― DESTINY ―
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 進藤ヒカルが僕の前から姿を消したのは、もう三年も前になる。
 いや、正確には僕の前からだけでなく、囲碁界からも、そして誰の前からもいなくなったのだ。

 失踪―――それが彼のいなくなった事実を端的に示す言葉として、皆に語られていたのは少しの間。
 その内、進藤のことはタブーのようになってしまい、囲碁界でも語られることがなくなっていた。



 今では僕もそのことに触れることもなく、ごく普通に日々を送り、対局をこなし―――そうして三年が経とうとしてた。










「アキラ?どうした?お前がケーキ屋なんて……珍しいじゃん?」
「あ、芦原さん。びっくりした……どうしてここに?」
「このケーキ屋、雑誌で紹介されててさ、真美に頼まれちゃったんだよ〜、明日は私たちが出逢って一年の記念日でしょ?とか言われちゃって……。」

 真美さんとは、目下の芦原さんの彼女だ。
 芦原さんは、今しも店を出て行こうとした僕と入れ違いに入って来たのだった。

「じゃあ、明日は二人でお祝い?楽しんでね、芦原さん。真美さんにもヨロシク。」
「ああっ!待てよ〜、アキラ!俺、実はちょっとばかり気恥ずかしくて……このケーキ屋って女の人ばっかりじゃん?一緒に居てくれよ〜。」
「ケーキ屋は普通、女の人ばっかりでしょ?何を今更……。」

 僕に取り縋る仕草が可笑しくて、仕方なく芦原さんに付き合うことにした。



 芦原さんの買い物が終わると、僕らはケーキ屋を出て駅まで歩く。

「なあ、どうしてアキラがケーキなんだ?さっきから笑ってばっかりで誤魔化してるけど……。」
「またその話?ただ通りすがりに買いたくなっただけだって、凄く美味しそうだったから。ほら、この先のA会館で指導碁した帰りだって言ったでしょ?誤魔化してなんかないよ。僕だってたまにはケーキくらい食べたくなる。」
「ふーん……でもその箱、ホールケーキだろ?お前、一人でワンホール食べる気?」
「……じゃあ芦原さんも真美さんと一緒に食べに来たら?お茶くらい出すよ。」
「アキラ〜、それが誤魔化してるって言うんだよっ!」
「あ、もう駅だ。僕、地下鉄だからこれで。じゃあね、芦原さん!」

 さっさと芦原さんを振り切って、背中を向けた。

 背後で彼が、ああ、そうか……9月は彼の……それ、誕生日ケーキなんだな……と呟いた声が聞えて、ますます僕は歩みを速めたのだった。





 ―――芦原さん。

 あなたはとてもいい人で、僕は大好きだけど。

 いつもはノホホンとしているくせに、こんな時ばかり妙にカンがいいのが、タマに傷だよ…………。





 家に着くと、僕はささやかなお茶の用意をする。
 二人分の紅茶を煎れて二客のティーカップに注ぐと、ダイニングテーブルの上にケーキを置いて、ロウソクを立てた。

 一本……二本……三本……    十二本……十三本……

 最後の二十本目に火を点けた時には、目の前が霞む気がした。
 このくらいで泣いてどうすると、自分の弱さを心で笑いながら小さくかぶりを振った。

 目の前で揺れるロウソクをしっかりと見据えて、僕が今からその二十歳の誕生日を祝う相手を胸に想い描く。
 金色の前髪も、明るく大きな瞳も、ちょっと上を向いた鼻も、小生意気な口元も。
 全部、覚えている。
 何一つ、忘れてはいない。

 目の前の君は今にも動き出して、僕にこう言いそうだ。

 ……これで今日から、俺の方が一っこ年上だなっ!

 そして、嬉しそうに顔いっぱいで笑うんだ。
 君の笑顔―――今でも一番辛いのはそれを思い出す時だなんて言ったら、おかしいかな?





 ―――許せない。

 どうあっても、君を許せないと思う。

 僕を置いていってしまうなんて、絶対に許せるもんかっ!!

 君が憎い、憎くて憎くてたまらないよ、進藤ヒカル…………。

 置いて行くくらいなら、どうして僕の目の前に現れた?こんな深い喪失感を与える為だけに、君は僕の前に現れたとでも言うのか?

 僕は、誰も吹き消すことのない二十本のロウソクをいつまでも睨み付ける。
 ロウソクがどんどん短くなって、蝋がケーキの上にまで垂れてしまても、僕はずっと睨み付けていた。

 涙なんか流すもんか。泣いてなんかたまるか。
 君の為になんか……胸にはいつまでも進藤ヒカルを罵倒し、怒りをぶつける言葉だけが渦巻いていた。

 そうしなければ、僕は生きていられなかったのだ、この三年―――





 進藤の誕生日を祝ったのは、今年が初めてだ。
 去年も一昨年も、とてもそういう気分にはなれなかった。それには、進藤がいなくなった時のことが関係している。

 進藤は、彼の十七歳の誕生日の数日後にいなくなった。

 あの日、彼の誕生日―――。
 僕らは僕の家で碁を打っていた。母が買い物に出かけて遅くなるというから、二人きりで留守番がてらのんびりと打っていたのだ。

 何気に彼が、俺今日誕生日なんだよね〜と言うものだから、僕は慌ててどうしてそれをもっと早く言わないんだと食ってかかったら、じゃあ今からお祝いしてよと言われて。
 どうしたらいい?と訊く僕に、ケーキでも買いに行こうか、俺、結構好きなんだ、甘いものと微笑む彼に同意した。

 玄関を出たところで、僕の前を歩いていた進藤が立ち止まって、僕を振り返る。
 石畳を彼のスニーカーの爪先がこつん……と突っつく音と一緒に、その呟きは聞えた。

「……俺、本当はケーキよりももっと欲しいもの、ある。」
「え?何だ、それは。僕でプレゼント出来るものだったら、考えなくもないよ。」
「くれるの?塔矢。確かにお前からしかもらえねーモンだけどさ。」
「ん〜、何だろう。まさか……値段がはるものか?高価過ぎて、誰にでもは頼めないくらいの……。」
「高価っつーたら高価……かもなぁ!だってどんなに金を積んだって、手に入んないモンだから。」
「進藤……どういうつもりだ。そんなものをどうして……。」

 最後まで言うことは出来なかった―――進藤が僕の腕を掴んで、抱き寄せたから。

 力強く抱き締められて、僕は固まってしまった。自分の身に起っていることが、把握出来ない。
 どうしよう、どうしたらいい、と混乱する頭に、進藤の声が響く。

「塔矢……俺が本当に欲しいもの、今くれる?」

 掠れて、どことなくおどおどした声だった。
 その声の力無さとは裏腹に。
 進藤は片方の腕で僕の腰をしっかりと支え、もう片方の腕を僕の頭に回り込ませて、僕の顔を自分の顔と正面から向き合わせた。

 恥ずかしい……こんな至近距離で進藤の顔を見るのは、初めてだ。
 しかも、完全に体は彼の手中にあると言っていい。最近、急激に身長を伸ばしている彼だったが、とうとう追いつかれていたのだと、この時に知った。
 ―――目線が、完全に同じ高さだった。

 彼の瞳は濡れて光っていた。眉が切な気に寄せられている。

 僕は顔が火照ってくるのを感じて、ますます羞恥心が募っていく。
 でも、どうしようもなかった。好きな人にこんな風に抱きすくめられて、熱く見詰められて、どうして抵抗出来るだろうか?

 進藤の腕に、瞳に、全てに捉えられた時。
 彼の欲しいものが何であるのか、僕には本能的にわかってしまった。

 具体的なモノ、という形ではなくて、お金に代えられない大事なそれの、ぼんやりとした全体像みたいのものがわかったのだ。



 ……僕は、小さくうなづいた。

 それを、承諾の印と受け取った彼の唇が、僕のそれに重ねられたのはその一秒後だった―――。



 反射的に目を閉じて、進藤からの口付けを受ける。
 押し付けられた唇は、暫くはそのままで僕の反応を確かめているようだったが、やがて食むように優しく動き始めた。
 少しだけ開かれた彼の肉厚な唇が、もぞもぞと僕の唇の上で動くのが不思議で。信じられなくて。

 キスしているんだと意識した途端に、胸が苦しくなる。何も考えられずにただ震える手で、進藤の体に必至でしがみ付くしか出来なかった。



 ……生まれて初めてのキスだった。
 多分、進藤もそうだったのだろう……。



 慣れないキスに、息を継ぐタイミングもお互いにぎこちなくへタクソで、何度か離してはまた追いかけるように押し付け合っていた。そのうちに次第に高まってきた僕らは、やがて飢えていたかのように角度をくるくると変えながら、激しく互いを貪っていた。
 自然に開かれた唇から侵入してきた進藤の舌が、僕の口内で暴れるのにも背筋が震えるくらいに反応してしまった……。





 ずっと好きだった―――進藤ヒカルのことが。
 初めての北斗杯の後くらいから一緒にいる時間がどんどん増えて、気が付いた時には恋に落ちていた。

 そして、進藤を意識し出したのとほぼ同じ頃から彼の視線を感じるようになり、ああ、そうか、彼もそうなんだ、僕と同じなんだと……密かに理解していた。



 しかし―――
 急に関係を変えるには、その頃の僕らはまだとても若く、未熟過ぎた。



 勝負になれば負けないと喧嘩ごしに睨み合うというのに、一体どういう風に君が好きだなんて言えるのだろう。
 そんな雰囲気を作る術もなく、匂わせたり誘ったりなどということからも遠く、僕らは幼かった。

 おそらく、僕よりも進藤の方が先に煮詰まっていたのだろう。
 好きだとも、付き合いたいとも、何の言葉も無く。勿論、前々から考えていた訳でもなく、不意に欲しくなったのに違いない。

 僕らは初めての触れ合いに夢中になって、ここが僕の家の玄関先であるということなどどこかに飛んでいた。
 二人だけの世界―――碁を打っている時間とは全然色の違う―――に没頭していた為に、人の気配も木戸が静かに開けられた音も、気が付かなかったのだ。





「……アキラさん?」



 凍りついた。



 心臓が。



 対して体の方は、電気に打たれたように跳ねて、離れた。





 ―――母は、気丈だった。

 手にしている買い物袋は相当重そうだったが、取り落とさなかった。
 驚いて見開かれた目や、片手で押さえた口元から漏れた息をのむ音よりも、もう片方の手がブルブルと震えながら買い物袋の取っ手をぎゅうっ……と握り締める様子の方が、僕の脳裏に焼き付いた。



 最初、半分は母に背中を向ける格好だった進藤は、慌てる様子もなく母の方へと向き直った。僕の腕を掴んでいた手を、そうしながらゆっくりと離す。
 今、あなたの息子がキスしていた相手は、自分ですと宣言するかのように―――彼ははっきりと、母を見据えたのだった。

 顔を確認するまでもなく、母には僕の相手が進藤だと勿論わかっていた筈だ。見ればわかるし、一緒に留守番していたことも知っている。
 進藤と見詰め合う格好になった母の顔には、嫌悪と怒りがしっかりと滲んでいた。
 それは、息子である僕ですら殆ど見たことのない激しい形相だった―――。



 ―――綺麗な人の怒った顔は、やっぱり綺麗で凄みがあったなぁ……。そしてお前が俺を憎む時、俺に怒る時も、将来はあんな顔をするようになるんだろうって、想像した―――



 進藤ヒカルがそのことを僕に告げたのは、この事件のすぐ後ではなくて、それから何年も先のことになろうとは。
 その時の僕には、これから起ることが何一つわかってはいなかった…………










 それからのことは、三年経った今ではもう夢の中の出来事のようだ。

 本当にあったことなんだろうか?
 全てが夢で、目覚めたら単なる悪夢だったなんてことになればいいのにと、朝を迎える度に思う。
 君のいない日常を始める瞬間の重さときたら僕は何度も布団から起きられないで、いつでも君からの連絡があってもいいようにと枕元に置いた携帯を、違う目的の為に虚しく手にした。

 すみません、具合が悪くて……今日はお休みさせてください、どなたか代わりの方を……。

 棋院の方でも理解してくれて、指導碁や解説、インタビューなどは大目に見てくれたが、流石に手合いには出掛けた。



 碁を打つことだけは、投げてはいけなかった。

 それを止めたら―――進藤が戻って来ない気がしていたのだ……。



 僕らの初めてのキスを目撃された、あの後。
 沈黙は長くはなかったと思う。三人ともが、静かに自分の身の内に起った感情と闘っていた時間だった。

 進藤は母に会釈をすると、僕の方を見て、軽く手を挙げた。

「……今日は帰るよ。又な……。」

 ごく普通に、まるでほんの少し前まで激しく求め合っていたことなどなかったかのように、進藤は僕の、そして僕の母の前から歩み去った。

 それが僕が進藤を見た、最後だった―――。





 それから丸三日は混乱の余りに彼に連絡出来ずに、彼からもなかった。そしてようやく僕が彼と話したいと連絡を取ろうとした四日目には、もうそれは不可能になっていたのだ。
 休みを取った進藤が旅に出たらしいというのはご両親の証言だったが、携帯電話も置いて行ったし、家を出てから一度も連絡が無いのが気に掛かると、棋院や和谷君などの近しい人にご両親から話があった。
 勿論、僕にも声が掛かった―――最後に進藤と逢った時、彼に何かおかしなところはなかったかと。



 やがて一日、一日、進藤の不在が騒ぎへと膨らんでいき、届けの出ていた休みも終り、リーグ戦の一局にも帰って来なかった頃には、ご両親が警察に届けた。
 あの子が大事な対局にも戻って来ないなんて余程のことがあったに違いないと、彼のお母さんの涙が胸に堪えた。

 僕の母も、決して彼女が悪いことをした訳でもないのに、非があるかのように自らを責めているのを知っていた。目に見えて暗く、そして僕に進藤のことを直接は訊ねないで、棋院の関係者に連絡していたのを聞いたからだ。
 母とは、キスを目撃されたこと自体は、あれ以来一切話題にならなかった。

 進藤が去った後、ご免なさいと思わず言ってしまった僕に、では、アキラさんは親に謝るようなことをしていたの?と返されて。
 ―――それにはきっぱりと首を振ることが出来た。



 そうではない。
 進藤を好きな気持ちが、悪いことだとは思っていない。
 いつかは誰かに知られて、その相手が例え両親だとしても、堂々と彼を愛していると言えると思った。

 僕がすまないと思ったのは、こんな形でいきなり知らせることになったことだ。
 いずれにしろ驚かせてしまったろうが、やっと進藤と僕が始めようとしたばかりのこの時に、同時に知られてしまうのは……。
 僕にもどうしていいかわからない。ただ、思わず口をついて、ご免なさいという言葉が出てしまったのだ。



 母に見られたことが進藤の失踪の原因かどうかなんて、わからなかった。
 どうしていなくなったのかなんて、彼が現れてくれるまでは誰にも真実は知り得ないのだから。
 僕も無理に探ろうとか知りたいとかは、思わなかった。
 それに、彼が何かから逃げたのだとも、だから帰って来ないのだとも―――そんな風には絶対に思いたくはなかった。
 僕の好きになった進藤ヒカルは、そんなに弱くはない筈だ。



 僕の不調も、やがては回復した。
 体に影響するほどの苦しみや寂しさは、進藤のゆくえがしれないということから持たらされていたが、ある時期を過ぎると、悪い知らせが舞い込まないということが却って希望に繋がり始めた。
 事故や事件に巻き込まれて、だから帰れないのだったら、その内に警察から知らせがあるだろう。
 しかし、逆にそういうことがないのだったら進藤はどこかで生きている。生きているけれど、帰って来ない。来られないのだと。

 そういう風に思うことが、やがて僕の、そして彼の帰りを待ち侘びる皆の―――消極的な希望となったのだ。



 今日僕が、ケーキを買って彼の誕生日を祝おうとやっとその気になったのは、彼の喪失を受け容れ始めたとかそういうことではない。

 むしろ逆だった。

 もう耐えられない。君のいない毎日なんか、もういらない。
 悪い知らせがないことは希望でもあり、真綿でじわじわと締められるような拷問にも近かった。



 ……進藤。
 最後に逢った日、僕らは君の誕生日を祝おうとケーキを買おうと外に出掛けるところだったろう?
 俺、チーズケーキが一番好きだけど、誕生日ケーキとなると、やっぱ生クリームのヤツだよな〜、シンプルに苺とかがのってるだけのがいいかな〜って、君は言った。
 僕は今日、やっとその宙ぶらりんになってしまった約束を果たそうと、誕生日ケーキを買ったんだ。君のお望み通り、生クリームたっぷりに苺ののっかってる女の子が好きそうなケーキだな……。





 嘘だよ。

 許せないなんて、君が憎たらしいなんて、嘘だ……。

 そう思わないと、生きてこられなかっただけ……僕を何の言葉も残さずに置いて行った君……帰って来るのかどうかもわからないまま……

 そんな君を恋しいと逢いたいと一心不乱に思うことだけでは、僕は前に進めなかったんだ…………



 ―――本当は。



 もう一度、君に逢いたい。

 逢って、本当のお祝いをしたい。

 君が生きていること、生まれて来てくれたことを、心から祝いたいんだ!

 こんな風にひとりぼっちでケーキの上で揺れ、そして短くなっていくロウソクを見ているのは、胸を切り刻まれるみたいに苦しいよ…………

 君はどうして僕に……塔矢アキラにこんなことをさせるんだ?

 目の前にいない人の誕生日を祝いたくてどうしようもなくて、ケーキを買ってローソクを立ててお茶を煎れて、本当にそんな惨めで情けないことをさせるなんて。



 三年経っても、君は色褪せない。

 君の存在は薄れるどころか、一日一日僕の中で大きくなる。深く浸透していく。

 君をますます愛しいと。僕にとって必要な人だと―――それを思い知るばかりの毎日。

 五年経とうとも、十年経とうとも、いや、五十年、百年経とうとも!



 どれだけ経っても、僕は君を愛し続けるだろう……。

 君のいない時間の流れの中で、それでも朝を迎える度に、新しく君を愛するだろう…………



 もう霞む視界をどうしようとも思わないで、僕は肘を付いてうな垂れると、呻き声を殺しながら、力任せに爪を立てて頭を掻き毟った。
 皮膚を食い破りそうなほどの痛みに、心の痛みを消してしまたかった―――。









 その時、携帯が鳴った。進藤が消えて以来、僕は絶対にそれを肌身離さずにいる。
 着信は、和谷君からだった。

「…塔矢?俺だけど、和谷だけど……。」
「うん、どうした?」
「ここ二、三日、言おうかどうか迷っていたんだけど、でも今ソイツと対局しているから、アクセスしてくれ。」
「…は?話が見えない。」
「わかってる、ともかく今は何も訊かないで、ネット碁に入ってくれ。俺はゼルダというHNでいる。そして対局し始めたばかりだ。早くしろ、早くこの対局を……相手を見てくれ、その打ち筋を……。」

 和谷君とは、進藤が消えてから随分色々な話をした。進藤が唯一僕への気持ちを語っていた親友だったことも、その時にわかった。
 彼も又、進藤の帰りを待つ一人だ。
 その彼がこんなに切羽詰った声で、僕に電話をしてくるなんて、もうこれは進藤絡みとしか思えない。
 僕は慌てて部屋に戻って、ネット碁にアクセスした。



 そして。

 ゼルダというHNの和谷君の対局相手の名前を見て。

 息を呑んだ。



 そこには、僕の記憶の底を総ざらいするかのような動揺を巻き起こす、そんな衝撃的な名前があった。
 それは、進藤ヒカルに繋がる、そのことをおそらく僕と数人だけが認識している、名前だった。





               ――― sai ―――





 マウスを握る手が極度の緊張の為に冷たくなり始めたのを、僕は感じた……。















NOVEL

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