― BEFORE DAWN ―
( 6 )







 人は、決して叶う筈のない望みを胸に抱いた時、同時に絶望という言葉の意味を知る。
 少なくとも、僕にとってはそうだった。

 進藤に対するこの気持ちが、単に友情の行き過ぎたものであるのか。或いは、あってはならないと無意識下で押さえ込んでいる種類のものなのか。
 その正体を見極めるのが、厭で仕方なかった。
 ハルトさんとカイさんと話した時に感じたものは、見たくないと目を逸らしているということは、既にそこに何らかの形が存在していることを証明してしまっているということ。
 だから、逸らせば逸らすほど、そこにある形を意識してしまうということ。
 目で捉えることを否定しても、存在の気配をしっかりと感じる。
 いや・・・目で捉えようとしないから、却って想像だけが逞しくなり、そこにあるものを自分で見てはイケナイものへと作り変えようとする。
 そういういびつな感情に翻弄されて、僕は堂々巡りをしていた―――
 
 進藤には、付き合っている女の子がいる。
 そういう表現で聞いたことはないが、デートしているのを知っているし、和谷君たちにからかわれているのを小耳に挟んだこともある。
 彼が世間的にもイケてる十七才であることは、僕だって十分承知している。棋院にも彼目当てのファンが押し掛けて来たり、院生の中にも彼のことで騒いでいる者がいることも知っていた。
 元々、僕らは鈴木先生のお通夜でバッタリ出会うまでは、プライベートの接触は僕の父の碁会所で打つ時だけで、それすらも第二回の北斗杯以降めっきりと減っていた。
 進藤には院生時代からの仲間がいる。バイクで出掛けたり夜遊びをしたりもしているのも、漏れ聞いていた。
 彼とは碁が打てればいい。別にそれ以外の彼が欲しいとも思っていなかったのに、あの夜から少しずつ僕らの道が近寄り始め、大声を出さなければ届かなかった距離がいつの間にか縮まって、今はふと横を見ると彼がいる。
 僕の視界の大部分が彼で埋められ、他を見ようとしても、移動させた視界の中にも彼の姿がスライドして来る。
 どこにでも、彼がいる・・・。



 ハルトさん、カイさんと話した次の日。
 僕は、進藤に対する自分の本当の気持ちを知りたいという欲求を顕わにして、彼に歩み寄った。そういうつもりで彼を誘おうと思っていた。
 ところが彼は素っ気無い一言で僕に別れを告げ、さっさと棋院を出て行った。

 ・・・俺、これからデートだから・・・

 よりショックだったのは、進藤が彼女とデートしているという事実ではなく、それを僕が不快だと感じたことだ。判り切ったことと思っていたのに、自分の過剰なまでの負の反応に驚く。
 進藤に付き合う女性がいたって別にいいじゃないか。どうして僕がこんな気持ちになる必要がある?そもそも昨日、今日、その事実を知った訳でもないのに。
 ・・・そう。もう僕には、わかっていた。
 進藤の口から直接聞いたことが殆どなかった僕は、唐突に彼の口から飛び出したハッキリした言葉に切り込まれ、傷付いたのだ。
 何故こんなに?・・・と、考えたくもないくらい、深く―――

「あれ〜、塔矢、今日ここに来る予定あったんだ。」
「進藤・・・。」

 昼下がりの図書館で、進藤とバッタリ会った。
 どうしてるかな・・・逢いたいな・・・。そう思う時には、会えない。
 それなのに、避けたい時に限って偶然がいたずらをする。何て皮肉なんだろう。

「俺も返却に来たんだけど、お前、もう帰っちゃうの?」
「うん・・・仕事じゃないけど、色々と僕も用事があるし。」

 嘘だった。本当はこのまま閉館までのんびりと本でも読んで、気持ちを落ち着けようかと思っていた。

「あ、そう・・・お前、新しいの借りたの?」
「ああ。」
「そっか・・・俺、これから夏になるとあちこち出掛けるからさ〜、暫くここにもご無沙汰になると思って、もう今日は借りないんだ。返しに来ただけ・・・。」

 暫くここには来ないんだ・・・そうか・・・と、心の中で、溜息を付く。
 嬉しいのか、淋しいのか、自分でもわからない。あやふやで掴み所のない感情を持て余す。

「梅雨があけたら、それこそデートには最適な季節だろうからな。」

 何か言おうと口を開いただけなのに。思った以上に嫌味な口調になてしまい、僕自身も慌てた。でも進藤は、サラリと流した。

「そうそう、大好きな夏が来るんだ〜、俺としては読書よりツーリングだなっ!」

 進藤が、白い歯を見せて無邪気を絵に描いた様な顔で笑った。僕の目を見て、笑ってくれた。
 ただそれだけで、胸が熱くなる。信じられない・・・彼の笑顔が僕にもたらす力に、愕然となる。
 そして、次の瞬間に思うんだ。
 この笑顔は彼のとっておきだが、僕だけのものじゃない。彼は誰にでも、惜しげもなく笑い掛けるのだ。
 付き合っている彼女に対しては、もっともっといい笑顔を見せるのだろう。
 いや・・・笑顔以外の、他の誰にも見せたりしない特別な顔を向けることだって、きっとあるんだ。

「ね?何、借りたんだよ?対象・・・んん〜、しょ、しょ?」
「あ、勝手に見るなっ!」

 進藤が僕の手からヒョイと本を奪って、そのタイトルを読もうとする。僕は慌てて奪い返そうとするが、身の軽い彼にかわされて大声が出た。

「返せっ!進藤!」
「いいじゃんかよ〜、いっつも見せてくれるじゃん?」

 その時、咳払いが聞えて我に返った。そうだった。ここは図書館の中で、カウンターの中から司書の人がこちらを睨んでいた。

「こっちへ来い。」

 進藤の腕を取って本棚が並ぶ方へと移動すると、進藤もおとなしく僕について来た。

「何で〜、どうして今日は見せてくんないのさ?ヘンな塔矢。」
「わかったよ、別に特に見せてたくなかった訳じゃないけど・・・そんなに見たいなら、ほら、この二冊だけだよ。」

 ここは彼に本を見せて、さっさと解放してもらおうと思った。
 不思議だ。長く一緒に居れば居るほど、別れ難い気持ちが募って来る。既に僕はそのことに気付いていたから、早く進藤の元を離れたかった。 
 ・・・彼に未練がましくさよならを言えない自分が、凄く嫌だった。

「ふ〜ん、これは小説だ、ああ、お前がずっと読んでるシリーズだな。こっちは何て読むんだっけ?対象の・・・喪失?で、いいの?」
「ああ、そうだよ。君でも読めるんだな。」
「悪かったな、漢字知らずでっ!この本て何が書いてあんの?小難しそうなタイトルだな?・・・『悲しむ為に』・・・?」
「それはサブタイトルのようなもんだろう。もう、返してくれ。」
「悲しむって・・・対象を失って、悲しむって、そういうことが書いてあるの?その本・・・。」
「へえ、本当に君でも意味がわかるんだな。」

 憎まれ口で誤魔化すことしか出来ない。僕は、奪い返した本を苛立たしげに仕舞い込んだ。

「それ、どういう本なんだよ?何でそういうの読みたいの?」
「どういう本かわからないから借りたんじゃないか。別に、僕がこういう心理学の本に興味があるのは君だって知ってるだろう?」

 そうだ。全然、変なことじゃない。
 どうしてこの本についつい手が伸びたかなんて、考える必要もない・・・進藤も僕も。

「ねえ、対象ってどういう意味さ?何を・・・・誰を失くすってこと?そういう悲しみについて書いてあんのかよ?」
「しつこいな、君は。だからっ!今から読むんじゃないか。読む前から内容はわからないよっ!」

 思った以上に真剣な口調で食い下がられて、僕は力が入り過ぎてしまったんだろう。
 進藤の視線から逃れようと、出口へ向かおうとする。すると僕のバッグが回転して、傍にいた彼の腰に当たった。声を上げて後すざった彼が、背後の書棚にぶつかる。
 あ・・・と思った時には、進藤の頭上で数冊の本が宙を舞うのが見えた。それがスローモーションのように映り、僕は反射的に彼の上に被さろうとする。
 ところが逆に僕の方が彼に抱き留められた。次の瞬間。二人して息を詰めて・・・・・雪崩落ちて来る本をやり過ごした。
 最後の一冊が足元に落ちて、やっと音が止んだ。ページが開いたままになっている。
 それを目は追っているけれど、心は別のところにある。
 ―――動けない。頭では警告音が鳴り響いているのに、体に信号を送る機能が切断されたみたいに、僕は動けなかった。
 進藤の腕が、僕の体を取り囲んでいた。僕のそれは、進藤の脇の下を通って書棚のへりにかかっている。
 背丈の変わらない僕らは、耳と耳が触れ合うほど密着していた。今この状態で顔を見合わせれば、恐ろしく至近距離でお互いを見ることになる。それがよくわかったので、僕は動けなかった。
 ・・・はあぁ・・・・と、懸命に押し殺したような吐息が聞えた。
 耳に当たっていた進藤の感触が消えたと思ったら、彼は僕の肩に自分の頭を乗せて俯いた。肩・・・・というよりも、うなじに続くギリギリの場所に。
 今日の僕はポロシャツを着ていたので、襟が首筋を隠していた。
もしこれが襟ぐりの広い綿シャツでも着ていようものなら、進藤の唇が直接僕の肌に触れていただろう。曲線を描いているその場所に、彼の息がかかってシャツが湿っていく感覚があった。
 その温もりに、固まっていた僕の体だけでなく、胸のうちの頑なな何かも溶かされていく。悦びが込み上げて来る・・・。
 思わず僕も彼の体に腕を廻してしまいそうになった、その時。

「大丈夫ですか?・・・どうしたのっ!」

 司書の人が、音を聞きつけて様子を見に来てくれたらしい。
 その声に弾かれて、僕は進藤を押し戻して体を捻った。司書の彼女は僕らの足元に小山を作っている本と、僕ら二人を交互に見ている。

「あ〜、大丈夫です、スミマセン!俺がちょっとつまずいちゃってよろけた拍子に本を落としちゃった。うへ〜、コイツに庇われるなんて情けね〜。」
「すみませんでした、僕が余計に棚に衝撃を与えたかも。すぐに片付けます。」

 庇われたのは、僕の方だった。進藤を守るつもりで手を伸ばしたのに、反対に
僕の体は彼にすっぽりと抱き込まれ、痛い思いをしたのは結局彼だけだったのだ。

「ああ、気にしないでもいいですよ。こちらも棚の整理が行き届いてなかったみたいだし。それより本がぶつかったでしょ。大丈夫?怪我とかは・・・・。」
「ああ、それなら平気です。ちょっと痛かったけどこのくらい鍛えてるから全然っ!・・・あ、爪先に落ちたのは結構痛かったかな〜。」

 進藤が笑いながらしゃがんで、本を拾い出した。司書の彼女も僕も、続いて片付け始める。
 あらかた綺麗になると、僕らは再度丁寧に謝ってからその場を後にした。
 図書室の自動ドアを出るとホールがあって、左が玄関、右はレストランや中庭に続いている。キッパリとした分かれ道だ。

「はあぁ〜・・・・お前が怪我なくて良かったよ。びっくりしちまった!」

 進藤がやっと僕の方を見た。というより、僕も、彼の方を見ることが出来た。
 そうだ。進藤自身は本当に大丈夫なのか、気にする余裕もないくらい僕の心は混乱していた。淡々と本を拾い集め、棚に戻し、挨拶をして真っ直ぐにここまで歩いた。でもそれは、機械的に何とかこなしてきた作業だった。
 やっとここへ来て、進藤はどこも痛くはないのだろうかと気になり出す。

「進藤。君こそ、本当に何ともないのか?」

 その時―――僕を覗きこんで来た彼の目は、複雑な色をしていた。
 実は痛いところがあって、それを我慢しているのではと心配になって来るような、或いは、本当は僕の態度に怒ってるのではと勘繰りたくなるような・・・どちらかと言うと、負の感情が大きい印象だ。
 睫に縁取られた大きな茶色の瞳が、微かに潤んでいる。それは彼の感情の揺らぎを表しているのだと思ったら、途端に怖くなった。
 彼に、とんでもなく不快な想いをさせたかもしれない。
 僕のことを、嫌なヤツだと改めて思ったかもしれない。
 体が冷たくなっていく気がした。冷房のでせいではなくて、何かを恐れる余りに体の内側から温度が下がっていくのだ。カタカタと小さく指先が震える。

「へ〜き、へ〜き!このくらい。」

 沈黙を破ったのは、今日二度目の進藤の笑顔だった。
でも、さっきの満面のものとは微妙に違う。片っぽの頬だけで笑ったかの様な、バランスのとれていない笑顔だった。
 ・・・もしかしたら、矢張り彼には何か想うところがあるのかもしれない。この本のせいだろうか。

「それよりもさ、さっきは俺の方がびびっちまったよ〜、お前が急に驚いたような顔をして俺に抱き付いて来るからさ〜、何が起こったんだろうって。本が落ちて来るより先にお前の顔が見えたろ?そっちの方が凄かったぜ。」
「悪かったなっ!変な顔で君を驚かせてしまって。君の背後から本が落ちて来るのが見えたから、反射的にそうしただけだ。」
「うん、俺も反対の立場だったらそうしてたな。サンキュ。ねえ、ちょこっとくらいならいいだろ?あっちで一息つこーぜ。」
「あ、ああ・・・うん。少しだけなら。」
「あ〜、咽喉渇いちゃったな〜、自販機で飲み物買って中庭のベンチで飲まね?」

 返答を聞くまでもなく、さっさと行く彼の後姿に目が釘付けになる。

 いつの間に、こんなに彼の背中は広くなったんだろう・・・。
 背広がきつくなったと言っていた時も、確かにと納得した。でも、その時よりももっと彼の体は変化している。
 一日一日、いやほんの目を離した隙にさえ、彼はそれまでと違う大人びた仕草や、精悍な雰囲気で、自分の成長を僕に見せ付ける。
 こんなのは、厭だ。
 君だけが成長して、僕を置いていく気がする。僕よりもチビで、あちこちふっくらとしていた。声だってキンキン煩いくらいだったのに。
 歳月は確実に僕らをオトナへと後押ししてくれる。心の変化は見えないけれど、体の変化は否応なく目に入る。
 厭だ・・・悔しい・・・ずるい・・・・・
 そんな言葉を噛み締めながら、僕は進藤の後に続いた。
 中庭には、木の下にベンチが置かれてあり、ちょっとした息抜きが出来るようになっている。僕らはその一つに腰掛けて、飲み物に口をつけた。

「塔矢って、いっつもお茶だよな。しかも熱いヤツ。夏にはなかなか自販機に置いてないだろ?」
「まあ、ね。でもここのは紙コップのタイプだから年中あるし。そもそも、君と一緒でなければ別に飲み物を外出先で飲むこともないし。」
「あ、そういや、あん時もベンチに座ってお前がお茶、俺がコーヒーだった。」
「あの、時?・・・・あっ!」

 不意に思い出した。そう、進藤は、鈴木先生のお通夜で僕らが偶然会い、公園で話した半年前のことを言っているのだ。背広がきつくて買い換えたと言っていたのも、あの晩だった。

「あの時、俺、初めてお前に話したよな?その・・・俺の死んじゃった友達の話。・・・覚えてる?」

 いきなり、核心に触れられた。ああ・・・さっさと帰ってしまえば良かったと、後悔が湧いて来る。

「うん、そうだっけ?あの時だったかな。覚えてるけど、正確には今、思い出したかな。」

 苦しい言い訳だと自分でもわかっていた。でも、こう言うしかなかった。出来なかった。

「そっか。いや〜、あの本のタイトル見たら思い出しちゃった。失うことと悲しむことはセットなんだろうな。大事な友達失くしたら絶対に悲しいし辛いし。当たり前だけど、その最中にいる時はみっともねーくらい足掻いちゃう訳よ。信じらんない、どうして、許せない、何で、嘘だよ、夢だよ、ひでー、こんなのってさ・・・。」
「今でも、いくらでも言葉が出て来るんだな。」

 ―――そんなに、痛いほど心に残ってるんだなとまでは、言わなくても通じたのだろう。
 進藤は、ベンチの背もたれに体を預けてノビをすると、うあがて真っ直ぐに背を戻して僕を見た。

「その本、俺のせいで読みたくなったんじゃねーよな?タイトル見て俺の話思い出したとか、そういうんじゃねーよな?」
「違うよ、悪いけど。本当に今、思い出した。君の友達の話は。でも。」
「・・・・・。」
「もし、この本を読んで、君の気持ちが少しでもわかるなら、それは僕にとっても嬉しいよ。勿論、人の心を心理学とか精神衛生学とかで、全部が全部測れるとも・・・不遜なことを思っている訳でもないけど。」
「それは俺でもわかるよ。お前が人の心ってものをさ、興味の対象として軽い感じで見てるんじゃねーってことは。」
「うん、でも、本当だよ。君の気持ちを知りたいと思うことは。君がどんな事実に直面したのかとか具体的なことよりも、その時どう感じて、どう心が動いていったのか・・・・今はね、そっちの方が気になるかな。」
「ふ〜ん、そっか。俺、前からちょっと思ってたんだけど。お前は一緒にいても俺のことを見ようとしてないんじゃないかなって、興味ないのかなって。・・・いや!それはそれでいいんだ、別に責めてるんじゃねーよ。責められることでもねーしな。ははは・・・・お前が俺に興味なくても、そんなんお前の勝手じゃん?俺がお前にとってそれだけの価値・・・っつーかその程度の存在ってことで。ま、仕方ないな。」
「進藤、僕はそんな風に見えてたのか?」
「ああ、ごめごめっ!いやさ〜、そうじゃないってことは今日わかった。お前、俺のこと心配してくれたし、ちゃんと口に出して俺の気持ちを知りたいとまで言ってくれたし。もう、ホント、それでいいから。わかったから。」

 これ以上は何も言うなと、言外に通告されているような気分だ。
 ・・・生い茂った緑の葉が、濃い影を作っている木の下。
 こちらを向いたままの進藤は、相変わらず柔らかい表情だ。口角が上がって、笑窪が出来る寸前の頬の盛り上がり方をしている。
 でもこれは、彼が緊張している証拠―――
 もっとリラックッスしている時の彼は、全ての筋肉を緩めて輪郭が曖昧な顔をする。対局が終わって大好きな炭酸のジュースを一気飲みする時とか、待ち時間に漫画を読んでいる時とか。
 複雑なことは一切考えていない無心の時とは、違う。
今の進藤は、わざとそうしている。僕といて、ちっとも緊張なんかしていないんだという風を装っている。
 本当は、どこか違う。何かが変わり始めている。
 進藤が僕といる時に、これまでとは違うことを考え始めているのではと直感が働いた。
 ―――きっともう、わかっている。
 偶然じゃない。今日僕がこの本に惹かれて手に取ったのは、進藤のせいなのだと。彼が半年前に勇気を出して告白してくれた、とても大事なあの話を僕は忘れていないことを。
 でも、それを言わないのが人としてのルールだ。
 進藤にも踏み込まれたくない領域や、プライベートの人間関係があるように。僕にも同じ聖域があることを理解出来るほどには、彼という人はオトナになったのだ―――

 風が渡っていく。少し生暖かい、でも緑の青臭い匂いの混じった初夏の風だ。進藤と僕の間をサラサラと駆け抜けていくそれに、上がりかけていた体温が冷やされてほっとする。
 暫くは他愛のない話をしながら、お互いの手の中のものを口に含んだ。

「お前、熱いの本当に平気なんだ?俺だったら冬でも駄目だよな〜、猫舌だからさ。」
「そうか?僕は小さい時から温かいものに慣れているし、その方が体にはいいんだよ。君、暑がりだろう?だったら余計に温かいもので熱を発散させた方がいいのに。冷たいものは消化機能を鈍らせたり、自律神経にも良くない。」
「はあぁ・・・お前、そういう小難しいことよくそんなにスラスラと言えるなぁ?ふうぅ、難しい単語を聞いて体温上がっちまった!」
「また馬鹿なことを。」
「いや、本当だって。・・・ほら、触ってみ?」

 進藤が片手で前髪を掻き上げて、おでこを出した。僕の方へ、ふざけてそのツヤツヤしたおでこを見せるもんだから、吹き出さずにはおれなかった。可笑しいなあ、君は・・・と。

「何だ、折角とっておきのおでこ見せてやったのに、触んね〜のかよ。」

 ・・・馬鹿。君のおでこになんか、誰が触ってやるもんか。汗が浮いているじゃないか。汚い。臭い。
 ありったけの憎まれ口をきいて、笑い飛ばした。
 ひで〜っ!お前って容赦ないのな、と明るい声が、風の起こす梢の音と混じって流れていく。
 僕の髪も、足元から巻き上がって来る風に乱された。爽やかな風が気持ちいいから、押さえ付けることもしないでなぶられるままにする。
 ―――それを進藤が、じっと見ていた。

「お前は、汗なんか全然かきませんって顔してるよな、いっつも。焦ったり急いだり、そういうことなさそうだし。その真っ直ぐな髪も、汗で顔に張り付くとか絶対にないんだろうな。普通にしていれば・・・。」
「普通って、僕だって汗くらいかくよ。ただ、いつでもどこでもじゃない。そんなの誰だって同じだろう?」
「うん・・・お前がうんと汗をかく時って、どんな時なんだろ?う〜ん、何か興味ある。電車に遅れそうになって走った時とか、碁で負ける筈もない相手に信じられないくらいこてんぱんにのされちゃった時、とか・・・うえ〜、どれもありえねーっ!マジ、ありえねーっ!」
「僕が汗をかくところ、そんなに見たいのか?変だな、君って。」
「塔矢の汗って綺麗そうだな。匂いとかなくて、あんましょっぱくなくて、透明なイメージ・・・。」

 それを聞いて。
 カーッ・・・となった。
 僕の汗を想像している進藤が、目の前にいる。そう思うだけで、体の芯までが熱くなる。疼き出す・・・。
 急に蘇って来た。さっき、進藤に抱き留められてその腕の中にいた、ほんの数秒の感覚が。
 記憶には、決して残さないでおこうと思った―――その時に感じた、彼の全てを。
 彼の体温。彼の吐息。彼の汗の匂い。
 全部、綺麗に、デリートだ。思い出したりしないように、ゴミ箱行きだ。そうでなければ―――

「・・・僕、もう行くよ。飲み終わったし。」
「あっ!もしかして俺の言ったこと、気にさわった?感じ、悪かったかな?だったらゴメン。」
「いや、そんなんじゃないよ。本当にもう行かないと、時間がないんだ。」
「それならいいんだけどさ。えっと、引き止めて悪かった。・・・じゃあな〜。」

 進藤は、ヒラヒラと手を振る。とても軽い仕草だ。
 僕も、その軽さに見合う程度の愛想笑いを彼に向けた。
 ほら、簡単だ。余計な感情を、必要ない場面に持ち込まない訓練を物心ついた頃から受けている僕。碁を打つことで、精神力もそこらの同年代には負けないくらい鍛えられている僕。

「進藤。ちょっと聞くけど。」
「ん・・・何?」

 最後の最後に、一つだけ訊ねたくなった。暫く二人きりで会えない。これからそういう機会は、間違いなく減っていくだろう。
 だから。

「君も、僕がいなくなったら悲しむか?僕という対象・・・碁の相手としてでも友達としてでもいいんだが。僕という存在が失われたら、自分が悲しむと思うか?」

 進藤は、きょとんとしていた。
 鳩が豆鉄砲という言葉が浮かぶ。へ?・・・という形に、口が開かれる。でも音はなく。
 彼のことを何度も馬鹿だ、馬鹿だと言って来たが、この顔は本当に馬鹿っぽいと思った。

「塔矢〜、お前、俺のこと、何だと思ってんの?それって、答えるのもアホくせーよ。さっさと帰れ。そんなこと訊くなんてさ、お前汗かかなくても頭は茹だってるかもよ?茶〜なんか飲んでるからだ、全く・・・。」
「わかった。もう帰るよ。・・・君の唇、紫色だぞ?そのジュースで体が冷え過ぎたんじゃないか?じゃあ。」

 進藤が、色の悪い唇にひとさし指と中指を当てたのが、流れる視界の端に映った。何だか苦しそうな顔をしていたなと思ったけれど、僕はもう振り向かなかった。
 飲み物以外にも彼の体を冷やしたものがあるとは、とても思えないし。
 僕は立ち上がって、出口へと向かう。
 ・・・数日前にこうやって、棋院の出口で僕は進藤に置いてきぼりにされた。
 今日は、僕が彼を置いて出て行く番だ。そうでなければ、辛過ぎる。惨め過ぎる。
 僕は、背中に進藤の気配を感じることさえ自分に禁じて、彼の元を離れた。



 もう、心は認めていたと思う。この数日間の混沌は、全てそこから来ていると。
 僕は進藤ヒカルが好きだ・・・友情以上の意味において。
 そしてそれを、今日は体でも確認しただけだ。
 進藤に触れられただけで。進藤に際どいセリフを言われただけで。悦びが一瞬にして、突き抜けていく。
 今まで秘密にされていた装置が、体の中で突然働き出した。好きな人にそのスイッチをオンにされただけで、何かが駆け抜けて痺れてしまうなんて。
 自分の中にそんなメカニズムが眠っていたことを知って、愕然となるばかりだ。

 ―――進藤を愛している。誰よりも・・・

 例え、僕がいなくなったら悲しいと認めた彼の真意が、友情や碁や、そんなもの絡みにしか過ぎなくても。この想いが絶望と隣り合わせで、彼に知られてはならなくても。
 そんなことは判り切っていて、未来永劫、その状況は変わらないとしても、だ。

 僕は、進藤ヒカルを愛している―――
 その心も体も含めて、彼の全てを、もうどうしようもないくらいに・・・・深く、強く、愛している・・・・・












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