― DESTINY ―
( 最終話 )
進藤の韓国行きは、もう間近に迫っていた。
―――あの日以来、僕は考え続けている。
おそらく、進藤自身も思うところがあるのだろう。彼と直接よりもまずは外堀からと思い、和谷君やその周辺に様子を伺ってみた。
しかし、進藤が記憶を取り戻したという情報は得られることなく、時間だけが過ぎていく。
いっそ進藤のお母さんに訊いてみようかとも思い始めた時に、進藤本人から連絡があった。碁会所で彼と別れてから、三日が経っていた。もう彼の旅立ちは二日後だという。
僕は覚悟を決めて、彼との待ち合わせの場所に向かった。
渋谷に最近出来たホテルのラウンジが待ち合わせ場所だった。そこに進藤は、僕の予想通りスンヒさんを連れて現れた。
どんなに覚悟を決めていても、彼と彼女が並んでいる姿は胸に堪える。似合い過ぎる……二人はどこから見ても、容姿も雰囲気もお似合いの、完璧なカップルに見えた。
「っよ!お前忙しいのに、呼び出して悪かったな。元気だった?」
「うん、大丈夫だよ。君たちが帰国する前に逢っておきたかったから。」
「こんにちは。アキラさん。」
可愛らしい声だ。日本語だと韓国なまりが出るが、そのなまりすらも可愛らしさを増幅させ、周りの保護欲をくすぐるのだろう。
進藤の横で、彼の服をすそを掴むようにして立っている様子が、傍目にもいじらしい。進藤も、彼女を大事に思っていることを伺わせるように、優しい目で見ている。
二人を見ながら、僕は自分に絶望した。
これから僕がしようとしていることは、この女性を裏切ることになるのだろうと思うと、自分がどこまでも醜いものに思えて、苦しかった……。
他愛のない話ばかりだった。
日本ではどこに行った、とか。何を食べ、何をお土産に買ったのか、とか。スンヒさんがいるからそうならざるを得ない。
そして僕には進藤の意図がわかった。
わざとだったのだ。彼は僕に訊かれたくないことがあるからこそ、彼女を連れて来たのだ。
苦い想いを噛み締めつつも、それを決して表には出さないで、僕は明るく振舞った。プライドがそうさせていた。
進藤は、それをどんな想いで見ていたのだろう……スンヒさんと親しげに話す僕を―――
じゃあ、これで……と僕が切り出した時、進藤は微かにほっとしたような顔をした。それを、僕は見逃さなかった。
そうか。その顔が、僕に確信させたよ。
矢張り君は、何かを思い出して、そしてそれを僕に気が付かれたくないのだな。
だったら、僕は僕でやりたいようにさせて貰うよ。だって……僕には、僕たちには、時間が残されていないから。
これから原宿に行って、最後のお土産探しだという進藤たちに別れを告げる時がきた。
僕は何気ないふりを装って、明るく席を立つ。別れの挨拶を形どおりして、彼らを見送って、それから僕は携帯電話を取り出した。進藤とスンヒさんの寄り添う後姿を見詰めながら……。
二人の姿が完全に視界から消えたのを確認してから、僕の指は彼の番号を押した。
「……もしもし、進藤。僕だ。黙って聞いてくれ。そのまま歩いて。」
『え?お前……どして。』
「今夜このホテルに部屋をとっている。君に来て欲しい。話したいことがあるんだ。」
『でも、俺……。』
「スンヒさんを送ってからでいいんだ。君と二人で話したい。今夜一晩……君の時間を、僕にくれないだろうか。」
『………。』
「どんなに遅くなってもいいから。待ってる……この前も言っただろう。―――逃げるな、進藤。」
『どうして俺が行かなきゃならない……。』
「アキラとして言っているんじゃないよ、僕は。……昔、『塔矢』と君に呼ばれていた僕が、そう言っているんだ。今夜、君の時間を欲しいと……。」
数秒の間があって。
それから、プツッと電話は切れた。
進藤は僕の言葉から耳を塞いだのか、或いは隣の彼女に遠慮したのか。どちらなのかはわからないにしても、僕は言いたいことは彼に伝えたのだから、あとは待つしかなかった……。
夜はどんどん更けていく。
僕は進藤に電話をしてからすぐに部屋に上がり、パソコンを取り出して棋譜の整理をしたりメールの返事をしたりして過ごした。彼が一体、いつ現れるのかわからない……いや、それどころか一晩待っても現れない可能性だってあった。
それでも僕は、電話の向こうで息を呑み、そして震えていた彼の息使いから、きっと僕の気持ちが伝わったと。
そして彼はそれを無視出来ないと、そう思っていた。
もしも―――僕が、彼の記憶が戻ったことに気が付いているのだとしたら。
彼は絶対にここに来て、それを確かめるしかない。そうするしかないだろう……。
部屋の呼び鈴が鳴ったのは、十時も回った頃だったろうか。
「どういうつもりだ……。」
部屋に入るなり、進藤は威圧的に言ってきた。不快感を僕に訴えたかったのかもしれない。
でも僕はひるまなかった。いや、むしろ進藤にそういう態度に出られた方が、気持ちが吹っ切れてやり易い気すらした。
部屋の中央まで彼を促すと、僕は突っ立ったままの彼に言った。
「コートくらい脱いだらどうだ?お茶を煎れるよ……あ、君はコーヒーの方がいいかな?」
「何、落ち着き払ってんだよ?俺に話があるんだろう?お前に散々世話になっておきながら韓国へ行っちまおうとしている俺に、言いたいことがあるんだろう?」
「いいから脱げ。―――それとも、僕に脱がせて欲しいのか?それでもいいけど。」
「と……アキラッ!」
「いつまで茶番を演じる気だ!?思い出したことをどうして隠す!?」
叩き付けるように言う。進藤の目が驚きに見開かれた。
「……どうして僕が気が付いたかって?君もそれはわかっているだろう……君は僕をあの日……戻って来てから初めて塔矢と呼んだ……ネット碁で再会してから呼んでいたアキラという名前でなくて、塔矢と……その時に直感したんだ。君は全部ではないにしろ、何かを思い出したんだと。……違うか?」
進藤は黙っていた。
沈黙が静かに時間を稼いでいるうちに、彼は何を考えていたのだろう……。
その内、ゆっくりとコートを脱いで近くにあったベッドに置いて、自分もそこに腰掛けた。
それを合図に、僕も進藤のと自分の為に熱いコーヒーを煎れた。温かい空気が、香気が、部屋の中に満ちてゆく……。
僕の手からカップを受け取った彼は、それを大きな両手で包み込むように持つ。膝の上に腕を付いて、手の中のカップから温もりを貰うようにして、暫くはそれを揺らしていた。
「……あったかいな。外は冷たい木枯らしが吹いてるのにさ……あったかい……このコーヒーも、部屋も……お前も……。」
穏やかな声。落ち着いた動作。手元のカップを見詰める進藤は、遠い記憶を手繰り寄せているかのようだ。
「全部って訳じゃないんだ……お前と旅行した後から、頭痛がひどくなって催眠療法とかも受けたりしているうちに、ぼんやりと色々なことがさ。断片的に……なんだけど、気が付いたら記憶がストン……と俺に帰ってきたみたいな感じだった……。」
「そうか。やっぱりそうだったんだ。」
「うん、俺がどうしてsaiって言葉だけを覚えていたのかも、ちゃんと思い出せた。」
「良かったな……きっと君にとっては、何よりも大事な記憶だろう。それは僕にもわかるよ。」
「ありがと。」
そこで話は一旦途切れた。僕も進藤の斜め向かいにある椅子に掛けて、コーヒーに口をつける。
進藤はベッドサイドにカップを置くと、僕の方に向き直ってこう言った。
「お前は、自分のことは聞かないのか?俺が、お前とのこと、どこまで思い出したのか知りたくない?」
「それは、知らない方がいい……いや、そうじゃない。君は知られたくなかったんだろう?思い出したことも、その内容を……。」
僕も、しっかりと彼を見返して言った。責めるような口調ではなかったつもりだ。だって、本当にそのことを責めたい訳ではないのだから……。
進藤は小さくため息をつくと、また語り出した。
「本当に、全部じゃないんだ。むしろ、大昔……子供の時の記憶とかの方がハッキリ思い出したりしてる。ガキん時、どういう動物飼ってたとか、どこで怪我したとか、さ。それからsaiのこと……これは、どうしてもお前と関わりがあってさ、いや、お前はそれ、どこまでわかってるのか知んないけど。」
「saiの話は、またいつかでいいよ。ずっと待つつもりだったし、急がせて君に負担をかける気はなかった。それよりも……。」
今度は僕が、手にしていたカップを置いた。
進藤も僕を見ていた。僕も、彼を見た。互いの視線がもう一度、真っ直ぐに結ばれた気がした。
「君は、どうしたい?これからのことを、どう考えている……。」
「うん。逃げちゃいけなかったんだな。俺、何もかもなかったことにして韓国へ行っちゃえば、そのうちお前も忘れてくれるんじゃないかって。でもそれはめっちゃ卑怯な考えだったんだろうよ。まさか……記憶のこと、お前にバレちまうなんてなぁ……。」
「知らないことにして、君を送り出してあげるべきだったのかもしれないな。君がそうしたがっているのは、感じたから。……でも、出来なかった。僕はこの三年、どれだけ君を待ったか。君にはわからないだろうけど……。その苦しみを昇華させるには、矢張り君と向き合うしかなかった―――。」
僕の真剣な言葉に少しだけ苦そうな顔をしてから、進藤はとうとう観念したように言った。
「ご免な……。俺、あの頃の記憶だけはまだあいまいなんだ。お前と最後に逢った後、一人でブラリと西の方に行った。多分九州のどこかの海岸で、個人所有のヨットかなんかに乗せて貰って……海がシケて遭難したんだと思う。そこを助けられたんだ、スンヒの爺さんの船に。」
進藤は自分が思い出した記憶の断片を、僕から聞いた過去と繋ぎ合わせて、少しづつ自分の記憶を確かなものへとしていったらしい。
僕は、ポツリポツリと語る彼を見ていた。
後ろ髪が少し長くなったままだ。日焼けしてしっかりとした首筋に、その髪がふわりと纏わり付いている。
時折前髪を鬱陶しそうにかき上げるその大きな手は、筋張って血管が浮いているが、痩せて貧弱という訳ではない。それは、君が十分大人の体に成長したことを僕に見せ付ける。
目は変わらず大きく、よく回転するその瞳が部屋の間接照明に、淡く優しく、揺らいでいる……。
「―――もう戻って来ないつもりか?」
「それは……わからない。でも、暫くはあっちにいる。爺さんの墓参りもしたいし、もし出来るならあそこの図書館にあった碁関係のものをどうにかしたいし……。」
「それから、スンヒさんのことか?また一緒に暮らすのか。」
「当分はそうなるかもしれないけど。でも、前も言ったと思うけど、俺はまだスンヒとそういう関係じゃねーよ。勿論、大事だ。兄弟のいない俺にとっては本当の妹みたいに思える。」
「でも、彼女は君を兄だとは思ってない―――。」
キッパリと。
僕は進藤の言葉を引き継いで、言い放った。声が、自然と一段大きくなった。
「君を追い詰めたくてこの話をしてるんじゃないんだ。君が記憶を取り戻したことを伏せて日本を離れるのだって、一時的なことで、いずれは本当の自分を見つけてこれからの道を決めるんなら……心に引っかかることがあるなら、納得いくまでそれを解決させてからでもいいと思う。碁界は動いているけれど、打つことはどこでだって出来る。今の君の実力からいっても、復帰は焦らなくてもいいと思うよ。だから……。」
心が裂けるような悲鳴を上げていた。……でも、僕はその先を続けた。
「スンヒさんと一緒にいたければ、そうすればいい。彼女の気持ちを大事にして、それに応えるのなら……僕に……僕に遠慮はいらない。僕と君の運命は三年前に大きく変わった。望んだ形とは違ったかもしれないが、一つの区切りを迎えていたんだ。」
それは―――
僕らのあずかり知らぬところで、大きく動いた運命の歯車だったのだと思う。
そうしたかったのではないが、進藤が僕を置いて旅に出て、その先で事故に遭い三年間もの空白が僕らの間に出来たことは、紛れもない事実。
誰のせいでもない……だがしかし、もう消せようもないことだ。
過去を取り戻して、そこからやり直すことは、到底無理。時間を完全に巻き戻すことは、決して誰にも出来はしないのだ―――。
だったら、僕らは進まなければならない。
現実を受け止めて、そこから新しい未来に踏み出していかねばならない。
過去にこだわっていては、心はやがて死んでしまう……静かに、でも確実に、その働きを失ってしまうだろう…………
「俺に、韓国へ行ってもいいと。スンヒの傍にいろと……お前は、そう言うのか?それは……本心から?それで、お前は苦しくはないの……だって、俺たちは昔、誰よりもお互いが必要だった……そうだろう?」
進藤の声は震えていた。
その目には、もう隠しようのない僕への気持ちが現れている―――熱く潤んだ瞳は、彼が僕を愛していることを伝えていた。
僕は立ち上がると、ベッドに腰掛けた進藤の前で膝まづく格好になり、進藤の手を取った―――碁石を掴む右手ではなく、左手を。
「……君のこの手に、ずっと触りたかった……覚えているか?いや、思い出しただろう……君は白い扇子を持っていた。碁を打つ時は、いつでも。若い君にそぐわないそれを、みんなが不思議に思っていた。僕もそうだった。でも、君を見てると、それがとても意味のあることなんだと感じられて……だから、理由を訊けないままだった。」
……ねえ、進藤。相手の想いの深さを感じ取ると、それは踏み込むことへのブレーキになるんだな……大切なことだと感じれば感じるほど、触れることが出来なくなって、がんじがらめになる…………
僕の、ほとんど囁きのような声に、進藤も涙で濡れた声で、答えてくれた―――
……それが、愛してるって意味なんだろうな……きっと…………
同時に伸ばした手と手が、互いを引き寄せた。
僕は進藤に引き上げられる。進藤は僕に縋り付かれる。
鼓動を重ねるようにして一つになった僕らは、ベッドの上で深く優しく抱き合っていた。
生きている。進藤ヒカルは生きて、僕の腕の中にいる。
そのことがどれだけ嬉しいか。幸せか。君に全部伝えられたら、どんなにいいだろう!
抱擁を解かないまま―――
僕は彼の耳にかかる髪の毛を、自分の唇を動かしてそっとかき上げる。直接吹き込んだ言葉は、僕の息以上に熱かったに違いない。
「進藤。今夜の君を僕に欲しい。僕だけのもので、いて欲しい……わかるか?この意味が……。」
ビクッ……と、進藤の体が跳ねた。ベッドのスプリングのせいで、それは何倍かになって抱き合っている僕にも響いた。
「……塔矢?」
「あ……やっと、呼んだな……僕の名前……聞きたかった、その言葉……君の声で……。」
「名前?ああ、そうだったな……アキラって呼んでいたのに、つい昔の癖が出て塔矢って言っちまって……一度そう呼んだら、もう歯止めがきかなくなりそうで、怖かったから、さ……。」
「怖い?何が怖いんだ?……僕にはもう怖いものなんて何もない。進藤ヒカルを失っていた三年の苦しみを思ったら、怖いものなんて……。」
言葉にならない気持ちが溢れてどうしようもない時。
人は抱き締めて涙を零すしかないのだろうと、進藤からの一層強い抱擁を受けて思った。
苦しみに悶々とした日々の僕を思って、僕の気持ちを想像して、進藤が泣いているのだと思うと、その涙は傷付いた僕を癒す、かけがえのないひとしずくになった―――
「ごめん!……塔矢、ごめん……三年前、俺、お前を置いていくつもりなんて、なかった……お前を苦しめたかったんじゃない……でも、帰れない状況になっちまったってことは……やっぱ俺の責任だ……俺が……お前をこんなに泣かせた……。」
言うと同時に、進藤の指が僕の頬を滑る。彼の指先に広げられて、頬が熱い膜で覆われたように感じた。
そうか……僕もいつの間にか言葉が気持ちに追い付かなくて、涙になってしまっていたんだな……
僕らは、涙にかすむ視界の中に互いを捉えて、大きく喘ぐような、生々しい呼吸だけを繰り返しながら見詰め合っていた。
僕はもう一度、彼に自分の最後の願いをぶつける。
「僕は今夜で君を忘れる……僕の愛した、そして僕を愛してくれた進藤ヒカルを、忘れることにする。だから、本当に最初で最後だ。僕と……して欲しい……。」
「……お前がそこまで言うの?……いいのか?本当に。後悔しないの……。」
「君が欲しい……全部丸ごと欲しい……そして、君には僕を……。」
「でも、これが最後だなんて……俺、しちゃったら絶対に忘れられない!一度寝たら、お前のこと忘れられないに決まってるじゃん?」
「でも、最後だ。僕はこれで君を忘れられる。忘れてみせる。……進藤。君は、僕の願いを一つくらいきいてもいいだろう?」
三年前、君に置き去りにされた自分の気持ちに決着をつけたい―――
「でも、俺、やっぱ……。」
「何をためらってる?怖いのか?やっぱり君は逃げ出すような卑怯なヤツなのか?」
「塔矢っ!じゃあ、いいんだな?男同士で愛し合うってどういうことかわかって言ってるんだな?これが最後でもいいって、本気で言ってるんだ……。」
もう我慢がならなかった―――どこまで優しいんだ、君は!
どこまで優しくて、相手の気持ちばかり考えて、悶々と悩んで……
君のその優しさが僕らの運命を歪めてしまったんだと。そして、それでも僕はそんな君が好きで好きでたまらない。止められないんだ、君を好きでいる自分を…………
だから。
君と体も結ばれることで、長い間の想いを成就させたい。寝ることを区切りにしたい。
明日に踏み出し、君を見送れる自分になる為にも―――
もう彼にためらう余裕を与えないようにと、僕はぶつけるように唇を重ねた。進藤もすぐに応えて、それは深く激しい、暴力に近いくらいの口付けになった。
三年ぶりの大人のキスは、最初から全身を甘く切ない感情で満たし切る、濃厚で官能的なものだった。
進藤の口付けは、僕が離れている間に夢想していたよりも、ずっと粘着質で情熱的だ。唾液の音が脳に響いて、溢れたものがポタポタと落ちるのを感じる。
どんなに逃げても追いかけて舌を吸われ、唇を甘噛みされた。息が苦しくて口内で呻くと、一瞬だけ唇を離すが、その瞬間にも濡れた音を立てられる。
そのやり方にも激しく感じて、ああぁ……と切羽詰って上げる恥ずかしい声を、彼にも散々聞かせることになった。
口付けだけで、もう互いのものが高ぶっているのはわかっていた。
我慢し過ぎたのだと思う。これまで押さえ付けていただけに、体の反応は驚くほど早かった。
少しでも離れるのが嫌だからこそ、服を脱ぐのには手間がかかってしまうのものだということも、初めて知った。指先が震えて上手く動かせない。興奮のあまり、手元がおぼつかない。
そうやって、手は必死で自分たちの服を脱がせ、脱がされているのに。
唇はほんの十センチほども離したくなくて、互いの顎を突き出しては合間合間に触れ合う。吸い合う。絡ませ合う……。
うるさい衣擦れの音が終わったと思った途端。
僕らは、思う存分に裸の肌を重ね、摺り合わせ、撫で回し。
あっという間に、声を上げて二人とも昇り詰めた……。
一度開放すると、すーっと体の熱が引いていく。でもたぎる想いには一層熱が注がれ、互いの腹を濡らしたものすら愛しくて嬉しくて。
無言のまま、白濁したそれを二人して手に取った。
汚くなんか、全然ないと思う。素直にそう思える。
混じり合った二人の欲望の証を、進藤は僕の下半身に広げると、やがてそれを受け入れるべき場所へと塗り込んだ。
僕も、抵抗なく足を広げる。
大きく広げた股間を余すところなく見られることは、恥ずかしいと思う。思うが、それでも太ももを彼の両手で押し上げられ、入り口にそっと指を這わされる時には、羞恥を超えた悦びと無理な体勢のせいで、ブルブルと下肢が震えた。
丁寧にそこを解されると次第に震えも収まり、自然に彼の体へと足を絡めた。
本当にいいの?……と。
潤んだ目に、尋ねられた。答えは、体で返した。
進藤の首に両腕を回し、腹に力を入れて起き上がった。彼が察して、僕の腰を支えて乗せてくれる。
向き合って座る形は、どちらが上でも下でもなく、同じ強さで求め合う気持ちの象徴のようだ。進藤の逞しく、程好く筋肉をまとった肩に両手でつかまって。
腰を浮かした僕は、彼のそそり立ったものへと体を沈めていった。
当然感じる抵抗も、足を左右に広げながら体重を少しづつ預ける形で降りていくと、そんなに苦痛ではなかった。
完全に一つになったところで、大きく息を吐いて見詰め合う。
「し、信じられ、な……お前が俺を、受け入れて、る……。」
そんなことをする為の場所ではないところに、異物を受け入れている辛さは僕のものであり、同時に進藤のものでもあった。
僕の気持ちにどこまでもシンクロして、僕が感じる全ての戸惑いも苦痛も、共に感じようとしてくれている。
口付けの能動的なやり方とは打って変わって、今は凪いだ海にたゆたっているかのように、静かに優しく腰を揺らし、馴染ませようとしてくれていた。
苦痛がやがて快感に生まれ変わるようにと、探るように軽く突き上げて、手と口で届く肌の全てを愛撫してくれる。
段々、黙っていることが辛くなった。声がどうしても漏れる。
自分だけあられもない声を出してしまうのはさっきで懲りたから、僕はずっと望んでいたことを口にした。
「進藤。お願いだ……呼んで欲しい、僕の名前を。」
……とうや、と。何度も呼んでくれた、その繰り返しが僕らの歩いた年月そのものだから。
アキラと呼ばれる度に辛かった。進藤が僕のことを覚えていない事実を、突き付けられるようで。
だから、彼が再び僕の名前を呼んでくれることは、愛情の確認というだけでなく僕にとってはもっと深い意味があった。
「とうやっ!とうや、とうや……そんなこと、いくらでも!俺だって呼びたいっ!お前がもううるさい、止めろって言っても駄目だかんな!一晩中呼ぶから……声が枯れて、も……ずっと……何回だって!」
興奮した進藤が、僕を呼ぶリズムに合わせて突き上げ始めた。
翻弄されるままに彼を受け入れ、締め上げ、自分のものも互いの腹の間で揺れるに任せる。その激しさゆえに、もう唇を合わせることなどとても出来やしない。
ただ悲鳴のような自分の喘ぎに混じって聞こえる、進藤の僕を呼ぶ声に無我夢中で縋るだけだ。
「もっと!もっと呼べ……しんど……もっと、僕の名前を……。」
「ああぁっ……とうや、とうや、とうや、とう……や……と、や……。」
「もう逢えないのなら、呼んで……一生分、呼んで欲しい……とうやって、僕の名前を、君の声で、君の呼び方、で……。」
一生分、僕の名前を呼んでくれ……もう二度と『とうや』と呼んでくれる君と、共に生きられないのならば!
もし運命が違う方向に流れていたら、一生でどれだけ君に愛情を込めて呼ばれただろうこの名前を、今夜は飽くことなく、時間の限り、君から呼ばれたいという僕の望みを叶えてくれながら。
進藤は僕の中で達して、僕も彼の絶頂感に感電したように、続いて果てた。
はあはあと荒れる息で、途切れることなく僕を呼んでくれる。とうや、とうや、とうや……
上下する胸を重ねたまま、進藤の手が僕の髪を優しく撫でてくれる。背中に流れるそれは、進藤を待ち続けた年月の分伸びて、今ではすっかり肩甲骨や背中の窪みを隠していた。
「とうや、大丈夫?痛くない?俺、抜くから……ちょっと横になろうな。」
僕の背中を髪の毛ごと抱いた進藤が、ゆっくりと身を倒して僕に被さる。髪を下敷きにしないようにと、最後は首筋から髪の毛を広げるようにして十本の指を滑らせて、ベッドの上に横たえられた。
進藤が、気遣いながら僕の反応を見ている。
下から見上げる彼は、頬や額だけでなく、伏せがちのまつげまでが濡れていて、真っ赤に充血した唇がゆっくりと微笑みの形になった。
……ああぁ……彼は、出て行こうとしているのだと。奥に感じる彼の拍動が去っていくのを想像しただけで、胸が再び熱くなった。
「駄目だ、行くな、離れるな……しんどー……僕の中から、出て行くな……もっと……。」
「んっ!とうや……でも、これ以上はお前が怪我するかも……無理しちゃ駄目だよ……ああぁ―――っ!とうやっ!」
僕は四肢を絡ませて、腰を引こうとする進藤の全身を引き付けた。このままでいたかった。僕の中に、彼の欲望を表す大事な部分をとどめておきたかった。
いずれ……いや、もう数時間後には離れて行ってしまう彼を―――全身全霊で感じていたい。
僕の体は、きっと僕の心のままにその想いを進藤の体にも伝えてくれたのだろう。一体感から得られる悦びを逃したくなくて、彼自身を引き込むようにそこがうごめいたのを、自分でも感じた。
「馬鹿っ!こんなことして……初めてなのに、お前、おかしくなっちゃうよ?足だって不自然に曲げてるから痛いだろ……俺、これ以上中にいたら……また……また…………とうやっ!だ、駄目だって。お願いっ!」
「いや、だっ!僕から離れたら……許さない……しんどー……。」
僕の息も、もう絶え絶えだった。確かに痛みは存在していた。でもそんなこと、どうだっていい。
今夜僕は、昔の進藤ヒカルを忘れる為に彼と愛し合っているのだから。
そして、進藤には僕を忘れないで欲しいと、密かに彼の心の記憶にも、体の記憶にも、僕を刻みたいという激しい欲求がそうさせていた―――。
夜が明けるまで。
僕らはずっと互いを離さないで、体の隅々まで確かめ合って感じ合って。
……いつ寝たのかすら、覚えていなかった。
ふと目を覚ますと、傍らの進藤が僕に腕を回して寝息を立てていた。その無邪気な顔に、出会った頃の面影を感じて、胸が詰まる。
けれど、もう彼に触れることはしなかった。ただ黙って、彼の寝顔を見ていた……。
体の節々が痛くて、それから腰がどうにもだるかったけれど、僕はそっと布団を抜け出して洗面所に向かった。
シャワーを浴びて体を綺麗にすると、髪も濡らす。そのまま鏡に向かい、あらかじめ用意していたはさみを手にした。
すっかり望みは果たされたと思う。後悔は微塵もなかった。
そっとはさみを濡れた髪の毛にあてて。
顎のラインに沿うように、一気に切り落とした。洗面台の上に落ちた髪を見下ろすと、我知らずため息が漏れる。
鏡に映った中途半端な髪の僕。
一瞬だけ、綺麗で真っ直ぐな黒髪のスンヒさんの顔が浮かんだが、それを振り払うように僕はどんどん髪を切り落としていった。
「塔矢っ!その髪!?」
すっかり着替えて帰り支度をした僕に向かって、進藤は当然のように驚いていた。
夢で見ているのかと、思っているのか?昨晩のことも、いや、記憶のなかった三年のことも、まさか全部が全部、夢だったとでも?
唖然とする進藤の顔が何だか可愛くて……僕は明るく言うことが出来た。
「スッキリしたよ!こんなに重たかったなんて、失って初めて知るもんだな。きっと髪を洗う時もラクチンだろう。この足で床屋に行って、ちゃんと切って貰うよ。」
声もなく立ち尽くす進藤に、笑いかけた。心から笑うことが出来て、僕はそんな自分に満足する。
進藤が状況に馴染めるまで、僕も立ったまま彼があちこち眺めるのを許していた。現実を受け入れるのには、それは時間がかかるだろう。
やがて、彼は全てを納得したように首を振った。
「……お前の髪、良かったら少しくれない?まだその辺にある?」
「駄目だ。もう捨てた。君が寝ている間に、外に持ち出して捨てた。」
それは嘘だったが、かまわない。進藤に自分の気持ちを……最後の気持ちを伝えた。
「僕はこれで君を忘れる。昔の進藤ヒカルをだ。今度、もし会うことや、ネット碁で対局することがあっても、新しい関係の僕らだ。だから。」
「………。」
「だから、髪の毛を持って帰るなんて無駄なことをするな。女々しい。君も今までの塔矢アキラは全部忘れろ。いいな?……忘れるんだ、進藤―――。」
昨日のことが嘘のように、少しも触れ合うことなく、ただ微笑みだけを彼に残して。
……僕は静かに部屋を後にした。
ホテルを出ると、朝日が一面に照り映えていた。冬の朝のキン……と冷たい空気が、頬を打つ。
まだ少し湿っている髪の毛を掻き集めるようにして、コートの襟を立てた。短くなった毛先が首筋にあたって、体が震えた……。
耳の奥に、進藤の声が蘇る―――とうや……と。
僕は、軽くなった頭とは引き換えのように一生分呼ばれた名前の重みを抱いて、新しい朝に新しい一歩を踏み出した―――