見舞い以外で、何で病院なんか来るんだよ?」
「だって、棋院から用事を頼まれたとか……そういうことだってあるかもしれないじゃないか?」
声も、少し弱々しい感じがする。腹に力が入らないんだろう。
俺は塔矢に促されて、ベッドの横にある椅子に掛けた。
「…体はもういいの?」
「うん。肝臓が少しやられただけだ。胃も荒れてたし。…情けないな。」
「お前、食べないから。その……俺が聞いた時は、スゲー危なかったって…。」
「ええ?そんなことないさ。誰がそんなことを?」
「えっと…芦原さん、だったかな?運ばれた時、お前真っ黄色で、意識もなくて、本当に危なかったって……。」
「意識はあったよ!全くあの人は大袈裟な。体調が悪かったところに、市販の薬を飲み過ぎたんだ。別にたくさん飲めば、それだけ効く訳でもないのは判ってたんだけど。時間もないし、急場凌ぎのつもりで飲んでいたものが、体に合わなかったらしい。それだけだよ。」
「そっか。もう大丈夫なんだ。」
「うん。もうこんなことが無いように、気を付ける。」
「そうしてくれ……。」
―――沈黙が落ちた。
塔矢は、逆光の中で、俺を静かに見ている。一体何日ぶりで、お互いの瞳を見ているのだろう。そこに、相手が映っていることを、確認し合っているのだろう……。
蜂蜜色した午後の日差しの洪水と、病室独特の生温い空気の中で、余りにも濃密な雰囲気が生まれ―――お互い、目が逸らせなくて、呼吸が早まる。
ここは病室なのに。外にもたくさん人はいるのに。……塔矢アキラは病人で、衰弱しているのに。
俺は、その体を優しく抱き締めて、どの指にも黒髪を絡めて、乾いた唇を俺の唾液で濡らしたいという衝動と、懸命に戦っていた。
「…お前、入院中も打ってた?」
先に沈黙に耐え切れなくなったのは、やっぱり俺の方だった。
「ああ、見舞い客とこっそりね…ふふ…そうそう、社が来てくれた。打って行ったよ。」
「社、ねぇ…。」
俺は、ギクリとする。
「前の晩は君と一緒だったと言ってたけど。でも君、酒も飲まなかったし、煙草も吸わなかったって。不思議がっていたよ……止めたのか?」
アイツ!余計なことを言いやがって!!
「いんや〜、たまたま俺も体調悪かったんで、食事だけ付き合ったの。そんだけ。」
「ふーん…。」
―――嘘っぱちだった。
俺は、塔矢が倒れたと聞いた日から、酒も煙草も絶った。
願掛けなんて古臭くて信じている訳じゃなかったけど、人は必死になった時、出来ることはどんなに非科学的だと思っても、せずにはおれない。
塔矢が、一日も早く元気になって復帰出来るようにと。
もう二度と、『生と死の境』をウロついたりしないようにと。
俺は大好きな、そして唯一の趣味であるバイクにすら乗らないことで、願いを聞き届けて欲しいと思った。
そう、一番大事なものを絶つ方が効果が高い気がして、俺は既にバイクも手放してしまったんだ。
勿論、塔矢には……いや、塔矢どころか、誰にも、俺がどんな想いで、酒も煙草も、そしてバイク断ちまでしていることを、知られてはならない。
塔矢への気持ちは、一生隠し通して、最後は墓場まで持って行くんだと……古臭い言い方だけどさ……そう、誓っているから。
「何か理由でもあって、止めたのかと思ったよ。君も体調が悪いとか……。」
塔矢が、まだそこに食い下がってきた。何か、感じているのかな……。
「や〜?マジでそういうんじゃねーよ……あ、俺見舞いの品って持って来てないんだ、よくわかんなくってさ、急に来ちゃったし……だからって訳でもないけど、俺自身が見舞いってーの、どう?」
おどけた顔して、俺は自分自身を指し示すように親指を立てて見せた。
塔矢が怪訝そうに眉をひそめて、俺の次の言葉を待っている。
「…なあ、塔矢……打つ?」
俺は、右手の人差し指と中指を交差させ、幻の碁石を掴んで、パントマイムのようにゆっくりと打ち付ける仕草をした。
塔矢の瞳が、瞬きもせず、俺の指の行方を追う。
―――塔矢の目の前で、おそらくは何万回も繰り返してきた動きで、アイツの心を捉えた。
「え、いいのか?そんなに時間、あるのか?」
塔矢の顔が、ぱっと明るくなる。コイツ、本当に判り易いよな〜、碁のことになるとさ、それまでどんな話をしてたって、そっちの方に注意が行っちまうんだから……俺の作戦通りだぜ。
「うん。今日はもう用事ないからさ、お前の体が平気だったらいくらでも付き合うぜ?」
「そうか。じゃあ、そっちのテーブルの方で打とう。ほら、折り畳みの碁盤があるから。」
俺は、言われた通りにベッドの脇をすり抜けて、窓際に置かれた簡素な応接セットの方に向かう。塔矢もベッドから降りようと、布団から足を下ろしてスリッパを履こうとしていた。
「…あっ…っ…!!」
その時。
塔矢がバランスを崩して、ふらついた。俺は、前のめりになって倒れそうになった塔矢の体を、反射的に受け止める。
「わわっ!おま…大丈夫かよ〜?まだ、寝てた方がいいんじゃ…。」
「進藤。手を…離せ……。」
「だって!お前、そんなんで、元気になったって言えんのかよ?やっぱりベッドに戻れっ!碁はお前が本当に元気になってから、いくらでも打つからっ!!」
「いいからっ!大丈夫だから、今すぐ打つんだ、進藤!」
「…塔矢?どうしたんだよ?今打たなくたって、俺達いくらでもこれから打てるじゃん?そりゃ、退屈してたんは、よくわかるけどさ。」
「いくらでもっ!?いくらでも、打てるのかっ!?僕達は……。」
「塔矢?」
「…あの日……最後に君と逢った晩、僕らがどんな別れ方をしたのか、忘れた訳じゃないだろう?あんな風に別れて……何日も君と口もきかなかった……そして、体がおかしいと判って病院に運ばれた時……ほんの一瞬だったけど……このまま君と永遠に打てなくなったらどうしようと……。」
それはおよそ塔矢らしくない、消え入るような声だった。
言ってはならないことが、するりと無防備に口から出てしまい、困惑していたのは他ならぬ塔矢本人なのだと、俺には判った。
俺を押し戻すつもりで、俺の肩に乗せられていた筈の塔矢の指先が、小さく震えたのを感じたから―――
塔矢が倒れる前、最後に逢ったのは、その半月くらい前だったと思う。
暫く海外遠征や地方が続いた塔矢と、なかなか逢えなくて俺はジリジリし始めていた。
逢うことだけだったら、何度でも可能だ。でも、プライベートで碁を打ってそれから夜を誘うとなると、タイトルにも絡んで忙しくなってしまった俺達には、難しいことだった。
もうそろそろ限界だ……一体何週間アイツを抱いてない?
他の女友達と後腐れのない関係をいくら繰り返しても、塔矢と過ごす数ヶ月に一度の夜の方がどれだけ密度が濃くて、豊かで、俺の乾きを癒してくれることか……。
塔矢は、アイツは、どうなんだろう?
俺が欲しくて、体だけでなく心も苦しい夜を過ごしたことなんて、果たしてあるんだろうか?
やっとアイツをつかまえて、二人とも次の日の仕事が午後からという貴重な夜だった。
抱き合った次の日は、男同士の激しいセックスの余韻で、塔矢も俺も気だるくてしょうがなかった。
特に受け容れる側の塔矢は、辛いだろう。だからこそ、余計にアイツを気持ち良くさせてやらなきゃ、割が合わないからと……もう俺と寝てくれなくなるかもしれない。
遊びでも、好奇心でも、それから賭けに負けたことへの引け目でも、理由は何だって良かった。
塔矢が俺に触らせてくれるのなら。
俺にしか見せない痴態、俺にしか聞けない嬌声、そして俺にしかくれない哀れみと軽蔑の眼差し。
……苦しい。もうそろそろ本当にヤバい。塔矢欠乏で、呼吸がままならなくなりそうだ……。
塔矢を抱くのには、この5年の間に暗黙のルールが出来つつあった。
必ず、碁を打ってから。碁会所でも俺んちでも、一回は真剣勝負をする。
この対局の後に塔矢を抱けると思うと、それだけで武者震いがした。
―――碁を打つことが、既にセックスの始まりで、前戯のようなもんだよな?俺らって……。
そう言うと、手形が残るくらい強くアイツに平手打ちされた。碁を冒涜するなとか何とか言って。
でも、その後はいつも以上に乱れるアイツを抱けて、俺は味をしめてしまった。
塔矢は、背徳的な状況や、イケナイ行為の方が、体には気持ちいいんだって。
それを必死で俺に隠しているけど、どんなに本音をぶ厚い氷のような瞳と言葉で覆い隠しても、ある部分で透けて見えちゃうこともあるんだ。
そう。その日も、夜は泊まって行く約束で碁会所で打っていたら、塔矢目当てで通って来ている常連の女性が塔矢に馴れ馴れしくして来て、俺は内心むかついていた。
「塔矢先生。ここのお紅茶がお好きだって市河さんからお聞きして…。」
とか何とか言いながら、それを渡していた。
「これ、限定品ですよね?最近、手に入れそびれてました。よくこのフレーバーが好きだとご存知でしたね?」
塔矢のお愛想を聞いていると、ドス黒いものが心に垂れ込めて、その晩、俺は自分をコントロール出来ないほど、荒れた。
部屋で二人きりになるなり、俺は引き摺るようにして塔矢をベッドに連れて行く。
アイツは俺の手を振り解こうと、身を捩って抗議した。
「進藤っ!!はな、せっ!!今夜は話したいことが……。」
「俺らって話なんてする必要、あんの?」
「…どういう意味だっ!?」
「どういうって……だって俺達の間にあるものって碁と……こういうことだけだろ?」
塔矢の体を力一杯抱き締める。鍛えている俺とは違って、背ばかり伸びて最近ますます華奢になって来た塔矢の体は、呆気ないくらい簡単に俺の腕に捕らわれた。
「止せっ……進藤っ!!……おいっ!!」
股間にケリが入った。でも中途半端なそれは、俺にダメージを与えたばかりでなく、塔矢の体のバランスをも失わせた。
すかさず倒れてゆく塔矢の体の上にのし掛かって、押さえ込む。
ベッド脇の床の上、全身の体重をかけて、更に両手は塔矢のそれをばんざいをする格好で押さえて、離さない。
うなじや耳に噛り付くようなキスを落とし、痛みが走る位の力で吸い上げた。
これが思った以上に、効いた。
痕が残るかもという惧れと、本当に痛いのとに気をとられてしまい、他の部分の抵抗力が奪われたらしい。
一気に塔矢の服を剥いでゆき、あちこちにキスの烙印を押す。
「…オンナ相手だったらな……お喋りも必要かもしんねーけど……はァ……そういうまどろっこしいもんがないのが……っ……オトコ同士のいいとこじゃん?」
切れ切れに囁くと、塔矢が歯軋りして耐えているのを感じる。
「…進藤……僕と……こうした、かったか?」
「ああっ!!お前がオンナにお愛想してるの見て、虫唾が走ったぜ。ここんとこご無沙汰だったからさ……早くお前を抱きたくてしょうがねーのに、あのオンナが邪魔して時間食うから……。」
―――それは本当だった。
俺は一秒でも早く、塔矢に触れたかった。
一秒でも長く、塔矢を感じていたかった。
例え、心が、お互いよそを向いていたとしても―――そうしたいだけの鬱屈と淋しさが、その日、俺を襲っていた。
塔矢に包まれたい……塔矢で渇きを癒したい……ただ、それだけ……。
馴らしも殆どないまま、塔矢に自分を沈める。
アイツの苦痛に歪む顔を見ていると、自分の愚かさを見せ付けられているような気がして、目を逸らそうとした。
「進藤……も一度、訊く……僕とこう……したかった?」
まるで、逸らすのは許さないとでもいうように、塔矢が俺の頬を震える両手で挟んで、しっかりと目を合わせてきた。
突然―――隠しても隠し切れない愛しさが津波のように胸に押し寄せ、思いがけず俺は微笑んでしまった。全くの計算外。無意識のなさせた業だった。
「そう……それは……君のお祖父さんが…っ…亡くなったから?」
塔矢の声は、俺に貫かれたままにしては余りにも穏やかで……一瞬、何を言われているのか……俺には、わからなかった。
「進藤……どして……僕に一ヶ月以上も……黙ってた?」
やっと塔矢の言葉の意味を理解したと思ったら、途端にさーっと潮が引くかのように俺の中の熱が冷めていく。
「塔矢……お前、聞いたのか?」
「…僕も、何度もお逢いしたのに…どうして…僕には、話したくもなかったのか?」
「……。」
言葉に出来なかった。
何と返せばいいのか―――自分の心の有り様が複雑過ぎて、何も言えない。
塔矢の言う通りだった。
俺の祖父は、亡くなった。祖母がその半年位前に亡くなっていたから、きっと淋しくて気力もなくなっていたんだと思う。苦しむこともなく、安らかな死だった。
ばあちゃんが亡くなってからは、両親も俺も頻繁に訪ねていたし、碁も随分打った。最後まで俺に対しては置き石を許さなかった。それがじいちゃんなりのプライドだったり、慈しみだったりしたんだろう。
本当に、大昔のことのように思える。
塔矢と俺がこんな関係になる前だ。つまり―――塔矢の髪を賭けて勝負をする前。
俺らがまだただの友達だった頃、じいちゃんの家に何度か誘った。
塔矢と打てるのが嬉しくて自慢で、じいちゃんは機嫌が良かったな……塔矢と俺も、縁側で打ったりした。
それに、一度だけお蔵の中に入ったこともあった。佐為の話こそしなかったが、ひんやりとした独特の空気の中で、俺達は時間の流れを感じさせない、不思議な時を共有した。
碁盤をみつけた時に、塔矢は俺がいつもしているのと全く同じことをしてみせたから、ドキリとして、それからこみ上げるものがあった。
…塔矢は、碁盤の表面を、優しいゆっくりとした動作で、そこに向かって話しかけるように、撫でたんだ……
もしかしたら―――
それを見た瞬間が、俺が塔矢を好きだと気が付いた運命の瞬間だったのかもしれない。
その後くらいからだったと思う。塔矢を、どうにも引けないくらい愛しているということ―――それが、いつの間にか消せない真実として、静かに胸にあった。
じいちゃんの家で過ごした時の、純粋に楽しかっただけの想い出は、俺にとっての宝物だ。
もう二度と、あんな風に無邪気に塔矢と過ごすことはない。
俺は、自分でそうした。塔矢を好きになったから、そうせざるを得なかった。
だけどさ、想い出くらいは綺麗なままで、大事にしまっていたって許されるんじゃないか?
じいちゃんの死を塔矢に告げることは、俺達があんな風にじいちゃんちの縁側で温かい雰囲気に包まれて子供のままで過ごしたことを、まるでなかったかのようにしてしまいそうで。
そんな風に、相手に対して尊敬と友情だけで繋がっていた時代があったことすら、消えてしまいそうで。
塔矢には、アイツが海外遠征とかで不在がちだったのをいいことに、じいちゃんが亡くなったことを告げずにいた。そして、これからもそのことに触れる気はなかった。
でも、塔矢は今、知っている。
俺に組み敷かれて、受け容れさせられて、それでもこうして俺に確かめようとしているのは、じいちゃんが死んだという事実じゃないんだ。
そのことで、俺がどんな気持ちでいるのか、どうして、自分には関係のないことにしてしまいたいのか―――塔矢の知りたいことは、そういう種類のことだと、アイツの漆黒の澄んだ瞳が、語っていた。
その瞳は底なし沼のようで、俺は魂を吸い込まれそうになってしまう。
…まずい…まずい、まずい、まずい……まずい……
このままこの瞳に見詰められ、追求されたら、俺の本音が暴かれてしまう!!
そのことにはっとして、俺の頭を必死で固定させようとしていた塔矢の手を引き剥がすと、手近にあったネクタイでその両手首を縛り上げた。
塔矢は、自分がされていることが信じられないらしくて、呆然としていた。俺にされるがままだった。
心は冷たい塊を抱え込んで、どんどん冷え切っていくのに、体は自分のやっている残酷な行為に煽られて、たぎってゆく。
塔矢の悲鳴にも啜り泣きにも近い声を聴きながら、目は一度も合わせないままに、俺は勝手に動いて絶頂を目指した……。
「ごめん……痛かったよな……。」
波が引いた後は後悔が入れ替わりに襲ってきて、俺は塔矢の手を解放し、その乱れた髪の毛を掻き集めるように指で梳いた。
床の上に半裸状態で投げ出されて、塔矢は息を整えている。
俺は、どんな罵倒の言葉だって、平手打ちだって、何だって受ける覚悟を決めてアイツの次の行動を待った。
「進藤……何か、満たされたか?少しでも、楽になったのか?君は……。」
塔矢は、俺の予想を裏切って、穏やかだった。
信じられない。こんな酷いことまでされて、一体何のつもりなんだろうと、俺は不気味な感じすらしてくる。
「止せよ、塔矢。何か俺に優しくしたい理由でもあんのかよ?じいちゃんが死んで、俺がそれで落ち込んでるとでも思ったのか?淋しがり屋の進藤を慰めてやろ〜とか、そういうお友達っぽいことでも考えてるわけ?」
思いっきり捻くれた口調で言う。
すると、塔矢はもっと俺を驚かせることを言い出した。
「僕も、君のお祖父さんが好きだった。君と過ごしたあのおうちが好きで、あのお蔵が好きで……だから、君が僕を必要としているのならと、思った。でも、違うのかな?こんな風に亡くなってから何日も経っているのに、一言も触れてくれないなんて。僕は……君とこういうことをしていても、君のプライベートとは、何の関係もない人間なのか?」
塔矢は身を起こして、また俺を見詰めた。
床に膝を立てて座り込んだままの俺は、塔矢のあの瞳が怖くてどうしても目を合わせられない。
頭を抱え込んで、クシャクシャと髪を掻きながら俯いた。
「…だ〜から〜、どうして俺がお前にああ、塔矢、じいちゃん死んだよなんて言う必要があるんだ。お前に言わなきゃって、そんなん思い付きもしなかったぜ。」
もしかしたら塔矢は、本当に俺に隠されていたことが、淋しかったのだろうか―――そう思うと、次第に気持ちが揺らいでくる。
このまま、塔矢に縋って心を曝け出して、自分を甘やかしてしまおうかとぐらつきそうになった。
その時、塔矢の口から出た言葉が、俺を我に返らせてくれた。
「進藤……お金が要るのか?お祖父さんのうちを売らないで済むには、お金が要るんだったら……。」
「―――お前、馬鹿にしてんのか、俺のこと……。」
一気に、感情が反転した。
俺の言葉の棘を感じ取って、塔矢が硬直したのがわかった。
瞳に緊張の色が浮かんだが、それでも俺から逸らしたりはしなかった。
「俺が……金が必要なら、お前はホイホイ貸してくれるってのか?あ〜、それとも塔矢サマはタイトルホルダーだもんな〜、金には困ってないから俺にくれるの〜?永久貸しってヤツ?」
自分で何を言い出すのかわかんないまま、でも何かを喋らないと駄目だと急かされて言い継ぐ。
「ははは……なあ、塔矢?借金の担保は、俺の体?それとも碁か?」
「進藤!!…君は…っ……。」
今度こそ、本当に、平手が飛んで来た。
押さえた頬がジンジンしたけど、それでも塔矢の視線の方がよっぽど熱くて、痛い―――
もうどうでも良かった。
塔矢がどういう経緯でどこまで聞いたのかなんて、関係ない。
確かにじいちゃんが死んで、相続税とか何とかで金がいるんであの古くなった家を取り壊して、庭の部分を売ることになっていた。生前から打ち合わせしていたらしい。
庭……当然それは、あのお蔵も取り壊すということだった。
俺は断固として反対した。でも両親にしてみれば、俺がどうしてそこまで執着するのか理解出来ない。
俺は今まで自分が金を稼いでいるという感覚も薄かったが、社会人として家族として、もっと知っておくべきことがあるという意識もなかった。
そのことを後悔して、俺がどうにか出来ないのかと何人かのオトナに相談したりもした。オフレコでと頼んではいたが、こういう話はどこかから漏れるもんなんだろう。
俺が稼げばいい。
こんな言い方はクリーンじゃないかもしれない。でも、俺が勝って勝って勝ちまくって、タイトルを獲ればいいんだ。単純なことだ。
そう決意して、とにかく俺なりにあの家と、あの蔵と、そしてあの宝物みたいな想い出の空間を今暫く、手元に残しておきたいと―――そう決意したばかりだった。
塔矢には知られることなく、塔矢との運命をくれたあの場所を、守りたかったんだ………。
それを!……アイツに知られた上に、こんな哀れみ一杯の態度をされて、俺は感情が激した。
怒り、というのとも少し違う。情けない自分への嫌悪、だろうか。
いや……もっと、くだらなくて浅ましい、俺のプライドから来るものだ。
塔矢が俺に優しい。俺を慰めたいと、俺の力になりたいと、この数年間の乾いたいびつな関係が嘘のように、心を開いて俺を見ている……真っ直ぐに、見詰めてくれている……。
それが嬉しいのに、嬉しくない。
だって友情から来るものだったら、欲しくはないよ……そんなに中途半端な好意だったら、もう塔矢から受け取りたくはなかった。いっそ体だけのつまらない関係のままで、そのレベルに留まっていた方がマシじゃねーか。
塔矢の全部が俺のものにならないのなら、その方がいい、ヘンな期待をしたくないと―――それほどまでに、その時の俺は切羽詰っていた。
「帰れ……とっとと、帰れ。今夜はもうお前の顔、見たくねぇ……さっさと出て行け。お前が出て行かないなら、俺が出てくっ!」
叩き付けるように言うと、立ち上がって出て行く用意をする。
「進藤、君はそこまで僕を……もう、どんなにしても、僕のことを……。」
塔矢の引き攣れた声が、胸に堪えた―――
背中に感じる塔矢の気配を断ち切るように、俺は自分の部屋を飛び出した。
夜の街をうろついて、適当に入った店で酒を飲んで、明け方になって戻った時―――当然ながら塔矢はいなかった。
俺はシャワーを最大にして、頭から浴びる。温水じゃない、冷たい水だ。
いっそ外が土砂降りだったら、どんなに良かったろう。そうでないからこうして冷水の雨の中、自分を痛め付けることしか出来ない。
刺すような水圧に全身を晒して、俺はさっきまでここにいた筈の塔矢を想った……。
どうしてこんなことになっちまうんだろう?
俺と塔矢は、ある意味バランスをとってここまで来た。アイツの髪の毛を自由にする権利と引き換えに、俺は塔矢に自分の本当の気持ちを隠し通すことに成功して来たんだ。
でも予期せぬ事態が起こると、思わず足元をすくわれそうになる。今日みたいに、塔矢が俺に真っ直ぐに向かって来ると、もう俺はそれをかわすことが難しい。
だって……だって俺は、こんなにも塔矢が好きだ……愛してる……塔矢しか、愛せない……。
塔矢の友情に甘えて、じいちゃんのことやあの家にまつわる想い出を話して、全てを委ねてしまえたら。
塔矢の腕の中で、一切の感情を堰き止めないで、子供のように激しく素直に涙を流せたら。
塔矢の優しい抱擁を思い描いただけで、全身が悦びに満たされ、震えが起きた。
決して現実にならない妄想は、やがて俺の中で行き場を失い、自家中毒を起こしそうになる……。
―――やっと泣けた。
涙がシャワーの水と一緒に流れていくのに任せて、俺は体の芯が冷え切ってしまうまで、泣き続けた……。
あの夜から、俺は塔矢と連絡を絶った。アイツからも、何も言ってこない。
棋院でも鉢合わせしないように、俺は用心深く行動した。
このままになってしまっても、もう仕方ない。その覚悟は出来ていた。
これ以上塔矢を抱いたら、いくら遊びに見せかけていても、自信がない。
いや、それ以前に、あんな風に酷いことを言った俺を塔矢が許すとは到底思えなかった。絶交に値する言動だったし、そもそも塔矢はじいちゃんの死を俺に秘密にされていたことからして、既に憤慨していたんだろうから。
あの嵐のような夜から半月くらいが過ぎようとした頃、塔矢アキラが倒れて入院したと大騒ぎになった。
棋院でそれを聞いた時、俺は自分がどうやって普通に振舞っていたのか、記憶にない。
……あの夜の出来事のせいなのだろうかと一瞬よぎるが、俺のことなんか塔矢は切り捨ててしまえば済むことだ。気になるのなら、我慢なんかしないで俺にまたぶつかってくる筈だし、塔矢は子供の頃からそういうヤツだった。
絶対に俺とのいさかいが原因である筈は、ない。
でも。
もし俺のことも原因の一つだとしたら、どうすればいい?
誰よりも塔矢の幸せを願っているのに、俺のせいで……いや、そんな筈は……堂々巡りをしながらも、ひたすら塔矢の回復を祈るしか出来ない、もどかしくて苦しい日が続いた。
やっと見舞いに行こうと決心が着いたのは、今朝になってからだ。
昨日の晩、俺の夢の中にじいちゃんが出て来て、笑ってくれたから―――じいちゃんが死んで初めて出て来てくれた夢で、俺は何かを許されたような不思議な気持ちがした。
目が覚めた時、胸に切なく、でも温かいものが、凄く生々しい感覚で残っていた……。
そして。
塔矢に逢いに行こうと……塔矢に、何しに来たと厭な顔をされても、追い帰されてもいいやと……ただ足が病院へと向かった。
俺は、倒れ込んで来た塔矢の体を支えたまま、片手でその肉のない骨ばった背中を上下に撫でた。塔矢は興奮の余り、息も不規則で手もまだ震えている。
俺は、宥めるような仕草を、ゆっくりと繰り返した。
そんなことしていいものかわからなかったけど、そうしたくて仕方なかった。
「塔矢。落ち着けよ。わかったから。ちゃんと打つまで俺は帰らないよ……。」
ほんの少しだけ塔矢の体が傾いで(かしいで)、俺の方に寄って来た。細くなった両手は、変わらず俺の肩に乗せられている。俺達はどちらも目を合わせないで、よそを向いたままだ。
俺達の間には、隙間があった―――僅かな、でも決して埋められない確固たる隙間。
そんなもの、今この瞬間どちらかが一歩を踏み出せば……どちらかの腕が相手の体に回されれば……すぐに消えてしまうのに、それをしない。
こんな中途半端な体勢は、初めてかもしれない―――
俺達の間にはいつも心理的に碁盤があるし、抱き合う時も体の密着感とは裏腹に、心は寄り添わせないようにしていたから。
さっきの沈黙と一緒だ。
どちらかが根負けして次のリアクションを起こすまで、時間の感覚が失われ、塔矢との間にしか感じ得ない重たくて濃い空気が流れる。
「…この前は悪かった。僕が無神経だった。あんな時に訊ねることじゃ……なかったのに。」
今度は塔矢が先に言葉を発した。しかも、いきなりあの酷い夜のことに触れて来て、俺は驚かされた。
「ちょ、ちょっと待って。俺の方こそお前にひでーことして、あんな風に飛び出しちまって!いや、マジで俺のが悪いよ、あれに関しては……。」
「でも、君には言いたくないことを言わない権利だってあるし、言ってくれなかったことを責める方がおかしいんだ。君がなかなか言ってくれないからって、自分からどんどん突っ込んだことを口にしてしまって……。」
もしかしたら、その先は―――そうやってまで、自分たちには友達としての関係だって残されていることを、俺に思い出して欲しかったと続くんだろうか……。それとも、全然違う何かを伝えたかったのだろうか……。
「もういいって。止めよう、俺達らしくねぇよ、こんなの。謝りっこしてるなんて、ムズムズしちまうぜ〜。お前だって俺とのことがあったから、倒れた訳でもないんだろ?さ、大丈夫なら、さっさと打とうぜ。病院が消灯になって時間切れ〜なんてなったら、悔しいしさ?」
サラリと会話の中に混ぜてしまった。反応はあるだろうかと……塔矢の顔を思いっきりおどけた表情で覗き込んだ。
……塔矢の瞳には、力がなかった。さっきまでの光は失われて、ぼんやりと焦点の定まらぬ様子だった。
心配になって、遠慮がちに支える手に力を込めて、促そうとした。
「…塔矢……どした?やっぱ、気分悪い?」
「進藤。僕はいつまでも待てると自分に自信があった。君に関しては、待っていることは一つだけじゃなくなってしまっても、待つことは出来る。まだ若い僕らには、無限に時間があると思っていたし。」
やっと塔矢の目が、俺に向けられた。この乾き切った空気感の中で、そこだけが辺りの水分を一気に集め出したみたいに、塔矢の瞳が潤んで輝き出す。
その揺らめきに吸い寄せられて、俺はピクリとも動けなくなった―――
「だけど今度倒れて……人の明日ってわからないなって、怖くなったのも本当だよ……。」
塔矢が塔矢らしからぬことをして来た―――俺の髪に触ったんだ。
……耳の上辺りをそっと撫で付けるようにして……それから指先を差し込んで前髪を梳く……やがてもう片方の手も、俺の後頭部に添えられたのがわかった……密やかな圧力を感じる。
俺は、動けぬままにそれを受けた……どうしていいかわからずに、本能が次のサインを出してくれるのを待つしか、出来ない。
「…この髪、明るい前髪……子供の時のまんまだな?メッシュが入っていて、もう本当の髪の色なんて、ここには戻って来ないんだろう……こんなに何年もここの毛を脱色してたら、止めても健康な髪には戻れないんじゃないか?……君はそれでいいのか?」
…いいのか……って、えっと、何が?……塔矢、今、お前、俺に何を、問い掛けてるんだ?……止める?……戻って来ない?……それでいいのかって、ああぁ、混乱する!!
その目はいけない。その目が悪い。
そんなに潤んだ瞳で俺を見る、お前が悪い―――!!
「おじいさんにも叱られてたろう?ヒカル、いい加減その髪は止めろ、プロになって何年目だ?って……。」
心臓が突然、大きく跳ねた。嘘発見器の針が、振り切れる程反応した時みたいだ。
塔矢が俺の名前を呼んだ……ヒカル……って……初めて呼んだ……いや、これまでもあっただろうし、今だって会話の流れでたまたま口にしただけなのは、わかってる。
でも、現実になったからこそ初めて知ることも、世の中にはある。
―――俺は、塔矢にヒカルと呼ばれたいんだ……そう呼ばれることの意味を、全身で受けたい、魂で感じたい……。
ならばそれは、禁句だ。俺にとって、封印すべきものだ。
塔矢に名前を呼ばれる日は、全てが終わる日だ―――
「俺も触っていい?お前の……。」
返事を聞く前に、もう手は塔矢の髪にかかっていた。
まだ不安だから右手は塔矢の腰を支えて、左手でさっきよりももっと確かに触れた。利き手でないから動きはぎこちないけれど、手の平からは確かな熱が放たれている筈だ。
言葉に出来ない想いを、塔矢の髪に触れて伝える―――この5年の間して来たことを、これからの5年間も繰り返していくのだろう。
俺達の十年は、折り返し地点で沢山の分岐点をさすらいながら、それでも一つの方向へ向かって流れて行こうとしていた。
「もうここまで伸びたんだ……長くなったなぁ……でも、絶対に切るなよ、もし又お前が倒れても、俺も又チェックしに来るからな。あ、倒れられるのはもう御免だけどさ。」
「僕だって二度と厭だよ。明日も明後日も、ずっと碁を打っていたいよ。」
「じゃあ、俺んちにも又打ちに来てくれる?」
少しだけ、間があった。塔矢が見せたのは、躊躇いではなくて、驚きの表情だった。
「…そうだね。退院して、色々と雑事が片付いたら。」
その前に体重戻して顔色良くなってからだ、一杯食えよ、負けた時の倉田さん並にナ!…と言うと、俺の腕の中で、二人の体の隙間を埋めるくらい明るい笑い声が響いた。
何ヶ月ぶりかで耳にする、塔矢の笑い声だった―――