― 百夜通い ―
( 第二章 )









 ( 七 )

「ひどい降りになったな。」
ヒカルが目的地に着いた時、雨足は強くなっていた。
房総の海が一望に見渡せる新しい旅館で、近年囲碁が盛んになって来たヨーロッパのアマを迎えての親善交流と、模範対局が開かれている。
アキラはそのイベントでヨーロッパ出身でプロ棋士となった青年と対局することになっていた。
一種のお祭りであり、勝ち星にこだわるというよりもプロとして手本になるような対局を見せるのが主眼だ。
その旅館に一泊する予定のアキラの元へ駆けつけようとしているヒカルだったが、会ってもらえるのか自信はなかった。
・・・いや。それでも勿論、おめおめと引き下がるつもりもなかったが。
駅からはタクシーを拾った。
窓を叩き、後方に流れてゆく雨の筋がまるで人の血管のようだと、妙に生々しい想像をしていた。
おそらくこれも、先ほどのアキラとのやり取りのせいではないかと思った。
君への愛情よりも、碁を取る―――
重たい言葉だ。
人として、棋士として。ヒカルの胸にズシリと圧し掛かる。
だが一方でそこには、光も見えない訳ではなかった。
アキラの言葉は、アキラが通い始めた当初以上にヒカルとの未来を考えようとしている、その証拠ではないだろうか。
考えて考え抜いて、それで辿り着いた答えがこれだとしたら、ヒカルには十分アキラの気持ちが高まり、自分に向かっているのだと察っすることが出来る。
ヒカルと共に生きる残りの人生を想像したからこそ、アキラは絶望感に見舞われているのだろう。
例えばプロ棋士ではない女性と結婚しても、或いは相手が女流棋士としてもだ、アキラはこんな風に愛情か碁か…などというナンセンスな選択肢を考え付かなかったと、ヒカルは確信する。
そしてその通りだった。
相手がヒカルだから。進藤ヒカルという棋士と、同時代に生きて打てる喜びを実感しているからこそ。
終生のライバルに巡り会い、その相手がいてこその自分の棋士人生の輝きだと思えるからこそ。
アキラには、ヒカルはおいそれとは手に入れてはならない、むしろ関係をなあなあにしてはいけない大切な人であった。
そういう四角四面に考えるところも、アキラの人としての魅力だとヒカルは感じている。融通がきかなくらいに、碁にしても生き方にしても、生真面目そのものだ。
ヒカルのこともどれだけ棋士として重んじ、敬意を払ってくれたか。こんな自分に勿体無い、と思わないでもないくらい、その敬愛を感じているヒカルにとって、それは両刃の刃でもあった。
ヒカルを大切に思い過ぎる余りに、恋人、人生の伴侶としての選択を完全に外そうとしていたアキラに対して。
夢に導かれるようにして絶妙のタイミングを捉え、アキラが決断する寸前で告白に踏み切ったヒカルだった。

旅館の少し手前で降りて、ファミリーレストランに入った。
地方都市の幹線道路によく見られる大型店で、夕食の時間にはまだ少し早いせいか客もまばらだ。
そこからアキラに、ここで時間を潰しているから体が空いたら連絡をくれるようにとメールした。仕事中のアキラの目の前に出て行くことは、避けた方がいいとの判断だ。
数時間後。アキラから返信が入り、ヒカルは指定された海岸沿いの公園へと向かう。
そしてそれは、傘を差してもあっという間に足元が濡れてしまう「春の嵐」のど真ん中だった。
「塔矢。来たぜ。今夜も。」
「うん、ここまでありがとう。雨の中、すまない。」
「いや、こんな雨だったら海岸まで散歩する人もいねえだろ?誰にも見られる心配がなくていいじゃんか。」
「そこまで考えた訳じゃなかったけど。」
「嫌味じゃねえよ、別に。それよりお前、仕事は済んだの?」
「一応。戻ったら宴会の真っ最中だろうけどね。」
「落ち着いたみたいだな。昼間の電話、ちょっと焦ったぜ。」
「悪かった、感情的になって。でも・・・。」
「でも?」
公園とはいっても、砂防林に沿って細い道が続いている簡単なものだ。斜面を降りて行けば砂浜が広がり、眼前では夜の海に雨が降り注いでいる。
風が出てきたのか、雨が横殴りになって互いの声も聞き取り難くかった。
「あの電話で伝えた気持ちは変わっていない。」
海に向かって立っていたアキラが、首だけを捻ってこちらを見た。
ヒカルは、胸をつかれる。
傘も飛ばしそうな勢いの雨風をものともせずに、黒髪を嬲られるに任せ、そこに真っ直ぐに立つ凛とした塔矢アキラの風情に。
「今日、対局していても、君のことが頭から離れなかった。君と打ちたい。君だったらここはどう打つだろうって。つまり、僕のことを好きだと言う、男としての君のことじゃない―――君の碁だ。昨日、緒方さんとの一局に勝った君の碁。これからも、どんどん伸びて行くだろう君の碁。僕が君に想いを馳せる時、それはすなわち棋士としての進藤ヒカルなんだ。」
激しい風が吹いて、二人の間が一瞬だけ霞んだ。音だけではく、視界も悪くなる。
反射的に目を細めたヒカルが、息をついて漸くアキラを見た時、アキラも静かに風をやり過ごし、目を開くところだった。
長い睫毛の向こうで、黒い瞳が揺らめいていた。
「進藤。僕はずっと見ないようにして来たことにやっと気付いた。僕らの間にある問題は、同性だからだ、と・・・世間的に認められないからだと思っていた。いや、そう思い込もうとしていた。」
「・・・。」
「その方が楽だからね。そういう、誰もが理解しやすい表層的な問題の方が心の負担は少ない。修復も、し易い。」
「何が言いたい・・・。」
「僕らが真実抱えている問題は、棋士同士だということだ。それは君だって、ここへ来るまでに嫌というほど噛み締めたんじゃないか?」
顔に書いてあるよ、と。
アキラは笑顔に近い表情を作って見せたが、それはすぐに歪んでしまった。
ヒカルも心を見透かされたことで、急に萎えるものがあった。
そこは痛い。そこを突付かれたら、まだ自分だって十分な説得材料がない。
やってみなければわからない―――だからやってみよう。
これまでと同じようなレベルの答えをぶつけたところで、この頑固一徹なアキラが動かせるだろうか。
「もう俺にチャンスはないのか。」
雨風の音に掻き消されまいと、搾り出すように言葉を投げるしかヒカルには出来なかった。
しかし。
アキラから返ってきた答えは、海から吹き付ける雨風よりも、もっとヒカルを叩きのめした。
「僕が言っているのは、碁打ちとしての業のことだ。君も、僕も、神の一手を目指す碁打ちとしての業を抱えて一生を送る以上、愛情があっても必ず突き当たる壁がある。どんなに陳腐だとしても、そうとしか言えない。」
アキラが言い終えた途端。
烈風が二人の手から同時に傘を奪った。





   ( 八 )

舞い上がった傘は、ヒカルの心そのものだった。
繋ぎ止められていた何かが解き放たれる。一気に溢れる。止められない。
ヒカルは傘を目で追うどころか、必死で頭を抑えていたアキラを丸ごと抱き締めた。
甘さの欠片もない。逃がすものかと、無理矢理拘束するような抱擁だった。
当然、抵抗されると思った。引っぱたかれるくらいは覚悟の上で、ヒカルはそうしたのだ。
なのに。アキラは動かなかった。静かにヒカルの腕の中にいた。
二人とも全身が雨に濡れそぼり、まるで海で泳いだ後みたいだ。
そんな不快極まりない状態でヒカルに密着され、強く抱き締められているのに、アキラはじっとしていた。
腕の中のアキラが静か過ぎることが、かえってヒカルを不安にさせる。
まさかとは思うが。今、アキラはヒカルの好きにさせようと思っているのだろうか。ここで体を預けることは、明日からの別離の代償だとでもいうのだろうか。
そう思った途端、ヒカルの全身を恐怖が突き抜けた。
不安なんて生易しいレベルではない。圧倒的な感情の荒波が襲う。
何かが壊れようとしている。積み重ねて来た大切な何かが、内側から崩壊しようとしている。
離したくない。離したら駄目だ。
この体を今離したら、嵐に巻かれてもう二度と手を取ることの出来ない遠くへと、互いが引き離されてしまう気がする・・・
ヒカルが喪失の予感に心を震わせている間も、雨はますます激しくなっていった。
一つの塊になった二人を、冷たい矢が叩く。風が猛る。波も大きく膨れ上がる。
抱き合ってでもいなければ大の大人の男でもよろけそうな、海辺の嵐の只中。
二人ともが冷たくなってゆくのを感じ、漸く観念したかのようにヒカルはアキラの両腕を握り隙間を作ると、その顔を間近で見た。
「塔矢・・・。」
「・・・。」
「何、考えてる・・・どうして俺を突き離さない。」
「僕こそ聞きたい。ここでこんなことをして、僕の何が動かせると思っている。」
「―――・・・っ・・・。」
アキラの顔は、雨で濡れていた。黒髪が、バラバラにはり付いている。
ヒカルの顔も、酷いものだった。伸びた前髪から、大粒の雫が滴る。
静かなアキラの表情に比べ、ヒカルは見るからに動揺していた。追い詰められているのは、明らかにヒカルの方だ。
「わかってるよ、お前の言いたいこと。棋士同士なんだから、難しい時もあるって。上手くいかなくて、別れた人たちがいるのだって知ってる。でも、どうして始める前から諦めるんだよ?それがわっかんねえ・・・。」
ヒカルの濡れて額にはり付いた前髪を、アキラの指先がかき上げた。
今までになく優しく、繊細なその手付きに、ヒカルは目を見開く。
「多分、君の方が強いんだ。君は、もしも僕と駄目になっても立ち直る力がある。君の方が強い。そして僕は・・・認めたくなかったが―――君より、脆い。」
「そっ!そんなことねえよっ!お前は塔矢アキラだろうがっ!もっと自分を・・・俺との関係を信じろっ!」
「だからだよ。塔矢アキラだから。きっと、君と一緒にいて混乱するのは僕の方だ。」
「そん、な・・・。」
ヒカルはイヤイヤと首を振った。駄々っ子のようだと思われても、止められなかった。
「どうしてお前はそんなに頑固なんだ。信じらんねぇ・・・も、苦しい、苦しいよぉ・・・こんなに傍にいるくせに、こんなに心を遠くに放り投げやがって・・・。」
お前は、残酷なヤツだ―――
言葉は、時として両刃だ。
口から零れる己の言葉を反芻しながら。本物の刃物に肌を切り刻まれる方が、もしかしたら楽かもしれないと、ヒカルは思った。
きっと、この痛みよりも心に痛いものはない。自分にとって。
アキラは、力なく俯いたヒカルの頬を両手で包んでは、その頭を掬い上げた。
そして、ヒカルにとっては信じられないようなことを口にしたのだった。
「進藤。もし君が望むなら僕は一生誰とも添わない。でも―――君のことも縛らない。君は自由にすればいい。僕は、君と打つことだけに人生の全てを捧げる。そういう形はどうだろう。」
 ヒカルは、驚きに目を見張った。
しかしすぐに雨粒が当たったのか、しかめっ面に変わる。
「お前・・・正気か?それ、マトモな頭で考えたのかよ。」
ますます信じらんねー・・・と、ヒカルの声が虚ろに響いたと同時に、また風に千切れた。





   ( 九 )

「何故だ?誰のものにもならない、結婚もしない、家庭も持たないという決意が、そんなにおかしいだろうか?」
「だってそうだろっ!お前は両親や周りのことを考えれば、俺とは一緒にいない方がいいって思うんだろ?それはさ、俺とじゃなくて別の誰かと結婚して家族を作って、そういう普通の幸せを手にしたいって・・・つまり、そういうことだったんじゃねーの?違うか?」
ヒカルは呆然となる。アキラの言うことは、矛盾だらけだ。そうとしか思えない。
「それはさっきも言った。最初はそれが君を拒む一番の理由だった。でも今は、もっと大きな理由がある。」
「それが、棋士同士であるって―――そゆこと?」
「うん、そうだ。何度も言わせるな。僕だって辛い。」
「嘘だっ!辛いなんて思うなら、どうして俺を拒めるっ!こんなに、お前しかいらねえって言ってる俺を・・・。」
ずぶ濡れだった。体だけじゃない。心もびしょびしょで救いようがないほどだ。
心に感じている痛みの上を、何かが濡らしていく。それは傷口に沁みて、焼け付くような痛みを生み出していった。
「進藤、僕が嬉しくてこんなことを君に告げているように見えるか?」
「わかんね・・・も、お前が、わかんねーよ・・・じゃあ結局、俺はお前にこれっぽっちも愛されてないのかよ?碁打ちの進藤ヒカルが欲しいから、それ以外はいらねえって・・・俺を最高のライバルのままで、大事にとっておきたいの?そのためには、他のどんな俺も、お前にはいらねえの・・・。」
やっぱり、俺はお前にとってそれぽっちの存在なんじゃねえか!
ヒカルが吐き捨てるように言った言葉が、アキラにも刺さる。
「違うと否定出来たらきっと楽なのに。多分、僕にとって一番大事なのは君と打つことなんだ。それも、ただ打つんじゃない。いつも最高の状態で―――誰とも作れない棋譜を―――」
アキラが美しい言葉で飾ろうとすればするほど、そこに砂を噛むような虚しさしか感じられずに、ヒカルは苦笑する。
「は、ははっ・・・そんなん、ちっとも嬉しくねえよ。そんなことお前に言われても、俺は喜びなんて半分も感じない。」
「進藤。」
「だってさ、俺はもうお前を愛しちゃったんだもん。こんなのお前から見たらはた迷惑で、子供っぽい感情なんだろうけど。俺は、お前が俺のためなら碁を捨ててもいいって・・・そのくらい、お前に愛されたいって思っちゃうんだ。それがどんなに有り得ない・・・お前にとって死にたくなるほどヒデエことでもっ!」
ヒカルの腕が、アキラを揺さぶる。アキラの頭から、雫が飛び散る。
それは、ヒカルの激情がアキラを混乱させ、苦しめるさまそのものだった。
こんなに激しく愛を訴えられているのに。アキラの碁ではなく、アキラ自身を欲しいと求められているのに。
その全部に応えられない自分を、本当に愚かだと思いながらアキラはただされるがままに脱力していた。
いよいよ体も芯まで冷たくなり、指先の自由が利かなくなっていく。
そのつもりはなかったのに、ブルリと上半身を震わせたアキラを見て、ヒカルはハッとなった。
「ご免!お前、冷えちゃったな。風邪引いたら明日の仕事が・・・。」
言いながらアキラの腕を擦り、温める仕草をする。
そこに計算はなかった。ただ、自然に体が動いてアキラを雨風から庇おうとする。
アキラはヒカルがくれようとする温もりに、体温以上の熱いものを感じるのだった。
「進藤。君、たった今碁よりも自分をとって欲しいって言ったくせに・・・もう、僕の対局の心配か。」
「―――っ!」
「わかってる。君はそんなヤツじゃない。碁を捨てられなくて辛いのは僕と同じ。君だって、僕が僕のために捨ててくれと言っても出来ない。だから愛してる・・・僕だって、君を愛してるよ・・・。」
今度は、アキラからヒカルに腕を回して抱いた。
一つの影になった二人は、肌にはり付いた服越しに互いの鼓動を感じる。
直に感じ合うのもこれが最後になるのだろうかと、麻痺し始めた頭でぼんやりと考えながら・・・
先に体を離したのは、ヒカルだった。
そっとアキラを押し戻し、それから転がって行った傘を拾いに走った。
「今更だけど・・・。」
そう言ってアキラに差し出す。表も裏も濡れてしまい、役に立ちそうもない傘を。
アキラがそれを受け取ると、ヒカルはもうアキラの目を見ることもなく背中を向けた。
ヒカル本人は自分の傘を探すつもりもないようで、さっさと歩き去る。
アキラも黙って歩き出した。背後では、海鳴りがしている。
それを聞きながら、今夜は何夜目だったかな・・・と、アキラはふと思った。
ヒカルに気持ちを伝え切ったことはアキラに何がしかの達成感を与えたたが、それでも、その中に淋しさが入り混じっていることを、アキラ自身も認めざるを得なかった。
これで本当に終わりなのだと、ヒカルもアキラも思った夜だった。
しかし。次の朝、風邪をひいたのはアキラではなくヒカルだったことが、二人の運命を左右した。











NOVEL

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