― DESTINY ―
( 3 )







 僕の様子が心配になったのだろう。電話の向こうから、緒方さんらしからぬ切羽詰った声がした。

「アキラ君!大丈夫か?進藤は無事なんだ。生きていたんだ。まずはそのことを喜ぼう。」
「はい……もうそれだけで、十分です……ありがとうございます、本当に緒方さんのお陰だ……ありがとう……。」
「泣くな。泣くのはまだ早いぞ。記憶がないらしいのは、芝居でも何でもないらしい。saiというハンドルネームでネット碁にいたのは認めたが……矢張り、あれは進藤だったんだな。どうして記憶のない進藤がsaiを名乗ったのか、謎だらけだ……これからだぞ。アキラ君。」
「嫌だなぁ、緒方さんったら。……泣いてなんかいませんよ。ええ、わかっています。きっとこれからが本当に大変なんでしょう。……そうだ、進藤のご両親はいつ、そっちへ?」
「急ぎ準備されて、明日中にはこっちへ着くそうだ。……韓国は、近くて遠い国だったな―――アキラ君。」



 緒方さんの声は、さすがに感慨深気だったように思う。

 近くて遠い国―――まさか外国にいるとは思いもしなかったが(パスポートは持ち出されていなかったので、ご両親もそれは考えに入れてなかったようだ)そういう可能性だって今の世の中、あり得ないこともないのだ。

 謎はまだうず高い山のように目の前にあるが、それでもこの山を切り崩してその先の真実に必ず辿りつけると、僕は信じていた。









 その夜も、進藤のことを考えるとなかなか寝付けなかった。
 生まれた時からずっと住んでいるこの家、この部屋、そして慣れた布団の上なのに、こんなに寝苦しいのは、進藤がいなくなった頃以来だ。

 僕は寝るのを諦めて起き出すと、窓際に腰掛けて外を眺めた。
 月は高く、冴え冴えとした冷たい色をして、庭に一本だけある柿の木の実が、熟れて重たそうにしているのを照らしている―――深まりゆく秋が、そこにたたずんでいた。

 進藤のいない季節をこれからも一人で重ねていくのかと、僕は緩慢な喪失を受け入れつつあったと思う。
 だからこそ、それに反発しバランスを取ろうと引き戻す力が働いて、彼の誕生日を殊更祝おう、彼への気持ちを意識しようとしていた。



 ―――記憶喪失―――



 彼は全てを忘れてしまったのだろうか?
 碁はあれほどに強く、saiを名乗っているというのに。



 不安は尽きない。
 僕との一連の出来事も、僕のことを好意を持って見ていてくれたことも。
 最後に逢った日の、出来事も。

 何もかも彼の記憶から消えてしまったなんて、どうなっていくのだろう。彼は……そして、彼と僕は…………。






 ここ数年の僕は、碁に関しても変化しつつあった。

 スランプとかそういうのとは違ったかもしれないが、どこかで行き詰まりに近いものはあった。
 少なくとも、打った後に興奮が鎮まらなくてもう一局打ちたい、体力的、時間的な制約さえなければ、もっとずっと打ちたい……そう思える瞬間が、減っていた。
 攻撃的な面が減り、萎えていた部分があったかもしれない。見方によっては安定感を優先した碁を打つようになったともとれ、勝率的には大きな変化はなかったのだが。

 しかし。
 多分、このまま進んでいたら、もっと大きくてはっきりと周りにも悟られるような形で、僕はスランプに陥ったかもしれないと思う……。



 そういう三年間の後での、saiとの邂逅。
 それは、僕にとって一種のカンフル剤になった。認めたくはなかったが、進藤の行方と切り離して考えても、saiとの対局は僕にとって大きな意味を持ち始めていた。

 saiの正体と、進藤の行方―――その二つが結び付いてくれたことは、僕にとっては奇跡のように有難いことだったかもしれない。

  記憶を失くしていると言っても、果たしてどこまでなのか。僕には専門外でさっぱりだが、少なくとも偶然でsaiという名前を選ぶ訳はない。
 それに関しては、進藤と再会すれば話が聞けるだろう……。






 考え出すと、また頭が冴えてきて困る。
 僕は一層大きく窓を開け放ち、深呼吸をした。ひんやりとした外の空気が、頬を撫でていく。どこかで犬の遠吠えが聞こえた。

 気持ちを静める為にいつも僕がすることは、棋譜をなぞること―――。

 だから僕は、saiと打った最近の対局を頭の中で辿り始めた。
 目を閉じてそうしていると……いつしか暗闇の中、碁盤の向こうに座る進藤の姿が浮かび上がってくる。

 そう。そうなんだ。
 彼が、僕の、対局相手だったのだ!
 彼と僕は、三年ぶりに対局していたのだ―――






 ………本当に生きていた………帰って来るんだ、彼は――――!






 やっと。……やっと実感が沸いてきた。



 記憶喪失であるという不安を超えても、僕は矢張り進藤の帰還が嬉しい。何よりも幸せだ。
 彼が例え僕を覚えていなくても、僕への愛を忘れていても、それでも進藤ヒカルが生きて、ここへ帰ってくる。
 少なくとも棋士としては、僕とだって向き合ってくれるだろう。

 そう思うだけで、十分だった。
 それ以上は望むことは、今の時点では贅沢というものだとわかっていた。



 ―――もう一度、目を開けて外を見る。月は傾きつつも、変らず美しい。

 この同じ月を違った場所、違った時間帯に彼も見ているのだ。見ながら、生きていたのだ!



 そう思うと、胸がジワジワと熱くなって掻き毟りたいような衝動に駆られ、ますます僕は眠れなくなりそうだった…………。









 しかし、ことは簡単には運ばなかった。

 一週間ほどが経ち、その間に進藤のご両親が本人を確認、警察や大使館や国レベルで色々を巻き込んでの騒動になったが、進藤の帰国の知らせは来ない。
 僕は大事な棋戦が始まったこともあってなかなかネットにも行けなかったが、進藤の方もそれどころではなかったのだろう。
 saiとakiraの対局は、もうネットの世界で見られることはなかった。









 それからまた一週間ほどが経ち、いい加減僕も苛立っているところに、追い討ちをかけるような事実が知らされた。



 進藤は、自らが帰って来たがっていない―――ということ。



 ご両親が説得しているが、暫くはこのまま韓国に残ると言い張っているらしい。体の調子も、記憶のこと以外何も問題がないというのに。
 韓国にいたのも不可抗力というか、どうやら海で行方知れずになったところを韓国の個人所有の船に助けられ、何らかの事情でそのままあちらに住むことになったらしい、ということまでわかった。
 特別な措置が取られ、進藤は問題なく帰国を(韓国からの出国を)許されているにも関わらず。



 一体彼は、何を躊躇っているのだろう?
 いや、それは躊躇いなんてものではなくて、はっきりと帰りたくないという意思があってのことなのか?



「……進藤、どうしちまったのかな?メールでスヨンと話したんだけど、進藤ってやっぱ何にも覚えてねーみたい。だから……日本に帰って来るの、不安なのかな?それとも……まさか、韓国に残りたい理由でもあるのかなぁ……。」

 久しぶりに棋院で出逢った和谷君と、二人だけで話をした。彼も勿論、進藤の帰国を待ち侘びている。

「わからない。直接話して貰えないし。最近ではネット碁にも現れないし。」
「塔矢だってお手上げだよなぁ、外国に居られたらさ……。ああぁっ!!もうっ!!進藤のヤツどうなってんだよっ!?訳、わかんねー……一体全体、何で帰って来ないんだよっ!?ここには家族だって仲間だって……お前だっているのにな……。」
「和谷君……それは……。」
「あ、ご免……お前のことって、その……変な意味じゃねーよ。好きだったってことだけじゃなくてさ、お前と進藤は、ライバルだったじゃんか?誰よりもお互いに負けたくねーって、意識してた。俺たちもお前らのことは特別に思ってたしさ。」
「僕はいいんだ。進藤が無事に戻って来るなら、何も覚えていなくてもいい。だって命あってのものだろう。もしかしたらもう駄目なんじゃないかって……希望を持てない日だってあった。それに比べたら……。」
「へえ……塔矢でも、そんな気持ちになったんだ。俺は、お前だけはきっと何があっても進藤が生きてるって信じて疑ってないと、思ってた。」

 和谷君は少しだけ、笑いながら言った。僕も微笑み混じりに返す。

「僕だって世の中を知らない訳じゃないんだから、最悪のことだって当然想像したさ。でも、信じていたのも嘘じゃない。それは君だってそうだろう。だって、……信じることは、祈ることだった―――僕らにとって。」
「うん……。」

 和谷君は俯いたまま、同意するようにコクコクと首を振った。僕も何となく、話すことももうないような気がして、でもそれが苦痛ではなくて。
 黙ったまま、お互い手にした飲み物をゆっくりと口に運んだ。



「……塔矢。お前、どうして逢いに行かない……スゲー逢いたいんだろ?進藤の家族とかに遠慮してんのか知らねーけど。いくら今、忙しいからって、韓国なんだから一泊で行けるじゃんか?」

 和谷君は、とてもサラリと口にした。もしかしたら、彼はそう感じているだろうかとも、僕が想像していた通りのことを、だ。

「うん、そうだな。ちょっと……怖いのかもしれない。凄く逢いたくて、懐かしくて……狂ったように今すぐ顔を見たいと思う瞬間もあれば……記憶を失くして、僕らの知らない時間を過ごしてきた進藤が、僕を見てどんな顔をするのか……怖いか、な?ははは……。」
「笑って誤魔化すなよ……塔矢。お前の気持ち、俺だってわからなくはねえよ。好きなヤツに三年ぶりに逢うんだからな。でも、アイツが帰って来ようとしないなら、逢いに行って理由を確かめてくりゃいいじゃん?」
「わかってる……わかってるが……。」
「塔矢っ!」

 急に和谷君が、僕の方を見て声を上げた。僕の目を覚まさせるような、力のこもった声だった。

「お前らしくねえぞ?お前は、塔矢アキラだろうがっ!何を恐れてるんだ?お前は、そんなヤツじゃないだろう……。」
「和谷君……。」
「さっさと進藤を迎えに行ってこいよ。塔矢。」



 僕は、やっと彼に向かって自信を持って頷くことが出来た。背中を押してくれた和谷君に、心の中で感謝しながら……。









 その数日後。僕は何とか予定をやりくりして、韓国に降り立った。

 もう迷いはなかった。
 進藤に逢いたい。彼が僕を見てどんな反応をしようが、或いは何の反応もなく、ただ初めて逢う人間として接してこようとも。
 僕はそれでも良かった―――生きた進藤にもう一度逢えるのだったら。



 予め、進藤との面会はセットしてもらった。
 ご両親の泊まっているホテルに進藤も今、隣の部屋をとって寝泊りしているとのことだったので、着いた早々そこに向かう。

 まずはロビーでご両親と、駆けつけてくれた洪君に逢って簡単に話を聞いた。
 それによると―――。



 進藤は三年前、海上を漂流しているところを韓国の個人所有の船に助けられた。その時、命に別状はなかったが所持品もなく、既に記憶までも失くしていた。
 進藤を助けた老人は、韓国の政財界でも力のある人物で、その頃には引退して一族の陰の長のような存在だったという。釜山の海辺に広大な土地を所有し、引退後も力を持ち続けていた。

 その老人は自分が拾った少年が日本人であることを知り、そのまま自分が使用人として遣うことにする。老人は戦時中の想い出から、日本に対して好感情を持っていなかったことと、進藤の碁の腕を買った為だった。彼は、無類の碁好きだったそうだ。
 裕福な隠遁生活を送る老人の元で、進藤は淡々と働き、碁を打ち、時には老人の連れてくる人間とも打ち、韓国語を覚え、ごく自然にそこでの暮らしに馴染んでいった。

 進藤の、韓国での名前が、saiというのだそうだ。
 勿論、韓国名ではない。進藤が唯一、拾われた時に口にした言葉だそうで、その名前で自分を呼んで欲しがったという。
 老人も、その周りの人間も、進藤をsaiと呼んで今まできた。

 進藤がどうしていきなりソウルの繁華街、そしてネット碁に現れたかというと、それは老人の死による環境の変化だった。
 老人がとうとう病を得て、それからほどなく亡くなると、親族が胡散臭い素性もわからない日本人である彼を追い出しにかかった。
 それで身寄りのない彼は、都会に出て来たらしい。唯一、親身になってくれた、老人の遠縁の娘である韓国人の女性と一緒に。



 それが、緒方さんが進藤を明洞で見つけてくれたほんの二ヶ月ほど前だったという。

 緒方さんと洪君とに逢って、進藤は混乱したらしい。最初は逃げ出されたそうだ。それでも根気よく韓国語と日本語と両方で話しかけて、何とか彼の信頼を得ることが出来た。



 今では進藤本人も、もう自分が本当は何ものであるのか納得しているという。
 記憶は戻っていないものの、小さい頃からの写真を見せられたり、自分にそっくりのご両親を目の当たりにして愛情を示されて、それで疑うことは出来ないだろう。






 だからこそ。



 事実と、現在の自分の記憶の大きな隔たりが、彼を苦しめる―――。



 思い出せないことが、彼に必要のない罪悪感を抱かせ、精神を不安定にさせているらしかった。






 事態は、僕が想像するよりもうんと深刻だったのだ。

 進藤ヒカルという自分を受け入れられないままでは、きっと彼は帰れないのだろうと、初めて僕は彼の迷いが理解出来る気がした……。






 進藤のご両親の好意で、僕は一人で彼に逢えることになった。今はあまり大勢の人間に逢いたくないらしい彼を気遣って、洪君も同席しないという。

 君は一人でヒカルに逢っても大丈夫かと進藤のお父さんに問われ―――僕は、はいと答えた。






 部屋の前に着いて呼び鈴を押すが、返事がない。何度も押すのも気が引けて、進藤のご両親が渡してくれたカードキーを使って入る。

「進藤……いるんだろう……入ってもいいか……。」



 返事はなった。僕は少しだけ待ってから。……一歩を踏み出す。

 部屋は明るかった。昼過ぎだったが、南向きの窓から日が燦燦と差し込んで、室内は心地良く温まっている。

 ゆっくりと、僕はその影に近付く。窓際の椅子に、入り口を背にして座っている影は、左に頭を傾けてダラリと腰掛けているようだ。
 ―――それが、進藤なのだろう。
 規則正しい寝息らしきものが聞こえて、彼がうたた寝しているらしいことがわかった。






 僕は、絨毯を踏み締めるように歩いて、彼の正面へと回り込む。



 少しづつ、少しづつ……進藤が僕の目の前に現れる。



 まずは、椅子にもたれかけた腕が見えた。半袖から伸びた腕は、長かった。



 その先にある手。大きい手。血管が浮き出て、大人っぽい手だ。僕の知らない手のようだと思う。



 肩、それから横顔。以前よりも長めの髪に隠されて、よく見えない。前髪は金髪ではなくて、全体が茶色がかった柔らかそうな毛の、髪だった。



 静かに、規則正しく上下する胸。リラックスして投げ出された足も、まるで嘘のように長い気がする。



 これが……進藤?……本当に?

 これが、あの不安定に揺らぐ表情と、成長途中故のアンバランスな体をしていた君だろうか?



 息を詰めて、その姿を見下ろすしか、僕には出来ない。僕の高鳴る心臓の音が、彼の眠りを破ってしまうのではと心配になる……。






 やがて、進藤が気配に目を覚ます時がきた。

「んー……?……っ!×××……。」

 最初の言葉は、早口だったから聞き取れなかったかと思った。
 しかし、後になってわかった―――それは韓国語で、僕には聞き取りにくかったのだということが。



 進藤が驚いた顔でこちらを見て、それから飛び上がるようにして立ち上がる。その勢いに、僕まで後すざってしまった。

「驚かせてすまない。寝てたのか?」
「あ?ああ……昼飯の後だったから、つい……夜、あんま眠れなくて、この部屋日当たりいいしさ。」
「そうか。もっと寝ていたいなら、僕はまた後ででも……。」
「まさか。折角来てくれたのに、眠いから後にしてくれなんて、誰が言うんだよ?」
「ならいいんだけど……。」



 拍子抜けする。
 まるで、昨日まで普通に会話していたような空気。もしかしたら進藤が記憶喪失なんて何かの間違いだったのではないかとすら思える、自然な会話だった。



 しかし、そう思ったのもつかの間―――。



「お前が、塔矢アキラ七段?俺にわざわざ日本から逢いに来てくれたっていう……。」

 進藤が、訝しげな色をその瞳に浮かべて、僕を真っ直ぐに見つめてきた。
 僕も、まるで来るべき時がきた……とでもいうかのように、かすかな緊張の中で答える。

「そうだ、塔矢アキラだ。そして、君とネット碁で対局したakiraも僕だよ。」
「ふーん……お袋たちも、スヨンも、お前のことをたくさん聞かせてくれたし、お前の載った記事とかも見せてくれたんだけど……悪いけど俺の記憶のこと、聞いてるだろ?」
「うん、だから君は何も気にしなくていいし、無理をするな。」
「ああ、ありがと……。」

 進藤が笑った。笑うと、幼さがよみがえる。
 背は僕をとっくに追い越してるのがわかったし、顔立ちも頬がそげてスッキリしていた。ただ、丸くて大きな目、少し上向きな鼻、全体の感じは変ってなかった。



 僕の好きな進藤ヒカルが、生きて、そこに―――いた。



 意識した途端、鼓動が早まる。言葉がみつからない。何と言えばいいのだろう?
 再会出来たらあれも言おう、これも訊こうと頭の中はいっぱいだった筈なのに、肝心な時には何一つ出てこないものなんだ……。



「打つか?アキラ……。」

 僕の困惑を感じ取った進藤……いや、saiが、デスクの上に置かれた碁盤を指差した。

 アキラと自然に名前で呼ばれたのは、僕を塔矢と呼んでいた頃の記憶がなくて、ネット碁のakiraだと彼が僕を認識していることの証拠でもあった。

 初めて名前で呼ばれて胸が脈打ったけれど、それが甘い疼きではなかったことが、僕には淋しかった……。






 午後中、僕らは何度も打った。すっかり日が暮れて、夜の帳が下りるまで。
 心配したご両親からの電話で、ようやく僕らは時間を思い出した。……そのくらい、久しぶりの対局に夢中になっていたのだ。

「間違いねーなっ!お前はakiraだ!こーんなネチっこい碁を打つのはお前くらいだ。」
「ねちっこいだと?それを言うなら粘り強いとかだろう。君、日本語忘れかけてるんじゃないか?」
「げーっ、お前、きっついなあっ!ネット碁ではあんなに親切そうなヤツだなーって思ってたのに、これがアキラの本性かよ〜。」

 数時間打っただけで、もう軽口が叩けるほどになっていた。
 矢張り、打つのはいい。打てば、何かが通じる。何かを感じ合える。

 進藤は僕の、塔矢アキラのことも、覚えてはいなかったけれど、家族だって生い立ちだって、十七歳以前の記憶を全て失くしているのだから仕方ない。
 ともかく今は、こうして面と向かって進藤と打てることだけで十分幸せだ。
 神様に―――もう何もいらないから、このまま進藤と打っていたい、一緒にいたいと願わずにはおれなかった。
 しかしもそういう気持ちを、彼にあからさまに見せる訳にもいかない。
 今、目の前にいるのは、記憶を失くし三年も外国にいた、混乱の真っ只中にいる青年なのだ。






 電話で打ち合わせして、ホテルのレストランでご両親と一緒に食事することにする。

 碁盤を片付けようと僕が手を伸ばした時、進藤も丁度伸ばしかけていて、一瞬、指先が触れ合った。

「あ、ごめ……。」
「いや……。」

 僕ではなく、進藤の方がより慌てたような気がして、そのことが更に僕を煽った。彼はまだ色々なことに慣れていないのだろう。

 だって。
 僕はずっと十二歳から十七歳までの彼を知っているのに―――彼にしてみれば、僕は初めて逢う人間と同然なのだ。

 どぎまぎする気持ちを抑えようと、僕は一層俯いてさっさと片付けた。その様子を上から見下ろしていた進藤が、不意に言った。






「お前……アキラ……髪の毛、伸びた?昔は……もっと短くておかっぱ……じゃなかった、か?」






 心臓を、いきなり、掴まれた。固まる。動けない。……突然のことに、息が止まりそうだ。






 碁盤の上に乗せたままの手が、震え出しそうになる。僕は俯いたまま、自分のその手を見下ろしていた。

 進藤はまだ、僕を見ている。黙って見ている。……何かを、考えているのだろうか。



 その沈黙は、深い深い溜息の後に破られたのだった。



「そうだ……お前、今は背中まであるけど……前はおかっぱだった―――。」



 最初は自信なさそうな小さな声だったのが、徐々にトーンが変った。



 そして、あっという間もなく、彼の手が僕の髪に触れた。自分の言葉を確かめるように、そっと優しく触れた。
 僕は、それを気配だけで知る。



 やがて、髪に触れた手が滑り降りて、僕の髪の裾を掴んで揺らして。



 何度か撫で付けるようにされて、進藤の手の平の熱が、僕にも伝わってきた。



「髪、伸ばしたんだ……いつから?もしかしたら……。」






 ―――そうだった。僕は、進藤がいなくなったその時から、髪の毛を切らずにいた。
 前髪だけは鬱陶しいからと自分で揃えていたが、本格的に後ろ髪を切ることはなかった。

 『願掛け』と言ってしまえば格好いいが、そこまで深く考えてそうしてきたのかは自分でもわからない。
 ただ、一度切れない……と、意識した途端に、本当に切れなくなってしまった。
 ―――そして、今に至る。

 顎のラインくらいで揃っていた僕の髪は、もう背中の半分近くまで伸びていて、進藤と最後にいた頃とは雰囲気が全然違っていただろう。



「進藤?思い出したのか?何か……僕のことを?それとも、もっと……。」



 やっと声を搾り出す。本当に、必死で出さなければ、声にならなかった。それでも、それは情けないくらいに掠れていた。

 僕も立ち上がって、彼を見る。

 進藤は呆然とした様子で、僕を見ていた。しかし、その目は虚ろな感じで、僕を見ているようでいて、でも本当はそうではないような。
 彼は、暗く果てしない記憶の海をさすらっているのだろうか……そこでもがきながらも、何かを掴もうとしているのだろうか。






 僕は、とうとう耐え切れなくなった。

 進藤に全身でぶつかっていく。彼はうっ……と声を上げてよろけたが、すぐに持ち直して僕に両腕を回してきた。

 堪え切れずに、とうとう涙が噴出してくる。止められなかった。もうどうしようもなく、溢れ出した全てが止まらない。止められない。



「進藤っ!帰って、来いっ!……っ……どれだけ……待たせたら、気が済むんだっ!君、は……帰って……帰って来い……日本へ……。」

 ―――僕のところへ。



 両手のこぶしで、進藤の肩をドンドンと力任せに叩く。叩き続けながら、動物じみた嗚咽がどんなに噛み殺しても漏れる。

 僕に叩かれ、怒鳴り付けられ、その痛みを受け入れつつ……進藤は震える片方の手で僕の腰を支え、もう片方の手は髪の毛を撫で続けた。

 それは、再会を喜んで抱き合うなんて格好では全然なかった。必死でしがみ付く、と言った方が正しい。

 お互いの感情の奔流に流されまいと、足を踏ん張り、しがみ付き、全身をこわばらせ、何かを耐えていたのだ。



「……アキラ……ご免……ご免な……。」



 進藤は、最後まで僕を「塔矢」ではなく「アキラ」と呼んだ。

 好きな人に名前を呼ばれて、こんなにも辛いことがあるなんて……僕は生まれて初めて知ったのだ―――。


















NOVEL

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