― BEFORE DAWN ―
( 8 )
「塔矢ってさ、一緒にいるとしみじみ思うことがあんだけど。自分の気持ちを隠そうとする時があるだろ?・・・っつーか、自分を人に知られたくない?そんなに周りを警戒して疲れねーのかなあって。」
進藤と二人、グランドに出て枯れ始めた芝生の上に座り、応援の興奮を鎮めるかの様に、のんびりと話をしていた時だった。
彼が、唐突に僕の性格に踏み込んだ発言をして来た。とっさに返せ
かい。
「それとも、俺に対して特にそうなのかなぁ?俺に誉められたりすんの、厭だろ?」
「どうして運動オンチ云々の話から、僕の性格の話に飛ぶんだ?」
「あ・・・声、低くなった。お前、ムッとすると微妙に声が低くなっちまうの、自分で気付いてんの?」
「そんなの、どうでもいいだろうっ!」
「だって俺にとっては・・・そのぉ、結構大事なことなんだぜ?お前がどれだけ俺の言葉に嫌がってるかとか。そういうのわかるんだったらその方がいいから・・・だってお前、本音を隠す時があるからさ。」
進藤は殊更ゆっくり、落ち着いた声で喋っているような気がした。
自分はちっとも変なことは言っていない、むしろ大事なことを伝えたいだけなのだと主張しているみたいに。
「君に、僕の何がわかるんだ。知ったかぶりをするのは止めろ。」
僕は、どの程度の高さで声を出すべきか逡巡するが、すぐに馬鹿らしくなって吐き出すように言った。
―――僕の中に、進藤ヒカルに知られたくない秘密の扉が存在していることは本当だ。
そのことが僕の態度に影響を及ぼし、またそれを進藤本人に本能的に嗅ぎ付けられているのかもしれないと推測することは、口の中に苦いものが広がる時の感じに似ていた。・・・不快極まりない。
「ああ、悪かったな。ただ思ってることをさ、正直に言いたくなっただけ。今日は気持ちのいい秋晴れだし?体を動かして大声出してスッキリしたし?」
それと僕の性格がどう関係があるんだと、いつもの僕ならまた食ってかかっていたかもしれない。
・・・でも、出来なかった。僕はそれほどに萎えていた。
すると進藤が寝転がったまま、僕に笑い掛けて来た。僕の好きな、進藤の表情の一つがこれだ。
茶色の真ん丸い瞳。陽に透ける、明るい前髪。
口角が深く窪み、頬が少し盛り上がると、目尻に控えめな皺が生まれる。
そこら中の光を集めたみたいに輝いて見える彼の笑顔には、確実に魔力があった―――
僕は、自分でも何を言い出すのかわからないまま、言葉を探し始める。
「環境のせいだとか言われるのが、一番嫌なんだ。でも、どこかでそれもそうかなと認めざるを得ないし・・・。」
進藤が痛いほど見詰めて来た。
その顔から微笑みがゆっくりと退いていくのが、僕にはわかる。見なくてもわかる。代わりに彼の顔には、真剣な色が浮かんでいるに違いない。
「小さい時から大人の中にいたからお行儀良くするようにと、いつも言われていた。でもそれが特に嫌だった覚えもないよ。いつの頃からか、子供らしいことをしていても他の何をしていても・・・碁の方が結局大事だった。きっと、それ以外のことで煩わされたくないから、いい子にしていたのかもしれない。父や母にいい子だと思われたいというのも小さい頃はあったかもしれないな。」
そこまで言ってしまうと、ああ、自分でも言葉にするのは初めてで、それを聞いてくれるのが進藤であって良かったと、素直に思えた。
「だから、感情を表すのは下手だったかもしれない。プロになってからは勝負の世界で決して弱みを見せてはいけないと・・・特に若いしね。」
「わかるぜ!舐められたくねーもんな!」
進藤は僕から視線を逸らすと、手にした枯れ芝を空に向けて放った。
彼は再び沈黙する。僕に続きを促す沈黙だった。
「今、図書館で本を読んだりしているのも、せめてそのくらいしなければ碁のことしか頭にない、狭い視野の人間になってしまいそうで・・・それが恐いのかもしれない。」
「・・・・・。」
「だけど、自分がそんなに無理して感情を押さえ込んでいるとか、だから苦しいとか思ったことはないよ。・・・君の考え過ぎじゃないか。」
これは僕なりの虚勢だった。多分それすらも進藤には見抜かれ、そしてそれでいいのだと思った。
僕がここまで自分の気持ちを僕なりの言葉で伝えたのだから、逆を言えばそこから先はもう踏み込まれたくないというサインだと、彼が感じ取ってくれるよう願った。
「そうか。別にお前のことを分析したり評価したりとか、そういうことしてーんじゃないからさ、俺も。ただ、俺にはもちっと楽に色んなことぶつけて来りゃいいのにって思うだけ。・・・友達だと思ってるからさ。」
―――友達だと・・・思ってるから・・・・・
ドキン・・・と、自分の鼓動がやけに大きく響いた。
進藤の言葉が呼び覚ましたものは、名前が付けられるような単純な感情ではなかった。
友達―――ライバル以外には、それが今の僕らの関係を表す、端的で正確な言葉だ。
不満がある訳でもない。それ以上を望んではならないことは、最初から痛いほどわかっている。わかっている・・・わかって・・・いる筈なのに・・・。
「なあ、塔矢。打とうか?」
「え・・・今から?」
「うん!今から!ここで!」
「ここでって・・・いつものマグネット碁盤を持っているのか?」
「いや。だから目隠し碁。ほら、お前も寝転んでみろよ。芝生の上でずっとこうしているとさ、結構ヌクヌクしてくるんだぁ。」
「目隠し碁・・・そうか、それもいいかも。よし。」
「な?打と・・・塔矢。」
「うん・・・。」
僕は進藤の申し出を受け、ゆっくりと体を伸ばして芝生の上に寝転がった。
こんなことをするのはもしかしたら初めてかもしれないけれど、彼といるとどんな初めてのことにも初めてじゃないような自然な感じで僕は踏み出して行ける。
「お前ってさ、碁を持ち出すと途端に機嫌よくなるからさぁ・・・ある意味扱い易いよ。」
「進藤!何か言ったか?」
「いやいや、大したことじゃねーよ。さ、お前が先番でいいよ。コミ六目半ね。さ、ど〜ぞ〜!」
進藤の失礼な呟きはちゃんと聞こえてはいたけれど・・・芝生の温もりが思ったよりも心地いいから、無視して打ち始めることにした。
目隠し碁なんて、いつ以来だろう?
「じゃあ、いくよ。右上スミ小目。」
「えっとね〜、じゃあ二手目は・・・。」
そうやって、僕らは夕方まで碁を打って過ごした。
ずっと目を閉じ、頭の中に碁盤だけを描いていると、雑念がすっかり消えていく。進藤も僕も、無駄口をきくこともなく打ち続けた。
碁が、いつも僕らをあるべき位置に戻してくれる。
どんなに困惑しても苛立っても、碁を打つことで僕らはここに還って行ける。
誰よりも負けたくないと思うライバル・・・
誰よりも失いたくない友達・・・
閉じたまぶた越しに感じていた、暖かいオレンジ色の世界が少しずつ翳っていく。君と別れる時間が刻々と近付いていることを、今日もまた意識し始めた。
最近の僕の癖だ―――別れる時間が迫ってくると、どこか急かされるような気分になってしまうのだ。
「ああ〜、ここで投了だあ・・・。ちぇっ、また負けた。これで一勝二敗だー、くそっ!」
「よく打った方だよ!そんなに慣れてないだろ?目隠し碁なんて・・・。」
「うーん、そうなんだけどさ。ああ、ちょっとドッチで張り切り過ぎちゃったかな?疲れたのかも・・・昨日も研究会で遅くまで頑張っちゃったし・・・。」
「目隠し碁は神経使うよ。集中力が途切れて、僕も何だかぼーっとしちゃう時があった。気持ち良くって眠くなる・・・。」
「ああ、そうそう・・・俺、今眠いのかも。投了したら・・・何だかマジで眠たくなってきた・・・。」
本当に寝てしまうんではと思うほど、進藤の声には張りがない。僕は、そっと彼を窺った。
ずっと閉じたままだったのか、それとも一度開けてまた閉じたのかはわからない。彼のまぶたは大きな瞳を完全に隠し、合わさった上下の睫毛が・・・進藤は意外に睫毛も長くてしっかりとしている・・・優しい秋の風に吹かれ、小刻みに震えている。
ということは、まだ起きてはいるのだろうが・・・きっとこのまま僕が黙っていたら、間違いなく寝てしまうだろう。
進藤の胸が、大きく上下しているのが見えた。
彼は、僕の横で無防備な横顔を見せたまま、夢の世界へ誘われて行こうとしている。
僕は息を詰めて、彼の横顔を見続けた。
・・・五秒・・・十秒・・・・三十秒・・・・・
僕の方を振り向くだろうか。
・・・一分・・・・一分十秒・・・・・
もし今、彼が目を開けて僕の方を見たらどんな気持ちがするのかなと、ふと考えた。
枯れ芝の上に並んで横たわる。手を伸ばせばお互いの顔にも触れ合える近さ。いつもと全く違う角度でお互いの顔を見て、その瞳を覗き込んでしまったら―――
どのくらい経ったのだろう・・・・・
時間というものは、意識してみると思った以上に長く感じるものだ。果てしなく思えたその時間ですら、実際のところ五分、いや三分もなかっただろう。
僕は、規則正しく呼吸する進藤の胸の動きと、僅かに感じられる鼻からの呼吸音に神経を集中させていた。
きっと、もう寝ていると思った。
だからそれは、ちょっとしたいたずら心でもあった。
彼の日焼けした艶のある頬に吸い寄せられて、僕はひとさし指でそこに触れようと近付いていく・・・。
届いたその瞬間、僕の指は彼の頬に窪みを作り、同時に彼の頬の弾力が僕の指先を押し返した。
プニン・・・と、音が聞こえた気がする。若々しいというより、むしろ幼いほっぺたが可愛い。
ああ・・・彼は、生きている・・・こんなにも皮膚には力がみなぎっている。触れ合った肌からも伝わって来るほど、彼の命が躍動していることを、ひしひしと感じる。
苦しい・・・息苦しくてたまらない・・・・・
そしてそれこそが、進藤と接触する時に感じ得る、僕も生きているという何よりの証だった。
嬉しいと思うよ・・・素直にここに君と二人で生きていると実感出来ることが。
でもそのくせ、それをちっとも君に向かって表せない自分に失望する時があるんだ―――
「塔矢?何?何か、ほっぺに付いてた?」
心臓が、胸を突き破って飛び出すかと思った。
「あっ・・・ご免。起きてた?」
「う〜ん・・・殆ど寝そうになってたけど・・・ちょっと冷えて来たからかな。お前さ、今俺のこと突っついたろ?」
「ああ・・・顔に芝がくっ付いているように見えたから・・・でも違ったかな?」
「あっそ?さっきから芝生拾って、時々まいてたからさ、はは・・・な〜んだ、お前に突っつかれるなんて何事だろうと思ったぜ!」
よいしょと言いながら、進藤は体を起した。僕も慌てて同じ様に起きると、体についた芝生を払う。
鼓動はまだかなり早足だ。僕は必死になって、落ち着きを取り戻そうとした。
「そろそろ帰ろっか。暗くなるとココさ、きっとカップルしかいなくなるぜ?いちゃいちゃしてるとこを男二人で眺めたって何だかな〜、はっはは・・・。」
進藤の言い方がいつになく擦れた感じで、僕はまたドキッとした。
もしかしたら僕が進藤に触ったことが、彼を不快にしたのかもと最悪の考えが過ぎる。
その時。
―――僕は引くことではなく、踏み出す方に賭けた。
とっさの行動だった。頭で考えたのではなかったと思う。ただ、本能が僕を押し出した。
僕は進藤の方へと歩み寄り、彼のすぐ横に立った。彼が、なに?・・・と訊ねる様に目を見開いた時・・・。
「いっぱいつけてる・・・枯れ芝・・・。」
囁いてから僕は、進藤の背中に付いた芝生を摘んではむしるようにして取り始めた。
それから・・・手の平で撫でる様に肩に触れたら―――
「やめろっ!塔矢・・・俺のことはいいから、そのぉ・・・もういいからさ。ご免、気を遣ってくれたのに・・・でも、俺、芝生なんかついてたって全然気になんないからさ・・・。」
最初の一撃がこたえた。
その大声が目一杯僕を否定し、近付くことを疎んでいるのではと疑わせてしまったから。その後で進藤に、どんなに恐縮する様子が見て取れても遅かった。
僕の中の何かが破れて、吹き出して来た・・・。
「さっき、君は僕に気持ちを隠しているんじゃないかとか、自分を押さえてるんじゃないかとか色々と気にしてくれたけど・・・僕の方こそ、君に聞きたいよ。君は・・・付き合ってる彼女のことを僕に紹介してくれないよね。それどころか、彼女の話を聞いても生返事ばかりで。親友だというのなら、何か話くらいするものじゃないか?」
進藤の顔がみるみるうちに強張っていくのを目の当たりにするのは、何故か快感に近いものがあった。
「もし彼女とのことで悩みがあったりしたら、僕に少しくらいは相談してくれてもいいんじゃないかと思うよ。それとも・・・僕なんかに女の子の話をするのは馬鹿らしいか?はっ!こんな僕に男女の恋愛なんて、わかる筈もないと?」
僕はもうどうにでもなれと、投げやりだったのかもしれない。
或いは―――
ずっと訊きたくて、でも訊くのが恐かったことを口に出来て、どこか晴れ晴れとしていたのかもしれない。
秋風が吹きぬける夕暮れの中。僕らは二人きりで取り残されて、そして向かい合った。
「そうさ。お前に、俺とアイツのことがわかるとは思えないね。だって、お前、女の子と付き合ったことねーだろ?」
進藤の声は、確かに震えていた―――風が冷たいせいだけではないのは、わかっていた―――彼は、僕に怒っているのだ。
「女の子と付き合ったことがないと、人間は恋心がわからないとでもいうのか?僕を、そんなに想像力貧困なつまらない人間だと決め付けるのか、君は・・・。」
あれ・・・進藤がさっき言っていたように・・・僕は自分の声が少し低くなったことを感じて、こんな時なのに可笑しくなる。
そのせいもあってか、僕は思わず鼻に抜けるような笑いを漏らした。
その笑いが、彼の中の何かをも壊したのだろう・・・。
「ヘラヘラしやがって・・・お前に人を好きになる気持ちがわかるっていうのか?好きでもさ、どうにもうまくいかなかったり、じぶんの気持ちを伝えられなかったりするイライラや・・・こんなに苦しいものだって・・・好きになるっていいことばっかじゃないって・・・俺の気持ちがお前にわかるっていうのかよ!」
「わかるさ。僕だって・・・人を好きになるってどういうことか・・・わかる・・・。」
―――もう、厭というほど知っているんだよ。恋することの辛さを。
自分の気持ちに気付いたその時から、叶わぬ恋というものの苦しさを。
どんなに諦めよう諦めようとしても、諦めきれない激しい想いがこの世にはある―――
「塔矢・・・お前、いるのか?好きな子が・・・。」
その問いには答えなかった。
進藤の表情は夕闇が隠してしまいほとんど読み取れないが、声は平坦だった様に思う。
「そうか・・・お前・・・いるんだ、好きな子が・・・そうか・・・。」
僕は沈黙を通した。
その沈黙をかれがどのように受け止めても、もういいと思った。所詮は彼にとって、僕が誰かを好きでも関係ないのだろうから。
「じゃあ、お前こそ好きな子がいることを隠してたってことになんないかよ?それはどうなんだよ!やっぱ・・・やっぱ・・・お前には、俺の気持ちなんて絶対にわかんね―よ・・・。」
「だから・・・どうしてそう決め付けるんだ?・・・僕だって・・・僕・・・。」
「じゃあさ、お前は・・・その子に触りたいとか・・・キスしたいとか、そんな風に思ったことあるのかよ?俺にはとてもお前がそういう生々しい感情で相手を見るなんて、想像も出来ねー。きっと相手を大事にしたいなんてそんなことばっか言い訳にして、ただ見てるだけなんじゃねーの?そういうの本当に好きって言えんのか・・・ああ?」
進藤は、自分の言葉に煽られてどんどん荒んだ口調になっていく様だった。
「どうなんだよ!お前は好きな子に・・・何かしたくねーのかっ!」
―――だからさっき、君に触ったじゃないか・・・
もしそう言ったら・・・そう言ってしまえたら、どんなに彼を驚かせることが出来るだろう。想像するだけでも・・・ああぁ・・・ゾクゾクしてくる。
でも同時に、そう言ってしまえば絶望が訪れることもわかっているから、それは僕にとってこの上なく自虐的な妄想でもあった。
「堂々巡りをするだけだな。これ以上、話してたって。君も、僕も、相手が本当の気持ちを隠していると言い・・・自分の真意は相手には理解されないと言い・・・こんなの、一体どこが親友なんだ!」
進藤の体が、僕の言葉に弾かれたように大きく揺れた。
でもその場に踏み止まり、僕を強く睨み付けて来たのが、今度は夕闇の中でもはっきりと見えた。
それを確認したら、進藤を残したまま僕は踵を返した。当然背後に彼の視線を感じるが、僕は振り返らない。
進藤も、声を掛けては来なかった。
こんなことになるなんて、思いもしなかった。
最後の方の会話は、もう売り言葉に買い言葉というものに近かった。
何をどう喋れば僕らの関係がいい方に進むのか考える余地なんて、その時の僕にはこれっぽっちもなかった。
自分の気持ちを気付かれたくないのに、そのくせ、進藤が気付こうとしてくれないことに、理不尽極まりない苛立ちを感じていた。
気持ちのいい秋の一日になる筈が・・・いや、確かに途中までは完璧にそうだったのに・・・どこで、何を掛け違ってしまったのだろう。
いや、もう来るべくして来たのかもしれない、この時が。
進藤に、僕が誰かを愛していることを知られる時が。
その相手が彼だということは、決して知られてはならない秘密だとしても。