― DESTINY ―
( エピローグ )
「梅が咲いてるな。意外と春は近いのかもしれんなぁ……。」
「そうですね。白梅が綺麗だ。」
久しぶりの休みに、近くまで来たからと立ち寄ってくれた緒方さんが、僕と打ってくれた。
折角、庭の白梅が美しく咲いている。昼間から縁側に酒の席をしつらえ、出前を頼んだお寿司をつまんでいた。懇意にしているお鮨屋さんで、適当にみつくろって肴も届けてくれる。
「王座の就位式はもうすぐだな。最近痩せたみたいだから、急いで背広をあつらえ直した方がいい、アキラ君。酒は飲んでもメシは食わないんだろう、相変わらず。」
「そんなに体重は変わってませんよ。でも、身長が伸びたのかもしれない。一昨年髪を切ってから、頭が軽くなったからなぁ。」
「……自分の体に関してそんな冗談が言えるとは。いや、今一瞬冗談かどうかも悩んだぞ、相手がアキラ君だと。」
二人分の明るい笑い声は、冬にしては温かかった昼間の名残で、ほのかに春を予感させる空気の中に溶けていった。
進藤がいなくなって二年と少しが経つ―――。
僕は碁に打ち込み、初めてのタイトルを獲得した。今では進藤のことも、誰も話題にもしなくなっていた。
時々、僕らはネット碁で出会った。それでもただすれ違うだけで、決して対局することもなければ、連絡を取り合うことも絶えた。
それぞれの場所で、それぞれの生き方を探っていたのだと思う。
淡い梅の香りの中。もう一局と申し出てくれた緒方さんと僕は、ほろ酔い加減で打ち始めた。
数手進んだところで、電話が鳴った。緒方さんに断って席を立ち、電話に出る。
「はい。塔矢です。」
『……塔矢?』
心臓がドキン……と、大きく脈打つ。
その声は。その声……は…………
『ご免。携帯の番号忘れちゃって。自宅は棋院で聞いたんだ。あ、俺、進藤だけど……わかる?』
「わかるなんて変な聞き方するな。君のことを忘れる訳ないだろう。」
声が震えていなかっただろうか。必死で気持ちを落ち着けようと、突っ張ったような言い方をした。
『あれ〜、俺のこと忘れるってそう言ってなかったっけ?俺が日本を発つ前。』
「あ、揚げ足を取るなっ!感じが悪いな、君。」
『はっはっは〜、元気そうで良かった。そうそう、王座獲得、おめでとう。ずっと観戦してた。棋譜も研究させて貰った。』
「ありがとう。……君、わざわざそれを言う為に?」
『いや、今日は……えっと、今話してても大丈夫?』
「うん、平気だ。緒方さんと打ってるんだが酒も入ってるし、丁度あちらが長考に入っているから。」
『そっか……あのな、スンヒ、覚えてる?』
勿論と答えつつ、僕の心臓はまた駆け出す。矢張り、進藤と彼女に関わる話題なんだろうか。
『アイツ、婚約したんだ。まだ若いからさ〜、結婚式は先になるけど。』
そうか、と思う。とうとうその日が来たのかと、諦めにも似た気持ちの方が強く、驚きはなかった。
「そう。おめでとう、と……今度は僕が言う番か。進藤。」
『ふっふ〜、お前誤解してるだろ?俺と婚約したって。違うよ、スンヒが婚約した相手はスヨンだよ。驚いただろ?』
「驚いたって……ええっ!?洪君と、スンヒさんが?どうして?……それじゃ君と彼女は……。」
まるで話が見えない。一体、どういうことだ?
『あのな……こっからは、真面目な話……俺、色々あったけど、でもスンヒのこと、妹以上には思えなかった。そういう俺の気持ちをアイツはわかって、それでも傍にいてくれたんだけど……スヨンがずっと相談にのってくれてたらしくて……まあ、そういうことだ。スヨンは元々スンヒに一目惚れだったんだって。それで、スンヒもスヨンの優しさと人柄にさ、いつの間にか惹かれたんだと思うよ。スヨン、本当にベタ惚れでさ〜。』
僕は急に思い出した。
そう、スヨン君は二年前も日本にスンヒさんの付き添いで来ていた。そして、甲斐甲斐しく世話を焼く様子がまるで恋人同士のようだと、和谷君も言っていたじゃないか!
電話の向こうで、進藤がまだ喋り続けている。
スヨン君はもうすぐ兵役で、その前に当たって砕けろで告ったのだとか、オーケーが出た途端に進藤に済まないと土下座したのだとか、その顛末を陽気に語っている……ようだ。
僕はまだ事の成り行きに付いて行けなくて、呆然と聞いていた。
『塔矢、ちゃんと聞いてる?付いてきてる?』
「あ、ああ……突然のことで、びっくりして。いや、僕はてっきり君と彼女がとばかり……。」
『言っただろう。妹以上には、どうしても思えなかったって。それはどうしてだか、お前にはわかるだろう。』
声色が、明らかに変わった。
どうして。
どうして、わかってしまうんだろう。
彼が何を言いたくて二年ぶりに電話をかけてきたのか、これだけ遠くはなれていてもわかってしまう。
『今、お前には誰か決まった人、いる?』
「……いいや、それどころじゃない。」
『それって、俺のこと、忘れられないからだろう?』
「―――何が言いたいんだ?進藤。」
『怖い声出すなよ。俺もだよって、そう言いたかっただけだ。俺、お前に言わなかったけど、記憶をなくしたままネット碁で対戦したアキラに出会ってそれからすぐに、自分がお前に惹かれていること、気が付いた。塔矢と過ごしたことは何にも思い出せないのに、お前は男なのに……それでもドキドキするのがめちゃくちゃ不思議で……どうしようって、混乱した。』
旅行先でさ、お前の裸見ちゃった時に完璧に意識した―――と。進藤は少しトーンを落として言う。
その声のはらむ甘さに、心が痺れてしまいそうだった。
『もしも、運命ってものがあるとしたら……俺はきっと何度記憶を失ってお前に出会っても、やっぱりお前を好きになると思う。馬鹿な言い草だ、女の子みたいだと笑われるかもしれないけど。でも、そう思うんだ。』
もう、立ったまま聞いてることが出来なくなった。僕は受話器だけは落とさないようにしっかりと握り締め、その場にへたり込んだ。
『この二年考えたよ、色々なこと。記憶も殆ど戻ったと思う。死んだ爺さんの家に通ってずっと碁漬けの毎日を過ごして……んで、確信した。二年前はさ、あやふやな部分もあったし、スンヒへの責任もあったし、どうしても言えなかったことを……今、言わせて?―――いい?塔矢……。』
「進藤……。」
一度だけ彼の名前を呟いた。力がどうしても入らなくて、殆ど溜息みたいになる……。
『お前が好きだ。愛してる。……って、わ〜、改めて口にすると照れ臭いけど……うう、でもちゃんと言いたかった。俺、日本に帰りたい。お前のところに、帰りたいんだ。……っとぉ、いいか、な?』
本当に大事なことを言われているという実感が、今ひとつ持てないでいた。
だってそうじゃないか?突然電話をかけてきて、突然そんなことを言って、僕はどうしたらいいんだ?戸惑ったって当たり前だろう。
踏ん切りをつけて手放した筈の未来が、それこそ進藤の記憶のようにストン……と、自分の下へと帰ってきたのだから―――。
『なあ、黙ってるってことは……そんなにびっくりさせた?お前、もう俺のこと、何とも思って、ない……とか?』
最初の強気はどこへやら、少しづつ情けない声になる。そんな進藤を感じると、逆に僕の強気が戻ってきた。
これは夢なんかじゃない。紛れもない現実なんだ。
そう意識した途端、確信が、喜びへと変化していく……。
「今の塔矢アキラが、君をどう思っているのか、自分で確かめに来い。日本へ戻って来い、進藤。……もう一度僕を―――追って来い!」
何となく全てを見せてしまうのは悔しいから、僕は嬉しさを滲ませないようにわざと冷たく言い放った。それでも、それは成功したとは思えない。
進藤が軽い笑い声を立ててから、わかった、またお前を追うよ、覚悟して待ってろと、返してきた。
「お〜いっ!アキラ君、どうしたんだー、電話、長いじゃないかー、中国の先生からか?」
緒方さんの声がして、僕はやっと思い出した。そうだ、対局中だったと。
慌てて、一旦切るよ、またゆっくり話そうと言った後に、待てよ、それよりも君がさっさと帰って来いと命令した。
そしたら進藤も、そのつもりだ、もう飛行機に乗るところで、空港からかけているのだと言うから、凄く驚いた。
全く……何てヤツだ。君は―――!
本当にこれで、一気に脱力した。最後に残った力すらもすっかり抜けてしまい、とうとう受話器が滑り落ちた。
受話器の向こうで僕を呼ぶ進藤の声が遠く聞こえていたが、もう無視して切ることにする。
どうせ今夜中には日本だ……わずか数時間しか離れていないんだから!
座り込んで壁にもたれかかったまま動けないでいたら、緒方さんがやって来て、どうした?あれしきで酔ったかと笑われた。
でも、すぐにその笑いは引っ込んだ。
僕が泣いていることに、気が付いてくれたからだ。
「手を貸そうか?それとも、好きでそこに座り込んでいるのか?」
「はい、ええ……ここにいたいんです。このまま、動きたくない……すみません、緒方さん。」
「なら、今夜は打ち掛けにしよう。また来るよ。……あ、残った酒は誰かさんと飲め。」
緒方さんの優しさに感謝しつつ、僕はまだ座ったまま彼を見送った。
何だか当分立てそうにない。だからその場で、今の進藤との二年ぶりの会話を反芻した。
そして、寄せ来る波のように心も体も満たして揺らして、どこかへさらっていく自分では制御出来ないほどの大きな幸せを噛み締めていた……。
進藤……僕も、きっとそうだ。
例えば僕が記憶を失って、そして君と出会ったら……きっとまた君に恋をする。
何度でも、恋をする。君しか、愛せない…………
僕は、声をあげて泣いた。いくらでも涙が出そうだった。子供のように、泣きじゃくった……。
もしかしたら、進藤がこの家の玄関に辿り着くまで泣いているかもしれないなと、自分で自分がおかしくもあり、みっともなくもあり。
そして同時に、たまらなく愛しくもあった―――。
……進藤ヒカルと出会ってから迎える、十度目の春はもうすぐそこまで来ているらしかった。