― 百夜通い ―
( 第一章 )
( 一 )
その日、桜を見に行こうと誘ったのは、アキラの方からだった。
そろそろ答えをくれるのだろうかと思っていたヒカルは、そうか、今日、何かを決めてくれるんだなと感じた。・・・いや、決める、というのは少し違うだろうか。
―――答えはお互いの中にある。元々持っている。
それでも、言葉にして伝え、それに基づいて生き方を選んでいくことは大きなことだ。
人はこれを人生の決断と呼び、或いは岐路だったと振り返ることになるのかもしれない。
夜中の、突然の呼び出しだった。
告白したあの日から明らかに避けられていたが、それは考える時間が欲しいということなのだろうと理解して、ヒカルは強引な手に出ることはしなかった。
―――誰よりも大事だからこそ、ずっと言えなかった。でも、誰よりも欲しくて仕方ないから、我慢出来なかった―――
アキラの方は一生このまま関係でもいいと思っていたのかもしれないのに、踏み出した自分に責任があるという自覚くらいはあった。だからこそ、そっとしていたのだ。
それでも告白したその日から今まで、落ち着かない数日を過ごした。
時々、アキラに告白をした日にうたた寝の中で見た、あの夢が大波のように心に押し寄せる。
たった今見ていた夢のように生々しい。何日経っても鮮やかで圧倒的な感覚に息が苦しくなって、胸に拳を当て、深呼吸をして整えることもあった。
夢の中で、佐為が自分と一緒にいたその日に時間が巻き戻り、二人で対局していた。
いつもと同じ自分の部屋。いつもと同じ碁盤。変らぬ対局中の空気。
目の前の佐為を見て、暫くはぼんやりとして・・・・・
それから唐突にああ、俺は今、過去にいる、時間を遡ったんだっ!
だったら言わなきゃ、お前、消えたりしたら駄目だ、せめて俺に何かを言ってくれ、と。
お前がずっといてくれると思っていたから、俺はお前のことをどれだけないがしろにしただろう、やり直せるならもっともっとお前の望みをききたい、打たせてやりたい・・・塔矢の親父や世界中の一流棋士と、好きなだけ打たせてやりたい!
そんなことを心で思うけれど、言葉が一切出てこない。
パクパクと口だけは動かすけれど、音を発する方法を体が忘れたみたいに音声は生まれない。
心だけが焦燥のあまりにギリギリと締め付けられる。苦しい。苦しくてどうしよう。どうすればいい?どうすれば佐為に伝えられる?
目の前の佐為は、いつもと変らず伏し目がちに碁盤を見て、そっと扇子を動かす。
そうだっ!この扇子を掴んで、佐為に訴えよう!
あ、佐為には実体がないんだ・・・触れない・・・触れない・・・ああぁ・・・・・
そう思った途端に力がどっと抜けて、碁盤に突っ伏した。碁石が散らばる。
いけねっ、対局中・・・と、慌てて身を起こして佐為を見る。
怒られるのかなと思ったら、優しく自分を見下ろしたまま・・・柔らかく微笑んでいた。
それを見て。
もう一度だけ、声をあげた。
佐為―――っ!
そして、夢から覚めた。
次に見たのはアキラの部屋の天井。それから、アキラ本人の顔。
転寝している自分の横で静かに棋譜の本を読んでいたらしいアキラは、心配そうにかすかに眉根を寄せてこちらを見ていた。
「進藤?大丈夫か。」
その声で一気に現実を把握したヒカルは、よいしょと身を起こして頭を強く振った。
全身に残る虚脱感。胸を一杯に満たしたやるせない感情。
そんなものを振り払うかのように。
「うん。平気。もうハッキリと覚めたから。」
( 二 )
お腹の辺りに乗せられていたタオルケットが、起き上がった拍子にずり落ちた。
ヒカルはそれを見てまた、胸が壊れるような強い衝撃を感じる。
いつもこうして、アキラから有形無形の好意を注がれて。
やっと今。自分の方が、アキラのその気持ちに追いつきつつあると思う。
ヒカルは知っている。アキラの方が断然オトナであると。
ともに歩いてきた年月の中で―――それは会うことはなくても互いを意識していた頃を含めてだが―――アキラがどれだけ自分よりも世間というものをわかっていて、きちんと向き合って生きているか。
表面的な処世のことだけではなく、もっと人として深い部分でアキラは大人に成長していった。
それはヒカルとともにあることと無関係ではなかったが、ヒカルとて自惚れが強い訳でもないから、自分がアキラの成長と人格形成に影響を及ぼしたとまでは思っていない。
一方で、アキラははっきりとヒカルと自分の関係性の複雑さと重みを感じて、ここまできた。
ヒカルの抱えた秘密。
それに振り回され、しかし同時に自分をここまで導いたそのなにがしかの不思議な力を思う時、出会いは運命であったと、そしてそれは今も未来も絶えない筈の運命であると思っていた。
・・・静かにそう思っていた。
ヒカルの方は、そういう風に自分が人としては一段幼いと自覚があるけれども、アキラの気持ちを全く察していない訳でもない。
アキラの気持ち。それは何よりも自分を棋士として認め大事に思っていてくれるということだ。
そしてその先の気持ちが、いや、それに加えて別の気持ちがあるのかどうかは、ヒカルの想像の範囲だとしても。
友達、ライバル、それ以上の感情、誰よりも何よりも優先されていることは嫌というほどわかっているから、問題はその事実ではなくて、アキラがこれからどうしたいのかということであると、本質を悟っていた。
( 三 )
ヒカルは膝を立てて、頭をかく。
間もなく桜も咲き初める季節。水も空気もぬるみ、いつもよりも高い気温のせいでヒカルの額には汗が浮かんでいた。
じっと自分を見ているアキラを意識したまま、ヒカルは口を開く。
何かを伝えなければならない。何かを伝えたい。心を落ち着かせながら言葉を探す。
「あのな、夢を見たんだ。」
「うん。」
「夢の中で、俺は死んだ筈の友達と一緒だった。それで俺は思った。ああ、時間が巻き戻ったんだ。今、俺は過去にいる。だったら、俺がコイツを助けてやれる。コイツの運命を変えてやれるんだ!そうしなきゃ。コイツに、そのことを伝えなきゃって。俺は必死で、何かを喋ろうと・・・伝えようとした。」
「そうか。」
「わかんねーよな?変な話だもんな。でも出来ると思ったんだ。死なないように、消えないように、運命の流れを変えてやろうって。例え・・・それで俺がお前に会えなくなったとしても。今、俺がここにいないとしても―――さ。」
アキラは、隣で静かに聞いてくれていた。
「塔矢。だけど、俺はやっぱり夢の中でもアイツを助けられなかった。これから起こる未来を説明したくても、声が出ない。どうしたって出ない。結局、悲鳴を上げるしか出来ない人間だ。」
今は、ちゃんと声が出る。現実の自分は、いくらだって語る術を持ち、目の前の人に何だって伝えられるのに。
そう思うと、ヒカルの胸はまた軋んでは、音なき音を立てる。
「それでももう後悔だけはしたくないから、言わせて。」
沈黙が、アキラの相槌だった。ヒカルには、そう思えた。
「お前が好き。好きなんだ。俺の人生で、最初で最後の人だ。お前と、死ぬまで生きていきたい―――」
さっきまで友達だった塔矢アキラが、自分の言葉に驚いて息を呑んだのを感じる。
終わりだろうか。これで、全てが終わってしまうのだろうか。
ヒカルは息を詰めて、自分が踏み出した大きな一歩を、その見えない足跡を見詰めるように顔をしっかりと上げ、前を見た。
―――お前が好き。好きなんだ―――
不意に、堰を切った想いが言葉となってこぼれ出した。
止めようもない、幼い頃から胸の奥で育んできた『想い』の氾濫だった。
自分がこんな告白をする日が来るとは思ってもいなかった。それは言葉の選択ではなくて、気持ちを伝えることをしないかもしれないという意味において。
ヒカルは喪失を経験している。
大きな喪失は、人を鍛えもするが臆病にもする。北斗杯を経て、アキラを始め多くの棋士との攻防を経て、打つことで前進してきた。ひたすら前を向いて打ってきた。
気が付くといつも、四方八方無限に広がる十九路の世界で、二人はとても近くに立っていた。
ヒカルは、その大きな喪失をなぞるような、古傷をえぐるような夢を、春の息吹が感じられる麗らかな午後に、塔矢アキラの横で見たのだ。
あんな夢を塔矢アキラの横で見て、そして大事な人の名前を叫んだという事実はもう消せないし、一方で意味があることにも思える。
何かを動かす時期がきたのかもしれないとも、思う・・・
ヒカルの告白を聞いて、目を丸くして言葉に詰まったアキラは、意外なことをした。
次の瞬間。
笑ったのだ。いや、吹き出したといった方がいいだろう。
「ふふふ・・・っはっはは・・・。」
「と、塔矢っ!お前、人がマジなのに笑ってんじゃねーよっ!」
「はははーっ!っくっくっく・・・い、いやぁ、悪い。君があんな寝言を叫んでおきながら、次に何を言い出すのかと思えば、まさか・・・。」
裏があるとはとても思えないような、自然で屈託のない笑いだった。
( 四 )
呆然とするヒカルを置いて、アキラは立ち上がった。笑った顔のままだ。
「飲み物でも取ってくるよ。君が置いていったジュースがまだあった筈だ。」
「待てっ!塔矢!」
反射的に、アキラの手首を掴んだ。一瞬よろけたものの、アキラは引き倒されそうになるのをかろうじて持ちこたえた。
「進藤。」
ヒカルを見下ろす黒々としたアキラの目は、いつも通り澄んで綺麗だ。
掴んだ腕を、少しだけ擦るようにしてから、放した。手の中の小さな生き物を解放する時のように、そっと、優しく。
「待って、塔矢。俺の言ったこと、真剣に受け取ってくんないのか?」
「君はうたた寝して、苦しそうにしていた。君の悲鳴は初めて聞いたよ。今、君が語った夢の話や、それにまつわる気持ちには嘘がないと。僕も真面目に聞いたつもりだ。」
「その先は?―――俺がお前を好きだって言ったことは?」
ヒカルは自分の声が掠れているのを、情けなく感じる。それは、眠りから覚めたばかりの不安定さゆえではなかったから。
アキラは口をつぐんだ。
「塔矢。」
促すようにもう一度、その名前を呼んだ。
何度も、何万回も読んだ名前。それを、お前が愛しいとはっきり告げた上で呼ぶのは、初めてだ。
もう、声に今までとは違うニュアンスが混じっている。
好きな人の名前だ。友達でもライバルでもない。好きな人を振り向かせたい、自分を見て欲しい、応えて欲しいと切実に願う時の、切羽詰った色がある。
その急激な変化が、余りにも重たかったのだろうか。アキラは矢張り応えないで、ヒカルに背を向けた。
「飲み物を持ってくる。少し気持ちを落ち着けろ。」
キッパリとヒカルを拒絶した背中を見送る。
アキラはある時期から、言葉少ない青年へと成長した。無駄なことを語らない。
その分、全身からオーラのようのものを発していることがある。
それすらも必死で消そうと努めることもあるようで、横にいるヒカルはそんなアキラを時に痛々しいとすら感じる。
―――塔矢は大人になり過ぎちゃったんだよな・・・
そう言った時、アキラは笑った。
―――なり過ぎるって、変な表現だな。なっていいだろう。大人であることに、過分はないよ。それくらいで丁度いい。
顔は笑っているけど心は笑ってないと、ヒカルはその時思ったものだ。
今だってそうだ。
言葉にすることを極端に慎重視している。その分、体からは彼の本音が零れ出ているようだ。
どうして。どうしてそれを、君は言うんだ?
アキラの小さくなっていく背中を見ていたヒカルは、はっ・・・となった。何かに強く打たれたように、悟る。
塔矢。お前、聞きたくなかったんだ。言って欲しくなかったのか―――
ヒカルは、自分のしたことの重さを改めて突きつけられて、深い溜息をついた。
アキラの背中には戸惑いを越して、怒りにも似た雰囲気が満ちていたと思った。
折角なかったことに、笑い話にしてしまおうとしたのに、どうしてわからないんだろう、君は・・・と、無言で訴えられている。
アキラがすぐに戻って来なかったことも、密かにヒカルを傷付けた。
ヒカルは起き上がると帰り支度をする。今日はもう一緒にいられない。きちんと話も出来ないだろう。
盆の上には、グラス四つにそれぞれジュースと麦茶。自分とヒカルの分を律儀に持って来たアキラに、ヒカルはこんな時まで優しくすることは忘れないんだなと、心の中で皮肉を呟く。
それでも帰ると言ったヒカルのことを、その日のアキラはせめて飲んでから、などという引止めの言葉すら言わずに、静かに見送ったのだった。
( 五 )
それから数日後の今日。
アキラから誘いの電話を受けて、待ち合わせ場所へと向かう。指定された駅は、ヒカルにとって初めて降り立つ私鉄の小さな駅だった。
電車もわずか三両しかない。東京の南西へと延びている私鉄の更に支線というような路線で、ヒカルはバイクではなく電車で来ることを選んだ。
初めての路線に興味を引かれたせいもあるが、バイクだと帰りにアキラは自分の後ろに乗ってくれない。
アキラは頑として、二人乗りを拒否している。
必要以上に親しげにすることを避けており、それが却ってヒカルとの関係へのこだわりの大きさを表していた。
アキラが碁以外を絡ませないように注意を払っているからこそ、ヒカルも自分がどれだけ大事にされているのかを自然と思い知らされてきたこの数年だった。
駅の改札には、先にアキラがいた。
本当に小さな駅だ。しかも夜中だから殆ど電車はない。
もしかしたら、今のが終電だったのだろうか。だとしたら、帰りはどうなる。
どうするつもりでこんな時間に俺を呼び付けたんだ。
歩いても幹線道路が近いから、タクシーくらいはつかまるのだろうか。
とりとめもなく考えながら、アキラへと歩を進める。
「・・・っす。待たせた?」
「いや、一本前に乗ってただけだ。真冬じゃないから平気だ。」
「どこに連れてってくれんの?桜、見るんだろ?千鳥ヶ淵とか上野とかじゃねーから、楽しみにしてたぜ。」
「駅名だけじゃわからないだろうな。こっちだよ。」
アキラがすいと先に立って歩き出す。
一秒だけ遅れて、アキラのいた場所を通り過ぎるヒカルの鼻腔を、アキラの残り香がくすぐった。
・・・あ、塔矢の香りだ・・・
意識した途端、それはヒカルの脳の奥深くまで一気に侵入してくる。
このところ、急に内面だけでなく外から見ていても大人の男性になったアキラには、姿は美しいけれども、どこにも女性的な部分は感じられない。
そのくせ、アキラをそういう対象としても想像の中でためらわずに手を伸ばし触れる自分を自覚して、ヒカルは観念する日も近いと思っていた。
あの夢は引き金を引いただけで、既に自分の中は飽和状態だった。溢れる寸前だった。
物思いに沈むヒカルを振り返って、アキラが少しだけ歩調を緩める。
「どうした?」
「え。どうしたって、何が?」
「目を細めてる。鼻をくんくんさせてるし。君は意外と匂いに敏感だから、もう感じるのかと思った。」
「じゃあ、やっぱ最近つけてるんだろ?何の香り?自分で選んだ?」
「はあ?僕のことか?はは、違うよ。僕の匂いはどうでもいい。今夜はつけてないけど、多分さっきまで仕事で一緒にいた人の香りがキツかったから、移ったんだろう。僕が言っているのはそのことじゃない。・・・桜だよ。」
「だって最近お前からいい匂いがする気がしてたから。オッサンの匂いだったら嗅ぎたくなかったぜ。」
ボソボソと呟いたヒカルの言葉は聞こえていたが、無視した。
アキラの中にはいつしか出来上がった選別機能が備わっていて、自動的にヒカルの言動をえり分けている。これは無視した方が互いの為。これは突っ込んでもいい。これは態度を保留するべきこと。
今のヒカルの発言は明かに自分の基準では危うい部類だったから、無視を決め込んで先を続けた。
「実際に香りは薄いかもしれないが、もしかしたら君は言うかもしれないと思ったんだ。春の匂いがする、とかそういうことを。結構可愛い表現をするだろう、少女的とでも言うのかな?君の喋りは。」
そこで小さく笑うアキラは、楽しそうに見えた。
・・・おい、どういう気だよ。こっちは心臓バクバクを通り越して、動かなくなりそうなんだぞ。瀕死ってやつなんだぞ!
横顔を本当に睨み付けたら、気配を察したらしいアキラが懐柔するように微笑んだ。
「ほら。もう見えてる。ここから一直線に上がって行くんだ。」
なだらかな坂が二人の目の前に現れた。
商店街と寺との間を抜けて、やがて民家が立ち並ぶ辺りに来る頃には、ヒカルにもその光景が見て取れた。
息を呑む。一瞬止まった足が、目に見えない何かに背中を押されたように、加速した。
転がるようにアキラの脇をすり抜ける時。
ヒカルの目の端に映ったのは、満足そうなアキラの顔と、「桜坂」と書かれた道標のようなものだった。
その表記の通り。二人は今、満開を迎えようとする桜のアーチの下に来ていたのだった。
( 六 )
坂と名の付く通り、緩やかに上がっていく道の両脇に立ち並ぶ桜の木々が、道の中央に張り出し、覆い、そこに桜の花びらの雨を降らせていた。
わずかな風にすら踊るように枝が揺れ、ハラハラと薄桃色の渦が巻き起こる。
誘われるように駆け出したヒカルは、ポカンと口を開けて辺りを見回していた。
それに続くアキラも、ヒカルの反応に満足してから自らもゆっくりと歩を進め、そして景色を堪能していた。
桜自体は、本数も枝ぶりも大したことはない。住宅街の中だし、対面一車線づつの細い道だ。
それなのにここが人を惹き付けるのには、一つの仕掛けがあった。
橋がかかっているのだ。それも、欄干が真っ赤に塗られた橋だ。
それが左右に位置する側道と側道を、車道の上で結んでおり、橋の上からは真下を通る車が間近に見下ろせる。
同時に、春の時期には満開の桜も眺められるという寸法だ。
橋の真紅に、桜の薄桃色が散り掛かって、風情があることこの上ない。
アキラは声もなく見とれているヒカルを促して、側道へと誘い、橋にのぼった。
橋を渡る・・・というよりも、ただこの景色を楽しむためにのぼると言った方が相応しかった。
「君、そこまで盛大に口を開けてると花びら食べちゃうぞ?」
「はぁ〜、桜そのものっつーよりもさ、この橋と桜と、それから月とが全部一緒になって一つの景色なんだな。綺麗だ・・・。」
「うん、綺麗だね。昼間に来たことがあるんだけど、街灯があるから夜も見えると思ったんだ。今夜は月も春らしい朧月だから、予想していた以上にいい・・・。」
しばし、二人して景色の中に身を沈め、心穏やかに美しい時間を共有した。
やがて、ヒカルの口も自然と閉じられた。
そうして、二人の感動の波も凪いできたと思われる頃。先に話を切り出したのは、ヒカルの方だった。
「なあ、塔矢。俺、大丈夫だと思うから、そろそろいいよ。言って?」
「あ?そうか。もう十分楽しんだか?悔いはない、のか?」
アキラは明るく問う。微笑んでさえいる。
「・・・う。お前、その言い方ってさ、もしかして話の後はとても桜どころじゃないって、そういうことを予告してるワケ?」
ちょっと情けない声を出すが、それもヒカルのパフォーマンスだとアキラにはわかっている。
・・・進藤は疑ってもいない。多分、手酷い断られ方はしないと思っている。
長年一緒にいてこれだけ分かり合えているのだから、絶対に悪い方には傾かない。どこかでたかをくくっているのだろうと、アキラは感じていた。
そして当のアキラは、そんなヒカルを少しは哀れに思いつつも、それでも自分の決心を曲げない、曲げられない性分を自覚していた。
それが行き過ぎると、かたくなな自分自身の性分よりも、告白してきたヒカルの衝動の方を恨めしく思うことすらあった。
ともかく、綺麗な景色を眺めながらの会話には相応しくなかろうが、でも自分はここで言いたかったのだからと、アキラは気持ちを前へと向けた。
・・・いや、せめて綺麗な景色でこの場をおさめられるかもと、卑怯なことを思ったのかもしれないな。
アキラは自嘲するように小さく首を振ると、ヒカルの方へと向き直る。
赤い欄干に軽く両腕をかけて、ヒカルはそこにもたれかかっている。そして、アキラを見ていた。
二人の視線が真っ直ぐにぶつかり、その間を花びらが音もなく横切っていく・・・
「進藤。そういう気遣いは僕らの間ではいらないと思うから、はっきり言う。僕は、君と付き合う気はない。今も、これから先も、永遠にだ。僕らは一生このままだ。」
( 七 )
アキラは一気に言い切ってから、息を詰める。ヒカルの反応を見逃したくなかった。
そのヒカルの方はというと。
意外なことに、驚きの声も抗議の声もあげなかった。それどころか、うんうんと軽く頷く顔には、取り立てて表情と言えるものはなかった。
アキラが凝視する中、ヒカルは少しだけ下を向いて、一呼吸置く。
伏目がちな顔というものは、碁を打つ時に散々見ているというのに。碁盤を見下ろしている訳でもなく、焦点が合っていないヒカルの瞳には、初めて見るような不思議な透明感があった。
無、とでもいうのだろうか。
考え込んでいるというよりも、ただ心を無にしているような、静謐な雰囲気がヒカルの全身から滲み出ている。
・・・こんな進藤を見るのは、初めてかもしれない。
それは、本当にアキラの知らないヒカルだった。
二人の間に、今までとは違った空気が流れ始める。時を得て、ヒカルの方から先に仕掛けられた告白劇は、幕が完全にあがって物語は大きく動き始めた。
そしてアキラも、とうとう舞台の上に引きずり出されたのだ。
無言の時間は、長く感じられる。
先に耐えられなくなったアキラが訊ねた。
「進藤。もしかして、僕の言ったことが聞こえなかった?それとも・・・。」
「あ、いやぁ、そうじゃねえよ。うん、よく聞こえた。聞こえたけど、ほら、言葉ってさ、耳には入って来てもそれを頭で理解するのって、時間かかることあるじゃん?」
「そうか。じゃあ、僕の君の気持ちに対する答えはわかってくれたか?」
「気持ち、俺の・・・。」
アキラは、やっと肩の荷を降ろしでもしたかのように、ため息をついた。
そんなことをするつもりはなかったのに、自分でも知らずに緊張していたのだとわかった。
「俺と付き合う気はない、俺のことは一生このまま、友達だってことか?」
ヒカルが淡々と、まるで棋譜をなぞるように話すのが空々しい。いや、棋譜の方がよほど興奮して語り合っているかもしれないと、アキラは思う。
一体進藤は何を考えている?拒絶されたのだと、わかっているのだろうか・・・
アキラはヒカルのぼんやりした反応を見るにつけ、腹立たしいような気持ちが湧いてくる。
きつくヒカルを見据えると、大げさに首を縦に振った。自分の答えをヒカルに突きつけるように、そして、自分の迷いを払うようにだ。
「お前の言ったことはわかった。お前の答えとやらも、よーくわかった。でもそれは、お前が決めたことであってさ、俺の気持ちも、自分の気持ちも無視してるだろう?」
ヒカルは、そこでようやく顔を上げた。目に強い光があって、アキラの心をひるませる。
「じゃあ今度はさ、お前がその答えにどうやって辿り着いたのかを教えて。いや、俺が知りたいのは、塔矢―――お前の本当の気持ちだ。」
ヒカルの言葉が、真っ直ぐにアキラに届く。核心を突かれた気がした。
拒絶の言葉だけでは何も納得出来ないよ。そんなことを聞きたいんじゃない。真実の心を見せてみろ、と。
ヒカルの声がどこか遠くから聞こえてきて、それを目に見えない膜越しに聞いているような変な感じがする。
橋の下をトラックが通り過ぎて起こった風によって、地面から花びらが舞い上がってきた。その小さな嵐に巻かれて、アキラは現実感を失いつつある中で、ふと思った。
進藤ヒカルは、自分が思っていたよりも案外大人なのかもしれない。いつの間にか大人になっていたのは、自分だけではなかったのだ、と。
( 八 )
堪え切れなくなったヒカルの行動を軽率だと苦々しく思い、それは彼の幼さゆえだと決め付けていて、だから応えてはいけないのだと勝手に判断していた。
でもヒカルは案外自分たちを取り巻く現状を把握しており、それは軽率なのではなくて、機が熟したと言った方が正しいのかもしれない。
しかし、一方で棋士同士である自分たちは、そろそろ微妙な時期に差し掛かってもいた。
このまま互いを殺しているうちに、ビッグタイトルに絡んだ対局が増え、敵愾心が全ての柱になるような、そうでなくては勝てないような、厳しい状況に立たされたらどうなってしまうのだろう・・・
特に、挑戦者と防衛する側などになってしまったら、もう自分たちの感情だけでどうこう出来るものでもない。
周りの注目や、碁界を背負っているのだという責任や、色々なものが付随して自由に二人きりで会うことすらままならない期間だって出来るだろう。
「しがらみ」という言葉を使うと暗いイメージになるが、アキラはしがらみの中で生きる、ということも大事だと、あの両親を見ながら育って思うのだ。
そして皮肉なことに、進藤ヒカルと出会ってから、自分は一人ではない、一人では自分の望む碁は打てないと思い知った。
だからこそ、自分の環境と周囲に対して感謝の念を強くしたともいえる。
君が僕をこんな大人にしたんだ、と。時々アキラはその皮肉を噛み締めたりする。
そして。
ヒカルを大人にしたのも、自分との関係だったのだろうかと、ふと思いながらアキラはヒカルを見た。
誤魔化しても仕方ないんだな。君の真っ直ぐな心の受け皿には、僕の真っ直ぐな答えを注ごう・・・
「君を好きだよ。誰よりも大事だと思っている。それはわかっているんだろう。だから君、こんな時にも桜を楽しむ余裕がある。」
そういうつもりではなかったが、ちょっと意地悪く聞こえたかもしれないとも思って、慌てて微笑んだ。
でもとっさのフォローは、更に事態を悪くしたのかもしれない。
ヒカルがむっとした顔を作り、不機嫌を顕わにした。
「ご免。花見とは関係ないな。」
頼りない声になってしまった。
でも、素直な気持ちは伝わったらしく、ヒカルも目元を細めて、いいよ、先を続けて・・・というようにうなづいて見せた。
橋の向こうを誰かが通り過ぎる。その気配が消えてから、アキラはまた話し出した。
「進藤、もっとはっきり言うよ。君が大事だ、誰よりも。愛しているんだと思う。それは僕の態度でも、これまでの積み重ねでも、君はわかっている筈だ。ただ、君が僕に告白してきたようには、僕は同じ重さで好きではないんだと思う。いや、重さというのは、違うか。好き、好意の、種類というのかな?」
「小難しいことを言うなよ。そんな理屈ぽく考えても仕方ないじゃん?俺は、お前を好き。恋人になりたい。もっと言うなら、それは性的なことも含むよ?キスしたい。抱きたい。最後まで行き着きたい・・・当然だろ?」
出来るだけ抽象的に会話を進めたかったアキラの意図は、簡単に打ち砕かれる。ヒカルは焦れて、話を進めたがっているのだろう。
もう、そんな種類の単語が会話の中に出てきてしまうとは・・・そこまで赤裸々に話さなくてはならないのか。
それはアキラには気の重いことだった。
出来ればヒカルに諦めて欲しいと思っている自分には、決して触れたくない方面でもあった。
( 九 )
認めるのが、どこか辛かった。
ヒカルを好きで一番大事でも、自分がそういう対象としても見られて、はい、そうですか、では体も込みで愛し合いましょう・・・と、いきなり全てを開けるものではなかった。そんなに単純ではなかった。
余りにも大切過ぎてこのままでいたいアキラと、大切だから後悔したくないと進んだヒカルと。
二人は反対方向のベクトルを抱えていたことに、この夜とことん話をして、その果てに気付くことになる。
ヒカルの言葉に溜息をつくと、次にアキラは不快感を顔いっぱいに表して言い返した。
「進藤。君は僕と一生一緒にいたいと言った。それには、ただ碁を打つ相手だという意味以外もあるのもよーくわかったよ。じゃあ僕の方からも聞きたいが、君はどうして碁を打つだけでは満足出来ない?僕らはそれで十分だった。僕は、これからもそれで十分。それ以上の関係はない―――最高の関係だと思っているよ。」
「今が・・・今の俺らの状態が、最高ってこと?碁のこと以外を混ぜたら、不純にでもなるっていうの?」
「不純、というのとは、また違うかもしれない。碁と、それ以外を上手く切り離せたらいいだろう。でも、出来るのか?僕らが男女だったら、まだ楽だったかもしれない。過去にタイトルホルダー同士、もしくはそのレベル同士の結婚はあった。でも僕らは男同士で、今、君が軽々と口にしたような行為の数々をだな・・・その、簡単に出来るものかと思うよ。それは物理的なことだけじゃない、もっとメンタルなこともひっくるめて言ってるんだ、僕は。男女だったら当たり前の役割分担が、僕らの間では出来ない。これ以上言わせるつもりか?」
「そんな先まで考えて始めるもんかよ。好きは好きだ。それだけだ。体のことは、実際やってみないとわかんないじゃん?」
「だからっ!体のことだけじゃないって言ってるだろ?体と切り離せないメンタルだって・・・君、理解しているのか?それとも、あくまでも自分の尺度でしか物事をはからないつもりか?実際って、そんなことよくも言えるな。今、最後までって言ったのは君の方だぞ。君がそんなことまで想像してると思うと・・・。」
やっぱりこんな話をするには抵抗がある。
ほとんど怒鳴っていたアキラの声が次第に萎んでいき・・・とうとう言い澱んでしまった彼の横顔が、ライトアップされた桜を背景にすると、一層儚げに見えた。
そのせいか、ヒカルの中の攻撃的な面が強く刺激されたらしい。
「じゃあ、本当にキモイかどうかやってみりゃいいじゃん?ほら、来いよ―――」
・・・え?と、アキラが意味を把握して反応する前に、ヒカルが動いた。
手を引かれて、二人して欄干にもたれかかる格好になる。
重なった胸。回された腕。首筋にヒカルの息がかかって、アキラは驚きの声をあげる前に、白い喉を反り返らせて全身を震わせた。
期待以上のアキラの反応がまた、ヒカルの背中を後押しする。
「春とは言ってもまだ寒いもんなぁ・・・こうしてるとあったかいだろ?全然ダイジョブだろ?」
「進藤!はな、せ・・・人が見るっ!」
「暴れると、俺、この橋からおっこちまうぜ?頭打って、碁を打つのもおじゃんになったらどうすんの?」
「君はっ!知るもんかっ!離せっ・・・。」
もがくアキラの黒髪が、ヒカルをなじるようにその頬を叩く。
だがヒカルは愛しい者を抱く腕にますます力を込めて、掠れた声で言った。
・・・やっぱ、想像していたよりうんと幸せ・・・心が一瞬でいっぱいになっちゃった・・・お前が好き・・・お前で溢れそう・・・ああぁ、塔矢っ・・・・・
( 十 )
ヒカルの声が、アキラの平常心をたちまち奪ってしまいそうになる。本当に幸せでたまらないといった声だ。何の計算も、含みもない。
今、手の中にある幸せだけを味わっている人間は、こんなにも、聞く者の心まで溶かすような声を出すものなんだと。
アキラは、ヒカルの邪心のない気持ちの前に、抵抗する力を失っていった。
ヒカルの鼓動と、自らの鼓動の重なりが、ひどく生々しい。その重なった部分から、ジワジワと熱が広がり始める。
そこへまた、ヒカルの一段と甘さを増した声がした。
「ほら、ね?お前も俺をあっためてよ?安心して俺のところまで、来いって・・・。」
こんなに密着していながらも、「俺のところまで来い」と言うヒカルの気持ちが、切なく、痛かった。
抱き合ってはいても、アキラの腕はヒカルの体の表面に軽く掛かっているだけで、積極的にヒカルを抱いているのではないことが明らかなのだ。
ああぁ・・・進藤は矢張り、僕が思っていた以上に、人の気持ちをはかれる深さと余裕を持っているんだな・・・
アキラは、ヒカルの成長に密かに感動する。
今夜初めてお互いの真意に踏み込んで話をしてみて、ずっと感じ続けていたヒカルへの敬意をあらためて噛み締めつつ。
それでもアキラの結論は変わらなかった。
むしろ、これだけ大人ならきっと進藤も自分の気持ちを理解出来るだろうという方向に、アキラの気持ちは向いたのだった。
ヒカルの腕を振り解くのは、力を持ってしてもいい。ビンタの一つもはってやれば堪えるだろう。
しかし、アキラは体の痛みに訴えるのではなく、ヒカルの心に一撃を与えた。
ヒカルの腕の中の甘い心地を、初めて味わう幸せであり、離し難いものだと強く思いながらも。
塔矢アキラはどこまでも、塔矢アキラだった―――
「進藤。君はご両親のことをどう考えている?君は、一生女性とは結婚しない、子供も作らない、家庭を持たないと、ご両親に言えるか?」
アキラは、ヒカルが良く聞こえるように、その内容を理解出来るようにと、ゆっくりと言葉にした。
それは、期せずして自らの心にも波紋を起こす。
言葉を繰り出しながら、両親の顔が浮かんだ。自分を慈しみ、導き、そして全てを受け入れてくれる両親。
特に父親に関しては、世間一般の父子関係とは違った要素を持っていることを、アキラは時に負担に感じ、時に無上の幸せと感じて生きてきた。
それは、今の自分を自分たらしめている大事な、欠くべからず要素だ。
感謝、などという簡単な言葉では言い尽くせない。この時代、この人の息子に生まれて、これほどの幸せがあるだろうか。
だからこそ。アキラにとって、両親の幸せを考えることは、いつしか自分の将来を考える上での大事な条件になっている。
腕の力が少しだけ緩んだと思ったら、ヒカルの声がアキラの肩越しに聞こえた。
「お前、それは禁じ手だろうが?俺たちの間では・・・。」
先ほどまでの温もりを感じさせる、丸みのある声はどこへ行ったのか。固い、どこか刃物のような鋭さを忍ばせて、ヒカルは答える。
やがてゆっくりと顔を上げ、アキラから身を離した。
出来た隙間を、待ちかねたように薄桃色の花びらが横切る。それはヒカルとアキラ、二人の間を、優しく、しかしはっきりと二つに切り裂いて、分けた。
春の夜の空気が、一気に冷え込んだ気がした。