― DESTINY ―
( 6 )








 進藤の息使いが近付いて来ているような気がして、僕はますます固まった。



 何と答えればいいのだろう。
 進藤が自分の性的嗜好についてまで思いをめぐらせていたなんて、僕の方だって予想していなかった。
 その上。
 ―――よりにもよって、僕に訊いてくるとは。

 しかも。
 そういう質問をしてくるということは、彼の中に何かが芽生え始めているということだろうか。

 自分の過去に何があったのか。自分がどういう人間だったのか。
 ……進藤は戸惑い、疑問に感じ始めているのだろうか。



「……どうして、そんなことを?君……何か、思い出したことでも。」

 やっと言葉が出た。それでも声には、不自然さが滲んでいたかもしれない。

「んー、いや、思い出した……というのとも違うんだけどさ。まあ、その理由についちゃ、ちょっと、な。でもアキラ……俺ってさ。」

 そこまで言って進藤が本格的に布団の上に起き上がったのを、衣擦れの音で知った。僕は相変わらず彼に背を向けたままだ。
 進藤の方が窓際の布団に寝ている。会話の続きを待っている僕に、彼がこう言った。

「本当はどんなヤツだったんだろうなぁ……。ずっと知りたいような知りたくないような、変な気持ちだったんだ。いや、どっちかっつーと……知るのが怖かったのかもしれない。……何でだろう?可笑しいよな。アッチにいる時も、碁があるからもうそれでいいやって、生きて碁が打てるだけでもいいやって、自分を納得させて……安心してたとこ、あった。だってさ、帰りたかったら自分が日本人だってわかってるんだから……どうやってでも逃げれば良かったんだ、あの爺さんのとこから。……でも何故だか俺には、そうする気が起きなかった。」

 俺、やっぱおかしいだろ?変だよな?―――と。

 まるで僕に同意を求めるように、進藤はそこで言葉を切った。






 ……僕には、答えられない。

 彼の中に、過去の自分を取り戻したくないような複雑な闇があったとしたら―――

 それが、僕との関係に端を発するものだとしたら―――



 僕自身もグルグルと考え込んでしまう。
 単純に何かを返答出来るものでも、その場しのぎで誤魔化していいものでもない気がする。

 だから。

 矢張りこんな場面でも、僕は黙っているしか出来なかった。






 僕からの同意の言葉を諦めたのだろう。進藤はまた話し始めた。

「……でもさ、俺、お前に逢ってから変ったんだ。少しづつだけど……知りたくなった。昔の進藤ヒカル。俺ってさ、どんな面白れーヤツだったんだろうって!」
「面白いって……はは……君は確かに面白いヤツだったよ。」

 進藤がおどけた調子で言ってくるから、僕もつられて軽く言い返した。

 小さな笑いが二人の間に起きて、それが合図のように僕も布団を抜け出す。
 どちらからともなく窓際のテーブルと椅子が置かれた縁側へと向かった。そこには、宿の人に頼んで借りた碁盤が置いてある。

 約束された行動でもあるかのように向かい合わせに座ると、静かに碁笥の蓋を明け、僕が握る。進藤が石を置いて先番が彼に決まり、ただ無言で打ち始めた。
 まるで僕らは、打っていないと本音を話せない体質になってしまったのかなと呟くと、進藤も違いねーと、笑った。









 外はまだ雨が降り続いている。

 しかしかなり増水したのだろう。雨の音よりも川音の方が大きい。轟々と響く音に混じって、石を置く高くて乾いた音が、部屋の中に生まれた。



「アキラ……良かったらさ、お前が知ってる限りの俺を教えてくれないか?お前とどうやって出逢ったのか……俺らの間に、どんなことがあったのか……。」

 真摯な声だった。
 縁側の柔らかい光の電灯だけが、進藤と僕と、それから僕らの間に置かれた碁盤を照らしている。スポットライトを浴びているのは、僕らというよりもその碁盤のようだ。
 でも、その通りでもあるのだろう。
 僕らの間に常にあって、僕らを繋いだものは、紛れもなく碁だったのだから。

 進藤と僕の出逢いに始まる過去の全てに、僕はもう我慢することなく触れよう。記憶の底のどこまでも、深く深く降りて行こう……。
 今、進藤ヒカル本人がそれを望んでいるのだとしたら―――。



 僕は、ゆっくりと噛み締めるように語り始めた。

 出逢い、棋力の謎、中学での出来事、ネット碁のsaiのこと、院生時代のこと、プロになったこと、父とsaiのこと、碁を離れたこと、二年四ヶ月ぶりの対局のこと。
 そして、北斗杯では、第一回、第二回と一緒に出場したこと。その半年後に失踪したこと。

 進藤ヒカルについて、知り得る限りの出来事を話した。その時々に僕が彼に対して抱いた感情のあれこれは極力抑えて、客観的に進藤の歴史を語るかのように、だ。
 勿論、僕らの間に膨らみ始めていた恋愛感情―――そう呼べるなら……だが―――については触れないまま。



 時々、進藤の様子を伺ってみた。
 殆どふーん、とかそっかとか、相槌のみでどんな事柄も深く追求せずに、ただ、自分の知らない自分の歴史に耳を傾けている。
 それでも、時折顔を歪めたり、遠くをさすらう例の表情をしてみせたり。

 そのたびに、僕は話を休んで彼を見守るようにしたが、それを彼は大丈夫だよという風に柔らかく微笑むことで、先へと促した。
 話しながら、聞きながら。
 それでも碁打ちのサガなのか、凄くゆっくりではあるけれど打つことも止めないでいた。



 もうこれ以上はないだろうかと僕が話し終えた頃、丁度図ったように盤面も終局を迎えていた。

「終わりだな……あ〜、負けちまった!ここに来てからは俺の方が勝率良かったのに。」
「君は話を聞くのに集中していたからだろう。よく最後まで打てたじゃないか。」
「うん、面白かった。自分の歴史ってさ、こんな風に人から聞くと、めっちゃドラマみてぇ……まあ、失踪なんてそれだけで十分ドラマだよな。」

 ふぃ〜、貫徹かな〜、ねみぃ〜、と伸びをすると、碁石を片付け始める進藤は、いたって普通だった。 普通過ぎるくらい……だと思う。眠たそうではあるが、取り乱したりする様子はない。

 こんな長い話を聞いても、何の激しい反応もないのが―――僕には物足りない感じがして、どうしてだか苛立ちが募ってきた。そんな必要などないのに……。






「進藤。片付けは待ってくれ。……君に見てもらいたい一局がある。」



 それまで僕は、進藤の記憶が戻って欲しいと思ってはいたが、彼の精神的なダメージやあの頭痛のことを思うと、無理強いはいけないのだと自制していた。
 きっといつかは思い出してくれる、それを信じたい。だから今の今まで、彼の記憶を無理に呼び覚まそうとする言動は避けていた。

 しかし。
 彼の過去を僕の知る限り語ったとは言え、僕らの関係の核になる誰にも秘した大事な真実を、果たして僕は伝えているだろうか?



 ―――否。

 僕は、一番大事な真実に通じる部分には、蓋をしていたかもしれない。



 進藤は、どうした?というような怪訝な顔をしている。
 僕はそれを感じながら、白石と黒石を交互に置き始めた。特に最初の数手は、彼の反応を確かめるようにゆっくりと置いた。

 進むにつれ、進藤が食い入るように盤面を見下ろす。目が見開かれ、息が上がってくるのが、僕にもわかった。






 それは―――



 言うまでもなく、進藤と僕の、二度目の対局だった。

 小学生だった僕らが、父の碁会所で打った、あの運命の一局。僕が君を追いかけ始めた、最初のきっかけ。君にまつわる謎の始まりだ。



 僕自身にとっても、それは感慨深い一局だった。



 美しい石の流れ。時に押し、時に引き、自由自在に盤面を操る、魔法のような棋譜。僕を試し、僕を誘う、それでも自らは遥か高みにいる。



 置いているうちに、僕もその懐かしい一局に没頭してしまった。決して多い手数ではないから、すぐに終わってしまうのが淋しいくらいだった……。






「―――ここで、投了。」

 最後の一手をピシリと打ち下ろしてから、初めて声を出した。同時に腹の底から溜息も出る……。

 ふと、現実に戻って向かい側に座る進藤を見た。






 彼は。

 その一局を、紛れもなく八年前に打った進藤は、泣いていた。

 頬を伝う滂沱の涙を拭うこともせず、しかし碁盤にかかってはいけないと上半身を引き気味にしている。その体も、やがて揺れ始めた。



 ……進藤の涙が、苦しい。

 搾り出すような泣き声が、苦しい。

 その涙が、僕の心にまで流れ込んできては、全部を濡らしていくかのようだ。



 涙の理由はわからない。

 それでも、彼の心の中に、僕が今再現した一局が波紋を起こしたことだけは、寄せては返す波のように途絶えることのない、進藤の美しい涙が証明していた。






 僕は立ち上がって進藤の座る椅子の横に回り込むと、膝まづいて両腕を伸ばした。嗚咽に震える彼の体を、魂を、包み込んであげたかった。

 ただ、そうしたかった……。



「……っく……アキラ……これは、きっと……俺に関係がある、大事な……なんだな?でも……。」
「うん、そうだよ。君と僕が、まだ幼い子供の頃に、出逢ったばかりの頃に打ったものだ。僕を……君へと導いてくれた、僕の胸の中だけにしまってある、誰も知らない、宝物のような……。」
「違う……これはきっと……俺であって俺で、ない……こんなに打てる訳ねえ……お前もそれを、ずっと知っていた。わかっていて……それでも、俺を……っ……うー……。」
「進藤、ご免……まさかこれを見て、君がそんな風になるなんて思ってなかったから。」
「ううん、ううん!いいんだ……この一局、見れて良かった……教えてくれて、ホントに良かったぁ……ありがとう、アキラ。」
「君の涙は、第一回の北斗杯以来だ。あの時も、今みたいにぐしゃぐしゃに泣いてた。子供みたいだった……。」
「俺って、泣き虫ヤロウだったのか?はは……。」
「違うよ?あの時限りだった、君の涙を見たのは。あれ以来、君はますます強くなって、僕はどれだけ君から目が離せなくて、困っただろう……。」

 心に留めておくべき種類の想いだったかもしれない。それが出来なくて、つい彼に言ってしまった。
 色っぽい種類の言い回しではなかったが、碁と離れても……のニュアンスが微妙に混じってしまったかもしれないと、少し慌てる。



 恐る恐る腕の中の進藤を見ると、彼も僕を見上げた瞬間にかち合って。

 目と目がしっかりと合った。

 潤んだ進藤の瞳は、とても綺麗だった。その大きくて澄んだ瞳の中に、僕の姿がぼんやりと像を結んでいる。
 進藤が、僕を見ている。
 僕の目を、その奥に隠し通してきた本心までも、見ている気がする…………。



 不意に、恐怖心のようなものが生まれ、反射的に身を引こうとするが、進藤がその動きを封じる方向に動いた。

「待って、アキラ!このままでいて……もちょっとだけ……何かが、俺の頭の隅っこで、何かがザワザワしてる……気持ち悪いけど、でも……あ……。」
「しん……。」

 抗議をする間もなく、抱き締められた。
 苦しさゆえに僕にとりすがっているのかと思うと無碍にも払えなくて、されるがままで抱擁を受け、また僕の方からも一度は解きかけた腕を彼に絡めた。






 こうして抱き合ってしまうと、時間が止まってしまう―――

 宿の浴衣に上着だけの薄着だから、互いの鼓動も筋肉のしなりも、細かい動作の全てがダイレクトに伝わる。
 怯えたような、震えるような息遣いは、苦しさどころか甘さをはらんでいるようにも感じて。

 こんなことを思う自分は不謹慎なのだろうか。それとも、進藤も同じように安心感だけでなく、何がしかの甘さを味わっているのだろうか。

 いつの間にか椅子から降りた進藤が、膝まづいた僕に自分も同じ格好で覆い被さってきた。
 彼の重みで、背中が自然と弓のように反り返る。
 僕よりも5センチ程背の高くなった進藤が、後ろ向きに倒れそうになる僕の背中を強く抱いて、そのまま腰を床につけた。
 完全に座り込んだ進藤に引きずられる格好で、僕もその場にへたり込んで、また彼に深く抱き直された。

 二人の体勢が変化していくたびに、衣擦れの音と、体のきしむような音が交じり合って、あちこちから聞こえる。
 その音すらも隠微に響き渡り、僕らは興奮していた。
 進藤の指が、僕の長い髪に滑り込んだのを感じる。肩口に、熱い息がかかった。

 僕も耐え切れずにとうとう彼の耳元で、囁いた。



「進藤……もう一つだけ……君の記憶の鍵を……渡しても、いいだろうか?」
「アキラ?ん……鍵?何の……アキ、ラ……。」

 甘い声色に、すっかり心が溶け出しそうになっている。
 今なら、言える。今なら受け入れてもらえるかもと、期待が膨らんだ。

「覚悟は出来てる?何を知っても……大丈夫だと、言える、か?」

 答えは、僕の髪を激しく撫で付ける仕草で返された。



 何度も僕の髪の上でさすらう進藤の手を名残惜しく思いながら。僕は力を少しだけ力を入れて、彼の体を押しやり、二人の間に隙間を作る。

 彼の頬を、両手で包むようにして、もう一度目と目を合わせた。

 涙でまだ光っている頬が、上気している。幼い頃の彼を彷彿とさせるような、ツヤツヤした肌がまぶしいと思った。



 愛しい……君が愛しくてたまらない……。

 どんなに抑えようとしても、抑え切れない。僕は君と何度巡りあっても、何度引き離されても、きっと君に恋するだろう。
 性別も、何も関係ない。絶対に、君に引き寄せられて、好きになってしまう。

 理屈を超えた不思議な力が、僕を支配している―――



「……これが、鍵だよ……僕しかあげられない……昔の君を知る……。」



 小さく小さく呟いた。

 恥ずかしさと切なさがぐっと込み上げて、それが精一杯だった。






 目を閉じて。
 首を傾けて。



 進藤のポカンと半開きになった唇に、自分のそれを重ねた。



 優しく押し付けて、すぐに離す。



 ―――言葉はない。反応もない。進藤の顔は真っ白だった。



 僕は焦れたように、ふたたび唇をくっ付けた。






 そう。
 それはキスと呼ぶには幼い、ぎこちないものだった。



 でもそれこそが、三年前に進藤と僕が交わした初めてで最後のキスの、最初の瞬間の悦びだった。あの時は、しばらく軽いキスを繰り返してから、どちらからともなく舌を触れ合わせたのだった。



 背筋を震えが駆け上るほどの快感に、我を忘れて夢中になった十七歳と十六歳の、僕たち―――



 このキスで、君の中に蘇ればいいのに!……あの日の悦びが。あの日の僕たちが。









 もうすぐこのキスも、進藤が応えてくれさえすれば、深く激しい大人のキスへと落ちていくのだろうと、動悸が一段と大きくなった時―――






 部屋の隅から、かすかなメロディーが聞こえた。ビクッ……と跳ねた僕らは、互いの腕にしがみ付いたまま音の出所を目で追った。
 それは、進藤の携帯電話だった。
 この旅に出る少し前に、彼の両親が用意してくれたものだ。それが、彼の荷物の中で存在を主張するように着信のメロディーを奏でる。
 時計を見ると、もうすぐ朝の7時になろうかというところだった。雨のせいで日が差さないから、夜が明けたことに気が付かなかったのだ。
 僕は進藤が迷っているのを感じて、出た方がいいよと声をかけた。
 すっかり、いつも通りの声が出せた。呆気ないくらいに……。

 ご免と断って、進藤はその電話に出た。
 僕は背中で彼の声を聞く。夢の中で聞いているみたいだ。
 膨らんだ風船の空気が抜けるように全身から力が抜けていくのを、虚しく感じていた……。

 電話は進藤のお母さんからのようだったが、切った後に彼がこう言い出した時には、驚いた。

「アキラ……俺、すぐに帰らなきゃ。」
「どうした?ご家族に何かあったのか。」

 予定では、もう一泊することになっていた。しかし、それを切り上げて東京に戻らなくてはならないとは、一体何が起こったのだろう。

「いや、母さんのところに今、連絡があったらしい。日本に来るって。今日の午前中には着くらしい。」

 もう、それだけで十分だった。分かり過ぎるほどに、僕には理解出来た。

「……スンヒさんか?」
「うん、スヨンが一緒に連れて来るんだって。電話はスヨンからあったらしい。俺がこっちに来てからも、スヨンが何かとスンヒの相談に乗ってくれてたみたいで、心配だから一緒について来るって。」

 彼が、僕にすまなそうな顔をして見せたことが、ひどく僕の心を痛めつけた。









 僕らはそのまま起きて、睡眠不足で朦朧とする頭で、朝食と帰り支度を済ませた。
 宿を出て、東京へと車を走らせる。危ないんじゃないかと心配されたが、運転している方が気が紛れるし、僕にとっては都合が良かった。

 途中、濁流に荒れ狂う川を見た。
 ここへ来た日には穏やかにゆったりと流れ、透明度の高かった川が、まさかこんな変貌を遂げるとは……。
 汚らしいドロ水のような流れは、まるで僕の心の中に渦巻く負の感情のようにも見え、思わず目を逸らしたくなった。

 進藤も。
 何も言わなかった。昨日の夜のことも、これからのことも、何もだ。



 重たい雰囲気のまま、僕らは東京に着いて―――別れた。









 進藤の恋人が韓国から追いかけて来たらしいというのは、瞬く間に噂になった。
 進藤がぱたりと棋院に姿を見せなくなり、碁界への復帰も先延ばしにして目処が立ってないというのも、彼が恋人との時間に忙しいのだろうとの皆の想像に拍車をかけた。

 僕は、苦い思いでそれらの噂を聞き流し、何を訊ねられても知らない、連絡をとってないと繰り返すだけだった。
 それは本当だった。

 彼からも連絡はなかったし、勿論僕ももう諦めていた。

 あの日、あそこまで勇気を振り絞って告白をしたというのに、それを神様の手によって簡単に捻られたかのように邪魔されて。
 これが、運命なんだと。僕が受け入れるしかない、今僕に用意された運命なんだと諦めるしかない。……それは、ある種の絶望でもあった。



 所詮、進藤が消えたあの三年前に絶たれた筈の希望だ。



 彼が元気で生きて、この世にあるだけでいい。打てるだけでいい。



 一度はそう思い切れたのだから、またそこに戻ればいいんだ……。









 そんな僕の元へ、進藤が現れた。スンヒさんが日本へ着いてから十日ほども経っていただろうか。

 その日、僕は棋院で名人戦リーグの第一戦があって、相手は緒方さんだった。ギャラリーも多く来ていたようで、その中に紛れて進藤がいることを和谷君が教えてくれた。

「アイツ、今日は例の彼女、連れてないぜ。スヨンもいねーから、二人でどっか観光でも行かせたのかな?スヨンがつきっきりでさ〜、進藤の彼女なんだかスヨンのなんだかわかんねー雰囲気なんだよ。」
「そうか。単に洪君は親切なだけだろう。彼女は進藤が好きで追って来たんだろうから。」

 対局前のわずかな時間。階段のところで内緒話のように小声で会話していた。

「塔矢、お前、このまんまでいいのか?進藤に昔の自分たちのこと、なーんも言わないで……アイツがスンヒとどんどん深い仲になっても……。」
「和谷君!その話はもういいんだ。進藤が自分で思い出さない限りは、それが僕らの道だと思っている。」

 和谷君が、心配そうに僕を見ている。心底気に掛けてくれていることは、彼の視線で痛いほどわかる。
 僕は、和谷君に笑ってみせた。笑って明るく、こう言った。

「さあ、緒方さんに勝ってくるよ。君と進藤が見てる前で、無様な碁は打てない。絶対に勝つから。」



 そして、その言葉通りに。

 その日の僕は、好調だった。
 普段だと、長年の兄弟子である緒方さん相手にはどうしても不利にならざるを得ない。勝率は悪かった。
 それでも、その日は絶対に負けられないと思った。

 緒方さんが相手だったことは、ある意味幸いだった。
 他の誰でもない、緒方さんだからこそ高いレベルで僕に応えてくれる。僕の一歩も二歩も前を行く、最高の一手を返してくる。

 白熱した碁だと、皆が口々に誉めてくれた。
 打ち掛けも極限まで集中する余りに、僕は碁盤の前から離れないで、目を閉じてじっと待っていた。

 その様子を人はどうしたんだ、何があったんだと取り沙汰しているようだったが、進藤が観戦に来ていることと結び付ける人はいなかったようだ。おそらく、和谷君を除いては……。



 碁はもつれにもつれて、途中緒方さんが長考に入り、タバコを吸いに中座するほどだった。こういうことは滅多に、いや、ほとんどないだけに周りもかなりざわついていた。

 終局は遅かった。かなり手数がかかって半目勝負だったが、僕が逃げ切った。緒方さんからの勝利は公式戦ではまだ二度目だったので、僕にとっても改心の一局となった。



 負けたくなかった。それ以上に、いい碁を打ちたかった―――



 進藤ヒカルが見ている。彼の前では、いつでも最高の状態で碁を打っていたかった。
 彼に見せる生身の自分自身は情けなかったり、不安定だったりしても。
 僕の碁だけは、いつでも何よりも、進藤にとって一番惹かれるものでありたかった。それだけの力を持っていたかった―――









 進藤の姿は対局中にはわからなかったら、ずっと検討室で大勢と一緒にいたのだろう。
 検討を終えて、僕は今日は寄るところがあるからと皆さんの誘いを辞して、一人で棋院を出た。そこで、待ちかねたように進藤から携帯に電話が入った。
 旅行から戻って、初めての会話だった。

「おめでと。あの緒方さん相手に凄かったな。中盤、手筋炸裂〜って感じで、緒方さんの優勢がひっくり返された時はゾクゾクした。緒方さん、あれで長考になっちゃったし。」
「うん、久しぶりにギリギリの碁だった。余裕はなかったよ。厚みを消されそうになって慌てた。」
「え〜、あの……右隅のツケ?ゼンゼン慌てた感じなんてなかったのに。」
「内心では焦ってたよ。扇子があったら、昔の君みたいに握り締めて潰していたかも。」
「はあ〜、俺?座間先生じゃねーの?」

 暫く他愛のない会話をして、それから進藤が誘った。これから二人で検討しないかと。

 僕には予感があった。きっとその時に、大切な決心を告げられるのだろう。

 進藤が何を考え、何を決めたとしても。
 僕はただそれを尊重し、彼の幸せを願おうと、それもまた僕の側の決心だった。









 父の碁会所の奥の部屋を借りて、二人だけで検討した。
 二人だけの反省会と進藤自身が名付けて、僕らは昔もよく棋譜を持ち寄ったり、互いの一戦を検討しては言い合いになって喧嘩して。そのまま別れたことだって、何度もあった。
 それでもまたどちらからともなく声を掛け合い、一緒にいることを繰り返すうちに、友情以上の気持ちが互いの中に芽生えていったのだと思う。



 こうして純粋に碁に没頭していると、心が澄み渡っていくような不思議な感覚が起こることがある―――



 進藤を見ると、彼も何の変ったところもないようだ。淋しくはあるが、旅行の最後の夜の出来事もなかったことのように振舞ってくれているようだった。
 そんな風だったから、これから大切なことを言われるとは思えなくて、僕は軽く話題にしてみた。

「スンヒさんは今日はいいのか?」
「うん、今日は一度韓国に戻ったスヨンがさ、またこっちに来てんの。スヨンさ……スゲー面倒見が良くて、ああいう面があるなんてビックリしたぜ。」
「そうか。スンヒさんはこのまま日本にいる予定?」
「いや〜、帰るよ、勿論。俺さ、ずっとアイツと一緒だったと思ってるんだろ?でも違うんだ。俺、暫く体調悪くて……例の頭痛だけど、ちょっと検査受けたりカウンセリングっての受けたりしてた。だからスヨンがいなかったら、スンヒのことほったらかしだったと思うよ。」

 初耳だったので、これには本当に驚いた。
 てっきり、スンヒさんと過ごすのに忙しくて僕にも連絡がないのだとばかり……。

 僕の驚きを感じた進藤が、フォローするように明るく肩をすくめた。

「ああ〜、心配すんなよっ!ゼンゼン深刻じゃねーんだから。ちょっと……一人で色々と考えたいこともあったし。スンヒには悪かったけど、こっちの都合も聞かないで急に来るのも、な。困るんだ。」
「そんな冷たい……あの子は君のことを真剣に!」
「わわ〜、怒るなよっ!もう、お前は昔からそうだ。す〜ぐ人の言葉に熱くなりやがって……。」
「悪かったな、熱くなりやすくて。」

 言ってしまってから、違和感を感じた。
 あれ、と思う。

 今日逢った時から、ほんの僅かだが感じていたその違和感の元がどこにあるのか掴めぬまま。

 僕は、進藤を見詰めた。
 外見は何ら変ったところが見受けられない……。

「何、見てんの?俺、どっか……変かぁ?そうだ、今日は新しいシャツだからかな。それとも散髪に行ったからかなぁ。あ、そうだ、散髪と言えば……お前、その髪切らないの?」
「……僕の?これは……きっかけがなくて。」
「俺の為に、願掛けでもしてくれてたんじゃねーの?俺が帰って来たんだから……もう、切ってもいいじゃん。また、おかっぱのお前を見たいなぁ……。」

 進藤が、矢継ぎ早に言葉を畳み掛けて、僕に考える時間を与えてくれない気がした。
 もっと大切なことを話したいのじゃなかろうかと思うのに、彼のペースに巻き込まれている内に、時間だけが過ぎていく……。

「そろそろ帰るか〜、あ、アキラ、俺ね、スンヒを送って行きがてらあっちに行って来るな。暫く逢えねーけど、たまにはネットで打とうぜ。」
「行くって……君、まさか行きっぱなしじゃないだろうな?」
「ああ、ちょこっとだけだって。来週の火曜日からだから。」
「嘘だっ!嘘だろう!?君は、帰って来ないつもりなんだ。そうだろうっ!」
「ええっ?アキラ、どしたん?お前がそんな……。」
「またかっ!また、僕の前からいなくなるつもりかっ!……君は、また僕から逃げるんだなっ!」

 つい、声を荒げた。とうとう我慢が出来なくなった。

 長く、緊張感のある一局の後で、疲れがピークに達していたこともあったのだろう。進藤の上っ面だけの喋りにも、心が逆なでされていた。



 ドンッ!……と。

 彼の胸をコブシで叩いた。容赦なんかしなかった。
 顔もみにくく歪んでいただろうが、そんなこと構わなかった。

 その手を、すかさず掴まれた。いきなりの暴力に少しだけよろめいた進藤だったが、すぐに立て直す。
 手首を力任せに捻じるようにされて、僕は呻いた。その呻きは、やがて悔しさや怒りの感情を呼び覚まし、僕はもう片方の手も進藤の胸にぶつけた。

 もう一度ドンッと叩かれて、今度は覚悟があったのか、進藤はよろめくことなくしっかりと僕の腕をとった。
 そして、掴まれた両腕を引かれて、僕らはまた抱き合う格好になる。

 今度は、この前のような甘さの欠片もない抱擁だった。
 男同士の平板で固い胸と胸がぶつかり合って、痛かった。血が巡らなくて、手首が痺れるようだった。






 進藤の頭が、僕の肩に乗った。

 その時彼が囁いた言葉を、最初はわからずに、耳が受け止めて。

 それから、僕の脳に。心に。魂に。ゆっくりと浸透していった…………。






 その後。
 彼はいきなり僕を突き飛ばすようにして、その場を駆け出してしまった。



 呆然として、僕はその場に尻餅をつく。そのまま立ち上がる気力すら湧いて来なかった。






 彼が最後に残した言葉を、反芻する。

 聞き間違いではなかった。

 違和感の元は、ここにあったのだ。



 ―――彼は。

 取り戻したのだ。

 いつ、どこで、なのか。全部なのか、一部なのか。

 それはわからないが、少なくとも何かを……僕にまつわる何かを、彼は手にしたのだ。







 進藤が僕を残して走り去る前にくれた言葉は、彼が記憶を取り戻しつつあることを僕に教えてくれた。

 その言葉を、長い失踪から戻って、初めて口にしてくれたから―――








 進藤は言った。



 塔矢、と。



 アキラではなく、塔矢と。


 時に嬉しそうに。時に憎らしそうに。
 三年前までの彼が、毎日のように口にしてくれたその名前で。



 僕を呼んでくれた……






             ―― 塔矢…… ――






 進藤の掠れた哀しい声が、いつまでも僕の中で木霊していた………











NOVEL

(7)は18禁表現を含みます。
よって、このページのどこかからリンクしていますので
年齢に達していらっしゃる方だけ、探してくださいませ。
宜しくお願いします。