―EVERLASTING COLORS―
( 2 )







進藤だって、こんなことを言われて何と返していいのか、わからないのだろう。
数秒の沈黙が降りて―――。

受話器から、彼の背後の雑音が急に大きく聞こえた瞬間に、僕は我に返った。

「ご免、馬鹿なことを言った。忘れてくれ。――じゃあ、本当におやすみ。」

今度こそ、耳も心も塞いで。電話を切った。
最後に、かすかに聞えた気がした進藤の僕を呼ぶ声も、なかったことにしてしまった……。



熱い風呂に入り寝巻きに着替えると、酒を煽ってから布団に入った。
嵐のような雨風が、古い家の雨戸を揺らし、うるさい。耳につく。時間と共に、それは凄まじくなっているようだ。

―――矢張り、どうしても眠れなくて。
僕はこのまま、まんじりともせずに夜が明けるのを待つのも仕方ないと覚悟を決めた。
幸い、明日は午後からの仕事だけだ。そう決めたらかえってすっきりして、そうだ……進藤の煙草でも吸ってみようかと不意に思い立つ。こんな時でもなければ考え付きもしないだろう。
昔、何度か薦められて試してみたことがあったが、好きだとも必要だとも思えなくて常習にはしなかった。

進藤の部屋には鍵がない。
彼がこの家に越して来た時につけようかと提案したが、どうせあってもかけないからいいよと言われてそのままだった。
でも勿論、黙って入ったことなど一度もない。



台所を通り越して奥の方にある彼の部屋に、そっと襖を開けて足を踏み入れると、手探りで電気を点けた。
進藤の匂いがする。この部屋には、彼の匂いが、気配が、しっかりと染み付いていて息苦しい……。
僕の部屋に比べたら物が多くて、煩雑なレイアウトだ。
適度に散らかったままなのが、人間臭くて彼らしくて。

一歩一歩、彼の部屋の中を歩いていくと、眩暈がした。足元がふらつく……。
ああ、自分が思った以上に、酒が回っているのかもしれないなあと、思った。
急がなくては。この部屋で倒れて朝まで寝てしまったなんてなったら、しゃれにならない。

進藤が、真尋が間違って手にしないようにとタンスの上の高い所にストックしているのを知っていたから、迷わずそこに手を伸ばす。
煙草に手が触れた時。
タンスと机の間の隙間に、それが見えた。―――真尋の靴下だ。

すぐにそれを拾ってみた。
まだ洗濯前だとわかったのは、それが裏返しのままぐしゃぐしゃに丸まっていて、いかにも脱ぎ捨てた時の状態だからだ。

……そうか。ここにあったのか。道理でみつからない筈だ。

僕はそれを引っ掴むと、ばたばたと駆け足で真尋の部屋に向かう。
そして、机の上に置かれたままのもう片方と今しがた進藤の部屋で見つけた片方と。
その二つを綺麗に重ねて、そのまま机に置いた。

……それをじっと見下ろしていると。
その靴下の持ち主の、幼い足が厭でも思い出される。小さな、靴下だ。まだ16センチくらい。
いつか彼が大きく成長するなんて、全然想像も付かない。
でも―――確実にその日はやって来る。



進藤の言葉が、急に蘇って来た。

―――たった三日、親元を離れただけでも、子供って成長するんだな―――



……もう。止められなかった。
鼻の奥が熱くて、痛い。そう意識した時には、涙が頬を伝っていた。
一度出来た涙の道は、後から後から溢れてくる涙をどんどん滑らせていくのだった。

僕はきっと、一晩中でも泣き続けただろう。

―――誰かが訊ねて来たことを知らせる呼び鈴が、その時、鳴りさえしなければ。









その呼び鈴が鳴った時には、もう僕は相当泣いていた……。

―――いつ以来だろう。
こんなに涙が止まらないのは。

千尋が逝ってしまった頃ですら、時間をかけて覚悟したので、一度にたくさん泣いたという感じではなかった。折に触れて、思い出しては涙ぐんでいたくらいだった気がする。

拭っても拭っても溢れてくるそれをどうすることも出来なくて、僕はその場に崩れ落ちて、机にもたれかかり、膝を立てたままで顔を覆うこともなく、嗚咽し続けていた。
どうせ、誰も居ないのだ。どんなに泣いても、喚いても。誰も僕を咎めもしなければ、慰めもしない。

―――だから。
ピンポーンと聞えた、その瞬間。
響き渡った呼び鈴に心臓がドキンと脈打って、同時に体が跳ねた。
驚いたというよりも、最初は信じられないという気持ちの方が強かった。今のは幻聴ではないか。
そもそも誰がこんな夜中に訪ねて来るというのだ。進藤は静岡に足止めの筈だし、それに彼だったら呼び鈴など鳴らさなくても、鍵を持っている。

思い巡らしているうちに二度目の呼び鈴が鳴って―――漸く僕は、立ち上がった。


玄関に着くまでの短い間は、何も考えられなかった。ただ機械的に足を運ぶ……。
しかしそこに着いて、昔ながらのすりガラスの向こうに人影を認めた途端に、怖くなった。

―――進藤だ。
あのシルエットは、間違いなく彼だ。
激しい雨風の音に混じって、既に彼の荒い息遣いまでもが聞えてきそうな気がした……。

「……進藤、なのか?」
影が、少しだけ揺れた。もしかしたら、外がうるさ過ぎて聞えないのかもと思い、もう一度呼びかける。
「進藤。本当に君か?……一体どうやって……いや、鍵をどうして使わない?」
今度ははっきりと聞えたのだろう。シルエットのままの進藤が、言った。

「……鍵は使えないよ、塔矢。この鍵は、俺がこの家の家族として持っているもんだ。でも、でも今は……今の俺は、そうじゃないんだ。だから、この鍵は使わねぇ……お前に許されなければ、俺は今夜、この家に入れない。塔矢、お前は、俺を入れていいかどうか……自分で決めてくれ―――。」

切羽詰った口調が、進藤も疲れ切ってギリギリの状態なのだということを伝えていた。
それなのに。
自分の我を通すよりも、まず、何よりも僕の選択を尊重すると、そう言っているのだ。


―――この鍵は、使わない。使えない。お前が開けてくれるのでなければ、入らない―――


これまで何度も、僕を苦しいまでに幸せにしてくれた彼の想いが、今、また、僕を包み込んでゆく……。
「塔矢……。」

彼の、僕を呼ぶ切なく掠れた声に。

全ての鍵を壊されて。

心を全開に抉じ開けられて―――。

僕は、とうとう、その中に、彼を、迎え入れることにした。

……そうしたかった……心から―――。


戸を開けると、進藤が全身びしょ濡れで立っていた。
髪の毛から滴り落ちる雫が、凄い。
彼の背後で、木々が風雨にざわついている。ダンスでも踊っているかのようだ。

でも進藤本人は、とても静かに厳かに―――そこに立っていた。











傘なんか役に立たないこの嵐の中を、僕に会う為にだけ彼が険しい道を帰って来たのだということは、説明を求めなくてもわかる。

どうしてとか、どうやってとか―――そんなものはどうでも良かった。

滴る雫の向こうで揺れる彼の瞳には、まだ不安の色が浮かんでいる。
僕はじっと視線を合わせて、それから。
彼に向かって微笑もうとしたけれど、上手くいったかどうかはわからない。

体が勝手に動いて、裸足のまま玄関に降りて、濡れたままの進藤にぶつかるようにして抱き付いてしまったから……。

抱き付いた衝撃に、二人してよろける。
倒れそうになるのを堪えて、お互いの体を支えるようにして抱き締め合った。
そして、そのまま縺れ合うようにして家の中へと入る。
進藤がこんな時にも、ちゃんと後ろ手で戸を閉めたのが見えた。

―――途端に、外の音が遠くなる。


……噴き出してくる激しい想いに興奮して、荒い呼吸を繰り返しながら、抱擁だけに溺れていた僕らは、暫くは声を出すことすら忘れていた。
だって、言葉になんかならない。
込み上げてくる想いが余りにも強烈で圧倒的な時。
人は呼吸するだけで精一杯で、言葉で気持ちを表現するなんて綺麗なことは、出来ない。


その時、ガシャンッ!!……と。

突風によって飛ばされた何かが玄関の戸に当たって、大きな音がした。
僕らは重なり合ったまま、同時にビクリと体を震わせ、大きく引き攣れるみたいに咽喉の奥をひゅぅ……と鳴らして。

そこでやっと。
声の出し方を思い出したみたいに堰を切って―――互いの名前を呼び始めた。

「塔矢っ!!とーや、と、やぁ……。」
「…ああぁ……しんどー……しんど……しん……っ―――。」

彼の顔は見えなかった。僕の顔も見せられなかった。
頬と頬をすり合わせて、力任せに抱き締めて。
彼の逞しい腕が僕の背中を強く締め上げ、僕の腕も彼の背中をもがくように這い回る。

彼の頬は雨で冷たく―――僕の頬は涙で濡れていた―――。

「ああぁっ!!お前、やっぱり泣いてたっ!!多分……いや、きっと泣いてると思って……お前、泣いてると思ったら、く、苦しくって……どうしても……俺、どうしても、お前にっ!!あああ、とーやぁ……。」
「馬鹿っ!どうして、どうして帰って来たんだっ!!この、馬鹿しんど、ぉ……こん、こんなに濡れて、冷たくなって……。」
「ああ、そうだ、お前が濡れるっ!!ご免!!」

そこで彼が僕の腕を掴んで、引き剥がそうとした。確かにもう、僕の薄い寝巻きは進藤の衣類から水分をいくらか吸い取って、湿っていた。

でも、そんなことどうだって良かった……だって、と、僕は思ったことを、彼に息がかかるほどの距離で囁く。

「いいんだ、進藤……どうせ全部脱ぐんだから……君も、僕も……。」
「……とーや?お前、今なんて言った?」

進藤の声が、明らかに震えている。体の冷えだけでなく、きっと彼の心が震えているからだ。

「どうせ、全部脱いで裸にならなきゃ、風邪ひく……。」










きっと僕の顔は、ぐしゃぐしゃで悲惨なものだろう。
進藤以外の誰にも見せたくないひどい顔を、惜しげもなく彼の眼前に晒していた。
そのベタベタする顔を、進藤の程好く節くれた、長くて大きな十本の指が、いとおしむように滑っていく……。

「一緒に……だろ?二人で一緒に、全部脱いで、見せ合えるんだろ?……そうなんだよな……とうや……。」

……お前の全部を、今夜見ても……俺のものにしても……いいんだよな…………

彼が眉根を寄せて、とても切ない顔で僕を見た。
その瞳は零れんばかりに潤んでいて、これから彼が僕に何をしたいのかを僕に想像させるのに、十分だった。

僕も震える指先を伸ばして、進藤の紫色に変色した厚い唇にそっと指を這わせる。
濡れているそこは、とても冷たかった。
この唇を温めたいと。自分の熱を分けてあげたいと思った。
君が長いこと僕にそうしてくれたように、僕も今、君を温めてあげたかった―――。

僕の指を、唇の上に乗っけたまま―――進藤のそこが、僕の指が逃げてしまわないようにそーっと、僕の名前を呼ぶ形に、動いていくのを見ていた。
その唇の優しさに誘われて、とうとう僕は指先ではなくて、自らのそれで触れたくなって―――そして、そうした。

二つの、今まで互いの名前を必死で呼び合っていた唇が触れ合った、その瞬間。

……背筋を寒気のようなものが駆け上がり、頭が真っ白になって意識が断ち切られそうになった。

胸が痛い。息が苦しい。それは生理的なものじゃない。
愛しくて、好き過ぎて。爆発的に溢れ出る感情に僕は翻弄される。
そして、進藤もきっとそうだ。


―――出逢ってから15年もの月日を越えて、初めて唇を合わせているという事実だけで、一気に昇り詰めそうになる―――。


角度を変えて何度も押し付けあっていると、擦れ合う表面がどんどん熱を生み出してくれた。
やがて、相手を確かめるかのような口付けは、自然に深くなっていき……。
どちらからともなく侵入してきた舌が出逢うと、もう狂ったように舌を絡ませ合い、吸い合い、互いを離しまいと寄せ合う腕にも一層力がこもった。

こんなディープキスは、もう何年もしたことがなかった。
まるで失くしていた記憶が蘇ったかのように、僕はどうやって相手に自分の欲望を伝えるか、そして相手のそれを受け取るのか―――僕なりの方法で進藤にぶつかっていく。

進藤もまた、貪欲だった。
深いキスを解こうとすると、すぐに彼の唇が追いすがって容赦がない。僕の口内をくまなくさすらい、撫で上げる彼の舌はちっとも優しくなんかなかった。ひどく荒々しかった。

苦しげに呻いて眉をひそめた僕に気が付くと、やっと解放してくれたけれど、今度は顔中の涙を口付けで舐め取っていく……。
彼の背中を締め付けていた腕に力が入らなくなって、ずるずると落ちそうになる。だから進藤の首に両腕を廻して、ぶらさがるみたいな格好になった。

「そのまんま、掴まってて……。」

彼が掠れた声で囁いたと思ったら、玄関にゆっくりと押し倒されていた。
体が後ろ向きで倒れていくから、本能的に進藤の首にしがみ付く。

床に横たえられて、僕は進藤の首から腕を離した。
両手で髪の毛を掻き揚げて、ほうっ……と息を吐き出して呼吸を整えようとしていると。
進藤が膝をついて靴を脱ぎ捨て、着ていた綿シャツ脱ぎ捨て、その下のTシャツまで、もどかしそうに首から引き抜いているのが見えた。











眩しい……玄関の電気が煌々と点いており、天井を見上げる格好の僕の目を細めさせる。
そして何よりも、彫像みたいに均整のとれた進藤の美しい肢体こそが、眩しい…………。

不意に。
太陽が雲に隠れたみたいに、辺りが暗くなった気がした。
進藤が僕の真上に覆い被さって、影を作ったからだ。
でもその間も器用にジッパーを下ろし、下半身も顕わにしようとしているのが、身をくねらせる動作でわかった。

少しづつ濡れた衣類を剥いで、目の前にさらされる進藤の体の隅々までを想像するだけで、僕の全身もカーッと熱くなる。目元が潤む。

女の子じゃないんだから、進藤に脱がされるのではなくて僕も自分でそうしたかった。
横たわったまま、震える指を必死で動かして胸のボタンを全部外してしまうと。
待ちかねたように彼の両手が滑り込み、左右対称の動きで、そこを大きく広げた。

「塔矢……綺麗な胸……肌……お前の……あぁ……。」

溜息に乗せた声は、どこまでも甘い。
同時に手の平を肩に、鎖骨に、首筋に、それから胸にも這わせて来る。
口付けの時とは違う、羽毛で撫でられているような、とても優しい触り方だ。

進藤の顔は逆光で見えない。
せめて伸ばした指先で触れて、彼のその形を確かめたかった。
彼が幸せそうにしていることを、どうしても確かめたかった……。

「髪、こんなに濡れてる……早く拭かないと……。」

彼の額から生え際に向かって指を差し入れると、キュウと絞るように金色の前髪を一房握る。
ポタリ。ポタリ。……ポタリ。彼から落ちて来る雫がくすぐったくて、小さく笑った。

「ご免……今度は先に謝っとく……悪いけど、濡らすよ……。」

         ……お前の体、全部……

言うが早いか、彼は僕の下半身の衣類を乱暴に引き下ろして、布の塊を投げ捨てた。
反応し始めていたそこがこすられて、僕はうっ……と息を詰めてしまう。
すぐに腰の下に回りこんだ腕で支えられて肩を浮かされ、ああぁっ……と叫ぶ間に、上着も彼に引き裂かれるのではと思うほどの勢いで、脱がされてしまう。

……もう上半身にも、何も隠すものはない。

自分でしたかったのに、結局は進藤の熱のまわりの方が早くて、僕は追い付けないのだ。


―――明るい玄関。固い床の上。こんな日常の場所で。全裸の進藤に。僕も全裸にされて。恥ずかしい。見られたくない―――。


ああ、そうだ……抱き合ってしまえば、もうじっくりと見られることもないと思い付いて、僕は進藤に絡み付いた。

すぐに彼も応えてくれる。
裸の肌を重ねて、再び激しい抱擁になった。興奮する。温度が上がる。

そうしているうちに進藤の足の間の堅いものが勃ち上がって、僕の腹をグルリとなぞった。
僕も反射的に腰を揺らして、彼を、やっぱり張り詰めた自分のそれで追い掛けて―――捉える。

「ああぁっ……だめだっ……んなことされたら、も……っ……。」
「うん、僕も、もたない……すぐにでも……ここじゃなくて……はっ……んん……。」
「待って、も、少し……このまま抱かせて……もったいない……から、も、ちょっと……だけ……あ、とうや、体、痛い?」
「だいじょ、ぶ……はあぁっ……痛いのは……体じゃ、ない……ん……――っ!」










切れ切れにしか喋ることが出来ないのは、僕も同じだった。
お互いをまさぐり、愛撫を施し合い、また感極まって噛み付くような口付けを交わす……。



進藤も僕も、一度は女性と暮らし愛し合ったこともあるのだから、まさかこんな風に男同士で欲情するなんて考えられなかった。
実際に触れ合ったら、ごつごつと骨ばった体や柔らかさのない胸、決して美しいとは言えない男性の象徴。
そんなものに萎えてしまうのではと思っていたのに。

気持ちがそこにあるということが、こんなにも大きいとは。
想像でしかない……幻の場所でしかないと思っていた―――好きな人との抱擁と口付けと……もっと先までも許された世界。

そこに辿り着いた悦びは、どんなためらいも困惑も、罪悪感も嫌悪感も、全てをなぎ倒してしまうほどの激しい嵐だった…………。



玄関で達してしまった僕らは、もう照れ笑いする余裕も、茶化し合う余裕もなくて。
ただ、動物みたいに荒い息と潤み切った視線を交わし合いながら、その場にあった衣服で適当に汚れを拭く。
それから全裸のままで、無言で手と手を取り合って、足がもつれそうになるのを支え合って―――今度は風呂場へと向かった。

僕らはその夜。
たくさんの涙と汗と息と、それから悦びの証を混じり合せながら。
心と体の両方を、繋いだのだった―――。



それから三日三晩。
真尋が帰って来る朝まで、僕らは殆ど相手を離すことなく、肌を隠すこともせずに、全てを見せ合い、探り合い……共に過ごした。


5日目の昼間は、二人とも棋院だった。
そこですれ違った時、進藤は明らかに僕と目を合わせないようにしていたし、僕もチラと伺うだけだった。
けれど、後から家に着いた僕を進藤は門のところで待ち伏せていて、僕が門をくぐった途端に腕を掴んで驚かせたのだ。

「塔矢っ!!おせーよ、お前……俺、待ってる間、気が狂いそうだった……はぁっ……。」
「馬鹿……っ!……進藤の馬鹿……棋院では知らん振りしてたくせに……僕のことなんか眼中にないみたいに……。」
「だって仕方ないじゃん!お前見たら……見たら、俺……駄目だぁ……きっと……。」
「ほんとに馬鹿だな、君は……何が駄目なんだ……。」

何度も抱き合ったのに、それでも足りなくて。
いや……むしろ抱き合えば合うほど、愛しさは次から次へと秘めていた胸の奥の泉から汲み出されるようにして、溢れ出てくる。
もっと、もっと愛しくなる。……全てが欲しくなる。

こっちの方が早い、と呟きながら僕の手を取って縁側から家に入ると、ずんずんと自分の部屋へと引っ張っていく。縁側から出入りしては、いつも僕に小言を言われている彼だった。


進藤の部屋でまた、食べることも眠ることも忘れるほどに、時を惜しんで愛し合う。
心も体も、境目がわからないくらい近くにあって、溶け合っていた。
少しの間も離れたくなくて、一緒に家の中を移動したりすると、途中で耐え切れなくなってそこがどこであっても―――廊下だろうが、台所だろうが、風呂場だろうが―――抱き合って口付けて、愛を交わす。










―――どうして、こんななんだろう、僕らは……と、僕が快感に溺れていることを恥じ入るようなことを口にした時。
進藤は更に僕を追い上げて、自分でも聞いたことのないような声を上げる僕をその大きな手で愛撫しながら、呟いたのだ。

   ……今はこんなんで……いいじゃん……だって、俺らには時間が………

その先には時間がないと続くのだろうかと思いながらも、進藤の顔は僕の肩口に押し付けられてその声は聞えず。
何が言いたいのかを問いたくても、言葉をまともに発することなど出来ない激しさで抱かれて、僕は進藤の乱れた髪を更にぐしゃぐしゃに掴んで喘ぐことしか出来なかった。

そんな風に。
数えることなど恥ずかしくて出来ないほど。
十代の若者でもあるまいしと、自嘲したくなるほど。
手を痛いくらいに握り締め、互いの名前を吐息で呼び合い、幾度も幾度も共に果てた―――。



途中、真尋からの電話が何回もあったけれど、僕らは普通に話していた。
真尋も落ち着いたらしい。
あの子の特徴なのだが、楽しいことほど淡々と、しかし長々と語る。その様子から、彼が神戸の地に慣れて心底楽しめるようになったのだとわかって安心した。

流石に真尋の姿が心に浮かぶ時は、押し寄せる切なさに僕はとても不安定になって、それに気付いた進藤に優しく抱かれた。……彼は、意外に鋭い。
忘れるんじゃなくて、いっぱいアイツのこと話そう、思い出そうと言われ……僕らは真尋のことをたくさん語った。

彼が生まれた時、僕がどれだけ嬉しかったかということ。
千尋の看病をしながらも幼な子を育てて、僕が最も憔悴していた時期のこと。
進藤が一緒に暮らし始めた当初、彼が小さい子供との暮らしに戸惑い、失敗ばかりしたこと。
九路盤とはいえ、真尋がぐんぐん僕らから何かを吸収して、上達していくこと。

二人でアルバムを見ながら語り合っていると、満たされて生きるとはこういうことなのかと思えた。
笑ったり、からかったり、時にはしんみりしたり。
そうして、またどちらともなく肩を寄せ合い、頬と頬を擦り付け、込み上げてくる想いを相手にも知らせたくて……そっと、唇を合わせた。

千尋のことも、僕らは躊躇うこともなく口にした。
彼女の写真をたくさん神戸の実家で見せられた進藤は、その時に感じたことを素直に語ってくれたのだ。
進藤も、僕の亡くなった妻を好きでいてくれた。彼女の生き方を、愛し方を、とても……。



僕らの間には、体を繋ぐやり方にしても、話す内容にしても、何もタブーはなかったのだ。
ただ、一つを除いては。
僕らは心も体も全部開いて、触れ合って、愛を語り合ったけれど。

たった一つ。
これから僕らがどうしていくのか、その未来については何も触れなかったのだ―――。



真尋が神戸から戻って来る日の朝。
目覚めると、既に進藤の姿はなかった。
僕はどこかでそのことを予感していたと思う。……驚きはなかった。

時間がない―――そう、切羽詰まった様子で呟いた彼。
おそらく、最初から決めていたのだろう。真尋が戻って来るまでに、僕とあの子の前からいなくなろうと。

真夏の暑い日。入道雲が生まれ、蝉がうるさくなり始めた日。

それは、進藤ヒカルが本当に僕らの家を出て行った日だった―――。











進藤が出て行った。僕と、僕の息子が暮らすこの家から。



明け方、彼がそっと起き出して自分の荷物をバッグに詰め込んでいるのが気配でわかった。ちょっとそこまで……という気軽さでない準備だというのは、音を聞いているだけで十分知れた。

準備が済んだのだろう……彼は、僕の手に触れることはなく、ベッドの上に投げ出された指先に小さくキスを落としてから、部屋を出て行った。

僕は寝たふりをして、静かに彼を見送る……。

それでも。

玄関の戸を控え目に開ける音がした途端、たまらなくなって涙を零した。

しばらく泣いた後、やっと気を取り直して服を着込んだ。

のろのろと部屋を出て、無意識に玄関に向かう。

そこで、進藤の靴がなくなっていることを確認して、また切なくなった。

―――僕は夢遊病者のように、再び進藤の部屋に戻った。



未練がましいとわかっていたけれど、彼の残り香を求めて、僕らが寝ていたベッドの前にひざまづく。

顔をシーツに埋めて匂いを嗅いでいるうちに、進藤の汗とトワレが入り混じった体臭が、ツン……と僕の鼻腔を突っついた。

それは本当に嗅いだというよりも、ただそんな気がしただけの願望の現われだったのかもしれない。

それでもその錯覚かもしれない刺激に、体の奥からふつふつと小さな泡が湧き出すような何かが生まれ、僕の中に満ちていく…………。

僕はベッドの上に置き上がると、着ていたシャツを脱ぎ捨て、下着も取り去り、全裸になってもう一度シーツの海に身を投げ出した。

そこで進藤の残り香と僅かに残る体温と、彼と僕のあらゆる体液を吸い取った布地の湿り気を全身で感じながら、泳ぐように体をくねらせ、素肌を擦り付け、息継ぎするかの如く荒く息を吸い込み吐き出し―――彼の施してくれた愛撫を、繋がりあった悦びを、一つ残らず全て胸に描く。

ひとつ、ひとつ。

最初から、正しい順番で。

三日前の深夜、玄関で初めて抱き合ったあの瞬間から。

彼がくれた苦しくて幸せな時間を、飽くことなく脳内にリプレイして。

もうそれだけで十分だった。

ダイレクトな刺激は、何もいらなかった。

ただ進藤のことを思うだけで、彼の名前を心の中で呼ぶだけで。

僕はうつ伏せで、四肢を痙攣させながら、一人きりのベッドに、進藤のベッドに、声なき声をあげて、自分の吐き出した欲望をジワジワと沁み込ませたのだった。

もうこのベッドの主が、二度とここに眠ることはないのだろうかと思うと、いくらでも自分の浅ましい欲望で汚してしまおう、二度と使えなくなるくらいに汚してしまおうという、投げやりな気持ちの昂ぶりからだった。

それでも波が引いてしまうと、ただただ虚ろな心だけが波打ち際にゴロンと転がっているようで、僕は一度だけ声に出して言ってみた。



……愛してる…………ヒカル…………と。



その言葉は、誰も知らない深海の底にゆっくりと沈んでいくかのように、どこかに吸い込まれて永遠に消えてしまった…………。





真尋が帰って来るまでにすべきことは、たくさんあった。

休みを取っていた僕は午前中いっぱい時間を使って、家中の空気を入れ替え、掃除を念入りにして、彼を出迎える準備をする。

あちらの好意に甘えて、帰りもこの家まで送って来て貰うことになっていた。

僕は仏壇を特に念入りに綺麗にして、庭に咲いたひまわりを飾った。

仏壇にひまわりなんて似つかわしくないかもしれないけれど、何故か他の花を飾る気にはなれなかったのだ。



お昼過ぎに真尋が到着すると、家の中が一気に華やいだ。

彼が持ち帰ったものは、たくさんの土産話だけでなく、温かなお日様の匂い、幼い子だけが持つ生命力の眩しさだった。

一度だけ。

ヒカルは急なお仕事が入って、暫く戻れなくなったと告げた時だけ、僕の小さな息子は拗ねたけれど。

それでも促されて神戸でのことを話し出すと、止まらなくなるようだった。

そのはしゃぎぶりと、別れ際に真尋がお愛想ではなく心から淋しそうにしていたのに気をよくして、彼を送って来てくれた千尋の両親は上機嫌で帰って行った。



進藤に盗み読まれた手紙のお見合い話はとうに断わっていたし、今度も真尋を手放すつもりはない、ただこれからも時々は遊びに行かせて欲しいと僕が切り出すと、あちらはむしろ恐縮してこう言ってくれた。

―――真尋が素直にのびのびと育っているので、安心したと。

矢張り男親とその友人だけでは、心配な面があったことは否定しないが、それでも今の段階ではきちんと子育てもしているし、真尋も今の暮らしで淋しいことはなさそうだから、このまま遠くで様子を見させて貰いますねと、微笑んでくれた。

でもいつか彼が望むのであれば、自分達はいつでも彼を引き取る用意があること、これからも僕等親子の暮らしに助力を惜しまないことを付け加えられた。

進藤のことをとてもいい青年で、かえってあんなに素敵な独身男性に子育てを手伝わせるなんてアキラさんも配慮が足りない、早いところ解放してあげなさいと笑いながらたしなめられた時には、僕の胸はちりちりと痛んだけれど、そうですね、その内彼もまた結婚するでしょうから父親になるいい予行演習になったでしょう、などと受け流すことくらいは簡単だった。

最後になって。

神戸にも千尋の仏壇はあるらしいし、うちに来てすぐにも線香を上げたのに。

もう一度お願いと言って、いつまでも千尋の遺影に手を合わせて頭を垂れていた彼女の年老いた両親が、僕にも愛しく思えてならなかった。

確執はあったけれど、でもこうして共に彼女を懐かしみ、彼女の遺した命を大切に思う心は変わらないから……。



夜になって、真尋の興奮も鎮まってきたようだった。

僕も進藤が出て行ったことを考えなくて済むので、真尋がいてくれたことは有難かった。

いつも通りに僕の手作りの夕飯を食べ、一緒に風呂に入り、それから寝る前に本でも読んでやろうかと言うと、彼はもじもじして何か言いたげだ。

何だろうと訝しく思って……やっと、僕は気が付いた。

そうだ。

夜はいつも進藤が真尋と打っていた。

―――毎日の習慣で、朝は僕が、夜は進藤が。

「真尋……打ちたいの?」

こくんとうなづく。

はにかんだ顔は僕の子供でありながら、どこか進藤の面影に重なった……。



楽しい碁だった。

久しぶりだったが、思い切って十九路で打とうかと訊ねると、喜んでうんと言う。

まだこんな小さい子に十九路は到底無理なのだが、それでも彼なりに一所懸命打ち返してくる。初心者のうちは素直な打ち筋ほどいいと思うから、僕もお手本に恥ずかしくない碁を打ってあげた。

勿論置き碁だ。九路の時には置石はない。



打っている時、真尋と僕は殆ど話をしない。

最中に色々と指導することも出来るが、全ては終局してから話すことにしている。

彼の集中を乱したくないし、三歳なら三歳なりに考え抜いた手がある筈で、そういうギリギリまで己を高めた状態を、いつでも盤の前で再現出来るような精神構造にしてあげたかった。

それには毎日の鍛錬が何よりも大事なのだと―――僕の父が長い時間をかけて僕に教えてくれたのだ。



終局してから、ありがとうございますと深々と頭を下げる。

こういう挨拶も、どんな時でも決しておろそかにしないようにと教えてきた。

進藤も、こういうところはちゃんとしていた。

「ねえ、お父さん、ヒカルはいちゅ帰って来るの?」

黒々とした瞳に見詰められて、言葉に詰まる。

言い訳は前もって考えていたのに、真っ直ぐな光に射抜かれると、正直に言ってしまいそうになって僕は慌てた。

正直に……ヒカルはもうこのおうちでは暮らさないんだよ……と言ってしまったらこの子はどうするだろう?

「進藤はね、ちょっと遠くの仕事が入って……しばらくは帰って来れないかもしれない。あ、でも電話で話すことは大丈夫だと思うよ。」

「遠くって……どこ?神戸よりも遠いの?おじいちゃんとおばあちゃんのいる中国くらい遠いの?」

「うん……そんなに遠くはないと思うけど、忙しくってね、ほら、時々進藤もお父さんもお泊りで碁を打ちにいくことがあるだろう?今度のは……いつもよりもちょっと長い一局になるかもしれないから……。」

……そう……とても、長い長い一局に…………

「ふーん。じゃあ、電話でお話ちてもいい?お父さん?」

「あ、そうだね。今……話したい?」

「うんっ!ヒカルの携帯にかけてかけてっ!」

仕方がない。僕は出なくても、最初から真尋に話をさせればいいだろうと、進藤の携帯に電話をしてみた。

目を輝かせながら、進藤の携帯電話の呼び出し音を聞いている真尋。

小さい彼を見守りながら、僕は自分の選んだ道がどんなに自分本位なものだったのかを改めて感じていた。

この子から進藤を奪ってしまった……進藤との楽しい暮らしを、父親である僕が奪ってしまったのだ。

進藤と心の中で愛し合ってはいても、決して体を求めてはいけないとわかっていたのに―――。



どうしてそんなことにこだわるんだと言われればそれまでだ。

でも、こだわる。

僕自身だってそんなに開かれた人間ではないが、世間はもっと厳しい。

進藤が、マスコミにも取り上げられるような派手な結婚の後に、一年もしないで離婚した時には散々陰口を叩かれていた。

普通の棋士だったらそういうことはないだろうが、進藤は入段した頃から問題児扱いされている面があって、決して本人は悪くなくても浮ついた雰囲気で見られる損なところがあった。

若手の中では誰よりも強く、一握りのタイトル戦の常連だからこそ、かえって厳しい目を向けられるのだ。

棋士として、頂点に立つものとして、それに相応しい品格を求められる。

若いなら若いなりの爽やかな謙虚さだとか、目上を立てる低姿勢だとかを求められるのだ。

そんな世界で。

進藤と僕が、男同士で愛し合っているなどと知れたら―――。

下世話に取り沙汰されることは間違いなく、下手すると棋士としての活動にだって支障をきたすかもしれない。

進藤の周りの人間にだって不快な想いをさせるだろうし、色々な意味において彼の将来をも閉ざすことになりかねないだろうと思った。

僕自身のことは、どうだって良かった。

父のことを思うと申し訳なくもあるが、両親は中国で第二の人生を楽しんでおり、あちらで骨を埋める覚悟で移り住んだ。

日本での喧騒も、彼らにとっては大したことではないだろう。

元々、父には碁以外で煩わされたくないというキッパリとした生き様があるので、彼の精神を息子のスキャンダルなどでは誰も傷付けることは出来ない。



一番僕が……いや、多分進藤自身も最も気にしたのは、真尋のことだ。

もし真尋が僕らのことで、心に傷を負うようなことになったら。

男同士の恋愛なんて、まだ男女の恋愛すらわからない年頃―――例えば五歳とか十歳とかで―――そのことを知ってしまったとして、彼に理解される筈もない。

勿論、彼に隠し通すつもりではいても、どんなに徹底しようがどこから漏れるかわからない。とても危険だ。危険過ぎる。

彼が知った時、どんな風に僕らの関係を受け止めるのか。

それを想像するだけで、身震いがする……。

所詮、僕は進藤が誉めるように立派な父親なんかではない。

他の世間一般の父親よりも子育てしているのは、妻を亡くしたという事情ゆえであって、もし千尋が生きていたら僕はこんなに真尋に対して向き合っていたかどうか……。

自信なんて、少しもないのだ。

僕のことを尊敬の目で見上げてくるこの子を、失望させたくない。この子の前では、格好付けていたいという、見栄っ張りなごく普通の父親だ。

そして何よりも、彼は進藤ヒカルを心から慕っている。そのことが一層僕の気持ちを暗くさせる。

お父さんも好き。ヒカルも大好き。

だから、二人が愛し合っているのが許される、納得出来るという単純な問題ではないと思う。

三歳でも四歳でも、あれだけ子供の心には複雑な襞が折り重なっているのだから、いつか僕らのことを知った彼がどれほど混乱し、苦しむだろうと想像すると、もういけなかった。

怖かった。怖くて、先へ進めなかった―――。

それなのに。

―――進んでしまった。止められなかった、自分を。

一度は何とか持ち堪えたのに、どうしてもあの嵐の晩は、進藤を受け入れたかった。

その先に未来がなくとも。こうして別れることが前提の、期間限定のひとときだったとしても。

だから。

僕はもう覚悟を決めていた。進藤も覚悟していた。

そんな風に、お互いの覚悟の上に、僕らは体も含めた相手の丸ごとを求めたのだった―――。

でも、真尋は違う。

彼には何の覚悟をする時間も与えられずに、その理由すら明かされずに。

彼は、今迄と変わりない未来を無意識に期待しているだろうに、その全てを父親の手で奪われることになったのだ……。



「……おとーさーん……ヒカル、出なぁい。誰か知らない人が話ちてるよ。」

真尋から受話器を受け取ると、機械音がピーッと鳴ったところだった。留守電にしているらしい。

僕は自分の声を進藤の携帯に残したくなくて、とっさに切ってしまった。

「進藤は忙しいみたいだね。今夜はもうやめておこう。明日起きたらまたかけようか?」

「うん……。」

どうしてこうも子供は正直なんだろう。あからさまに、がっかりを絵に描いたような顔をされて僕も辛かった。



いつまでも誤魔化せない。それには、進藤と一度は話をしなければならないだろう。

彼を失う現実からも逃げられなければ、彼を一生想い続けるだろうという予感からも逃げようがなかった。

重い十字架を背負わされてしまった、いや、自ら背負ってしまったのだと。

僕は長い一日の終りに、真尋の健やかな寝顔を見ながら思った……。





次の日は一日真尋と休みを過ごし、更に翌日、彼を久しぶりの保育園に送ってから仕事に出た。

棋院では、進藤に逢うことが出来なかった。執行猶予を伸ばされたような、妙な安堵感を心の片隅に感じながら帰途につく。

今夜家から、真尋が寝た後にゆっくり電話を掛けようと思い決めて彼を迎えに行くと、保育士さんから進藤さんが迎えにいらっしゃいましたよと告げられて驚いた。しかも、午後の早い時間だったという。

進藤の携帯にかけようかと一瞬考えて、それから止めた。

彼が真尋に逢いに来たのなら、その時間を僕が邪魔することは出来ないと思う。

―――きっと進藤は、お別れを言いに来たのだろうから。



家に着いても、勿論誰もいなかった。

進藤が送って来たら、その時僕らは真尋をはさんで顔を合わせることになるのだろうかと、ぼんやりと考えながら二人の帰宅を待った。ひたすら待った……。

「ただいまーっ!お父さん、いるーっ!?」

突然響いた明るい声が、家中の空気を震わせる。僕は急いで玄関へと向かった。

「お帰り。保育園に迎えに行ったら進藤と一緒に帰ったっていうから、びっくりしたよ。どこへ行ってたんだ?」

「あのね〜、ヒカルとね……うふ……碁会所へ行ったの!」

「碁会所?」

「うんっ!駅の近くのお父さんの碁会所。ヒカルは午後からお仕事ないからって連れてってくれてね、僕、ちゃんと十九路でヒカルと打ってね、そこにいたおじさん達にいっぱい誉められてね、それからお菓子貰った。ヒカルがよその人と打つのを見てね、僕もけんとー?……の仲間に入れて貰ってね、すっごくすっごく楽ちかったあ……。」

いつもの淡々と出来事を連ねるやり方で、真尋が僕に報告してくれた。こんなに長く一気に喋るのは、それだけ彼が興奮している証だった。

「それは良かったな。いつかお父さんも連れて行こうと思ってたんだけど……進藤は?」

「ヒカルはね〜、今からまたお仕事なんだって。遠くから、僕に逢いに来ただけだって。すぐに帰らなくちゃいけないって、さっきおうちの前でバイバイした。」

「―――おうちに入って待っていなさいっ!あ、手を洗ってうがいして。オヤツあるからね、すぐに戻るからっ!」

真尋言い聞かせると、僕は家を飛び出した。まだそこに、進藤がいる。いるかもしれない!

顔を合わせたくないと避ける気持ちがあったことなど嘘のように。

ひたすら進藤の影を追って走った。

「進藤っ!」

果たしてそこに、彼は居た。今しも角を曲がろうとしていた時で、僕の声に振り向く。

―――夏の終りの夕暮れ時。

歩道に自らの影を伸ばした進藤が、太陽を背にして僕を見ていた。逆光でよくわからなかったけれど、彼は薄く笑っているように見えた。

みっともないくらい息を切らせて、彼の元へと走り寄る。生ぬるく重たい空気が、瞬時に僕の額に汗を滲ませた。

「ああ、勝手に連れ出して悪かったな。ちょっと顔を見るだけって思ったのに、ついつい連れ出しちまって……ご免、心配したろ?」

「いや、君が迎えに来たと聞いたから、心配なんかしてなかった。真尋が凄く逢いたがっていたから、良かった。……来てくれて……ありがとう。」

「止せよぉ、ありがとうなんて!したいこと勝手にしただけだって。」

コツン……と、近くにあった壁を、進藤の爪先が突付いた。

両手を腰に軽く掛けて、僕の目を見ないまま、俯いた。

その仕草一つで、僕までが切なくなる。進藤の、広いけれど今は淋しげな背中に触れたくなる……抱き付きたくなる…………。

こんな気持ちになるなんて、矢張り彼の傍にいることは、もう叶わないだろうかと思う。思い知らされる―――。



「今はどこに?」

「ん……実家に居るけど……そんなに長く居ると変に思われるし、部屋、借りようと思ってる。」

「和谷君のマンションか?」

「え……和谷って……。」

「すまない、ちょっと棋院で小耳に挟んで……いや、立ち聞きしたんだが……君が部屋を探してるって。」

「ああ、そう……知ってたのか、お前……どして言わなかったの?」

「君の自由だ……出て行くのも、何をするのも……。」

僕には、君を縛る権利はないから―――。

僕の返事は、自分でも思いの他冷たく響いた気がした。

進藤がやっとこちらに顔を向けて、少しだけ何かを躊躇っているかのような素振りを見せた。

「そうか、そうだな……うん……じゃあさ、荷物は部屋が決まったら引越し屋に頼むよ。それでいい?」

「うん。」

もう既に決まったこととして、淡々と進藤が家を出て行く話をしている。

家の傍の道端。

もうすぐ藍色の夜の空が、夕焼けの残照にすりかわる時刻だ。

どんどん彼の表情が読めなくなる。……不安になる。

「帰る前にもう一個だけ、話していい?……今日……どうして真尋を碁会所に連れてったか……わかる?」

「え?……いや、あの子がせがんだのか?君と打ちたいって。」

不意に話題が変わる。

進藤が何を言い出そうとしているのか掴めなくて、僕は面食らった。

「そうじゃないよ、俺から誘ったの、碁会所で打とうかって。あそこを選んだのは、お前と俺が初めて逢った場所だから……。」

胸がざわつく。進藤の言葉には言葉以上の力があって、僕の心にさざ波を立てる。

穏やかな晩夏の夕闇に似つかわしくない蝉の声が、一時だけ不協和音のように響いて。……すぐに消えた。

彼と僕は、静かに、でもはっきりと目を合わせた―――。

「塔矢と逢った、全部の始まりの場所……あそこでお前と逢わなかったら、今の俺はいないから。だから、最後にヒロを連れて行ってみたかった。あそこは俺にとって大事な場所だった。お前と出逢って、十代の頃からたくさん打って、お前に対する気持ちを育てたのも―――あの碁会所で一緒に過ごした時間だった気がする……。」

あの場所。進藤と僕がまるで運命に引かれるように出逢ったあの場所。始まりの、あの日。

進藤の考えることも、することも、いつも僕には意外だ。

でもそれは、どうしてこうも僕の心をしびれさせるほどの驚きと喜びをくれるのだろう……。

吸い込まれそうな深い瞳の色に、僕は無言で見入っていた。

どんなに辺りが暗くなろうとも、昼の光を失おうとも、進藤ヒカルの瞳の輝きだけは、僕を変わらずに照らす。

その光に魅せられて、長い歳月を君と歩いてきたのだ―――。



しばらく見詰め合った後。……進藤が、先に口を開いた。

「いつか又、あそこでお前とも、ヒロとも打てるといいなって……思うよ。そのくらいは、いいか?」

「そのくらいも何も……君さえ良ければ真尋にはいつだって逢える、いや、逢ってやって欲しい。」

「ははは……そういうのって、何だか追い出された亭主が時々子供に逢いに来る、みたいだな。あ、いや、茶化してわりい。そうじゃなくて……アイツには申し訳ないなって。ずっと一緒に居るかって訊かれた時に、ヒロに新しいお母さんが出来るまではって約束したんだ。アイツ、拗ねてたけどさ。母親のこと直接は覚えてなくても、やっぱり大事なんだろうなぁ……。」

「それだけじゃないだろう。君と、ずっといたいんだよ。あの子は本当に君が……。」

と、そこまで言いかけて、はっとなる。

ずっと一緒にいたいと真尋が願っていた、大好きなヒカルを奪ったのは僕だと自覚していた。それがあらためて、圧倒的な哀しみとともに迫ってくる……。

罪悪感というものがこんなにも心を堰き止めてしまうのだと、僕は初めて知った。

「すっかり暗くなっちまったな。ヒロが待ってるんだろ?早く戻れよ……じゃあ。」

「ああ、うん……。」

またな、と軽く言って、進藤がその大きな手の平で僕の肩をそっと押した。

もう行けよ、と彼の手に促されたのだろうが、僕は一瞬の触れ合いに、胸を掻きむしりたくなるような感覚を覚えて、その場から動けなかった……。

痛みだけでもない。甘さだけでもない。

言葉なんかで説明出来ない感情を、一週間とちょっとの間にどれだけ胸に抱いただろう。

一つだけ言えるのは。

渾然となったその名前の付けられない感情は、進藤ヒカルからしか与えられないものだということだ―――。



動こうとしない僕に進藤は手を挙げて、背中を見せた。

さっさと角を曲がって、最後の明るさの中に消えていった彼の残像を……その時、辺りに漂っていた夏の終りの匂いを……僕はいつまでも手放せなかった。

今年の夏が、本当に終わろうとしていた―――。










進藤が家を出てから数週間後に、真尋の誕生日を迎えた。

「ねえ、お父さん、僕のお誕生日にはヒカル、帰って来るよね?」

何度もそう訊ねられて曖昧に返事をしていたが、当日の朝にそう念を押された時には、とうとう僕も腹を括った。

「真尋……ヒカルはね、もしかしたらこのおうちにはもう住まないかもしれない。いや、多分お引越しすると思う。」
「ええーっ!ヒカルどこ行っちゃうの?遠くへ行っちゃうの?」
「いや、同じ東京に住むよ。でも、ここからそんなに近いところじゃないだろうから、時々しか逢えなくなるかもしれない。……ほら、お前だってどんどん大きくなって保育園も楽しくなって、進藤とばっかりは遊べないだろう?」

出来るだけ明るく言おうと努めた。
一生逢えない訳じゃない。だから、全然大したことないのだと、安心させてやりたかった。

「お父さん、本当にヒカル、お引越ちしゅるの?……どうちて出て行っちゃうの?そんなこと、ヒカルは言ってなかったよっ!ねえ、お父さん、ヒカルはどこに行っちゃうの?」

みるみるうちに顔が曇っていく。小さな鼻の頭に、赤い色が集まり始めていた。

「真尋……ご免、お父さんもいつ言おうかって迷っていたんだけど……進藤も仕事が忙しくなったし、お前も大きくなったから、もうお父さんと二人で住んでも大丈夫だと思ったんだよ。いつかは別々に暮らさなきゃ、ならなかったんだ。」
「それってお約束だったの?僕が大きくなったら、ヒカルはよそへ行っちゃうってお約束してたの?」
「お約束……そうだね、進藤がこのうちに来た時に、いつかは出て行くことも決まっていたんだ。ちょっと急だってけれど、仕方ないんだよ。進藤もそのうちお嫁さん貰って、真尋みたいな子供が生まれて……だから、お前も淋しいかもしれないけど、我慢しないと、ね?」

幼い子供に諭しながら。
まるで、自分に言いきかせているような気がしていた。

仕方ないんだ……決まっていたことなんだ、最初から……好きだから、愛しているから―――手放さなくてはいけないと。

「ヒカルが出て行ったらイヤだ、イヤだよぉ、お父さん!ヒカルが出て行かないようにちてっ!お父さんっ!お願いっ!」

真尋が全身で僕にぶつかって来た。僕はしゃがみ込んで彼を抱き締める。
四歳を迎えたばかりの体は少しづつ幼さを脱皮し、お腹周りのふくよかさが消えて男の子らしい骨ばった体になりつつあった。
それでもまだ頭から匂い立つ香りには、子供特有の汗の甘酸っぱさが混じっている。

―――愛しい体。愛しい命。
込み上げてくるものは、きっと進藤が感じていたのと同じものだろう―――。

「ご免……お父さんも、これだけはどうしてやることも出来ない。進藤は元々、このおうちの人じゃない。真尋のお母さんが天国にいってしまってお父さんが大変だったから、一緒にお前のことを育てようと言ってくれたんだ……でも、もう真尋はうんと大きくなったろう?もう、四歳のお兄ちゃんだろう?」
「じゃあ、僕は大きくならないっ!三歳のままでいるっ!お誕生日なんて来なくていいっ!ヒカルが帰って来ないなら、お誕生日はいらないよぉ……。」

泣きじゃくる彼の頭を、一層深く抱き込む。
お前の髪にそっくりだと僕をからかっては、それでもいつも進藤が嬉しそうに梳いてやっていた黒髪を、優しく撫で続けた。
心でひたすら、ご免と謝りながら……。

何とか真尋を落ち着かせて、保育園に送り出した時にはいつもの登園時間を大幅にまわっていた。
休ませて一緒に居てあげた方がいいだろうかとも思ったが、あいにく朝から仕事も入っていた。それに、かえって外に出た方があの子も気が紛れるかもしれない。
泣き腫らした目元のまま送り出すのは胸が痛んだが、僕はそうした。
今夜はおうちでアンパンマンのお誕生日ケーキが待っているよ、おじいちゃん達からもたくさんプレゼントがあるよ、と励まして。

最初は辛いだろし納得出来ないかもしれないが、やがて慣れていくだろう……進藤のいない暮らしにも。
何せ真尋はまだ小さい。今のうちなら傷だって浅い筈だ。
これで、いいんだ。こうするしか、ないんだ。

―――そして。
一方の進藤は今、何を思っているのだろう。
真尋の誕生日だってことは、ちゃんと知っている。彼の誕生日と数日違いなので、よく覚えている筈だ。
誕生日が近いってことは絶対に相性がいいぜ〜、お前の射手座とは最悪だけどなっ!……と、憎まれ口をたたいていたっけ。

今日の進藤は、大きくはないがあるタイトルをかけての地方手合いで、泊まりで出掛けている。
おめでとうと電話をかけてくるかもしれない。
いや、そのくらいはしてくれるだろうと僕は期待していた。



誕生日だからと今日は早めに真尋を迎えに行ったのだが、そこで保育士さんが慌てて僕に声を掛けてきた。

「真尋くん、お昼を食べた後くらいからお腹が痛いって言い出したんですが。」
「お腹が?」
「ええ、今日はお誕生日だねってお昼ご飯の時に皆でお祝いを言って、その頃から何だか様子がおかしくて……反応がほとんどないので、照れてるだけかしらとも思ったんですが。さっきからお腹が痛いってうずくまっているので、病院に連れて行こうかと、丁度塔矢さんにご連絡しようと思ってたところでした。」
「どんな様子ですか?今はどこに……。」
「事務室です。簡易ベッドに寝ています。でも、そのぉ……もしかしたら仮病、というか精神的なものかも。」
「え?仮病?」
「本当に苦しそうというよりも、苦しいフリをしている感じがするんです。苦しくなりたい、本当に痛くなりたい……だからそう強く思い込んでる……というのかしら。何度かそういう子を見てきましたから。」

保育士さんは、年配のベテランの人だ。真尋のことも入園から知っているので、うちの事情にも詳しい。
ご家庭でも色々とあるでしょうが、今日はお誕生日ですし問い詰めたりしないで優しくしてあげてくださいねと言われ、僕の親としての未熟さをも包み込むように笑ってくれた。

事務室に通されると、真尋はもう起き上がって帰り支度をしていた。

「真尋、お腹が痛いって、大丈夫か?」
「ん……痛いの、とっても……。」

顔色は決して悪くはない。無理矢理しかめ面を作っているようにも見えた。

「そうか、病院に行く?お腹の薬を飲む?」
「だいじょぶ、今日だけ寝てたら治るの、きっと。……でも、今日はね、ケーキ食べれない……ローソクふうっ……てちゅるの、出来ない……。」

―――その言葉を聞いて、僕は気が付いた。

ああ、そうか!そうなんだ!
ケーキを食べて、ローソクを吹き消すことが、真尋にとっての誕生日なのだ。だからそれをしなければ、誕生日を迎えたことにならないと、そう理解しているのだ。

今朝の話と繋がった。
自分が大きくなったら進藤が出て行ってしまう。四歳になってしまったらもう大きい子だから、ヒカルが帰って来なくなると、そう思ったのだ。

言葉が暫く出なかった。
気持ちが痛い。真尋の進藤を想う気持ちの強さ、真っ直ぐさが痛い……。
僕は今朝と同じように息子を抱き締めて。

それから決めた。
今から、進藤に逢いに行こう。進藤と二人で、この子の誕生日を祝ってあげようと。
それが、今僕がこの子にあげられる最高の誕生日プレゼントだと思えた―――。



保育園から戻ると、進藤の行き先を棋院に確認して簡単な旅支度をする。そして、彼の携帯に電話をかけた。

「塔矢?ああ、俺も今仕事終わって、真尋にかけようと思ってたとこ。アイツ、誕生日だろう?プレゼントはまた今度、一緒に選びに行こうかと思ってたけど、連れ出してもいい?」
「今からそっちへ行く。僕と一緒に真尋の誕生日を祝って欲しい。君と一緒に居ることが、あの子にとって最高のプレゼントだよ。」
「ええ?……待てよ、塔矢。話が見えない、今からって……ここ、新潟だよ?どうやって来るのさ、こんな時間に。」
「車で行くよ。新幹線もあるかもしれないけど、天気もいいし大丈夫だ。車ならあの子が眠くなってもいいし。」
「塔矢、お前……本気なのか?」
「うん、本気だ。せめてそのくらいはしてあげたいんだ。」

―――少しだけ、間があった。
進藤の心にもさまざまな思いが過ぎり、すぐには返事が出来ないのだろう。
やがて彼が、鼻で笑う時のような、小さな溜息をついたのが聞えた。きっと電話の向こうで、仕方ないなと苦笑しているのだ。
お前は昔っから、言い出したらきかねーヤツだもんな……と。

「……わかった。でも俺が帰るよ。明日の朝、早く戻ってくればいいし。」
「駄目だよ、君は手合いだろう。大事な手合いの最中に抜け出すなんて僕が許さない。それよりも、酒は飲まないで僕らが来るのを待ってろ!」
「塔矢……。」
「今度は、僕が行く―――君のところへ。……じゃあ、急ぐから切るぞ。」
「ああっ!待って、塔矢!絶対に安全運転で来いよっ!急ぐなよっ!いいなっ!」

わかったからと答えてすぐに切る。
気持ちは既に、進藤の元へと駆け出していた―――。



「ええっ!お父さん、本当?今からヒカルのところへ行くの?」
「ああ、行こう、進藤はお仕事を終わって待っている。ちょっと遠いんだけど、真尋は車の中で寝てていいよ、着いたら起こしてあげるからね。」

僕は彼をチャイルドシートにしっかりと乗せて、それから帰りに寄って受け取ったバースデイケーキも崩れないように固定させて、僕らは出発した。

高速に乗るまでは時間がかかった。
真尋の好きな童謡やアニメソングのテープを大きな声で一緒に歌ったり、お喋りをしたりして過ごす。
すっかりお腹の痛みなど忘れたようだった。大好きなヒカルに逢えると思った途端に、体の痛みなんて消えてしまったのだろう。

やがて日もすっかり暮れて、疲れも出たのか真尋の言葉数も少なくなった。
この一秒一秒が進藤に近付いているのだと思うと、ついアクセルを踏み込みがちになってしまう。
逸る気持ちをどう抑えればいいのだろう。
ただ、彼に逢える。それだけで、その先の未来がどうあろうとも、嬉しい。
嬉しくて、心が軽くなってどこかに飛んでいってしまいそうになるのを、強くハンドルを握り締め、前を見詰めることで僕は耐えた…………。

一度だけ休憩をとったが、もうその頃には真尋は寝てしまっていた。あと少しで着く。
僕は少しだけクールダウンしたくて、今日の進藤の対局はどうだったのだろうとか、あちらにいる棋院関係者に見つかったらうるさいだろうな、どうしようかなどと、とりとめもなく考えた。

再び車を走らせる。
インターを降りて、進藤のいるホテルに向かって一般道を走る頃には車も少なくなった。
僕は気が緩んでしまい、ついつい飛ばしていたのかもしれない。
人気のない交差点を左折した瞬間。
飛び出して来たバイクに接触しそうになって、急ハンドルを切った。

「―――っ!」

タイヤがギュルギュルと悲鳴を上げ音を聞きつつ、必至で操作する。ブレーキをかける。
ガードレールに車体がぶつかってそのまま数メートル引き摺った。
もの凄い音と振動に、車ごと揺さぶられた。
荷物が助手席から滑り落ちるのが見えた。
とっさにミラーで真尋を確認するが、シートに守られて大丈夫のようだ。
僕はやっとガードレールが切れたところで、歩道に乗り上げて停車させた。バックミラーで、バイクが転倒することもなく無事に走り去るのを見て、安堵の溜息が漏れる……。
思わず、ハンドルに両手を掛けて突っ伏した。

危なかった。
もしあのバイクを引っ掛けて怪我でもさせていたらと思うと、冷や汗が流れた。まだ心臓がバクバクしている。

「お父さん?……どうちたのぉ?」
「ああ、ご免、おこしちゃった?どこか、体が痛いところはない?」
「ううん、音が大きくてびっくりちたの。どこも痛くないよ。お車、壊れたの?」
「ちょっとぶつけちゃったな。でも多分大丈夫だ、運転は出来そうだよ。……ご免ご免、驚かせて。あ、進藤には内緒にしとこうね。心配させたくないから。」

僕は一応車の状態を調べてみるが、車体はへこんではおらず、かすった痕が白く残っているだけだった。これくらいなら大丈夫。
ガードレールも問題無さそうだった。
僕は再び発進させた。もうすぐ。もうすぐ、進藤に逢える……。



「ヒカルーーーッ!」
「おお、来たな〜、誕生日小僧めっ!四歳おめでとうっ!」

きゃあきゃあ言って進藤にまとわり付く真尋は、全身から眩しいばかりの喜びを発散させていた。
さっきのアクシデントから彼は目がさえてしまったらしく、ずっと起きたまま進藤に逢う瞬間を心待ちにしていたのだ。

ホテルのロビーで暫く、僕は二人の再会劇を離れたところから見ていた。

何週間ぶりかで、じっくりと見る進藤……。
彼が同居していた頃から、真尋と一緒にいる彼を見るのは僕の密かな楽しみだった。
少し、痩せたような気もする……それでも、この夏もよく焼けたみたいだ。肌にはつやと張りがあって、彼の逞しい腕や首筋、精悍な顔立ちを引き立てていた。
髪も少し伸びたみたいだな……無造作な後ろ髪は肩にかかって、シャギーの入った前髪の方は、彼が鬱陶しそうに掻き上げるたびに、くっきりとした印象的な目元を覗かせた。

彼を見ているだけで、胸の奥底の何かが、揺れる。……揺すられる。

「なあ、部屋を取って置いたぜ。真尋と一緒に今夜はそこに泊まれよ?」
「そこまでしてくれてたのか……悪いな。じゃあ、その部屋に行ってから、持って来たケーキでお祝いしようか。」
「わ〜、ロウソクふうちゅるの?ちていいの?」
「願い事は考えてるか〜?一気にふうするんだぞぉ。」

僕が荷物を取って来るからと、二人を残して地下の駐車場に向かおうとした。
進藤に車の傷跡を見られたくなかったのだが、手伝うよと言う彼を無理矢理振り切ろうとしたら、かえって不審に思ったらしい。

「何で〜、俺も荷物持ってやるよ?ケーキとか真尋のプレゼントとかもあって大変じゃん?」
「いや、本当にいいから。ベルの人を頼むよ。」
「お父さんねー、お車ぶつけちゃって、ヒカルに怒られるのがイヤなんだよね!」
「真尋!」

時既に遅し、だった。
進藤が目を見開いて息をのんだのを見て、僕は視線を逸らした。
バツが悪い……あれだけ運転に気を付けろと言われていたのに。

「……いや、大したことないんだ、バイクと接触しそうになって慌ててハンドルを切ったら少しガードレールでこすっちゃって。あ、バイクも何ともなくて走り去ったし、僕らにも怪我はないし。」

言い訳をする僕を、じっと進藤が見詰めている。ひどく居心地が悪かった。

「大丈夫なのか?ヒロも……お前も……。」

その声は弱々しくて、今迄真尋とはしゃいでいたのと同じ人物のものとは思えなかった。
馬鹿やろう、だから俺が運転気を付けろって言ったのにと罵倒されるだろうと身構えていた僕は、拍子抜けして彼を見た。
すると彼は、真尋を抱きかかえて自分の目線の高さにすると、片手でくしゃくしゃとその前髪を乱して、微笑みかけた。
抱き上げられた真尋の、おかっぱの髪がサワサワと踊っている。

「良かったな〜、お前、本当に無事で良かった……誕生日に怪我なんかしたら、最悪だぞぉ!」

真尋が、お返しするみたいに進藤の金色の前髪を引っ張って、彼に声を上げさせた。
二人の間に柔らかな、信頼に満ちた笑い声が響く。
僕はその光景をとても神聖なもののように感じて、黙って見入ってしまった……。



部屋に上がって、驚いた。
進藤が気を利かせてホテルの人に頼んだらしく、部屋には花が飾られ、テーブルにはジュースとワインが乾杯が出来るようにと用意されていた。
それから、進藤が待っている間に手持ち無沙汰だったから作ったんだと、折り紙で子供が作るような輪っかを連ねた飾りが、テーブルの周りやベッドの上や窓際を彩っていたのだ。

「俺って保父さんになれそうだよな〜、あ、今は保育士さんか?」

そう言って、進藤が屈託なく笑う。

僕らの到着を心待ちにしながら、この紙の鎖を一つ一つ手作りしてくれていたのか……。
彼の優しさと細やかさが、僕には信じられない。不意打ちの愛情に、言葉を失うほどだった―――。

それでも待ち切れない真尋に急かされて、ちょっと形の崩れたアンパンマンの顔が描いてあるバースデイケーキにロウソクを立てて、火を点けた。……灯りを落とす。
ハッピーバースデイを歌い終わると、真尋は照れ臭そうに進藤と僕を交互に見てから。
頬を膨らませて、口を尖らせて。必至で炎を吹き消した。
わずか四本のローソクでも、小さな子供には大変な作業らしい。
その精一杯の仕草の一つ一つが、愛らしくてならなかった……。

はしゃいでいたのが嘘のように、真尋はお風呂に入った後にコテンと寝てしまったらしい。
風呂に入れたのも、寝かし付けたのも、真尋本人の希望で進藤がしてくれた。
僕が挨拶しないのも失礼だろうと、一緒に泊まっている棋院関係者のところへ行っていた間のことだ。
部屋に戻ると、進藤が一人で飲んでいた。

「こら、明日対局だろう。ほどほどにしろ。」
「うひー、お前に怒られるのも久しぶりだなぁ……。」

おどけた彼の横をすり抜けて、窓際に向かった。
部屋は十二階で日本海に面していたから、夜で殆ど見えないとわかっていても、珍しい日本海の情景に目を吸い寄せられてしまう。

「やっぱり、しぶきが荒い気がする。太平洋側と、そんなに違いはないのかな?」
「どうだろ?明日、俺が対局している間に真尋と見に行けば。それから帰ればいいじゃん。」

進藤が椅子から立ち上がると、僕の横に立った。
どちらか片方が腕を伸ばしても届かない、遠い距離だった。
……それは、今の僕らに必要な距離だった。

「進藤、今日はありがとう。僕ら親子の我儘をきいてくれて。考えてみると、ずっと君は僕らに振り回されてきたんだな……。」
「だからそういうの大っ嫌いだって、俺は今までも散々言ったろ?したいからするの。したいことしか、俺には出来ねーの!お礼を言われると、むず痒くなっちまう〜!」

本当に肩をすくめた彼に、僕はそうかとだけ返して軽く笑った。

「……なあ、塔矢。さっきヒロ、どんな願い事したのか教えてくれなかったな。お前、知ってる?」
「君……まさか気が付いていないのか?こんなにあの子に求められて……僕にはわかってたよ。あの子が今望んでいることは、たった一つしかない……。」
「ああ……んー……そっか、そういうことか、な?」
「うん、そういうことだよ。進藤……。」

みなまで言わなくとも通じる。
真尋が誕生日に願うこと―――それはおそらく、進藤ヒカル……君のことだ、君のことをあの子は…………

「いやあ、待てよ?もしかしたら碁が強くなりますように、とかかもしんないぜ。」
「碁といえば……あの子、最近飲み込みが良くなってきた気がするんだ。急に色々なことに対する反応が鋭くなってきたというか……年齢的に、ステップを上がる時なのかな?」
「そうかもしれないなぁ……この前も碁会所で頑張ってたぜ。お前も小さい時、こんな風に打ってたのかな〜って、思った。顔立ちも髪型もそっくりだって、広瀬さんとか言うんだもん!」
「ええ、広瀬さんがいらしてたのか?お元気だったか?」

ひととき、他愛のない話が続いた。
お前も運転で疲れただろうし、そろそろ部屋に帰るよと進藤が切り出した時、確かに明日も対局がある彼をこれ以上は引き止められないと、僕もそうだねと頷いた。

「あのさ、最後にちょっとだけ、いい?」

進藤が視線を窓の外に向けたまま、目の前のガラスにそっと這わせるようにして、手をこちらに伸ばして来た。
でも、彼が目一杯伸ばしても、僅かだが僕には届かない。
僕は一歩だけ体をスライドさせて、進藤の方に寄った。
……彼の指先が、髪の毛を遠慮がちに掴む。
肌には触れられていないのに。ただ髪の毛だけなのに。
僕は全身が熱く波打つような血の巡りを感じて、苦しくなってくる。
それは進藤も一緒で、彼の呼吸が乱れてきたのを感じた。

「……お前が無事で……マジで良かったぁ……もう心配させんなよ。頼むから……それだけは言っておきたかった……。」
「うん……気を付けるよ。帰りはいつも以上に安全運転を心掛ける。」

髪の毛に触れていた指がするりと落ちて、僕のうなじをなぞってから前へと廻り込むと、今度は鎖骨のラインを辿る。
それから、のどを通って顎の山を越えて、唇に辿り着いた。
一筆書きのように、一度も僕の肌から離れないで最後まで行き着いた指先は、そっと僕の唇を左右に往復してから―――離れていった。

熱が、去る……。その瞬間、小さな震えが起きて。
僕は身を固くし、息を詰め、瞼をぎゅうっ……と閉じて、やり過ごした。

その一連の動作を、進藤が横目で見ているのを感じていた。
最初の晩に、彼にされたことと同じだ。
僕の体に触っているようで、そうじゃない。体を通して、目に見えない僕の心に触れたいのだと訴えている。
そういう、もの言いたげな触り方だった……。

しかし、今の僕にはどうしようもない。
真尋がすぐ傍で寝ている。進藤の部屋に付いて行けばいいのだろうか。そして、また、秘密の時間を持つのか?
それで、僕らは本当にいいのか―――。

重たい沈黙を進藤は的確に受け止めて―――そして決断した。

「おやすみ。明日の朝、電話するな。……あ、ヒロのヤツ、おねしょするかも。さっき寝る前におしっこ出なかったからさ〜。」

軽い笑い声を立てて、進藤が大股で部屋を出て行こうとする。
僕は窓に体を向けたまま、振り向かないでおやすみを返すことしか出来なかった……。

寝苦しい夜だった。
元々、枕がかわると寝つきの悪い僕は、地方対局や泊まりのイベントが好きではない。
片や進藤は色々な土地に出向くのが好きらしく、その土地の名産をお土産に持ち帰るのも趣味のようなものだった。
でも、もう彼が僕らのうちにお土産を持って帰って来ることはないのだろうかと、何度も覚悟を決めてもそれでもなお拭えぬ淋しさに、僕の眠りはなかなか訪れてくれなかった……。

翌朝は、約束どおり進藤からの電話で目が覚めた。
一緒に朝食をとろうということになり、ラウンジに降りて行く。進藤はここでも気を遣って、棋院関係者が行かない場所を選んでくれた。
真尋と僕が並んでいたら、それだけで好奇の目を向けられるだろう。お前ら親子、頭がおそろいのおかっぱなんだもん……目立っちまうだろ?と、進藤がケタケタと笑う。
僕もこら、それを言うなと彼をたしなめる。
真尋が横で、そうだよー、おかっぱおかっぱって、言―わーなーいーでーっ!と、四歳とは思えない強い語気で言い返す。
それは、不思議なくらい以前と変わらない、僕らの日常の光景だった。



朝食後に、僕らは進藤の対局が始まる前に出発することにした。
僕も午後から仕事が入っているし、真尋も疲れているので、今日はいつもお世話になっているシッターさんに自宅で面倒をみて貰うようにお願いしていた。

もうすぐ対局開始なんだからいいよという僕を押し切って、進藤が駐車場まで荷物を運んでくれると言う。
車の破損状況を確認する時には真剣な顔付きになって、もし少しでもおかしいと思ったら絶対に運転するな、電車で帰れよとしつこく念を押された。

それから、真尋をチャイルドシートに丁寧に括り付けていた。
心配性だなと苦笑すると、鼻で笑うな、昨日約束したじゃんか……と、怖いくらいに真面目な顔で返される。
進藤がどれだけ僕らを大事に思ってくれているか―――それを、痛いほど伝える表情だった。

「わかったよ、本当に安全運転するから。……だから君も安心して、勝ってこい!」
進藤の肩をポン……と叩いた。

その手を不意に掴まれる。あっと思う間もなく強く握り締められた。

「進藤っ!こら……真尋が……。」
「大丈夫、ここは死角だから。」
「……進藤……何か、言いたいことがあるのか?……大事な対局前だ。言いたいことがあるなら、言え。何でも聞くから。」
「塔矢……。」

進藤が、切なさに溺れているような瞳を向けてくる。濡れて、光って。
まただ。また、吸い込まれそうになる……。
僕も息を詰めて待つ。……そろそろ、車中の真尋が騒ぎ出すかもしれない。

「ああ〜、もう駄目だ!やっぱ駄目だ!俺、昨日もお前が同じホテルにいると思うだけでさ、体が疼いて胸が苦しくて眠れなかった……そいで、酒あおってやっと寝れたんだ。あ、俺、酒臭くねーよな?」
「あ?ああ、大丈夫だ。全然匂わないよ。」

さり気なくきわどいことを言われて、脈が早まる。
なのに進藤の方は屈託なく訊いてくるから、僕もつられて答えてしまった。
……手は、まだ彼のそれに繋がれたままだ。

「決めたよ。今、決めた。俺さ、暫く遠くへ行くわ。どっか遠く……そうだな、韓国とか中国だったらヒロも簡単に逢えないって理解出来るだろうし、もっと遠くでもいいかな〜。一年か二年離れてたらさ、ヒロも俺がいない暮らしにすっかり慣れてオッケーになるさ。俺も、お前ら親子がいなくてもオッケーな体になりてーしなっ!」

ほら、こんな風にいつだって二人きりになったらお前に触りたくて、他のこと全部放り出したくなっちゃうからさ……と。
繋いだ手を左右に大袈裟に振ってから、解いた。
昨夜の指先と一緒で、離れた途端にその部分の熱が蒸発して、僕を虚しくも呆気なく冷やしてゆく……。

「進藤、本当に行くつもりなのか?」
「ずっと考えてはいたんだ。だからまだ部屋も契約してない。もし外国に行くなら新しく部屋を借りることもないしな。……決めたら連絡するよ。」
「どうして……。」
「……ん?」
「どうして僕らは離れなくちゃならない?どうして、こんな想いをしてまで、僕らは……。」
「塔矢……どうしてって……だってさ、それは……。」

自分が何を口にしているのか、わからなかった。
頭で練るよりも先に、口が勝手に動いて音が出ているような、変な感じだった。
僕の顔は、よほどぼんやりしていたに違いない。
進藤が心配そうに覗き込んでくる。わずかに首が左に傾いている時は、彼が心配事や、考え事を抱えている時のクセだ。
運転前に、僕をしっかりとさせたかったのだろうか。彼は僕の目を燃えるように睨み付けて、きっぱりと言い放った―――。

「どうして俺らが離れようとしているかって……お前がそれを望んでいるからだ―――塔矢。」

その瞬間の進藤は笑顔だった。それが僕の脳裏に焼き付く。
全てを見通し、全てを許しているかのような。鮮やかで、でも透明感すらあるような。
体の芯から、徐々に震えが起きて全身に伝わっていく。傍から見てもわからないだろう、とても微細な震えだ。
僕は、核の部分に触れたのかもしれない。

進藤と僕の、今ある関係―――。
これから作ろうとする関係―――。
その核の部分だ。その核が、振動を起こしたのだ。



「おとーさーん!ヒカルー!」

その時。
車の中でシートに座って絵本を眺めていた真尋が、さすがに退屈して声を上げた。
窓は閉じられていたが、その声は大きく響いて僕を現実に引き戻してくれた。

「ご免ご免!待たせて悪かったよ〜、俺ももう行くから、お前らも出発だな。」

進藤が窓ガラス越しに真尋に手を振ったり、勝って来るぜ〜と親指を立ててみせたり。
それを見て、僕も慌てて車に乗り込んだ。
早く、ここから去ろう。進藤のいる場所から、離れたい。
そう……彼は正しい。
先に望んだのは僕。先に決めていたのも、僕だ―――。
バックミラーに小さくなっていく進藤の姿を霞む視界で捉えながら、僕はアクセルを踏み込んだ。



「ねえ、お父さん、ヒカルと喧嘩ちたの?」
「え?何て……。」

走り出して、五分も経っていなかったと思う。
僕は真尋の存在を感じている時には、ちゃんと父親の顔をしていられる自信があった。それも今は出来ていなかったのかと、慌てる。
とっさに上手い返事が出て来ない。

「だってねー、昔は喧嘩ばっかりだったって、碁会所のおじちゃん達が言ってたよぉ。お父さんとヒカルは碁を打ってね、喧嘩ばっかりちてね、ヒカルは怒っておうちに帰っちゃったんだって!」

僕は思わず吹き出しそうになった。
そんな昔のことを誰が……ああ、広瀬さんがいたって言ってたなと思い出して、それだったら何を噂されても仕方ないなと思う。

「そんな頃もあったなあ、進藤もお父さんもうんと若い時だよ?二人とも気が強くて言いたい放題の男の子たちだったからね。よく派手な口喧嘩になったっけ……。」
「それでね、でもね、ちゅぐに仲直りしてまた碁を打ったんだよね?」
「ああ、そうだった……若い時は時間が経つのが早いんだ。すぐに何を怒っていたのか忘れちゃって、仲直りまでにほとんど時間はかからなかったなあ……あ、でもまた次の喧嘩をしちゃうんだよ。はっはっはーっ……。」
「わー、可笑しいのーっ!」

二人して思いっきり声を出して笑ったら、気持ちが軽くなった。

「ねえねえ、お父さんたち喧嘩ちたんだったら仲直りちたらー?僕ね、ヒカルがおうちにいなくても頑張るから、お父さんたちは仲良しに戻ってよぉ。ねえねえ……。」
「んー、別に喧嘩している訳じゃないんだよ?そうじゃなくて……。」
「あ、そうだっ!碁を打ったら?碁を打てば、全部わかるって言ってたよ、ヒカル!友達の気持ちがわからなくなったら、その子の好きなことを一緒にちゅるといいって。保育園でカズ君が僕に意地悪ちてきた時にね、教えてくれたの。カズ君と電車ごっこちたら仲直り出来たよ。僕、運転手さんを譲ってあげたの。」
「へえ……そうか、お友達の好きなことをね。」
「うん!ヒカルもお父さんも、碁が大好きでしょ?お仕事だもんね。いっぱい打てばいいじゃん!」
「真尋、その言葉遣いはどうだろう?いいじゃんって……お前、進藤にそっくりだな。」

小さく首を振って、苦笑いする。

打てば、いい……打てば、仲直り出来る……確かにそうだった。
どんなに彼の言動を憎たらしいと感じても、どんなに望みどおりの関係が得られずにもどかしいと感じても。
最後は打てば、僕らの間に永遠に横たわる深い溝を、何とか越えられてきた。埋めるのではなく、飛び越えることで生きてきた。
所詮、どちらも碁打ち。碁が一番。そういう我儘な十代、二十の前半を過ごしてきた。
だからこそ、碁が最高のコミュニケーションだったのだ。

今はどうだろう。
今、このがんじがらめの関係を、行き場のない想いを、解きほぐして流していくことにも、碁を打つことは役立つのだろうか?

最後に打ったのは真尋が神戸に行っている間だった。今度公式戦で対局するのも、もう少し先になる。
進藤と打ってみようか。……いや、打ちたくなった。
彼と碁盤をはさんで、無心で打つことで、語り合いたくなってきた。

その気持ちを見透かされたように、真尋がもう一度僕に言った。

「ねえ……ヒカルと打ってよぉ……。」

……進藤さんと、打ってみればいいじゃない?アキラさん……

あ。
不意に、蘇ってきた。

遠い昔、僕にそう言った人が。
そう言って微笑んでくれた人がいたと―――

僕は路肩に停車させて、背後の真尋を振り返る。一瞬、その顔が亡くなった妻に重なった。
僕に生き写しだと言われているが、目元だけは亡くなった千尋によく似ている。僕よりももっと大きくて黒目がちな瞳で、そして少しだけ目尻が垂れていた。優し気な、人を和ませる目だ。
その母親から譲り受けた目で僕をしっかりと見詰めて、にこにこしてる。
真尋の体を借りて、千尋が僕に語りかけているかのような、とても幸せな錯覚を僕は味わっていた…………。



僕が彼とプライベートに打つことは、その頃は殆どなかった。
それでも久しぶりに打ったら、何故だかひどい喧嘩になってしまい、僕は珍しく機嫌が悪いままその後待ち合わせをしていた彼女に逢う羽目になったのだ。
デートの間中眉間にシワを寄せていた僕からその理由を聞くと、彼女は何故だか嬉しそうに笑った。

―――碁で喧嘩したんなら、碁で仲直りするしかないんじゃないの?一局打てば相手がわかる……はアキラさんから教えて貰った言葉よ。名言なんでしょ?

その時、僕は何と言ったんだっけ…………ああ、そうだ…………進藤なんかと仲直りしなくていいよ、二十歳もとっくに過ぎてるのに、あの子供っぽさは何だ?顔も見たくない、と。
そしたら彼女はもっと大きな笑顔を作って、更に僕に言ったのだった。

―――ねえ、アキラさん、本当はどうしたいの?自分の心に聞いてみて。進藤さんとこのままでいいの?アキラさん、人生は短いらしいわよぉ。本当にしたいこと、本当の気持ち……目を背けたら後悔するかもよ。



そうだな。千尋、君の言う通りかもしれない。
本当にしたいことは何だろうって、ただシンプルに自分の魂に訊ねてみよう。

さっき、僕が感じた違和感。進藤と最後に話した短い会話の中に、真実が潜んでいた。
自分が歩こうとしている目の前の道は険しい。もしその先に本当に望むものがあるのなら、険しさも困難も全て、引き受けて生きていける。

でも、今僕が選ぼうとしている道はそうじゃない。
望むものを手に入れる為ではなくて、他人や世間や、自分以外の基準で測った幸せを、彼に無理矢理押し付けようとしていたのかもしれない。
彼が果てしなく僕の望みに沿ってくれる、その深い愛に胡坐をかいて……。

そこまで考えて、僕は急に全てを理解した。
全てが見えた。



進藤は、僕が望むから離れる。
―――でも、彼は止めない―――僕の望みを叶えても、僕を愛することを止めない―――。



きっと僕が、自分もそうだと確信しているように、進藤も離れたところで僕を愛し続けるだろう…………。



それまで漠然と感じていたことが、はっきりとした形となって、意識された。

共に碁を打ってきた十五年余り。
共に暮らした二年。
そして、僅か三日間の激しい交わり。
それを糧に、これからも僕らは愛し合う。

それならば。
答えは一つしかない。
右に行っても、左に行っても、同じ険しさなら―――僕は進む道を、選び直そう。

―――進藤と。
愛する人と。ともに生きていってもいいだろうか―――



千尋、君のいる場所は、ずっと僕の心の大事な場所にあるけれど。
そこをいつまでも綺麗に、神聖に保っておきたいと思うのは、僕一人じゃない。進藤も、同じように君のことをとても好きで、大事に思ってくれているから。

いいだろう?千尋。僕にとって、最初で最後の妻。女性で愛したのは、生涯、君一人だ。
でも、今僕が生きている人で一番愛しいのは、真尋と、進藤ヒカルだ。
彼と二人で、君の遺した真尋を守って生きていく僕を、君はそこから見ていて欲しい―――。



気持ちが決まると、胸の中の濃い霧が晴れて呼吸が楽になった気がした。

「……真尋、悪いけれど、お父さんはもう一度進藤と話がしたいんだ。引き返してもいいか?」

僕は、僕の小さな息子に彼の最も喜ぶだろう提案をする。

「ヒカルと?でもヒカル、お仕事でしょ?」
「うん、でも、今だったら間に合う。今だったら、ギリギリなんだ。お父さんはもうちょっとも待てないんだ。すぐに進藤に言いたいことがあるから。いい?」
「へ〜、何て言いたいの?」
「僕の……真尋と僕の家から出て行かないで。これからもずっと一緒に住んで欲しいって、そうお願いしたいんだ。」
「ええ?本当に!お父さん、ヒカルにお願いちてくれるの?わあぁ……やったやったーっ!」
「あ、でもね、進藤がいいよと言ってくれるかはわからないから。」
「ええ〜、大丈夫だよ〜、ヒカルがイヤだって言ってもいいじゃん。……あっ!僕ね、いいこと考えた!今度は僕とお父さんがヒカルのおうちに住めばいいんだよー、ねね、そうでしょ?いいでしょ?」
「そうかーっ!僕らが進藤を追っ掛けて行くという手もあったな!昨日の夜みたいに、進藤を追っ掛ければいいのか……。」

真尋の提案があまりにも斬新で、僕は大声を上げてしまうほど感動する。
ああ……かなわない。親は、絶対に子供にかなわないのだ。
自分の血、遺伝子、そんなものを受け継ぎつつ。それでも僕とは違う。むしろ僕よりも強い。僕よりももっと柔軟だ。

「お父さぁん、僕、僕ね……おちっこしたいからホテルに戻って!」

背後で、真尋がバンザイした両腕を振り回しながら言う。
それが嘘でも本当でも。
どっちだっていいから、僕はUターンすることを決めて、小さな息子にミラー越しにうなづいて見せた。



携帯を使って、進藤に待ったをかけた。対局場に入るのをギリギリまで待ってくれと。
タイムリミットはあと三十分。今度こそ事故はご免だから、慎重に運転して来た道を戻る。

ホテルの車寄せで車を預けると、進藤が待っている筈の庭園に向かう。
ロビーを入り口から一直線に抜けて、大きなガラス戸を開けてそこへ出ると、奥のパラソルとテーブルの前に彼は立っていた。

不安そうな、一体何事なんだと言いたげな顔でこちらを見ているのが、ちょっと可愛い。
背後に、昨夜はよく見えなかった雄大な日本海が広がっている。
緑の庭は、朝の光を受けてみずみずしく輝いていた。きっと、スプリンクラーで水がまかれたばかりなのだろう。芝生にも水滴が光っていて、一歩、一歩と、進藤に近付く真尋と僕の靴をしっとりと濡らした。

「進藤、待っていてくれてありがとう。時間が無いからこれだけ言う。―――これからも僕と生きてくれ。真尋と僕と、一緒に住んで欲しい。」
「塔矢?お前……。」

僕は、ここで真尋の耳を、僕の両手で塞いだ。え?と子供が身をよじるのを力任せに封じて、早口で言う。

「プロポーズだよ、これは―――。」

そして笑った。
同時に、手を離す。
真尋がお父さん、お耳が痛いよ〜と抗議するが、僕はご免ご免、大人の話だからと彼の体を抱きかかえた。

目の前で、呆然と立ち尽くす進藤が可笑しい。
凄く可笑しい。
可笑し過ぎて、笑いを堪え切れない。
肩を震わせて笑う僕につられて、真尋も笑い出す。
興奮が抑えようもなく膨らんで、僕は抱き上げた真尋の体を揺さぶりながら、一緒に声を上げた。

「進藤、ふふ、はっはっは……君、何を固まってるんだ?はは……ちゃんと聞えたのか?二度と言わないぞ。」
「ちょっと待て……いきなり信じられるか、んなこと急に言われたって……だって、だって俺……。」
「ヒカル〜、おうちに帰って来てね?お仕事終わったらでいいから。あのねー、ひまわりの種がいっぱい採れたんだよ〜、ヒカルにもあげるから!」
「あ、ああ、ひまわり……そっか、もう種が……そんなに経ったんだ。」
「真尋、あそこにおトイレがあるから、おしっこしておいで。わかるだろう?一人で出来るな。」
「うん!」

駆け出していく真尋の後姿が、ロビーのトイレに入っていくのを確かめてから振り返ると、進藤が泣いていた。
静かに、微笑みながら、泣いていた。
綺麗な涙だと思った。彼の目から、彼の心が、涙の雫になって零れ落ちてくるのを見ているだけで、僕は満たされた。
―――それが彼の答えだとわかったから。

「俺、いいのかな?お前と、ヒロの傍にいても……ずっといても、いいの……。」
「うん、そうしてくれ。そうして欲しい。あの子の為だけじゃないよ。僕の為にも。」
「後悔しねえ?きっと……色々とあるぜ、これからも……だからお前もずっと迷ってたんだろ?」
「そうだな……多分そうだろう。だから、いくつかの約束は作ろう、そしてちゃんと守っていこう。」

特に真尋に関することは、慎重に考えていこうと言うと、彼も神妙に頷いた。

「なあ、これだけは聞いておきたいんだけど……お前、もしかしたらヒロの為に俺を連れ戻そうとか思ってる?それで、一度は決めたことを無理して……。」
「はぁ?馬鹿な……僕がそうしたいんだ、僕が決めたんだ……あ、でも……そうだなぁ、気が変わることは有り得るかもしれないなぁ、これからの君の態度次第では。」
「お、お前っ!性格わりーなあっ!俺のこと弄んでるのかよ?」
「君が変な勘ぐりをするからだ。」
「ご免……。えっとぉ、じゃあさ、ちいちゃんの墓参りに行かないか。三人で一緒に。彼女に報告したい……。」
「うん、それもいいな。……あ、また、千尋の棺の前で誓ったみたいに、何かを約束するのか?」
「へへ……この前、ついその話しちゃったもんなぁ。何だか我慢仕切れなくて、格好わりぃ……。うん、あの時はさ、ちいちゃんに言ったんだ―――俺、ずっと塔矢が好きみたいで、多分これからも好きなの止められないと思うって。だから、結婚も上手くいかなかったし……。絶対に塔矢の望むようにするから、アイツが幸せになる為だったら、何でもするって。それがヒロのことでも、何でもって。……そう言ったんだ。」
「幸せって、じゃあ、もしも僕が君と一緒に居ることを拒否したり、或いは他の女性と付き合ったりしても……それでも、か?」
「当ったり前じゃん?んなの、お前とヒロが幸せになるんだったら、何だっていいんだ。俺が傍にいるのがウザッテーなら離れるし、好きな女が出来たらそれだっていいし。俺のしたいことが問題なんじゃねーの。お前が大事なんだって……。」
「進藤……。」
「俺ってさ、大昔に一度大事な人をなくして、それから由梨にもいっぱい辛い思いさせちゃって……だからもう、二度と間違えたくなかった……今度こそ、本当に好きな人を大切にしたい、その人の幸せだけを祈りたいって思ったんだ。それをさ、ちいちゃんが亡くなった時に、お前とヒロを見てたら凄く感じた―――。」
「ありがとう……何だか君にそこまで想われるほどの人間なのか、自信がなくなってきた……しかもコブ付きだし?」

ちょっとばかり、照れ臭かった。進藤の告白が、美し過ぎて、尊くて、面映いとでも言うのだろうか。
我慢しようと思っても、頬が緩みっぱなしになってしまう。
僕のそんな様子をじっと見ていた進藤が、もう一歩だけ近寄って囁いた。

「俺、我慢できねーって言ったよな?さっき……これからも、エッチ込みでもいいの?」
「それは十分君の意向に沿うようにするよ。……そうだなぁ……家の中ではボディタッチは全面禁止だ、な。君はその気になるのが早そうだから。」
「えええーっ!どうすりゃいいんだよぉ?もしかして、もう本当に、これからは……ナシ?」
「馬鹿な……家じゃないところですればいいだけだろう?君も碁打ちの割には、手を読むのが下手だな。」

僕だって我慢出来るわけないよ、あんなにいいのに……と含み笑いをすると、彼にはとてもきいたらしい。
朱を注いだように頬が真っ赤になって、お前ってやっぱ思い切り良過ぎ、大胆なやつだーっと息を荒げて頭を掻き毟っていた。

ますます彼に対する愛しさが募る。
誰かに見られるかもという危険を感じつつも、僕の体は衝動に負けた。
鼻水を啜りながらえへへと照れ笑いをする彼の腕を、俯いたままそっと優しく擦る……。

「……それよりもプロポーズの答えは、OKだな?」
「あ、待ってよ!俺からもちゃんとさせて。……ね?」
「……。」
「塔矢、愛してる―――これからも、ずっと一緒だ。」
「うん、僕も愛してる―――。」

男女だったらここで熱い抱擁だ。そして、周りは拍手喝采というところか。
でも、僕らにはそんなものはなかった。必要もないし!
ただ、熱く視線を交わし、微笑んで、お互いの目の奥に、ゆるぎない誓いの色を確認して。
それだけで、十分だった―――。



「進藤先生!こんなところにいたんですか?あと5分もしないで始まりますよっ!」
「おとうさーん、ヒカルーッ!」

棋院の担当者に手を引かれて、真尋がこちらへやって来る。

「うわ、やべえ……俺、もう行かなきゃ。」
「ああ、折角だから予定は何とかしてもらって少しでも観戦していくよ、真尋と。」
「おお、ヒロ!父ちゃんがお前と一緒に俺の観戦してくれるってさ、お前〜、応援しろよ、俺のスゲー打ちっぷりで勉強しろ!」
「わー、ヒカル頑張れっ!僕もね、碁会所の時みたいにね、後から皆とケントーちてもいい?」
「コイツ〜、俺の碁を検討なんて生意気なこと言いやがってっ!いいぞ〜、しっかり見てろっ!」

早く早くと担当者に急かされながら、進藤が去っていく。
その姿に真尋は大きく手を振り、僕は初めてのウィンクを送った。……僕ら親子からの、最大のエールだ。

その時、風が背中から吹いてきた。
海風はどこまでも穏やかに、僕らの全身を、撫でていく。

「さあ、行こうか、真尋……ヒカルの碁を、見に……。」
「見るだけじゃ駄目だよお、応援するんだよっ!お父さんっ!」

風がもう一度、僕らに吹き付ける。
それは誰かからの、僕ら三人へのエールのように思えた。



もう一度僕らが共に住むあの家に戻ったら、今年咲いたひまわりの種を全部集めよう。そして、来年も植えてみよう。
果たして咲くのかどうかはわからないが、もし咲いたら、また種を採って、それから次の年にも蒔いて。
ずっとずっと、どこまで続いていくかはわからないが、花を咲かせ続け、種を生み出し続けてくれたらどんなにいいだろうと思う。

進藤ヒカルと。僕らの小さな息子と。僕の。

光に満ちた家、緑の庭、そしてこれからの人生を彩り、応援してくれるかのように―――。












NOVEL