― BEFORE DAWN ―
( 9 )
去っていく塔矢の後姿が、夕闇の中に吸い込まれるように小さくなっていく・・・。
まるで、このままどこか違う世界にアイツを見送っているようで心細くなった。その姿に声を掛けて引き止めなくては思うのに、声が出ない。体が動かない。・・・何も出来ない。
いよいよ塔矢の姿が見えなくなって、俺はやっと自分がアイツに取り残されたことに、そしてもしかしたらそれは今日だけのことじゃなく、これからずっとそうなのかもしれないということに気付いて愕然となった。
どうしてこんなことになっちまったんだろう?
どこから、狂っちまったんだろう?
塔矢が、俺には彼女がいると思い込んでいることは知っていた。
言ってしまえばいいのに―――あかりとはうまくいかなかったって。言いさえすれば、別にアイツはそれ以上、根堀葉堀訊いてくるようなヤツじゃないのはわかってる。
それなのに、俺はそのことに触れることが出来ない―――
・・・そうか。アイツ、ずっと気にしてたんだ。
俺ってば彼女がいるのにちっともその話をしないからな。友達なのにどうしてだろうって、アイツなりに不審に思っていたんだろうなあ・・・。
でも、もっとショックだったのは、考えたくはなかったけどアイツにも・・・もしかしたら・・・好きな子が・・・。
彼女がいても可笑しくはない歳なんだとわかっている。でも塔矢相手だと実感が湧かない。そういう話題を出したことすらなかった。
俺たちの年代で女の子の話を全くしないというのも、そりゃ不自然だろう。例え、碁が中心にある関係だとしても・・・だ。
―――僕だって、人を好きになるって、どういうことかわかる・・・。
ああ・・・あの一言は堪えたなぁ・・・。
最初、アイツが何を言っているのかわかんなくて・・・ちょっとの間、ぼーっとしちまった。それから、急に空から降って来たみたいに言葉の意味を知る。
―――塔矢には、好きな子がいるかもしれない・・・。
いや、かもしれないじゃなくているんだろうな。付き合うまではいかなくても、その子を好きだと感じているのは間違いないんだろう。
誰だろう、一体・・・アイツ、自分のこと喋んないからちっともわかんねー・・・。
碁関係かな・・・いや、意外と関係ないとこ?だって碁関係だったら、俺にだって検討くらいつくかも。
あ、待てよ。アイツの親父さんの碁会所に出入りしている人・・・うーん、わかんねー・・・。
ああ・・・考えたくない。考えたって、どうなんるんだよ。
俺が塔矢の好きな子を知ったって、応援出来る訳でも取り持ってやれる訳でもねえ。
むしろ、アイツが女の子の話をするのなんか聞きたくないかも。
自分の想いが叶わないことは、自覚したあの雨の夜からわかっていた。
夏の間は、出来るだけアイツを避けた。碁を打つ以外の暇な時間はツーリングに行ったりして、塔矢と関係ないところで過ごした。
一緒にいる時間は、少なければ少ないほどいい。
そしてどうしても一緒にいる時は、必ず碁盤の向こうにアイツを見ていよう。
そう誓って、一日一日をやり過ごして来た。
それなのに―――いつの間にかまた、蓋をしていた想いが膨らみ始めたんだろうな。気が緩んじゃったのかな。もしかしたら、いつか塔矢に俺の想いが通じてアイツも俺のこと・・・って。
―――はい。馬鹿みたいです。
絶対に塔矢は、男をそういう目で見れないヤツです。
日本棋院一、いや、世界中の碁打ち一、潔癖なアイツが・・・待てよ?世界中の十七歳一・・・かもしれないな。
そんなアイツが、俺のことを・・・よりによって俺のことを好きになるなんて天地が引っ繰り返っても・・・ないな。
塔矢キレたのって、俺がアイツの手を払いのけた動作が直接の原因だったような・・・。
だってアイツ、ずるいよ。マジでひどい。
俺の気持ちを全くわかってないにしろ、意味あり気な空気を漂わせて近付いて来てさ、俺の体についた芝生をむしったり・・・それから、肩に手をかけたり・・・なんてするから。
バイクに乗せた時はいくら体が密着しても、これはこういうものだと平静を保つことが出来た。
でも、さっきは全然違ったじゃんかよ?
俺の体に触る、伏し目がちな様子の塔矢の顔は―――本当に綺麗だなと思った。思った途端、何ヶ月もかけて作り上げて来た警報装置が俺の中で大きく鳴り響いたんだ。
俺が、とんでもないことをしそうになるすんでのところで、その警報が俺を救った。
だけど、俺の大袈裟な払いのけ方が、アイツには気に喰わなかったんだろうな。折角親切でしてやってるのに、コイツ何様だって思ったのかもしれない。
だって、しょうがないじゃん。
その前だって、俺のほっぺをツン・・・と突付いたのは間違いないんだ。
意味なんかなくて、ただ面白がってたことはわかってる。うたた寝しそうになった俺を見て、ふざけただけなんだろう。
あれだって、かなり俺的にはヤバかったんだぜ?眠ったふりなんかしたら、あの後どうなったんだろう・・・。
もしかしたらほっぺを抓ったり、いや、もっとひどいイタズラを仕掛けて来たりして・・・塔矢が・・・俺に・・・。
ああ、そんなこと考えるから俺は駄目なんだよっ!
ちゃんとちゃんと、塔矢のことを諦められる方向に物事を考えようよ。
・・・こんなの、一体どこが親友と言えるんだ!―――
痛かった。
塔矢の鬼気迫る言葉が俺に突き刺さって、本当に胸が痛かった。
だから言葉が出て来なかったのは、言うべきことが見つからなかったんじゃない。塔矢に投げ掛けてアイツを振り向かせる為の、俺の真実の言葉が―――出口を失っていたんだ。
アイツを黙って行かせてしまったことを、いつか俺は後悔するのだろうか・・・。
陽がすっかり落ちたグランドで、一人立ち尽くしたまま。
いつまで頭の中にドロドロしたものが詰まっているみたいに、俺は考えても考えても何も生み出さない時間を過ごしていた。
塔矢と喧嘩別れして、数日が経った。
夏の初めの頃、プラネタリウムを一緒に見るの見ないのと揉めて喧嘩になった時、俺はすぐにでも塔矢と仲直りしたくなった。だから俺なりに考え抜いて、星を見にアイツを連れ出した。
あの時は、たった四日だった。たった四日が、永遠に思えるほど長く感じられた
会えない、話も出来ない四日の間に、何かが大きく変わろうとしていたことにすら気付かないで。
四目にアイツと仲直り出来た時、俺はプライドよりも大切なものが世の中にはあることを、身を持って知った。
あれから、数ヶ月。何とか自分の気持ちをコントロール出来ていたからこのまま行けるだろうと・・・その内自分の中のこんな塔矢に対する想いも落ち着いていくのだろうと、俺は期待していた。
まあ、甘かったな・・・そんなに簡単に諦めがつく気持ちじゃなかった。
出会ってから何年もアイツのことばかり見詰めて、見詰め続けて、回り道をしたけど気が付いてしまった想いは、長い時間をかけて育てて来たものだけあって・・・そう簡単にポイと捨ててしまえるものじゃなかった。
だから今度の喧嘩は、ある意味で丁度いいタイミングだったんだろうよ・・・。
諦め切れずに、いつまでも塔矢を見続けてる俺。
気が付かれない程度というものを探りながら、でもその境界線を出来るだけ塔矢に近付けて行こうと、俺は、見えないその線を心の中に引き直し続けていた。
そんな自分の心の位置が、中途半端で危うくて。
いっそ塔矢を諦めるという方向に、思いっきり傾いてしまえば楽になる。アイツにも、もう厭な想いをさせることもないだろう。
塔矢から電話もメールもないまま、日が過ぎて行く。
勿論俺からも、連絡しない。
棋院で見掛けたとしても、俺は決して慌てたりしない自信はあった。
どうせいつかは、ここで顔を合わせると分かり切っている。ちゃんと覚悟はしてる―――塔矢に無視されること。
きっとヤツは目も合わせずに、俺の横をすり抜けて行くに違いない。
そのきっぱりとしているであろう態度を、むしろ一日も早く見たかった。そうされればいっそ諦められて、俺が塔矢から解放される日も近くなるだろうよ。
ああ、早くそんな日が来ねーかな・・・早く・・・早く、楽に呼吸出来るように、なりてー・・・・・。
そして、再会の時は来た。
公園で塔矢に置き去りにされてから、二週間くらい経ったある日。
俺は手合い後、和谷達とロビーで雑談していた。
そんな所にたむろしていれば、塔矢に出喰わす危険性が(或いはチャンスと言った方がいいのかな?)一分毎に高まっていくのはわかっていた。わざと俺の方から話題を振りながら、そこに留まる様に仕向けていたんだろう。
今日こそ塔矢に会って引導を渡されたいと、密かに生殺し状態に耐えられなくなっていた俺の心がそうさせていた。
「あ、あれ・・・塔矢じゃん?」
最初に気付いたのは、和谷だった。
俺は塔矢が出て来たエレベーターの方に背を向けていたが、気配を感じてゆっくりと振り向く。
アイツが真っ直ぐに俺に向かって歩み寄って来るので、反射的に作り笑いを浮かべた。内心はヒヤヒヤしてたけど。
塔矢は俺の周りにいた数人に軽く会釈して、進藤、今いいかなと、ごく自然な声で話し掛けて来た。それがあんまり自然なんで、あれ?俺達、何日も前に喧嘩して長いこと口きいてなかったんじゃなかったっけ・・・と、不思議になるくらいだった。
俺は和谷達に断ると、仲間の輪から少し外れて塔矢の次の言葉を待った。
「僕、明日から父のいる中国に行って来るんだけど、この本の期限が帰国する前日なんだ。今から行って来ようかと思っていたんだけど、出発前に済ませておかないとならない仕事が入って・・・。明日の朝も早いんで、もし君が近い内に図書館に行くのならついでにこれも返却をお願い出来ないか。」
「ああ、そんなこと!いいぜ。どうせ俺も行こうかなと思ってたし。」
「良かった。もし忙しかったら、夜返却ポスト入れといてくれるか?」
「うん。大丈夫。行く時間、多分あるよ。最近は結構時間、あるんだ。」
「そうか。助かるよ。今日君がここに来ていると聞いて捜してたんだ。会えて良かった。・・・ありがとう。」
差し出された本を受け取る。
その時。塔矢と俺の手がほんの一瞬、本を介して繋がっていたのが目で確認出来てドキッ・・・とした。
俺は、本だけでなくもっと大切な何かを塔矢から受け取ったのかもしれない―――
「お話中、邪魔して悪かったね。本、お願いするよ。」
「あっ!と、塔矢、待って。お前、いつ中国から帰ってくんの?」
「来週の火曜日だ。じゃあ・・・。」
その時になって初めて、塔矢の無表情な顔に変化があった。・・・アイツ、少しだけ笑ったんだ。冷たい感じに、だけどさ。
「ああ・・・っと、その、気を付けて行ってこいよ!」
最後の声は、とっくに俺の方を見ないで踵を返した塔矢の背中に投げたものだった。アイツの耳には届いていても、心に届いているかまでは、その顔を見られなかった俺にはわからない・・・。
家に帰ると、俺はバッグの中からさっきの本を取り出した。
それは、塔矢が時々こういうの借りている・・・スピリチュアル系のエッセイ本だった。アイツは本当にどんな本でも読んでいる。乱読派というのかな。
日本の古典も外国文学も、推理小説もミステリーも。果ては医学書に近いものや話題のエッセイ、紀行文・・・。
俺はパラパラとその本をめくってみる。それから逆さにして振ってみた。
当然だけど、何も挟んではなかった。
溜息が出てしまう。俺宛のメモでも入っていないだろうかという淡い期待は、ぺしゃんこに潰された。
次には、直接ページのどこかに書き込みがないかと、一ページ一ページ、丁寧にめくっていこうとした。すると、活字が苦手な俺でも字づらを追ってしまうことになり、いつの間にか一冊を斜め読みした。
ちょっとばかり、胸に堪える内容だった。塔矢と俺の関係を考えさせてしまう、そんな言葉がいくつもあった。
結局、塔矢からのメッセージは何も見つからなかったけど。
もしかしたら、この本を読めということがアイツからのメッセージだったのかもしれないし・・・そうでないかもしれない。
俺は、ベッドの上に寝転がって、天井を見詰めた。
夢中で読んでいたから、もう夜も更けている。でも、眠くはなかった。
塔矢の方はこの本を読んで何かを感じて、俺にもそれを伝えたかったんだろうか。
いや、アイツはそんな、この本を読んで頭を冷やせとかお説教がましく人に押し付ける人間じゃない。だから、本の内容は問題じゃないと思えた。
じゃあさ・・・塔矢が俺にこの本を託した意味って、何だろう?
塔矢なりの考えがあってのことだと思いたい。アイツなりに、俺らの関係を改善したいと望んでるからこその行動だと、まだその気持ちに縋りたいんだ、俺は。
・・・おいおい。改善って、そもそも俺がアイツに抱いているこのよこしまな想いを綺麗サッパリとと捨てて、ただの友達に、ライバルに戻ればいいだけの話じゃんか。
何も難しいことはない。難しいのは、それを実行出来ない自分の心だ。
心って、本当に難しい―――
碁を打つようになって、何度か実感したこの想い。その度に自分の弱さやズルさを見詰めて、それに打ちのめされながらも這い上がって来た。
どこかで、心はコントロール出来るものだと思い込み始めてたんだろうか。
塔矢を愛してると気付いたところから始まった苦悩は、故障してコントロールが利かなくなった乗り物を操縦しているような感じだ。 こうすればこう反応するだろうという予測を大きく裏切ることがあって、制御が難しい。
塔矢のちょっとした言葉や態度で、こうも簡単に乱気流に飲まれてしまうなんてさ・・・。
塔矢は、今日のあの態度を押し通すつもりなんだろうか。
まるで何事もなかったような態度に、かえって不気味な静けさが感じられた。
もう俺のことなんて何とも思ってない、別にただの友達に対してあんなに怒ったことも、自分にとって恥ずべきことだというかの様な、鮮やかな態度だったな・・・。
アイツは、一度こうと決めたことを覆さない。日本刀が持つ鋭い切れ味にも似た心の在り方が、俺とは違う。
塔矢がもしも・・・もしも・・・俺を切り捨てると決めたのなら、それに従うしかないんだろう。
俺はまた塔矢から渡された本をめくりながら、最後に見たアイツの氷みたいな笑顔を思い出していた・・・。
カーテンも閉めず、服も着替えずうたた寝していた俺は、自分のくしゃみで目が覚めた。
もうすっかり朝だ。窓から差込む朝日を見て、俺はまた新しい一日を迎えたんだと・・・塔矢のいない一日を迎えたんだと思う。
朝一番で心に描いたのが塔矢のことだなんてさ、俺も本当に救いがたいぜ・・・ははは・・・。
俺は窓を開けてヒンヤリとした朝の空気を吸い込み、朝日を顔中で浴びていたら・・・不意に感じた。いや、わかった・・・という方が近い。
そうか―――
塔矢は俺にこの本を渡すことで、俺にアイツのことをずっと考えて欲しかったんじゃないだろうか?
えっとえっと、つまり・・・俺がこの本を手にしたり目にしたり、返却するまではどうしても関わっている訳だろう?
そうすると、塔矢本人のことを考えざるを得ない訳で・・・アイツはこのお互い無言で通した日々を許せず、せめて俺に何か自分のことを考えて結論を出せと言いたかったんじゃないだろうか。
それまでは保留にしてやるつもりだから、何事もなかったみたいなニュートラルな態度で俺に接してくれたんじゃないだろうか。
―――だから、この本でなくても良かったんだ。
もっと言うなら、本である必要もなかったんだ。何でもいいから俺に自分を思い出させるものを渡すことで、塔矢は俺に語り掛けて来たんだろう。
そして俺は塔矢の思惑通りに、一晩中悶々と考え続けたって訳だ。
塔矢と俺は昔から、相手に投げ掛けられた一手に翻弄されながらも、絶対に諦めないで自分なりの一手を返して―――その一手の応酬が、『らせん』を描くみたい連続することで、確実にお互いを高いところへと導いて来た。
他の誰でもない。塔矢の言動だから。塔矢の碁だから。俺はここまで食い下がって来たのに。
それはきっと、塔矢も同じ筈だ。
俺が塔矢を愛していると自覚するずっと以前から、失いたくない関係が俺らの間には存在していた。
俺がしに大事な関係を蔑ろにしていると、塔矢は感じていたのかもしれない。
・・・会いたい。塔矢アキラに会いたい。
俺は無性に塔矢に逢いたくなった。今すぐにだ!
ジャケットを羽織るものもどかしく、俺は本をバッグに詰めると部屋を飛び出す。確か午前中の飛行機で中国に向かうと言ってたから、まだ家にいるだろう。
ああ、でも国際線だから時間のゆとりを持って家を出るかもしれない。
いいやっ!考えても仕方ないやっ!とにかく行ってみるだけだ。
俺は自分の心が・・・乱高下を繰り返す制御の難しい心が、今、霧の中を抜けてクリアな視界を得たと確信した。