― DESTINY ―
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 進藤ヒカル―――韓国ではsaiと呼ばれていた彼は、帰国することをなかなか承諾しなかった。



 僕が韓国にいる数日の間、僕らは話すよりも打っていた時間の方が長かった。
 話したとしても、彼に記憶を取り戻させるような過去の話をするよりも、この三年間で彼がどう生きてきたかということを聞く方が多かった。
 僕が知りたかったというのもあるし、進藤の精神状態を考えて無理をさせたくなかったというのもある。
 そして何よりも彼が僕を覚えていないということを確認することが、心に小さな切り傷を付けていくような作業に思えて、辛かったのだ。
 彼が僕のことを、塔矢ではなくアキラと呼ぶたびに胸が疼いた。そしてそんなことですら、一緒にいるうちに慣れようとしている……。









 進藤と再会した次の日、早速僕は現実を突きつけられた。
 進藤がソウルに出て来てから暫くの間一緒に暮らしていた女性と、引きあわされたのだ。



「スンヒというんだ。漢字はね、承諾する、の承……という字と、お姫さんの姫で、承姫(スンヒ)。」

 進藤が少し照れ臭そうに言うと、横に立っている女性は固い微笑を見せた。



 綺麗な女性だった。いや、女性というよりも、まだ少女という方が近い。
 僕らよりも二つ若い十八歳だという彼女は、細い体に小さな頭を乗せて、肌は透けるように白かった。日本では見かけないような真っ直ぐで黒々した髪は、皮肉なことに僕と同じくらいの長さで、見た瞬間に居心地の悪いものを感じた。

 彼女は、進藤がお世話になったこの国の引退した大物実業家の一族のお嬢さんで、小さい頃日本で教育を受けたので日本語がかなり話せる。そのせいで、進藤が拾われた時に彼女が通訳代わりに呼ばれたらしい。
 それから三年。進藤の傍にいた彼女は、きっと花がほころぶように綺麗な女性へと成長し、それを目の当たりにした彼が惹かれない筈もなかった。
 おそらく……二人は恋人同士なのだろう。二人の間にはそういう親密な空気があった。



 覚悟は出来ていた。
 緒方さんから初めて進藤を見つけた話を聞いた時に、進藤が女連れだというのは聞いていたし、普通に考えても二十歳の健康な男性に恋人がいてもおかしくはない。
 進藤には記憶がないのだ。僕とのことを一切忘れているとしたら、元々彼の性的傾向はストレートだろうから、女性を好きになって当然なのだ。

 彼と一緒に住んでいるという部屋から、スンヒは何度か進藤に逢いに来ているらしかったが、進藤は出来るだけ両親や僕と一緒に話したり町を歩いたり、それから訪ねて来たスヨン君や韓国の棋士たちと過ごすのに忙しくて二人が一緒にいるところを見ないですんだのは、僕には良かったのかもしれない。

 情けない話だが。
 矢張り僕には、進藤ヒカルの恋人と親しく接するほどの度量はないようだった……。



 一度だけ、短かったけれどもスンヒと二人きりになった時間があった。

「アキラさんは、日本ではsai……彼の一番のお友達だったのですか?」

 少したどたどしくはあったが、完璧な日本語だった。話し方を聞くとますます幼い感じがする。妹みたいなもんだと言った進藤の言葉が思い出された。

「一番……かどうかは、わかりません。進藤にはたくさん友達がいたし。でも、碁では一番のライバルでありたいと思っていました。」

 彼女が聞き取り易いようにと、ゆっくりはっきり話した。それを聞いた彼女は、少しだけ緊張を解いて僕にこう言った。

「アキラさんの碁、素晴らしいといつも興奮していました。一番のライバル、間違いないです。」

 進藤への愛情を感じさせるに十分で、純粋無垢……という言葉が似合いそうな、そんな若くて美しい彼女の表情が、僕を更に打ちのめした―――。









「君が日本に帰るのを渋っている理由の一つは、彼女か?」
「ん……そうだな、スンヒだけってんじゃないけど、スンヒとその爺さん、一族にはスゲー世話になった。それは聞いてると思うけど、アキラも。……身元がわかって日本から迎えが来ました、はいそれではバイバイ……って、そいうもんじゃないだろう。」
「それはわかる。」

 僕はいよいよ明日帰国することになっていた。

 最後の晩、夕飯を終えた後に二人で僕のホテルの部屋で打つことになった。明日は早いからこれが最後の対局になる。またネットで打てるだろうとは言っても、こうして顔を見合わせて打つこととは意味が違う。
 今まで避けてきた話題に、何とか気持ちを落ち着けて触れておきたかった。折角ここまで彼を迎えに来たというのに、このまま帰るのは耐えられない。

 僕は進藤と彼女のことを、そして彼がどうして帰りたくないのかをもっと深に部分においても、知りたいと思っていた。
 知ることで傷付いたとしても、進藤をなくしていた三年の苦しみを思えば乗り越えられるだろう……。



「……しかし、進藤。君は日本人だ。日本の棋士だ。一度は帰って来るべきだ。日本の碁界へ。」

 僕の元へ帰ってきて欲しいという言葉は、永遠に飲み込もうと思っていた。

「アキラー、言ったじゃん?遅かれ早かれ子供って独立するもんで、外国に留学したとも思えば……実際、そんなもんじゃん?碁の勉強の為にもこのまんまここに残っている方がいいしさ。親も時々こっちへ来ればいい。幸いこの国を気に入ってくれたし。俺は殆ど韓国語にも不自由しなくなったし、外務省の方でもこのまま病気を理由に滞在を許可してくれそうだし。」
「それじゃあ、本当に暫くはここにいるのか……。」









 三年ぶりに再会したあの日。
 進藤の胸に拳を叩きつけて、帰って来い、いつまで僕を待たせるつもりだと訴えた。泣きながらそんなことをする僕を、進藤は静かに、でもとても悲しい声で慰め続けた。
 彼の手が、僕の長くなった髪の毛の上を優しくさすらっていた時、どれだけ僕は安らいだことだろう。

 もう泣かないで済む。一人で愛する人を思って泣くことは終わりなんだ。これからは、泣きたければ彼の腕が僕を待っている……。



 そう思ったのも束の間。

 僕の興奮が鎮まったのを見計らった進藤が、そっと肩を掴んで彼の胸から僕を離した。
 それまで僕らの熱を留めていた、重なった二つの胸。その間に出来た隙間のせいで、何かが急激に冷えていくのを感じていた……。

「俺、どうしたんだろ?お前のこと、全然覚えてねーのに、ふっと髪の毛だけはもしかしたらコイツ、俺と一緒の頃はもっと短くて、肩よりも上で揃えてあって……そんな気がした……ホント、ただそういう気がしただけで、つい口に出しちゃった……。」

 進藤が小さく笑った。おかしいよな〜、俺、どうしてかな……と、それからもブツブツ呟いていた。
 嬉しいのか、辛いのか。彼の不安定な表情は、彼が過去を思い出した訳ではないということを僕にも知らせていた。



 それから、僕はもう自分のことを語ろうとは思わなかった。彼の過去についても訊かれなければ答えない。
 ただ、目の前にいる進藤と打つことだけで、彼の帰還を確かめようとしていた。









「……一生、帰らないって言ってるんじゃねーだろ?今はまだ……思い出してないし、さ……。」
「スンヒは君の恋人か?離れるのが嫌なら、彼女も連れて一緒に来ればいい。」

 自分でも驚くほどすんなりと、そして冷たくそれを言い放った。

「ええ?スンヒ?違うよっ!アイツは俺にとっちゃ恩人だし、妹みたいなもんだよ。だって最初に逢った時なんてスゲー子供で……全然!そういう対象じゃないんだって!」
「……そうなのか?でも、大事な人なんだろう?」
「そらあ……大事だよ。ずっと一緒にいたら、将来はわかんねー……でも、今は妹。手なんか出してねーよ。」
「まだ、彼女とは深い関係ではないと?」



 ―――そこまで踏み込むな。そんな質問をするな。

 僕の中で警告が鳴る。それでも、止められない。
 僕は弱い。一番訊きたくて、一番答えを恐れている問いを、飲み込むことが出来ないほどに弱い。



「深いって……おい〜アキラ、お前しれーっとそんな際どいこと訊くなよ!……って、俺が先に言い出したのか?……まあいいや、興味本位でお前が訊いてるんじゃねーのはわかってるし、お前になら何でも話せる気がするし。……んー、そうだよ、かる〜いキスくらいは……へへ……そんくらいはさ、一緒に居たらつい可愛く思えちゃって……ってことも、ありじゃんか?でも、寝たことはないよ。だってアイツ十八だよ?この国はまだまだそういうの、厳しいとこあるし。」

 頭をかきかき視線を泳がせながら言うのは、進藤が照れている証拠だった。

 昔よく一緒にいた頃にも、彼は時々こういう仕草をして見せるから、つられるようにして僕も一緒に照れ臭い気分になったことがあった……。



 胸に、どす黒い雲が湧く。
 どうしようもない破壊的な衝動を感じて、僕は対局の準備を終えて正面に座った進藤を睨みつけた。









 君は覚えていないだけで。

 本当は、初めてのキスは僕と。そして僕も初めては君と。



 君がいない間も、あのキスを思い出してどんなに僕が苦しかったか、君にわかる筈もないな。

 僕らがどんなに切ない息遣いをしていたか。どんなに震えを堪え切れずにいたか。

 その瞬間の空気も。色も。匂いも。体に感じた振動も。唇と舌の熱さも。

 全てが鮮明な記憶だ。



 あの瞬間に、全てが塗り替えられてしまった。ただの友達で競争相手だった関係が、一気に違うものになり、そして未来すらも変えてしまったと感じていた僕ら。

 ―――あの日の僕らは、完全だった。

 相手をあるがままの存在として欲し、持てるもの全てを相手に与えたいと、その心の純度はこれ以上はないというくらいに高かった。

 あんな大事な瞬間を、君は綺麗さっぱり忘れて。

 そして僕に、他の女性としたキスについて語るというのか?



 どこまで。どこまで君は……僕を…………









「じゃあ、彼女のことが理由でなければ、一体なんだ?君は自分が何者かわかったんだから、帰って来て日本の棋士としての義務を果たすべきじゃないのか……それとも、日本で棋士としてやっていく自信がないとでも?」
「アキラ……お前……。」
「どんなにこの国のレベルが高くても、君は韓国棋院の棋士じゃない。簡単にはこちらのトッププロと打てる訳でもないだろう。」
「そうは言っても、今の日本のレベルをお前だってわかってんじゃねーのかよ?」
「日本がどうだと言うんだ?君は日本の棋士と対局するのが……怖いか?」

 挑発していた。
 自分でも明らかに進藤を挑発することによって、彼を揺さぶって彼のためらいをぶち破り、何かを前進させたかった。

「わかってんだろ!?お前の前では言わないでやったけどなっ!例えば……この前の世界囲碁でも半分以上が韓国の棋士だ。日本人なんて話題にもなんねー。日本の9段は韓国の初段なんて馬鹿にする奴もいるくらいだ。そんな情けねー状況で、日本の中だけで満足してらんねーだろうがっ!」

 進藤は呆気なく僕の挑発に乗ってきた。
 興奮すると、すっかりオトナに変貌してしまった彼の声が、昔の名残のように甲高くなる。

「日本の棋士の批判をするんだったら、自分が帰国して模範になればいいだろうっ!外から見て文句を言うだけなら誰だって出来る。日本の碁のレベルの低さを憂える気持ちが君にあるんだったら、日本でこそ何かをすべきだろう。……違うかっ!?」
「それはそうかもしれねーけど……でも、俺は強い奴と打ちたい!もっと強くなりてー……碁だけが、俺に残された記憶のカギだ……理屈を越えて、俺はレベルの高い碁を打ちたい。その為にここにいる。」
「日本にいては強くなれないとでも言う気か?記憶を取り戻したいなら、それこそ帰国するべきだっ!この……臆病者っ!」
「お、臆病だと?……よくも……言いやがったなっ!」

 進藤の顔色が変わった。
 元々持っていた人懐こさは失われていないと思っていたが、こんな獰猛にも近いような動物的で荒々しい顔も出来るんだ。
 逞しく変貌した彼に、鋭い目付きで睨まれて。……見詰められて。
 僕の中から、震えが起きそうなほどの悦びが湧き上がる。



 そうだ。
 僕らは仲良しこよしじゃなかった。
 いつもそこに炎が見えるほどに、熱さを感じるほどに、睨み合ってきたこともあったじゃないか。

 だからこそ、君はぼくにとって大事な人だった。
 僕の激情をかき立てられるのは、今も昔も、生まれてからずっと、君だけだった。
 だからこそ。



 僕は君を愛した―――誰よりも……。



「……ああ、言うともっ!遠慮なんかしてたって、君の記憶が戻る訳じゃないし。君がそんなに日本の棋士を見下すんだったら、僕に勝ってみろ。ネットでもこちらに来てからも、僕の方が勝率はいい。僕に勝てたら、もう帰国しろなんて言わないさ。」
「言ったな……そこまで自信があるんだったらいいだろうよ。打とう!打ってお前なんかこてんぱんにしてやるっ!」

 ドカッ……と、大げさな音を立てて進藤が腰掛る。僕も対面に掛けて、わざとらしいくらい時間をかけて用意をする。
 その間も、僕らは決して相手から目を逸らそうとはせずに、まるで逸らした方が対局でも負けだとでも言わんばかりに睨み合ったまま―――

「お願いします。」「お願いします。」

 頭を下げて挨拶をする段になって、漸く僕らは視線を外すことが出来たのだった。









 進藤も真剣だったが、僕だってそれまでになく勝ちを意識した。
 形振り構わない碁でも別に良かった。とにかく勝って、彼を叩きのめしたい、僕の前にひれ伏させたい……そんな攻撃的な感情だけが募る。
 それは、相手も同じだったようで。
 この数日間はまるでただの指導碁、馴れ合いの延長だったのかと苦笑いが出そうなくらいに、凄まじい展開になった。

 信じられないくらい、足の早い碁だ。それでいて、厚い。
 昔はシノギに弱いところがあったのに、とんでもなかった。今の進藤のシノギっぷりに、対局中にも関わらず僕は身震いを覚えた。

 それでも、僕だって負けてはいられない。
 勝負勘では彼と五分五分かもしれないが、僕の方が国際棋戦における経験値は高いし、勝ちをもぎ取る最後の切り札……精神力では負けていないと自負していた。
 ここまで来ると、技術の差ではなにも分けられない。
 あるのは、最後まで勝負に食い下がる粘りと、ハングリー精神にも似た、絶対に勝ちたいという渇望だけだ。



 持ち時間三時間の真剣勝負は、空が白み始めた頃に決着がついた。



「……ありません…………。」

 その声を聞いて、僕は大きく息を吐く。腹の底から出てくるような、深い溜息だった。
 目の前の進藤を見ると、悔しそうに唇を噛み締めている。



 ―――そうか……君は今でも、本当に悔しくてたまらない時は、唇を切れるほどに噛み締めるその癖……変っていないんだな……君は、本当に……進藤ヒカルなんだな……改めて、感じるよ―――。



「くそ〜っ!ここのツケ!この一発で潰された!思わず声が出そうで……悔しいなぁ……。」
「うん、そこが分かれ目だったな。隅の実利に気を取られそうになって、僕も一瞬慌てたが……でもそこを攻められたのは、改心の出来だ。」
「もう一局……と言いたいところだけど、夜が明けそうだしな。引き止めて悪かったよ。勝てなかったし……。」
「また、こんな碁が打ちたいよ。さっきは言い過ぎた。でも、本当に素直に思うんだ。君と、もっとこんな……盤面全部を、君と二人で見えていないところがないくらいに全てを共有し合って……その上で勝ち負けが決まるような碁が打ちたい―――。」



 今度は、真正面から気持ちをぶつけようと思った。
 もう恋人としての未来がなくても、進藤ヒカルと近くで打ち合う仲でいたい。彼に日本の碁界にいて欲しい。
 今の白熱した一局が、僕の混沌とする心に一つの結論をもたらした。

 進藤ヒカルを失いたくない―――棋士として、ライバルとしての君だけは、もう何があっても絶対に!

 しっかりと彼に焦点を合わせ、瞳にありったけの力を込めて訴えた。僕の気持ちが、彼を動かすようにと願いながら。









 沈黙が、部屋を支配した。

 進藤も考え込んでいるのだ。今の手応えある一局が、彼を動かそうとしている。









 どこか遠くをさすらっていた進藤の視線が、その旅を終えてゆっくりと僕の上に戻ってきた。そこには、澄んだ光が揺れている……。



「……なあ、アキラ。俺たちって、昔も……俺がいなくなる前も、さっきみたいに言いたい放題で喧嘩越しでさ……こんなに胸が熱くなって眠れなくなりそうな碁を打っていたのか―――?」



 それは疑問形で発せられた言葉だったが、僕にはまるで彼がそのことを覚えているかのように聞こえて―――鼓動が高鳴った。
 そうだ、そうなんだよ……進藤!さっきは、昔の僕らに戻ったみたいだった。嬉しかった……。



 しかし、それを口にはしなかった。ただ、静かに微笑んで、頷いた。



「そうか。昨日まではお前も遠慮してたんだぁ。どっかで俺のこと、心配してくれて……うん、ありがとう。俺、今も昔も、きっとお前に大事にされていたんだな……。」

 そう言って、彼も僕に微笑を返してきた。

 うん、そうだよ。
 やっぱり君は凄いな。ほんの僅かな時間を過ごして、何局か打っただけで、過去を思い出してもいないのに、でも僕にとって君がどんな存在だったのか―――本質的な部分を言い当てる。
 君は、本当に侮れない……。



「……帰るよ。アキラ。今みたいな碁をもっとお前と打ちたい。日本の棋士と、打ちたい。そして―――。」



 俺の記憶を取り戻したい。怖くても、不安になっても、碁がある―――俺をささえてくれる……。









 いつの間にか、朝日が差し込んでいた。

 その生まれたての光の中で、進藤が成長したオトナの顔に、昔と同じ屈託の無さそうな微笑を浮かべている……。

 僕の愛した、そして今でも一番好きな顔だと思った―――。












 スンヒに話をしてくると言って部屋を出て行った彼は、結局寝ることも出来ずに完徹した僕の元へ、再び戻ってきた。
 出発の時刻が迫っている。
 僕は、見送りに来てくれたスヨン君や韓国棋院の人々、進藤のご両親に礼を言い、空港へは一人で行きたいと見送りを断った。
 進藤とは固く握手を交わし、僕は一足先に日本へと戻った。



 数日後、本当に進藤は帰国した。
 待っている間も動揺はなかった。彼は、大きな不安を抱えつつも、もう立ち止まってはいないだろうと信じていた。
 きっと、帰って来る。最後に打った碁と、彼の微笑が約束の証だったから……。



 棋院では、進藤の噂で持ちきりになった。
 緒方さんが根回しをしてくれたので、マスコミまで巻き込んでの騒ぎというのは最小限に抑えられたが、ネット辺りではかなり不確かな情報も出回っていた。興味本位に騒がれたくはなかったが、ある程度はいたしかたない。三年も行方不明だった青年が外国で生きていたことがわかり、記憶を失ったまま帰国したのだから、それはセンセーショナルに違いないだろう。

 僕も、そして進藤の身近な人たちも、彼の精神状態を一番心配していたが、当の本人はいたって元気そうにしていた。
 棋院にも挨拶に来ていたし、少しづつ人に逢ったりもしているようだった。記憶喪失に関しても、専門医に診てもらったと聞いて、安心した。

 僕はというと、韓国に滞在していた間に溜め込んだ仕事を片付けるのに忙しく、彼とゆっくり過ごすことがなかなか叶わずにいた。



 そろそろ逢いたい、逢って話したり打ったりしたい……そう切実に思い始めた頃、僕の前に進藤ヒカルが現れた。
 棋院からの帰り道、駅で彼は僕を待っていてくれたのだ。

「よう、アキラ!元気?今、平気?」
「進藤?君一人なのか?一人で出歩いても大丈夫……。」
「おいおいっ!俺、体の方はスッゲー健康なんですけど〜、それに子供じゃねーんだから。」

 片目を瞑る進藤は、元気そうに見えたから僕はすっかり安心していた。
 それが見せかけの姿だったのだということを、僕はまだ知らなかった。

「なあ、塔矢、ちょっといい?打ちたいなー、お前と!帰国してから初めてだろ。」
「そうだな。今日は家に帰るだけだし、君に連絡しようかと思っていたところだ。日本に戻って来てからどうだろうかと気になっていたんだが……。」
「んじゃ決まりっ!どっか打てることある?俺んちかお前んち……。」

 彼を遮って、僕は言う。

「僕の父が経営している碁会所にしないか?君も以前、何度も来ていた。一度連れて行こうと思っていたんだ。君の家からも、そう遠くない。」
「……お前の?どこにあるんだ。」

 僕が駅の名前をあげると、ちょっとだけ彼の顔が曇って記憶を探っているような気がしたが、それでもきっと何でもないことだろうと流してしまった。
 その時に、もう少し彼の反応を細かに見ておくべきだったのかもしれない。

 進藤が承諾をしたので、僕はウキウキする心を悟られないようにと振舞いながら、彼を案内して碁会所へと向かった。
 実際、僕は浮かれていた。やっと帰国した彼と逢えた。これから碁も打てる。
 そして、碁会所の皆もきっと喜んで進藤を迎え、記憶を取り戻すきっかけにでもなるかもしれないなどと、単純な考えを抱いていた。

 途中、進藤が無口だったことも、後から思えば……くらいで気が付いていなかった。
 彼の中で吹き荒れている嵐を、僕は全くわかっていなかったのだ―――。



 そして。
 碁会所で、その事件は起ったのだった。



















NOVEL

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