― 百夜通い ―
( 第三章 )
( 一 )
そのホテルの前に来ると、ヒカルは足を止めた。見上げる建物は、立派で威圧感がある。
ホテルみたいなところは大人が集う場所、自分には縁がなかったからと苦手意識があったのは、まだ十代の半ばの頃だ。
今では対局でも仕事でもホテルに出向くことが多くなったので、気後れすることはなくなった。ティーンエイジャーの頃から物慣れた塔矢アキラには及ばないが、自分だって成長した。
・・・した筈だ。見た目も、そして中身も。
「うー、今夜はちょっと緊張すんな。仕事じゃねえし。」
口に出してしまったのは、まさに緊張がそうさせたのだろう。
完全にプライベートな用事のために来たのに、仕事関係の人間がたくさんいる場所に足を踏み入れるという、ヒカルにとっては特殊な状況だからだ。
百夜通いは続いていた。
春爛漫のあの日から、細い糸は風雨にさらされながらも必死で持ちこたえ、繋がっている。
しかし続いていることに変わりはないし、何よりも大切な二人の気持ちは大きく振られながらも、確実に向かうべき場所を求めているように思えた。
今夜は三十日目だ。
二十一日目から先は比較的順調に過ぎた。どちらも泊まりの仕事がなかったし、北斗杯の団長に任命さているアキラは、その関連の仕事が立て込んでいた。
逆を言えば都内から出るようなことはなく、通うヒカルにとっても都合が良かったのだ。
そして今夜、いよいよ北斗杯のメンバーが来日し、明日の開幕に向けてレセプションが催される。
アキラはこのホテルに泊まることになっており、二人は部屋で打つことにしていた。
今年の韓国の団長は、洪スヨン。
異国の友達、兼、ライバルには会いたい。しかし今、アキラとこういう状態では、顔を合わせるのが怖いような気もする。
アキラを愛したことは微塵も後悔していないが、同性であり、大切なライバルに対してこんな感情を抱いていることを知られたら、同じトップ棋士であるスヨンはどう思うだろう。
・・・嫌悪するだろうか。
そんなことを思い巡らせば、ヒカルは複雑な気持になるのだった。スヨンがどうのというのではなく、自分自身がスヨンの目を真っ直ぐに見られるだろうかと。
だが、それは杞憂に終わった。
「進藤!久しぶりだな、元気だったか?・・・ああ、元気そうだ!ダイジョウブ!」
「おいおい、一人で完結すんなよ〜、お前こそ元気そうじゃん?初団長で、ちっとはカタくなってんのかと思ってたけど・・・。」
早速、ロビーで出くわしてしまった。
実際に顔を見れば、懐かしさだけが心を占める。
ヒカルもスヨンも満面の笑顔で肩を叩き合い、しばらくは近況を語り合った。
「スヨン。」
ロビーで賑やかに話していた二人に、声をかける人物がいた。
そちらを振り向いて、ヒカルは驚く。高永夏だった。
長身なのは変わらなかったが、以前よりも明らかに痩せていた。スーツから覗く胸が、ひどく薄いように見える。腰も細い。
ヨンハほどならあつらえのスーツだろうに、ここまで体に合っていないとは、彼が急激に痩せたことを物語っているかのようだった。
「ああ、そろそろ始まるよね。ヨンハ、その前にほら、進藤だよ、久しぶりだろう?」
最初に日本語でヒカルにもわかるように喋り、それから韓国語に変えた。
まるで通訳みたいだと思いながら、ヒカルはもう一度ヨンハを見ようとして―――視線を合わせ辛いものを感じた。
どことなくだが、自分の知っているヨンハとは雰囲気が違う。昔から鋭い刃物のような青年ではあったが、それは見るものを惹きつける輝きを放っていた。
しかし。今は、どうだろう・・・
今のヨンハは、久しぶりに会ったヒカルにも感じ取れるほど・・・いや、久しぶりだからこそはっきりとわかるほど、様変わりしていた。
いつも身近にいる筈のスヨンは気付かないのだろうかと、チラと見る。
するとスヨンも「わかっているよ」というように、小さく頷いた。
「おひさー。」
「・・・は?」
「ヨンハ!そういう日本語は使うな!」
「今の、日本語かっ・・・。」
ポカンとしているヒカルに、スヨンが早口で言う。
「日本人と付き合っていたんだ、ヨンハ。色々ふざけたことを覚えちゃって・・・。」
実は少しは日本語が理解出来るようになったらしいと聞かされ、ますます呆気にとられるヒカルだった。
「マ、マジ?じゃあ、これでお前らも塔矢も、どっちでも喋れるようになっちゃったってこと?」
「元々、ヨンハは頭がいいからね。その気になったら早いんだ。」
「日本語の勉強は、暇つぶし。」
「ヨンハ!またそういうことを・・・。」
「はははっ、相変わらずだなっ、その毒吐きっぷり!」
三人で笑った。
ヨンハもようやく笑顔らしい笑顔を見せ、それがヒカルを安堵させた。
だがしかし、そこにアキラが現れた時、微妙に空気が変わった。
四人が顔を揃えたのはヨンハが団長を務めた昨年の五月以来だったが、明らかにその時とは何かが違う。
それぞれ大人になったのだということを否応なく知る再会の夜は、今、始まったばかりだった。
( 二 )
年々、北斗杯の前夜祭は賑やかになり、参加する関係者も増えていた。それもこれも、選手として出場し続けたヒカルやアキラたちの実力と人気に負うところが大きい。
前夜のレセプションと言えば、ヒカルにとってはヨンハが放った言葉の真意を誤解したという、あの思い出にも繋がる。
アキラとて、あの一件を忘れてなどいなかった。
だが、あれから長い時間が経った。
今や初回に出場した選手は誰も残っていないし、既にジュニアではなく国際棋戦で活躍している者も少なくない。
ヒカルはこの時期が来るたびに思い出すことがあり過ぎて、気持ちが目の前の現実から遠くなり、物思いに沈む自分を感じていた。
毎年同じホテル、同じ会場というのも、記憶を刺激する要因になっているのだろう。
「塔矢、まだかなぁ・・・。」
「おい、進藤?何でそんな隅っこに隠れているんだ?」
「スヨン!い、やぁ・・・隠れているって訳でもねえけど。ほら、俺、今年は何も関係ねえし。」
「でも応援に来たんだろう?遠慮するな。」
「韓国の団長に言われてもなぁ、ははは・・・。」
「笑ってないでちゃんと食べたか?美味しいな、日本食は。」
「韓国でも最近、ブームらしいな。でも、俺は韓国料理も好きだぜー。辛いものもイケるようになったし。」
「早く韓国にも遊びに来い、進藤!」
百夜通いの約束のために訪れたとはいえ、そんなことは知りもしないスヨンとヨンハに会ったことで、ヒカルは成り行き上、レセプション会場にも顔を出す羽目になった。
挨拶が一通り終われば、明日からに備えて選手は早々に引き取るのも、後はお開きまで気楽な歓談が続くのも、例年通りだ。
アキラが団長として選手を部屋まで送って行ったので、ヒカルは携帯に連絡が入るの待ちがてら、会場内で時間を潰していた。
「今年も打てるか?」
「ああ、そうだな。打ちたいな!お前とも久しぶりだし。」
「団長なんて、本当はつまらないよ。塔矢もそうだろう?」
「あっ・・・。」
いつの間にか会場に戻って来たアキラが、二人の横に立っていた。
今日は淡い色のスーツに、花模様のネクタイだ。レセプションという場に合わせたのか全体的に柔らかい印象のコーディネイトで、それがまたアキラの魅力を引き出している。
ヒカルでなくとも、アキラがどんなに美しい青年に成長したかということは、誰しも納得するところだろう。
「おい、進藤。な~に塔矢に見とれているんだ?」
「えっ・・・あ?」
「見とれるなんて言葉を知っているとは。君も日本語が上達したな。進藤よりも上手いんじゃないか?」
からかうスヨンを、アキラがスマートにかわした。
ヒカルもほっとして、スヨンの肩を叩く。
「使い方が間違ってたら、上達とは言えねえよ。二人して俺のこと、弄りやがって!スヨン、お前、日本語じゃなくて碁はどうなんだよ〜。」
「ああっ、すぐにでも打ちたいなっ、進藤!」
その時だった。
会場の一角から、叫び声に近いようなどよめきが起こり、ヒカルたちも反射的にそちらを見た。
「ヨンハ。また、あんな派手に・・・。」
スヨンが苦々しげに呟く。
声がした方では、女性に取り囲まれて談笑しているヨンハがいた。その長身が頭ひとつ飛び出しているので、どこにいても目立つ。
「ヨンハ、ますますモテモテじゃん?」
「あれは飲み過ぎだ、止めなきゃ・・・。」
「そういやアイツ、何か雰囲気、変わってねえ?痩せたからかな〜、頬なんかこけちゃってさ、ますます・・・。」
ヒカルに続いて、アキラも言う。
「僕は日本語で話し掛けられて、驚いたよ。勉強したんだな。」
「そうだっ、日本人と付き合ってたって?マジ?」
スヨンは歩きかけていた足を止め、二人を振り返った。
「日本人だけじゃない、何人もの女性と付き合って。この一年くらい、荒れていたんだ・・・ヨンハ。」
途中でご免、ヨンハのところへ行って来ると言い残し、スヨンは去った。
スヨンの声が寂しそうだったことが、ヒカルとアキラの胸をざわめかせる。
「荒れてた?アイツが?」
「まさか。じゃあ本当なんだろうか、あの噂は。」
「噂?」
「いや、北斗杯関係者から聞いたんだが、最初は今年も彼に決まっていた団長をおろされたらしい。素行が心配だということで。」
「素行って・・・。」
「僕も詳しいことはわからないし、信じてもいなかった。でも、彼の様子は去年とは違う、明らかに。」
「お前、ナニ冷静に分析してんだよ?確かに今夜は飲み過ぎかもしんねえけど、でも・・・。」
そこでヒカルは言いよどんだ。庇うことの出来るほど、ヨンハを知っている訳でも一緒に過ごしている訳でもない。
きっとスヨンなら詳しいことを知っているだろうとは思うものの、この分だとすぐには聞き出せそうになかった。
賑やかな一団の中心にいるヨンハに、スヨンが話し掛けている。
そして引き摺るようにしてその場を離れる様子が、ヒカルたちの目には映っていた。
「打てばいいんじゃないだろうか。」
「えっ・・・。」
不意にアキラが口を開いた。
ヒカルは、はっとアキラの横顔に見入る。
「彼にどんなことがあったのかわからない。でも、棋譜を見るだけじゃなく実際に打ってみれば、何かわかるかもしれないじゃないか?」
「そうかも。」
「でもその前に僕らの一局だ。」
「あっ・・・うん!」
ヨンハのことは気になるが、ヒカルもアキラに言われて心が一気に浮上した。
そうだ。打とう。
まずは塔矢と、約束の一局を。
そしてスヨンとも。ヨンハとも打ちたい。
碁打ちの魂が強烈に揺さぶられるのを、ヒカルは感じていた。
二人は出来るだけ目立たないように会場を後にし、エレベーターホールへと向かった。
それを、ロビーでスヨンと話していたヨンハの視線が追っていたことに、二人とも気付いてはいなかった。
「あ、またこの階なんだ。日本選手団は。」
「そう、それぞれ他国の選手とは違う階にしてある。」
「俺らが最初に泊まった・・・。」
「よく覚えているな。」
「忘れられるか。この壁紙。この廊下。そうだ、お前!ここでこう、俺を睨んで・・・。」
―――無様な結果は許さない―――
一瞬にして蘇るものがある。
あの日、あの時、秀策絡みで激昂し、それが碁にも影響を及ぼした一連の出来事が、ヒカルの脳裏に蘇ってきた。
渦中、アキラが自分に向けていた想いの複雑さを、当時の自分はわかっていなかった。いっぱいいっぱいだった。
ただ、アキラがずっと自分の傍で見ていてくれたこと、最後にあの場所から立ち上がる力をくれたことは、間違いない―――
いきなりだった。ドン!と、ヒカルがこぶしを壁に打ち付けた。
苛立ちを感じさせる仕草ではないが、感情の昂ぶりがそうさせたことは明らかだった。
「進藤?」
「今夜さ、俺、打たないで帰ってもいいか?通ったことに、してくれない?」
「どうしたんだ・・・ヨンハのことか?」
しかし、ヒカルは首を振った。
「違う・・・。」
「じゃあ何故?」
アキラが納得いかないのも無理はない。ついさっきまで待ち切れなさそうにしていたのは、ヒカルの方だったのに。
「だってお前の部屋で、お前と二人きり・・・マズイかもしんない。自信、ない・・・。」
今夜は、これまで通った夜とは違う。何かが違う。
ヒタヒタと忍び寄る得体の知れぬ影に不安を感じて、ヒカルは落ち着かなかった。
( 三 )
「何を今更・・・。」
「塔矢。」
「昨日までだって二人きりだったじゃないか!おかしなことを言う、っは・・・。」
意外なことに、アキラは笑い出した。
気まずい空気を誤魔化そうとする訳でもなく、本当にヒカルの言うことがおかしいらしい。理解出来ないらしい。
「お前さ〜、打ってる時は安全、とか思ってる?」
「あ、安全って?っふ、は・・・。」
「いい加減、笑うの止せって。」
「―――?」
ヒカルは、壁に打ち付けた状態で固まっていた拳を、ゆっくりと下ろした。
そしてアキラへと真っ直ぐに向き直る。
「ここはいけない。ここはお前の家とは違う。打てばもっと・・・。」
「もっと?」
「だからっ・・・っ、いいんだって、俺が何をどう感じてるかなんて!そうじゃなくてお前の部屋、ベッドがあるだろうがっ!」
「は?当然だろう、ホテルの客室なんだから。君、眠いのか?」
「ボケてる場合かよ・・・。」
ヒカルは頭を振ると、今度は実力行使に出ることにした。
手を伸ばし、その大きな手の平でアキラの頬に触れる。
予期せぬ接触に、アキラの肩がビクン・・・と跳ねた。黒髪が揺れる。
その隙にヒカルの手は頬から耳へと滑り、更にその奥へと忍び込んだ。
うなじだろうか、後頭部だろうか。
呆然として意識出来なかったアキラだが、その辺をはっきりと色っぽい意味合いで触られたのだと気付いた時には、ヒカルの顔が眼前に迫っていた。
キス、される・・・
しかし―――アキラには、拒絶の反応が起きない。跳ね除けるべきだとわかっているのに、体が動かない。
真っ直ぐに降りてくるヒカルの顔が視界いっぱいに広がり、アキラが自然に目を閉じたくなった・・・その時。
唐突に、ヒカルの動きが止まった。
アキラが恐る恐る覗き込めば、その目は潤んでいる。
泣きたいからというよりも、怒りのせいかもしれないと直感し、アキラの心は一気に冷えた。
「バーカ。いつ、知ってるヤツが通るかもしんねえのに、するか。・・・っつかさ、襲っていいのかよ、こんな・・・。」
「君、馬鹿にしているのか?僕のこと。」
「はあ?」
「同じ男だぞ。体格だってそんなに変わらない。その気になれば、君の股間を蹴り上げることだって出来るんだ。」
「股間って・・・。」
ヒカルが大袈裟に後ずさった。同時にその手も、アキラの肌の上から去ってゆく。
おどけたように両手を広げ、ヒカルは降参のポーズを取った。
「お前、マジでやりそうでコワ。」
「だろう?男の力で本気の抵抗をされたら、君だって怖いと感じるんだ。だったら余計な心配はするな。ともかく、僕と打ちたくないのか?」
今、自分が思わずヒカルを受け入れそうになっていた事実から、とりあえずは目を逸らしたかった。
受け入れるのは、たやすい。心は既に決まっている。
もうこんな馬鹿な賭けは止めて、すぐでにも結ばれたいと思えば、自分からヒカルの腕に飛び込み、思い切って彼の唇に自分のそれを重ねてしまえばいいだけだ。
けれど。
けれど自分たちがそうしないのも・・・
「っふ!何か今、俺の方が優位みてえ?」
「優位、だと?」
「さっきまではこっちがヤバかった。だって毎日毎日、お前んとこ通って打ってたら、やっぱりどんどん好きになるんだもん・・・。」
始めた頃よりも今、昨日よりも今日、そんな風にして想いは膨らんでゆく。
ヒカルの言葉は正直過ぎて、アキラは何と返していいかわからなかった。
「だから今夜はお前のこと、ベッドに押し倒さない自信が持てないから、帰らせてもらおうって思った。でもさ、今、お前、俺とめちゃくちゃ打ちたくてしょうがないだろ?」
「だって、それは・・・。」
「毎日、毎晩、必ず打てると思えば、染み付いちゃうよなぁ・・・一ヶ月だもん。」
図星をつかれたと思ったアキラは、黙り込むしかなかった。
「あー、だからってさ、打ちたいならキスさせろーなんてこたぁ言わねえよ。そういう駆け引きは無駄だもんな。優位、つったって、簡単に傾きが変わるシーソーみたいなもんだ。今、お前に許されたりなんかしたら、今度は俺が切羽詰る―――」
抑えがきかなくなるのは、俺だって困る。
お前もそうだろ?打ちたいけど、それ以上はまだ、だもんなぁ・・・
「俺と打ちたい」と、「俺と触れ合いたい」は、まだ全然、お前の中では別ものだもんなぁ・・・
誰かに聞かれたら困るからだろうか。ヒカルは小声で、傍にいるアキラにだけ聞こえるように話していた。
その通りだと、アキラは思う。
今、猛烈にヒカルと打ちたいと思う。心ゆくまで打って、今日という一日を締めくくりたい。昨日までと同じように。
けれども、相手の気持ちの有り様が自分とは微妙に違うのであれば、そのバランスの悪さが何かとんでもないことを引き起こさないとも限らない。そのくらいはわかる。
「わかった。さっさと行ってくれ。実は我慢強い方じゃないんだ。君も知っているだろうけど。」
「ご免、塔矢。明日も来るから。気持ち、ちゃんと立て直して来るから。」
それでもヒカルがエレベーターに乗り込み、それが階下へと降りていくのを見届けるまで、アキラはそこから動けずにいた。
ようやく、アキラは歩き出した。
廊下に敷き詰められている絨毯は、足音を吸い込む。響かない。
そのせいか、アキラはヒカルと別れた途端に現実感が薄れていくような気がして、重たい足を無理矢理動かした。
部屋の前まで来ると、アキラはキーを取り出すべく立ち止まった。
ところが。
ポケットを探ると、石が出て来た。ヒカルから渡された石だ。
今夜もちゃんと用意してきていたヒカルは、別れ際、エレベーターが閉まる寸前に、それを投げてよこした。
・・・塔矢!これっ・・・忘れるとこだった!
弧を描いてアキラの手におさまった石から、ヒカルの温もりはとっくに消えている。
それを今、指先でもてあそびながら、アキラは深くうな垂れると、ため息をひとつ、ついた。
「駄目だ・・・こんなんじゃ眠れない。」
アキラは黒髪を翻し、来た道を戻り始めた。
ヒカルはまだ、ロビー辺りにいるかもしれない。携帯にかけて引き止めるのではなく、ヒカル本人に会えたのならそうしよう。もう一度だけ、打っていかないかと誘ってみよう。
我侭だということは、嫌というほどわかっているさ。そうだ、進藤にもそんな風になじられたらどうしよう?
・・・その答えはひとつ―――僕が我侭を言いたいのは、君に対してだけじゃないか。
エレベーターが開く。
アキラは乗り込む気満々で一歩を踏み出したが、中から出て来た人物と思いっきりぶつかった。勢いがついていたので、制御出来なかった。
「こんばんはー。」
「ヨンハ!」
アルコールの匂いとともに、大人の男性を感じさせる独特の香りが、アキラの鼻をくすぐった。
ヨンハの胸に抱きこまれる形になり、アキラは改めて驚く。実際、こんなにも彼は背が高く、そしてこんなにも華奢な体つきをしていたとは。
アキラには単純に驚きだったのだ。