― DESTINY ―
( 2 )
その対局は、凄まじかった―――。
和谷君はよく食らい付いていたと思う。
しかし、相手が一枚上だった。攻撃的な碁だった。それでいて狡猾さも垣間見える。相手が攻め込みたくなるような隙を作っておいては、自分は上手く立ち回る。
終局した時、僕は溜息と同時に武者震いを感じた。
打ちたい。この相手と、打ちたい―――!
打ち筋だけでは、これが七年前のネット碁のsaiなのかはわからない。
ましてや、進藤がその名を借りて打っているのかどうかも、判断しかねた。
しかし、この相手とは是非打ちたいと思う。saiでなくとも、進藤でなくとも、この相手が誰であろうとも打ってみたい。
ただ純粋に、このsaiと名乗る人物と対局したいと心の底から湧き上がってくる衝動を感じ、そしてそういう気持ちになったのが実に三年ぶりであったことに、同時に虚しさを感じてもいたのだった―――。
和谷君は終局した後に、ちゃんと相手に声をかけ探ることを忘れなかった。
相手の国名は、KOREA―――韓国。
しかし、それも本当なのかどうかわからない。
和谷君の問いかけには何も答えなかった相手に、彼は食い下がって、もう一度時間を指定した。それが駄目でも時間の許す限りネットにいること、必ず再戦したいことを訴えているうちに、謎の打ち手は消えたのだった。
すぐに彼から携帯に連絡が入った。
「塔矢はどう思った?今の相手……スゲー奴だったろ。少し前から目を付けてたんだ。強い奴がいるって噂を聞いて……しかも、このHNだったからさ。」
「うん、素晴らしい対局だった。君も凄かったよ、相手はかなり追い詰められていたと思う。」
「俺に気を遣うなよ、お前らしくねぇ……それより、saiだと思うか?あの、七年前のネット碁の……。」
「それは、はっきり言って……まだ何とも言えないよ。一局だけでは何とも……ただ、老練な感じなのに時に攻撃的な様子は……彼に似てなくもないとは、思ったな。」
「彼って……お前の言う彼って、それはsaiか?それとも―――進藤……。」
和谷君の声が心なしか震えていた。彼も、久しくその名前を口にしていなかったのだろう。
……進藤ヒカルの名は、今となってはタブーとなっていたから。
「勿論、進藤にだよ。君とも話したが、saiは進藤に繋がる人物だと思っているけど……でも、saiは父とのネット碁を最後にいなくなったとも思っている。進藤がその碁を引き継いでいるのは間違いないが……。」
「じゃあ、今日のところは結論出ないってことだな。んー、それにしても興奮した。こんな手応え、ひっさしぶりだったなぁ!そう、進藤と打った時みたいな……テンポがスゲー良くて、ゾクゾクした……。」
「うん、そうだね……。」
「塔矢……お前も出来るだけネットにいろ。俺も見つけたら連絡する。次は……お前が打て―――saiと。」
今度はしっかりとした口調で、和谷君は僕にそう告げた。
それから数日間は、不思議な気分で過ごした。
数年ぶりに進藤の消息に繋がりそうな事件が起こったというのに……いや、だからこそ……僕は、現実感が掴めないままでいた。
どんな小さなことでもいいから、情報が欲しくて狂ったようになっていた最初の年を経て。
彼の存在はより深く僕の中に沈み込んでいたいたから、それを掻き乱す事件にはどう対処していいものか……戸惑いも強かった。
もし、これがぬか喜びに終わったら。いや、そうなる可能性の方がうんと高い。
当たり前だ。
冷静に考えても、韓国が国名で、saiと名乗る碁の強い人物が現れたことだけで、進藤の消息に繋がっていくとは思えない。そんな……そんな楽観的には考えられない。
それでも、その人物の碁は魅力的だったと認めざるを得なかった。
もう一度。
もう一度、その人物の碁を見たい。
僕が、対局相手になりたい―――!
何かに飢えているかのように、僕は激しくそう思った。
そしてその願いは、すぐに叶えられたのだった。
数日後に、ネット碁でその名前を見つけた瞬間。
体に電流が走ったような気がした。全身がカッ……と熱くなる。
たった三文字の名前を見ただけで、こんなになるなんて。
僕はこんなにも求めていたなんて……進藤に繋がっていく、何かを。……血が沸き立つような強く魅力的な打ち手を!
震える手を必死で動かして、僕はakiraというHNで対局を申し込んだ……saiに―――。
もう決めていた。
この人物と打てたら、ある棋譜をなぞってみようと。
それは進藤と、二度目に父の碁会所で打った時のものだ。あれは進藤本人ではなく、saiだと思っている。どういう理屈か、或いはからくりかはわからないが、それでも真実はそうに違いないと思っている。
進藤もいつか話すと言ってくれたということは、裏を返せばそこに謎の答えがあるということだ。
進藤本人があの棋譜を覚えているのかはわからない。当時の彼は初心者の域を脱していなかったと思うから。
それでも。
僕はどうしても、あの棋譜をなぞってみたかったのだ。
……さあ。始めよう。この、対局を。
幸運なことに僕が先番だ。一手目は―――十七の四。
僕は静かに、何かを祈るような厳かな気持ちで、打った。
木製の碁盤の上ではなくネット上の、でもそこは間違いなく、十九路の宇宙に―――。
しかし。
物事はそうそう思惑通りには運ばないものだ。
序盤の数手までは僕の意図した通りだったが、あるところから碁は変化していった。
それも当然だろう。
でも、途中から僕自身ですら、昔の棋譜をなぞることなんてどうでも良くなってしまった。
そのくらいこの相手は強い。あまり長考しない割には的確に返してくるところなど、進藤にそっくりだと思った。
定石から言うとこれは悪手ではと思える手も、いつしか彼の意図する流れの一部になっている。
日本のトッププロでも、こんなに大胆で繊細な碁を打つ棋士はいないと思った。
結果はかろうじて僕の勝ちではあったけれど、勝ったということよりもこんな碁を打てたことの充足感が大きくて、終局後には軽く脱力してしまった。
この三年間、僕が打ってきた碁は一体何だったのだろうと自身を情けなく思うほどに。
必死で打ってきた。そのつもりだった。
……もっと幼い頃。
打つことで進藤ヒカルに僕はここにいる、追って来いと無言で訴えていた時のように―――切なる願いを込めて打ってきたつもりだったのに、その三年間が馬鹿らしく思えて虚しい。
たった一局が、僕の中に眠っていた、いや眠らされていた激情に火を灯した。
僕は仮死状態から覚めた人のように、それからはネットのsaiを追い始めた。
対局以外の仕事を断ってネットに張り付いていたお陰で、何度もsaiとは対局が叶った。
それでもなかなか彼はチャットには応じず、彼が一体誰なのか、本当に韓国人なのかもわからないまま一月ほどが過ぎた。
いつしか僕らはお互いを認め合って、お互い以外とは対局しないことで有名になっているようだ。
もう隠し通せる段階ではなくて、僕がakiraというHNでsaiと打っていることは棋院でも話題になっていた。
会う人会う人、そのことを訊ねてくる。しかし、僕は核心に触れることは一切口にせず、進藤と結びつける人は殆どいなかった。
……ごく数人を除いては。
その数人のうちの一人は、緒方さんだった。
「アキラ君。打ってるな、saiと。この前見たぞ。」
「ああ、そうなんですか。ええ、余りにも強いので、多分韓国のプロ棋士の誰かだと思うんですが、緒方さん、心当たりはありませんか?」
「そういうことを聞く前に、話すことがあるだろう?別に俺に何を隠す必要がある。」
棋院で会った緒方さんに、ちょっといいかと連れて行かれたバーでのことだ。
もうすぐ二十歳だから外でも解禁でいいだろうと笑って、僕にもすすめる。緒方さんは名実ともトップ棋士として君臨していたが、結婚する気配もなく自由に生きていた。
碁以外の何ものにも縛られない彼が、僕は羨ましくもあったのだ。
「七年前のsaiというよりも、進藤ヒカルに似ている気がしているのは、きっと俺だけじゃないだろう?だから君も、極力彼と打とうとしている。知ってるぞ、予定を入れないで、寝食忘れてパソコンの前にへばり付いているのを。」
からかうような口調で、僕を煽っているのかとも思ったが、緒方さんは真剣だったのだ。
それは、彼の申し出の内容で理解出来た。
「もうすぐ韓国で国際棋戦に参加するのは知ってるだろう?ついでに休暇を絡めて、探してきてもいいぞ?少なくとも、あちらで懇意にしている棋士にはもう尋ねてあるし、探偵を使うことも考えている。」
「……本当ですか?緒方さん……そこまで……。」
僕は胸がざわめくのを感じて、そんな自分に戸惑う。
saiと名乗る棋士を探して欲しいとは思う。その人物が誰であるのか……今のままでは男なのか女なのかもわからなければ、年齢だって国籍だって本当のところは予想もつかない。
ただ、碁は強い。文句なく圧倒的な強さを持った、棋士だ。
「どうした?アキラ君……余り嬉しそうじゃないな?知りたくないのか……。」
僕の沈黙は、緒方さんに不審な気持ちを抱かせたのだろう。saiを探し出してやろうという緒方さんの言葉に、手放しで喜べないなんて。
僕はそっとグラスを両手で囲むと、俯いたまま自らの心を見つめようと集中した。
「……そうですね……もしかしたら、僕は真実を知るのが怖いのかもしれません。saiの正体を知りたいと思う反面……その人物と進藤との関係性が全くないと知らされるのが怖い……真実を見つめるのが……身が縮こまるほど、怖いのかもしれない……。」
口にしてしまうと少しは軽くなった。
これまでも僕は、自分の中に巣食う弱さを直視するのを避けて、進藤がいなくなっても人には決して弱音を吐かなかったし、苦悩を見せないできた。
強くありたかった。強く、ただひたすら強く。
僕の望む、人の望む……そして進藤ヒカルの望む塔矢アキラは、そうであるべきだと信じていたから―――。
でも、事態が大きく動き出そうとしている今。
希望と同じくらい大きな不安の塊が、僕の心を押し潰そうとしていた。
このまま……
ただsaiと名乗る、どこの誰かもわからない人物と、ずっと打っていたい。
何も語らずとも、打つことで心を繋いでいきたいと、いつの間にかそんな風に思い始めていた。
そう。僕はこの時、saiが進藤でないと知る怖さと同等に、もう一つの変化を感じていた。
……saiが進藤本人であるとか、進藤に関係のある人物だとか……僕はどうでもよくなり始めていたのだ。
そのことが、一層僕を凍らせる。
進藤に逢いたい、彼の無事を信じたいと思い続けての苦しい三年の歳月が、わずか一月くらい何度か打ち合った見ず知らずの人物によって、塗り替えられようとしている。
saiが進藤であって欲しい―――それならば、全ては簡単だ。
でも、もしも全然違う人物で、僕がその人の碁に惹かれ、進藤を忘れるほどにその人との対局に没頭してしまうことになったら……。
自分でもどうしようもない複雑で暗い感情に、まさに押し潰されそうだったのだ。
僕の混乱を感じ取ってくれた兄弟子が、そっと肩を叩いて言ってくれた言葉は、この人も進藤を誰よりも先に認めた人であること……そして、今も頂点で最高の一手を追求している時代一の碁打ちの一人であることを、僕に再認識させた。
「アキラ君……いない人を忘れるのは、悪いことじゃない。勿論、忘れられないのも悪いことじゃないがな。でも、どちらが当人にとって生き易いかというと、それは矢張り前者だろう。君が生きていく為に、進藤を忘れ、進藤以上の打ち手を求めることは……罪ではないと思うぞ。」
罪―――緒方さんの選んだ言葉が、静かに、しかし深く、僕の心に刃物のように突き刺さっていった…………。
その夜、僕は進藤の夢を見た。
熱烈に彼を欲していた時には、決して夢には出てきてくれなかったのに、失踪から一年、二年と経つうちに、時々はその姿を夢で見せてくれた。
夢でも、僕らはいつだって打っている―――。
どこかはわからない。空間も時間も感じられない、夢特有の世界の中で、僕らは碁盤を挟んで向かい合っていた。
そこまでは、今まで見たどの夢とも変わりがなかった。大抵は打っているうちに進藤がどこかに消えて、場面が切り替わったりするのだ。
しかし、今夜は違う展開が僕を待っていた。
夢では滅多に聞けない、声変わりの名残を感じるような進藤の声が、静かに語り出した……。
―――塔矢……ご免な……あんな風にお前を宙ぶらりんにしたまんま、帰れなくなっちまって……お前のところに戻りたい……それのに、ご免……本当にご免……
いつの間にか、碁盤は消えていた。
僕らは立ち上がって、そして向き合っている……凄く近い距離で。
進藤の息遣いが聞こえるのではと思うほどの近さで、彼の目を見つめ、彼もまた僕を熱く見ていた。
―――謝るなっ!どうして僕に謝ったりするっ!?君は僕に謝るようなことをしたのか?進藤ヒカルは、そんな奴だったのか……謝る前に、帰って来いっ!……謝るくらいなら……いなくなったりするな……僕の前から……
すると彼が僕を抱き締めた。
こんな夢を見たことはなかった。最初で最後の抱擁を母に見られて、中断させられた。その直後に彼が消えた事実からか……彼と僕が肉体的に接触する夢は見たことがなかった。
……意識下で封印していたのだろうか。
今は違う。
もし進藤が帰って来たら、彼がどんなに嫌がっても逃げても、この腕を回して自分のものにする。彼の鼓動を感じて、痛みに彼がギブアップするほどその体を締め付けたいと思っていた。
だから、夢とわかっていても……僕は待ち望んだ通りのことをする。
いつしか―――進藤と僕は、強く激しく抱擁を交わしていた。
―――塔矢……俺を探して……俺、帰りたい……お前のところへ……ご免……お前が探してくれないと……俺、帰れないんだ……帰りたいんだ……だからご免……
―――進藤っ!進藤、進藤、進藤……しん、どぉ……僕が絶対に探し出す……何があっても、君がどんな姿になっていても……だから謝るなっ!僕の進藤ヒカルはそんな風に泣きながら謝ったりしないっ!!……いいなっ!もう……
「……しんどーーーっ!!……っ……。」
自分の声で、しかも悲鳴に近い声で目が覚めたのは、久しぶりのことだった。
心臓の音が耳に聞こえるほど、大きく脈打つ。たった今、彼の名を本当に呼んだ唇が、ワナワナと震えた。手も震える。
息を吐き出して両腕で顔を覆うと、自分の頬が夢の中の進藤みたいに濡れていることを知った。
……明日。
緒方さんに頼もう。saiを探して来てくだいと。
そして次にsaiと対局出来たら、その人にも逃げないでぶつかって行こうと決めていた。
もういい加減、何かを終わらせて何かを始める時がきたのだと―――僕は自分の涙に教えられたのだ……。
幸運なことに、すぐにsaiと僕はネット上で再び出逢った。
この頃になると、僕の周りだけでなく、ネット上における観戦者の数も凄いことになっていた。
saiとakiraの対局は、たった一ヶ月の間にネット碁において注目を浴びるようになり、持ち時間もネットではあり得ないくらいの長さを指定して、僕らは公式対局さながらにじっくりと打つようになっていた。
今日も、胸のすくような、でもどこか物足りない、もう一度と願い出なければいられないような碁だったと思う。こんな気持ちに毎回させられるのは、進藤以来なのは間違いない。
ネット上における最高の打ち手を永遠に失うことになるのが恐ろしくて、僕はしつこくすることがずっと出来なかった。
毎回僕の方から感想を述べたり、質問したりはするものの、チャットには決して応じてくれない……sai。
だから、言葉を交わしたことは一度たりともなかった。
それでもこうして碁を打つことだけで、僕らの間にはある種の信頼関係生まれ始めていたと思う。
僕は、いつも以上に丁寧で細かい感想を述べ、それから切り出した。
君が誰かを知りたい。……君に、逢いたい―――と。
そういう風に打ち込むことは本当に勇気のいることで、もしこれで全てを断ち切られても仕方ないとの覚悟の上とはいえ、指先が緊張するのを禁じえなかった。
しばらくの沈黙の後……。
初めての返信があった。一言、単語だけの素っ気無い返信だ。
……Myeong Dong…………ミョン、ドン?…………明洞、か!?
それは、韓国のある街の名前だった。明洞という街は、僕でも知っている。ソウルでも若者に人気のある、日本で言えば渋谷や原宿のような街だと聞いている。
たった一言、その街の名前を残して―――saiは今日も消えてしまった。
僕は暗闇で一筋の光明を見出したような気持ちになって、早速緒方さんに連絡をとる。
彼は迅速に行動してくれ、韓国に旅立つ前に色々と手配をしてくれたようだ。進藤と親しかった洪秀英君にも連絡をとり、明洞という街についての情報を得た。
そこには矢張り数件のネットカフェがあるとのことで、洪君が調べに行ってくれることになった。
後は、日本で大事な対局が詰まっている僕には、知らせを待つことと、碁を打って勝つことしかすべきことは残されていなかった。
数日後。
緒方さんはいい成績をおさめ、いつも韓国勢にやられっ放しの日本勢の面目を保ち、それからすぐに僕に連絡をくれた。
「アキラ君……今は大丈夫か?今日は勝ったようだが。」
「緒方さんこそおめでとうございます。いい碁でしたよ、決勝までいったのはさすがだな。準決勝の高永夏との一局の方が面白かったと思うけど。」
「そういう前置きはいいから。これから言うことをしっかりと聞け。俺もかなり興奮してるから、上手く話せるかわからんぞ。」
「……はい。聞いています。」
夜も更けていた。韓国も時差がほとんどないから同じく夜なんだろうなと、僕はぼんやりと思っていた。
これから何を聞かされても、僕は自分を失わないようにと、冷静になろうと努めて緒方さんの言葉を待つ。
「結論から先に言おう。今日、洪君と逢った。一緒に明洞に行き、そこのネットカフェ周辺をしばらく張り込んで、あいつを見つけた。顔は……さすがに成長して大人になっていたがな、それでも見間違いはしなかったぞ?見た瞬間にわかった。……進藤だったよ。」
「そうですか……いたんですね、彼は。」
三年も待ち焦がれたその事実を聞かされて、俄かには現実感が持てなかった。
嬉しい……というよりも、まだ信じられない、安心出来ない、という気持ちの方が勝ってしまう。
「やけに落ち着いているな。いや……そんなもんだろう。信じられない気持ちもあるだろうし。」
「いえ、緒方さんが言うなら、間違いないでしょう。確かにちょっと……自分で見た訳ではないから、実感が持てないだけなんです。彼は……進藤は何と言っているんです?自分だと認めたんですか?どうして、韓国にいたんです?」
「……既に棋院を通して進藤の親御さんに連絡を取った。こちらに色々と持参してもらって、DNA鑑定をする。それではっきりしたら……きっと連れ帰ることになるだろうと思うが。」
「ちょっと待ってください!緒方さん!?……DNA鑑定って……進藤は、まさか……。」
緒方さんの口から予想もしなかった言葉が飛び出してきて、僕は驚きを隠せない。今は、とても縁起のいい言葉とは思えなかった。
「いや、心配するな、アキラ君。彼の体がどうのとか命が……という話じゃない。俺と洪君と、数人の棋院のスタッフも進藤と逢ったが、奴は元気だ。今も言ったろう?顔だけでなく、体も成長して身長なんて君よりも高かったかもしれないぞ?逞しい若者になっていた。アキラ君、逢ったらショックかもしれないな!」
緒方さんが声を立てて笑った。その雰囲気に、僕は構えていた体の力が抜けるのを感じた。
「それに……俺が見つけた時、進藤は一人じゃなかった。女連れだったんだぞ?しかもとびきりのコリアンビューティだ。奴は韓国語も上手くなっていた。」
女連れと聞いて……ツキン……と、胸に痛みが走る。
進藤が三年もの間、僕の知らない場所で、知らない暮らしを送っていたことを、思い知らされる言葉だった。
それでも。
進藤は生きていた。生きていたんだ!……彼の生存を喜ぶ気持ちだけを感じようと、素直に思い直した。
一呼吸置いてから。
僕は再び心を穏やかにして、恐れることなく事実に向き合う。
「……もしかして、彼は否定しているのですか?自分が、日本人の進藤ヒカルだということを?」
「そうじゃない……否定、とは違う。というよりも、肯定出来ないんだ。自分が進藤だということを。」
「どういうことなんでしょう……。」
「アキラ君……落ち着いて聞いて欲しい。進藤は……自分が本当は誰なのか、わかっていない。記憶をなくしているんだ。」
「え?……今、何て……。」
「つまり、記憶喪失になっている。進藤は三年以上前の記憶がない。何も覚えていないんだ。自分の名前も、家族も、どこでどう暮らしていたのかも、全部だ。」
「記憶を?」
今度こそ、本当に信じ難い気持ちの方が大きく膨れ上がった。
「だってっ!進藤が明洞で見つかったということは、彼がsaiと名乗ってネット碁を打っていたということでしょう!?だったら……あの強さは何ですっ!?あれだけの碁を打っておきながら、彼は覚えていないなんて……そんなこと、信じられない……あり得ないっ!!」
……何も、覚えていない?
自分の名前も。過去も。全て?
そんな。
そんなことがあるなんて。
だってあれだけの碁を打っておきながら。
じゃあ彼は。
進藤ヒカルは。
僕のことも―――塔矢アキラのことも。
僕を愛し、僕に愛されていたことも。幼い出逢いから、形を変えながらも常にお互いだけを意識して、真っ直ぐにぶつかっていったことも。
……少しも覚えてはいないというのか?
電話の向こうで、緒方さんが僕を気遣う言葉をかけてくれるのが、かすかに聞こえる。
しかし返事をすることすら、出来ないまま。
僕はズルズルと力なくその場に崩れ落ちて、信じ難い事実の前に無力感を噛み締めていた…………。
しかし、それはほんの始まりでしかなかったのだ。
これから始まる苦悩が、進藤を失っていた時間とは質の異なるダメージを僕に与え続けることになろうとは―――微塵も想像してはいなかった。僕は、甘かった…………。