― DESTINY ―
( 5 )
噂の進藤ヒカルがやって来たということで、碁会所は大騒ぎになった。
予想はしていたものの、それはちょっとしたパニック状態にも近くて、常連さんの中には泣き出す人までいた。よく無事に帰って来たなと。
誰もが進藤の帰還を喜んでのことだったが、その様子に進藤本人は面食らっていたのだろう。彼らしく明るく茶化すように受け答えしつつも、どこかぎこちなかった。
しかし、僕もよくよく気が緩んでいたようで―――そんな進藤を見てああ、本当に彼はここに……僕のいる世界に戻って来たのだという喜びの方が大きくて。
進藤が内心でどれだけ混乱をきたしていたのか、わかっていなかったのだ。
ひとしきり挨拶が済んで、いよいよ対局となった。
誰もが進藤と打ちたがったので、彼は碁会所の常連さんと三面打ちをすることになった。北島さんが進んで進藤と打ちたがったのには驚いたが、誰よりも進藤を知っているだけに心配も人一倍だったのだろう。
「ええ〜、もしかしたら……北島さんと打つの、俺、初めてなの?」
「そうだ。お前はいつも若先生とばかり打ってたからな。この三年でどれだけ成長したのか、俺が試してやる。」
うへ〜、俺いっつも苛められてたんだろうなーっ!と進藤がおどけると、笑いが起きた。
僕もお客さんから指導碁を頼まれ、このところは忙しくて受けてなかったのだが、久しぶりに打ってみようかという気になった。進藤がここにいるというだけで浮かれてしまいそうになる心を落ち着けるのにも、いいのではと思えた。
時折、進藤を囲む一団から笑い声がどっと起こる。うーん、と言う唸り声も聞こえたり、進藤の一手に皆が注目し、感嘆していた。
上手くいっていると思っていた。
体も調子がいいようだったし、進藤の声も変らないと思っていた。
―――しかし、真実はそうではなかったのだ。
碁会所が閉まるまで打った僕らは、そうだ、自分たちも対局したかったのだと気が付いて、閉めた後にも暫く残ることを許してもらった。
「じゃあ、アキラ君、進藤君。戸締りよろしくね。……えと……進藤君。」
出て行こうとしていた市河さんが、足を止める。
進藤をじっと懐かしそうに見詰めてから、彼女は静かに言った。
「進藤君。まだ思い出してないって聞いたからあまり色々なことを言ってもいけないと思ってたけど……でもこれだけは言ってもいい?……お帰り。待ってたよ、皆があなたのこと。」
「……うん、ありがとうございます。」
市河さんは柔らかく微笑んで、そして僕らを残して帰って行った。
「綺麗な人だな、市河……さんだっけ?まだ名前覚えるのでイッパイイッパイなんだけど、美人はすぐに覚えちゃう!」
おどけるように言うと、僕を振り返る。そして進藤は、ちょっと声音を変えた。
「もしかして……市河さんって、アキラの彼女?」
「え?……ええっ!進藤、何を言い出すんだ?そんな訳ないだろう。子供の頃から可愛がって貰ってるけど、そんなんじゃないことは君が一番知って……。」
そこまで言って、はっとなった。
そうか。進藤は覚えていないのだった。
市河さんのことも勿論だが、市河さんと僕が決してそんな関係ではないことも、そして僕が愛したのは、進藤だけだということも―――。
今だって軽く聞き流していたが、進藤はこう言ったではないか。
市河さんのことを『思い出す』のではなく、『覚える』のだと。
彼にとっては、全てが一からのスタートなのだ。
僕は口をつぐんで、進藤を見た。
彼も、僕を見ていた。
その瞳が淋しそうに潤んでいたように見えて―――ドキン……とする。
「……覚えてないんだ、アキラが誰を好きだったか。彼女がいたのか。俺、お前の友達だったのになぁ。……ただ今日わかったのは、お前と俺がここでよく打ってた……そのことだけだ。俺たちは本当にいい友達でライバルだったんだな。今日の碁会所のオッサン連中の様子から、スッゲーそのことがわかった。覚えてなくてもまるで覚えてるみたいに……そんな変な感じがするくらいに。」
進藤は僕から視線を外した。そして、さっきここに来る前にも見せたように、さすらうような遠い目をして黙った。
その横顔に幼い少年のような頼りなさを感じて、僕の胸は不安が掻き立てられるようにざわめく……。
僕が口を開こうとした時、進藤が一足先に沈黙を破った。
「やっとオッサンから開放されて、お前と打てるんだなっ!よっしゃ〜、さっさと打とうぜ!アキラ。」
「……ああ、うん……そうだね。遅くなるから急ごうか。」
何かを伝えたい。何かを進藤に告げて彼を安心させたいと、そんな淋しそうな目をさせたくないと思うのに―――
今の僕に出来ることといったら、ただこうして碁を打つことだけだ。
それが情けなくもあり、それだけが支えでもあり。
苦しい気持ちを抑えて、僕らは久しぶりに碁盤をはさんで向き合った。
異変は、途中で起こった。
最初は普通に打っていた。変らず鋭い一手に、少しづつ僕も十九路の世界にのめりこんで集中し始めていた。
互いに二十手くらい進んだ頃だろうか。
それまでが早い応酬だっただけに、急に進藤の手が重くなったのにはすぐに気が付いた。
嫌な感じがして、僕は碁盤から進藤本人へと視線を移す。
「進藤?」
「あ、ああ……ご免、ちょっと……頭がいってえ……。」
「頭痛がするのか?だったら今日はもう止めにしよう。無理は良くない。」
そう言って僕が碁石を片付けようとしたら、その手を進藤に握られた。
驚いて顔を上げると、進藤が苦しげに眉を寄せていた。息も荒い。口がパクパクと不規則に動く。
「頭が……割れそうだ……あっ!……。」
「進藤っ!?しっかりしろっ!」
右手で僕の手を掴み、左手で頭を抑えてうめき声を上げた。慌てて机を回り込んで進藤を抱えるようにする。
「アキラ……俺、俺は……うーっ……。」
「頭は大変だぞ。そんなに痛むのかっ!?」
「……っ―――!」
「痛むのかっ!すぐに救急車を呼ぶからっ!待ってろっ!」
そう言って、携帯を取り出す為に進藤に掴まれた手を離そうとした。
だがそれは拒まれ、一層強い力で握りこまれる。その力の強さがそのまま彼の痛みの強さのようで、僕まで動揺してしまう。
「進藤!すぐに病院へ……っ!」
「嫌だっ!医者はもういい……っ……アキラ、このまま、で……暫く一緒にいて、くれ……頼むから……。」
進藤が僕にすがり付いてきた。
とっさに膝まづいた僕は、椅子で背中を丸めている進藤を……その震える体を抱き締めた。全身が緊張しているのがわかる。苦しそうに歪んだ顔には血の気がない。
どうしたらいいのかわからないまま、彼が落ち着くまで待つしか僕には出来なかった。
記憶が戻らないストレスなのか。或いは記憶を失くした時に負った外傷のせいなのか。
いずれにしても、割れるように頭が痛いなんて尋常ではないと思うと、本当はこのまま病院に引っ張って行った方がいいのではと言う考えも掠めたが、進藤の怯えた子供のような姿に僕まで胸を掻き毟られるようで……。
結局は、彼の背中を撫で、頭を撫で、心の中で、彼の名前を呼ぶだけだった―――。
進藤の呼吸がなだらかになって緊張が緩んだのは、どれくらい経ってからだろうか。
「ありがと、アキラ……もう治まった……ふうー……。」
「良かった。……でも、本当に病院に行かなくて平気なのか?」
こんな風に触れ合ったのは、あの韓国のホテルの部屋で再会した時以来だ。
あの時は、僕の方が耐え切れなくなって進藤に縋って想いのたけをぶつけた。そして進藤に優しく包まれたのだった。
今はその反対で、僕が進藤を包んであげる番だった。
こんな風な彼を、このままにしおけない。体も心配だけれど、彼の心が壊れてしまうのではないかと思うだけで、僕まで辛くなる。
「病院はいいんっだって。前から時々こうなるんだ。……でも、日本に戻ってきてからは酷くなった。」
「進藤。気が付かなくてすまなかった。」
「いいんだってば、気にすんなよ。……俺さ、どうしたって皆の前では自分をさらけ出すことが出来ねえ……身構えちゃうんだ、それが親でも誰でも。だって向こうは俺をよく知っていても、俺は誰も……何も知らないんだ。思い出せない、全然……。」
「進藤、無理をするな。思い出せなくてもそれでもいいじゃないか?君は今、ここにいて、碁を打って元気でいるのなら、僕はそれでいいと思う。」
進藤は、まだ僕に抱きついていた。いや、僕が彼を抱いたままだったと言う方が正しいのかもしれない。
どちらかが喋ると、重なった体を通して振動が伝わり、互いの声を耳以外でも聴いているみたいだ……。
彼の匂いがする。彼の体温を感じる。三年前よりもうんと逞しく成長した肉体。低く変った声。
でも。
その精神は苦労を重ねた上に、今でもまだ、『真実』を求めてさすらっている―――。
「アキラ……どうしてだろう……誰といても、どこか映画かテレビの中で自分がさ、進藤ヒカルっていう役を演じてるみたいな、凄く……そう、違和感っていうのかな?フワフワとして、現実感がなくて。でもさ……お前は違うんだ。」
「………。」
進藤は深く息を吐いて、言葉を探しているようだった。
僕も黙って彼が本当に言いたいことを見つけるまで、ただ待った。
「……ネット碁で対局してたせいかなぁ……やっぱ碁を通して相手を確認出来るのって、大きいんだと思うんだ、俺にとって。だから、お前は他の誰とも違う感じがする。過去の俺じゃなくて、今の俺がお前を認めているっつーか……何だろう……上手く言えねーけど、ご免!……言葉が下手でさ。」
「いや……。」
僕は、そっと不自然でない程度に、進藤の体を離した。
進藤が求めているのは、昔から一緒にいた―――彼に愛され、彼を愛した僕ではない。
今、彼が必要としているのは、碁を打つことで繋がっている、十九歳の、棋士としての塔矢アキラなのだと思い知らされた。
それも当たり前だ。進藤には、心の安らぎを与えてくれる可愛らしい恋人が韓国で待っている。
一体、僕は何を期待しているのだろう?
昔と変らぬ碁会所での光景を目の当たりにして、現実がすっかり抜け落ちてしまったかのようだ。
そんな浅はかな僕だから、進藤の苦しみにも想いが及ばなかったのだ。
僕は本当に愚かだ……。
「気分が良くなったのなら、今のうちに帰ろう。大丈夫か?」
「うん、そうだな。今日はもう碁どころじゃねーな。」
素直に同意してくれた進藤を、電車は人込みだから止めた方がいいだろうとタクシーの乗せて家まで送ることにして、碁会所を後にした。
進藤の家では、彼のお母さんが迎えてくれた。挨拶するのはソウルで別れて以来だ。
進藤をお母さんに託して進藤家を辞すると、駅までの道のりで思いがけない人に呼び止められた。
―――たった今別れたばかりの進藤のお母さん、その人だった。
「塔矢君、ご免なさい。追っかけたりして。ふふ……駅までの秘密の近道、使っちゃった。近所の空き地をこっそり突っ切って来るんだけど、二、三分くらいは早く着けるのよ。」
「ああ!その近道だったら、昔、進藤に教えてもらったことがあります。忘れていました。」
僕が笑いかけると、進藤のお母さんも照れ臭そうに笑った。
くっきりとした明るい目元が、進藤にそっくりだ。見るものの気持ちを和ませてくれる。
「あのね、塔矢君。ヒカルの具合が良くないのは、矢張り記憶のことがあるらしいの。でも見た目は何の変りもないから、来週にでも棋戦に復帰することになっているけど……私はまだ早いんじゃないかと思うのね。色々と煩わしいから碁に逃げている……そんな感じがあって、無理矢理復帰しようとしている……私にはそう思えて。塔矢君は、どう思う?ヒカル……このままでいいのかしら?」
「そうですね……僕も本当に気が付かなくて……友達として申し訳なかったと思います。復帰は伸ばした方がいいでしょう。僕から進藤に言ってみます。」
それを聞いて、進藤のお母さんはほっとしたように肩を落とした。
「ありがとう、塔矢君。あの子……絶対に無理をしているのね。特に人に逢う時はとっても緊張していて、更にそれを悟られないようにしてる。きっと塔矢君と一緒だったら、リラックスして体にも心にもいいと思うんだけど……。」
お母さんの言葉に、僕は閃くものがあった。―――そうだ。進藤に対して僕が出来ることが、もっとあるかもしれない。
「あのっ!良かったお願いがあるんですが……。」
進藤のお母さんが怪訝そうに僕を見ている。それでも僕は、思い付いたことをすぐに口にしてしまっていた。
「わあ……真っ赤だなぁ……スゲー……。」
「そうだね、今年は暖冬だったからまだ十分間に合ったな。」
進藤が碁会所で具合が悪くなってから数日後。
僕らは二人で旅行に出た。
海は避けて、高原にした。進藤が三年前に漂流して九死に一生を得たということもあったし、晩秋の紅葉がギリギリで見られるだろうという楽しみもあった。
かえって何も想い出に繋がらないような場所で、彼と他愛ない話をして、気が向いたら碁を打って。そんな風にゆったりとした時間を過ごすのもいいのじゃないかと思ったのだ。
「お前、運転出来るんだな。十八になってすぐに免許取ったの?」
「うん、さっさと取らないとそのまんま歳をとるぞ〜なんて芦原さんから脅されて。父の病院への送迎とかも出来るしね、余り乗らないけどあると便利だ。」
「結構飛ばすよな?追い越しもしゃーしゃーとやっちまうし。」
「え?これでも君を乗せているから慎重にしているつもりだけど。一人だったらもっと飛ばしてる。目的地に着いてるよ、今頃は。」
ひ〜、お前ってそういうヤツだったんだぁ……とおどけて言うのが可笑しくて、何を今更、僕の気性を覚えていない君は、この旅行でたくさん驚くことがあるかもしれないなと、更に脅しをかけた。
軽口を叩いて、慣れた男友達として笑い合う。進藤の記憶喪失すらも、笑いのネタだ。
今はそれだけでいいと、十分幸せだと思える僕は、初日から楽しくて仕方なかった。
川のせせらぎが聞こえる旅館は、ひなびた温泉宿らしくこじんまりしてとても落ち着く。
適当にネットで選んで決めたここには、何の想い入れもなく予備知識もなかった。だからこそ、僕らは気楽でいられた。
川は上流の割には幅も広く、あちこちに見える紅葉が絵画のように美しい。
着いたその日は、二人でまず河原をぶらぶらと散策した。枯れススキがまだらに生えていて、石がゴロゴロ大きくて意外に歩きにくい。
どちらからともなく碁石を似た石を見つけると、拾って歩いた。二時間位も歩いただろうか。
さすがにへとへとなった僕らは休憩がてら座り込んで、集めた碁石もどきを川に投げて遊んだりした。
リラックスしている進藤の様子が嬉しくて、僕は今ならと思って彼に切り出した。
「進藤……僕は君に謝りたいなって思っていたんだ。もっと君の精神状態を考えて気配りすべきだったのに。誰よりも僕がそうすべきだったのに。」
「アキラ……お前って真面目だなぁ……なーんも悪くねーのに。碁を打ってる時はおっそろしいけど、そうじゃねー時は……うん、イイ奴だな。」
「そういうんじゃないよ。だって……想像してみたんだ。もし自分が君の立場だったとしたらって。自分は何も覚えてないのに、周りは自分のことをわかってる。自分の覚えていない過去を……小さな出来事だって知ってる……そういうのって凄く不安でイライラして……精神的に負担だろう?」
「んー、そんなに深刻に受け止めてる訳じゃねーけど……まあ、ちっとはそういう感じ、かな?自分の知らない自分を、他人が……他人だけが知ってるって……確かに不思議なんだよ。」
「そうだろう……進藤、無理はするな。ソウルで僕は君に碁界に戻って来いと言ったが……碁はいつでも打てる。僕が時間の許す限り、君と打つ。僕で不満なら誰か高段の人を紹介するし。公式戦に復帰するのは、もう少し待った方がいい。」
僕の言葉を黙って聞いていた進藤は、両手で抱えた膝の間にすっ……と顔を落とすと、一拍置いてから呟いた。
ありがとう……と。
その頼りない声は、河原を吹き渡る風に千切れて、消えた。
頬を撫でる風は冷たかったが、丸くなってしゃがみこんだ僕らの間には、どこか温かいものが通っていたように思えて。
……僕は、十分幸せだった。
しかし、小さな問題はその夜起こった。
食事も美味しくて、酒を少し飲んだままの勢いで対局もして、楽しい夜だったのだが、いざ風呂に入ろうという段になって僕は途端に意識したのだ。進藤と裸になって一緒に風呂に入る―――それが僕にとっては、緊張を伴うことだという事実を。
「ここの露天風呂って河原に通じてるんだってさ。ちゃんと仕切りがあるから外からは見えにくくはなってるらしいけど、熱い湯と川の水が混じって丁度いい湯加減らしいぜ〜。早く入ろうぜ、アキラ。」
「……いや、僕はちょっと酒が過ぎたようだ。今日は遠慮しておく。」
「え〜、勿体無いじゃん!今夜は満月に近いから、めっちゃ綺麗だぜ〜、夜の河原の露天風呂……一緒に入ろうよ〜。のぼせそうになったら即上がればいいじゃん?あ、俺が運んでやるから安心しろって!」
無邪気に誘ってくる進藤に、苛立ちさえ覚える。
邪険に断れば諦めるかと思って強い語調で遠慮したが、それでも強引に僕の手を引いた。引かれた手が痺れるような感覚に、もう僕は逆らえないで進藤の後に続いた。
そうなんだ……温泉で大浴場なんだから、旅行の間中、別々に風呂に入るのも不自然だ。結局、いつかは一緒に入ることになる。
仕方ない……さっさと入ってさっさと上がってしまおうと覚悟を決めた。
露天風呂は想像以上に素晴らしかった。
オリオン座もくっきりと見え、月も冴え冴えとした夜空の下。
川のせせらぎが聞こえて、しん……と静まりかえっているよりもかえって落ち着く感じだ。
僕は景色にだけ関心を向けて、進藤の方は見ないように努めた。服を着ていてさえ、進藤のこの三年の成長ぶりには驚かされているのに、ましてや……。
僕はぼんやりと辺りを見るだけで、決して焦点を合わせないようにする。
幸いにして、美しい景色が僕の緊張を隠してくれていた。進藤の方も、数年ぶりで入る日本の温泉と、澄んだ空に広がる風景に心奪われているようだった。
それなのに。
進藤はどうやら僕の方をさり気なく観察していたらしく、上がって着替える頃になって不意に言われた。
「そんなに長い髪、風呂の時はどうやんのかなーと思ったら……上手いことタオルで巻いちゃうんだもんなー、スゲーお前って器用!」
「ん、ああ……こんなの慣れだよ。」
その時僕は、タオルをとって髪を下ろしたところだった。しっとりと濡れて重くなった髪は、背中まであるから確かに男としては珍しいだろう。
進藤がいなくなってからずっと伸ばしていた髪。それをジロジロと見られて居心地が悪い。いや……正直、恥ずかしいくらいだった。
さっさと切ってしまえば良かった。
こんな長い髪である必要も、切ることを遮る縛りも、今となっては何もないというのに―――。
進藤から顔を隠すように、僕は髪をタオルで拭い始めた。ゴシゴシとわざと乱暴に扱う。
しかし―――進藤はまだ僕を見ていた。それを気配で痛いほどに感じる……。
「……アキラってさ、色白いよな……碁打ちってやっぱ日に焼けないもん?俺なんてあっちで結構庭仕事とかも爺さんにやらされていたからなぁ……。」
「え?僕?……えっと……そうだな……僕は特に外での運動はしてないから。あ、でも、芦原さんなんて最近彼女とテニスを始めて……ああいうのは結構いいかもしれないね。職業柄、僕らみたいに運動不足の者には。そうだ、君、体を動かすのもストレス解消になっていいかもしれないよ。緒方さんが通っているジムを僕にも紹介するとよく言われてるんだけど。どうだろう、君に紹介してもらおうか?」
動揺を悟られたくなくて饒舌になっているのが自分でもわかっているだけに、滑稽だった。どうやら進藤も僕がおかしいと気が付いたらしい。
更に覗き込むようにされて、彼の顔が近付く。
「……アキラ、お前、顔がほてってるぞ……もしかしてのぼせた?うわ〜、酔いが回っちゃったら大変だ!」
「いや、大丈夫……。」
「お前って対局中は一切顔色変えなくてポーカーフェイスなのになー、やっぱ湯あたりとかしたら、そんな風に白いほっぺが染まるんだ!りんごみてぇ……ははは……。」
一体誰のせいだと……心中で悪態をつきながら、さっさとその場を後にした。進藤がおい、待てよ〜と追いかけてくるのが恥ずかしいような嬉しいような。
そんな風にして、何とか最初の晩をやり過ごしたのだった。
次の日は生憎の雨で、僕らは部屋に閉じ込められた。
碁から離れた方がいいのではと思うのに、結局は打つしかない。しかし僕らは結構その状況を楽しんでもいた。
元々、行き当たりばったりの旅だ。こうして雨音を聞きながら、川の降る雨を眺めながら碁を打つのも悪くなかった。
雨は一日降り続き、川の推量も増しているらしい。そうなると川の水と混じり合う露天は使用禁止になるらしく、中の小さな浴場しか使えない。
夜が来るのが、前日よりももっと苦痛だった。
僕らの他にはこんな観光シーズンでもない時期の平日に、客などほとんどいない。今夜も一緒に入ることになるのかと複雑な気持ちでいたら、食事の後に進藤が言った。
「俺さ〜、ちょっと腹具合良くないし、飲み過ぎたから明日の朝でいいや。もう寝る。おやすみ!」
そう呆気なく言われて返事に詰まった僕を残して、進藤はひいてあった隣の間の布団に転がり込んだ。
何だ……今夜は、入らないのか……それがわかって少しだけ安心してしまった僕は、昨日よりもゆっくりと温泉につかってから部屋に戻った。
並べられた布団に入ると、どっと眠気が襲ってくる。あっという間に眠りに落ちそうになっていたら、思いがけず進藤の声がした。
「アキラ……寝た?」
「……いや……君の方こそとっくに寝ているのかと思った……。」
「一度は寝たんだけど、しょんべんに起きたらそれからちょっと目が冴えちゃってさ。んで、色々と考えていた。」
「何を?」
「うーん、やっぱ自分のことかな。こうしてるとさ、まるであっちで暮らした三年が夢のような気がする。あっちでさ、俺、言葉を覚えながらいっぱい碁の勉強したんだぜ。爺さんの家には図書館があってさ、そこに世界中の棋譜や碁関連の本もあったんだ。記憶はなくても碁はちゃんと打てたから、しかも相当に打てるってわかったから、爺さんも俺に好きにさせてくれてさ。……たまには訪ねて来る棋士とも打って。俺の存在はあくまでも隠してたらしい。口止めされてたんだって。あの爺さん、韓国では大物だったらしいからなー、財閥がまだまだ強いんだって……って、俺も詳しいことや難しいことはわかんねーんだけど。」
「ふーん、そうか……だから君、この三年でも棋力が落ちなかったんだな。」
「うん……あのな、そのたくさんの棋譜の中で―――俺は、ある棋士に惹かれた。日本の古い棋士なんだけど。棋譜が凄く心に引っかかってさぁ…何だか妙に懐かしい感じがするんだ。」
進藤の言葉を聞いているうちに、心臓が脈を早めていくのを感じていた。
彼がどの棋士のことを言わんとしているのか―――もう聞かなくても僕にはわかっていた。
「秀策……だろう。」
「え?……何で?アキラ、何でわかるの?」
「だって君は昔からこだわっていたんだよ。」
「ああぁっ……そうか……俺が……記憶を失くす前の俺が……そっかぁ……きっと、昔っから関心があって、好きだったんだろうな。そのせいで―――。」
君の秀策へのこだわりは、そんな簡単な言葉で片付けられる程度のものではなかった。
でもそれを今ここで、事細かに彼に話しても混乱させるだけかもしれない……そう思うと、僕はまた口をつぐむしかなかった。
進藤もそれ以上は踏み込んで訊いてこない。自分の中で納得するものがあったのだろうか……それとも、もっと深い思考の底へと降りていっているのだろうか。
沈黙が僕ら二人を包んで、もうこれで今夜も終わりかと本格的に目を閉じた僕を、再び進藤の言葉が驚かせた。
「なあ、アキラ……俺さ、もう一個、気になってることがあって。……それは、碁のことじゃないんだけど。」
「碁じゃないこと?……何だ?君が、過去を知りたいと思うのなら……僕でわかることなら……。」
そう言いながらも。
一度は治まった胸が、また脈打ち始めたのを感じて苦しい。布団の中で、全身が耳になったように感じて、硬直した。
「知りたいのかどうか……自分でもちょっと怖い、かな……へへ……えっと、お前だったらもしかしたら知ってるかもって、俺のこと。」
「………。」
何も言えなかった。
聞きたいような。聞きたくないような。
彼が今から何を僕に尋ねたいのか、それを予想することはとても出来なかった。そんな気持ちの余裕なんて、欠片もなかった。
ただ、進藤を止めることも出来ずに、僕は彼の言葉を待つしか出来ない。
「あのさ、記憶を失くす前の俺って……三年前の進藤ヒカルって……もしかしたら……ゲイだった?女の子じゃなくて、男が好きなヤツ……だったのか?」
小さな声は、僕の耳元で聞こえたような気がする。
僕は。
ぎゅっと浴衣の胸を掴んで、息を詰めて、衝撃をやり過ごそうとした―――。