―EVERLASTING COLORS―
( 1 )
夏の強い日差しが傾いて、真昼よりも退色した長い影が庭にたくさん出来るこの時間が、僕は好きだ。
気だるい夕方の空気の中、それを吹き払い涼気を呼び込むようにと、蛇口を捻り、握ったホースの口から勢いよく水を放出する。
まず、最初の瞬間が好きだ。
急速に冷やされることで、昼間の日差しに晒されて全てが眩しかっただけの白い世界に、一気に色が戻ってくる感じだ。
草木は息を吹き返すように青々と輝き、小さな花たちは僕の目を楽しませてくれる。
庭の草木にこうして夕方水をまくのは、僕と、僕の小さな息子と、僕らの同居人の仕事だった。つまり、今この塔矢の家に住んでいる、全員の仕事だった―――
「ただいま〜。」
背後から間延びした声がしたので、振り返る。僕は蛇口に近寄って、少し水圧を下げた。彼の声が良く聞こえるように。
「おかえり。早かったな?今日はそのまま会食かと思った。」
「ん?ああ、まあね、指導碁の後、一杯どうですかって誘われたけど、いっつも付き合ってる相手だし、今夜くらいはいいさ。」
進藤はそんなに汗っかきでもないのだが、今は額に沢山の汗の玉が浮いていた。多分、駅からの道を急いで帰って来たのだろう。今日はバイクじゃなかった筈だ。
「ねえ、ヒロはもう行っちゃったんだよな?」
「当たり前だ。昼前だったよ。あちらも待ち切れなかったんだろう。」
「ふう〜ん……。」
拗ねてる。進藤は拗ねているんだ。淋しいとか気になるとか、そういう大人が子供に対して抱く感情じゃない。
三歳の子供に置いていかれて、いい歳をした彼の方がうんとその状況が納得出来ないのだ。
「…君に置手紙があるよ。真尋から。食堂の卓袱台の上だ。」
「ええっ!?ホントッ!?アイツ〜、可愛いことするじゃん?」
進藤は一目散に縁側から家の中に入る。靴が脱ぎ散らかされて、片方が僕の方まで飛んで来た。
……よっぽど嬉しいんだな。真尋に手紙を書かせておいて、本当に良かったと思った。
今朝、進藤が家を出る時も大変だった。
普通だったら、進藤が真尋を保育園に送って行くのが先のことが多い。だけど今朝は玄関で二人して、仕事に行く彼を見送った。
進藤は何度も真尋に話し掛け、約束事を確認し、指切りを交わし、抱き締めた上に感極まってキスまでして、あっさりした性格の三歳児に目の前で頬を拭われてショックを受けたりしていた。
全く、親ばかというのはこう人間のことをいうのだろうかと、本当の親である僕の方がウンザリするほどだった。
水撒きを終えて食堂に入ると、進藤がまだ手紙を見詰めていた。
僕の気配を感じたらしいが、顔は上げないままポツリと言う。
「……塔矢ぁ、アイツ、考えてみたら字なんか書けねーよな。これ、何だろう?アイツ、一体何を書いたんだろうなあ?」
「君の顔だって言ってたよ。ヒカルのお顔〜とか言いながら、楽しそうに描いてた。」
「俺の〜っ!?この黄色いぐちゃぐちゃはもしかして俺の前髪かっ!?丸が一杯描いてあるのは何だろ?目とか鼻とかのつもりか……シュールだ……三歳児の絵はわかんねえ……。」
言葉とは裏腹に、進藤の顔はほころんでいる。
―――あ、もしかしたら、目尻に光るあれは………ああ、進藤、頼むから……泣くな!!泣かないでくれ!!……君は一体いくつだ!?
僕は溜息を押し殺しながら、祈るような気持ちで同居人の横顔を眺めていた。
今日は真尋を送り出す為に、先方が僕の休みに合わせて迎えに来てくれたのだ。
三歳と言っても、彼は来月にはもう四歳の誕生日を迎える。
あちらに泊まりに行くのは初めてだが、これまでも何度も逢っているし懐いているしで、心配はなかった。僕の方は。
問題は進藤だった。
彼がこの家に一緒に住むようになってから、真尋がいなくなるのは初めてだ。
僕らは地方の仕事でどうしても家を開けることがあって、必ずしも毎晩真尋と一緒に居られた訳ではない。そんな時も、彼は何度も真尋に電話をしたり、さっさと切り上げて来たりして(紙袋一杯のお土産付きで!)親馬鹿ぶりを発揮していた。
進藤は心から僕の息子を可愛がってくれている。真尋も彼が大好きだ。
そして、そんな二人の関係に満足して、僕ら三人のバランスに快く甘えていたのは、誰よりもこの僕自身だった。
そのことを僕は、嫌というほど思い知ることになる。この夏の出来事で……。
「晩御飯はもう出来てるよ。さっさと手を洗って来い。君、縁側からここに直行しただろう?」
「ん、ああ……わ〜かったよっ!」
彼は、くしゃくしゃと手紙(正確には似顔絵らしきもの)をたたんで封筒に入れると、無造作にそれをポケットに突っ込んだ。
わざとそうしているのだ。本当は頬ずりしたいくらい、その手紙を大事に思っているくせに。
僕の手前、格好付けたりして。…彼らしい。
夕飯はマーボー豆腐だった。食卓には他にも、サラダとおすましと辛子明太子が乗っている。
「わ、これ見るからにいつものと違うじゃん?色が黒い…何だか辛そう。」
「いつものって、君が市販のマーボー豆腐の素を使ってお手軽に作る、あの甘口の辛くも何ともないヤツのことか?」
「お前、そんな嫌そうに言うなよ〜、だってあれだったらヒロも食べられるだろ?アイツ、あの甘口が好きなんだよ〜。」
「だから今夜は大人向けの味にしたんだ。香りのいい胡椒をたっぷり使って本格的な味に挑戦してみたんだから、絶対に美味しい筈だ。」
君が辛いもの嫌いじゃないのに、小さい子供の為にこのうちでは我慢していることを知っていたからと、それは口にしなかったけれど―――
「塔矢…。」
そんな僕の気持ちをどう受け取ったのか、進藤はいただきますを言うと、それきり黙々と食べ始めた。顔を伏せ気味にして、不機嫌を装っているらしい。
ふと、明太子に箸をのばそうとして訊ねて来た。
「この明太子、もしかして…。」
「そうだよ、先方からの頂き物だ。特上品みたいだよ。」
「…これ、食いたくねえ……。」
「はあ?…君、大好きじゃないか!?」
「いいの。俺はこの明太、食わねえ。」
「進藤…明太子にあたってどうする?馬鹿じゃないのか、君は…。」
「食わないって言ったら、食わないの。別にいいじゃん。そうしたいだけなんだから。ヒロがここに戻って来るまで、あっちからの貰いモンには手を付けない。アイツが帰って来てから食べる。…そう決めた。」
「ふ〜ん、じゃあ頂いた最高級の大吟醸もいい具合に冷えてるんだけど、君は呑まないんだね?」
進藤がぐっと詰まる。やっと顔を上げて、僕を睨み付けて来た。
一拍置いて、僕は吹き出す。どうにもこうにも今日の彼は可笑し過ぎる。彼が拗ねるのをこの十数年、何度も見て来たけれど。
その原因が僕の息子にあるなんて、本当に僕らは何て遠いところまで来てしまったんだろう……。
出逢った頃からは想像も出来ないほど、僕らは大人になってしまったんだなと……急に切なさが押し寄せて来た―――
「笑うなっ!塔矢。お前〜、からかってんじゃねーよっ!」
ティッシュペーパーの箱が飛んで来た。
僕に当てようとしたんじゃなくって、僕の頭のほんの少し脇、絶妙の場所を通過していくのがわかっていたので、ちょっと首を傾げただけでやり過ごす。
進藤はこういう加減が、上手い。……ちょっとはずすとか、力を抜くとか。
いつの間にかそういうことを覚えて生きてきた彼を、些細な日常の中に感じる。
そう……物理的なことだけじゃない。心の距離を測って、丁度いい間合いをとることが、本当に上手いんだ。
それは、彼が真尋と一緒に居るのを見ている時にも感じることがある。
ベタベタと溺愛しているのは本当だが、僕が一緒に居る時といない時では微妙に自分の立ち居地を変えている。
僕の前では、あくまでも本当の親よりは口出ししないという線引きをしていて、例えば僕が真尋にお説教をしている時には、その場からさり気なく消える。
そのクセッ!……二人で居る時には、やたらと猫っ可愛いがりしている。後から真尋がこっそり教えてくれるのだ―――今日ね、ヒカルとこんなことちたんだ〜、楽ちかった、とか、ヒカルがこう言ったんだよ、可笑ちいの〜って―――。
男の子なんだからさ、多少は荒っぽいことをしてやる方が喜ぶんだぜ〜と僕に教えてくれたのも、進藤だった。
僕の父はそんな風に遊んでくれる人ではなかったし、それに不満を感じた記憶もなかったから(父は僕にとっては、二歳の時から既に師匠だった。)進藤が自分の子供時代の記憶を僕に共有させてくれるのが、役に立ったりもした。
彼には、本当に感謝しているんだ。本人に告げることはなくても―――
「ね?ヒロはいつ帰ってくるんだっけ?」
僕に相手にされないと悟って、進藤は何事もなかったように食事を再開させた。……でも、明太子には箸を付けようとしない。全く……。
「何度も言ったじゃないか?一週間後の……。」
「そ〜んなのはわかってんのっ!その日の何時頃、どうやって帰って来るのかってことだよ。俺、すぐに逢えんのかなって。」
「はっきりは聞いてないな。前日にでも連絡があるだろう。それに、特に決めてなくても真尋の様子次第では早くなるかも、遅くなるかも……。」
「お前って本当に冷静だよな。……ヒロがあんまり楽しくってさ、あっちに居ついちゃってもいいの?」
「それはないだろう?だっていくら彼にとってあちらは祖父母だとしても、ここが彼の家だし、保育園だって碁だって好きなんだし。」
―――それにこの家には、君がいる。真尋の大好きな大好きな『ヒカル』が……。
「でも、そのぉ……じいちゃん、ばあちゃんはさ、アイツを引き取りたいって、今でも思ってるんだろ?」
進藤が箸を止めずに、普通にその話題を続けた。
「それは……千尋が逝った時に、もう解決した問題だ。」
そう―――真尋の母、そして僕の妻だった人は、病気でこの世を去ってしまった。僕ら二人を遺して。
そして真尋はこの夏、初めて神戸にある彼女の実家に泊まりがけで遊びに行ったのだ。
―――それはつまり。
進藤と僕が、真尋がいないこの塔矢の家で、初めて二人きりで過ごすということを意味していた。
進藤と僕の、長く、熱い、そして一生忘れることの出来ない、運命の夏が、その一週間が、今、始まろうとしていた―――
夕飯の後片付けは進藤がやってくれた。
先にお風呂に入って戻って来ると、縁側で煙草を吸っている彼に出くわしてびっくりする。
「あ、ご免……この家では吸わないって、同居を始める時の約束だったな。でも一本だけ、いい?」
「ああ、今夜はいいよ、部屋の中で吸わないでくれれば。」
「うん、この縁側で月、見ながらにする。ゴメンな。」
「いや、いいんだ……真尋の為に禁煙にしてるんだから、あの子がいない時はそんなに気にしないでも。」
「……どうしてるのかな、アイツ……ちゃんと食べたかな?」
煙をゆっくり吐き出しながら、進藤がポツリと言う。紫煙が、夏の夜の気だるい空気の中に溶けて、やがて見えなくなる。
進藤の視線は庭に向けられていたけれど、心はどこか遠いところにあるのだ。多分、東京からうんと西に行った港のあるあの街に……。
「進藤、電話したい?」
「親のお前が言い出さないのに、どうして俺がしていいのさ?」
意外にすぐ、答えが返って来た。進藤らしい答えだ。思慮深さとは縁がなさそうに見えて、実はそうではない。
「お前だって、してないんだろ?」
「うん、昼間のうちに無事に着いたという電話はあったんだけど、従兄弟達と一緒で楽しそうだった。でも夜はマズイと思う。寝る時に声を聞くと里心がつくだろう?」
「そっか、そうだよな。あっちからもないってことはそれでいいんだろ。」
「淋しそうだな?」
「塔矢〜、また俺にものを投げられたい訳?」
「止せ。火が危ないじゃないか。」
「お前さ〜、俺のことばっか気にしてるけど、自分自身はどうなんだよ?」
「まだ一晩目じゃないか。これから一週間どうする?」
「ああ〜、そうなんだよ。夜はいつもアイツと打ってたろ?ついつい九路盤に目が行っちまって。」
「じゃあ、代わりに親の方と打ってみるか?」
「え?親って……え、え、お前打ってくれるんだ?」
途端に進藤の目が見開かれ、夜目にも眩しく輝く。……現金なものだ。
「久しぶりだな、一緒に住んでいても最近お互い忙しかったから。」
「よっしゃあ〜っ!!今夜はとことん打つぞ〜っ!!いいな、塔矢、付き合えよ!?」
「はいはい……。」
朝は僕が、夜は進藤が、真尋に碁を教えていた。まだ始めてそんなに経ってないので、九路盤を使うことが多い。二人から教えられてあの子はどんどん上達していた。
「あ、でもお前、髪の毛乾かして来いよ。夏でも簡単にドライヤーしておいた方がいいぜ。俺が準備するから。」
「じゃあちょっと待っててくれ。」
「髪って言えばさ、ヒロのヤツ、神戸で従兄弟連中に苛められてないかな?オカッパオカッパ〜ってさ?」
「進藤!オカッパって言うな。大体君のせいだろう?僕が何度もあの子の髪を短く切ろうとしたら、絶対に邪魔して来て!」
「はっはっは〜、世にも珍しい親子カッパ…あ、ごめ、親子オカッパだったな…それは貴重でしょう!?」
「親子……そんなことを言うなら、あちらで床屋に行かせるぞ?いくら君でも神戸まで行って真尋の散髪を阻止することは出来ないだろう!?」
「わっわっわ〜、塔矢様、許して〜、それだけはっ!ヒロが帰って来てオカッパじゃなかったら俺、失神する……。」
「馬鹿な……髪なんかすぐ伸びるのに。」
相手にするのが馬鹿らしくなって、鼻でフフンとあしらった。まだ何か言いたげな進藤を残して、僕は立ち上がる。
「進藤、ライターを投げるのは止めろ。さっさと碁盤の準備をしておけ。」
―――今夜は君が淋しさを忘れるくらいに、何局だって打つよ―――
……心の中だけで、そう呟いた。
その夜―――
進藤と僕は、気楽な感じで打った。
時計を使わなかったが、出来るだけ長考はなし、公式ではないのだから、いつもとはちょっと違う手を打ったりもして、のんびりとした対局になった。
都会の夏の夜は、なかなか昼間の熱気が去らない。ただ今夜は僅かながらも風がある分、縁側で外気にさらされながら打つのも悪くはなかった。
ぴしり、ぴしりと、一手打つ度に、音が響く。
時折風が庭の木を揺らして、通ってゆく。同時に、生ぬるい夏の夜の大気が、僕らの間をすり抜けていった。
「部屋で打つ時とさ、ここで打つのって石の音、違うよな?反響がない分、こう鈍い音っていうかさぁ……。」
「そう言われればそうかな?外で打つことってないからな。」
「……なくなったんだよ。昔……俺らがまだ若かった頃はさ、結構出掛けた先で打ったりしたじゃん?流石にマグネットのやつだから音とかは出ないけど。」
進藤が、碁盤から顔を上げないまま、さり気ない口調で言う。
昔、俺らが、まだ若かった頃―――
進藤が一体どれだけ昔のことを言ってるのだろうと、僕は一瞬、考え込む。高速回転するみたいに時間が巻き戻され、僕らが最後に外で打ったのはいつだろうかと必死で記憶を手繰り寄せる。
でも残念なことに。
僕は思い出せなかった。進藤と僕がまだ独身で、二人だけで出掛けたりしていた頃、最後に外でマグネット碁盤を使って打ったのなんて、思い出せる訳もない。
「そうだったかな?外で打ったりも……していたか……でも、本当に大昔のことだな……あんまり思い出せない。」
例えば―――中身の見えない袋に手を突っ込んで、目指すものを感触だけで探るかのように、どれだけ必死で進藤との思い出をこの手に掴もうとしたのか、そんなことを悟られないように大変用心深く、僕は言葉にした。
それを、もしかしたら彼は余りにも素っ気無いと感じたのかもしれない。
友達なのに……昔も今も、僕らはずっと友達でいるのに……誰よりもお互いをわかっている、大事に思っている友達でい続けているのに。
「そっか。覚えてないのか……つめて〜な、お前は!結婚する前は、ホントよくつるんでたのにさぁ。ちいちゃんに出逢ってからは、お前全然付き合い悪くなったもんなぁ……。」
ぴしり、と。進藤が放った一手に息を呑む。
「あっ!……そこは……んー……やられたな!」
「へっへっへ〜、いくらお遊びでも、手抜きはいたしませんって!」
恨みは、盤上ではらすとでも言うつもりか。
急所への一手に僕は小さく唸りながら、自然に体が前のめりになる。碁盤を覗き込むような体勢で次の手を考え込んでいる僕に、進藤が静かに言った。
「外っていうんじゃないけどさ、変わったところで打ったこともあったよな。……ちいちゃんの棺の前で。」
―――ドキリとする。とっさに返答が出来なかった。
碁盤に視線を落としていて、良かったと思う。進藤と目を合わせないで済んだから。
「あれも不思議な経験だったよな。この家の座敷にあの子のお棺が置いてあって、夜通し線香を絶やさないようにって……二人でその前で碁を打った。」
進藤の言う通りだった。
彼と僕は、亡くなった僕の妻の棺の前で、二人きりで彼女に付き添う傍ら……一晩中、碁を打って過ごしたのだ―――
追憶は、怒涛のように僕の中に流れ込んで来ては、心を押し流そうとする。
……ぴしり……ぴしり……
一手一手、盤面の交点が石で埋め尽くされていく中。
僕は、見下ろすその宇宙に引き込まれて、時間を遡ってゆくのだった―――
僕の亡くなった妻千尋は、元々病弱だった。
忙しく不規則な碁打ちの妻、人の出入りの多い塔矢家の嫁が彼女に務まるはずはないと、誰もが僕らの結婚に難色を示したし、千尋の家族も、彼女が卒業したら神戸の実家に連れ戻すつもりでいた。
しかし。
学生生活最後の年に、彼女は僕と出逢ってしまった。そして東京に残ることを決めたのだ。
僕にとっても、初めての恋だった。
小さい頃から弱かった彼女は、生きることに静かな情熱を注ぎ、それでいて心の奥に諦観を併せ持っていて、いつも不思議な透明感に包まれていた。そんな女性に出逢ったことのなかった僕は強く彼女に惹かれ、彼女も僕という人間を理解し愛してくれた。
反対を押し切る形で結婚し、すぐに男の子が生まれた。
塔矢の家では男子には母親の名前から字を貰うことになっているので、千尋から一字を貰って真尋と名付けたのは、僕だ。
出産も子育ても彼女には負担だったのだろう。最後の半年はあちこちが思うようにならず、寝込むことが多くなり……
命の火を燃やし尽くして、彼女はとても穏やかにこの世を去った―――
進藤とはずっといい友人だった。
彼も独りではない時期がほんの僅かあったが、千尋が亡くなった時には既に独りに戻っていた。
彼女の亡骸の前で打とうと言い出したのは、僕の方だ。
……本当にいいのか、俺なんかが一緒に居ても?……本当はお前、二人きりでたくさん話したいことがあるんじゃねーの?……そう遠慮していた彼も、最後は僕の願いを聞き入れてくれた。
彼女が一人で淋しくないようにと、僕らは碁を打ちながらも時折彼女の顔を覗き込んだり、線香を絶やさないよう気を付けたりしていた。辺りには、線香の柔らかく、懐かしさを誘う香りが漂っていた……。
―――静寂の中で、僕らの石を打ちつける音だけが、響く―――
その音を、誰よりも愛していたのは、千尋だった。
妊娠中もお腹の真尋に、わざわざ聴かせたりしていた。生まれてからも、この音を聞くと良く眠ってくれる気がするの、生まれる前から知っている音だからかしらと、笑っていた。
そんなことを進藤に語りながら、ゆっくりと打っていたら。
それは、静かに始まった。
彼の方から流れて来る空気が何となく変わった気がして、ふと見ると肩が小刻みに震えていた。俯いていて、表情は見えない。声もなく彼を見ていると、ぽたりと。
―――碁盤の上に、雫が落ちた。
進藤の目から溢れたそれは、言うまでもなく涙だった。
十代の半ば、最初の北斗杯で号泣した彼を見て以来、僕が目にする二度目の進藤ヒカルの涙だった―――
やがてそれは激しくなり、彼が袖で拭っても拭っても止まらない。鼻まで啜り始めた彼に、それでも何と言葉を掛けていいのか僕にはわからなくて。
知らない人が見たら、僕ではなく進藤の方が遺された家族だろうと思うかもしれない。
そんなくだらないことしか、浮かばなくて。
涙で汚さないようにと、碁盤から少し体を離して声を殺して泣き続ける彼に、こう言うのが精一杯だった。
「君の番だよ……次の一手は?……それとも投了するか?」
……その時には、もう僕の声も微かに震えていた。進藤はそれには応えないで、ひたすら涙を零し続けた……。
「あの晩さ、俺がちいちゃんの前で何を話したのか、お前にはわかんねえだろうな……。」
「……え?」
進藤の唐突な一言に、僕の回想は破られた。
碁盤から顔を上げて、進藤を見る。胡坐をかいて、片足に頬杖を付いて、目を伏せている。
……長い睫が、何度か瞬きに合わせて揺れた。
20代も後半になって僕らもそれなりに老けたのだろうが、進藤はずっと二十歳そこそこに見られて来た。
僕よりも背も高いし、体格もいいのだが、如何せん―――顔が童顔だ。大きな茶色の瞳に、少し上を向いた低めの鼻。髪型も相変わらず前髪を金色にしたままだから、軽く見られるのも一因だろう。
でも、いい男になった―――それは誰が見ても、同意するところだろう……。
真尋と一緒にお風呂に入るのは、進藤と僕と、ほぼ一日おきだ。
どうしてヒカルの方が腕の力こぶが大きいの、とか、肩幅が広いの、とか、太腿が大きいの、とか。
お父さんよりも、ヒカルの方が毛がいっぱ〜いと言われたこともあったっけな……。
子供は正直だ。他にも色々と、そう、色々と聞かせて欲しくないことも報告してくれた、と―――余計なことを思い出す。
進藤の言葉の内容は、十分僕を身構えさせる鋭さを隠し持っていたのに。
目の前の彼の様子が余りにもくつろいでいたから。
とてもこれから大事なことを告白するような雰囲気は、感じられなかった。
「千尋の前で君が何て言ったかなんて、わかる訳もないだろうが。あの晩の君の泣きっぷりは凄かったしな。新品のティッシュを、一箱使い切る勢いじゃなかったか?シャツの袖もグチョグチョのガビガビで……洗濯が大変そうだった!ふふふ……。」
「げ〜、そんなことまで覚えてやがる!ホント、お前はちょ〜ムカつく奴だよっ!ふんっ!!」
手近にモノがなかったせいで(碁石を投げてはイケナイと真尋に教えていたし)今度は進藤の足が、碁盤を回り込むようにして僕の方に伸びて。
正座していた僕の腰の辺りを、ゴン……と叩いた。
「うわっ……足でするなっ!失礼な奴だな〜、君こそちょームカつく……。」
わざと彼と同じ言葉で返しながら、僕は少し動揺していたが、それを彼に気取られるのだけは避けたかった。
内心では、あっという間に胡坐を解いた進藤の素早さや、柔軟性に驚いていたのだ。加減はしていたのだろうが、足先の力も骨に響くほど強かった。
きっと今取っ組み合いをしたとしても、僕はもう、進藤には力では勝てないだろう……。
しなやかに、そして逞しく成長した彼の心と体―――全てが眩しくて、羨ましい。
それは、碁とは切り離した場面でこの頃僕に打ち寄せてくる、誰にも語ることの出来ない感情の大波だった。
「そういうムカつくお前にはな〜、絶対に教えてやるもんか!俺がさ、あの晩、ちいちゃんに何を誓ったかなんてさ……。」
「……誓ったのか?千尋に……。」
誓う―――なんて重たい言葉を何気なく使う彼を、もう一度見た。しっかりと、見た。
でも、さっきと変わらぬだらしない格好に戻った彼は、碁盤の向こうから悪戯っぽく言って来ただけだった。
「いつか大きくなったヒロには教えてやってもさ、お前には一生、死ぬまで言わねーからな……絶対に、言わねえ……。ほらっ!さっさと次の手を打って来いよっ!ここで投了か〜、トーヤセンセ〜イ?」
進藤の言い方は、心底憎たらしかった―――
進藤の含みのありそうな言い方に、僕の嗜虐心がくすぐられたらしい。
真尋がいないのだから、例えばここであの子に聞かれたくないオトナ同士の話をしても、今夜は大丈夫だという気安さもあったのだろう。
僕は、進藤の過去に関する部分に、世間話のような口調で触れた。
「そうそう、言い忘れてたけど……この前、パーティに行った先で日高先輩に会ったよ。隣の部屋でお医者さんの集まりがあってたらしい。…あ、今は日高じゃないのか。」
「へえ……由梨に逢ったんだ?元気そうだった?あ、今はね……あ、れぇ〜、何て苗字になったんだっけ?アイツ、仕事でも旧姓のまんまだから、こっちも覚えらんねーよ!」
何でもないように、碁盤に視線を落としたまま進藤は受ける。昔の知り合い……せいぜい、昔の彼女のことを語っているような雰囲気だ。
ふ〜ん、僕からの逆襲にはやられるもんかと、踏ん張ってるんだなと思った。
別に苛めたいわけではないけれど。
のんびりと打ち続けながら、何となくその話題が続いていく……。
「もうお子さんがいるんだってね?そんなに経ったんだ、再婚されてから。びっくりしたよ。」
「ああ、女の子が去年生まれたって言ってたっけ。由梨に似たら結構可愛いだろうな〜、あ、でも性格はキッツ〜イかもな〜、ははは……。」
「そんなこと言うもんじゃないよ。仮にも自分の元奥さんに対して。」
「も、三年以上も前のことじゃん?俺のことなんてすっかり忘れてるって。」
「そうかな?ちゃんと訊かれたよ、君はどうしてるかって。だから答えておいた。僕の子供も君によくなついているし、君も僕以上に父親面して面倒見てくれるって。」
「そ………。」
言葉通りだった。僕は、進藤ヒカルがほんの一時期妻にしていた女性に、僕らが今、どんなに幸せで欠けたところのない日々を送っているのか―――そのことを、強く印象付けようとした。
進藤の元妻は、僕の海王中時代の二年先輩に当たる女性だ。一学期だけ在籍した囲碁部で、僕とも関わりがあった。
日高 由梨。それが彼女と僕が出会った頃の、彼女の名前だ。
進藤は何かのアマチュアの碁の集まりで日高先輩と再会し、電撃結婚をした。
その頃、僕も新婚だった。同い年のライバルである二人はこんなことまで張り合っていると、碁界では揶揄されていたらしい。
日高先輩は医者になっていた。美人女医として雑誌の取材なども受ける華やかな年上の女性との結婚は、進藤らしくもあった。
20台前半の進藤ヒカルは―――。
僕とは対照的に如才なく振舞うことを覚え、誰からも一目置かれるような男性だったから、当時は伝説的にモテていた。棋院側も今迄こんなに一般に注目された棋士は扱ったことがなくて、対応に苦慮していたようだ。
ところが。
世間から注目されたお似合いのカップルの結婚生活は、僅か一年ももたなかった。離婚の後は、こういう旧態依然とした社会では当然彼はよく思われない。
華やかなスタートだけに、その呆気ないほどの終幕が口さがない人々の格好の的にされていたっけ……。
「進藤?君の番だよ。」
今度は僕のネタ振りによって、彼が追憶に沈んでいたのかもしれない。
碁笥に突っ込まれたままの筋張った大きな右手が、彫像のように動かなくなって。
……長い時間が、経っていた。
「由梨……アイツ、他にも何か言ってた?」
やっと言葉を発したと思ったら、その微妙なニュアンスを誤魔化すかのように。言い終わると同時に、進藤がパチリと石を置いた。
ここまでは、先程の厳しい一手のせいもあって彼が優勢だったが。
今の一手は何だ?進藤らしくない、迷いのある手だと思った。むしろ、もう真剣に打つ気はないみたいだった。
「何だ、今のは?」
「へ?今のって……由梨のこと?」
「違う。この、君の石だよ。長考した割には平凡な手だ。それとも他のことを考えていたのか?」
「お、お前がイケナイんだろうがっ!?繊細な俺にさぁ、盤外の揺さぶりを掛けやがって!!昔のオンナのことなんか持ち出されたら、俺みたいなヤツはね、想い出に涙を絞るわけよ〜。」
「ふざけるな。……もうこの碁はおしまいにしよう。正直、今日はもう眠いよ。神戸からも連絡はなさそうだし。」
「へ〜い、そうだな……俺も今日は暑かったから、外歩くだけで疲れたし。」
僕らは、黙々と片付ける。おやすみと言おうとしたら、進藤はもう一服だけしていくと言う。対局中は遠慮していたらしい。
ライターの火を煙草に移す瞬間。
進藤の長い睫が伏せられて。
右手に負けないくらい大きな左手―――それは進藤がいつも扇子を握りしめる手なのだが―――が、風を避ける為にさり気なく火を覆う。
その手の向こう側で、煙草の先端が赤くパアッ……と光って。
……一呼吸置いて、進藤がうまそうに煙を吐き出した。都会の、星のない夜空を見上げる。
今度は、煙草を挟んだままの右手で、前髪を鬱陶しそうに掻き揚げた。器用だなと、ぼんやり思う。
一連の動作が、この縁側で見るには慣れなくて変な感じがするのに。
でも、彼を取り巻くアンニュイな雰囲気の全てが、僕を惹き付ける。
近寄りがたくて……それなのに、そこから離れたくはない。もっと、君を見ていたい……。
「進藤。」
「ん?」
「日高先輩とは一言挨拶を交わしただけだよ。すぐに別れた。大した話もしていないよ。」
「ふうん……そっか。元気そうだったなら、いいんだ。おやすみ。」
「おやすみ。」
「神戸のヒロ〜〜〜っ!!お前にも、おっやっすっみ〜〜〜っ!!」
近所迷惑は止めろ。大人気ないな。……僕らは笑いながら、真尋のいない初めての夜を終えようとしていた―――。
しかし―――進藤に僕が言ったことは、大嘘だった。
僕は彼女に誘われるままに、その晩待ち合わせをして二人で飲んだのだ。
「ヒカルとはね……再会したその日に意気投合しちゃって……ううん、再会っていうのも可笑しいくらい、彼との接触はあの中学の囲碁大会だけだったものね。初めて出逢った日……そう言った方がいいかもね!?……中一のヒカルなんて、本当にお子ちゃまだったからなぁ……ほっぺプクプクで背も低くて声も甲高くって……ふふふ……。」
ホテルのバーで、彼女は少し酔っていたのかもしれない。
「でも怖ろしいくらいにあなたのことを、塔矢アキラを意識していたじゃない?あなたの方もそうだったけど。そういうことをヒカルとはたくさん話して笑い合って、その懐かしさに二人とも凄く興奮していたのね……。」
先輩が、いや、進藤の元妻であった人が、昔話を続ける。
「ヒカルとは、そのままホテルに行ったの。彼は……激しかった……とても、激しかった……私を、何度も何度も……抱いたわ……。」
まるで―――聞きたかったことを、聞かせてあげているのよ?……とでも言いたげな彼女の微笑が、僕には何故だか……痛々しかった。
そんな話を聞きたくてご一緒した訳ではありませんと、そう言って席を立つことも出来たのだが、僕はそうしなかった。
本当はこんな話を日高先輩にさせるべきではないのかもしれないのに……僕が聞いていい話ではないのかもしれないのに……。
進藤のことを知りたいという浅ましい欲望の方が、理性をしのいだ―――。
「でもね、そのうちわかって来たんだけど……ヒカルはあの頃、あんなに騒がれている割には、全然遊んでなかったのよ。多分……女性経験は殆どなかったと思うわ。勿論私が感じただけなんだけど……。初めての夜も後から思えば、ぎこちなくて慣れてなかった。その時はお酒が回ってるせいかな〜って思ってたけどね。」
僕は何と返事をしていいものか、相槌すら打っていいものか、わからない。
「普通男の人って、することだけが目的……みたいなトコあるでしょ?ヒカルは逆だった。何というのか……その前後の方が大事みたいで。最後までしなくて、ただ抱き合って触れ合って話して……そういうのが好みだったみたい。凄く甘えん坊で……人肌を恋しがっているようだった……。」
彼女の瞳は、どんどん遠くを見ている。目の前の遠くじゃない、もう四年以上も前の遠い遠い月日を―――。
「今ならわかる……あれはね、誰かを待っていたのね。ヒカルは、どこか別のところにいる大切な人を待っていたのよ。待っているって表現はもしかしたら的確じゃないかもしれないけど。でも私にはそう思える。ヒカルは何かを待って、だから誰とも付き合わずにいたんじゃないかなあ……。」
待っている……進藤が……誰を……何を……いつから…………
「そう。私も今だからこそ認められるのよ。ヒカルがそれほどまでに胸に大事に抱えている何かがあったとして……どうして、私とあの晩寝たのかなぁ?……確かに私たちは思い出話に興奮していた。ヒカルはあなたのこともたくさん訊いてきて、私も知ってることを話した。勿論それ以外も話題にはのぼったけど……昔話ほど……青春只中の、もっと未熟だった頃の自分を知る人と話すことほど、盛り上がるものはないでしょ?」
「そうですね。そういうこともあるでしょう。」
頭のいい女性だ。きっと、進藤が思っている以上に、彼女はちゃんと彼を知っていたのだ。
でも知れば知るほど、それは別れへの助走にしかならずに―――。
プライドの高いこの人は凄く苦しんで……最後は潔く決断したのだろう。
「ヒカルに夢中になっちゃったからね〜、私もどうしても彼が欲しくなって結婚してって頼んだの。ふふふ……ヒカルにしてみればセックスまでしちゃったから、責任を感じて付き合ってくれていたのかもしれないけど。ほら、意外と生真面目な面があるってわかったし。でもその頃はそれなりに彼も私を大切にしてくれてたのよ?」
「知っていますよ、進藤は先輩を愛していました。それは間違いないですよ。だからこそ結婚したんです。……進藤はいい加減な人間じゃない。」
断定的に言ってから、微笑む。すると彼女も嬉しそうに笑ってくれた。
「ヒカルの待ち人が、いつか彼の元へ来ることを……今は素直に願ってるわ。」
だって私は今とても幸せだし、彼にもそうなって欲しいからと、一層明るく言う。彼女が昔から持っていた華やかさは、ちっとも損なわれていなかった―――。
僕はこのところ、少しづつ、気が付き始めていた。
進藤の僕に対する想いには、世間の常識やありきたりの言葉では括れない、何かがあるのかもしれないと……。
一夜が明けて、真尋がいない二日目の朝も快晴だった。
朝から急激に気温が上がり、今日も暑くなりそうだと食卓で進藤と話す。窓から見える日差しは、既にギラギラという形容詞が似合いそうなくらいだった。
朝は面倒だから、前の晩の残りのご飯がなければ洋食で、それぞれが用意する。先に起き出した方が、大抵は相手と真尋の分も用意するが。
今朝は先に起きた進藤が、目玉焼きとサラダを用意していた。
……勿論、明太子は食卓に上っていない。
「俺、今日はイベント、そいで明日は大阪で手合いだから遅くなるよ。」
「え?あっちで泊まらないのか?社が君と飲みに行こうと思ってるんじゃないの?」
「う〜ん、次の日午後から仕事だから泊まりは止めとこうかなって。社と飲むとエンドレスだからさ〜。」
「もう若くないのに、相変わらずだな。」
「でもアイツと飲みに行くと、店のネーチャンのサービスが違うんだよ〜、イケてるヤツは違うよな〜……むぐ……。」
トーストを頬張りながら言う。
ほっぺた一杯に詰め込んで膨らんだ様子は、ハムスターのようで可愛い。こういうところは、十代の頃から変わらない子供の進藤の名残で。
よく両親が中国に行きっ放しで淋しいだろうと泊まりに来てくれた十代の頃、こうして無邪気にモノを口一杯に頬張る彼を見て、行儀が悪いとか見た目が気持ち悪いとか、からかったりしたな……。
今は真尋が、時々進藤にそっくりの仕草をして僕をドキリとさせることがある。
それだけ―――
進藤が真尋に対して大きな影響力を持っていること。
それはすなわち―――
進藤が、僕の息子のことをとても大事に、心を込めて育ててくれていることの証だとも思えた。
「ん?どした?……塔矢?」
「あ、ああ……君の食べる様子を見ていると、真尋を思い出した。最近、似てるよ、君とあの子の食べ方。」
「な〜んだ、親父の方が先に淋しくなっちゃった〜?アイツのこと思い出して、しんみり〜とか?へへへ……。」
「変なこと言うなっ!そんなんじゃない。さっさと食べて行けば?僕も棋院で仕事だから。」
わかったよ〜と言いながら口の中のものを飲み込んで、一気に野菜ジュースを飲み干す。
僕は朝はコーヒーだが、進藤は家では余り飲まない。コーヒー飲むと、煙草吸いたくなっちゃうから、とか言っていた。
「な、良かったら今夜も寝る前に打とうか?それで……明日もさ、俺がそんなに大阪からの帰りが遅くならなかったら……打とうか?」
「え……。」
「いや、疲れてたりしたらいいんだけど。一応約束しておこうかなって。」
はにかんでいるような言い方だった。
僕の方を見ないで、食器をわざとらしい音を立てて片付けている。でも彼が、僕の答えを背中で待っているのは、痛いほどわかった。
「今日も僕が先に帰ってると思うけど。待ってるよ。一週間、出来る限り打とうか。折角真尋の世話がなくて大人だけの時間なんだから。」
ぱあっ……と。
進藤の横顔が明るくなったのが、微かに見えた。
僕の心までも明るく照らされたような気がして、温かい気持ちになる。
進藤は、昔もよくこういう顔をした。
もう一局打とうか……碁会所でも棋院でも。出掛けた先でも。僕の一言にワクワクし出す彼。
隠しもせずに全身から喜びを発散させていた彼は、暫く僕の人生から失われていたもの。
そして。
真尋のおかげで取り戻したものかもしれない―――。
困る。可笑しい。こんなのは、どこか違う。
真尋がいないだけで、いつもと何も変わらない朝なのに。
どうして昔のことばかり、思い出してしまうのだろう…………。
「じゃあ、出来るだけ早く帰って来るからなっ!」
いつもそうだ。僕が物思いに沈みそうになると、進藤が掬い上げてくれる。
今も。
進藤の、それこそ庭に咲いた真夏のひまわりのような笑顔が、僕にまで元気をくれる。それは、前へ前へと進む力だ。過去を過去として、大事にすることも含めて……。
真尋のいない夜を、碁が埋めてくれる。
そういう風にして、僕らの間にはいつも必ず、何か守るべきものがあることを確認しつつ、それに安堵し、同時に縛られても生きていくのだろう―――。
進藤は外での仕事だったが、僕は棋院だった。
通りすがりの廊下の角。その向こう側で会話が聞えた。僕が自販機にお金を入れようとしていると。
「……だって、アイツもそろそろ再婚しても可笑しくね〜じゃん?」
「でも、塔矢の家で子供の面倒見てるだろ?簡単には塔矢家を出られないんじゃ……。」
「何でだよ〜、塔矢の子供じゃんか?元々進藤には面倒見る何の理由もないじゃん。」
「うん、まあ確かに。でもすっかり親バカになってるから、あれは当分離れられないだろう。」
声から察するに、和谷君と伊角さんのようだった。進藤とは院生時代からずっと親しい二人だ。
僕は出て行きそびれて、そのまま自販機の陰で息を殺した。
「一緒に住むって言い出した時は、信じらんなかったよな〜、どうしちまったんだって。いくら塔矢が奥さん亡くして子育てシンドそうだって、子供を奥さんの実家に預ければ済むことじゃん。事情通なら誰だってそう言ってたよ。それをいくら友達だからって。」
「うん、あれは驚きだった。別に進藤は子供好きには見えなかったし。塔矢ともさ、結婚してからはつるんでなかっただろ?お互いタイトルも争う関係だったし。」
「俺はね、アイツが急に結婚した時もあっちゅー間に離婚した時もあんま驚かなかったよ。上手く言えないけど――そういうことをしそうな危うさ……みたいなものがあの頃の進藤にはあった。」
「そう言えば……あの頃はプライベートが荒んでたもんな〜、俺たちも随分バカなことに付き合わされて……。」
「え〜、伊角さんはまだ奥さん持ちだからマシだったよっ!俺なんか進藤にどれだけ……う〜、思い出すとムカつくからよそう。……でもさ、塔矢と一緒に暮らす、子育てを手伝うって言い出した時は……それどころじゃないくらい、かなり頭に来た。」
「和谷、怒ってたモンな〜、真剣に。」
「そう、めちゃくちゃ怒ったよ、進藤に。お前にそんなこと出来る訳ねえから、人に迷惑掛ける前に考え直せって。どこまでバカやれば気が済むんだって。」
「進藤のこと、殴ってまで止めさせようとしたのには……びっくりしたけど。いい歳して手まで出すんだから、和谷も……ははは……それでももっとびっくりなのはさ、そこまで周りに言われても親友のお前に殴られても、進藤が自分の意思を通したことだな〜、それが今迄続いているんだから……感心、いや、感動モノだな。」
「まあねぇ……進藤のヤツ、俺がどんなに眼を覚ませって殴り付けても、それでも決めたって強情だったモンな。参ったよ……。」
「うん、一時期の不安定さが嘘みたいに、今はプライベートも碁も落ち着いてるし。結果的には塔矢との同居が功を奏したんだろ。」
「それは表向きだよ。進藤は、もうあの家を出たがってるって。だからさっきの話に戻るんだけど。」
「ああ、進藤がお前のマンションに空き物件がないか聞いて来たって話?」
「そう。塔矢の家を出ようって物件捜してるみたいだぜ。」
「へえ……。」
財布を握ったままの指先が、少しづつ冷えてゆくのを感じる。……どうして聞えてしまったのだろう。
二人はまだ話し続けそうだったが。
これ以上はいけないだろうと、そっと僕はその場を離れた。
仕事を終えて、帰途につく頃―――。
澱んだ生温い空気が息苦しいくらいで、空には黒雲が垂れ込めていた。
夕立が恋しい。
いっそ滝のような雨が降って、全てを押し流せばいいのにと思う。
進藤が、僕の家を出ようと考えている。
そのことは、全く想像しない訳ではなかった。いつか来る日だとも覚悟はしている。まだ若い彼は、いくらでも再婚のチャンスがあるだろう。子供のいる僕とは話が全然違う。
でも今現在、彼に付き合っている女性がいるとは到底思えない。
仕事以外のプライベートは、殆どと言っていいくらい真尋の為に費やしているのを知っているから。
駅からの道を家に向かう。
真尋の好きなケーキ屋の前を通ると、ああ、もうすぐ彼の誕生日だ。ケーキの予約をしなくてはと思い出だした。毎年、この店のケーキを頼む。子供の好きな絵を描いてくれるのだ。
去年は何の絵だったっけ?……そうだ。彼が好きなアンパンマンの絵だった。
でも、アンパンマンだけでなくバイキンマンも好きだと面白いことをいうので、両方描いて貰ったんだ。
どうして?……と問うと、二人がいいの〜、だって囲碁も二人で打ちゅから〜、まひろにもパパが二人いゆから〜、と言って。
そこで進藤が、俺はお前のパパなんかじゃね〜、勝手にパパにすんな〜とかふざけて、真尋のことを抱き上げて振り回したりくすぐったりして、彼が息切れするほど笑わせていた。
今思うと……あれはきっと誤魔化していたのだ。
真尋に、パパと呼ばれた嬉しさだとか。僕に対する遠慮だとか。いつも一歩だけ、僕よりも下がっていようとする姿勢を貫いている。
今年は何がいいと言うだろうか。
最近では、色々なテレビも観るようになったし、テーマパークにも進藤と三人で出掛けるし。
ヒーローものにも、興味を持ち始めている。男の子は、いつまでも平和なだけの物語には飽きてしまうのだろう。冒険だとか、闘いだとか、血が騒ぐのかなと思う。
去年も、一昨年も、進藤が居てくれた真尋の誕生日―――。
今年も当然いてくれると思っていた。多分、今年までは。でも、来年は?その先は?
真尋も大きくなれば、僕らが一緒に住んでいる理由はなくなる。
大事な子供の成長が、進藤との別れを近付けていくのだとしたら……。
まただ。
真尋のことだけを考えようと思うのに。
帰ったら、真っ先に神戸に電話しよう―――今ほどあの子の声を聞きたいと思ったことはない。
誰が去っても、真尋だけは僕に残る。
あの子を、僕の手で立派に育てる。あの子に、父が僕にしてくれたように碁を教えていく。
本来それは、僕一人ですべきことなのに、今は進藤に頼り切っている自分が情けなく思えてくる……。
……ポツンと。頬に感じて見上げると、とうとう降って来た。
あれほど待ち侘びた雨だったのに。
それがまた僕を、追憶へと誘うことになろうとは……。
進藤が僕の家に来て同居を提案したのは、千尋の初七日も済んで暫く経った頃だった。
その日も、夕方から激しい雨が降り出していた―――。
「進藤っ!?どうしたんだ、いきなり……わあ、ずぶ濡れじゃないかっ!?」
「ごめ……バイクで来たんだけど、途中から降られちまって……。」
「早く入って。今タオルを持って来る。それから風呂場に行った方がいい。」
「待って、塔矢!ヒロはどうしてる?」
「真尋?たった今昼寝したところだよ?暫くは起きないと思うけど……。」
「棋院で今日、お前が休みだって聞いたからヒロと一緒に家にいるかなって……急に思い立ったんだ……驚かせてご免。」
「それはもういいから。」
僕は突然の訪問に戸惑いを覚えながらも、彼の為にタオルを用意し風呂を沸かそうとした。
しかし進藤は、体を拭いただけで風呂はいいからと上がり込んでしまった。
僕が差し出した温かいお茶を、卓袱台にほお杖を付いて有難そうにすする。
ひとごこちついてから、彼はボソッと言った。
「な、ヒロが寝てるなら、打ってくんない?」
何の為に君は来たんだと問い質したい僕の気持ちは、進藤の濡れそぼった前髪の向こうの、暗く、不安定に揺らぐ瞳に、飲み込まれてしまった。
―――僕はいいよとだけ答えて、碁盤を用意した。
外では相変わらず、激しい雨の音がしている。
僕らが石を打ちつける音すらも、掻き消されてしまいそうだった。
……多分。
打つことで、自身を落ち着かせるのだ。大事な話を切り出す時の緊張感を、和らげたいのだ。
僕も碁打ちだから、進藤の気持ちがわかるような気がした。
張り詰めた時間が過ぎて………進藤が漸く切り出したのは、もう手が随分進んで、そろそろ真尋が起き出すかもと僕がそわそわし始めた頃だった。
「なあ、塔矢。俺、ここに居てもいいか?」
「……ん?そりゃあ、雨が止むまで好きなだけ居ればいい。何なら、泊まって行ってもいいよ、真尋も喜ぶだろうし。」
「いや、そうじゃなくて。」
「え……?」
「そうじゃない。今日の話じゃねーよ……ずっと、この家に居たいってこと。ヒロと……お前と一緒に……。」
「それって……君がここに住むということか?」
「うん、そう。ここに住まわせてくんない?」
「進藤……それは……。」
「……ここに居たいんだ―――。」
進藤の声は、静かだけれどきっぱりとしていて、雨音を押し退けて僕の耳まで、いや、心にまで届いた。
彼の瞳には、強い輝きが宿っている。もう先ほどの迷いは見られなかった。
余計な説明は、一切いらない。
彼のその様子から、僕には全てが察せられた。多分彼は噂を聞いたのだろう。
千尋の実家が、孫を引き取りたいと申し出ていることを。
そして、回りからどんどん意にそまぬ方向へと流されそうになりつつも、僕がギリギリの線で踏ん張っていることを。
進藤が僕に同居を申し出てくれたその瞬間―――
それまでの数ヶ月、この降りしきる雨に閉じ込められた夜の空気のように、にび色に染まっていた僕の世界に。
久しぶりの、明るい色が。
希望という名の明るい色が、一滴落とされ。
その雫の起こした波紋が、やがて僕の世界を新しい色に塗り変えていく。
それは、進藤と僕の、新しい関係の始まりだった―――
進藤に何度も気持ちを確かめ、では試験的に数週間から始めようと彼が少しの荷物で転がり込んで来てから、二年以上が経った。
最初の話はどこかに立ち消えて、進藤の荷物がどんどん増えていくのに比例して、彼の姿は、僕ら親子の日常の風景の中に溶け込んで行く……。
そして最近では。
進藤が寝ぼけまなこでおはよーと頭を掻きながら台所に来ては、朝の一局を打ち終わった僕らの横に座って、真尋と一緒に子供番組を観ながら「よぉ、今朝は父ちゃんをやっつけたか?」と憎たらしい口をきくほどまでになった。
最初こそ僕らの周りは―――中国に完全に移り住んでしまった僕の両親や、離婚して間もない進藤を心配する彼の両親、それから棋院関係や―――やきもきして見守っていたようだが、僕ら二人が余りにも普通に過ごしているので、認めざるを得なかったようだ。
普通……というのは、御幣があるかな?
外では、変わりなく……という程度で、内実、三人での共同生活は大変だったのだ。
ただ進藤と僕と二人きりではない、必ず間に真尋がいて、しかも彼はまだオムツをして言葉もたどたどしい年頃だったから、僕らは必然協力し合うしかなかったというだけで。
僕らがどんなに揉めても。険悪になっても。
子供が泣けば即時休戦だし、病気になれば二人して胸を痛めながら看病する。
子供の笑顔に全てのわだかまりを溶かされたことだって、一度や二度ではなかった。
どうしても二人ともが仕事で面倒を見られない時は、結婚した市河さんや進藤の両親に頼ることだってあった。
でも流石に四歳も近くなってくると、保育園に行っている時以外の時間は僕らだけで何とかなるようになったし、最近では真尋本人も格段にしっかりして来ている。
そういう僕らの不思議な共同生活を、遠くからずっと見守り続けている人たちがいた。
亡くなった妻の家族だ―――。
千尋の両親は健在で、義兄家族も一緒に住む神戸には何度かお邪魔したことがある。従兄弟が5人もいるので、彼には本当に楽しい場所らしい。
何度も真尋を引き取りたい、その方が僕の将来にもいいだろうと申し出てくれていた。
勿論、その度に断わってきた。真尋が自分の意思でこのうちを出て行く年頃になるまで、僕は絶対に彼を手放す気はなかった。
千尋に約束した訳ではない。
先のことは一切口にしないまま、ただ僕にありったけの感謝と愛だけを伝えて彼女は逝った。そういうところが、彼女らしくて好きだった。
自分の気持ちを押し付けない、ただ、僕がその時の状況に応じて自分の信じる道を選択すればいいと。
真尋を手放すのも、心が痛む。一緒に暮らすのも困難。どちらを選んでも、年若い父親である僕には、険しい道だ。
そのことを彼女はよくよくわかった上で、僕に選択を委ねた。
碁だってそうだ。
碁打ちは無数に或る分岐点で迷い、しかし自分の思う道筋を辿るべく、最善の一手を選ぶ。
例え、その段階では上手くない手に見えても、その先に深い読みが隠されていることだってある。
人生もきっとそうなんだ。
おそらく僕にとっては、最初で最後の血を分けた子供である真尋。
何があっても、身近で彼の成長を見ていたい……。
今は碁打ちとしても伸び盛りで、他のことに神経を割くべきではないと忠告する人もいたが、そんな話を耳にすると、決まって進藤が言ってくれた。
―――塔矢……失くしてから気が付いても遅いよ―――
使い古された言葉も、普段は軽そうに振舞っている彼が言うと、かえってずしりとその重みを感じた。
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家に着く頃には、雨足が強まっていた。
塞がった気持ちのまま家に入ろうとすると、鍵があいている。てっきり僕が先だと思っていたのに……。
「お帰り〜っ!!え、とうとう降って来たんだ?わ〜、洗濯モン洗濯モン!!」
進藤の声だけがして、それからバタバタと縁側に走っていく音がする。プンッ、と台所からいい匂いがして来た。料理をしていたのか……。
「手伝うよ。」
「お、サンキュ。今夜な、激辛カレーにしたから。お前、昨日から〜い本格マーボー豆腐にしてくれたろ?上手かった〜、だから今夜も暑気払い兼ねてうんと辛いヤツッ!!」
どうせヒロはいないんだしと呟くと、僕に洗濯物を押し付けるように渡す。
日向の匂いと洗剤のほのかな香りが入り混じって、両手一杯の乾いた衣類の塊から立ち昇った。
生活の匂い……進藤と僕と、真尋の三人分の衣類から漂ってくるそれは、僕の幸せの象徴だ―――。
「ご飯の準備してくるから、畳むのはお前担当ね〜。」
また、バタバタと僕の前を走り去って行く。その後姿を追いながら、ぼんやりと洗濯物を畳んだ。
まだ昨日旅立ったばかりなので、真尋の衣類もあった。勿論、進藤の下着だって一緒だ。
同居を始めた頃はお互いに気兼ねして別々に洗濯機を廻したりしたが、そのうち非効率なので一緒にすることになってしまった。
「何だよ〜、俺のパンツに変なモンでもついてんの?」
……はっとなる。
いつの間にか背後に進藤が立っていた。僕は自分が手にしていたものを見下ろして……。
「相変わらず派手な柄だな。趣味が悪い。」
「お前に言われたかないねっ!」
座っている僕の肩甲骨辺りを、進藤の膝がトンッとこづいた。ちょっと前のめりになってしまい、髪が揺れる。
「君、最近足癖が悪いな〜、昨日も確か……。」
「それヒロの靴下……あれ〜、片っぽしかないじゃん?どっか落としたかな?」
「進藤っ!誤魔化すなっ!そういう足癖は真尋が真似するから……。」
「へえへえ〜、明日、庭を捜すか〜、その電車の柄、ヒロのお気に入りだからさ。…そういや、神戸に持って行くって言ってなかったっけ?」
「あ、本当だ、あの子もその靴下荷物に入れてくれって言ってたのに……忘れた……。」
「あ〜、お前〜、今頃あっちで電車の靴下〜って泣いてるかもしんないぜぇ?」
「そうだっ、神戸に電話しようと思ってたんだっ!」
「あ、俺も出たい〜。」
二人でワイワイ言い合いながら、電話のある玄関に向かう。
まずは僕が挨拶をと思いかけてみるが、呼び出し音に続いて留守番電話になってしまった。家族全員で出掛けているのかもしれない。
……仕方なく、僕らは先に夕食を済ませることにした。
普段通りに片付けて順番に風呂に入り、座敷で今夜の一局を始める。
その前にもう一度神戸に掛けたが、矢張り誰も出ないままだった。
「……ん〜、今ひとつ、調子でねー……。」
「夏バテか?」
「そうじゃねーよ。ヒロと話せると思って期待したのに、二回もスカでさ……ちょっとなぁ〜。」
「かかっても来ないからよっぽど楽しんだろう。いいことだよ、帰りたいって泣かれても困るし。」
「お前ってホントーに冷静なのナ?それって父親のゆとりってヤツ?」
「さあ、どうかな。だってどうせ帰って来るんだから。」
「……帰って来なかったら?いや……帰して貰えなかったら?」
![]()
―――外はまだ雨が降っている。
夏の典型的な夕立かと思っていたのに、どうやら台風が接近しているらしいのだ。
進藤の意味深な問い掛けを、雨音に紛れて無視しようかどうか―――僕は、次の一手を考えるふりで、しばし沈黙を決め込んだ。
しかし彼は、僕を逃がすつもりはなかったようで。
「……俺、知ってるんだぜ?お前……見合いをすすめられてるだろ?ヒロの祖父さんたちから。」
「進藤……どうしてそれを?」
全く予想外の、一手だった。まさか彼がそこに打ち込んで来て、僕を狼狽させるとは―――。
「ヒロがちょっと前にさ、神戸からの手紙を俺に持って来て、もう一回読んでくれ〜ってせがむから。お前が一度読んで、それで仕舞っていたのを引っ張り出して来たらしいんだ。その封筒に一緒にお前宛の手紙も入ってて……つい読んじまった。あ、勿論ヒロにはそっちは見せてねーけど。」
勝手にご免、でもそんな大事なことが書いてあるとは思わなかったから……そう言って、進藤はうつむいた。
「きっぱり断わったんだろ?それとも、見合いすんの?」
「君には関係ない。」
見合いなんてする訳、なかった。そんなこと、訊かれるまでもない。
―――でもそれを今、進藤には言えなかった。
僕がもう一生結婚する気はないと宣言して彼を安心させるのは簡単だが、それでは進藤をも縛ってしまうことになる。きっと彼は僕が独りを通すなら、自分もそうするつもりだろう。
わかっていた。
もう充分過ぎるほどに、進藤の僕ら親子に対する好意は。
そして、それだけではないということも―――。
「関係ないって……お前、わかってんの?自分の死んだ娘のダンナに見合いをすすめるなんて、魂胆は一つじゃねーかっ!?ヒロが欲しいんだよ!お前にさっさと新しい奥さんを押し付けて、邪魔になったヒロを……。」
「進藤っ!!それ以上言ったら許さないぞっ!!あちらは仮にも千尋の両親なんだっ!!」
「わかってるっ!!悪い人たちだとかそういうことを言いたいんじゃねーんだよ?でもあっちはどうしたってヒロが欲しいんだ……お前からヒロを奪おうとしてるんだよ……俺は……俺が、絶対に厭なんだ……お前とヒロが離れ離れになるのが―――。」
声が、震えていた。膝の上で、ぎゅっと拳が握り締められる。
「塔矢、俺はね……毎朝お前ら親子が対局するの、覗かないことに決めてる。だってそれはスゲー……お前らにとって大事な時間だと思うから……邪魔しちゃいけねえ、神聖な時間だと思うから、さ……。」
「進藤……。」
「俺もずっとずっと昔に……碁をそうやって教えて貰ってた……いつも二人で向き合って、何にも邪魔されずに……そうやって毎日碁盤を挟んで、どんなものにも代えられないものを貰ってたんだ。それは、大事な思い出だから。今の俺の、始まりだから……お前にしか言えない……大事な……っ……だからっ!!」
途中、胸がつかえたように言い澱んだ進藤は、歯を食いしばるようにして何かを耐えた―――。
「お前とヒロが打ち合う光景を、決して誰にも壊されたくない……。」
だってそれは、俺にとっても、命に代えても守りたいものだから―――進藤の言葉が、僕の胸を熱く熱く、焦がすほどに熱くした。
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熱い……胸が、焼けるように熱い………
進藤の気持ちが熱風のように僕を取り巻いて絡めとり、身動き出来なくしてしまう。
嵐のように渦巻く感情に押し潰されそうで、息を継ぐのも辛い。
僕の脳裏に浮かぶ―――碁盤を挟んで向かい合う、少年の日の進藤ヒカルと、彼の秘密の対局相手。
どんな人かはわからない。でも、彼の言葉は真実だ。
言葉を超えた大切なものをその人から受け取り、そしてその人と過ごした時間を宝物のように胸に仕舞っている。
真尋と僕が毎朝、それこそ父が僕にしてくれたように一局打つことを習慣化していることを、進藤が自分とその人との想い出に重ねていたなんて―――
彼が初めて明かした本心を目の前にして、進藤と僕の、どこか因縁めいた繋がりを再び強く意識した。
それは彼との出逢いからずっと……それこそ近くなったり、遠くなったりを繰り返してきたこの十五年もの間、低く、でも確かに僕の心に流れ続けていたベース音のようのものかもしれない。
いつもは耳に捉えることは出来ないけれど、その音が消えてしまったら自分が自分でなくなるような気がする。調和のとれていた僕の人生が、途端に正しい音を奏でられなくなるような気がするのだ。
いつの間にか……。
僕を僕たらしめている、とても根っこの部分に進藤がいる。彼との絶ち難い繋がりが存在している。
「進藤……君には、関係ない……真尋と僕のことに、口を出すのは止めろ。」
―――それでも。
僕はこう言わなくてはならない。
今までもそうだったように、決して進藤の心の奥を覗いてはいけない。
そこにあるものを、僕がもう既に知っていると告げてはならないのだ―――。
「塔矢……お前……関係ないって……俺はお前の何なんだ……今迄一緒に真尋と三人で暮らして来たことは……お前にとっては何の意味もないの、か?」
燃えるような瞳だった。
人は、ずっと溜め込んでいた何かを爆発させる時、本当にこういう切羽詰った目の色をするんだと。
無造作に伸びた金色の前髪の向こうから、真っ直ぐに僕の心を射抜くような熱が放たれている……。
「だから。…それでも君は家族じゃない。僕ら親子には他人だ。」
「塔矢?お前……よくそんな、冷たい言い方出来るな……信じらんねぇ……。」
「君こそ、僕らのことで熱くなるのは止せ。手紙のことは許してあげるよ。でも、もう二度とその話はご免だ。断わるも断わらないも、僕の自由だ。千尋の両親のことも、真尋の将来のことも……口出ししないで欲しい。」
出来るだけ、彼が僕から離れて行きやすいように冷ややかに言おうと努力する。
進藤……怒れ、もっと怒るんだ……僕という人間の冷たさを知って、愛想を尽かせばいい……全てに失望して、ここを出て行けばいいんだ……
だって。
君にはもっと幸せな未来があると思うし、そうあって欲しいと願ってもいるから。
………わかるか?進藤………
僕はそれほどまでに。君に憎まれても哀れまれてもいいと思うほどに。
君のことを―――。
![]()
目一杯投げやりな感じで、今夜はこのくらいにしようと言うと、僕はさっさと碁石を片付け始めた。
はっとなった進藤が、僕の両手を碁盤の上から叩き落とすように払う。
碁石がバラバラと勢い良く飛び散って、僕は思わず身を引いた。力任せに払われた手が、痛い……。
「塔矢っ!!勝手に止めるなっ!!まだ対局中だっ!!今のは……まだ終わる碁じゃねーだろっ!?……それとも、お前は投了したいのか?もうずっと……終わりにしたかったのか?」
碁のことを言っているのじゃないんだよね……君は……。
「…碁石は大事にしろって、君がいつも真尋に言ってるのに。あ〜あ…あんなところにまで飛んでる。」
僕は彼の問いには答えないで、畳みに散らばった石を拾い始めた。背後を振り返ると、障子の近くまで飛んでいた石を見つけたので、身を乗り出し手を伸ばす。
「無視すんなよ……塔矢……。」
声が、暗く、剣呑な響きを含んでいた。
ゾクリとするものを感じて、彼の方に向き直ると。
進藤は、僕らの間を隔てていた碁盤をズイッと横に押しやった。畳を擦る音がやけに大きく聞こえる。
唐突に、二人の間に空間が出来た。その僅かな空間が、僕を心許なくさせてどうしようもない。
多分、僕の瞳は怯えていたのだろう。
進藤は僕を見詰めたまま、まるで追い詰めた獲物を安心させるように、先ほどの声音とは裏腹に柔らかく微笑んだ。でもその微笑みはどこか淋しそうでもあり……。
進藤が、一歩だけ前にいざった。彼の顔が、一瞬にして近くなる。
僕は―――動けなかった。進藤の生み出す熱が更に温度を上げて、彼が僕をその熱気に包み込んで、一気に押し流してしまおうとしているのを感じる。
もう一歩。今度は反対側の膝を、前に出した。
「塔矢……。」
声が切なく、雨音の合間を縫って流れて来た時。
やっと僕は呪縛から解放されて、彼を強く見返すことが出来た。
「…来るな、進藤。それ以上僕に近寄るな。」
「………。」
無言のまま……今度は進藤が僕の言葉を無視して、もう一歩だけ、先ほどよりはもっと大胆に僕に迫った。
僕は、再び二人の間に距離をとろうと、後ずさる。
「進藤、いいか。もう一度だけ言う。来るな。そこから先に進むな。」
……来るな、それ以上……
僕の心に、踏み込むな。僕の心を、君の存在で一杯にするな。
君なしでは成り立たない幸福を、どうか僕に見せないでくれ………。
まるで、睨み合うような状況の下。
すぐそこまで、彼は来ていた。
腕を伸ばせば、しなやかに成長した彼の長いそれならば、もうきっと僕に届く。
そして、その手にほんの少しでも触れられたなら、僕は呆気なく崩れ落ちてしまうだろう。
ずっとずっと見て来た……憧れて来た……共に寝起きする日々の中で……君の全てに惹かれて来た自分を曝け出して……進藤ヒカルの胸に飛び込んでしまうだろう。
その予感は、歓喜ではなく、果てしなく恐怖に近かった―――。
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進藤の息遣いが大きく聞え、僕の目の前で上下した、白いTシャツの胸が生々しく感じられた、その時―――
不意に電話のベルが鳴リ出した。まるで警報だ。
緊張の糸を断裂するように鳴り響いたその音は、僕を救ってくれたのだろうか。いや、それとも救われたのは、進藤の方かもしれない。
後戻り出来ない一歩を踏み出そうとしていた彼を、何かが救ったのかもしれない……。
僕は無言のまま、立ち上がって進藤の横をすり抜けようとした。
……一瞬。
彼の体が揺れて、僕は彼に引き止められるのだろうかと硬直しそうになった。腕を掴まれ、力任せに引き倒されでもしたら、もう抗う自信はなかったと思う。
溶鉱炉のような熱の中心へ、いっそ二人してまっ逆さまに堕ちて行けたら―――
しかし。
彼のアクションは、その一瞬の揺れだけで終わった。何も起こらないまま。
僕は足を止めないで行き過ぎる。
進藤はもう僕を追うどころか、こちらを見てもいないようだった……。
一呼吸置いて、気持ちを落ち着けてから、おもむろに電話に出た。
「はい、塔矢です。」
大丈夫……声はいつも通り……震えてなどいない。
「……おとーさん……僕……。」
「真尋?」
「うん、僕……。」
舌ったらずの幼い声が耳に流れ込んで来て、心を甘く隅々まで満たしてゆく。
どうして。
どうしてこうも、子供の声とは雄弁で、力があるのだろう。
『おとーさん』のたった一言で、もう僕を父親である塔矢アキラに戻してしまう。
豊富な語彙もなく、語る術も僅かなのに、それでも電話越しに痛いほど真尋の存在を感じて、切なさが込み上げてくる。
いや、むしろ手立てを持たないからこそ、ただひたすら声色に、自分の思っていることの全てを込めるしかないのだろう。
真尋……お前は何でお父さんの傍に、今、いないんだろうな………。
「どうしたんだ?もういつもだったら寝ている時間だろう?……神戸のおうちは楽しい?」
「うん……たの、ちい……。」
「そうか。良かったな?お父さんも電話したんだよ、でも誰も出なかったから、きっとお外で楽しいことをしているんだと思っていた。どこかに行って、遅くなったのか?」
「うん……あのね……ゆーえすじぇーに行ったの!!エルモとクキモンスターに逢ってね……パレードちてたのっ!僕、手を振ったんだよっ!」
「そうか、お前は好きだもんな。テレビで観るのと違った?」
「うん、大きかったよぉ〜、おばあちゃんがイッパイお土産買ってくれたの〜!」
「ちゃんとお礼を言った?」
「言いまちた〜、ありがとーって。そちたらね、真尋がもっと一緒に居たら、もっと買ってくれるっておばあちゃん、言ってたよ。」
「……うん、ちゃんとありがとうが言えたなんて、偉いな。もう本当に大きくなったんだな……。」
暫く、真尋と他愛のないお喋りをしているうちに。
たった今まで僕を圧倒していた進藤と僕の絡まり合った行き場のない想いが、嘘のように沈静化されてゆく。
真尋が進藤の名前を当然のように口にした時も、僕は動揺することなく答えた。
「進藤と喋りたい?かわろうか?」
「………。」
「真尋?どうした……進藤と……ヒカルと話したいんじゃないのか?」
「……いいの。ヒカルはいい。……もう寝るね。バイバイ、おやちゅみ、おとーさん。」
彼らしくない返答に驚きつつも、確かにもう遅いし、進藤と喋って興奮させても眠る間際に良くないだろうかと、無理強いはしなかった。
電話を終えて座敷に戻ったら。
……そこに進藤の姿はなかった。
碁盤の上に、二つの碁笥がキチンと並んで乗せられていて、さっきまで辺り一面に散らばっていた筈の石は、もう一つも転がってはいなかった―――。
その夜は、なかなか寝付けなかった。
真尋が神戸に泊まりに行ってしまってからまだ二晩目だというのに。
これから、あと四日は進藤と二人きりだ。
あ、そう言えば。確か明日から大阪に行くと言ってなかっただろうか。
一晩は確実に社に引き止められて帰って来られないだろう。
もしかしたら、休みでさえあればそのままもう一泊は大阪かもしれない。
……それも、いいだろう。
僕がこの家から逃げ出す訳には行かないのだから、進藤の方が暫く家から離れてくれたら。
そう、それがいい。そうしてくれたら。
外は、雨風が強まって来たようだ。
庭の方が騒がしい。進藤と真尋が楽しみに植えたプチトマトの実が、落ちてはいないだろうか。
高く咲いたひまわりは、もろに風を受けて揺れているだろう。2メートル近くも育ってしまい、庭の調和を乱すほどの堂々たる姿だった。
その花が咲いた時、進藤と真尋は歓声をあげて喜んでいたっけ。
進藤も、気にしているだろうか。庭の草木のことを。
……駄目だ。すぐに進藤に結び付けてしまう。
今夜彼と僕の間に起こったことは、全部なかったことにしたいのに。
同じ屋根の下、すぐ近くにいる筈の進藤の存在を、生々しく描きたくなくて。胸の中から消し去りたくて。
真尋のことだけを、たぐるように思い出す―――。
例えば。彼の甘くてほのかに酸っぱいような汗の匂い。
抱き上げると僕の鼻腔をくすぐって、幸福感が胸を満たす。
例えば。僕とそっくりの真っ直ぐで黒々した髪の毛の輝き。
進藤がかたくなにおかっぱを譲らなくて、保育園で女の子みたいだとからかわれては、本人いたく憤慨して帰って来る。
でも、進藤に上手く言いくるめられては、すぐに厭なことを忘れてしまう幼さにも助けられて、今でもそのままだ。
例えば。碁石を掴むと、小さなえくぼの出る、子供らしいふくよかな手。
たどたどしい手付きも愛らしかったが、今ではいっぱしに、打ち込む時にはいい音を響かせるまでになった。
その手が、頼もしくて。愛しくて。
どんどん成長して大きくなって行くのだろうその手を、僕は毎朝盤上で見つめ続けていくのだ。
父が僕にしてくれたように……。
そして、進藤も同じようにしたいと願っているのだと―――そう、信じていたのに。
彼がこの家を出て僕ら親子と距離を置こうとしているのなら、それを引き止めることは出来ない。
むしろ今夜のようにお互いの気持ちが噴き出して、上手く築き上げて来たバランスさえも崩しそうになるくらいなら、一緒に暮らさない方がいい。
きっと、その方がいいんだ……進藤にとっても……僕ら親子にとっても。
そうやって自分を納得させ、今夜、何とか耐えたことに安堵する。
でもそれは見せかけの安定であり、強がりでもあったことを、僕は厭と言うほど思い知ることになるのだ―――。
朝になっても、空は一向に晴れる気配もなく、雨風は相変わらずだ。
僕が起き出す前に家を出たらしい進藤は、食堂のテーブルの上にメモを残していた。
『大阪から帰っても、真尋が戻るまでは実家に居ることにするから。よろしく。進藤。』
書き殴った汚い文字が、切なくて、虚しくて。
……胸が、キリリと痛んだ。
僕は、手紙と呼ぶには余りにも短く素っ気無いそれを、手でぐしゃぐしゃに握り潰すと、未練がましい気持ちと共にゴミ箱に、捨てた。
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真尋が神戸に行ってしまってから三日目の晩は、僕一人きりだった。
朝のうちに鉢物を玄関に入れてしまったが、幸い台風は通り過ぎたらしい。
でも、二つ目の台風が遅い速度で近付いているということなので、そのままにしておく。
進藤が前の晩作っておいてくれた激辛カレーにもう一度火を入れて、食べてみた。
カレーは二日目がいいなんて言うけれど、一人で汗をかきかき食べてもそんなに美味しくないんだなと知る。
機械的に食事をして、片付け物をして、風呂に入った。
真尋のお風呂用おもちゃが、片隅にちんまりと置かれている。
僕は何気に、彼のお気に入りのアヒルを湯船に浮かべて、ぼんやりとその動きを追った。
―――湯気の向こうに、幻が見える気がした。
この同じ風呂に入る真尋と、進藤。
いつも賑やかだ。長風呂だ。きっとこんなおもちゃを必要とするのは、僕と一緒に入る時だけだろう。
進藤と二人で入る時は、もうそれだけで十分楽しくって。
いっぱいお喋りをして、手で作った水鉄砲で遊んで、泡でふざけた髪型をして。
見えなくても、時折聞えて来る風呂場のドアの向こうの幸せな光景。
三日の時間をさかのぼって、今、ここで、それを幻ではなく、本当に見たいと―――叶わぬことを願う。
溢れそうになる熱いものを湯の中に流してしまおうと、僕はザブザブと顔を濡らした。
黄色いアヒルは、僕の起こした大波に翻弄され、引っ繰り返って、溺れた……。
進藤は大阪で社達と飲んで騒いで、サービスのいい店のお姉ちゃん達と、楽しい時間を過ごしているのだろう。
今夜は、真尋からも電話がなかった。進藤からは言わずもがな。
僕は、どうせ朝の一局もないんだしと、寝酒を何杯もあおってから眠りに就いた。
その電話は、翌日の朝早く掛かって来た。
こんな時間に厭な予感がすると思ったら、案の定真尋からだった。
「おはよう。…どうしたんだ?もしかしたらよく眠れなかったのか?おばあちゃんや、他の皆は?」
「みんなは寝てる……僕はね、毎日お父さんと打つから早起きでしょ?だからいつもみんなより早く目が覚めちゃうの……じっとお布団の中でね、みんなが起きるのを待ってるの……。」
その声に元気がないのは、寝起きのせいだけではないとわかったのは、やがて真尋がシクシクと泣き出したからだった。
「どうした?何か哀しいことでも……それとも、もうおうちに帰りたくなった?」
「う……っく……っく……っく……あ、あのね……っく……僕ね……おばあちゃんはずっとここに居たらって言うけど……誰と打っても、た、楽しくなくなって来たの……。」
千尋の家族も碁をたしなむので、真尋は少し年上の従兄弟らと何度も打ったらしい。
既にこの歳で敵なしの彼は、一昨日の電話ではとても得意気にしていたのに。
「僕……お父さんと打ちたい……ヒカルと……打ちたいぃ……。」
小さな胸を痛めているだろう我が子の涙声に、僕の胸もキリキリと締め上げられた。
その時。
ふと、閃いた。
大阪にいる進藤のことが。
今だったら、まだ大阪を発ってはいないだろう。神戸だったら帰りに寄れるかもしれないと。
僕は真尋が落ち着くのを待ってから電話を切ると、すぐに進藤の携帯を呼び出した。
数回のコールの後、明らかに寝ぼけている進藤の声が聞えて、僕は急に全身から力が抜けていくような安堵感に襲われた……。
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「…塔矢?」
「進藤、悪いがもし君が今日東京に戻って来る前に時間があるのなら、真尋の様子を見に神戸に回って貰えないだろうか?」
「ちょ、まって……えっとぉ……今は、朝、なんだよな……。」
「きっと遅くまで飲んでまだ高いびきだろうとは思ったんだが。いや、こんなことを突然……あちらのご両親を快く思っていない君に頼むのは心苦しいんだが……でも、君しか頼める人がいなくて……幸運なことに、君は今神戸の近くにいるし……。」
僕は、どこかが壊れたかのように、一気に捲くし立てていた。
「わーかったっ!!わかったから、塔矢、落ち着いてくれっ!!……最初っから、順番に話そうよ?」
「あ、ああ……すまない……。」
「今は……朝の7時前……俺は昨日、大阪に仕事で来て泊まって……。」
進藤の声が、少しづつ輪郭のはっきりしたものになっていくのがわかって。
……僕も、漸く落ち着いて来た。
「そうだっ、進藤……順番を間違えてたな、僕は…………おはよう。」
「はい、おはようさん、塔矢。」
彼が笑ったのが、電話越しに震えた空気で伝わった来た。
進藤に、真尋から今しがた掛かって来た電話の内容を話していくうちに、気持ちに変化が現れた。何も……忙しい彼を煩わせてまで頼むようなことではないのじゃないかと思えて来る。
そうだ、それほどの大事でもない。単なるホームシックだろうし、四日後には確実に帰って来る、僕の息子は……。
「いや……やっぱりいい……こんなことで朝早くから君を起こして悪かった。」
「こんなことって?真尋のことを心配するの、こんなこと、じゃねーよ。お前……さっきの慌てぶり凄かった……いつもと全然違った。」
「進藤、もう、本当にいいから。」
「待って、気分悪くさせたんなら謝る。そうじゃないんだ……お前って、いつも、父親のクセに堅いところがあるっていうか、冷静過ぎるんじゃねーのかなって思ってたからさ……人並みに取り乱したりすることもあるんだなって……。」
ちょっと安心したぜ……と言う進藤は、優しさに満ちていた。
一昨日の晩は、あんな中途半端にお互いの心をポロポロと見せ合ってしまい、今度話す時は気まずいのではと思っていた。
だから、メモだけを残すという行動で、進藤は僕と距離を置くことを、密かに宣言したのだとも……。
でも、今の進藤はそんな僕の予想を覆すほど、優しく、諭すように、僕に語り掛けて来る……。
「僕だって……普通の父親だよ……。」
くすぐったいような気持ちを抑えて、出来るだけぶっきらぼうに言おうとしたが、進藤にはだから〜、拗ねないでくれよ〜と、また冗談交じりに返されてしまった。
「いいから……お前が俺を頼ってくれるのは嬉しいんだって。それも真尋のことで。だてに二年も一緒に暮らして来たんじゃねえだろ?」
口調はまだ軽いけれど。
言外に。
僕達は、何も築けないような薄っぺらな日々を重ねて来たのではないと、進藤に突き付けられたみたいだった―――。
「今から仕度して、すぐに行ってみる。お前、あっちの住所とか地図とか必要なもん、ここのホテルにFAX送って。それから、俺が行くからってあっちの予定を抑えておいてくれ。」
テキパキと僕に指示をする進藤は、もう一昨日のことなんて綺麗さっぱり忘れてしまったかのようだ。
既に心は、今から真尋に逢えるのだと、そのことに向いているのだろう。
僕は真尋のことを、あの子が心から慕っている進藤ヒカルに、全面的に任せることにした。
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日は終始、落ち着かないで過ごすことになった。
大丈夫、進藤に任せておけば心配はない。彼も、もういい大人だ。
どんなに千尋の家族に対して思うところがあったとしても、ちゃんと真尋の様子を見て、彼を安心させてくれるだろう。
……いや、もしかしたら二人一緒に帰って来るかもしれない。
ああ、それもいい。もう、幼い子に無理をさせる必要はない。進藤と一緒に帰って来たら、思いっきりあの子を抱き締めてあげよう。
手合いを早々に終わらせ、他の誘いも全て断わって、帰途につく。
携帯をチェックしても何もない。家に着いても、勿論誰も僕を出迎えてはくれなかった。
ざわめく心を持て余した僕は、とうとう自分から進藤に電話しようと手を伸ばしかけた、その時―――。
電話が鳴って、僕は文字通り受話器に飛び付いた。
「塔矢……俺だけど。」
「進藤か?ああ、今僕の方からかけようかと思ってたところだ。」
「お前、今日手合いだったろ。終わる頃にかけようと思ってたんだ。今、大丈夫か?」
「うん、もう何もないよ。それより、今どこにいるんだ?真尋は?」
「俺はまだ神戸にいるんだ。台風が近付いてるからノロノロ運転らしいけど、今から新幹線に乗る。東京には遅く着くけど、そのまんま実家に行くよ。親にももう、泊まりに行くって言ってあるから。」
そこで進藤は言葉を切って、少し沈黙した。
話し方はいたって普通だけれど、その普通過ぎる感じが、かえって僕の不安を煽る。
「……ヒロは俺が逢いに行った時、凄く元気だったよ。興奮して、はしゃいでいた。ちいちゃんの家族もみんな俺のことを歓迎してくれて……真尋がいつもお世話になっています、とか何とか……ヒロも向こうの家族に囲まれて楽しそうだった。俺なんかさ、ちいちゃんちがあんなデカいなんて知らなかったから……あの子、本当にいいところのお嬢様だったんだなって、改めてビックリしちまった。家中に、ちいちゃんの写真が飾ってあったよ。小さい時のものから、亡くなる前、ヒロと一緒に写っているのまで、たくさん……。」
あの子は、今でも凄く家族に愛されているんだよな……と、呟いた声が、少し震えていた。
「塔矢、俺もどう言ったらいいか考えたけど……ありのままに伝えるべきだって思うから。言うね。……ヒロと二人きりで話すチャンスがなかなかなくってさ、俺、困ってどうしようかと思ってたら、あっちからお腹が痛いからトイレに行きたい、俺にお尻拭いてくれって言って来て……ピンと来たんだ。ああ、やっぱり何か言いたいことあるのかなって。二人でトイレに行って話したよ。」
「…それで?真尋は何て……。」
「お前のことを凄く気にしていたよ。お父さんに電話なんかして、ご免なさいって泣いた……。」
うっ、と……声を出しそうになって、かろうじて抑えた。唇をきつく噛み締める。
「こっちの家族に、いつでも神戸に住んでいいんだよって言われているらしい。ここはお母さんの育った家だから、ヒロの家でもあるって。それで混乱しちゃったんだよなー、あいつ!もしかしたら、自分はずっとこの家に居るべきなのかなって。……でも、本音では東京の家がいい。当たり前だよな。」
「だってっ!あの子は僕の子だっ!この家で生まれて、この家で育つんだっ!君だってそうするべきだって、言い続けて来ただろう?」
僕の語気の強さに、電話の向こうで進藤が息をのんだのがわかった。
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「……そう、それはそうだって。だから俺も言ってやったんだ。心配するな、お前の父さんは絶対にお前を手放さないからって。もしそうしたかったら、今から俺と一緒に東京に戻ろうかって。そしたら……それは出来ないって言ったんだ。はっきりと―――涙をいっぱいに溜めて―――今自分が帰ったら、おばあちゃん達が淋しいだろう……だから自分は約束の日まで帰らないって……そう言ったんだ。」
「……あの子が、自分で?」
「誰かがそう言わせてる訳じゃない、ヒロは小さいなりに……きっと一所懸命、周りの人の気持ちを考えようとしているんだ……優しい子なんだ。塔矢―――お前がそんな風に育てて来たからだ―――。」
「止めろ……そんなこと言うな……僕は君が言うような、そんな……。」
「俺、ちょっと……いや、かなり感動したかも。こんなに小さくても、人を思いやる心って育ってるんだなって……ほら、この前庭で咲いたひまわり、覚えてるか?確かに2メートルにもなるって種を選んだんだけどさ、でもやっぱあそこまで見事に咲くと、ヒロと一緒に毎日水をやって咲きますようにって祈って、そんなことの積み重ねってキチンと実るんだって思った。……今日、ヒロを見て、話して……アイツ、たった三日だけど、親の傍を離れて、一人で遠くに来て成長してたよ、塔矢。子育ては花を育てることに似ているなって思った。勿論苦労は比べ物にならないけど、喜びも大きいよなあ……塔矢、親になるって、スゲーなあ……お前、本当に偉いよ。それだけ、言いたかった……。」
違う、僕は偉くなんかない、と。そう叩き付けたかった。進藤に言ってやりたかった。
―――君は知らない。
僕は、真尋を見詰めるふりをして、その影で君を見ていることがあるんだ。
真尋の笑顔に癒され、幸福を感じるのと同じくらい、その横で咲く、あのひまわりのような君の笑顔にもどれだけ胸を熱くしているか。
ひどい。僕は、ひどい父親なんだ。誉められるのは……しかも、当の君に……そんなことは、僕にとって苦痛でしかない。
「進藤、僕が一人で育てたんじゃないだろう?君だって……。」
葛藤をかろうじて押しやって、普通に会話しようと必死に努力した。
「違うよ。父親のお前と、俺は全然違う。そんなこと、言うまでもねーだろ。ヒロはお前のこと、父親としても大好きだけど、人としても、碁打ちの先輩としても、心から尊敬してるんだ……あ、勿論尊敬なんて言葉はアイツにはわかんねーだろうけど、俺から見たら、そういう気持ちがいっつもヒロから感じられる……溢れてるよ、塔矢……。」
―――だから、お前はもっと自信を持て。
ヒロがあっちでどんなにちやほやされても、誘惑されてもさ、絶対にお前のところに戻って来るって、堂々としてればいいんだ―――。
たった今まで僕は、後ろ暗く、捻くれた考えに囚われていたというのに。
進藤の言葉は、魔法のようだった。
人に言えない想いを抱えて、引け目を感じている僕の内面を知ってか知らずか。
ただ、真っ直ぐに、向かって来る。僕の心を覆うネガティブな塊を、一気に刺し貫いて。
進藤の愛情が―――真尋と僕に対する、名前の付け難い愛情が―――不思議な力を持って、僕の心の、誰にも許したことのない、深い部分に、届く。
だからこそ。
……もう、これ以上、彼と話すことは出来なかった。
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「ありがとう、進藤。よくわかったから。真尋のことはもう心配ないだろう。きっと、君に逢って元気が出たと思うし。……君も気を付けて帰って来いよ。ああ、台風が来ているなら無理するな。もう一泊したっていいじゃないか。そうだっ、神戸でも飲んだらいい!」
急にテンションを上げて明るく話す僕は、如何にも不自然だったのだろう。
……進藤が、静かに問うた。
「塔矢、お前……大丈夫か?」
「ふふふ……そんな優しい声を掛けるな、進藤。僕はよほど情けない感じでもあるのかなぁ?」
「いや、俺はただ……。」
「じゃあ、気を付けて帰って来てくれ。」
進藤の返事を訊かずに、受話器を置いた。
……やっと進藤から離れることが出来て、どこか開放感すらあった。途端に気持ちがフワフワする感じになって、現実感が掴めないまま自室に戻る。
ああ、本当だ。外はまた嵐になりつつあった。二つ目の台風はゆっくりと、でも確実に本州に近付いているのだ。
もう何も考えたくなかった。一日中心配して、僕の神経はとても磨り減っていた。
今夜こそ、本当に何も考えないでカラッポになって寝たい。そして、明日の朝にはいつもと変わらぬ自分でいたいと思うのに。
―――実際は、眠れそうになかった。
では体を動かして疲れようと、夜なのに掃除を念入りにして、台所まで片付け、洗濯物を丁寧にたたむ。
真尋が残していった衣類は、今日出来上がったばかりの洗濯物にはなかった。
離れて暮らすというのは、こういうことなのだと思った。
その人の生活感に満ちたものが、消えてゆく。その人の匂いや、気配や、その人が醸す空気や色や。
家の中に僅かに残っている、愛する者の痕跡を探したいと思い立って、僕は真尋の部屋へと向かった。
彼を送り出してから、この部屋には入っていなかった。
無意識に避けていたのだと思う。幼い子のホームシックよりも、親が子を求める気持ちの方がやっかいで、手に負えない。
彼の部屋を見渡して、いつもと変わらぬその光景をただ目に焼き付けるようにしていく。
ふと見ると。
二日前の夜、片方だけしか見つからなかった真尋の靴下が、机の上にあった。両足が揃ったら一緒にして洋服ダンスに入れる為に、判り易いように片方だけの靴下は机の上でポツンと置かれ、相棒を待っている。
電車模様の、彼のお気に入りの靴下……。
本当だったら、神戸に持って行きたいと言っていたのに。僕が入れ忘れたばっかりに、今、この主のいない部屋に取り残されている。
僕はその靴下に、そっと指先で触れた。
何度も洗って生地が柔らかくなっているし、毛玉もいっぱい付いている。漂白してもドロのシミはなかなかとれなくて、かかとが薄汚れた感じだ。
……急に、胸が苦しくなった。
いけない。靴下は片方だけでは機能しない。
あの子が帰って来るまでに……いや、今すぐにでも、探さなくては!……この靴下の、もう片方を!
僕は狂ったように彼の部屋をひっくり返し、それでも見つからなくて、家中を探した。
飽き足らないで、庭にも傘を差して懐中電灯を持って、探しに出てみた。
多分、僕はどこかが本当に壊れかけていたんだと思う―――。
この靴下の片方を探し出さなくては、まるで生きてはいられないのではというくらいの勢いだった。
これだけ探してもないのだから、いい加減に諦めるという方向に気持ちが向けばいいのに。
どうしてもそれが出来なくて。
苛立ちを募らせていた時に、また家の電話が鳴った……。
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電話は、いつまでも鳴り響いている。
今は、誰とも口をききたくもない気分だ。無視したかったが、真尋からかもしれないと思うと……出るしかなかった。
「あ、塔矢?もしかしたら、寝てた?」
「進藤……いや、まだ起きてた。」
―――どうして。どうして彼は、こんなタイミングで、また電話して来るのだろう。
彼だとわかっていたら、出たくなかった……。それが僕の本音だった。
「あのさ、今静岡なんだけど、やっぱ新幹線ここで止まっちゃって。今夜は神戸じゃなくて静岡泊まりになりそう。参ったよな〜、まさかこんなところで。ここじゃあ飲みに行く相手もいねーよ、ははは……。」
「台風、そんなにひどいのか?」
「う〜ん、強風に弱いらしいからな〜。雨風そのものはそうでもないって気がするんだけどね。でも運転再開しないんだから、しょうがねえよなぁ。」
進藤が、さっきよりも少しだけ、僕に近いところにいる。
それは物理的な距離に過ぎなかったけれど、僕は何かに追い詰められたような不安な感じを、ますます掻き立てられた。
君はあのまま神戸にいれば良かったのにと、憎憎しく思う。いや、それでも今夜は、これ以上東京に近付けないだろう。
「さっさと宿を探して落ち着くんだな。今日は僕の我儘に付き合って貰って……疲れただろう?ゆっくり休んでくれ。」
「待って、塔矢、さっきみたいに一方的に切るなよっ!!……心配で、俺が眠れなくなるだろう……。」
ドキン……と、鼓動が跳ねた。
ストレートに心配なんて言葉を使われて、いたたまれない気持ちが一層強まる。
一刻も早く、この電話を、その向こうにいる進藤を―――断ち切りたかった。
「お前、今何してた?お前は……今夜ちゃんと…………眠れそうか?」
「大丈夫だって、さっきも言った筈だ。しつこいぞ、進藤。もう切るから。気を付けて。……おやすみ。」
「ああ、うん……ご免。でも、俺、いつでも携帯に出るから、夜中でもいいから。……おやすみ。」
僕がどんなに、ぶっきらぼうに不快感を漂わせる話し方をしても、彼は動じなかった。
最初から最後まで、僕への気遣いを感じさせる、優しい声色だった。
それが、本人の姿が見えるかのように生々しく僕の耳に流れ込んで来るのだから、直前まで狂ったように靴下を探し回っていた僕のバランスを、更におかしくさせるには十分だったのだろう……。
―――電話が切れる直前。
僕は、とっさに声を出していた。
「進藤!待って……僕は……。」
「塔矢?ん?」
「みつからないんだ―――。」
「み……ええ?何て言ったの?周りがうるさくて聞えないっ!」
「……靴下が片方、どうしてもみつからない……ほら、あの子が気に入ってた電車の……一昨日、洗濯物を畳んだ時に君と話した、あの……。」
「ああ、あれかっ!?……ええ?あの靴下がどうかしたのか?今すぐ、見つからなくてもいいじゃん?」
「厭なんだ……探し物が見つからないの、僕がとっても嫌うの、知っているだろう。ずっと探してたんだ。家中を隅々まで探してないから、さっきは雨の中、外にも捜しに行ったんだ。だって洗濯物を取り込む時に落とすことはよくあるだろう?もう何十分も探し回ってるのに……どうしても、みつからない……あの片方がなくて、落ち着かないんだ……。」
「塔矢……。」