― 百夜通い ―
( 第二章 )
( 五 )
緒方との一戦を、見に行こうと思えば行けた。
だが、アキラはそうしなかった。見たいのは山々だ。ただ、見たら自分が平静でいられないような気がしたのだ。
碁ではない。碁が気になるなら、棋譜だけでも調べればいい。
しかしアキラが気になっているのは、その碁を打っているヒカル本人だ。
ヒカルが、どんなに追い詰められた気持ちでこの一局に臨んでいるのか。
その崖っぷちに立つかの如き心情を想像するだけで、アキラの心も痛まずにはおられない。
告白されてから、今日までの僅かな時間。
自分の中に生まれた進藤ヒカルに対する新しい感情の多様さ、複雑さに、アキラは苦笑するしかない。
幸い、今日は朝から夕方まで仕事が入っていた。
イベントで忙しく立ち働きながら、アキラは確実に時間が流れ、夜が来るのをひたすら待った。
その夜、ヒカルはなかなか訪れなかった。
電話もメールもない。十二時を回り日付が変わっても、まだ何の連絡もない。
アキラは、自室で棋譜並べをしていた。白と、黒。交互に並べていく。
例えば、白が君で、黒が僕。僕らは全然違う人間だ。生い立ちも、考え方も、何もかも。この白石と黒石のように。
そして石は、決して同じ場所に置くことが出来ない。
僕らはそれぞれ違った場所に陣地を築きながら、それでもいずれその営みは一つの棋譜へと形を成していく。
囲碁は人生そのものだと、アキラは聞き飽きた言葉が初めてお腹に落ちた感じがしていた。
眠気に襲われたのは、最後の一手を置いて安心し切った時だった。意識が遠のくのを感じたが、アキラはそこから先を覚えていなかった。
「っはっ!・・・僕は・・・。」
目を覚まして最初に目に入ったのは、畳の目だった。
すぐに身を起す。碁盤の横で寝込んでしまったらしい。
その時、体の上から何かが滑り落ちた。見るとそれは、ヒカルがいつも着ている軽めのジャケットだった。
「春とは言ってもさ、転寝すると風邪ひくぞ。」
「進藤っ!君、来たのか。」
「ってもさ、俺が待たせたからだよな。ごめん、塔矢、遅くなっちまった。」
はにかんだように笑う顔は青白く、憔悴し切っていた。それはアキラにも痛いほどにわかる。
アキラはヒカルがいつ来てもいいようにと、いつしか玄関の鍵を掛けなくなっていた。
危ないよと言われたが、別に怖いものはないと思っている。一応、空手も有段者だし、無茶はしないよと、アキラは答えた。
「起こしてくれれば良かったのに。」
「や、今来たトコだよ。お前の寝顔見れて、ちょっと得した気分、へっへ・・・。」
「そんなことはいいからっ!それより・・・。」
寝顔を見られていたことに思い至り、慌てて髪に手をやった。服も乱れていないか、さっとチェックする。
「いいのにさ、そんな風に無防備なトコ、初めて見たし。これって、神様からのご褒美かなぁ?」
「じゃあ、君・・・。」
「うん、勝った。でも、かろうじてって感じだ。ヤバかった。途中何度も、もう駄目だと思った。奇跡かもしれない。ははっ、今の俺が、緒方先生に勝てたなんて・・・。」
ヒカルは、両腕で足を抱え込むようにして坐っていた。
まるで幼子が自分の世界に閉じこもる時のような体勢が、本当に彼を幼く見せているとアキラには感じられた。
―――触りたいと。ヒカルの体に触りたいと、唐突に思った。
ボソボソと力なく呟く彼は、今までと違った。
勝った時は嬉しそうに大声で報告する。親指を立てて見せることもある。
そんなヒカルが、勝ったにも関わらずまるで負けたみたいに沈んでいるのを見て、アキラは何かしたい、してあげたいという気持ちになる。
しかし丁度その時、ヒカルが勢いよく顔を上げたので、伸ばそうとした手を反射的に引っ込めたアキラだった。
「さっきまで俺さっ!スッゲー昂奮してたの!多分、一緒にいた人みんながそう思ったと思う、俺、ハイだったって。終局が十時近くってさ、それから緒方先生が食い下がってきて検討に次ぐ検討で・・・気が付いたら十二時回ってるし、慌てて飛び出してここに来た。」
「そうか。おめでとう。」
「サンキュ。それでお前の寝顔見たら、嘘みたいに昂奮がおさまって・・・不思議な気がしたんだ。お前、今日の俺の対局、知らなかったんだなってわかった。多分、この顔は知らないんだろうって思った、直感的に。そしたらさ〜、最初はお前って俺のことなんか、どうでもいいのかなって悔しくなって・・・こんなんスヤスヤ寝ちゃってるし!でもさ、もしかしたらそういうんじゃねーかもって・・・。」
ヒカルは、徐々に力を取り戻しつつあるようだ。声に張りが出て来た。
「お前、多分安心してたんだな。俺のこと、信用してただろ?や、勝敗のことはわかんねーよ、俺が勝つと信じてたってそういうドラマみたいな自惚れじゃない、単純な話じゃねーから、勝ち負けは。でもさ、俺が必死で戦ってるって。昨日お前に目を覚まされたこと、絶対に勝つって誓ったこと、お前はその俺の気持ちを信じてる。」
そうだろ?そういうことだよな?俺たちって―――
ヒカルが、下から覗き込むようにアキラを見上げてくる。いつも通り正座をしていたアキラの方が、少しだけ目線が高いからだ。
胸が詰まった。
何か口にしようと思うが、何も出て来ない。
そうさせているものは一体何だろうと思いながら、アキラはまた目の前のヒカルに触りたくなった。
ノロノロと手を上げようとした時、ヒカルが言った。先に言われた。
「塔矢・・・触っても、いい?」
「えっ・・・。」
「ちょっとだけ、チャージさせて。緒方先生と全力でやって俺、も、使い切っちゃったよ。からっぽ、ナンもない・・・ここに来るのも、やっとだった。」
だから、塔矢・・・と、切ない声で呼ばれた。大きな茶色の目が落ち窪んで、陰が出来ている。
甘えているのとも、違う。
ただ本当に力が尽きたといった様子で、ヒカルがフワリ・・・と体の緊張を解いた。
開かれた腕は、アキラへと向かう。
アキラも吸い込まれるようにヒカルの腕に自分の腕を交差させ、それは相手の背中へと辿り着いた。
ぬくもりが、二人を包む。
「進藤、大丈夫か、君。本当に頑張ったんだな。わかる、わかるよ。あの緒方さんから勝ちをもぎ取ることがどれだけ大変なことだったか。よく、そのプレッシャーに勝ったな。凄い。君は、本当に凄い。」
「うっそみてえ・・・お前、昨日俺のこと、あんなに叩きのめしやがったのにさぁ。どしたの?嫌がらないね。優しいお前なんて、嘘くせえや。」
「失礼なヤツだな。僕はいつも優しいよ。碁に真剣であれば、ね。今日だってイベントで小さい子に好かれちゃって。先生と結婚したら、毎日ただで打ってもらえるのって言われた。」
「ひゃあ〜、プロポーズじゃねえの、それって。やるな〜、その子!」
「ふふ・・・御年八歳のお嬢様だったよ。可愛かった。」
「あ〜あ、俺もそのくらい若かったら突っ走れるのになぁ。」
「馬鹿なこと言って。・・・どうだ?進藤。少しは元気になったか。」
「うんうん、あったけえ・・・イイ気持ち・・・。」
本当にそうだなと、アキラも同感する。
抱き合ったこともあるにはあったけれど、こんなに穏やかに相手のことを抱いたことはなかった。胸に伝わる相手の鼓動を、嬉しいと感じたことはなかった。
アキラは少しだけ手に力を込めた。いや、自然とそうなってしまった。
「進藤。」
「・・・。」
返事がない。アキラは、腕の中にいるヒカルの体温が急に上がり、重みが増したのを感じた。
「進藤?しん・・・君・・・っ!」
何と、ヒカルは寝ていた。アキラの腕の中、安らかな顔で眠っていたのだ。
「全く・・・ふぅ、君は大物だな。僕だったら好きな相手と抱き合って何もしないで眠るなんて―――そんな度胸、ないぞ?」
苦笑しつつ、その体を横たえる。どうやらヒカルは起きそうにもなかった。
布団を敷いてやろうかとも思うが、それは止めた。毛布だけを掛けておく。
そして自分の布団は、その横にキッチリと敷いた。
まだ百夜を通い切ってもいないのに、ここで寝てしまうなんて反則だぞ?だから今夜は畳の上に寝るのが分相応だと、アキラは心の中で毒づいた。
もう一度。ヒカルの疲れ切った寝顔を見る。
それから小さな溜め息をついたアキラだったが、その時、ヒカルのポケットからはみ出している紙切れに気付いた。
そっと引っ張り出したそれはクシャクシャで、ヒカルが慌てて突っ込んだことを物語っている。
丸められた紙切れを丁寧に広げ・・・やがてアキラは目を見開いた。
それは棋譜だった。今日、ヒカルと緒方が打った一局の。
アキラは夢中で追った。次第に、息が荒くなる。手が震え出す。
凄い、と。さっき、ヒカルに凄いと言った自分の言葉は、余りにも軽かったと思い知る。
君は、こんな碁を打って来たのか。
ここまで君は・・・こんな碁を打つほどに、君は・・・
そしてこんな碁を打ち切った体のまま、真っ直ぐにここへと辿り着いたのか。
アキラは絶句した。
一目でこれはと思ったが、追えば追うほどその凄さをまざまざと見せ付けられる。
ああ、ここでこんな手を!まさか、そんな切り込みが・・・
心にはいくらでも感嘆符が浮かぶのに、実際は声にならない。
ヒカルが語ったように、何度も駄目かと諦めかけた場面はあったようだ。棋譜を見ればいくつかの分岐点が見えるし、そこでの攻防も想像がつく。
しかし、ヒカルはそこを踏ん張って乗り切って、そして緒方を超えた。終局が遅くなったのも、検討に熱が入ったのも、全く無理からぬことだ。
進藤、寝るな、起きろ、起きて僕と検討しろ!と。
ヒカルを叩き起こして、今からもう一度この凄まじい名局を検討したいと思った。
昔の自分なら、躊躇いもなくそうしただろう。
しかし、今のヒカルを起すことは、今のアキラには出来なかった。
ヒカルの顔を見下ろし、ただ見下ろし、静かに、静かに、その眠りを見守ることしか出来なかった。
心を満たすものが、行動を決める。その指針となる。
ヒカルの寝顔に感じている、己の気持ちが何であるのか・・・アキラは、呆然と噛み締めていた。
( 六 )
ヒカルが目を覚ました時は、既に日も高かった。
布団の上にこそ寝てはいなかったが、それでも軽い掛け布団が体の上に乗っていたらしい。らしい、というのは、その布団がヒカルの近くに転がっていたからだ。
すっかり蹴り飛ばしてしまったのだと、普段の己の寝相からして容易に想像がついた。
アキラはもういないとわかっていた。今日、アキラは対局で地方泊まりだ。
何と言ってもヒカルは、ここ数ヶ月のアキラの予定は完全に把握している。百夜通いを完遂させるために。
今夜はアキラが泊まる予定の千葉の方へと、ヒカルの方が出向かねばならない。
仕事はオフだから時間的には余裕があるものの、昨日の緒方との死闘に勝利したばかりのヒカルには、その余波が襲って来るに違いなかった。
それに、初めて塔矢邸以外へ赴かねばならないというのも若干の緊張を伴う。出来るだけさっさと準備して千葉に入っておこうと、ヒカルはそう考えていた。
ゆっくりと体を起す。辺りを見回す。耳をすます。
しかしアキラの気配を感じることは出来ないまま、ヒカルは頭をかいた。
「はあぁ〜、やっぱ、塔矢はもういねえか・・・だよな。」
誰も答える人のいない広々とした部屋に、ヒカルの独り言が虚しく響いた。
そう言えば。昨夜はアキラの腕に縋って寝てしまったと思い出した途端にヒカルの全身を血が駆け巡り、一気に目が覚めた。
触れ合ってはいけない、それは約束違反だと理性では承知していても、体は正直にアキラのぬくもりを求めた。
「くっそお・・・勿体ねえことしたな、折角塔矢に・・・。」
我知らず独り言を口にしてしまう自分が、滑稽に思える。
ヒカルは苦笑いをすると、布団をたたみ、身づくろいをした。ポケットに手が行き、そこに携帯を入れたまんまで寝込んでいたことに気付いた。
マナーモードにしていた為、予想通り着信もメールの受信も、もの凄いことになっていた。
「あ〜あ、面倒くっせえなぁ、どうせ昨日の緒方先生との一戦だろ?皆におんなじこと繰り返さなくちゃなんねえのは、ふうぅ、頼むから全部、棋譜で感じてくれってば・・・。」
どれにも返信する気持ちにはなれずに仕舞おうとして・・・ふと、アキラにメールを送ろうと思い立った。
元々、アキラ相手にしょっ中メールをする習慣はなかった。
アキラ本人がメールという手段を好まないせいもあるが、どうしても電話を掛けられない状況下における必要最低限の連絡手段でしかない。
ヒカルとて、あの塔矢アキラ相手に顔文字てんこもりの雑談メールやお茶らけたデコメールを送りつける気にはなれない。
しかし今は、不覚にも寝入って泊めてもらったこと、掛け布団の心遣いなどに対する礼を言っておきたかった。
今夜会えるのになぁ・・・この数時間が、なんか待てねえんだよ。
俺、どんどん重症になってく気がする・・・
打ち込みながら、一人呟くヒカルだった。
『寝ちまってゴメンな。布団、ありがと。今夜は俺がお前の泊まってる旅館に行くけど。みんながいる前で会うのがマズかったら、どっか指定して?近くまで来たらメールしてもいいし。』
「送信・・・っと!」
何せ対局中ではあるし返事が来るかどうかあやしかったが、ともかくヒカルは満足して立ち上がり、いよいよ帰ろうとする段になって、はっとした。
―――鍵!そうだ、ここんちの鍵、どうやってかけたらいいんだ?
もしかしたら、アキラが何か置手紙のようなものと一緒に鍵を置いて行ってくれたかもしれないと、ヒカルはあちこちを見回す。
寝ていた座敷を出て、他の部屋も探し回った。台所も玄関も見た。
しかし見つからない。
とうとうアキラの部屋の前まで来た時、さすがにここに勝手に入る訳にはいかないと、ヒカルはかぶりを振った。
だって塔矢が何か俺に残すとしても、自分の部屋の訳ないもんな。
そう諦めて、きびすを返す。
しかしその瞬間、ヒカルの心に閃くものがあった。
そうだっ!塔矢のヤツ、碁石を仕舞っている場所を教えてくれなかった。
一体どこだろ?普通に机の引き出し、かなぁ?アイツの部屋、覗いたら・・・やっぱマズイよなぁ・・・
碁石とは、ヒカルが通い路の証にと毎晩アキラに渡していく、あの石のことだ。
大切に仕舞っておくよとアキラに言われたが、どこに?というのは、意味深に微笑むばかりで誤魔化された。
ヒカルにしてみれば、その場の思いつきでしかなかった。
しかし、アキラが本当に大事そうにその石を受け取ってくれたことが、石だけでなく自分の存在をも大切に思ってくれているという、アキラの秘めた心の表れのようで、毎晩、その石を渡す瞬間のささやかな触れ合いがたまらなく嬉しかった。
ヒカルはまた、頭をかきかき記憶を手繰り寄せる。
昨日はどうだったっけ?俺、ちゃんと渡したっけ・・・
いや、待てよ?・・・あっちゃ〜、多分その前に寝ちまった。ああぁ、塔矢の手に、ちょびっとだけでも触れられる貴重な時間なのになぁ・・・
そのことを思うと、ますますヒカルの中にいてもたってもいられないような気持ちが湧き上がる。
覗いてみたい。ほんの少しでいいから、アキラの部屋を覗いてみたいという欲望が抑え切れなくなって、ヒカルはフラフラとその手をふすまへと伸ばした。
その時。
チャララ〜ン・・・
ヒカルの携帯が、ポケットから着信音を奏でた。
「っわああっ!び、っくり、したぁ・・・。」
何てタイミング。アキラの部屋へと忍び込もうとしていたのを、誰かに見咎められたみたいだった。
ヒカルはバクバク言う心臓の辺りを片手で押さえると、深呼吸をしてから携帯を取り出した。
発信者の名前を見て、更に心拍数が跳ね上がる。アキラからだった。
『あ、進藤?メールありがとう。丁度今、打ち掛けになったところなんで君が起きたならと思って。』
「うん、遅くまで置いてもらってサンキュ。もう、帰るとこ。そうだっ、鍵、どうすれば?』
『そうなんだ、僕、今朝慌ててたんで君に渡すのを忘れて。すまないが、台所の食器棚の一番右の引き出しに予備が入っているから、それを使ってかけてくれ。そのままこっちに持って来てくれないか?』
「ああ、わかった・・・ん〜、あったあった。これだな。でも、お前がそんなに慌ててたなんて珍しいじゃん?朝は打つ習慣のせいで、今でも早起きだって・・・。」
そこまで言いかけて、ヒカルは口をつぐんだ。
そうだ、自分が遅く押しかけて来たんじゃないか。ここ最近のアキラの生活リズムを乱しているのは、他ならぬ自分なのだ。
思い当たることがあり過ぎるヒカルは、それ以上何も言えない。
『進藤、別に気にするな。僕だって寝坊くらいするさ。いや、ちょっと恥ずかしいかな。待つだけの僕と違って、君の方が何倍も大変だって昨夜も思ったのに。朝、バタバタしてしまって情けない。』
「ゴメン、塔矢。俺、今日は迷惑掛けないように旅館の近くで早くからお前を待ってるから、都合が良くなったら呼んで?さっさと打って帰る。」
『・・・違う、そうじゃない。進藤、僕は君に言うことがある。』
「え?なに?」
電話の向こうで、アキラが沈黙する。
ヒカルはその意味をはかりかね、静かに待った。
『昨日、君のポケットから緒方さんとの棋譜を取り出して・・・持って来てしまった。泥棒なんだ、僕は・・・。』
なんだ、そんなこと。どうせお前に見せたくて引っつかんで来たんだし・・・と、内心では安堵するが、まだ何か先を言いたそうなアキラを察して黙っていた。
『素晴らしいと思った。君は、覚えているだろうか。昔、君の対局を見て、この、世にも美しい一局の相手が、なぜ僕じゃないんだろうと言ったことを。不意に、何年も前のあの日が思い出された。あの時、本当に僕は・・・。』
「塔矢。それって・・・。」
ヒカルの心臓が大きく跳ねた。
アキラの言わんとする「あの日」の「美しい対局」とは、紛れもなく佐為が打ったもの。
アキラがあの日、再び佐為の碁に魅了され、何かを吹っ切ってヒカルを追いかけ始めたことを、長い付き合いの中でヒカルも何とはなしに感じ取っていた。
まさかこんなに唐突にアキラがその話題を口にするとは。
予想外の流れに、ヒカルは何を言ったらいいのかわからずに黙するしかなかった。
だがアキラは、昔のこと持ち出してヒカルを動揺させようとしている訳ではなかった。
ただ、あの日感じたような「進藤ヒカルと最高の碁を打つのは自分でありたい」という、ヒカルに対して真っ直ぐに向かっていく、どんなに碁の強い他の誰にも感じ得ない、熱情のことを言いたかったのだ。
『進藤。僕はあの棋譜を見て体が震えるほどに昂奮したんだ。僕ともこんな碁を打て・・・寝ている君を今すぐ起して打てって叫びたいくらいだった。今だって君がここに飛んで来てくれたら、と。すぐにでも僕と打ってくれたら・・・。』
アキラの声音は弱まっていくが、そこに潜む真実は次第にヒカルにも迫りつつあった。
『それで僕は気付いた。碁が絡むと僕は、君に対して言葉なんかで言い尽くせない気持ちになるんだ。それは碁打ちとしての一種の飢えのようでもあり・・・敵愾心のようでもあり・・・。』
ああぁっ、上手く言えない。駄目だ駄目だっ!
やっぱり今の僕には、昨日の棋譜を見てしまった僕には、上手く言えない・・・
電話の向こうで、パニックにも近い状態になっているアキラ。
一方で、いきなりそんなアキラを見せられて、戸惑いを隠せないヒカル。
だってどうしてそういう話になるんだ?昨日、俺は塔矢が言う通りに死力を尽くして戦い、勝ったというのに。
それのどこが、塔矢をこうまでパニックさせる?
アキラの感情の捻じれが理解出来るようでいて、それでもどこか、ヒカルには納得がいかない。
ヒカルが何か言いかけた時、再びアキラが口を開いた。
『やっぱり、君と戦い続けることと、愛し合うことは両立出来ない気がする。家族の気持ちとか、僕らを取り囲む状況とか、そういうことではなくて・・・。』
「え、ええっ!ちょ、ちょっと待って・・・。」
『何かあった時、僕は―――君への愛情よりも碁を取るんだろう。碁打ちの僕は、碁打ちの進藤ヒカルの傍にはいられない。パートナーとしてなんて、とても自信がない。だったらいっそ、この百夜通いの約束も今のうちに―――』
「塔矢っ!」
自分で自分の出した声の音量に驚いた。
しかしヒカルには、相手の耳も痛かっただろうと思い遣るゆとりもない。
息を整える間も惜しむように、ヒカルは必死で叫んでいた。
「お前、何勝手に一人で考えて一人で結論出そうとしてるんだよっ!卑怯なことすんなっ!」
『卑怯?自分の人生の関わることを考えて・・・僕なりに考えて悪いのか。どういう意味だ、進藤。』
意図した訳ではないが、アキラの癇に障る表現をしたことで、ヒカルはかえってアキラの関心を引いたようだ。
電話越しに伝わってくるアキラの雰囲気は、明らかに重苦しかった。
ヒカルは深呼吸をしてから、ゆっくり、はっきり、発音しようと思いながら言った。相手の心に一言一句漏らさず届けるために。
「お前の人生だよ、それは・・・でも、百夜通ったらお互いの関係に新しい選択を加えるっていう約束は、お前のじゃない。俺のでもないさ。これはお前と―――俺と―――二人の問題だ。」
ヒカルが言い切ったところで、急に雑音が混じった。アキラの背後が突然賑やかになったらしい。
アキラの慌てたが、ヒカルの耳に響いた。
『今夜また・・・。』
返事をする間もなく、通話は切られた。
仕方なくヒカルは深い溜め息をつき、ノロノロとポケットにしまう。
しかし、ここは脱力している場合じゃないと頭を切り替え、ヒカルは勢いよく立ち上がった。こうなったら一刻も早くアキラの傍に行きたいと、全てが駆け出す。
アキラの時間が空いたらすぐに会いたい。顔を見て話したい。
アキラが望むならいつも通りに打ってもいいが、それよりもきっと先にすべきことはある。
折角、緒方との対局に辛勝し一山超えたと思っていたのに、その対局が二人にとって次の正念場を誘発したとは当のヒカルにも混乱の元でしかなかった。
君への愛情よりも、碁を取る―――
胸の奥で、アキラの言葉が木霊する。
馬鹿ヤロウ・・・いいじゃんか、それでもっ!
そういうの、スッゲエお前らしくて。カッコ良くて。俺はシビれるぜっ!
そういうお前だから、好きになったって・・・そんなとこもひっくるめて、全部好きだって・・・ちゃんとわかれよ、俺の気持ち・・・
だから塔矢、お前はさ。色々と難しく考え過ぎなんだってば・・・
外に飛び出したヒカルの眼前に迫っていたのは、どんよりと空を覆い尽くす黒雲の群れだった。
遅い春の嵐が、二人の下へと近付いてきていた。