― 百夜通い ―
( 第三章 )
( 八 )
「いよいよ始まったな。」
誰からともなく漏れた声だ。
北斗杯においては初回からそうだったが、団長はじめ選手以外の関係者は、控え室のモニターで観戦することになっている。
一回戦は中国対日本。相変わらず中国の壁は高いが、日本勢は健闘していた。
団長であるアキラは当然気が抜けず、寝不足などとは言っていられない。
控え室も、会場に劣らない熱気に包まれていた。
そのお昼時、アキラは午後も韓国勢との対局がある選手たちと打ち合わせを済ませ、わずかな時間も一人になりたくて部屋に戻ることにした。
疲れていた・・・どうしようもないくらい。碁盤を前にすれば気持ちも張り詰めるが、そうでなければこのまま倒れてしまいそうだ。
ヒカルの姿は見当たらなかった。仕事かもしれないし、こっそり観戦しているのかもしれない。
アキラはしかし、探し回るのだけは踏み止まった。無意識に金色の前髪を目で探してしまうのも、気付いた瞬間に止めた。
そうやって石の運びだけに集中していたからこそ、一回戦が終わった途端、アキラの全身に疲労が戻ってきたのだ。
アキラが部屋に入ろうとした時。気配を感じて振り向くと、ヨンハが立っていた。
「お疲れさまー。日本、惜しかったね?」
「君、控え室にいなかったな。洪君が心配していたみたいだぞ。」
昨夜のことに触れるつもりはなかった。今はそんな時じゃないし、相手もわきまえているだろう。
「んー、二日酔い?それよりもこれ。」
「何だ?」
ヨンハが差し出したのは、ボトルに入った液体らしきもの。
「元気になるよ。塔矢、とても顔色悪い。」
「有難いけど、僕は二日酔いじゃないから。」
「二日酔いの薬じゃない。元気になる。それだけ。」
無理矢理アキラの胸にそれを押し付けると、ヨンハはさっと離れた。まるで小動物を怯えさせまいと、距離をおくように。
「今夜、俺と打って?ね?」
柔らかい微笑みは、昨日とは別人みたいだ。
「いやっ、僕は・・・進藤と・・・っ・・・。」
最後まで言えなかった。「進藤」と、その名前を口にするだけで、キリキリと刺すような痛みが胸に走る。
今夜は通って来ないかもしれない―――そう意識するだけで、こんなにも辛いとは!
今日一日会えないだけの話じゃないのだ。ヒカルが今夜来ないことは、自分との未来を、その全てを考え直す、白紙に戻すという宣言でもある。
口ごもったアキラの内心を察っしたのか、ヨンハは何も追求せず、微笑みのまま背中を向けた。
その日の対局後、日本選手団では何時間も検討が行われた。
そして全てが終わって部屋に引き取ったアキラは、そこでようやく一人になれた。
身も心も脱力した。普段ならしないが、乱暴にネクタイを引き抜くとソファに投げやり、シャツのままベッドに倒れ込む。
結局、この時間までヒカルからの連絡はなかった。
やっぱりもう、来ないのだろうか?
アキラが大きなため息とともに憂鬱を払おうとしたその時、電話が鳴った。携帯ではなく、部屋の電話だ。
そのことからもヒカルではないだろうとは思ったが、わずかな期待に縋らずにはいられないアキラは、受話器に飛びついていた。
「もしもしっ・・・。」
『やあ、塔矢。お疲れさまー。元気か?』
「君か。」
どうやらヨンハは、極力日本語を使おうとしているようだった。
アキラが団長として疲れていることをわかっているからか。昨夜のことがあるからか。
しかし、カタコトでも自分に話し掛けて来ようとする彼の姿は、それなりに胸に迫るものがある。
アキラは努めて明るく言った。
「大丈夫だ。君のくれたあのドリンク、効いたのかな。ありがとう。」
『えっ・・・本当に?飲んだの?』
「ああ、飲んだけど。何か?別に変なものが入っていたんじゃないだろう?」
冗談混じりに言ったが、相手からは真面目な答えが返って来た。
『いや、塔矢、怒っている、思ったから。昨日のこと、進藤のこと。あのドリンク、材料を探し回った。知り合いに頼んで、作ってもらった。塔矢のため。』
どこまでも強気かと思えば、こんな面もあるのかと、アキラはヨンハに対して気が緩んだのかもしれない。小さく笑ったその声を、受話器の向こうの相手は聞き逃さなかった。急に核心を突いてきた。
『進藤を待っているのか?』
「うん。」
受話器の向こうで、ヨンハも大きく息を吸った気配がする。
そして今度は韓国語で言った。
『塔矢。俺はたくさん悩んだ。馬鹿なこともした。大切な人を亡くした時、愛情を形に当て嵌める難しさを思い知った。俺は今でも、その人に対してどうすれば良かったのか、わからない。一生抱えていくのかもしれない。』
「ヨンハ?」
『それ以来、本当に大事なアイツに対しても、どうしていいのかわからなくなった。聞いてくれるか、塔矢。進藤が来るまででいい。俺の話を聞いて。ゆっくり、話すから・・・。』
「どうして僕に?」
『どうして・・・そうだな。どうしてだろう。俺にもよくわからない。』
それを聞いて、アキラは思った。
ヨンハは自分に対して、具体的な救いを求めているのではないのだ。実際、アキラに出来ることなどありはしない。
人は誰かに、秘めて来た己の想いを聞いて欲しい、ただそうしたいと、本能的に思うことがあるのではないだろうか。
それが今、ヨンハの身に起こっているのであって、自分だって誰かに、ヒカルとのことを聞いてくれるだけでいいと思う日が、やってくるのかもしれない。
アキラはチラ・・・とヒカルのことを思い浮かべたが、ヨンハにはこう答えた。
「電話でいいなら。」
『いいさ。電話の方が、俺も余計なことをしたくならないし?塔矢に嫌われたくないし?』
自嘲気味に笑った後、ヨンハは全てをアキラに向かって語り出した。
アキラも静かに耳を傾けた。随分長い時間、聞いていた気がした。
韓国語がわかり難い時は、臆せず聞き返した。アキラは正確に知りたかったし、ヨンハも残らず伝えたかったのだろう。
それはとても大切なことだと、お互いが真摯に思っていた。
( 九 )
ヨンハは、師であった李プロとの出会いから看取るまでのいきさつを、アキラにも理解出来るようにゆっくりと語った。
そしてそれだけでなく、二人の関係の変化とともに移り変わっていった彼自身の本音もさらけ出した。
それはほぼ、スヨンがヒカルに語ったことと同じだった。
「先生が亡くなった後、俺が自暴自棄になったのは本当さ。自分で自分を大切だとは思えなくなった。急に、何もかもがどーーーでもよくなった。一時期は打つ気にさえなれなくて・・・。」
細かい心情まではわからない。
だが、ヨンハほどの棋士が打てなくなるという事実だけで、彼がどれだけ重たい十字架を背負ったのか。
アキラには想像出来た。同じ棋士だから出来たのだ。
「先生の死を前にして、俺はどうして先生に全てを委ねられなかったのか・・・自分で自分がわからなくなったのさ。それで試しに男と寝てみた。行きずりだった。っふふ、すごーく簡単だったよ。」
投げやりな笑い声が響く。アキラは黙っていた。
「こんなことならさっさと先生と愛し合えば良かったのにって・・・何だか自分のこだわりが滑稽に思えてしまった。先生は子どもの頃からの憧れだった。理想だった。先生を神聖視する余り、俺をそんな目で見て欲しくない、どうか止めてくれと、先生を拒み続けたあの日々は、何だったんだろう・・・。」
それでも俺は先生の傍を離れることが出来ず、逆に先生を苦しめたのかもしれない。
受け入れられないのなら看病なんかせずに、いっそ目の前から消えてしまった方が良かったのかもしれない。
でも、先生はもうこの世にいない。尋ねたいことがあっても、尋ねられない。答えは永遠に闇の中だ・・・
ヨンハの慟哭は大きかった。
難しい。何て難しいのだろうと、アキラも重苦しくなる。
ヨンハも言ったように、愛情の形は千差万別だ。
誰よりも大切な存在だからこそ、手を伸ばせないことだってあるだろう。
永遠に関係を壊さないでいようと思えば、想いを打ち明けず、一生秘めておくこともまた、ひとつの道だろう。
李プロにしても、病を得なければ告白しないままだったかもしれない。
ヨンハの話を聞きながら、アキラはそんなことを考えていた。アキラなりに必死で考えていた。
それでも答は容易にはみつからない。
ただひとつ、これだけは確かなことがある。
ヨンハの告白を聞いても、アキラには不思議なくらい、李プロの複雑な愛情も、ヨンハがして来た愚かなことも、嫌な気はしなかったということだ。
いや。むしろ、人間的だとすら思えた。
「俺が荒れてるっていうのは、お前らもわかっただろ?一度そう見られたらそれはそれで気楽だ。俺は元々、品行方正な棋士だと思われていた方じゃない。この髪もよく切れって言われて来たし。」
話の方向が変わったような気がして、アキラは神経を集中させた。
「もっと前、俺が一番ドン底だった時に支えてくれたヤツがいたこと・・・俺は忘れない。」
「支えてくれた?それは・・・。」
「ガキの頃から一緒にいたのになぁ・・・急にソイツのことが見えて、初めて有難いって思ったよ―――その存在に。」
アキラには、ヨンハの言う「ソイツ」が誰だかわかる気がした。アキラの知っている人物だからこそ聞いて欲しいのではないかと、直感したのだ。
「好きなのか?彼のことを。」
「っ・・・彼って、相手が男だってわかるのか?」
「あっ、違うのか?すまない、適当なことを言って。」
「いや、別にいいさ。どっちにしろ、アイツに俺の気持ちを話すつもりはないし。塔矢には、またいつか聞いてもらいたくなるかもしれないが。」
「そんな・・・でもいいのか?そんなに大切なことを僕なんかに・・・。」
どうしてだろうなぁ?俺もやっぱり理由はわからないけど、お前に話して良かったと今は思っているよ、と。
ヨンハの声音がその晩初めて、柔らかいものになった気がした。
ふと時計を見れば、夜もかなり更けていた。
アキラもそろそろ諦めがつき始めていた。
どちらにしても明日は進藤に会いに行こう、ちゃんと話をしよう。そう、アキラは決めていた。
アキラが黙り込んだのを潮に、ヨンハは話題を変えた。
「塔矢。最後にお前に言っておきたい。進藤と生きることは並大抵のことじゃないぞ?」
「うん。」
「棋士としても厳しい。死力を尽くした対局の後、気持ちをコントロールするのは簡単じゃないからな。」
他人にはわからない、こういうことこそ当事者だけにしかわからない重要なことなんだと、ヨンハは続けた。
「そうだろうね。今だって進藤がいい碁を打つと平静ではいられない。僕だってと、子どもみたいに思ってしまう。ははっ・・・。」
まだほんの数日前のことだ。緒方とヒカルの対局の棋譜を見た時の、己の異常な興奮ぶりをアキラは思い出す。
「それだけじゃない。お前らどうせ、隠し通せないだろう?」
「好き合っているということを、か?」
「そうだ。進藤は特に駄目だろう。既にお前を見る目が違っていた。傍に寄ることは我慢出来ても、塔矢のことが気になって仕方ないというのは、よくわかったぜ。」
「そうか。自分では気付かないものなんだな。」
「塔矢、お前も慣れてしまったんだよ。アイツからそんな目で見られることに、どこか慣れてしまって危機感がないんだ!」
ヨンハの語気が少しだけ強くなり、思わずアキラも身構えた。
「男同志で愛し合うことの意味を、ちゃんと考えているか?男女とは違うんだ。気持ちは同じ深さだとしても、肉体的な違いは大きい。お前は進藤に全てをさらけ出せるか?自分でも知らない姿をアイツに見せられるのか?触らせて平気なのか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ヨンハ・・・いっぺんに言わない、で・・・。」
言語の問題ではない、考える頭が追い付かないと、アキラはヨンハに訴える。
するとヨンハがため息をついたのが、電話越しのアキラにも聞こえた。
「まあ、体のことは二人の問題だし二人のペースで進めばいいさ。遊びで寝た経験しかない俺が、偉そうに言うことじゃないが。それよりも塔矢、問題は他にもあるだろう。」
「え?」
「人目だよ!いずれ世間に知れたら、お前たちのことをいやらしい目で見る人間だって絶対に出てくる。お前らが誰よりも強く、目立てば目立つほど、碁界以外からも注目されるだろう?」
考えたくはなかった。
けれど綺麗ごとだけでは済まされないのは、人の世の常である。
「お前は耐えられるか?好奇の目に。心無い噂に。今、ここまで言えるのが俺しかいないみたいだから、敢えて言うさ。お前らは、自分たちの知らないところで弄られることを覚悟しなきゃならない。」
そしてそれは、自分の周りの大切な人たちの平和な暮らしにも、影響を及ぼすかもしれない。
アキラは、ヨンハの言葉をアキラなりの想像で受け止めていた。
そこには、自分たちだけしか見えていなかった時にはなかった視点がある。
始める前から考えてもしょうがないというのは、自分たちの状況には当て嵌まらないのだ。巻き込む人の、何と多いことか。
「―――それでも。」
短い沈黙の後、アキラは口を開いた。
「それでも進藤と生きたいと、今の僕は思っている。誰よりも進藤が大切だ。どんな困難にも彼となら立ち向かって行ける。そう、僕は信じる。」
「そうか・・・そうか。うん、それならいいじゃないか。少なくとも俺よりは遥かにマシな生き方だぜ。」
ヨンハの深い想い対して、アキラが答えるべき韓国語を探している最中だった。
誰か来たみたいだ、ちょっと待ってくれとヨンハが早口で言い、その場を離れる気配がした。
「塔矢。」
「お客様か?もう切るよ。色々ありがとう。今度こそ君と打ちたいな。」
「進藤だ。今、俺の部屋に進藤が来た。」
「えっ・・・。」
「すぐに追い返すから、お前は待ってろ。部屋から出るな。五分だ。」
「ちょっと待って。進藤がどうして・・・。」
進藤がヨンハの部屋へ来た。僕のところではなく、ヨンハの部屋へ。
一体。何をしに。どうして。・・・僕をこれだけ待たせておいて!
受話器を握り締めたままアキラが呆然としていると、再びヨンハが言った。
「それから驚くな、塔矢。進藤は怪我をしているみたいだ。フロントに電話して救急箱を頼め。いや、それは俺が電話しておく。届けさせるから。」
それだけ言うと、ヨンハは電話を切った。
「怪我・・・進藤、怪我って・・・何なんだっ・・・。」
唇が震え出す。手に力が入らない。頭が混乱する。
部屋の呼び鈴が鳴るまでの数分が、アキラにはひどく長く感じられた。
( 十 )
「何しに来た。」
ヨンハは、最初からヒカルを部屋には入れようとしなかった。ドア越しに、それもチェーンをかけたまま尋ねる。
ついさっき、ヨンハはドアを開けた瞬間に上から下までヒカルを眺め回し、一旦部屋の奥へと消えた。
ヒカルもまた、入れてくれとは言わずにヨンハを待った。
そしてヒカルは戻って来たヨンハに向かって顔を上げ、その目を見た。昔のように見上げるという印象はないが、身長差はある。
ヨンハがアキラと電話中だったこと、アキラにヒカルの来訪を告げたことなど知らぬまま、ヒカルは言った。
「ヨンハ、お前、アイツに本気だったりしねえだろうな。」
「ア、イ、ツ?」
「わかってるだろ。ここで大声出す訳にはいかねえんだから。」
ヨンハの両隣も、きっと韓国選手団の部屋だ。目についてはならない。
しかしヨンハは鼻で笑うと、ヒラヒラと手を振った。あっちへ行けとでも言いたげに。
「お前の行くところ、ここじゃない。アイツのところへ、さっさと行きなさーい。」
「わっ、わかってる!お前に言われなくたって行くさ!でっもっ、その前にこれだけは・・・。」
ドアの隙間に一歩近付く。低い、けれど力のこもった声だった。
「塔矢は渡さない。お前にだけじゃなくて、誰にも。」
「塔矢はモノじゃないと思うけど?」
「わかってる。だけど、俺にはアイツだけだ。アイツは俺の全てなんだ。」
ヒカルの瞳には、揺るぎない輝きがあった。その瞳に真っ直ぐに見据えられて、たじろがない者がいようか。
ヨンハは、気圧されて一瞬黙ってしまった自分に舌打ちしたいくらいだった。
「ふうん・・・それってラーブ?」
「そうだ。俺は塔矢を愛してる―――」
ここに来るまでの丸一日。ヒカルがどんなに無茶をしたかということは、その怪我や、やつれ切った顔が教えてくれる。
今夜も俺はここに辿り着けた。全てを越えて、塔矢のところへ行くんだ!
それだけでも十分昂ぶっているというのに、初めて他人に向かって己の気持ちを打ち明けたヒカルの興奮は、頂点に達していた。
熱いものがこみ上げそうになる。それを、唇を噛み締めて堪えた。
「進藤、お前は恥ずかしいヤツ!もう話したくない。さっさと塔矢のところへ行け。」
「わかってる。わかってるけど俺の気持ち、どうしても知って欲しかったんだ。夜中に押し掛けて悪かった。ご免な。」
力強い告白に似つかわしくないほど、しおらしく言っては背を向けたヒカル。
その背中に叩きつけるように、ヨンハは叫んだ。
「進藤!」
「え?」
「甘えるな。」
「ヨンハ・・・。」
「アイツに甘えるんじゃないよ。もっと強くなれ。」
それだけ言うと、ヨンハの部屋のドアは完全に閉められたのだった。
ヒカルがアキラの部屋を訪ねると、すぐさま部屋に招き入れられた。
アキラはものも言わずにヒカルをソファに座らせると、その体を確かめ始める。
そしてテキパキと薬箱から消毒薬や脱脂綿、ガーゼなどを取り出し、ヒカルの傷に触れていくのだった。
「と、塔矢?あの、俺、今夜は遅くなって・・・。」
ヒカルはアキラの勢いに戸惑い、何かを言おうとするが、アキラの方は目も合わせない。
こういう時のアキラは迫力がある。無表情だからこそ、その奥に潜んだアキラの怒りは深い。
ヒカルは覚悟をして来たものの、どうにもいたたまれない気分だった。
「たっ!」
手当てされている最中に一度だけ、ヒカルは声を上げた。
「顎の傷は、本当は縫合してもらった方がいいと思うが。よく動かすところは、ひっつき難いんだ。」
血は止まっていたが、顎から頬にかけての切り傷が最も酷い。パックリと開いたその傷を、アキラは眉をひそめながら見詰める。
手当てされている間中、最初に声を上げたことを恥じるかのように、ヒカルは黙って目を閉じていた。
アキラの顔が、息のかかるほど間近にあるというのも、目を開けていられない理由のひとつだった。
しかし顎以外の傷はかすり傷程度で、出血もたいしたことはなかった。
「救急車でも呼ばなきゃならないかと思った。」
全ての傷を手当てし終えた後、ようやく二人は目を合わせた。
「ご免・・・。」
「何に対して謝っているんだ。」
「塔矢、俺・・・。」
「今夜僕を待たせたことか?怪我なんかして心配かけたことか?それとも昨日のことか?」
君は本当に、僕から逃げ出したかったのか―――
そこまで言うと、アキラはガクリと肩を落とした。
気丈に振舞っていた人間が安堵すると、こんな風に全身が緩んで崩れ落ちそうになるものかと、ヒカルは胸をつかれる。
そしてアキラに向かって手を伸ばそうとして、自分の体にドロがついていることに気付き・・・ヒカルはその手を引っ込めた。
アキラを汚したくはなかった。
「ご免・・・多分、その全部だ。全部、ご免な。でも俺、やっぱり来たよ。来たかった。」
「一体、どうしたんだ?何があったんだ、この傷は・・・。」
「昨日の晩、あれから俺、家に帰れなかった。」
ヒカルは訥々と語った。
アキラの部屋を飛び出してから、家に帰る気にもなれずに酒をあおっては、夜の街を彷徨ったこと。
目が覚めたのは公園のベンチで、それからまたフラフラと歩いたこと。
今頃日本選手団が戦っている。アキラも、団長として緊張の中にいる。純粋に応援したい気持ちと、自分たちを縛る世界から目を逸らしたい気持ちとが、せめぎ合ったこと。
結局、馴染みの碁会所で打って打って、それからおじさん連中に飲みに連れて行かれたこと。
居酒屋で寝込んだところを起こされて、慌てて飛び出したこと。
途中ぶつかったチンピラと小競り合いになったり、階段を転げ落ちたり、文字通りボロボロになったこと。
本当はもっとアキラが顔をしかめるような色々があったかもしれないし、ヒカルの感情も大きく揺れ動いたのかもしれない。
だが、ヒカルはアキラの元へと、夜が明ける前に確かに通って来たのだ。
「この格好だろ?さすがにさ、ホテルの入り口で止められちゃった。」
進藤ヒカルという棋士であることを認めてもらえなかったら、中には入れてはもらえなかったかもしんないと、ヒカルは恥ずかしそうに口元を歪めた。
「喧嘩なんかしてっ・・・転んだりもしてっ・・・危ないじゃないか!馬鹿だよ、君は大馬鹿だ。棋士としての自覚が足りないっ・・・。」
アキラの指が、ヒカルの汚れを落とすようにそっとその頬を撫ぜた。
ヒカルもようやく許されたその手を伸ばし、アキラの手に重ねた。
血の通った二つの手は重なり合うことでまた、新たな血の流れを生み出すかのように、二人の脈を早める。
「僕から逃げ出したのだったら、許さないところだった。どこまでも追いかけてやるって・・・昨日、あんな風に僕を放り出しておきながら・・・。」
「ほんとに?お前、そんなこと思っててくれたの?」
「進藤、聞いてくれ。僕たちは、甘えているんじゃないだろうか。もっと厳しい状況にある人だって、叶わない恋に苦しんでいる人だって、世間にはたくさんいるだろうに。」
僕らは、お互いに、そして置かれた環境に、甘えている―――
奇しくもヨンハと同じ言葉がアキラの口から飛び出したことで、ヒカルは今まで二人が話していたのではないか、ヨンハの過去をアキラが知ったのではないかと察した。
しかしそのことはヒカルにとって別段、不快でも何でもなかった。
ヨンハの、そしてアキラの言葉が、重たい碇のようにヒカルの心に沈んでゆく・・・
それを大切にしようと思っているうちに、アキラの方がヒカルを抱き寄せた。
ヒカルももう、服の汚れなど気にしなかった。
滲む涙を相手に見られたくない時、抱き合うのは丁度いい。顔を合わせないままで済む。
涙が乾くまで、そうしていればいい。
「君が無事で良かった・・・。」
折角顔を見られないように抱き合っているというのに、アキラは明らかに泣き声で、ヒカルもとうとう堪え切れずに愛しい人の服を涙で濡らしたのだった。
( 十一 )
先に目を覚まして部屋を出たのは、矢張りアキラの方だった。
昨夜遅く部屋に辿り着いたヒカルを手当てし、そして通って来たことを認めた後、アキラはヒカルにツインの片側に寝るようにすすめた。
疲労と寝不足とで、目を閉じたら数秒で眠りに落ちそうなヒカルは、アキラの言葉に素直に従い、温かい布団に潜り込んだ。
予想通り、すぐに寝息を立て始めたヒカルの隣で、アキラも安らかな眠りについた。
「・・・っ―――あ、そっか、ここは塔矢の・・・。」
目が覚めてしばらくは、自分がどこにいるのか把握しかねた。
ぼんやりと頭を巡らしながら、ヒカルはページをめくるように、昨夜のことを少しずつ思い出してゆく・・・
昨日一日、家にも戻らず街を流離った。その間には、最低な妄想もした。
アキラの細い体を、その腕に抱いているヨンハの不適な笑みを想像した時は、胸が妬けた。本当に吐き気を覚えた。
・・・ヨンハだったら。
自分ではなく、ヨンハくらい大物棋士であったら、アキラを守れるのかもしれないと、一瞬でも思い浮かべた自分に嫌気がさしたのだ。
そんなことを考えても、意味はなかった。自分がどうアキラを愛するか。大切なのは、ただそれだけの筈。
今のヒカルにとってのヨンハは、単なる象徴に過ぎない。アキラと自分を阻む、多くの障害。目に見える判り易いものから、目に見えない深層まで。
その圧迫感が、アキラを手中におさめてヒカルに向かって微笑むヨンハの姿になったのだと、理解出来る。
甘えるな―――
ヨンハの言葉が、再び胸に迫る。
確かに。あれは俺のことを見透かした、鋭い一言だった。
そしてヒカルがベッドの上で膝を抱えて、頭を掻き毟った時だった。
「たっ!」
顎の傷に痛みが走り、改めて自分がボロボロなことを思い出す。
アキラは何も聞かずに手当てをしてくれた。黙ったまま、ヒカルの傷をひとつひとつ確かめ、大切に扱ってくれた。
その間、塔矢は一体、何を思っていたんだろ・・・
もしかしたら、ヒカルの傷を自分のものとして受け止めながら、その痛みまで同じように感じたいと必死だったのかもしれない。
中身が熱く熱く沸騰している時でも、表面は努めて平静を装ってしまう。
それでも、ふとした拍子に本音が零れ出て、それがまた、アキラを自己嫌悪に陥らせる。
そんな不器用で、複雑な部分を持っているということ。誰よりも自分がわかっていなければならない、わかっていたいのに―――
そう思ったら、じっとしていられなくなった。こんなところで膝を抱えている場合じゃない。
ヒカルはベッドから飛び降りると、身支度を始めた。
階下では既に最後の中国対韓国戦が始まっており、ヒカルは一般客の詰め掛けた部屋に入った。
アキラが用意してくれた下着やシャツに着替えてはいたものの、顔の傷は隠し難い。出来るだけ目立たないように観戦しようと思った。
対局は緊張感溢れる展開だったが、結局2―1の接戦で中国が制した。
ヨンハ以降、韓国ではこれといった若手の大将が出ていない。
初年度から既にジュニアのレベルではないことは周知だったが、ヨンハ自身はこの日中韓の棋戦を好み、選手を退いても昨年まで団長を勤めていた。それが進藤ヒカルへの関心から出発していることは、案外知られていない。
最後の一局が終局するのを待たずに、ヒカルは席を立った。見なくても先は読める。
各国の若手の台頭は、ヒカルの棋士魂に簡単に火をつけた。
打ちたい・・・打ちたい・・・打ちたい!
猛烈に打ちたいと渇望して立ち上がったヒカルは、会場を出たところで呼び止められた。
ヨンハだった。
彼はヒカルを上から下まで眺め回してから、口元だけで笑った。何も言わぬまま、ヒカルについて来いと合図を送る。
ヒカルも黙ってその後に続いた。
わかっている。ヨンハの意図するところは。
打ちたいのだ、彼も。
石の音を聞けば、心が逸る。自分だったらあそこでこう打つ。あれはこうかわす。
ヨンハの目は言っていた。
来い、進藤。俺と十九路の世界で戦おう!全力で来いよ!
ヒカルとて、否やはなかった。
ヨンハとヒカルが打ったのは、スヨンの叔父の碁会所。
毎年、北斗杯の後はここで打ってきたので、スヨンの叔父も常連も二人を歓迎した。
白熱した最初の対局が終わった時、気付いた。いつの間にか、団長の大任を終えたスヨンとアキラも来ていたことに。
「塔矢。次はーお前とー俺ー。」
お得意のおどけた口調でヨンハがアキラを指し、そして次には自分を指した。
「だったら僕は進藤とだな!団長もいいけどさぁ、早く打ちたくてしょうがなかったんだ!」
スヨンは疲れも見せずに、ヒカルの腕を引っ張る。
苦笑しながらそれを見送ったアキラだったが、ヨンハと盤を挟めば、雑事を忘れて集中した。
それから先はスヨンの叔父が気をきかせてくれ、四人を残して碁会所を閉めてくれた。
誰が言い出したのか、ペア碁まで打った。早碁も打った。
余計な話は一切しない。
ただ、盤上の石の運びだけを飽くことなく、語り合う四人だった。
気が付いた時には、空が白み始めていた。とうとう、ヒカルたちは朝まで打ち通したのだ。
外に出ると、東から朝陽が昇り始めるところだった。
神々しいまでに美しい金色の光が、静かに世界を照らし出
している。
四人は自然と横並びに立つと、言葉もなく、ただ朝陽の眩しさに目を細めた。
ヒカルは思った―――今、心が近い、と。
塔矢とだけじゃない。スヨンとも、ヨンハとも近い気がする・・・
生まれた国も生い立ちも、そして碁との出会いからその打ち筋に至るまで四者四様、全く違う。
それなのに、今、皆と最も近い場所にいるのだという感慨に包まれたのは、ヒカルだけではなかった。
それは、強力な磁石によって四方から引き寄せられたかのように、不思議な力が生み出した巡り合わせだったのかもしれない。
ヒカルも、そしてアキラもスヨンも、更にはヨンハですら。
この日、四人で並んで見た朝焼けの空を生涯忘れないだろうと、予感していた。