― BEFORE DAWN ―
( 10 )







「アキラさん、ちょっと大変なことになるかもしれないわよ。」

 目覚めるなり母にそう言われた。今日はいよいよ中国を発つという朝だった。

「大変なって?何かあったの?」
「それが今ニュースで見たんだけど、また紛争が始まったみたいで、それも世界中の航空機がテロの対象になっているという情報があるんですって!どの国の空港も厳戒態勢みたいよ。」

 本当に悲しいことだわと母が話し続けているのを遠くに聞きながら、僕はとうとう日本に帰る朝を迎えたんだと重たい頭で考えていた。
 父は前の晩、次の対局地へと向かっていた。母は僕を空港で見送ってから後を追うということにしていた。

「きっと色々と面倒なことも多くて待たされると思うから、お母さんは来なくてもいいよ。」

 いいえ、それなら余計に心配だわ、ついて行きますよと押し問答になったが、もう子供じゃないよと決然としたものを言葉に込めると、その一言がきいたらしい。
 母に向かって、ホテルの玄関で乗り込んだタクシーの中から小さく手を振った。子供っぽい笑顔を見せようと努力もしてみたが、上手くいったのかはわからない。
 母の不安そうな顔が鬱陶しいくらいに思えたから、それが顔に出ないようにと最後まで踏ん張った。
 だからタクシーが角を曲がって母の姿が視界から消えた途端・・・深い溜息が漏れた。
 中国に滞在した数日間は、期待していた以上に気分転換になった。
 母や、中国棋院の方たちがあれこれと世話を焼いてくれ、碁も打った。僕は何年も勉強してきた中国語を実践で使う機会に恵まれ、それも充実していた。
 ―――外国語を話すというのは、不思議な高揚感があるものだ。
 いつもよりオーバーアクションになったり、饒舌になったりする。そしてその興奮状態からなかなか抜け出せない。
 帰国したらもっと真剣に勉強してみたいと、これからの自分の空いた時間を割り当てるべき目標を得て、それこそが収穫だったかもしれない。進藤と一緒に居ることがなくなるのであれば、僕にはたくさんのプライベートな時間が、ある筈だから。
 空港に着くと、矢張り予想していたように厳戒態勢だった。荷物検査も来た時よりも時間をかけられた。あちこちにいる警備の人間の隙のない様子や鋭い視線も、緊張感を誘う。
 ・・・厭になるほど待たされた。もしかしたらもう飛ばないのではと疑いたくなるほど。
 しかし勿論、人々が慎重になるのも無理はない。大勢の人の命がかかっているんだものな。
 やっと搭乗案内が流れ、僕は間もなく機上の人となった。
 ―――乗り物で移動するというのは、不思議な時間だと思う。
 僕は元々、乗り物に乗っている時間が嫌いではない。心地いい振動に身を任せリラックスしていると、いい一手が浮かんだりする。
 飛行機は特に、その移動の驚異的早さによって瞬間移動したみたいに別空間に運ばれるから、不思議な体験をしたかの様な浮遊感を覚える。それが好きだ。
 僕は窓際の席に案内され、幸いなことに隣には誰もいなかった。全てのサービスを断って、数時間のフライトを自分の物思いに充てることにした。
 ・・・夏の初めの頃。
 プラネタリウムのことで口論になり、その数日後には進藤の方から僕に救いの手を―――彼自身はそのことをわかってはいないにしても―――差し伸べてくれた。僕よりも彼の方が、人間関係においては本質的な部分でオトナなんではないかと、その時思った。
 どんなに挨拶や言葉遣いがきちんとしていたって、そんなものは形であって、そこに心がこもっていなければ慇懃なだけだ。
 それはそれで大切だとしても、人の心を動かす力は、もっと違ったところに潜んでいることが多い。
 確かに進藤は、言葉遣いや目上の人への態度がなっていないこともある。でも決して相手を蔑ろにしたり、侮辱したりする訳ではない。
 むしろ彼は興味のある人や事柄には熱心に食い下がる傾向があり、そのせいで失礼な態度になってしまいがちであることを、近くで見ていた僕にはわかっていた。
 だから進藤の熱意が伝わると、相手も彼の態度を理由に倦厭する気が薄れ、いつの間にか彼を受け入れてしまう。
 碁会所の常連の何人かがそうだ。北島さんなんていつの間にか進藤と喧嘩友達になってしまい、そのことが嬉しそうに見えるくらいだ。
 進藤は人の心を掴む術を、無意識に心得ている。
 だから、惹かれたのだと思っていた。進藤の、僕にはない人間的魅力に、僕の方も人として惹かれたのだと。
 でも、いつしかそれだけではない、密やかな感情が僕の中に芽生えていたことを知った。
 ・・・それが、まだ過ぎたばかりのこの夏のことだ。
 見た目とは異質なものを隠し持っているが故に生まれる陰影―――
 それが進藤の碁に反映していることを直感的に感じている僕以外のもう一人の人物は、僕の身近にいる人だ。
 その人物・・・塔矢行洋、すなわち僕の父と、僕は中国滞在中に何度か打った。
 最後に対局した後、父は感慨を覗かせながらこう言った。感情を表に出さない父にしては、珍しいことだった。

「アキラ、お前の碁は深くなったな・・・いや、大人になったというのだろうか・・・。」
「お父さん・・・。」
「以前は、こう攻めると決めたら形振り構わず攻め通す気迫があった。その気迫で勝ちをもぎ取る・・・それがお前の強さでもあった。ただそれは、若いお前らしい碁だと思っていた。そのままの碁では、プロになって何年か経った時に、何かにぶち当たるのではないだろうかとも・・・しかし。」

 父はそこで、笑ってくれたのだ。僕は、見慣れない父の微かな笑顔に胸を打たれた。

「こんなにお前が大人になる日が早く来るとはな。もう、あの小さなアキラではないのだな。面影すらない、親の感傷など寄せ付けすらしない・・・大人の碁を打つようになった。」

 ―――僕は、複雑な気持ちでそれを聞いていた。
 進藤との関係に苦しみ、もがき、その懊悩の末に僕が得たものが碁打ちとしての成長なのだとしたら―――こんなにも皮肉なことがあるだろうか?
 いや、直接的に関係のあることだと考えるのも変だ。
 でもとっさにそう結び付けてしまうということ自体、僕が進藤を想う感情が僕の碁にまで影響していることの証明になってしまった。
 進藤への報われぬ想いに囚われれば囚われるほど、僕の碁が奥深いものになっていくのが真実だとしたら、僕はそれを喜ぶべきなのか、哀しむべきなのか。
 その時に僕が感じたのは、それを最初に気付かせてくれたのが、進藤とその碁を誰よりも高く評価している父だったということ―――その不思議さだった。
 ・・・そうだな。きっと色々な意味で、今回の中国行きは収穫があったのだろう。
 それがこれからの僕の人生にどう活きていくものなのか、自分の世間的な幸せや本当の希望が何なのか見えなくなっている僕には、『だろう』としか言えなかったけれど。
 ・・・だんだんと眠くなって来たな。場所が変わるとなかなか眠れない僕は、乗り物の振動の中ですらうたた寝出来ない性分なのだが、今はまどろんでいたい気分だった。
 進藤に渡したあの本は、一体どのくらい彼の心に波紋を起こすことが出来たのだろうか?
 彼は、僕のことを考えて眠れない夜を過ごしたことなど、果たして一夜でもあるのだろうか?



「・・・さま・・・お客さま?・・・もう間もなく着陸態勢に入りますので、ベルトをお締めください。」

 優しい声に揺り起こされて、やっと目が覚めた。
 僕は本当に眠ってしまったらしい。慌てて身を起こすと、ベルトを締めて背筋を伸ばした。
 はっきりしない頭で窓の外を見るが、まだ地上は遠かった。
 ―――夢の中で、進藤と僕は打っていた。
 楽しい碁だった。彼も、僕も笑っていた。・・・笑っていたと思いたかっただけかもしれない。
 だって、実際に彼と碁を打つ時はいつも真剣で、軽口だって叩かないの常だ。笑いながらなんてある筈ない。
 きっと、僕の願望が見せた夢なんだ。いつか、彼と笑いながら碁を打ってみたいという願望。屈託なく、勝ち負けすら関係なく、ただ笑いながら彼と僕の間にあるものを大切に出来たら。
 そうだ。何が失われたとしても、僕らの間には碁が残る。
 それだけは、僕が生きて呼吸しているのと同じくらいに消せない真実だ。
 
 手荷物を受け取って、さあ、これから帰りは来た時と同じバスにしようか、それとも電車も一度は利用してみようかなどと考えながら歩いて行くと、見知ったような鮮やかな色のパーカーに釘付けになった。
 それは、僕がよく見慣れている進藤のパーカーで―――本人がそこに立っていた。色の強烈さに目くらましされて、進藤本人の顔を見るのが遅れてしまう。
 だからだろうか。僕を見ている彼の瞳には、表情がなかった。
 僕を見つけても、手をあげるでもなく顔をほころばせるでもなく、ただじっと僕の方に視線を送ったまま立っている。
 何と言うのか・・・僕に声を掛ける気などさらさらないような、妙な雰囲気が漂っていた。
 僕は彼の様子がただならぬものであることを悟り、躊躇うことなく彼に向かって歩き出した。
 二人の距離が縮まって行くに連れ、進藤の顔に血が通い出したみたいに色が差した。僕はほっとして、声を掛ける。

「もしかして、僕を迎えに来てくれたのか?進藤。」
「・・・塔矢・・・塔矢、なんだよな?本当に・・・。」

 彼らしくない、か細い声だ。

「進藤、どうかしたのか?そうだよ。僕だ、塔矢だ。何を不思議そうにしているんだ?」
「いや・・・何か、塔矢の幻を見てんじゃねーのかなあと・・・ちょっと不安になっちまって。ははは・・・俺もどうかしてるよな。どう見たってこのおかっぱ、この目付き・・・塔矢だよな?」
「またそれを言う!人の頭をおかっぱおかっぱ言うな!それに目付きとは何だ!目付きとは・・・。」
「あっはは〜っ!!そうそう、それそれっ!その怒鳴り声がお前でなくて誰だってんだよな〜?」
「ど、怒鳴った訳じゃない!君が・・・あんまりいつもと違う感じだから心配してみれば・・・久しぶりに会う僕に言う言葉がそれか?」
「ああ、わりぃわりぃ!だってさ、テロがどうの飛行機が危ないのって、今朝からニュースでガンガン流れてたからさ。お前の乗った飛行機、大丈夫なんかな〜って・・・。」
「確かに警戒は厳重だったけど、その分飛ぶと決まった以上、問題はないんだろうと安心していられたよ。」
「そっかそっかあ〜!なかなか到着しねーからさ、途中で何かあったのかとか・・・変なこと考えちったぜ・・・。」
「それは向こうでの離陸が大幅に遅れたからだろう。」
「良かった・・・マジで・・・お前が帰って来てくれて・・・。」
「帰って来るに決まっているじゃないか?何を馬鹿なことを・・・。」
「馬鹿なことじゃねーよっ!いつ何が起こったって不思議じゃねー世の中なんだっ!明日なんて誰にわかるんだよ?」
「進藤・・・。」
「今日一緒にいたヤツと明日も一緒にいられるかなんて・・・そんな保障なんてどこにもねーんだ・・・。」

 進藤の言葉が、僕を絶句させた。
 彼が抱え込んで決して誰にも触れることを許さない謎に、僕の心は押し潰されそうになる。息が出来ない。喋れない。苦しい・・・。
 ―――それでも、必死で僕は踏ん張った。必死で息を継いで、必死で彼を見詰めた。
 進藤はというと・・・顔を深く俯けて、片手で前髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるみたいにしている。
 彼流の照れ隠しのつもりなのだろうか。それとも、彼も必死になって自分の感情を自分のあるべき態度に沿わせようと、踏ん張っているのだろうか。
 僕らの周りには、たくさんの人が流れている。
 人々の会話。アナウンスの声。カートを押す音や、空港独特の喧騒に巻かれている。
 それなのに―――
 僕らはまるで離れ小島に取り残されたみたいに、切り離されたそれぞれの意識の中に佇んでいた。
 進藤・・・君は、そうなんだな・・・僕のことを心配して、ここまで来てくれた・・・。そして会える宛てもないのに、それでも何時間も帰らずに待っていてくれたんだね・・・。
 そのことを、わざわざ言葉にして確かめる必要などどこにもなかった。
 彼が、今、ここに、僕といる―――そのことだけで、僕には十分過ぎた。次に僕が口にするべき言葉は、たった一つでしかない。

「進藤。迎えに来てくれてありがとう。」
「へへへ・・・俺達の仲直りってさ、お前が俺に礼を言うのがパターンになっちまうのかな?」

 進藤が笑うと、辺りに金色の風が吹き抜ける。眩しくて、くすぐったい感じがする。・・・どうしてだろう?
 僕はその笑顔に全てを許され、そして癒されていくのを感じて―――また胸を熱くした。



 僕らは、帰りの移動には電車を選んだ。その方が周りを気にしないで話せるような気がして、どちらからともなくそうしようということになった。
 進行方向に向かって並んで座る。
 お前、疲れているだろうから眠れる様に奥に行けよと言うと、進藤は僕を窓際に押し込んで自分は通路側に座った。、電車が滑り出してから間もなく、彼は話し始めた。
 シーズンでもない平日の電車。人も殆ど乗っていない静かな車両だった。

「あのさ、今までのこと、悪かったよ。あかりのこともずっと黙ってて。正直言うと、お前には話しにくかった。アイツと俺さ、もうとっくに駄目になってたんだ。」
「そう・・・。」
「うん、俺のことよくわかっててくれて、凄くいいヤツなんだけど。俺がいい加減で、駄目になったんだ。」
「僕に言いにくいって、僕がそれで君を責めるとでも思ったのか?」
「いやっ!そうじゃねーよ。えと・・・お前はそんな説教がましいヤツじゃないことわかってるって。そうじゃなくて・・・うーん・・・その、お前は人間関係、マジメじゃん?だから、俺のいい加減さを知って嫌気がさすんじゃないかって。」
「それこそ、おかしいよ。君が自分のいい加減さ故に彼女と上手くいかなかったって自覚しているなら・・・それだけ君は自分のしたことを見詰めて、反省したんだろう?それでいいんじゃないか。そのことを僕に話してくれたら、僕は君に信頼されてると思えただろうな。」

 僕らは進行方向を向いたまま、お互いの目を見ることもなく淡々と話した。

「うん。そうだな。多分・・・友達って言っても、やっぱお前には碁のこと以外でも張り合おうって気持ちがあるんだな。ライバルって意識が先にあるんだよ、いつも、何をしても、多分俺の中では・・・。」
「僕だってそうだ、きっと仲良しこよしじゃやっていけない時が、絶対にある。友達である前に僕らは敵同士なんだから。」
「そうか!敵同士だよな・・・ライバルなんて横文字使うから、甘ったるい感じに傾いちまうのかも。敵なんだよな・・・お前と俺は。」
「でも、別に女の子のことまで張り合う必要はないんじゃないか?そういうことは人それぞれだろう?」
「まあ、な・・・。俺も、当分は女の子は・・・いいや。今は碁のことで手一杯で相手にわりーしな。」
「僕もそうだな。昇段したばかりだし、これからが正念場だし。」

 僕がそう呟いた後、進藤は沈黙した。
 ・・・ややあって、静かに、それは興味本位ではないのだとちゃんとわかるくらいに真面目な口調で訊ねられた。

「お前・・・好きな子、いるんじゃねーの?」
「え?僕?そんなこと、言ったっけ?」
「だってお前、グランドで喧嘩した時に言ったじゃん?人を好きになる気持ちくらい自分にもわかるって。馬鹿にするなみたいなことを、さ?」
「んー、ああ・・・言ったっけね?でも、一般的な意味で、だよ。具体的な何かがあって言った訳じゃない。好きな子なんて・・・いないよ。」
「あ、そう。そうか、いないんだ?・・・ってお前、隠してるんじゃねーのぉ?」
「隠してなんかないよっ!大体休みは君といることが多いじゃないか!僕が誰とどこで知り合うっていうんだよ?」
「碁・・・関係とか?お前のファンとか?」
「ファンって、何だそれは。そういう直接の知り合いでない人を、どうやって好きになるんだ?」
「でもさ、見ていいなあ〜と思ったら、声掛けたりメルアド聞いたりしねえ?」
「君じゃあるまいし・・・プロ棋士として人格を疑われるようなことはしないでくれよ。」
「何だよ、その先輩面はよぉ・・・まあ、お前は見た目で惹かれるタイプじゃねーよな?多分・・・。」
「そうだよ。人を好きになる時は内面が大事だ。その人と一緒の時間を過ごして、その人をよく知って・・・。」
「碁も打って?」
「そう、碁も・・・って、進藤!茶化すな!いくら僕だって必ずしも碁を打てる相手がいいという訳じゃ・・・。」
「でも打てねーより、打てる子の方が断然いいだろ?」
「そりゃあ・・・でも、僕の母は大して打てないよ。大体はわかるらしいけど。それでも父は母に強くなって欲しいとは望まなかったらしいし、そういうものじゃないかな?」
「ふーん・・・お前の守備範囲って、実は俺が思ってたよか広かったんだなぁ。碁が打てない子でもいいんか・・・ふーん・・・。」
「何をふーんふーん唸ってるんだ?今も言ったろう。相手の内面が、大事だって。」
「内面、ねえ・・・具体的にはどういうことよ?内面っつーても色々あるじゃん?性格ってこと?」
「性格・・・そうかな?性格はいい方がいいだろう。」
「お前、それってスゲー漠然としてるぜ!性格がいいってそりゃ、お前にとっていい性格ってどういうことかって・・・それが問題なんだろ?もっと具体的にはどういう性格なんだよ〜。」
「具体的・・・具体的、ねぇ・・・僕を理解してついて来てくれるなら・・・相手の性格に細かいことは言わないかな?例えば、僕の両親みたいにお互いが支えあっていたら・・・。」

 進藤は、結構こういう誘導尋問が上手いのかもしれないと後から思った。
 彼は僕にここまで言わせると、ニヤリ・・・として、初めて僕の顔を覗き込んで来た。

「お前の言ってることはお前っぽい小難しい言葉で言うとさ、理想論ってやつだな?大体、人を好きになるってのはさ、そんなに思い通りにいくもんじゃないぜ?」
「う・・・それは僕だって、そうそううまくいかないことはわかるよ!」
「本当に?恋って、突然意識するんだぜ。もしかしたらそうかもな〜ってチラチラ過ぎるんだけど・・・ある瞬間にさ、もう自分が向こう岸へ渡ってることに・・・ふっと気付いちゃうの・・・。」

 進藤が、最後の方は過去に想いを飛ばすように遠い目をして言った。
 君は、別れた彼女のことを思い出して、そういう表情をしているのか?
 だったら・・・以前も鈴木先生のお通夜の晩に感じた様に、そんな表情を僕では君にさせることが出来ないのならば、いっそのこと見せないで欲しいと思う僕は、矢張り本当の意味で君の親友になれる日が来るのだろうか?

「君こそ、こういう話では先輩面をするじゃないか・・・。」

 皮肉っぽい言い方になってしまい、自分でも意図した訳でないだけに驚いた。

「あ、ご免。そういうつもりじゃねーんだけど、つい・・・。」
「いや、僕の方こそ・・・嫌な言い方だった。」
「何だか・・・まだぎこちねーかもな、俺らって。今回は、結構長く離れてたしな?お前と言いたい放題やり合っていた時の感じっての?・・・そういうの、掴み切れてねーかも・・・。」

 進藤がトンッ・・・と、座席の前を蹴ったり、足をブラブラさせたりするのを見ていると、僕の鼓動は早まっていく。
 何だか、腰が自然に浮いてしまう様な、泣き出したい様な・・・胸の奥がザワザワする。
 こんな気持ちを、人は多分『切ない』と形容するのだろう。

「僕が本当の僕でなくて、もし魂だけが抜け出てここにいるのだとしたら・・・君はどうする?」
「・・・え?」
「ここにいるのが、僕の幽霊だとしたら?飛行機は墜ちてしまい、僕の体は海の藻屑となって漂っている・・・。」

 ―――自分でもどうしてそんなくだらない、悪質とも言える仮定を持ち出してみたのか、今もってわからない。

「それは・・・もうお前は死んでるって想像しろって?」

 僕は彼から目を逸らし、軽く唇を噛んだ。
 進藤は僕の横顔を見ている。ずっと、見ている。何かを考えながら、見ているのだ―――
 やがて。進藤が囁くような声で、言った。

「俺が先番。コミは六目半。一手目は、四の四。・・・お前が碁石を持てないなら、俺が代わりに置いてやる。お前はその場所を言うか、指で示してくれ。それだけでいいよ。」

 彼が言っていることが、最初は飲み込めなかった。
 ―――碁石が持てないなら・・・
 その意味が掴めた瞬間に、背筋を何かが駆け昇る。
 ・・・打とう、塔矢?お前がそんな姿になってまで俺に会いに来るとしたら・・・打ちたいから、だろ?
 まさか、こんなことを彼が言って来るとは―――
 想像を遥かに超えた彼の言葉が、彼の本質の美しさと強さを僕に教える。
 そしてそれは僕の魂を揺さぶり、叫び出したいほどの衝動を与えた。
 進藤・・・進藤・・・進藤・・・・進藤・・・・・
 僕の愚かな問い掛けにそんな風に応えてくれるのは、きっと世界中で君しかいない・・・。
 僕は、彼にどう思われようとも構わないと、自分の手を彼の膝に乗せた。

「僕は生きているよ。変なことを言って、本当にご免。もう、こんなヒドイことは絶対に言わない。・・・許してくれるか?」

 進藤は僕の顔は見ずに、彼の膝に置かれた僕の右手を見下ろしていた。それからそっと、その手に自分の左手を重ねて来た。
 ただ、それだけの仕草だった。
 握り締めるでもなく、擦ってくるのでもなく。
 彼の温もりは、僕の浅はかな言動をもひっくるめて、僕の全てを受け入れてくれているかの様に、雄弁な優しさに満ちていた。

「うん・・・触れるし、あったかいし、塔矢は生きてる。生きて、俺のところへ帰って来たんだな。サンキュ・・・。」

 どうして、サンキュ・・・なんて言うんだ?
 君がそこにいる―――君が生まれて来てくれて、僕と出逢ってくれて。そして、僕に人を愛することの全ての意味を教えようとしている―――そのことに、僕の方こそ感謝したいよ・・・。
 僕らは、ずっと手を重ねたままで、終点までを過ごした。
 僕の中国での話や、他愛のない日常の話をポツリポツリとする。
 途中、彼がうたた寝してしまった僅かな間も、僕は彼の膝の上に右手を乗せたままで、彼も僕の手に左手を乗せたままだった。
 僕はその感触をずっと心に刻んでおこうと、神経をそこだけに集中させていた。
 この電車がどこまでも続いて行ったらいいのにと、それこそ夢の様なことを願いながら―――



 進藤とは駅で別れて、僕は家に着いた。
 別れ際には、二人とも手を重ねていたことなどなかったみたいにそれには触れず、今まで通りの二人を演じようとしていた。
 じゃあと声を掛け合い、手を軽くあげてそれぞれの道へと踏み出す。
 会えなかった数週間。僕達の間にあるものは、確かに変化した筈なのに。
 家に入ろうと木戸の鍵を開けようとしていたら、お隣の人が犬の散歩に出掛けるところに行きあった。僕はその人から、想像だにしていなかったことを知らされた。
 僕が中国に出発した朝。一人の若者が僕の家の前をうろついているところに出喰わした隣家のその人は、僕の友人らしい彼に、タクシーが来ていたから僕は旅立ってしまい、家には誰もいないだろうと告げた。
 すると彼は、落胆の色を隠しもせずに去ったそうだ。
 それは、間違いなく進藤だろう。彼は、本を託した次の朝には早速僕に何かを言いたくて、ここへ訪れていたのだ。
 でも、僕らは一足違いですれ違い・・・
 数週間もの間、僕に告げる筈だった言葉の数々を持て余して、彼は苦しかっただろうか。
 その上、今朝はテロ騒ぎで、もしかしたら僕の乗る飛行機にも何かが起きるかもしれないという不安に苛まれながら、大幅に遅れた飛行機の到着を待っていたのだ。空港で、進藤の様子が変だったことは無理もない。
 それでも彼は、気を揉んだことを恩着せがましく言ったりなんかしなかった。
 ―――いつも、こうだったじゃないか?
 進藤の気持ちは、後から真っ直ぐに僕を追いかけて来ては、温かくて柔らかいもので僕の心を包む。
 だから僕は、どうしようもないくらい彼を好きな自分を見つける。
 ―――これからも、ずっとこうなのだろうか?
 進藤の好意に甘えて、いつも彼に頑なな僕をほぐしてもらい、彼に許されて生きていくのだろうか・・・。



 隣家の人にお礼を言うと、僕は木戸をくぐった。
 一陣の風が落ち葉を舞い上げ、その荒々しさと冷たさに、これは秋風なんかではなく今年初めての木枯らしに吹かれたのだということに僕は気付いた。
 季節は、確実に冬へと移っていく―――










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