― 百夜通い ―
( 第一章 )
( 十一 )
「お前はさ、塔矢。全部周りから考えてって、それから自分の行動を決めるのかよ?何度も言うけど、自分の気持ちを優先させなくて後悔しないのか?親のことは俺だって考えない訳じゃねーよ。簡単に親は親、子供は子供、それぞれの人生だって割り切れる問題じゃないさ。でもさ、始める前からそこまで考えてたら、なーんにも大きなことって決断出来なくねえ?」
ヒカルの口調は、明らかにどこかに投げやりな感じが漂っていた。すさんだ、と表現してもいいかもしれない。
口元も目元も微かに歪ませて、足を小刻みに揺らしていた。
ヒカルはもっと若い頃―――
そう・・・まだ自分たちが北斗杯のメンバーで、春先から接触が密になり、それだけに喧嘩も頻繁だった頃、時折ヒカルはこういう態度を見せた。そして周りの大人たちは、今時の子供らしく、単に堪え性が足りずキレやすいのだと噂していた。
しかし、アキラはそれだけでないことを薄々感じていた。
春先から5月にかけて、ヒカルは闘争心も凄まじかったが、同時に不安定でもあった。
子供から大人への過程。
揺らぎの大きな年頃特有の、今度は何をしでかし、何を言い出すのか、先が読めない危なっかしさで、傍で見ているアキラをハラハラさせたりもした。
そういう時代も。横に並んで歩いてきたからこそ、ヒカルの成長に最も驚いたのもアキラであり、今夜はその戸惑いを隠せないのだった。
さっき、アキラを抱き締めてきた時のヒカルの腕の力や、包み込むような態度は、アキラを揺さぶるに十分だった。認識を百八十度、変えさせた。
進藤と、パートナーとして生涯をともにすることは、全く不可能ではないのかもしれない―――と。
しかし目の前のヒカルは、アキラからの問い掛けに対して、納得のいく考え方を示さないばかりか、子供っぽい苛立ちの様子を見せた。
アキラは思う。矢張り僕らでは駄目だろう、このまま進んでは互いに失うものが多過ぎると、改めて思うのだ。
では、今ここで進藤にトドメを刺してあげた方が、互いの為かもしれない。
傷は浅い方がいい。どんなに若く未来があっても、癒すのに膨大な時間とエネルギーが必要な「喪失」もあるのかもしれないと思うから。
「進藤。僕は両親が、そして僕を育んでくれた環境が、とても大事だ。世間では、子供が幸せなのが親の幸せだと言って、全てを片付けることもあるだろう。でも、本当にそうだろうか?親の深い、無償の愛情に胡坐をかいて、それが当然だとうそぶいて好きに生きることは・・・僕には、出来ない。」
ヒカルが、アキラを見た。驚きに見開かれた目には、アキラを探るような色が見え隠れする。
アキラは、その視線を十分に感じながら続けた。
「勿論、君と恋愛関係になることが即、両親から反対されて彼らを不幸にするかどうかは、そんなことまではわからない。だけど、僕は既に彼らからたくさんのものを受けて生きて来た。感謝している。父が碁打ち良かったと思っている。そして僕はもう既に、知ってしまっている。両親が僕に夢見ている将来、彼らの描く晩年。それはきっと僕が結婚して家族をなして、彼らと一緒に暮らすことだ。それが、彼らが最も望む恩返しの形だ。」
アキラの言葉が、まるで刃となってヒカルの胸を刺したかの如く、ヒカルの顔は見る見るうちに歪んでいく。
アキラはその反応に満足と絶望とを同じ重さで感じつつ、自らの心にも刃を向け続けた。
「知ってしまったんだ。僕はもう子供ではなく、両親の喜ぶことも哀しむことも、予想が出来るほどに大人になってしまった。勢いや情熱に任せて、あらゆる困難が待っているだろう君との恋愛関係に踏み込んでいくほど、幼くはないんだ。」
僕は僕なりに両親を、自分の周りの人々を、大事にしたい。
そして、それには勿論、進藤、君のことも含まれているよ。
君が大事だ。両親とは違った意味で、君を愛している。君と僕の間にある避けられない運命を感じたからこそ、僕はここまできたのだから。
言葉にしなくても、瞳に、態度に、その深い想いを滲ませて。
アキラもヒカルから、視線をそらさなかった。
この痛みは、ヒカルと一緒に感じるべきものであり、進んで分け合いたいと、アキラは思った。
( 十二 )
アキラの想いは、ヒカルにもわかり過ぎるほどわかっていた。彼が育ってきた家庭の特殊な環境も、嫌というほどわかる。
彼が父親に対して、血のつながりがあるが故に複雑な畏怖の念を持つことも、そしてそれを人に悟られないように囁かれないように、細心の注意で何事にも臨んでいることも、ヒカルは薄々感じていた。
それと同時に、ごくごく単純にアキラが両親のことを人として尊敬し、好きでいることも、日頃の交わりからわかる。
両親からの言いつけを頑なに守って庭木の手入れを怠らなかったり、母親の大事にしている食器を割った時に心底落ち込んだり、父親の体を気遣ったり。
そういう場面を見るにつけ、自分のあっさりした親子関係に比べたら、離れて暮らしてはいても塔矢家の三人は濃いと思う。
ベタベタした親子関係というのではない。ただ、心の中にいつも存在を意識している。その意識の度合いが、絶対的にヒカルや、その周辺の普通の親子よりも高いと思っていた。
一度だけ、ヒカルが何かの場面で言ったことがある。
「塔矢ってさ、親のこと本当に好きなんだなぁ・・・。」
するとアキラはほんの一瞬だったが、眉をひそめ、口元を歪ませた。
口にしたものが想像とは全く違ったもので、口内に広がる不思議な感覚に驚いた時の塔矢の顔だ、とヒカルは思った。以前、外国土産の変わったお菓子を騙して食べさせた時に見たことがあった、その顔だった。
言われた内容が意外で、驚いただけではない。それを自分に言った相手が、ヒカルだということが不快だったのだろう。
・・・あ、やっぱりあんま触れられたくないのかな、塔矢って。他でもない、俺に両親の、特に父親のことに触れて欲しくないんだろうな・・・
ヒカルにはそう解釈出来、それからは蓋をしてきた話題だった。
その両親の話を持ち出してくるのだから、アキラの覚悟は相当なものだ。今の自分たちでは絶対に恋愛関係に進まないという、固い決意を感じる。
じゃあ。俺はここで引けばいいのか?
塔矢の気持ちを尊重すると言えば聞こえはいいが、それは後ろ向きじゃないか?
もっと、未来に繋がっていく道だって探せるんじゃないの?
そしてそれは、俺一人でじゃない、一緒に探すもんだ。
アキラが「共に生きない」「碁だけの繋がり」という道を選択して貫ぬこう。そのためには苦しみも何もかも、負の感情を受け入れていこうというのに対して。
ヒカルはその反対を考えていた。反対を考えられるほどの家庭環境でもあり、楽天的な性格でもあった。
それはヒカルの強みでもある。同じ感覚をアキラに要求するのが、土台無理なのかもしれない。
アキラが主張するように、もしも二人で一緒に未来を選択し、それを生きていくのなら。
―――絶対に前向きがいい。
先に苦しみを味わっておけば、後で楽になるとは考えたくない。未来の安寧のために、不幸の先払いなんてしたくない。
ヒカルは、アキラの意思の前に挫けそうな心を、必死で奮い立たせた。それは、自分がアキラを誰よりも好きだと、これ以上好きな相手は一生現れないとの確信に支えられてもいた。
・・・佐為。俺、今夜は引かないよ。
この前、お前が塔矢んちで居眠りした俺の夢に出てきたことは、絶対に意味があると思ってる。
お前もわかってると思うけど、俺、塔矢以上に他人を愛せるとは思えない。
それは、塔矢がお前を判ってくれたことと、無関係じゃねーよ。
あの頃から塔矢は、俺にとって特別だった。そして俺も、塔矢にとっての特別であり続けたいんだ―――
先日の夢と、いつも胸に宿る面影に力を得て、ヒカルは目の前にいる大切な人を見据えた。
「逃げるなよ。塔矢。」
「は?逃げる?」
「そうだ。お前、俺たちは何のために毎日生きてんだよ?」
「どういう意味だ。進藤。」
アキラが睨むような顔つきになった。
まるで対局してるみてえ、ある意味、真剣勝負っちゃ〜そうだよなぁ・・・
内心、アキラに睨まれることにどこか痛みにも似た快感を覚えつつ、ヒカルは先を続けた。
アキラは本当に関心のない相手、話題には外面を発揮するが、睨むというのはそれだけ心をヒカルの言葉によって突き動かされた証拠でもあった。
「これまで積み重ねてきたもんは、そりゃあ大事だ。生まれ育つ環境だって選べないさ。でも、生きてるってことはさ、今日と違う明日を作れるって、そういうことじゃねーか?」
「・・・。」
「塔矢。今だけを・・・いや、過去を含めた今を見て、決めるな。お前にも、俺にも、それから俺らの家族にも、みんなに明日はくるじゃん?明日は変えられる、俺はそう信じてる。」
「進藤。」
「もしお前が納得できないとしたら、同じ重さで俺も納得できない。わかるだろう?―――俺の未来を、お前が決めるな。」
「それは・・・。」
まだその瞳に抵抗の色を見せようとするアキラに、ヒカルは畳み掛けた。
「俺に・・・いや、そんな一方的なことじゃねえよ。お前と俺、二人の未来に、チャンスをやろうぜ。」
アキラが、少しだけ目を細めた。口元は隙がない様子で、きりりと引き結ばれている。
こんな時のアキラは、深い思考の底に下りているように見える・・・
冒しがたい雰囲気に包まれている・・・
そしてそれは、ヒカルが密かに好きな、塔矢アキラの美しい表情の一つだった。
「一回。たった一回でいい。チャンスを―――」
( 十三 )
「チャンス・・・。」
「そう。今ここで話していても、きっと平行線だ。俺ら、どっちも納得いかねーまんま別れて、またいつか蒸し返す。それだったらいっそ運命をさ、何かに任せる・・・そういうのもありじゃねーか?」
「・・・。」
二人の間に、静かな思考の時が訪れた。どちらも口をきかない。
アキラには、まだヒカルが何を言いたいのかわからなかった。
わからなかったが、それでも、ヒカルが未来を諦めようとはしないということだけは、わかる。
ヒカルとて、言いながらも何をどう任せれば互いが納得出来るのだろか、具体的なものを持っている訳でもなかった。
アキラに完全に拒絶されて八方塞りの中。
それでも一筋の光明だけは見失いたくない。どんな微かな光でも、それはただ遠くにあるというだけで、光は光として絶対にある。道の延長線上のどこかに、存在する。
その光を求めずには・・・追いかけずには、いられない。
生きてゆくということは、多分そういうことだ。
佐為の命。佐為の碁。
それを受け継ぐものとして、ヒカルには人知れず確信がある。
・・・塔矢と俺は、会うべくして会った。そしてそこに導いたのは、佐為だ。
その佐為が夢で自分に向けた微笑は、神々しいまでに美しかった。
そう、まるで今、目の前で散り急ぐ、このはかなくも美しい桜のように・・・
沈黙のトンネルをくぐり抜けた後、ボツリポツリと、ヒカルは心のままに語り出す。
「桜って、夢みたいな花だな。もしかしたらさ、日本中が一斉に夢を見てるんじゃねーのかな。みんなの夢の中に咲いてる花・・・覚めたらもうそこには緑の葉っぱしかねーの。」
「面白いことを言うなぁ、君は。桜は、日本人がみんなで見る集団幻想・・・それも、ある一面では本当かもしれない。この時期の浮かれ具合は他では見られないし。じゃあ、散った花びらは僕らの夢の世界の名残だろうか。」
アキラもヒカルの言葉に付き合うかのように、穏やかに応える。
しなやかな腕を伸ばして、丁度舞い落ちてくる花びらをその手の平に受けた。
その仕草があまりにも優雅で、こういうのを品があるというんだなと、ヒカルはしみじみ思う。
塔矢。お前の存在こそ、夢のようだ・・・俺にとっては、さ・・・
アキラの姿に見惚れながら、ヒカルは続けた。
「夢・・・そうだ、過去に誰かと一緒にいたことも、ソイツの記憶も。人から見たら夢でしかなくても、俺には現実だった。本当にあったことだった。夢かそうでないかは、俺自身が決めることだ。」
「進藤?」
「あ、ご免。独り言。ほら、この前お前の家で気持ちを打ち明けた時、俺が見てた夢。そこに出てきた友達の話だけど、あれからずっとザワザワしてて、ココんとこ・・・。」
ヒカルが、ココと立てた親指で指したのは、勿論、自分の胸―――
そこに宿る佐為を、今も鮮やかに意識して。
今度はアキラの方が、そんなヒカルの表情を眩しげに見た。
「・・・うたたねに こひしき人を 見てしより 夢てふものは たのみそめてき・・・。」
ふと、アキラの口から零れたのは一首の歌だった。
「へ?何?今の。」
「小町の歌だよ。夢の歌だ。今の君を見ていたら、急に思い出した。」
「わぁ、お前ってスゲー、覚えてんの?んな訳わかんない、呪文のようなの。信じられねぇ・・・で、どういう意味?」
「さあ?後で調べろ、自分で。」
「お、お前って意地悪っ!一回聞いただけで覚えられるわけねーじゃんかっ!」
「ははは・・・小町の夢の歌を調べれば、すぐわかるさ。」
「小町って、小野の小町?」
「お、君でもさすがにそのくらいは知っていたか。」
「うん、まあ、な・・・古典は意外に詳しいぜ。」
いたずらっぽく鼻をスン・・・と鳴らすヒカルを見ていたアキラが、急に目を見開いた。それは、妙手が閃いた時にアキラが見せる顔に近かった。
「小町・・・そうだ、深草の少将!進藤、君は百夜通いを知ってるか?」
「ひゃ?百って、数の百?」
「小町のところへ百夜通おうとした男性がいたんだ。勿論求愛の為に。それが少将なんだ。」
「百夜って、百の夜ってこと?ええ〜、それって続けて通ったの?」
「うん、でも百夜目に失敗したと伝えられている。まあ、この二人の存在そのものが伝説めいているんだが・・・。」
アキラの口調は、珍しく彼が興奮していることをヒカルにも伝える。
二人の間の空気が一気に濃くなったのを、どちらもが感じていた。
・・・やがて。欄干にもたれていたヒカルが何を思ったか、そこから身を離し、真っ直ぐに立った。
それを待っていたかのようにアキラも一歩前へ出ると、真正面からヒカルの目を見て。
そして告げた。
「進藤。君、通って来い。僕のところへ。百夜。そして毎晩、僕と打っていけ。」
微笑みは花のように柔らかく、しかし、言葉には凛とした響きがあった。
( 十四 )
「通うって―――え、どういうこと?」
「言葉通りだよ。君が僕のところへ、百日続けて通って来い。それがもし達成出来たら、僕は君と生きていくことを考える。真剣に考えてみる。」
「塔矢?お前、それ、本気で言ってるのか?」
「今がどういう場面だ?そんなことを冗談で言う訳はないだろう。」
「いや、それはそうだけど、その百日って、えっと、一、十、百、千、の百なんだろ?だって、現実的に考えても百日なんて無理だろう。地方に行った時にはどうするんだよ?」
「それでも通うんだ。だからこそ、百夜通いだろう。」
即答だった。余りにもキッパリと返されて、ヒカルも二の句がつげない。
その時、再び風が巻き起こる。花びらのつむじ風はヒカルの足元で戯れ、それからアキラの足元へと流れた。
まるで、そこに誰かの想いが宿っており、ことの成り行きを見守っているかのようにも見える。
「君が言ったんだぞ、運命を何かに賭けてみようって。賭けっていうのは、簡単に先が予想出来ることじゃ意味がないだろう。達成出来るかもしれない、難しいかもしれない、でも、だからこそ賭ける意味がある。人の力ではどうにもならないようなことも、もしそれが思い通りになったとしたら、きっと僕らは神様に許されているんだろう。僕らが抱えている問題だって、いつか解決出来るのかもしれない。」
アキラは微笑んだまま、話し続けた。
澱みないその様子に、先程からヒカルはただ圧倒されたままだ。
やっとの思いで口を開くが、驚きと戸惑いを隠せてはいなかった。
「お前、それ、本当にたった今思い付いたの?すんげえスラスラ喋ってない?まるで、ずっと前から用意していたセリフみてえ。」
「驚いてるよ、僕自身も。びっくり目玉の君以上に、僕の方が驚いているさ。どうして僕はこんな馬鹿げたことを言っているんだろうな。ははは・・・。」
アキラの口から、今度は乾いた笑い声までが零れる。
言葉通りだった。自分で自分が理解出来ていなかった。理屈を超えた力に支配されていたのは、進藤ではなく、この自分の方だったのか。
現実主義で理性的だと自負している。
それなのに、どうだ。相手が進藤となると、時としてそんな自分が足元から大きく揺らぐ。
しかし振り返ってみれば、出会いの時から進藤ヒカルは自分にとって謎だらけで、不可解な存在だった。
その理由を本人に問うことを封印してからというものの、目の前にいる現実の進藤ヒカルだけを見据え、わかろうとしてきた。
そうやって築いてきたここ数年の関係が、今、一つの果実を実らせようとしている。
その実りは、どんな未来をヒカルと自分にもたらすのだろうか?
アキラにわかっているのは、来るべき時が来たことを目に見えない力によって知らされ、そのさだめのままに己が突き動かされているということだけだった。
「参ったなぁ・・・ホント、お前には参るよ。いつも最後はお前が俺にガツンとかまして、そして俺はやっと目が覚めるんだ。そうだ、最初の北斗杯でヨンハに負けた時も、お前が俺を立たせてくれた、あの場所から。だから前に進めた。塔矢、お前だから・・・。」
「うん、僕も計算して君に何かを働き掛けたことはないよ。でも結果的に、僕は君と出会ってから君なしでは今の自分に成長出来なかったことも、そのくらい僕らが深い関係だってことも、わかっていたつもりだ。君の碁や言動に、僕は他の誰よりも感じるものがあったし、僕も君に影響を与えていたんだと思っている。」
「そうだろう?お前には俺、俺にはお前。絶対にお互いじゃなきゃ、俺らはここまできていない。こんな奇跡みたいに綺麗な桜の下でさ、人が聞いたらアタマがおかしくなったとしか思えねえ提案をされてだな、それを受け入れようなんて、なぁっ!」
「じゃあ進藤、君、挑戦してみる気になった?」
「挑戦も何も・・・お前の言う通りなんだろうよ。簡単に達成出来ることだったら、運命を試す意味はねーもん。そもそも、お前は言い出したことを引っ込めるようなヤツじゃねえ。だったら後は俺の問題だ。俺がお前の提案を・・・お前って人間をどう受け入れるか、俺の気持ち次第なんだ。」
「君、さっきもそういうことを言っていたな。何ごとも気持ちだけが肝心なんだとかそういうことを・・・。」
「だってそうじゃん?信じられないようなことも、絶対にあり得ねーことも。それがホントかどうかなんてことよりも、そこに立っている自分が何を感じてどう行動するか、それだけじゃん。お前が今不意に思い付いて言い出だしたことも、きっと俺には意味があるんだから。お前との間に起こることには、俺、鈍感じゃねーよ?どんな小さなことも大事だもん。そう思って、何年もお前の横にいたんだから。」
ヒカルの真摯な言葉の一つ一つに、また新たに熱いもので胸が満たされるのを感じる。
アキラは静かに歩き出した。ゆっくりと、ヒカルに向かって、自分のいた橋の欄干から、ヒカルのいる反対側の欄干へと。
ヒカルも、アキラに呼応するかのように、真っ直ぐに歩き出す。
幅の狭い橋の真ん中、二人はあっという間に出会い、見詰め合う。
―――先にヒカルの手を取ったのは、アキラだった。
「矢張り、無謀だろうか・・・この手は、僕のところへ毎晩やって来て、碁を打っていけるかな?」
重ねた大きな手を、愛しそうに見下ろしているアキラ。その睫毛が震える。
俯き加減のアキラの表情には、性別を超えた美しさがあった。
「縁起でもねーこと言うな。だって、その何とかって平安時代の男は失敗したんだろ?無理を承知で言い出すんだからなぁ・・・お前も、憎ったらしいヤツだぜ、全く。絶対に地方に行くことあるぜ?百日ってざっと計算しても、三ヶ月と十日くらいなんだから、お前か、俺か、或いは二人とも。それに遠くで泊まりだと、どうすんだよぉ?」
「日付が変わる前に、はちょっと可愛そうだから、次の日の朝日が昇る前までにやって来ればいい。そして一局打つのはどうだ。一度僕のところから離れて、それからまたその日を通って来るんだ。ははは・・・僕もこう言いながら、とんでもないことだとつくづく思うさ。」
ヒカルは、アキラに握られた手を自分へと引き寄せる。
そして、アキラが逃げられないようにとその手をしっかりと握り締め、その白く、なめらかな甲に唇を落とした。
アキラの体が反射的に傾くが、拒絶する気はないのだとわかると、ヒカルはもっと大胆なことを言い出した。
「くっそ〜、だったら手にキスなんてケチな誓いじゃヤダ。もっと確かな約束をくれよ。絶対に挫けないって決心を、俺にさせてくれよ?」
・・・だから、キスさせて。お前の唇に、誓わせて。
切ない声がアキラの耳に届くよりも先に、ヒカルの温かい息がアキラの顔にかかった。
( 十五 )
「ちょっと待てっ!こら。」
「あ、ひゃっははへ?」
アキラの唇に触れる寸前で、ヒカルの唇はその大きな手に遮られた。そのまま喋るから、間抜けな発音になってしまう。
ヒカルの温かい息を手の平に受ける格好になって、アキラは思わず肩を震わせた。
どうやら、やっぱ駄目?・・・と言いたかったらしいと推測出来たアキラが、ヒカルから身を遠ざけながら言った。
「駄目に決まってるだろうっ!ここが外で人に見られそうとかそういうことじゃない。わかっているだろう、進藤、約束は約束だ。たがえることは許さない。君と僕は、まだそういう仲じゃないんだ。そのことを忘れるな。」
「ちぇ〜・・・キス、したかったのに。んー、でもさ、確かにお前の言う通りかもな。成功しなきゃ、今夜ここまで話し合って決めたことも意味なくなっちゃうし。それに・・・。」
再びヒカルが距離を詰めたが、今度は不意打ちで手を伸ばすつもりはないようだった。
「それに、さっきお前を抱き締めたら一気にどっかに昇っちゃいそうだった。へへ・・・そのくらい、一瞬で心がイッパイになっちゃって、他のことなーんも考えられなくなりそうだった。焦った。マジで。だから、体に触れるのってヤバイわ。絶対にヤバイ。うん。」
照れ臭そうに笑う様子が妙に子供っぽくて、話の内容の際どさとのギャップが、アキラの気持ちを軽く混乱させる。
どうしてそんな話を、当事者同士でサラッ・・・としようとするんだ?
矢張り自分には、簡単に同性同士の恋愛というものに踏み出せない何かがあるのだと、改めてアキラは思う。
その一方で、ヒカルが真っ直ぐに自分を・・・体の繋がりも含めて、自分なんかを求めてくるその気持ちに、胸の奥が熱くなる思いだった。
もう少し。もう少しだけ、彼と触れ合うことを自分に許してみようか?
そしたら、こんなにもかたくなな自分も、柔軟に変わっていけるのかもしれない・・・
そう思って片手をヒカルの方に伸ばしかけた時、大声が上がった。
「ああーっ!よく考えたらお前、来月末だっけ?ソウルで○○杯に出るだろう?一週間くらいは行きっぱなしだよなぁ・・・マズイぜ、俺、その頃休みとれたっけ・・・。」
ヒカルの困り声に、アキラは手を引っ込めて密かに溜息をついた。
「確かに海外棋戦がすぐ目の前にあったな。それに君と僕は、六月には天元戦の予選で直接対局もあった筈だ。他にも調べればあるかもしれない。地方でのイベントもあるし。」
「はいはい〜、それはまたこれから考えるさ。今はもう混乱するだけだもん。」
「君・・・本当の本当に、通う気なんだな?じゃあ僕もそのつもりで君を待ってて、いいんだな?」
―――小町は果たして、少将を心から待っていたのか。
それは、現代に生きる自分には知り得ないことだが、己の気持ちはわかるような気がしていた。
おそらく自分は、目の前にいるこの若者が百夜通いを成し遂げるその日を、心から待ちわびることになるのだろうと―――
「塔矢ってば自分で言い出しておいて、やけに引き気味ジャン?お前こそ止めたい?こんな無謀な賭けみたいなこと。」
「そうじゃない。僕が言いたいのは、こんな馬鹿げたことまで持ち出さなければ踏み出せない僕のことを、君は嫌にならないのだろうかって。だってそうだろう?いくら好きな相手の提案だとしても、これじゃあ僕の我侭でしかないような・・・。」
「ふふ・・・やっぱお前、わかってねえ。や、わかってねーから、それをわからせるための今夜の流れだったんかもなぁ・・・。」
ヒカルの言葉は、アキラにとっては謎に満ちていた。
どういうことかわからない。わかっていないと言われるその内容が、まずわからない。
そのことを正直に瞳で訴えるように、ヒカルの目を見詰めた。
すると、ヒカルは微笑んで答えてくれた。
「俺はお前が好きなんだ。愛してるって言ったろう?お前がどんな人間でどんなことしても、俺は変わらねえ。そもそもさ、どこを好きか、どこを嫌いかって訊かれても答えられねえよ。だって、お前が綺麗だからとか性格が真面目でおっかないからとか、そういう部分でお前を見てるんじゃねーもん。全部好き。全部で、好き。俺の好きはそういうこと。」
丸ごとの、ありのままの塔矢アキラでいてくれたら、いい・・・俺の隣に、一生・・・
―――こんな求愛があるだろうか?
そして、こんな求愛をされても、それでもすぐに首をタテに振れない自分は、一体何者だというのか?
悦びと罪悪感が一体となって、アキラをさいなむ。
そっと唇を噛み締め、いたたまれない気持ちでヒカルから目を逸らした。
その苦悶の表情が、ヒカルにもはっきりと見て取れたのだろう。すかさず、でもさり気なくヒカルが救いの手を伸べた。
「う〜ん、そういう顔ってさ、盤上で追い詰められた時でも滅多に見せないジャン?お前。スッゲ綺麗。そんでもって、怖い。その顔も、そんな顔するお前の心も、全部俺が欲しい。我侭、上等ジャン?だからお前は変わらなくていいんだってば。そのまんまの塔矢アキラでいろって。お前のさ、その簡単に信念を曲げねーキビシイとこがいいんだって。ひゃ〜、俺ってちょっとマゾ入ってるかな?ははは・・・。」
高らかに笑うヒカルの体が、大きく揺れた。
それに合わせて橋の上の街灯の優しい光が、角度を変えては、アキラの目の前でヒカルを照らし出す。
ヒカルの頭に乗った花びらが光る。その存在をアキラに見せ付けるように、光る。
街灯が眩しいのか。ヒカルの全てが眩しいのか。
それはわからないが、アキラの心が何がしかの光に照らされ勇気が湧いたのは、確かのようだった。
アキラは今度こそ躊躇いなく腕を伸ばし、金色の前髪に貼り付いた花びらをそっと手に取った。
指先でつまんだその手付きまで、奇跡のように美しいとヒカルはうっとりと見詰めた。
アキラはゆっくりとそれに口付けて、それからその花びらをヒカルの唇に押し当てた。
ねじ込むような仕草を合図に、ヒカルはうっすらと唇を開き、覗かせた舌先でその儚きものを受け止める。
やがてアキラの指が離れていったが、その指先は微かに光っている。
ヒカルの唾液が濡らしたのは間違いなく、その妖しくも美しい一連の光景は、ヒカルの脳裏に死ぬまで忘れられない映像となって残ることになる―――
「間接キスで我慢しろ。君がそう言うなら僕も覚悟を決めた。ご褒美はきっと、先で受け取る方が喜びも大きいんだろうな。ふふ・・・どんな味がする?その花びらは・・・。」
その答えを聞くつもりはないらしく、アキラは言い終わらないうちに身を翻して歩き出した。
アキラの起こした風に吹かれて、足元の花びらがふわり・・・と舞い上がる。
取り残されそうになったヒカルが慌てて追うと、更に花びらは煽られて、小さな嵐が生まれた。
それはアキラとヒカルの足元で渦を巻きながら、二人の行方を追い掛けていく。まるで、二人を引き止めたくてそうしているかのようだ。
「お〜い、塔矢!なあなあ、今夜はカウントされる?一日目?今から打ってもいいけど?」
「甘い。明日からに決まってるだろう?明日が記念すべき一夜目だ。」
「げーっ!やっぱお前鬼だっ!」
「うるさい。さっさと帰るぞ。」
明るい若者の話声が、夜桜の合間を縫って流れては、夜風に千切れていった・・・
そうして始まったのだ。
ヒカルにとっても、アキラにとっても、長い長い百日間が。
それは二人にとってたくさんのことを語り合い、知らなかった互いを知り、初めて味わう感情に翻弄され。
そして、何ものにもかえがたい日々に変わることを、この夜の二人はまだ知らない。