― 百夜通い ―
( 第三章 )







  ( 四 )


「塔矢。お酒、飲もう。」
「ヨンハ!君、飲み過ぎだ。部屋まで送るよ。この階じゃないだろう?」
「部屋のナンバー、忘れた。塔矢の部屋、行こう。」
「何を馬鹿な。さっさと歩くんだ!ヨンハ、しっかりしろ!みっともないところを見せるな。」
アキラがヨンハの肩を下から支えるようにして、エレベーターに乗り込もうとする。
その時、不意に抱き締められた。片足が浮く。呆然となる。
ドアが閉まって乗りそびれたとわかった時には、アキラは完全に身動きが出来ないほど強く、ヨンハの両腕に巻かれていた。
「ヨンハッ、ちょっと離せ、これじゃ歩けなっ・・・。」
「塔矢。お前、自分がどんなにソソル男になったか、わかってないのか?罪作りだなぁ・・・。」
甘ったるい囁きは韓国語に変わっていた。アキラには全部は理解出来ずとも、その雰囲気は伝わる。
信じがたい出来事の前に、全身から力が抜けそうだ。
真面目に相手にしたら、負けだ。
何とかかわそうともがくアキラを、ヨンハはさも嬉しそうにがんじがらめにした。
「塔矢、寂しいんだ・・・なあ、俺を慰めてくれないか?男同士でも、ちゃんと慰め合える・・・とうや・・・。」
エレベーターホールは、廊下からは死角になっている。だが、エレベーターを降りた人間からはすぐ見える。
それを計算に入れているのか、ヨンハは壁際で人目につき難い場所へとアキラを引き摺って、その壁に押し付けたのだ。
・・・その気なれば、君の股間を蹴り上げることだって―――
アキラの脳裏に、さっき自分が口にした言葉が虚しく蘇る。現実の力の前にはなす術もないこともあるのだと、己の情けなさに眩暈がした。
「ヨンハ、止せっ・・・だ、誰かっ・・・ぁ・・・。」
ヨンハは抵抗すらも楽しんでいるかのように薄ら笑いを浮かべていたが、アキラの髪を引くようにして固定すると、一気にそのうなじに顔を埋めた。
首筋に息がかかり、アキラの背を悪寒が走る。
理性が吹き飛んだ瞬間、アキラは無意識に叫んでいた。
「ぃやっ・・・。」
「とうやぁ・・・お前、いい、匂い・・・。」
「いやだ・・・っ・・・しんどーっ!」
「―――っ!」
ヨンハの動きが、ピタリと止まった。
荒れた息遣いも、淫らな動きも、全てが一瞬にして鎮まった。
アキラは振り乱した髪に無意識に手をやりながら、ヨンハから背けていたその顔を上げる。
唇がわななき、指先が細かく震えているのが自分でもわかった。
「進藤だって?お前、進藤を呼んだのか、今。」
「ぁ・・・。」
「そうかっ、お前と進藤、そういう仲だったのか!・・・っは!お前たち、そうか・・・。」
ヨンハがゆっくりと、その痩せて更に凄みを増した顔に、笑みを浮かべた。
どこか酷薄さをも感じさせるそれは、美しいと言ってもいいほどの微笑だった。

その同じ時間、階下ではヒカルがスヨンと鉢合わせていた。
彼がヨンハと話していたのは知っていたが、彼が他の人と話している隙にヨンハの方は部屋へ戻ったらしい。
ヒカルの顔を見るなりスヨンは苦々しい顔を作り、肩をすくめて見せた。
「恥ずかしいな、ヨンハのこと。友達としても、棋士としても。」
「恥ずかしいことなのかどうか、俺にはわかんないけど。でも、どうしてヨンハが荒れているのか聞きたいって言ったら、スヨンは困るか?」
スヨンは首を振った。困るどころか聞いて欲しいくらいだと言われ、ヒカルも頷いた。スヨンとじっくり話してみたかった。
二人はラウンジに場所を移す。
「誰にも秘密なんだ。僕もヨンハから聞くまで、全く知らなかった。」
「わかった。俺も絶対に誰にも言わねえよ。」
語り出したスヨンに、ヒカルは優しく言った。
「ヨンハには師匠がいた。李先生はヨンハが小さい頃から指導をしていて、ヨンハも長年慕っていた。まるで父のように・・・いや、実際に家族でもあり、棋士としての目標や憧れでもあり・・・きっと、ヨンハにとっては特別な存在だった。」
「うん。」
「その先生が亡くなったんだ。半年くらい前。」
「えっ、それじゃあヨンハは先生を失った悲しみで?」
師が目の前からいなくなるということが、どれだけ大きいか。慟哭。喪失感。
誰よりも、ヒカル自身が経験している。
「それだけじゃない。だから話は厄介なんだ。」
「?」
「李先生は病気だった。それを自分のせいだとヨンハは思ってる。」
「病気って・・・どうしてそれがヨンハのせい・・・。」
「李先生が体調を崩したのは、先に心のバランスを失ったからだって。その原因がヨンハとの・・・。」
「ヨンハとの?」
ヒカルの鼓動が早まる。一心にスヨンの顔を見詰め、次の言葉を待つ。
スヨンは咳払いをして、それから口を開いた。
「先生はヨンハを愛していた。師匠としてだけじゃない。家族としてでも、ない。同じ男性でありながら。弟子のヨンハを。・・・わかるか?僕の言っている意味が。日本語、正しいだろうか?」
苦渋に満ちた、スヨンの声。
聞いていたヒカルの胸も、熱した焼き鏝でも押しあてられたような激しい痛みを覚える。
「わかるよ。大丈夫。それでヨンハと、その先生は―――」
スヨンは静かに首を振った。







   ( 五)


スヨンは、言葉を探しながら語り続けた。
「二人は二十歳以上も年の差があったし、最初の出会いはヨンハがまだ小さい頃だから、李先生がいつからそういう気持ちでヨンハのことを見ていたのか・・・僕にはわからない。」
ヨンハも、ずっと気付いていなかった。
だから先生の気持ちを知った時の混乱は、計り知れないものがあったと思うと、スヨンは続けた。
しかし彼によれば、ヨンハには師に対する敬愛の念しかなかった。
「ヨンハはね、自分が先生を追い詰めたと思っている。もっと他にやり方はあったかもしれないのに、自分の態度が悪かったって。でもそうじゃないんだ。ヨンハはヨンハなりに、先生に誠意を示した。最後はつきっきりで看病もしていた。先生の自宅にも、病院にも泊り込んで。誰だって、そこまでは出来やしない。」
「凄いな、アイツ・・・。」
「そうなんだ。ヨンハは偉いんだ。それなのに、自分は先生の気持ちを最後まで受け入れられなかったと。師として、家族としての愛情しか持てなかったと、そんな風に自分を責めた。」
そこで溜め息をついたスヨンを、ヒカルは静かに見守る。
「でも進藤、おかしいだろう?相手からの好意に、同じように応えられなくても、それは仕方のないことだろう?心は偽れない。ヨンハもそうだったろうし、先生だって偽ってもらいたくはなかったと思うんだ。ヨンハは何も悪くない。」
「うん。」
「先生は治らない病気になった。だから亡くなった。ヨンハが病気にしたんじゃない。でも、最後は自分が悪化させたとか、治ったかもしれないのにとか、徹底的に悪い方に考えていたみたいだ。」
「アイツ、そんなところがあるんだな。外から見てても、全然わからないよ。」
「わからないのも無理ないよ。ヨンハはいつも強気だけれど、本当は誰よりも勉強熱心で生真面目で、でも、それを周りには見せない。知られたくないんだ。えっと・・・何て言うのかな・・・格好つけてる?それでいて繊細?」
ヒカルは頷きながら、黙って聞いていた。
ここまでスヨンが語った内容は、確かに一般的に言われるヨンハ像とは隔たりが大きい。
それは、スヨンが誰よりもヨンハを理解しているということであり、ヨンハもスヨンには全てを曝け出しているということでもあるだろう。
「先生が亡くなった後、ヨンハはしばらく引きこもって手合いも休んで。僕が見舞った時も半狂乱だった。僕にしがみついて、子どもみたいに・・・。」
スヨンは言葉を切って、唇を噛んだ。
その時のことを思い出しているのだろうか。スヨンの表情は、ますます翳りを濃くしていた。
「スヨン、大丈夫か?話し難いこと話させて、悪かったな。」
「ううん!・・・ううん、そうじゃないんだ、聞いて欲しかった。こんなこと、とても国の人間には言えないからね。ヨンハも李先生も英雄だし・・・。」
ヒカルはその時になって、やっと気付いた。考えるより先に手が伸び、ヒカルはスヨンの頭を撫でるようにしてから、軽く叩いた。
「ご免、辛かったんだな。お前、誰にも相談出来なくて。きっとヨンハの苦しみを、お前も一緒に背負っているんだ。」
「進藤!」
テーブルに置かれたヒカルの腕を、スヨンの手が掴んだ。そのままぎゅっと握る。
ヒカルはもう一方の手でまだ、スヨンの黒髪を撫でるようにして触れていた。
俯いたまま肩を震わせていたスヨンが、搾り出すように言った。
「進藤、それだけじゃないんだ。僕は・・・僕はもっと、もっとヨンハをわかってあげなきゃいけなかった。大切な友達であり、尊敬する碁打ちであり・・・それなのに、ヨンハが縋って来た時―――僕はひどいヤツだった。本当はね、僕はちっとも友達として優しくなんかなかったんだ!」
「スヨン?他にも何かあったのか?」
「あっ、ああ・・・ご免ご免、そろそろ止めるよ、この話は。一度にたくさん日本語話したから、疲れた・・・。」
僕の日本語、おかしくなかったか?と問うスヨン。
それは、言いたいことが正確に伝わっただろうかという不安も表していたのだろう。
ヒカルはしっかりと、スヨンの目を見た。
「うん、よくわかった。ありがとな、スヨン。ヨンハのことは、俺、他の外国の棋士とは全然違った意味で気にしてきたんだ。それにアイツ、やっぱり誰よりも強い。そんなことがあってもさ、肝心な時は勝ってるだろ?」
「うん。そこがヨンハの凄さだと、僕も思っている。・・・あの、進藤、誤解しないで欲しいんだけど、李先生は素晴らしい人だった。偉大な棋士だった。」
スヨンの目に、光るものがある。ヒカルの胸も締め付けられた。
「わかってる。俺だって李プロの棋譜を見たことがあるから。」
碁打ちとしても一流だが、いつか写真を見たこともあり、その穏やかで知的な面差しは、ヒカルの印象に残っている。
ヨンハの師であったことも、最近亡くなったことも、そう言われれば日本でも話題になった。
ヒカルの返事を聞いたスヨンが、僕の方こそありがとうと小さく言った。
ヒカルは思う。
ヨンハが己を責める必要はないというスヨンの言い分ももっともだし、一方で人の心が複雑であるがゆえに、そんなに簡単に割り切れないで苦しんでいるヨンハの気持ちもわかる。
だが、もしも・・・もしも、だ。例えば、塔矢が俺の気持ちに対して応えられない自分を責め始めたら・・・自分だってそんなこと嫌だ。絶対に。
愛して欲しい。好きな人に、自分のことも愛して欲しいと願うのは当然だ。
けれど、愛し返せないと苦しむ相手を見ていたい訳でも、決してないのだから―――
「進藤、そろそろ部屋に戻るよ。今夜はありがとう。」
「いやっ、俺の方こそ忙しいお前を引き止めちゃって。あ、あのさ、スヨン。もっと何か話したくなったら、いつでもいいぜ?俺、明日も様子を見に来るし。時間があったら、打とうぜ。ヨンハも、塔矢も。」
スヨンが、ほっとした表情を見せた。緩んだ頬にはまだ、子どもっぽさの名残りがある。
ヒカルは直感的に、スヨンはもっと何か大切なことを秘めている、まだ今は言えないことがあるのでは・・・と感じたが、明日に開幕を控え、団長である彼をこれ以上引き止めることは出来なかった。
明日。
明日になれば、ヨンハ本人と話すチャンスがあるかも。
いや、ただ打つだけでもいい、塔矢もそう言っていたじゃないか。
そして今やヒカル自身も、考えるべき大切なことを抱えてしまったと自覚していた。

ヒカルがスヨンと階下で話し始めた時、上の階では話題の人、ヨンハの高笑いがエレベーターホールに響いていた。
思いの他大きなその笑い声に、アキラは慌てる。
「黙れっ、人が来るだろうっ!」
「ふっふふ・・・聞かれたらー困るー、塔矢ー。」
さっきまで韓国語だったというのに、今度は日本語だ。こんな時にも使い分けられる神経が、アキラには信じられない。
アキラは苛立ちと怒りを露にして、ヨンハを睨み付けた。
「部屋に行こう、塔矢の部屋。話したいことがあるのは、俺じゃなくてお前の方じゃないか?」
含みのある言葉は、まるでわざと他人にはわからないように言ってやっているのだと言わんばかりに、韓国語に戻っていた。
部屋にヨンハを入れたくはなかったが、入れざるを得ない。誰に聞かれても困るという指摘は、アキラにとって図星だった。
「ふうん、一緒だ。オーシャンビュー。」
遠慮会釈もなく、ヨンハは部屋の奥へと進んだ。
窓の外に視線を投げたまま、ネクタイの結び目を解く仕草が、中性的な美貌に似合わず妙に男臭い。
彼の醸し出す雰囲気に負けまいと口を開いたアキラは、自分でも驚くほどかたい声を出していた。
「ヨンハ、聞いてくれ。さっきの誤解を解きたい。進藤と僕は君が勘繰るようなことは何もない。」
「誤魔化してもだーめー。ああ、綺麗だな、東京の夜景。恋人と見るものだ、これは。」
「君とぶつかった時、丁度進藤に言い忘れたことがあって彼を追い掛けていたんだ。だからつい、彼の名前が口をついて出ただけだ。」
「韓国語、上手くなったなぁ?俺が付き合ってた日本人の女より上手い。よくわかる。」
アキラは何か言おうとしたが、ヨンハがその手首をつかんだ。窓際に引っ張られる。
しかし、アキラとて黙っていいようにされるつもりもなく、ヨンハの顔に躊躇い無く平手を加えた。
高い音が響き、部屋の空気が凍りつく。
「謝る気はない。君が失礼なことをするからだ。普通に話すには、酔いをさました方がいいんじゃないか。」
「痛い・・・痛いよ、塔矢。」
「今度は日本語か?結構だよ、韓国語で話せばいい。」
「ふん、じゃあ、遠慮なくそうさせてもらうさ。日本語よりも、その方が曖昧で耳障りがいいだろう?お前にとっては聞きたくないような内容だろうから。」
「進藤のことか。だから誤解だと言っている。」
「それは保身か?はっ!進藤の方は隠そうという気はないみたいだったけど?アイツの塔矢を見る目、普通じゃなかった。」
「そんなことはない。」
「あるさ。俺にはわかる。男が男をモノ欲しそうに見る時の目を、俺はちゃんと知っている。」
「モノ欲しそう」という言葉を、ヨンハはわざとらしいくらい、ゆっくり発音した。
「進藤のことを侮辱するな。」
「はあ?塔矢、それはおかしいだろう?考えてみろ。進藤はお前を好き。俺は感じたままを言った。それが進藤にとって侮辱だというなら、進藤がお前を好きだということは、人として恥ずかしい行為だって当のお前が言うことにならないか?」
「・・・。」
言葉が理解出来ないふりでもして、シラを切り通すことも出来るだろう。
だが―――今、不思議なことに、アキラはそれだけはしたくない方に傾きつつあった。
理性ではちゃんとわかっているのだ。まだ、ヒカルとの関係がどんな風に流れていくのか固まっていない以上、人に明かすことは出来ないと。
けれど目の前のヨンハは、単なる興味本位とは違う部分でヒカルと自分のことを見ている気がして、そのことがアキラを迷わせているのも事実だった。
「・・・まだ、何も言えない。はっきりとしている訳じゃないんだ。」
「ふうん、案外アッサリ認めたなぁ。進藤の気持ちはバレバレだぜ?隠したいならもっと用心しろって、あのぼうやに言っておけ。―――で?塔矢、お前の方はどうなんだ?」
ヒカルの顔が、アキラの脳裏を過ぎる。
日本語だろうが韓国語だろうが、微妙で複雑な関係を表現しようとしているのだ。アキラは必死で言葉を探した。
「難しいことがたくさんある。最初は同性だということが大きかった。元々、彼は僕にとって特別な存在だ。だからこれ以上関係を変えたいとは、僕の方は思っていなかった。今でも十分、大切な人・・・この気持ちは恋愛関係とは違う次元だと、自分では納得していた。」
「なるほどね。」
「だけど今は、もっと違うことも考えている。違う選択、とでも言うのかな?碁打ちとして、進藤と僕はどうあるべきか。生き方にも深く関わる。考えなくてはならない。それを考えることは、僕らの関係を変えていくためにもとても大切だ。」
アキラがそこまで言い終わった時、ヨンハの体が大きく揺らいで、乾いた笑い声があがった。
「はっははははっは・・・。」
「っ!何がおかしい。」
「そんなこと悩んでるってことは、まだなーんにもしちゃいないんだな?進藤と寝ていない?ああ、ちゃんとセックスって単語を使った方が判り易いか?」
アキラに叩かれて赤みのさしている頬を、ヨンハは丸めた指の裏の方を使い、ゆるゆると撫でていた。長く、細い、綺麗な指だ。
「だから言っている。僕たちはまだ、何も始まってはいない。少なくとも、君の言うような意味では。」
「へえ・・・じゃあさ、試してみないか?別に難しく考えなくてもいいさ。お前は進藤を抱きたい?それとも進藤に抱かれたい?俺はどっちもOK。男同士は思ったより悪くないぜ。」
「まさか―――君はそういう経験があるとでも?」
俄かには信じられなかった。
「男を知ったのは最近だ。女はいくらでも寄って来るし、たくさん付き合った。外国人も含めてな。だけど碁を優先させるなら、後腐れのない男の方が都合がいいことがわかったのさ。」
経験は少なくても、俺は上手いぜ?
いずれ進藤と自分がどんなことをするか、雑誌やビデオじゃなくて実践で勉強したと割り切ればいいじゃないか。
男同士、本気にならなければどちらにもデメリットはない。ただ、その時間を楽しむだけだ。
「くだらない。全くくだらないよ。聞いているだけで、耳が腐れそうだ。」
「ふんっ!上手いこと言うなぁ。俺のことを軽蔑したか?」
「軽蔑?そうじゃない。これは―――」
アキラは大股で歩き出した。自ら、ヨンハに近付く。
むしろヨンハの方が不意打ちを食らう格好になり、軽く仰け反った。
「―――打とう。」
「は?」
真っ直ぐに自分へと突き出された、アキラの右腕。開かれた右手。
それらは、全く揺らがない。微動だにしない。
そしてアキラの澄んだ瞳もまた、射抜くようにヨンハの目を見据えていた。
「打とう、ヨンハ。あいにく僕にとっては、打つことが何よりも喜びだ。知りたいと思う人間とのコミュニケーションも、まずは打つことから始まる。」
子どもだと笑いたければ、笑えばいいさ。僕は僕のやり方で君を理解し、受け入れることしか出来ない・・・
アキラの言葉には、力があった。その力に導かれ、ヨンハは静かに手を上げる。
指先が触れ合った途端、アキラはしっかりとヨンハの手を握り締めた。自分よりも、そして進藤ヒカルよりも僅かに大きく、それでいて繊細な彼の手を。
「不思議だな。君の手を握ると、ただ見ているだけの時には感じなかったものをはっきりと感じる。これは真実、碁を愛する手だ。」
ヨンハは黙っていた。黙って、アキラの温もりを受けている。
「碁盤はそこにある。もう遅いし、君は飲んでいるけれど、打てるな?少なくとも僕は打ちたい。ヨンハ、僕は今、君と、とても、打ちたいよ。」
「塔矢っ・・・。」
二人の手が離れ、次の瞬間、ヨンハの両手はアキラの腰に添えられた。茶色い髪がフワリと踊って、その頭がアキラの肩に乗る。
アキラの手も、自然とヨンハの背に回された。
それは抱擁とも言えないような接触だったが、何かが二人の間を行き来することだけは確かに感じ合えた。
「一体、誰と打てばこの苦しみから開放されるのか・・・ずっと、俺にはわからなかった。一番打ちたい相手が、一番心を知られたくない相手だから。俺はソイツと向き合うことが、打つことが出来なくなってしまった―――」
ヨンハの熱い息が己の耳を掠め、髪を湿らせていくのをアキラは感じる。
そろそろ、抱擁と呼ぶにふさわしい力が二人の手に込められようとしていたその時だった。来訪者を告げるベルが鳴ったのは。






 ( 六 )


アキラの部屋の呼び鈴を鳴らしたのは、ヒカルだった。
その少し前のこと。
階下でスヨンと別れる直前の会話が、なぜかヒカルの心を小さく引っかいたのだ。
「そういやヨンハ、随分痩せてたな。あれで体は大丈夫なの?碁も長時間は大変じゃんか。」
ヒカルが何気なく口にした言葉に、スヨンが応えた。
「うん、そうなんだけど。でもヨンハは元々、対局中は食べないんだ。それに加えて、夜遊びするようになったから。ほとんど飲まず食わずで打つこともあって。でも寝たり食べたりするよりもその方が・・・えっと、研ぎ澄まされる?って言うのかな。そういうことみたいだ。」
―――対局中は食べない。
ヒカルの心をひっかいたのは、その言葉だった。
アキラも同じだ。
対局途中は、他の欲求が湧いて来ないほど集中力が高まっているのか、そういう回路が出来上がっているのか、いくつになってもその点は変わらない。
アキラとヨンハ。
同じ碁打ちでも、タイプは違うとヒカルは思っていた。感性も、打ち方も、あらゆることが。
だがしかし、碁に対して想像し難いほどの生真面目さは、もしかしたら他の生き様にも通じるのかもしれない。
スヨンを見送るや否や、ヒカルはエレベーターに飛び乗っていたのだ。
「進藤?どうしたんだ?もう帰ったとばかり。」
アキラの態度はどことなく、ぎこちない。いきなり舞い戻って来たヒカルに対して不快感を抱くというよりも、動揺を悟られまいとしているのでないか。
ヒカルは直感した。
「ご免、塔矢。何かさっき、俺、変だったし。もっかい、お前の顔・・・。」
そこまで言って、ヒカルは目を見開いた。背の高い誰かがアキラの背後に、ゆっくりと近付く。
それが高永夏だということに気付いたヒカルは、衝撃の余り声を失った。
・・・これか!このせいで塔矢は動揺していたのかと、ヒカルは直感が当たったことが、むしろ忌々しかった。
「ああ、えっと、ヨンハが打たないかと誘ってくれて。」
「こんな遅くに?コイツ、酔ってるじゃんか!」
ヨンハがアキラと二人きりで部屋にいたという事実の前に、ヨンハに対する同情も、己の理性も、全てが吹き飛んでいくのをヒカルは感じていた。
「いや、そうだけど。話してみたら案外しっかりしているし、それに・・・そう!今夜は君と打てなかったから。」
アキラは苦し紛れに言っているのだと、冷静になればわかることだ。
だがヒカルにしてみれば、自分がやっとの想いでここを立ち去ったというのに、アキラの方は簡単に自分の居場所にヨンハをすげ替えたようにもとれて、一気に血が昇った。
ヒカルが何か言おうと息を吸ったその瞬間、ヨンハの指先がスッ・・・と伸びて、アキラの肩に触れた。見ようによっては優美な仕草で、見るものを惹きつける。
それは同時に、ヒカルの理性を破壊する一種の暴力でもあった。
「塔矢に触んなっ!」
「進藤!声が大きい!」
「だって、コイツッ・・・。」
そのやり取りに頓着する様子もなく、ヨンハは両手でエスコートするようにアキラの肩を掴み、上半身を捻らせる。
入り口付近は幅が狭く、そうやって出来た隙間に自分の体を滑らせてアキラの前に出た。つまり、アキラとヒカルの間に。
「今夜は邪魔が入ったからな、部屋に戻る。ありがとう、塔矢。明日こそお前と・・・楽しみにしている。」
これは韓国語だ。虚ろな視線だけをアキラに送る様子は、男の色気すら感じさせる。
「進藤。塔矢はイイ男になったな。ガキには勿体ない。俺が欲しい。」
そしてヒカルには、カタコトの日本語で囁くように。ヒカルにだけ、聞こえるように。
母国語ではないから、直接的で極端な表現になりがちだということを差し引いても、ヒカルにはヨンハの真意が伝わった。
ヨンハは知っているのだ。アキラと自分の関係を。
そしてその上で、お前は塔矢アキラには釣り合わないと見下しているのだ。
ヒカルが思わず振りあげたその手を掴んだのは、アキラだった。はっと振り返ると、アキラはヒカルをきつく睨んでいる。
ヒカルが呆然としているうちに、ヨンハは横をすり抜けて部屋の外に出ていた。
「おやすみ。塔矢。進藤。喧嘩しちゃ、駄ー目ー。」
笑いをかみ殺す気配が、ヒカルの神経を逆撫でした。
ヨンハの姿がすっかり消えると、ようやく二人の間で凍りついていた時間が流れ出した。
「おい、お前。アイツを部屋に入れて、まさか・・・。」
「何だって?まさかって、どういう意味だ?」
「えっと、だってアイツ今、普通の状態じゃないって、俺、スヨンからも聞いて・・・。」
「ちょっと待て。まさかって、それは僕の台詞だ。君は彼と僕との間に何かあったとでも?」
「じゃあっ・・・じゃあ、本当に大丈夫だったんだな?アイツに変なこと言われたり、されたりしたんじゃないんだな?」
「進藤、変な勘繰りは止せ。」
アキラはヒカルに中へ入るようにと促す。今度ばかりはヒカルも躊躇わずに、アキラの部屋へと足を踏み入れた。
「勘繰りって、そんな言い方ねえだろ?俺は心配で。アイツ、今、どんだけ不安定か!何をするかわかんねえから。」
「彼が不安定なのは、僕にもよくわかったよ。ただ・・・。」
「ただ?何だよ、塔矢。」
その時。アキラも気が緩んだのだ。そうでなければ、言わない言葉。見せない顔。
「何だか彼が・・・そう、とても哀れに思えた。どんなに汚い言葉を吐いても、彼はまるで傷ついて悲鳴を上げているようにしか、僕には見えなかった。」
どうしてだろう、自分でもよくわからないけれど・・・
悩ましげに呟くアキラの横顔は、ヒカルが見たことのないものだった。
憂いを帯びた目元。黒髪が一筋かかった、青白い頬。
そして穏やかな口調で、ヒカルではない他の誰かを語るその唇。
ヒカルの中に、それら全てを粉々に打ち砕きたい衝動が起きた。
それが初めて感じた嫉妬だったことは、全てが終わった後に噛み締めることになる。






   ( 七 )


頭では何も考えていなかった。
碁の場合、究極の集中状態にあれば頭で決断するよりも先に指が動くことがある。
しかし実生活でのヒカルは、見た目よりもずっと慎重派だった。アキラに関することは特に。
それなのに―――嵐は唐突にやって来る。
「この部屋、アイツの匂いが残ってる・・・。」
「進藤?」
アキラが、やっとヒカルの方を見た。そう、やっとこっちを向いてくれた。
けれど、その瞳はたった今までヨンハだけを映していたのだ。自分のことは遠ざけておきながら。
暗い考えは、一度頭に浮かんだらこびりついて離れなくなった。
「っ!しんどっ・・・な、にっ・・・―――っ!」
ヒカルはいきなりアキラを抱き締めた。
そのままベッドの上に重なり合って落ちれば、スプリングが大きく跳ね返って二人の体を翻弄する。
悲鳴すらも奪われる、空白の一瞬。
ヒカルの両腕はアキラの両手首を押さえ込み、そのままバンザイをさせるような形で布団の上にはりつけた。
当然、ヒカルの体はアキラの半身に乗り上げる。顔も近い。
ヒカルの胸から垂れたネクタイがアキラの首筋を掠め、身震いしたアキラの息を詰める様子までが、ヒカルの脳天を直撃した。
ギシ・・・
ベッドの軋む音が、耳につく。
ヒカルがアキラの体からもっと自由を奪い、そして自分はもっと自由に動こうと膝を進めた音だ。
ギッ・・・
ヒカルはアキラの肩に頭を乗せ、目の前のうなじに荒れる息を零す。骨ばったアキラの肩にグリグリと頭を擦り付け、腰も意識的に重ねた。
手首を拘束している手には力を入れずとも、自然と体重がかかっている。そのまま指先を動かし、届く限りのアキラの手を愛撫するようにした。
ヒカルはアキラの目を見ずに、そうした。見たら終わりだ。負ける。
だから目を見ないまま、アキラの鼓動を直に感じようとした。
同じ時、一方のアキラがどう感じていたのか―――
アキラを占めたのは、恐怖だった。体を蹂躙される直接的な恐怖が、思ったよりも大きかった。
そしてそれは、アキラにとって衝撃でもあった。
まさか男同士で無理矢理なんて出来ないとたかを括っていたのに、先ほどから自分の甘い考えは打ち砕かれるばかりだ。
どんなに気持ちが大事、関係が大事と言葉で塗り固めようが、その奥にあるものは所詮、「欲」なのだろうか。
そして自分も一旦そこに放り込まれたら、どんな風になってしまうかわからない・・・
足元の見えない世界を手探りで進むような不安が、アキラを襲う。
だからこそ、アキラは抵抗を止めた。
己の感じている恐怖から、目を逸らさないことにした。
感じたままをヒカルに伝え、己の感情を味わい尽くすことで、恐怖の正体をも見極めようとした。
ただ恐怖に身をすくませるだけではないところが、塔矢アキラそのものだったのだ。
「進藤。」
静かな声がアキラ自身の耳にも反響し、不思議と力が湧いた。
「どういうつもりだ。さっきまでの君はどこへいったんだ。」
「わかんねえよ。もう、何が何だか、訳、わかんねえ。」
ヒカルの苦渋に満ちた声が、アキラのうなじを再びくすぐった。
いつの間にかネクタイの結び目は崩れ、襟元が乱れている。鎖骨が見え隠れする。
アキラが呼吸するたびに、わずかな汗と、アキラ自身の匂いが混ざり合っては、立ち昇った。
「進藤、こうしたかったの?こんな風に全てが飛んでしまえば君は楽になる・・・僕との厳しい関係から、解放されたいのか―――」
「・・・。」
どうしてこの男は、こんなにも的確に俺の心を言い当てるのだろう。俺を丸裸にしてしまうのだろう。
アキラの指摘した通りだと、やっとヒカルの頭が働き始めた。
いつもギリギリのところで踏み止まっている自分自身が、ヒカルにはもどかしかった。哀れでもあった。
相手の気持ちを尊重するためと格好つけながら、本当はその影に潜んでいるもう一人の自分―――もう一人の進藤ヒカルが、怖い。
もう一人の進藤ヒカルにとっては、理性が邪魔だった。穏やかな日々もそうだ。
いっそ、全てをなかったことにするような事件を起こし、アキラに触れてみたらどうだろう?
触れて、その温かさを、甘さを、どこまでも知ったらどうだろう?
きっと、自分だけじゃない。
アキラにも知ってもらえば、百夜なんてまどろっこしい時間を過ごすことなく、一足飛びにゴールまで辿り着けるかもしれない。
そんな危うい妄想を一度もしなかったと言ったら嘘になる―――
ヒカルはグッ・・・と唇を噛み締め、それからようやくアキラの目を見た。
こんな体勢でアキラと見詰め合ったことは、一度もなかっただろう。アキラの黒髪が白いシーツの上に扇のように広がり、澄んだ瞳には部屋のライトが映り込んでいる。
二人で積み上げてきたものを、一方的に壊すようなことをしておきながら、ヒカルはどこか人事みたいに遠く感じてもいたのだった。
「ずっと・・・そうだな、ずっと、こんな風に塔矢アキラを好きにしたかった。その唇に、口付けたかった。裸にしたかった。触りた、かった・・・。」
次第に情けない声になる。当のヒカルにも、それがわかり過ぎるほどわかっていた。
「何度も言ったじゃんか。俺の気持ちは、決して夢のようなフワフワしたもんじゃねえ。所詮、お前が他の人間に気を許してると思うだけで、こんな風に理性が飛ぶ。アイツに何を言われたかわかんないけど、男と男でもすることは一緒だ。こういうことだ・・・こういうことをしたいって、欲求だよ。」
きっと俺は許されても許されなくても、いつかお前をこんな風にメチャクチャにしたいと思うのかもしれない。
そしてその結果お前に捨てられようが、そうすることでしか前に進めないくらい、追い詰められるかも、しれない・・・
ヒカルの声が降ってくる。痛みとともに。
アキラに出来るのは、静かにそれを受け止めることだけだった。
ヨンハとのやり取りをヒカルに知らせて弁解してもいいが、今のヒカルにそれを告げても、ただヨンハへの嫌悪感に拍車をかけるだけだろう。
間違ってはいけないと、アキラは思った。
これはきっと、とても大事な場面だ。進藤が溜め込んでいた全てを、僕が知るために用意された場面だ。
「なあ、お前、どうして抵抗しないの?」
「・・・。」
「さっき自分で言ったじゃん!股間を蹴り上げてでも俺を止めるって。どうしてその通りにしねえんだよ。」
 アキラは何か言いかけたが、何を言っていいかわからなかった。
今のヒカルは、アキラの言葉を待っているようにも見えない。
「くっそぉ・・・優しいお前なんて、風邪ひいてる時だけで十分だ。いっそなじってくれたらいいのに。これじゃ俺が、惨めじゃんか・・・。」
そう言うと、ヒカルはアキラの手を放した。ノロノロと立ち上がり、ベッドから降りる。
振り返ることも謝ることもせずに、部屋を出て行こうとしているのだと、その背中が語っていた。
アキラも身を起こす気になれず、ベッドの上に大の字になったまま目線だけでヒカルを追った。
ドアが開く音。人がすり抜ける気配。
ほんのわずか、間があった。
ヒカルがこちらを窺っているのだろう。
しかし。それもすぐに断ち切られた。
地の底から響くような重たい音とともに、ドアは閉まったのだ。
 アキラは力の入らない腕を何とか動かして、顔を覆った。
涙が零れそうだったが、そうはならなかった。泣くのは今じゃない。暗闇を抜けて、その先に光を見た時こそ、だ。
・・・あぁ・・・明日はどうするのって、通って来るのかって・・・進藤に訊けなかったな・・・
不意に、アキラはヒカルに強く握られていた手首に痛みを感じ、顔を被っていた両腕を離すと、天井に向かって高く掲げた。
紅くついた痕はすぐに消えるだろう。体についた痕は大したものじゃない。
けれど心に切り付けられた傷痕は、簡単には消えないかもしれない。
少なくとも明日の夜に間に合うとはとても思えないと、アキラは絶望的な気分になった。










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