― 十年愛 ―









この髪を 俺のものにしたい・・・・

この髪の持ち主を 俺のものに出来ないのなら・・・・

せめて どうか 神様―――
















「髪…伸びたな…もうこんなだ…。」
話し掛けたんじゃない。
独り言だった―――だって、塔矢は眠っている。ベッドの上、俺の腕の中、綿の毛布と俺の裸の肌にその体温を守られて。

そっと、髪をかきあげる。

     …さらさらさらさらさら…

指の隙間から零れ落ちていくものは、砂や水やそんなものだけではないと。
それを俺に教えてくれた塔矢の髪を、何度も何度も梳いてきた。
この十年。長いようで、短かった十年。



いつからだろう。塔矢が髪を切ろうと言い出す度に、何度も止めたのは、俺―――

だからとうとう、賭けをした。

俺が今度の対局に勝ったら、後十年は切るなと。

馬鹿馬鹿しいと笑いながら、でもそれを受けたのは、お前だろ?



負けた時のアイツの悔しそうな顔は、イク時と同じくらいのエクスタシーをくれた。
マジで、あの朱に染まった顔、眼に水分が湧いていた顔、唇を病人のように紫色にして震わせていた顔……
あれを思い出して、何度も自分でしたよ?



笑い顔より、優しい声より。
睨み付けてくる目と、苦しくて掠れた息。
それが見たくて、イカせる―――
それが聞きたくて、焦らす―――
それが、俺の抱き方だから。



今は肩にかかって、裾が背中を這うように揺れるのが、たまらない。
このくらいの長さも、凄くいい。
愛し合う時も、以前よりももっと……俺の体を掃くようにくすぐるように撫で、そして鞭のようにしなやかに優しく打つ。
今となっては、おかっぱよりも俺に有効な武器かもしれない……



十年の有効期限が切れる前に、もう一度賭けをしなきゃなんない。
今度は、この長さを十年キープ―――

塔矢はもうとっくにそんな賭けなんかしなくても、俺の好みの髪型から変える度胸なんて、ないだろうけどさ。

でも。賭けにしてやることで、アイツは逃げ道を得る訳だ。

どうしていつまでも髪を短くしないんですかという煩わしい質問に、この十年ハンで押したように答えてきたのを、俺は知ってるぜ?











―――友達との、約束なんです―――
それ以上は相手に踏み込ませない、キッパリとした物言いだ。

…友達…そうだな…こんなに激しく、意識をどこかに飛ばしてしまうくらい、体のパーツがバラバラになりそうなくらい、繋がりあっても……

俺達は、お・と・も・だ・ち―――

塔矢の髪を梳いているだけでは物足りなくなって、その髪をそっと耳にかけてみる。最初に右を…それから左も…
おかっぱの時は長さが足りなくて、かけてもスルリと元に戻ろうとしたけどさ、今はしっくりと耳にかかって馴染む。
形の良い、小ぶりな耳が、夜目にも白く眩しい。

今度は、前髪をかきあげる。かすかな寝汗が俺の指先を湿らせ、塔矢が汗をかくくらい、俺がコイツを離したくなくて強く抱いていたことを、自覚させられる。
塔矢の汗を吸ったひと差し指を、ペロッと舐めた。
…少し、しょっぱい…気がする…・・・

指と視線だけで塔矢に触れていると、やっぱりそれだけじゃあ物足りなくなってくる。
いつも、いつも、そうなんだ。
一つ叶うと、もう一つくらい、いい?
一つ許されると、もう一つ何か許してよ?
言葉にはしなくても、俺の貪欲さにコイツはウンザリしているかもしれねえ…

起き上がると、塔矢の上に四つん這いでかぶさって、両肘を付く。
両手の十本の指を広げて、それを櫛代わりにして、また髪を梳いていく。
何度梳いても、飽きない…飽きたことなんか、この十年、一度だってなかった。
ずっと、このままでいたい。
塔矢の髪に触れることの出来る、唯一の人間―――
塔矢の髪型にあれこれ口出し出来る、唯一の人間―――

指に触れる髪の毛の一本一本ですら、愛しくてたまらない。
俺の気持ちが伝わったのか、髪に意思があるかのようにサラサラと輝きを放って流れ、俺の指の皮膚全体に優しく絡んで来るような錯覚すら覚えた。
…体が、心が、震える……



「…進藤?…起きてたのか?」
塔矢が、うっすらと目を開けた―――











「…起こした?」
「…んー…、夢を、見てた…。」
「そう?…どんな夢?」

まぶたがかぶさったままの半開きの目からは、綺麗なガラス玉のような黒い光がゆらゆらと放たれている。
……色っぽい。俺が今まで抱いてきたどんなオンナ達より、塔矢の方がずっとそそられる……

「…どんな、ねえ…そう…君が、僕の髪を触っている、それも大事そうに…そして、こう言うんだ…この髪は俺のもんだって…。」
ゆっくりと、その夢を辿りつつ気だるそうに言うのが、またたまんねーなぁ…。
「それ、夢じゃねーじゃん?ホントだろ?…お前の髪は俺のもんだ…。」
―――お前本人を、俺のもんだと言えない代わりに、お前の髪だけは―――

塔矢の頭を撫でながら、唇を近付けていく。
重なる寸前まで目を閉じないでいると、塔矢も張り合うみたいに俺の目を見つめていた。
いつものように俺の方が少しだけ頭を捻って、鼻同士がぶつかるのを避けて口付けようとするが……
まだ目を閉じない塔矢に呆れて、俺は触れ合うギリギリの位置で、止まった。お互いの息がかかって、くすぐったいくらいの位置だ。
俺の前髪が、塔矢のおでこの黒髪に乗っかってる。

「キスすんだぜ。目、閉じろよ?」
「君の方こそ、閉じろ。」
「お前…先に閉じろよ!俺の方がお前にキスしようとしてんだから、俺が最後まで見てなきゃなんねーの!場所がずれてもいいのかよ?」
「別に…君はどこにだってしてくるから、一緒だ。…どうして僕の方がいつも先に目を閉じなきゃならない?」
今の今まで夢の中にいたとは思えないほど、クリアで挑戦的な声。

「くそっ!…も一回ヤッちまうぞ?」
塔矢に優位に立たれたくないから、キスはもう放棄する。
そして、アイツの髪を掻き混ぜながら耳たぶを噛んだ。ここはアイツが感じる場所のひとつ。
さっき夜の闇の中でも光っていた白い耳は、オブジェのように綺麗だと思う。
その形を確かめるように、舌先を尖らせて。
窪みを辿り。穴を唾液で塞ぎ。歯を立てて、もう一度甘噛みする。
塔矢の息遣いが少しづつ荒くなっていくのを、耳元で感じて―――

「ぃたっ!」
夢中になり過ぎた俺は、長くなった塔矢の髪を俺の腕の下敷きにしてしまったようだ。
……アイツが小さく呻いた。











「あ、ゴメン…お前の髪、長くなっちまったからさ…うっかりしちゃって…。」
「この前も、僕の髪を引っ張った…。」
「ん?ああ…あれはちょっと気分が盛り上がってさ、髪引っ張るのって、何か無理やり襲ってるっぽくて興奮する…わわっ!ゴメン、ゴメン!!殴んなくてもいいじゃん〜?」
「…帰るよ。」
「ええっ!?今何時だと思ってるんだよ?夜中の…まだ三時過ぎだぜ?よせよ、俺が悪かったって。」
「……。」
「まだ、ここに、いて?…ね…塔矢…。」

起き上がって髪を撫で付けている塔矢の体に、そっと両腕を回す。
塔矢の髪に顔を埋めて、今度はさっきと反対の耳に唇をあてながら、囁く。
「髪…長くなったな…でも、もう少しこのままがいいなあ…この、骨の辺りくらいまでは、どう?長過ぎかな?」
俺は、塔矢の無駄な肉の全くない、滑らかな背中に手を這わせ―――
肩甲骨の硬いラインを、指先でゆるやかになぞり―――

塔矢の上半身が、ビクッと跳ねるその反応を楽しむ。
「これ以上伸ばしたら、不便だ。」
「そだな。エッチの時には、いっそ髪を縛る?でも、それじゃあ、つまんねーし…。この髪が、乱れるとこがいいんだからさ…。」
「僕は…君との約束で仕方なく君の希望通りにしているだけだ…。君を、喜ばせたい訳じゃない…。それに…。」
「…それに?なーに?」
「いや…。」
「…りこちゃん?彼女が何か言うの?」

塔矢が、俺をきつい瞳で見つめてきた。
俺の腕の中で、俺に愛撫をされながら、よくもそんな顔が出来るもんだ。
―――さすがは、塔矢アキラだと思う。

「人の婚約者のことを、そんな風に気安く呼ぶな。彼女の名前は、桐子だ。」
「だあーってさ、彼女と俺はメル友だもん。で?りこちゃんがお前の長髪を嫌がるの?」
「…結婚式までには…切って欲しいみたいだ。」
「ああ、あの子はベリーショートだもんな。花婿の方が長かったら、あべこべってやつ?」
「いずれにしろ、君との約束はもう期限切れになるだろう。」
約束……期限……塔矢の言葉の中で、いくつかの単語だけが浮き上がって聞こえる。それを心で受け止めるのが厭で、俺はまた、塔矢を抱き締める。
アイツの喉に、噛み付くように激しく口付けて……
ぴったりと重なり合ったまま、ベッドに倒れこみ……

―――塔矢にこれ以上のお喋りをさせない為に、絶え間ない快感の波間にさらっていこう―――











どんなに快感の波に翻弄されても、塔矢は決して言わない。愛してる……とも。好きだ……とも。
それどころか、気持ちいいとも、感じるとも言わない。
勿論……俺の名前を呼んでくれたことも―――一度も、ない。

禁じているんだろうな……自分で自分に。
体は反応しても、アイツの心はどこか切り離されたところに、大事に大事にしまってある。それだけは、絶対に俺にこじ開けられたくはないと。

だから俺が塔矢から返して貰えるものは、辛そうな喘ぎ声と、イク間際のすすり泣き―――
アイツの体から放たれる絶頂感の証と、口元から零れる甘い液体、目尻に溢れるしょっぱい液体―――そんなものだけだ……

だから、例えそれだけでもいいから、俺は欲しくてたまんなくて……いっぱいアイツを気持ち良くさせる。何度でもイカせる。
俺の愛を……十年もの間、塔矢に気が付かれないようにと押し殺してきた全ての想いを……ただ繋がり合う体の快感だけに変換して、刻み付ける。
―――俺を忘れられなくする為に―――



「ごめ……夜中だっちゅーのに……我慢出来なかった……体、大丈夫か?」
無理な体位を要求して、塔矢の体を軋ませてしまったかもしれない。俺は暴走したことを恥じて、息を弾ませて横たわっている塔矢の体を背後からそおっと抱いた。
「…ん…平気、だ…もう、ほっといて…。」
「何で?優しくしてーんだよ。ね?」
「…君に優しくされなくても…いい…。君だって僕にそうする必要はないよ…。」
「塔矢…どして、そんなこと言うのさ?」
「…だって、そういう…ものじゃないか?」
「…俺達が、体だけの関係だからか?…お前には、優しくしてくれるあの子がいるからか?」
「…彼女のことは持ち出すな!」


塔矢の婚約者は、これ以上はないというくらい、コイツに相応しい。

碁打ちの家系に育ち、自分もアマのタイトル保持者、でも好きな勉強をしたいからとプロにはならないで、今は大学院の博士課程にいる。論文が通ったら勉強は一区切りにして、塔矢と結婚することになっている。
塔矢は、自分の碁の為になるからと、お人形のように従順な子を望んだりはしない。自分の世界をちゃんと持っている、頭のいい子が好きなんだ。
周りもよくぞこんな子を探し出して来て、塔矢に引き合わせたもんだと思うよ……。











俺がどうして塔矢の婚約者と仲良くなって連絡を取り合っているか……コイツ本人には、一生わかんねえーだろうなぁ……。

それはね、最初は塔矢に堂々と愛される子がどんな子か知りたかった、ただその嫉妬心からだったと思うよ。
でもその内、あの子の口から俺の知らなかった塔矢のことが語られるのを、もっともっと聞きたいと思うようになって。
そして今は、二人がどんなにお似合いかってことを、どんなに幸せかってことを確認したくて。
そうすれば、俺は安心していられる。ああ、塔矢は本当に幸せなんだ……良かった……本当に良かった……俺とどうこうなるよりも、絶対にあの子と結婚する方がコイツにとっていいと、心から思えるからさ―――


「進藤。こうやって君と逢うのは……今夜を最後にする。そのつもりで、今夜はどんなことにも……応じたんだ。本当は、明日の朝、ここを出るときに言おうと思ってたんだけど……。」
塔矢の言葉がどこか遠くから、そう、丁度テレビの画面か何かから聞こえてくるみたいに―――
音は確かに聞こえているのに、意味が頭ん中を素通りしていく。
「進藤?僕の言っていること、わかるか?」
「あ、ああ……要するに、もう俺とは寝ないってこと?」
「……そういう言い方が、嫌いなんだ。」
「でも、そうじゃん。お前も今言ったろ?俺達の間に優しさなんて必要ないって。それって俺達がこういう関係だからで……逢わないってことは、もうこんなこともしないっつーこと……。」
まだ横たわったまま、いつの間にか向かい合わせになって俺を見つめている塔矢を乱暴に引き寄せて、足を絡ませ、噛み付くようなキスをした。
―――塔矢は抵抗しない。糸の切れた操り人形みたいに、ぐにゃりと俺の腕に抱かれ、目を伏せる。もう何度抱いたかわからなくて、疲れ切った塔矢の青白い額には、汗で黒髪が張り付いてた。
……壮絶に、綺麗だと思った……

ああ、お前……本当に今夜を最後にするつもりなんだな?
だから、俺にどんなことをされても、今夜は我慢するつもりなんだな?
……我慢?お前って、この十年、俺と我慢して寝てきたのか?
―――いったい、何の為に?
―――若さゆえの、好奇心で?
―――一度そうなったから、何となく成り行きで?

数年前塔矢が婚約した時、俺は狂ったように荒れた。
でも同時に……その嵐が過ぎ去れば、もう塔矢への報われない愛そのものから開放されるということも、わかっていた。これは、通過儀礼としての、苦しみなんだと。
……それなのに。
塔矢はまた俺とそうなった。数ヶ月に一度の逢瀬だったが、俺達は結局この十年、抱き合うことを止めなかった。
……止められなかった。











塔矢の決意がその無抵抗ぶりに感じられて、俺は苦い想いを噛み締めながら、アイツに絡んでいた腕をほどいてベッドの端に腰掛けた。
膝に腕を付いて、背中を丸めると、深い溜息が体の底から漏れる。
「お前……本当にもう俺と……こんな風に逢わねーって……そう思ってんの?」
背中で、感じる―――塔矢が起き上がって、髪を整え、俺の横をすり抜けていくのを。
「なあっ!塔矢!十年の期限が切れるからか?それなら、もう一度俺と……。」
「もう、あんなことは二度としないっ!」
塔矢は脱ぎ散らかして重なり合った俺達の服の中から、自分の下着やシャツを拾い上げては、再び心にヨロイを着けていくかのように着込んでいた手を止めて、俺を見た。
「あんな、あんな最低の賭けをしたことが、全ての間違いの元だったんだ……。」
「塔矢……?」
「あの日……最初は君も僕も軽い言い合いの延長だったと思う。僕の髪に君が自由に注文を付けられる十年分の権利を欲しいと言うから……そんなくだらないことを言い出す君が許せなくて、だから受けたんだ。」
スレンダーな体に、白いシャツを羽織っただけの塔矢は、すっくと立ったまま、俺を見下ろしていた。
「でも、もう、こんなことはお仕舞いだ。やっと、君から開放される。」

そこで―――塔矢は微笑んだ。透明感の感じられる、不思議な微笑だった―――

「じゃあ!じゃあ、何で今まで俺と寝てきたんだよぉ……俺達の約束は別に髪のことだけだった筈だろ?どうして、どうして……。」
「君はあの日のことを、何も覚えてないんだろうな……。」
「………。」
「対局で不本意ながら負けた僕を、君は部屋に誘って……僕らは初めて二人きりでお酒を呑んだ……その時、僕らは二人とも……まだ十代だった―――。」

あ、また、だ―――さっき感じたみたいに、どこか遠くに置かれたオーディオ機械のようなものから塔矢の声が流れてくるみたいに、現実感がひどく薄くなる。

「あの夜を境に、全てが変わってしまった……あの夜、僕は、何かが壊れて、何かが始まることを予感して、君とそうなった……酔った勢いとか、若気のいたりとか、そんなものじゃなかったよ?―――僕なりの、勇気だった……。」
うん……そうだった……俺も、ありったけの気持ちを掻き集めて、お前にぶつけたんだ……たった一晩だけでいいから、遊びでもいから、お前と抱き合いたいって―――
「君が僕とそうしたいと思ってくれて……ああそうか、君が賭けたかったのは、僕の髪のことだけじゃなく……僕の、心も、欲しいのだと―――そう思った。……なのに……。」

―――そうだよ、そんなんだよ!お前の髪も体も、そして何より俺は、お前の心が欲しかった!











「君は、あの次の朝……自分が僕に何と言ったか、記憶の片隅にすらないんだろうな……。」
塔矢は乾いた声で、手早く帰り支度を整えながら言う。俺は、それをなす術もなく見ていた。
「俺……何か、言ったっけ?」
そこで、塔矢は俺の方をしっかりと見た。暗闇に慣れた目には、強すぎる程の光がアイツの瞳に宿っていて、俺をたじろがせる。
「朝、目が覚めて、君は僕に笑いかけながらこう言ったんだ―――俺、いっぺん男と寝てみたかったんだよね。サンキュ、塔矢―――」

俺の中で、悲鳴が起こった。決して声にならない、心の悲鳴だ。

「…その時、僕がどんなに惨めだったか、君にわかるか?」
塔矢の青白かった顔には、血の気が戻り始めていた。声も熱を帯びてくるのがわかる。
「君は、僕と寝たかったんじゃなくて、男と寝てみたかったって、言ったんだよ?あまつさえ、僕にお礼まで言って……。」
「それは……。」
「今更言い訳なんてもういいんだ。そんなことは、どうでもいい。僕がね、もっと情けないと感じていたのは僕自身に対してだった。こんなひどいことを言われて……その夜限りにすれば良かったのに……君に誘われたらどうしても断れなくて……何度もそうなった。そして、そのたんびにどん底の気分を味わったよ。ははは……。」
「違うっ!そうじゃねーよっ!!俺はきっとお前が後悔してると思って、だから!…だから、お前のこと楽にしてやりてーって、遊びにしちまえば、その方が割り切れるって……俺、お前が俺のことで苦しむの、絶対に厭だったから……。」
「自分の言ったことを覚えてもいない君が、よくそんなことを言えるな。」

塔矢の顔に浮かんだものは、怒りではなかった。俺にはそのことがよくわかった。塔矢の様子はどこまでも穏やかで、それは―――諦めと決意の穏やかさだった。

「何度ももうこんなこと、止めようと思った。でも……君といい碁を打って興奮している時に、必ずそのタイミングで君は言うんだ……塔矢、今夜俺んとこ、泊まってくだろ?……って。」
「その顔が、今まで碁盤を挟んで食うか食われるかの闘いを挑んできた進藤ヒカルと……とても同じ人間とは思えないくらい、僕には眩しくて……本当に別人のようだと思った。顔が、途端に変わるんだよ?僕を誘う瞬間にね……。」
「君の中に、碁のライバルである進藤と、僕を抱く進藤と、全く別の人間が二人居るんじゃないかって、馬鹿なことを、な、何度も考えるくらい、に……。」

塔矢の声がどんどん涙声になり、俺はアイツが激しく泣き出したことを知った。
もうとても、塔矢の目を見る勇気が俺にはなくて、頭を抱えてますます俯くしか出来ない。
「塔矢!もう、もういいから……それ以上は、俺、聞けない……。」
「駄目だ、進藤!ここまで言ってしまうつもりはなかったけれど、引き返せない―――僕は全てを言わなければならないし―――君には全てを聞く義務がある!」











塔矢の涙を見たのは、初めてだった―――お前って、こんな風に泣くんだな……

少しハスキーがかった声が抑揚をつけないで……進藤……って、俺を呼ぶのが、本当に好きだった。
その声に一度でいいからヒカル……って名前で呼ばれてみたいと、何度儚い夢を見てお前を抱いてきただろう。この十年もの間……。
今、その塔矢の声が、言葉ではなく嗚咽を漏らし、俺の胸の奥まで流れ込んでくる。
抑えても抑えても突き上げてくるものに自分をゆだねて、塔矢は必死で話し続けようとしていた。
―――俺はそれを、ただ無言で受け止めるしか出来ない。

「…僕が桐子と婚約を決めた時も…君はもうそのことを人から聞いて知っていたけど…僕は君に自分から報告しただろう?あ、あの時は……僕にとって、きっとこれが最後のチャンスになるだろうと…思っていた。」
「…桐子と出逢って、この人となら僕は幸せになれると…思った…そうするべきだとも、理性でわかっていた…それなのに…ふ、ははは、は……。」
「…彼女ほどの人であるならば…きっと君は僕が本気なんだと、本気で結婚するつもりなんだと思うだろう…そして、僕のことを失いたくないと…君が今度こそ本気で、ぼ、僕を追って来てくれるかも、と……。」
「君にっ!…君に今度こそ、僕を心から欲しいと言わせることが出来る…かもって……。」

ベッドの淵にかけたままうな垂れた俺の頬からは、ポタポタと涙が零れ落ちて足元の床にいくつものシミを作り、模様のように増えていくそれを、俺は見るともなしに見ていた。

「…でもね、あれは僕にとって、もう一つ別の賭けでも…あったんだ。」
その時塔矢の声には、どこか笑いのような明るいトーンさえ混じっていた。
「…こんなにも長い間、抱き合ってきたのに、君は僕を離す訳でも、縛る訳でもなかったね?…どちらでも、なかった…君は、僕の対局スケジュールや体調や忙しさや…そんなものを考慮した上で、僕を誘っていたことに、ずっと気が付いていた……。」

「―――わかっていたんだ…君が僕をどういう形であれ…君なりに…愛してくれていること……。」
「…とう…うっ…と、う、や…ああぁ…。」

「でも、君がその想いを一生封じ込めて生きていくつもりなら…体だけの関係だと僕に思わせて、そのままで一生行くつもりなら…そんな関係は、僕らには決して良くない……。」
「君が僕を追いかけて来るか……そうでなければ、君に僕をこれで諦めてもらえると……その二つのどちらかに傾いて、決心出来る……そうしたかったんだ……君との関係をはっきりさせて……そしたら、僕も心を決められると。君と何があっても生きていくのか、それとも君を諦めて桐子と生きていく道を選ぶのか……。」
「僕は本当に、決めたかった。決めることで、そちらに向かって歩き出したかった!」

塔矢がどんなにその時苦しくてもがいていたか―――その当時の俺に、想像出来た筈もないだろう?俺は、塔矢の婚約が神様からの鉄槌のように思えて―――自分の罪深さに、改めて気が狂いそうになっていたから。











―――塔矢が婚約したことを俺に告げた夜のことは、俺だってちゃんと覚えてるさ。
もうその何週間も前から、塔矢が見合いをした相手と付き合っているらしい、結婚するかもしれないという噂は、俺の耳にも届いていた。

とうとうその日が来たのかと思った。
自分の本音を隠して抱くことが俺の愛し方だと、心の中で粋がっていたけれど、その日が本当に来たと自覚することが……もう塔矢を思い切り抱き締められないということが……こんなにも自分を打ちのめすとは想像を遥かに超えていた。
浴びるように酒を呑むとか、街で声をかけたオンナを抱くとか、そんなことは散々やった。酔っ払った挙句の喧嘩もした。危ない目にも何度もあった。
佐為を失った時と違うのは、俺がもうオトナで、その気になればどこまでも自分をおとしめ、痛めつけることが出来るということだ―――

塔矢が一緒に食事をしながら、はにかんだように婚約を告げた夜、俺はいつも以上に酔っ払うしかなかった。
だってそうだろう?……現実を受け容れるには、ある程度心を壊してしまわなきゃ、とてもじゃないけど塔矢を引き止めないでいられる自信はなかった。
塔矢に追いすがって、結婚なんか止めろ、俺とずっと居ろ……そう言えたらどんなに楽だろうと思った。
―――でもそれは出来ない―――そうしないことが俺のプライドだから。

結局俺の口から出た言葉は、俺の強情さと弱さとその両方を表していて、どちらかを抑えることなんか出来なかったんだ……。

―――婚約おめでと!塔矢。その内彼女にも逢わせろよ。お前が選んだ子を見てみてーなぁ……興味あるなぁ……美人?ナイスバディってヤツ?あ、大丈夫だって!ちょっかいなんか出さねーから!知ってっと思うけどさ、俺だって全然オンナには不自由してねーし……で?……今夜も、俺んち泊まってくだろ?―――

お前は複雑な顔をして、俺を何か珍しい生き物でも見るように見つめて。
それから、荒んだ感じに乾いた声を立てて、笑って。
こう言った―――そう来るのか、君は……そうだね、まだ十年まではあと少しあるから。今夜も、泊めて貰うよ?

そうか。
お前はあの時、自分の婚約と引き換えに、俺に未来を選択するチャンスをくれようとしたんだな……捨て身の行動だったという訳か。
でも俺達は、結果的には真実を見つめることを避けたのだ―――

これまでの関係すら壊れてしまっては、とても生きては行けない気がしていた。
破壊と再生の末にしか、本当の愛をはぐくむ術は在りはしないのに。
そこまで俺達の歪んだ関係は崖っぷちに来ていたのに。

蓋をして、見ない振りをして、それからの日々を刑執行までの猶予のように、変化は何一つないのだと……塔矢がいつか結婚すると決まったこと以外はこれまで通り、何も本音を明かさないまま抱き合っていいのだと……自分達でその罪を背負うことを、無言のままに選択した。











「…も…遅いのか…俺、お前が俺の気持ち知ってた、なんて…ちっともわかんなかった…。」
「君の思い通りにさせてあげようと、そう思ってた…それでいいんだと…君がしたいようにさせてあげることだけが…僕に出来ることだと思ってた…。」
涙が、壊れた蛇口から溢れるみたいに、止まらない。
そんな俺とは裏腹に、塔矢の声は次第に落ち着きを取り戻しつつあった。

「最初に君と抱き合った時……本当に、僕らは……若かったよね……?」

「君の言葉に傷付き、それでも離れられない自分を嫌悪し……歳をとる毎にどんどん碁では上に昇って行ける…君と切磋琢磨しながら…それなのに……。」
塔矢の声が少しづつ俺の方に近付いてくる。うな垂れていた俺の視界に、白い汚れのない靴下を履いた、塔矢の足が目に入った。
いつでもどんな時でもきっちり靴下に隠された、その綺麗な足の指を知っているのは……
その足の指先が快感に震えて、ピンッ!…と伸ばされるのを見ては、そこに口付けることが出来るのは……
俺だけ―――俺だけだったのに―――!!

「最初の頃、まだ十代の僕は…こんなこともその内終わるんじゃないかと、ぼんやり考えていたよ。だって君にはいつの時期もガ−ルフレンドがいたし、人一倍好奇心の強い君が始めたこんなことも、いつかは飽きて僕を誘って来なくなるんじゃと…その時は追わないで、開放されようと願っていた。でも、そうだな…二十歳を過ぎて、僕らが棋戦の上位で当たるようになった頃から……もしかしたらって。」
「…も、しかし、たら…俺がお前を…って?」
「うん……でも君は言わない。僕を誘って、抱いても、言わない。僕の髪を好きだといい、僕の体を自由にし……でも―――君は絶対に―――言わなかった。」
「僕自身を、愛してるとは、絶対に―――!!」

「言わないことに、君の気持ちが如何に深くて、尊いものであるのかを感じていたよ。でも、それとは裏腹に言って欲しい、言わせたいと狂ったように熱くなる時もあって……このままで行こうという自分と、こんなの可笑しい、止めようという自分とがいつもせめぎ合っていた。」

俺の頭に、何かが乗ったのを感じた。それは塔矢の手だった。その手に優しく撫でられながら、俺はどんどん脱力して行く。
「よせ、よぉ……そんな子供にするみたいな、ことすんな……。」
「だって、君……本当に、迷子の子供みたいに泣いてる……。」
塔矢がひざまずいて、今度は俺を覗き込んで来た。両手の甲を使って、俺の頬の涙を拭ってくれる。
「お前…ずりーよ…もうなーんもかんも…決めちまったって、スッキリした顔しや、がって、う、くそぉ……りこちゃんと、結婚すんだな?」

「…進藤。どうせその内わかることだから、今言っておく。僕は彼女とは結婚しない―――。」











塔矢の言葉に、俺ははっと正気に返った気がした。
「…結婚、しない?……だって、さっき、結婚式までに髪を切って欲しいって……。」
「うん、確かに……そう言われたのは本当だ。でも……僕は彼女に、婚約を解消して欲しいとお願いした。すぐには納得出来ないみたいだったけど、僕の気持ちは変わらない。僕は桐子とは結婚しない、いや、出来ない。」
「ば、馬鹿言ってんじゃねーよっ!!お前……何、考えてんだ……。」

制御出来ない程の感情の氾濫に心がアップアップしていた俺だったが、今やっと塔矢と向き合うことが出来るところまで、浮上しつつあった。

「進藤……大人になるって、難しいことだな?僕らは早くから大人の世界に身を置いていたから、まるで自分達も知らないうちに大人になった気がしていなかったか?でも、違うんだな……僕はこの十年間、君の選択に任せようと、それが自分の選択だと逃げていたんだ。多分、決めた方に責任を押し付けることが出来ると。自分に決める勇気がないばかりに。」

「その結果はどうだ?……僕は桐子を利用したんだ、結果的に。彼女の人生を振り回し、彼女の気持ちを踏みにじって来た。こんな酷いことってあるか?これが大人のすることか?」

「彼女には本当に悪いことをしたと思ってる。でも、気が付いた以上、僕はもう戻れない。―――僕は今、初めて自分で自分の人生を選ぶ。そしてその選択に、何があっても責任をとる。そう、決めた―――。」

「彼女を傷付けた罰を、受ける。……彼女とも結婚しないが、君とももうこんな風に逢わない―――これが、僕が自分に課した罰だ。」

「塔矢!!お願いだっ!!馬鹿なこと言ってないで、結婚してくれっ!!りこちゃんと……お願い、だよぉ……何だったら、俺があの子にとりなしてやってもいい……頼むから……お前は結婚して、家族を作って……幸せにならなきゃ、駄目だ……。」
―――でなければ、何の為の俺らの十年だったんだよ?
「あの子なら、いい……あの子ならきっとお前を幸せにしてくれる……だから、頼むよ……結婚するんだ、塔矢!」

いつの間にか俺は、塔矢の肩を掴んで激しく揺さぶっていた。塔矢は静かに微笑んでいて、一度は乾いたその瞳を、再び涙の膜が覆おうとしているみたいだった。

「進藤。僕はどこか可笑しくなってしまったのかな?君に他の女性と結婚してくれって懇願されているのに……凄く、嬉しい……いや、幸せを感じてると言ってもいいかな……。」
「塔矢…うう…っ…ど、して……。」
「君がそこまで僕を愛してくれている―――そのことが今、痛い程伝わって来たから……進藤、僕は本当に、十年もの間、君にずっと……愛されていたんだな―――。」











「…お願い、だ……塔矢、結婚止めるなんて、言わないで、くれ……お前、幸せになれるのに、どうしてそんな……。」
きっと、何を言ったとしても、塔矢の心は変えられない。それは、時間が巻き戻せないのと同じくらい、確かなことなんだと、俺にはわかっていた。
誰よりも、塔矢アキラを見て来た。出逢ったその日から。ずっと。15年以上もの間……だから、わかるんだ、俺には。
―――それでも。
それでも、塔矢に幸せになって欲しいから、どうしようもないとわかっていても、俺は自分の心が言葉となって口から零れ出てしまうのを、止められないでいる。
「俺のせいかよ?俺がいるから、お前が結婚しねーって言うんだったら、俺、どっかに消えたっていいよ……絶対お前に逢わねー…絶対お前に触んねーから……頼む!塔矢!?」

もう一度、塔矢の体を激しく揺さぶって、塔矢の魂に何をか届けたいと願った。塔矢の、オカッパよりうんと長くなった髪の毛がサワサワと揺れて、アイツの顔の横や、肩の上で生きていやいやしているように、俺の目には映る。
この黒髪は、生きている―――俺が十年もの間、塔矢への秘めた思いをこの髪の毛に触り、口付けることで、封じ込めて来たんだ。この黒髪が、俺の愛を吹き込まれて、息づいていても何も可笑しくはないだろう?

いつの間にか、俺は塔矢の髪を撫で始めていた。両手で優しく、髪の毛そのものを、まるで小さな子供を宥めるかのように……それから、指を開いてそっと差し入れると、塔矢の全身が小さく、でも確かに震えた。
俺の指先に、その震えが伝染して、俺の腕も、そこに続く肩も胸も全てが震え始め……
―――今まさに自分が、大事なものを失くそうとしている、その畏れから来る震えに変わろうとしていた。

「進藤。君のせいだとか、僕のせいだとか、そんな風に過ぎた日を振り返っても遅いんだ。僕は決めて、そして前に進んでいく。僕らには、未来しかない。……例えそこにお互いがいなくても。同じ碁打ちでライバルの自分達しかいなくても。少なくとも、僕らの間には、碁だけは残るから……。」

「進藤。今度逢っても、僕に今夜、泊まって行くだろ?…なんて誘って来ても、駄目だよ?そんなことはしない方がいい。僕は二度とうんとは言わないから。断わられたら、君が辛いだけだろう?」
「ばっか野郎…っ!!お前、一人で、オトナになったみたいな、ツラしやがって……く、くそっ!くそ…くそぅ……。」
一度は浮上しかけた体が、再び深くて冷たい、光の届かない海の底にどんどん沈んでいくかのようだった。
「それから……僕がこの髪を短く切ってしまっても―――今夜から、君には何も言う権利はない。どんなに君が悔しかろうが頭にこようが、僕のこの髪は、僕に帰して貰うから……。」

そこで、アイツはまた一段と大きくはっきりと、俺に笑顔を向けたんだ。
今までの塔矢アキラから脱皮して、新しい塔矢アキラに生まれ変わったみたいに―――それは、アイツが俺に初めて見せる、極上の笑顔だと思った。











塔矢の笑顔に言葉もなく見入っていた俺の手を、アイツは自分の頭からそっと引き剥がすと、今度は五本の指と指を交互に絡ませ合って、強く握ってくれた。
どんなに激しく塔矢を抱いていても、言葉では絶対に伝えてはくれなかった。
でも―――イク間際になると、腕を必死で伸ばして俺を求め、こんな風に手と手を繋ぐ。そして、俺の手に白い痕が残るくらいに強く、時には爪を立てて、自分ばかりがこんな想いをさせられるのは許せないと言わんばかりに、俺に傷をつけた。
塔矢が残してくれたものなら爪痕すら愛しくて、これがいつも俺の手にあればいいのにと……この痕がずっと絶え間ないくらい、毎晩のように塔矢を抱けたらどんなにいいだろうと……

今―――この十年、快感に震える歓びだけを俺に伝えてくれていた塔矢の手が、代わりに別れを告げようとしていた。

「進藤……この十年は、僕には無駄じゃなかった……一つだけ、凄く大事なことが、よくわかったから……それはね……。」
塔矢の手に一層力がこもり、俺は悲しい筈なのに、何故だか情けないくらいに―――絶頂を迎える瞬間の、塔矢の表情や声が思い出されて仕方なかった。

「愛情って、人の数だけ違う形があるんだって、わかったことだ。…100人いたら100通りの、それぞれの愛し方があるんだな。理屈ではそうなんだろうと思っていても……自分がこうして身を持って経験して、初めて実感した。君も僕も……自分達がこれがベストだと思う形で、お互いを愛して来た……だから、この十年は、幸福な十年だったと……断言出来る。」

「…でも、もう……終わりだ。進藤。僕は、行くね。…さあ……手を離してくれ―――」

俺は逆らえないままに、脱力して、塔矢の手がするりと去っていくのを眺めていた。力なく落ちた腕を、上げる気力すら残されていないや……。
膝まづいて俺を見つめていた塔矢が、立ち上がって玄関へと向かったのを物音だけで感じる。…塔矢の気配が、俺のテリトリーから次第に遠ざかって行く―――
玄関の鍵を内側から開ける音が、やけに大きく響いて。
その音が、予めセットされていたアラームだったかのように。
俺は突然突き上げてきた衝動に弾かれ、立ち上がって叫んでいた。

「アキラッ!!…待てっ!…アキラ、待ってくれっ!!」
―――初めて、塔矢の名前を、呼んだ。
そして。アイツの元へと駆け出した。
「アキラ……。」
ドアの前で、目を見開いて、塔矢アキラが俺を見ていた。自分が今聞いた声が、信じられないとでもいうように……。
彫刻みたいに綺麗な立ち姿で、そこに生きて存在することが、奇跡に近いと思える。手を伸ばすのが一瞬躊躇われたが、俺はそうした。この美しい人を、粉々に壊してもいいと―――











裸足のまま塔矢のいる玄関先に降りて手を伸ばすと、一瞬にして俺達は磁石のように引き合って―――一つになる。タイルの冷たさなんて、気にもならない……。
「アキラ……ア、キラって……最後のお願いだから……呼んでも、いい?……俺のこともお願い……ヒカルって……。」
「ヒカルッ!!あああぁ……ヒカル、ヒカル、ヒ、カ、ル……初めて、見た……本当に、子供みたいに泣くんだな……ヒカル……。」
「アキラ、アキラ、アキラ…愛してる…愛してる……アキラだけ……出逢ったガキの頃から、今まで……アキラッ!お前だけっ!」
「愛してる、僕も……ヒカル、ヒカル、ヒカ、ルッ!!」
塔矢の細い体を俺に縛り付けるみたいにしっかりと抱いて、涙で引き攣れる頬をすり寄せ合って、初めて音にする愛しい人の名前をうわ言のように繰り返す―――
名前を呼べる歓びに、爪先から頭のてっぺんまで全身が痺れていき、別れの悲しみすら麻痺させてくれそうだ。
長いことそうしていたら……俺の愛した塔矢の髪が、俺の涙に濡れて冷たくなっていた。
「アキラ、アキラ、アキラぁ……。」
「ヒカル、ヒカル……明日からは、新しい僕達だ……。」

塔矢が俺の頭を両手で包み込むようにして、目と目を合わせて来た。
その澄んだ瞳の奥に、果てしない宇宙が広がっている。
―――過去も未来も、後悔も希望も、何もかも呑み込む、限りなく深く優しい宇宙だ。

「ヒカル……僕達は、これから死ぬまで、何度でも打とう……打つことが、愛だ。たくさん打って、たくさん棋譜を残して―――それが僕達の、新しい愛の形だ。」
「アキラ……打つことだけが……俺達に残された、愛なのか……?」
「…それで、いいよね?ヒカル……ね?そうしよう……ずっと、ずっと、二人で打つんだ……きっと、僕達なら、出来る……。」

―――僕らは、碁盤の向こうにお互いを見て、いくらでも語り合おう……死ぬまで、愛し合おう―――

その言葉が、俺の耳に残った塔矢の最後の声だった。
多分塔矢の口元は、『さよなら、ヒカル』と、言っていたようだ。
でも、もう俺にはその言葉を受け容れる場所がなかった。俺の耳も、心も、全ての器官が、全ての感情が、その機能を停止して、崩れ落ちていく自分を守ろうとしていた。
目の前で、塔矢が俺から離れ背中を向けて、ドアの向こうに消えて行くのがスローモーションのように見えていた。でも。
重たいドアが閉まる音すら、俺には届かなかった。

ドアが閉まった瞬間が、俺達の長くて短い『十年』という歳月―――その舞台の幕が降り、それまでの関係が幕の向こうに永遠に失われてしまった瞬間だと―――それだけが後からわかったことの、全てだった。










第一章 〜終〜











当時、ささめさんからもコメントをいただきました。



「作品のイメージと、ひょっとしたら絵がかけ離れているかもしれません。
ですが、私の中ではこんな感じだったので、自分に忠実にかいてみました。
間違ってたらすみません。ラストでこの絵が浮かびました。
どんなに泣いても取り戻せない喪失と、届かない感情と。
取り乱すヒカルに大して、アキラさんが達観しているのが印象的でした。
いいラストだった(や、バッドエンディングですが)とおもいます」



当時、私も色々な感想をお伝えしたと思いますが
数年たって今、こうしてもう一度見せていただくと、結局、私の言葉などいらない・・・
見てくださった方、それぞれが何かを感じて感じてくださればいいなと思います。
ささめさん、ありがとうございました。
(そして↓の方に、ヒカルとアキラのドアップがありま〜す♪)



この二人の続きは、また後日。
このままでは終わりません。



番外編(1) 「一年目の夜」 はコチラから。





















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