― 百夜通い ―
( 第二章 )









   ( 一 )

翌日は、朝からよく晴れていた。
アキラは寝不足にもかかわらずすっきりと目覚め、記念すべき一日目を始める。
今日は昼間に指導碁の仕事がいくつか入っているが、棋院には行かなくていい。仕事が終わったら家に直帰することが出来る。
いつもと変わらぬ一日。
それなのに昨夜のことを思い起こすと、どこか現実感の欠如したふわふわとした感覚に足元をすくわれそうになる。
本当にあったことなのだろうか。夢のようだ・・・
ヒカルと、あんなに深く赤裸々に互いの気持ちを語り合ったのさえ初めてだったというのに、小町の元へ通った深草の少将になぞらえて、僕の元へ百夜通って来い、そしたら、君を受け入れる、とまで約束してしまった。
自分の口から出た言葉だとは信じられないままに話はどんどん進んでいき、今にして思えば他人事のように感じていたのかもしれない。
仕事を終えて帰宅したアキラはパソコンを立ち上げるが、ヒカルからのメールはない。携帯にも入っていなかったので、もしかしたらこちらに、などと思ってしまったのだ。
もう夕飯時だ。何も連絡がないと、ますます昨夜の約束は夢だったのではないかと思えてくる。
こちらから連絡をとることは、どうしても躊躇われ・・・
何度も携帯を取りしては、溜息と共に閉じることを繰り返すアキラだった。
進藤は、本当に通ってくるつもりなんだろうか?
僕は今だって、彼がそこまで僕を好きだなんて、それすら信じられない気分なのに。
昨夜だって散々好きだと、愛してると言われた。
言葉でも、態度でも、もういい、それ以上はいいからと逃げ出したくなるほど真剣に告白され、更には「お前はそういう俺の気持ちを全然わかってない。」とまで言われた。
わかっていない、のだろうか?
それとも、わかりたくない、のかもしれない。
ヒカルの愛情を意識しそのことに喜びを感じることは、それまで絶対に君とは友達以上になりたくないと言い張ってきた自分を否定することになる。
昨夜の譲歩が、今のアキラにとって精一杯だったのだ。
「百夜」、その猶予がヒカルを、そして自分を納得出来る結論へと導いてくれたら。
確かに、アキラにとってそれは、決して前向きな提案ではなかったのかもしれない。
むしろ、そんな無謀な賭けが達成されるとは思えないだけに、潜在的には逃げの気持ちの方が大きかったのだ。
今の、この段階では―――

そろそろ食事の支度をしなければと、アキラは携帯を充電機に置こうとして、ふと手を止める。
自宅にいる時には必ず充電機に置くのが習慣化していた。ポケットにあると、碁に集中出来ないという理由もあってだ。
アキラは少しだけ躊躇ってから、携帯をポケットにしまって部屋を出ると、台所へと向かった。
いつもと違う行動。例えどんなに些細なことでも、確かにいつもと違うことをしてしまったという事実。
それは既に、アキラの中の何かが変化しつつある証でもあった。
片付けも終えた頃に、呼び鈴が鳴った。本当に進藤だろうかと訝しがりながらも、アキラは玄関へ向かう。
すりガラスの向こうのシルエットは紛れもなくヒカルのものであり、はっきりと安堵を感じた。
そう・・・本当に来たのだとわかった途端、アキラは安心し、脱力したのだった。
夢ではなかった。全て、現実にあったことで、新しい関係は始まったのだと―――
自分だけが進藤に引っかき回されるのは、嫌だ。自分と同じくらい、いや、それ以上に進藤にも僕を意識させたい。
だってこの百日は、そのためにあるのだから。
プライドなのか、子供っぽい我侭なのか。
アキラは名状し難い複雑な感情を抱くが、それを必死で押さえ込む。
しかし、戸を開けた瞬間に目に飛び込んできたヒカルが、「っよ!来たぜ。」と、まるでいつもの訪問と何ら変わりのない呑気な雰囲気だったので、思わずカチンときた。
こんなにやきもきさせて連絡の一つもよこさないで、何だ、その能天気な挨拶はと、罵声の一つも浴びせたい。
アキラの顔色の変化を読み取ったらしいヒカルが、慌てて態度を変えた。
「あ〜、待たせちまった?ご免ご免!ちょっと電話もしにくい状況でさ。んでも、このくらいの時間には着けるってわかってたから、特に連絡しないでいきなり来ちゃったけど。良かった?待っててくれたの?」
「待ってなどいないっ!さっさと入れ、打つぞ。」
「は〜い、何だかおっかねーの。俺だって本当に来てもいいのかって、ちょびっとは躊躇ったりしたんだぜ?」
「ちょびっと、か・・・ふん。」
「え。何か言った?聞こえない。」
ヒカルを無視してズンズンと座敷の部屋へと入ると、アキラは碁盤の前に坐した。
「ああ、もう用意してくれてたんだ?」
 声が、如何にも嬉しそうだ。アキラが自分を待っていたのだと、部屋の中央に鎮座する碁盤と、その両側に置かれた座布団が知らせている。
それを見て、ヒカルが嬉しくない筈はなかった。
確かにヒカルは呑気そうに見えたかもしれないが、それでもここまで来るのにこの一日、何も考えていなかった訳ではなかった。
アキラは一度言い出したことを反故にするような人間ではないとわかってはいても、今回の約束は次元が違う。二人の将来を左右する大事な約束だ。
本当に行っちゃって「君、まさか本気だったのか?」なんて返されでもしたら、ダメージは大きいよなぁ、と。
塔矢邸に着いてからも、門の前で少しだけ息を整えながら気持ちも落ち着かせていたことを、単にアキラは知らないだけだ。
そしてヒカルも、そういう畏れや不安をアキラに悟られたくはなくて、内心のドキドキを隠したまま普通通りを装っていたのだった。
相変わらず、憮然とした表情のアキラの対面に坐る。
まあ、いいや・・・と、ヒカルは思う。どんなに機嫌が悪くたって、ひとたび対局が始まれば、そんなことどうだってよくなるのは明らかなのだから。
それに、こんな風に拗ねた態度のアキラを見るのも初めてで、ちょっとばかり優越感のようなものも感じる。怒りどころか、可愛いとすら感じる。
二人ともおし黙ったまま。一応段位では上手のアキラが握り、ヒカルが石を置く。先番はヒカルだった。
「お願いします。」「お願いします。」
ヒカルはそこで珍しく、深呼吸をした。深く息を吸い込むと、一拍置いてから吐き出す。
ゆっくりと肩が落ち、全身から余分な力が抜け、たちまちリラックスした様子が対面のアキラにもわかった。
そして、一手目。大袈裟な動きで打ち下ろす手付きが、アキラの目を引いた。
ぴしり。
音が、響き渡る。
「これが初手だ、見ろよ。いよいよ始まったな。俺の百夜通いが。」
感慨深げな声が、いつものヒカルの軽い口調とは別人のようだ。
アキラも弾かれたようにヒカルの顔を見て、それからその目を見詰める。
ヒカルも臆することなく、アキラの真っ直ぐな視線を受け止めた。
「違う。君のじゃない。」
力強く言い放つと、アキラは碁笥に手を入れた。
石を掴んだ指先が、優雅に弧を描いて盤上へと吸い寄せられる。
その指先が、かつてアキラの父に感じた如く、ヒカルの心までも虜にするかのように輝いて見えたのは、単なる偶然だろうか。
ぴしり。
「君と僕と、二人の百夜通いだ。これは、君だけに課せられた試練じゃない。」
その証拠に、待つ身の僕とてどんなに君に想いを馳せただろうか。ほんの初日だというのに。
ヒカルも、アキラの言葉の意味を噛み締めるように互いの置いた、黒と白の石を静かに見下ろした。
こうして石を打ち下ろす音で、ヒカルとアキラの運命を決める百夜通いは幕を開けたのだった。





  ( 二 )

対局は、僅かな差ではあったがアキラの勝ちだった。
いつもと変わらぬ集中を見せた二人は、満足して片付け始める。
「んー・・・一局目は勝ちたかったのになぁ!」
「別に勝ち負けそのものは関係ないだろう。」
「でもさ、俺の俺の意気込みを見せたいっつーか・・・わかるだろ?お前だってそういうの・・・。」
ヒカルの視線を感じて、アキラは目を逸らす。答えられない。
日付が変わりそうになっている。こんな時刻まで、しかも二人きりで家で打つことは滅多になかった。
それなのに、もう一局・・・と、物足りなさを感じている。
碁ではなく、話し足りないのかもしれないと気付いて、昨夜あれだけ本音をぶつけ合ったくせに、まだ・・・と感じる自分が、貪欲を通り越して浅ましいのではと、アキラは思った。
「もう一局・・・。」
「え?」
はっとする。思わず自分の口から飛び出した言葉かと思って慌てるが、それはヒカルの声だった。
アキラは、ゆっくりと声のした方に向き直る。
視線の先には、ヒカルの揺れる瞳があった。不安そうな顔―――まるで、今の自分を見せられているようだ。
「もう一局打ちてートコだけどさっ!今日バイクじゃねーから、終電逃がすとヤバイし。昨日はタクシー拾うの大変だったもんな。それに、あんな贅沢はこれきりだってお前にも怒られたし、へへ・・・。」
ただ通うんじゃ意味ねーって、ちゃんと確認し合ったもんな・・・と、照れ臭そうに先に視線を外したヒカルは、さっさと帰り支度を始めた。
アキラは黙ってそれに従っていたが、このままでは何か大事なことを言い忘れているような居心地の悪さを拭えない。
不意に、あることを思い付く。ヒカルはもう玄関で靴を履くところだ。
「何か、証拠のようなものがいらないか?君が通ってきた印、いや、記録、と言った方がいいかもしれないけど。」
「証拠って・・・別に俺ら二人の約束で、誰に証明してもらう必要もねーんだから、そんなの・・・。」
そこまで言って、ヒカルは口をつぐんだ。
振り返ると、機嫌を損ねているとも寂しいともつかない、曖昧な表情を浮かべたアキラがそこに立っていた。
どこか頼りない雰囲気を漂わせたアキラは、いつもの彼らしくない。
そして今度は、ヒカルが悟る番だった。
告白しちゃった後だからかなぁ・・・こんな風に一緒にいると、俺の気持ちを敏感に感じ取られて、移っちゃうものかも・・・今の塔矢は、今の俺みたいだ・・・
「そうだね。すまない。君、急がないといけないのに、下らないことを言った。」
「いやっ!下らなくなんかねーって!俺、お前がそういうこと言ってくれるの・・・うん、嬉しい。今日は記念すべき一日目だもんな。何か、したい。俺も、何か残したい。」
「進藤。」
スニーカーの爪先でトントンと音を立てて、足に馴染ませる。デイパックをしょい直す。
普段通りの一連の仕草の間にも、ヒカルは頭をフル回転させた。アキラがじっと自分を見詰めているのを肌で感じる。痛いほどに・・・
「石・・・そうだっ!俺、いっつもポケットに石、入れてんの。えっとぉ・・・わ、今日は一個しか入ってねえな。セーフ。いつもだと何個か入ってるんだけど。いいや、これで。毎日一個、石を置いてく。どっか、お前の碁笥に混じったりしねートコに、こっそり置いてよ。」
ヒカルが手を差し出す。
打つ時とは違う。打つのだったら人差し指と中指を交差させるようにして石を挟むが、今、ヒカルは親指と人差し指で石をつまんでいた。
その手付きが、遥か昔、初めてヒカルが打つのを見た時のことをアキラに思い出させた。
予期せぬ出会い。人生最大の衝撃。
十二歳の自分の運命を動かしたのは、紛れもなく、あの幼くて拙い指先から放たれた一手だった。
感慨に胸を詰まらせながら、アキラも広げた右手を伸ばしてそれを受け取った。
温かい・・・ヒカルの体温をうつした黒石は、アキラの手の平の上で持ち主の温もりを伝えていた。
それをぎゅうっ・・・と握り込む。
その拳を見下ろしたまま、アキラは言った。
「折角だから打てと言ったのは僕だけど、今度は打つだけじゃつまらないと言ったら・・・君、笑うか?」
呟くような声に、ヒカルは息を呑んでアキラを見た。
伏目がちなアキラの顔を、愛しいと思う。本当は話すだけでなく、触ってみたいとも思う。
しかし―――思うだけで口にしないことの大切さも、今のヒカルは知っている。
「んじゃ、あと三分・・・や、二分だな。ちょっと話そう。あのさ、俺、さっきお前が初手を打つ時の手付き、スゲー綺麗だと思った。実はさ、大昔、塔矢先生の打ち方に感動したこと、思い出した。似てるっていうのとも違うんだ。ただ、その手の持つ気迫っつか、何だろ、上手く言えねーけど。」
「手・・・そうか。偶然だな、僕も今、君が碁石を渡す手付きを見て、大昔の君を思い出したよ。こんな風に、碁石をぎこちなく、おっかなビックリといった感じでつまんでいた。」
アキラはヒカルの真似をして石をつまむと、目の高さまでスーッと持ち上げた。小さな黒石の向こうで、当のアキラはうっすらと微笑んでいる。
ヒカルは眩しいものでも見るかのように、僅かに目を細めた。
「俺ね、塔矢先生やお前の手付きを真似したくて、練習したんだ。どこでも手に出来るようにって、ポッケにいっつも碁石を入れてた。その頃のクセでさ、気が付くと碁笥から碁石を何個か拝借して入れちゃうんだ。そうすっと、不思議と落ち着く。」
「それで石を。いや、持ち歩いているなんて棋士でも珍しいと思ったんだ。でも、君は僕には謎の行動を取ることがあったからな、昔から!」
笑い声が起こる。
ヒカルもアキラも、数分前とは打って変わって満たされた気分だった。

こうして、一晩目は無事に達成された。
アキラは自室に戻り、ヒカルから渡された石をどうしようかと思い廻らず。
どこがいいだろう?どんな風に置けば他の碁石と混ざる心配もなく、でも、目につき易いだろう。
それはアキラにとって、幸せな悩みだった。
この石が刻むものは、ヒカルが間違いなく自分へと気持ちを向け、己もその気持ちを受け止め、二人の百夜通いを一歩一歩完成させていく、その大事な足跡だ。
そう思うだけで、甘酸っぱいものがこみ上げてくる。
ヒカルの笑みが、交わした言葉が、よみがえってはアキラの心を揺らす。
正直に言えて良かった。打つ時は真剣に。そしてそれだけでなく、話もしたい。
今まで避けてきたような話題も、知らなかった互いの過去も。
きっと、積み重ねていくことが百夜通いの真実なのだと素直に感じられる自分が、アキラには嬉しかった。





   ( 三 )

「あっ!進藤。今夜こそ飲み、付き合えよ。」
「今夜〜?んー、ご免。今からだと遅くなっちまうだろ、やっぱ遠慮しとくわ。」
「ちょーっと待てっ!こら、進藤。お前ここんとこ付き合い悪りぃぞ。先週の合コンもブッチしやがったし、その前の森下門下の飲み会も一次会でバクれやがって、俺は森下先生のカラオケに付き合って散々な・・・。」
「わわーっ!ご免ご免〜。ホント悪りぃと思ってるって。埋め合わせはいつか・・・そうだ、あと三ヶ月くらい経ったらするからさ。それまで頼む、見逃して、和谷!」
「おいっ!進藤っ!」
和谷を振り切って駆け出すヒカルの様子は、まるでイタズラを見つかって逃げ出す子供のようだ。
その背中に向かってもう一度引き止める為の言葉をぶつけようかと思ったが、結局は溜め息をついただけの和谷だった。
「また逃げられたな。」
背後から声を掛けられ、和谷は振り向く。そこには、和谷の言葉にびっくりした顔の伊角がいた。
「あっ、伊角さん。ん〜、そうなんだよ。アイツさ、ここんとこ付き合い悪くて。どうも夜が駄目みたいだ。やっぱ女かな?」
「ええっ!?進藤に?まさか、いつの間に・・・。」
「いつなんて俺だって知らないよ。アイツの空いてる時間なんてほとんど俺らと一緒か塔矢んちの碁会所か、くらいだろ?でもアイツ別にモテない訳じゃないからさ、その気になれば相手は作れると思うんだ。」
「そうか、とうとう進藤にも・・・。」
勘違いだとも気付かずに、何やら複雑そうな伊角も、それから長年の親友の和谷ですら、誰もヒカルの急ぐ先を知らない。
知られても困る。
ヒカルが待たせている相手、ヒカルを待っている相手。それが塔矢アキラだということを。

「あっ!進藤!」
「奈瀬?おお、久しぶり。」
「ほんと、久しぶりじゃんねー。元気?元気そうだね、アンタはいつも!」
「お前こそ元気そうじゃん。女流の中でも人気モンだって聞いたぜ。」
「はぁ・・・あのさ、碁の内容で褒められないからって、そういうの白々しいんだって。」
「や、ご免。そういうつもりじゃ・・・。」
やっと棋院から離れられたと思ったら、今度は奈瀬に捕まった。
もうすぐ駅だというのに、もどかしい。話しながらも、足を動かしたいくらいだ。
「あ〜、今日は対局も今一つだったし、まだ打ち足りないんだよね。進藤、これから付き合ってよ。」
「え、ええっ!打てってこと?」
「他に何を付き合せて面白いって言うのさ。私の周りの男どもは碁の相手くらいにしか使えないんだから。ほら、さっさと棋院に戻るよ。」
「ま、待って!俺、今から用事が。」
「用事?何よぉ、仕事じゃないでしょ?この時間からなら。」
「仕事・・・そう、仕事なんだ。指導碁に呼ばれて、夜しか駄目なヤツで。それで・・・。」
「ヤツ?指導碁先のお客さんをヤツ呼ばわりねぇ、ふ〜ん、あやしい。凄くあやしい。・・・もしかして塔矢アキラ?」
「・・・っぐ!」
この女、どうしてこんなにカンがいいんだ?俺、まさか顔に何か書いてあったのかな・・・
―――早く。早く、塔矢に会いたい。塔矢の顔が見たい。
俺を待ってるアイツのところへ飛び込んで、アイツが嬉しそうに、でもそれを照れ臭そうに隠して俺を迎える、その一瞬の表情が見たい・・・
この三週間近く。ヒカルの百夜通いの挑戦は続いていた。
桜吹雪の夜から一夜も欠かすことなく、ヒカルはアキラの元へと通い、打っては去っていく。
帰り際には一つずつ石を置いていくことも、無論忘れない。
黒と白。交互に渡される証の石を、アキラがどこに仕舞っているのか。ヒカルはまだ教えてもらえないが、アキラは嬉しそうに言った。
・・・秘密だよ。百個無事に君から受け取れたら、その時に見せるから。楽しみにしていろ。
ほんの数週間でもこうして欠かせない習いとなったことは、人の心にしっかりと棲みつくものだ。
アキラが期待を持って待っていることをヒカルももうはっきりと意識していたし、ますますその期待を裏切りたくないという気持ちが強まっていた。
ヒカルが、昼を過ぎた頃からもう夜のことを考えて落ち着かなくなっているように、アキラもまた不自然なことはしない、運を天に任せてこその百夜通いだと建前では言いつつも、何事もアクシデントが起こらないようにと密かに祈る己に、苦笑したりもしていたのだった。

奈瀬も振り切って、ヒカルは文字通り電車に飛び乗った。
シートに坐るとズルズルと腰が落ちかける。脱力する。若者らしからぬ、深い溜め息が漏れた。
はあぁ・・・これまでで一番ヤバかったかも。
今まで順調だったからな〜、お互いに地方もなかったし、宴席も軽いのばっかだったし。
これからはこんな風にいかねーかも。周りにバレ出したら・・・う、わ〜、俺の周りはまだいいけど、緒方先生とかに嗅ぎ付けられたらマジ、ヤバイかも。
あの人、妙にカンがいいからな〜、真相がわかんないままでも妨害とかされたら・・・
悶々と思い巡らすヒカルだったが。
ひとたび、塔矢家の門をくぐりアキラの出迎えを受けた途端、安堵と喜びがいっしょくたになり、その心から憂いはすっかり消え去った。
その日のアキラは、今までで一番遅く到着したヒカルを待ち侘び、息苦しい時間を過ごしていただけに、ヒカルの顔を見て隠しようのないほどにその瞳を輝かせてくれたからだ。
「遅かったな。もう寝ようと思っていたところだったよ。」
言葉はつっけんどんだったが、全身でヒカルの来訪を歓迎しているアキラの様子は、ヒカルの胸を瞬時で沸騰させるに十分だった。
熱く昂ぶった気持ちのまま、ヒカルはアキラと十七夜目を過ごすことになる。





  ( 四 )

「ご免、今日はたまたま色々なヤツに掴まって詮索されちゃって。これでも必死で振り切って来たんだぜ〜。」
「詮索って?誰に・・・。」
「や、それは色々と。でも大丈夫〜、誰にもバレたりしてねーって。ああ、お前に早く会いたかったぁ!な、さっさと始めようぜ。明日俺、大一番あるし〜。」
「わかった。」
いつも通りに打ち始めた。碁盤の前に坐ると、ヒカルは深呼吸をして気持ちをなだらかにする。
アキラの方が先に帰宅してヒカルを待って準備を整えていることが多いので、必然、ヒカルは駆けつけ一杯ならぬ一局となるからだ。
しかし、今夜のヒカルはどうも興奮がさめないようだ。
なかなか塔矢家に辿り着けなかっただけに、先ほど目にしたアキラの顔が今までになく鮮やかに焼き付いて、脳裏を去らない。
目の前のアキラは真剣に碁盤に視線を注いでいるが、ほんの数分前には自分を待ち侘びて、自分のことを考えていたのだ。
そう思うと、ヒカルの中にこのまま黙っていられないような衝動が沸き起こる・・・
この三週間近く。ただ、通うこと。ただ、打つこと。それをまず優先させ、会話は他愛のないものが多かったように思う。余り核心に触れるような内容はない。
帰り際に石を渡す瞬間、受け取る瞬間。その時だけ心が通い合うような感じがして、二人にとって明日への活力になっていた。
また明日も、この手からアキラの手へと、石を渡したい。ヒカルの手から己の手で、受け取りたい。
ひとつ、ひとつ・・・
それはかけがえのない積み重ねであり、架け橋へとなっていくものでもある。
小さな交歓が、困難と思われる日々を可能にしていた。

そろそろ、均衡が崩れ出す頃だったのかもしれない。
ヒカルは、アキラにかなり気を許してもらっていると、うぬぼれ始めていた。
それだけに、今日はさっきの照れ臭そうな表情以降、どうもアキラの機嫌が悪そうな様子がカンに触った。
最初の数手はそうでもなかった。
徐々に・・・盤面が進んでいくにつれアキラの顔が曇り、首を捻る仕草も増えていく。
やっぱ待たされるのっていい気はしねーよなぁ・・・
でも、でもさ。基本は仕事優先で、俺は俺なりに頑張ったんだし・・・さっきから話しかけてもツンツンしてるし、俺の目を見ようとしないし・・・
いつまでお前、ご機嫌斜めなんだよぉ・・・
ヒカルはあくまでも、アキラの不機嫌の原因は自分の遅刻にあると思っている。思い込んでいる。
いい加減、何かアキラに訴えようかとしたその時。
ヒカルの放った一手を見たアキラが、はっきりと端正な顔を歪めた。もう我慢がならない、といった表情だ。
怒気を含んだ空気が一気に流れてきて、ヒカルは身を竦ませた。
そして、気が付いた。
「・・・あ、ここ・・・あっちゃ〜、やっちまった。」
「失着だな。終盤に差しかかったばかり・・・いや、君と僕だったらこれはまだ中盤で挽回も可能かもしれない。でも・・・。」
「うん、ご免。いつもだったら打たない、こんな酷い手。」
「君は馬鹿かっ!それをすぐに認めるのもプロとして間違ってる!」
「え、でも、公式戦じゃねーんだし。」
ヒカルが言いかけたその言葉に、アキラの目が更に釣り上がった。
「以前の君だったら、まだ戦えると僕に食ってかかって来た!それくらいの気概と真剣さを持って、プライベートでも打っていた!それがどうだ。この一週間、君は一度も僕に勝っていない。今夜で七連敗だ。わかっていたか、進藤。」
睨み付けられたヒカルは、ぐうの音も出ない。
わかっていなかった。確か連敗していたなとは思っていたが、ともかく勝敗に関係なく通えばいいという最初の条件だ。碁は、オマケだ。
「来なくていいよ、もう。いや、来るな、君は。こんな風に気の抜けた碁を打ちに何夜通ったって、そこに意味はない。おしまいだ。」
「待って!ちょ、ちょっと、それはいきなりないだろうっ!確かに不甲斐なかったかもしんないけど、俺だって昼間も働いて疲れて・・・。」
「それは僕も同じだ。」
「や、そりゃそうなんだけど・・・う・・・でも俺、別に負けてもいいって思ってた訳じゃにないから・・・。」
「君、これ以上僕をガッカリさせたいのか?」
そこまで言われて、ヒカルの方も頭に血が昇った。碁盤を回り込んで、アキラの脇ににじり寄る。
アキラは、怯まずヒカルを見返した。決して仰け反ったり後退したりもしない。
身じろぎ一つせず、真っ向からヒカルと対峙した。
それが、更にヒカルを煽った。
アキラが全身から怒りの炎を燃え上がらせているのを感じれば感じるほど、それを向けられる己が身がいたたまれない。恥ずかしさに髪を掻き毟って、叫び出したいくらいだ。
しかし、この時のヒカルは素直になれなかった。
ヒカルにとって一番眩しく、誰よりも惹かれた理由でもある、アキラの愚直にも見えるほどの真っ直ぐさが、今初めて、ヒカルにとって刃となった。心を切り付けられる。
同時にヒカルの防衛本能が、それを否定して叩きのめしたいという、暗く破壊的な感情を生んだ。
こんなことは、アキラを愛していると意識して以来、初めてのことだった。
「お前って、本当に・・・っ・・・。」
低く、呻くような声になった。
「何だ?君に、何が言えるんだ?こんなことなら、今夜は君なんかほっといて越智君に誘われた勉強会に行けば良かったよ。昨日だって緒方さんに打たないかと碁会所で誘われたのに断って・・・損をした。碁打ちとしての僕は、大きな損失をした―――君のせいで!」
アキラにしては珍しく投げやりなもの言いが、ヒカルの背中を押した。
アキラを突き飛ばしたヒカルは、仰向けに倒れたアキラの上に馬乗りになる。
畳にしたたかに頭を打ったアキラは声を上げたが、ヒカルはすかさず片手でその口を塞いで、もう片方の手で頭を抑え付けた。
ほとんど髪を引っ張る形になっているので、アキラの感じている痛みはかなりのものだろう。
しかし、畳の上に散らばった黒髪の乱れ具合は、ヒカルの嗜虐芯を煽るばかりだ。
もう何も聞きたくないとばかりに、アキラの薄い胸を上半身で押さえ込んで、完全に動きを封じようとする。
しかし、アキラの自由になっている手は、抵抗しなかった。もがきもしなかった。
そんなことは必要ないとばかりにアキラは逆に体の力を抜き、投げ出した両の手の平をヒカルを嘲笑うかの如く、ヒラヒラと揺らした。
今、あんなにも焦がれたアキラを組み敷いている。
何度も夢に見た愛しい人の鼓動を、自分の胸で聞いている。
この髪に唇を寄せ、うなじに舌を這わせ、浮き出た鎖骨を、しなる腰を、愛撫の手で辿りたい。
頑ななこの男に、自分の熱を移したい。自分の熱で、溶かしたい。
今度こそ、本当に悲鳴のような声を上げさせたい・・・
衝動を現実にしなかったのは、アキラが最後の一刃を閃かせたからだ。
「これだけは言わないでおこうかと思っていたが・・・。」
「塔矢。」
「君、公式戦でも三連敗している。しかも、この前は明らかに格下に負けた―――」
そこまで言われて、ヒカルはのろのろと顔を上げた。両腕を突っ張って、アキラを見下ろす。
アキラも、ヒカルを見上げた。
美しい瞳だった。濁りのない、持ち主の心の純度を表すような、瞳。
昔、佐為が言った言葉が、不意に蘇った。
―――真の碁打ちは、無我の境地で十九路の世界に向かう時、湖面のように澄んだ瞳をしているものです―――
ああぁ・・・佐為!今、俺を見ているのは塔矢だろうか。
 それとも、塔矢の目を通して、天国にいるお前が俺を見ているんだろうか・・・
ヒカルは目を瞑り、唇を噛み締め、苦渋の表情をさらした。アキラが見ている前だとわかってはいたが、どうにもならなかった。
目に滲むものを、決して溢れさせたくはないと思う。それだけは踏み止まりたい。
「ぅ・・・っく・・・俺・・・俺、馬鹿、だ・・・な、さけねぇ・・・。」
「進藤。この百夜通いは、ただ通うことに意味があるんじゃないと、僕らは確かめ合った。判り合うため、お互いを知るため。覚悟を固めて進むため。でも・・・。」
「う、ん・・・。」
「君が僕の元へ通うことで、碁打ちとしての君に良からぬ影響があるのなら・・・。」
「塔矢、言わないでくれ・・・それ以上は、もう・・・。」
―――進藤、君は僕の言いたいことをわかってくれたんだな?と。
言葉こそなかったが、アキラの伸ばされた手は気持ちを伝えるべく、そっとヒカルの肘に触れ、そこからゆっくりと下へと降り、やがてきつく握られた手の甲に触れた。
しっかりと重ねられた手は、温かかった。
「僕が毎晩この手から受け取るものは、単なる証拠の石じゃないんだ。わかるだろう。僕らは死ぬまで碁打ちなんだから―――」
そうだった。わかっていた筈なのに。
ヒカルがアキラを思うのと同じように、恋情をたぎらせているアキラではない。
それでも、今周りにいる誰よりもヒカルの存在を大事にし、ヒカルの碁に向かう姿勢を評価してくれている。
アキラから、どれだけ深い想いを注がれているのか。自分達の関係性の尊さを、よくわかっていた筈なのに―――
「塔矢、俺、明日、絶対に勝つ。もしも・・・。」
「うん。」
「もしも明日勝てなかったら、ここへは来ない・・・二度と・・・。」
「わかった。承知した。」
「ありがと・・・。」
身を起すと、今夜は帰るよと力なく言ったヒカルは、ポケットから石を取り出して畳の上に置こうとする。
それを急いで手を伸ばしたアキラが、受け止めた。
ヒカルははっとなって、それからアキラの顔を見た。
自然と、微笑みになった。何の作為もない、幼い微笑だ。
アキラも静かに微笑み返すと、ヒカルに頷いてみせた。
穏やかに過ぎた十六夜が嘘のように、確実に運命は動いていることを二人に告げた十七夜目が、こうして終わった。



―――明日のヒカルの対局相手は緒方碁聖、十段である。















NOVEL

( 4 )