― BEFORE DAWN ―
( 2 )
三月にしては穏やかな日差しと高めの気温が春を予感させて、人の気持ちも軽くしてくれるんだろうか。逸る気持ちを抑え切れずに急ぎ足だったから、うっすら汗ばんでしまった。俺は着ていたジャケットを脱いで、手に持った。
目指す建物はもうすぐだ。もうすぐ、塔矢に会える・・・。
この辺りでは一番大きくて施設も充実している区立図書館が、実は塔矢のお気に入りの場所だ。誰もそのことを知らないけどさ。
でも今俺は、秘密の隠れ家を教えてもらえるくらいには、アイツと親しい仲という訳だ。
図書館の自動ドアを抜けると、真っ先にアイツがいつもいる自習室へと向かう。
この図書館には書棚の列とそれに続く自習室、カフェテリアや何とプラネタリウムに小さなギャラリーまである。中庭にはベンチや花壇もあって、読書や勉強に疲れたら気分転換も出来る。
まあ、塔矢がわざわざ電車に乗ってまで通うだけのことはあるかな。
俺もここが気に入って、最近通うようになった。勿論、塔矢と待ち合わせてのことが多いけど。
・・・自習室に入ると、果たしてアイツはいた。
入り口近くの窓に向かって置かれている机。俯き加減で、本に目を落としている。腕が無造作な感じに投げ出されていて、少しだけど頭が揺れていた。
もしかしたら眠たいのかな・・・。アイツでもこんな所でうたた寝しそうになることなんて、あるんだろうか?
つい声を掛けるのも忘れて、塔矢観察を続けてしまう。
あー・・・、長い睫毛が重力に引っ張られるみたいに、ゆっくりと落ちていく。同時に頭も前のめりになっていくから、枝毛なんか一つも無さそうな健康な黒髪が、サラサラと揺れる。背中が緩やかなカーブを作って、いつも背筋を伸ばしているアイツらしくない。
窓から差し込むみかん色の日差しが、スポットライトみたいに塔矢の姿を照らす。周りの景色が見えなくなっていく・・・。
何と言うのか・・・光の繭にくるまれてもうすぐ産まれて来るのを静かに待っている、どこかの星の生き物みたい。そのくらい、俺とは遠い遠い世界に存在するものの様で、不思議だ。
俺、本当にコイツと友達なんだろうか?
俺なんかのことを、一体どう思っているのかな?
鈴木先生のお通夜で塔矢とばったり会って、その晩は色々なことを話した。
後から振り返ると、俺は随分と佐為を連想させるような話をしてしまったかもと、ちょっと焦った。
でも、塔矢は核心をついた質問は一切しなかったばかりか、俺の質問にも誠実に答えてくれた。途中、怒らせる様な発言をしたことも、最後はなかったことにしてくれた様だった。
鈴木先生が亡くなったことや、その子どもの悠輔の気持ちを考えると辛くて寝苦しかったけど・・・塔矢が相手をしてくれた言葉を一つ一つ思い出すと、ざわつく心が鎮まった。
あの晩、塔矢と話すことが出来て、俺は本当に救われた気がする。
それまでは、棋院で会っても立ち話すら長続きしなかった。碁会所で打っても話題は碁とその周辺のことばかり。二人で出掛けたこともなかったっていうのに・・・。
俺はあの晩、それまで知らなかった塔矢アキラを見つけて、急に親近感を覚えてしまったんだろう。アイツがさ、碁と切り離された場所ではどんな風に過ごしているのか見てみたいなーと思うようになって、あれこれちょっかいを出し始めた。
・・・塔矢が初めてこの図書館のことを打ち明けてくれた時のことも、俺は忘れられない。
鈴木先生のお通夜から数日しか経ってなかったけど、あの時塔矢が話してくれた「青い鳥」のワンシーンを読んでみたくなって電話してみた。
うちにあった子どもの頃の絵本や童話は、全部俺の従兄弟の所にいってしまった。本屋でも子供向けの全集みたいなものに少し載っているのしか見つけられなくて、塔矢だったら本を持っているかもと思ったんだ。
でも、アイツは今手元にはない、そんなことをまだ気にしていたのかと、冷たく電話の向こうで言い放った。
「変なこと訊いて悪かったな!折角お前がいい話をしてくれて、だからどうしても読んでみたいなって・・・本なんか漫画以外ここんとこ触ったこともない俺がさ、本屋まで行ってみたのに・・・。どうせお前は、あんな話をしたことも一晩寝たらすっかり忘れてたんだろうよ!」
勇気を振り絞って電話を掛けたのに突き放すような態度を取られ、俺は逆ギレしてしまった。
そしたら、塔矢の声色も変わった。機嫌が悪くなると、こころもち低めに喋る癖があるらしい。
「そうだよ。あの晩は、僕もいつもと違う雰囲気に興奮して・・・ベラベラ喋っていたかもしれないが・・・今は、何を喋ったのか余り思い出せないな。君も感傷に浸っている暇があったら、碁で精進すればいいんじゃないのか?」
「わーかったよ。もう、お前なんか知らねえっ!じゃあなっ!」
叩き付ける様に電話を切った後・・・込み上げて来た感情は怒りを通り越して虚しさだった。一気に力が抜けた。
でも、その後和谷達と出かける約束が入ってたんで、丁度憂さ晴らしになるとばかりに、遅くまで遊んで家に戻った。そしたら、母さんが何度も塔矢から電話があって、結局最後は伝言されたと言うだろう?・・・マジで驚いた。
まさか、アイツの方からアクションを起こして来るとは。
もしかしたら、さっきの電話に死ぬほど頭きてんのかな?俺のこと呼び出して、今まで溜まってた言いたいことでも吐き出したいのかな?
モヤモヤと落ち着かない気持ちを抱えたまま、俺は次の日、塔矢が指定した時間に棋院の入り口で待っていた。
時間ぴったりに塔矢はやって来た。一秒早くても一秒遅くても、借りが出来るとでも思っているかの様にぴったりに、だ。アイツらしいと言えばアイツらしい。
「昨日は僕も少し言い過ぎた。だから、これ・・・。」
そう言って差し出されたものは、一冊の本だった。
「青い鳥?・・・お前、これ、俺が読みたいって言ってたやつ、探して来てくれたのか?」
「いや、丁度、今日図書館に行く用事があったから・・・わざわざこんな本を買うこともないだろうと思って。期限は二週間だから君だって読めるだろう。」
目を合わせるのが気恥ずかしいみたいだ。
伏し目がちに話す塔矢が可愛く思えて、俺の緊張は一気に解ける。もっと険悪な展開も覚悟してたのにさぁ・・・。
「なーんだ・・・これ渡すだけか!俺、もっととんでもないことお前が言い出すのかと思っちまった・・・。緊張して損したーっ!」
「とんでもないことって・・・別に僕は、君に対してどうこうしようという気はないよ。これ、来週までに返してくれればいいから。」
つっけんどんな物言いは変わんねーな。よーし・・・。
「この図書館てさ、俺行ったことないからわかんない。今度連れてってくれよ。お前の予定に合わせるからさ。それまでに読むよ。・・・いいだろ?」
俺も、売り言葉に買い言葉で喧嘩別れみたいな幼稚なパターンは、いい加減卒業だ。もっと塔矢とちゃんと話がしたい。あの夜みたいに・・・。
俺の申し出に塔矢も応じてくれ、次に会う予定はすんなり決まった。
塔矢が俺に読めと渡してくれた「青い鳥」の本は、お芝居の脚本だった。あ、戯曲っていうのかな。元々こういう風に書かれたものらしい。
こういうまともな本読むのって、久しぶりだぁ・・・。でも台詞形式になっているせいか、頭に場面、場面の様子が浮かんで、俺でもあっという間に読み終えた。
例のおばあさんの台詞の部分は、塔矢が言っていたのとはちょっと違った。アイツは自分が子供の時にやった劇の台詞で覚えていたんだから、まあ、その時子供用に変えられたんだろうな。
単なる童話だとばかり思っていたけど、子供に聞かせる話というよりもっとシュールな感じで、何が言いたいのか俺には掴めない部分も多かった。でも、ああ、なるほどなあと、考えさせられる部分もあったりして・・・。
それよりももっと俺が感じていたのは、塔矢と話をしなければ、この本を一生読むこともなかったろうという不思議だ。
俺が叩き切った電話の後、アイツも色々と考えて頭ん中グルグルしちゃったのかな。そして、速攻で本を借りて来てくれたんだよな。
言い過ぎたことへの、アイツなりのお詫びみたいなもんなんだろうう。
塔矢アキラは態度は硬くて優等生で、ちょっととっつきにくい感じがするけど―――人に対して誠実な奴なんだと、改めて知った。
そして、本を返却しようと俺らは一緒に図書館に出掛けた。最初から碁に関係ないことで二人で会うなんて、これが初めてじゃないかな。
「この本、ありがとな!訳、わかんねーとこも多かったけどさ、予想していたよりは面白かったし、一気に読んじまった。」
「それは良かったよ。」
俺らは図書館の中を散策した。というより、俺がねだって塔矢に色々と施設内を案内させたってだけなんだけど。
「へぇー・・・プラネタリウムなんかあるんだ!ねね、観ていこうか?」
「ええっ!君と?・・・遠慮するよ!」
「なんでー!」
「だって君、色々と煩く質問して来そうだし・・・いや、それとも暗くなったら寝ちゃうんじゃないの?」
「お前、俺のこと何だと思って・・・いや、まあいいけどさ。」
「あ、ここ土日しかやってないよ。残念だったね。」
いかにも助かった・・・という顔で、白々しく笑い掛けてきやがった。憎たらしいけど、休みなら仕方ない。
「んじゃ、今度は土日に来ようぜ!な?」
「今度って・・・。何で今度があるんだ。二度も一緒に来る必要がどこにあるんだ。場所は覚えただろう?」
くぅー・・・ここでキレたらいつもと同じパターンになっちまう。・・・負けるもんか。
「いいよ。お前がそういう態度なら・・・。でも、お前がここにいる時に俺が偶然やって来ても文句は言うなよな。あくまで偶然なんだから!」
それを聞くと塔矢のヤツは、怒ろうかどうしようか一瞬迷った様に顔を歪めたけど・・・でも、かろうじて言葉を飲み込んだみたいだった。
その沈黙を俺は肯定の意味に捉え、そして予告通りここに通っては塔矢を捕まえることに成功した。そのうち、お互いの空き時間や次に来る日を、話の中にさり気なく混ぜて承知し合うようになった。
塔矢が借りる本を物色したり読んだりしている間、俺は雑誌をめくったりCDやビデオの方を見たりしていたが、どうせちょくちょく来る気なら君もまともな本を読んでみろと言われた。
「んー・・・でも、一体どんなんが俺向きかな?つまんねーと最後まで読み終わんないと思うんだよなぁ。」
確かにそうだ・・・君でも飽きずに読めそうなものは・・・と言いつつ、塔矢は自ら書棚の列をウロウロしていた。俺はそんなアイツを面倒見がいいよなぁと面白そうに眺めながら、後をついて回る。
そして塔矢が俺の為に選んでくれたのは「ルパン対ホームズ」だった。・・・お、俺でも知ってるよ、こんな本!
「でも、どうせきちんと読んだことはないんだろ?君、この手の漫画が好きな様だから、これ読んでルパンかホームズのどっちか気に入った方のシリーズを読破したら?」
最もだと思った俺は、素直に従って読み始めた。そして、はまった。碁の勉強がそりゃ最優先だけど、息抜きとして移動の時とか空き時間に読むには、本当に丁度良かった。
図書館からの帰り道が一緒になると、俺は塔矢に読んだ物語の感想を話したり、たまには食事やお茶に誘うことも出来る様になった。勿論、アイツの方から積極的に俺を誘うことはなかったけどさ・・・。
―――光の中の塔矢アキラは、まだユラユラとまどろんでいる。
その無防備な姿は、先週塔矢にあった日の出来事を思い出させる・・・。
それは、ある企業が主催した子供向け囲碁教室というイベント。若手の中では偶然にも塔矢と俺だけが呼ばれていた。
滅多にないことだったから、俺はアイツが子供らの中でどんな風に振舞うのか、興味津々だった。
最初の挨拶や紹介が終わると、主催者側が決めてくれた子供ら相手に対局をすることになっていた。
ベテランの棋士達は多面打ちで、塔矢と俺とあと一人が、上級者の子供相手にそれぞれ打つことになった。
トラブルは塔矢の相手の子供が引き起こした。
理由はわかんないんだけど、小学四年生だというその男の子は最初から機嫌を損ねていたらしい。席についたって、挨拶もしない。
「僕が君と対局する塔矢です。今日はよろしくお願いします。」
塔矢がそう言って頭を下げても、その子はそっぽを向いて黙っている。
俺は隣の席で自分の対局相手の子と打ち始めていたが、成り行きが気になってしまい耳をそばだてていた。
周りの大人たちが挨拶はどうしたんだとか、もっと真面目にやんなさいとかあれこれ口を出しても、そのガキは拗ねたまんまだ。
でも、塔矢が特に慌ててるとか怒ってるとかいう感じは、横にいても伝わってこない。
「じゃあ、四子置いて、君が先番でいいかな?・・・お願いします。」
黙ってるガキに声を荒げることもなく、塔矢は今度はもっと深深と頭を下げた。それなのに・・・ガキはやっぱり挨拶しねえ!
横にいた俺の方がだんだんイラついて、自分の対局に集中しにくいったら・・・。
「タカシ!塔矢先生がご挨拶してくださってるのに何ですか、その態度は!?もう打つ気がないの?だったら他にも塔矢先生と打ちたい子は大勢いるんだから、お前は帰んなさい!」
とうとうそのガキの母親がキレて、我が子に向かってヒステリックに怒鳴った。ガキは席を立って出て行こうとする。
それを他の大人達が引き留めて、入り口付近でごちゃごちゃやってるのが目の端に映っていた。
「塔矢先生、申し訳ありません。あの子は子供囲碁大会でも上位に入る子なんですが、ちょっと態度が横柄なのがたまにキズでして・・・でもまさか塔矢先生にまであんな調子だとは・・・せめて今日くらいはちゃんとするのではと期待していたんですがね。何分、難しい年頃でして・・・。」
主催者側の人が、恐縮して塔矢に謝っているのが聞こえて来た。ガキは結局会場から出ては行かないものの、入り口の方でこちらを覗いながら、まだ母親に説教されているらしかった。
「それでは今、別の子を連れて参りますんで、その子と改めて打っていただくということで・・・。」
「いいえ。それは待ってください。僕の対局相手は、あそこにいるタカシ君です。」
それは静かな、でも凛とした響きのある声だった。
俺は、その声に胸を突かれて、ついそれまでの聞いてないフリも忘れて塔矢の顔を見てしまった。
声音と同じく、とても静かな横顔だった。塔矢の心にはさざ波一つ立っていないかの様で、ただ背筋を伸ばし、目線を碁盤の方へ注いで待っていた。
そう・・・塔矢は自分が挨拶をした対局相手を、待っている。
この場が、楽しさ優先のお祭りムードのイベントだろうが、相手が訳わかんねー態度のガキだろうが、塔矢には関係ないんだ。自分の対局相手に礼を尽くし、自分の一局に真剣に向き合う。
それが、塔矢アキラの碁に対する姿勢なんだ。
それが、塔矢アキラそのものなんだ―――
辺りには、もう誰も何も口を差し挟めない雰囲気が漂い始めていた。
一応、俺も含めて周りはそれぞれの対局に集中している様に見えていた。会場のざわめきも、いつも通りのイベントと変わりない。
でも、皆がことの成り行きを見守っていた。
例のガキは塔矢がじっと座って自分を待っていることに、やっと気付いたんだろう。母親が、これ以上ここにいたら塔矢がいつまでも対局出来ないのを察して連れ帰ろうと腕を引いた瞬間、ソイツは母親を振り切って塔矢の待つテーブルへと戻って来た。
椅子に腰掛けるが、まだきちんと正面を向かずにカタカタと貧乏ゆすりなんかしてやがる。
もうここまで来ると、周りの誰もがも知らんふりが出来ずにシーンとしてしまった。会場中が、次の展開を固唾を飲んで見守っていた。
長い様な短い様な、不思議な時間の流れ。それは不意に、塔矢自身によって断ち切られた。
「お願いします。」
さっきと全く変わりのない声に弾かれて・・・
「お願いしま・・・す。」
小さな声で、しかも頭は塔矢の半分くらいしか低くなっていなかったけど・・・タカシは確かに挨拶を返したんだ。
辺りが安堵の空気に包まれる中・・・俺は見てしまった。
塔矢が、照れ臭そうにもじもじとしているタカシ様子を見てほんのりと、そう、まるで花が咲きほころぶような・・・モノトーンの絵に鮮やかな色を落としたような・・・極上の笑顔を見せたのを。
その瞬間。カメラのシャッターを切ったみたいに、塔矢の笑顔は俺の心に焼き付いた―――
「進藤?いつからそこにいたんだ?」
塔矢がこちらを見ると同時に声を上げたから、俺の方が驚いた。ビクッと後ずさってしまう。
物思いに耽って塔矢を暫く眺めていたこと、悟られてやしないだろうな。
「んー?今来たばっかだよ。あっ、お前ヨダレがついてるぜ!さては居眠りしてたろ?」
「う、嘘だ!ヨダレなんてたらしてない・・・。」
うろたえて口元を拭う塔矢が可笑しくて声を立てて笑ったら、塔矢だけでなく周りからも睨まれてしまった。ヤベ・・・。
俺らは、早々に退散する。
「君、用事は済んだの?今日は返却?」
「いやあ、今日はまだ読んでねえから・・・ただ、和谷んちに行く前に時間があったから来てみただけ。お前、今日の夕方返却するって言ってたろ?」
お前に会いに来たんだとまでは、さすがに恥ずかしくて言わない。・・・言えない。
「ふーん・・・。」
「あ、あのさ!この前のイベントのことなんだけどさ。俺、あん時のお前、凄かったなーって感心しちゃって・・・。」
何か突っ込まれる前に、話したかったことを振った。
「ああ?あのタカシ君との対局のこと?確かに彼はなかなか筋が良かったよ。頑張ればもっと・・・。」
「ち、違うよ!そういうこっちゃなくて対局の前のことだよ!」
「・・・あ?何だっけ?・・・そうか、なかなか席につかなかったこと?」
コイツってばあんなに印象的な出来事があったっつーのに、結局は碁の内容にしか興味はないのかよ?全く・・・。
「あれ見ててさ、俺、子供の時に読んだ話を思い出しちまって、お前に言いたかったの!」
「ええ?何のこと?」
「ほら、北風と太陽って話あるじゃん!旅人の服をどちらが脱がせることが出来るかって競争すんだけど・・・。」
「北風じゃなくて太陽が勝つ話だね。また童話?何の関係があるんだ?」
塔矢が怪訝そうにしているから、頭いいくせにどうしてコイツはわかんねーのかなと、俺は勢い込んでしまう。
「だから!大人達が力づくではアイツをどうすることも出来なかったのに、お前はただアイツを待って座ってるだけで・・・アイツを碁盤の前に引き戻すことが出来たろ?それって、お前はこの話の太陽みたいだなって思ってさ。」
「ふーん、そうか?そんなに大そうなことをした覚えはないんだが・・・。」
俺がこんなに感動を伝えようとしているのに。肝心の塔矢自身は淡々としていて、張り合いがない。
「だってあれはいつも父が僕にしていたことだから、特別なこととは意識していなかったんだが。」
「えーっ?塔矢先生が?・・・ってか、それどういうこと?」
「子供の頃・・・いや、タカシ君よりはもっと小さい時だよ。父が打ってくれるというのに反抗したことがあったんだ。だって、碁は好きでも今は他のことしたいって時も子供にはあるだろ?」
俺は早く続きが聞きたくて、ウンウンと高速で頷く。
「だから一度は碁盤の前に連れて行かれるんだけど、すぐ逃げ出して・・・でも、他のことしてても気になって覗きに行くと・・・父が黙って碁盤の前に座ってるんだよ。じーっと身じろぎもせずに。そして僕が戻って来ると何も無かったみたいに打ち始める。どこに逃げ出してもああやって父が待っていると思うと・・・戻らずにはおられなくなって・・・結局そのうち、逃げ出すのは止めちゃったな。」
そうか。あれは「北風と太陽作戦」だったのかな・・・なんて呟く塔矢は子供時代を思い出しているのか、柔らかく目を細めている。
俺はつくづく思った。碁バカ(塔矢先生、ご免!)に純粋培養で育てられた天然ものの碁バカが、この塔矢アキラなんだと。
もっと塔矢と話して、子供時代のことを聞き出したいと思う。
だけど、和谷の家での勉強会の時間が迫っていた。遅れると、意外と時間に煩い和谷に怒られちまうんだよな。
俺は、塔矢と別れて和谷の家に向かった。
「こんちはー!・・・あれぇ?俺、日を間違った?」
「お前の他は誰も来ないよ。伊角さんは今、本田さんと冴木さんと一緒に中国に遊びに行ってるだろ?越智と門脇さんは用事。連絡しようかとも思ったんだけどさ・・・。」
「ええーっ!なんだ、今日は勉強会なしぃ?じゃあ、塔矢と打ちに行けばよかったあ!」
言った途端にしまった!マズイ!・・・と思ったけど、一度口にした言葉は取り消せない。
和谷の顔が険しくなった。ああ・・・どうして俺ってば、こう思ったことがポロッ・・・と口から滑り出ちゃうんだろ?
「塔矢じゃなくて悪かったな!俺とは打つ気にもなんないのかよ?」
「ご免!そんなつもりじゃなかったんだ。ホントご免・・・塔矢とたまたまさっき会ったからさ。それで・・・。」
「悪いと心から思うんなら、マジで一局打ってけよ。」
さっさと碁盤を出して対局を始めた和谷の、どことなく鬼気迫る様子に最初はたじろいでいた俺も、やがて白と黒が響き合う勝負の世界にのめりこんでいく・・・。
いつもみたいに軽口を叩き合うこともなく、ただ碁石を盤上に打ち付ける音だけが部屋にこだまして・・・。
どれだけ時間が過ぎたのかわからないまま終局を迎え、結果は俺の一目半勝ち。思わず溜め息が漏れるほどの、緊迫した一局になった。
「はあぁ・・・すっげーよ、和谷!俺、久しぶりにワクワクした!お前、いい手打って来るんだもんなー!もう何度も駄目かと思っちまった・・・それくらい凄かった!」
「進藤・・・お前って・・・。」
興奮してまくしたてる俺を、和谷は複雑な顔で見返して来た。俺、またなんかマズイこと言ったっけ?
和谷は碁盤を片付けた後、ちょっと飲もうぜと缶チューハイを二本出して来た。一応未成年なんで大きな声では言えないが、俺らは時々ビールとか缶チューハイとか飲んで騒ぐことがある。大体は冴木さんとかのお目付け役の監視の元に、だけどさ。
飲みながら中国に行ってる連中のこととか話していた。程よく酒が回った頃、とうとう和谷が切り出して来た。
「進藤。酒飲んでしか言えない俺も、ちょい情けないけどさ。今夜は俺、本音で話さしてもらうわ・・・。」
俺もそういうことなのかなと、茶化さないで素直に聞いていた。
「お前さ、今年の北斗杯の後くらいから荒れてたろ?・・・いや、荒れてたっていうのとも違うかな?それまでがお前って脇目もふらず碁一筋だったから、ちょっとスローダウンしたっていう方があってるのかも。丁度俺がバイクの道に引っ張り込んだし、俺らと一緒の時は遊びが優先で、碁のことばっかり考えてるのはイケてないみたいなポーズを取る様になったよな・・・。」
俺は図星を指されて、心臓がドキドキし出したのを感じた。
「俺らって小さい時から碁が最優先だからさ、一時期迷いも出て遊びに走っちゃうのもわかるし・・・冴木さんなんかもそういう話してくれたことあるんだ。でもお前はちょっと他の奴らとは違うっていうか・・・。打てば響く才気・・・頂点を狙える器・・・これは森下先生の言葉だよ。―――お前のことだ、進藤。」
和谷がその時初めて、俺の目を真っ直ぐ見据えた。酔いで少し頬が染まっているが、言葉には少しの乱れもない。
「そういう才能もさることながら・・・お前の碁に対する姿勢が俺は好きだし、年下だけど尊敬出来ると思っていたのに、ちょっと投げやり感が春頃から漂っててさ。でも俺が忠告するようなことじゃないし、お前自身が一番わかってるんじゃないかと思っていたから・・・何も言わないで来た。」
「うん。確かに和谷の言う通りだよ。俺も自分で自分を持て余してたとこ、あった。」
「そっか・・・。」
和谷は自分のチューハイの缶を、おどけた感じで俺のおでこにちょん!・・・とくっつけた。
「冷てぇ・・。」
「でもお前、最近また変わったよ・・・。」
和谷は缶を俺のおでこからはがして、それをちょっと高く掲げてウィンクして見せた。
「去年の暮れだっけ・・・塔矢と頻繁に碁会所で打つようになったろ?あの辺りからまた、何よりも碁が大事で前へ進みたくてたまらないって勢いみたいなもんが戻って来た。以前の進藤らしくなったぜ。お前をそうしたのが塔矢だとしたら、俺はちょっと悔しい気もするけど。でも一番の友達としては、お前がお前らしくなったことを喜ぶべきなんだろうな。塔矢に感謝するって・・・そこまではちょっとカッコつけすぎで正直言えねえけど・・・。」
俺は和谷の言葉一つ一つが有難くて心に染みて・・・酒のせいじゃなく、こんなにいいヤツが友達でいてくれた幸せにこそ酔っ払いそうだった。
「さっき、俺と打ち終わってお前が興奮したみたいに言ってくれたろ?いい碁が打てたって・・・。俺相手でもそう言ってくれるのが何かさあ・・・すっげー嬉しかったよ。そん時のお前の顔さ、まるで院生時代の・・・あの生意気で、でも憎めないガキだった頃の進藤みたいに純粋な感じがした。」
和谷の言葉は、全てが真実だった。
何も飾っていない、心からの言葉が、こんなにも人の胸をストレートに打つものだとは知らなかった・・・。
俺は確かに第二回の北斗杯以降、心のどこかが荒んだままだった。
大将は塔矢になり、そしてヤツは高永夏に見事に勝利して、同時に俺を打ちのめした。
塔矢にだって高永夏にだって、いつかは勝てる。長い道のりなんだから焦ってはいけないと言いきかせても、足元から立ち昇る様な苛立ちに眠れない夜が続き、丁度始めた夜遊びやバイクで紛らわせようとしていた。
そんな俺を見て和谷はさぞヤキモキしてたんだろうけど、でも抑えてくれてたんだな。
俺は涙が出そうになるのを、さすがにそれは恥ずかしいから必死で堪えて、努めて明るく言った。
「和谷って・・・いい男だなあ!俺が女だったら好きになっちゃうよ!うん、絶対惚れるな!」
「進藤にんなこと言われたって嬉しかねーや!お前、もう酔っ払ってんのか?」
「和谷こそ、顔が茹でダコみてー!あははーっ!」
―――ありがとう、和谷・・・俺の一番の友達でいてくれて・・・。声に出しては、照れ臭くってまだ
言えないけどさ・・・。
和谷の家でそのまま雑魚寝しても良かったんだけど、俺は何だか気持ちが昂ぶってしまい、クールダウンする為にも終電で帰ることにした。酒は一本で止めてから、ほとんど抜けている。
夜道を歩きながら、今日のことを振り返らずにはおられなかった。
和谷のことは、本当にいいヤツだと思っていた。でも、ここまで俺のことを理解し、見守っていてくれたなんて予想もしていなかっただけに、俺は改めてその懐の深さを垣間見た気がした。
人と人の関係なんて、「絶対」はないんだな・・・。
和谷を仲間やライバルではなく単なる遊び友達に貶めていたのは、他ならない俺自身だった。俺がアイツをそういう風にしか見ようとしない時期があったんだろう。
多分、俺のそういう投げやりな人との接し方までも、和谷は感じ取って、でも何一つ説教がましいことは言わずに、ただ俺が軌道修正するのを待っていてくれた。
自分が相手をどう見るかで、相手から返って来るものも違って来る。それが、人と人との関係が生み出す不思議さなんだ―――
・・・じゃあ、塔矢は?
俺は塔矢にとって、一体どういう存在になりたいんだろう?
碁においては、生涯のライバルだ。それは、まず最初に来る絶対的関係だ。
次には・・・どうなんだろう・・・まだまだ正直なところ、気軽に話したり出かけたりする程度の仲良し・・・といったところかな?
まあ寂しいけど、現実を直視すればそういうところだろう。
・・・寂しい?それだけの関係では、俺は寂しいと・・・もっと深い繋がりを持ちたいと、思い始めている?
例えば、和谷が俺にしてくれたみたいに相手を理解し、見守る。でも決して押し付けがましくなく、相手のことを信じて待つ。そしてここぞというタイミングが来たと思えば、正直に気持ちをぶつけることもためらわない。
真剣に相手のことを想う時、おのずと行動は決まって来る。親友ってそういうものなんだろう。
そうか・・・俺は、もしかしたら、ライバルや仲良しだけでは飽き足らなくなって、塔矢の親友になりたいのかな・・・。
うん・・・もう、認めよう。あのお通夜の夜から始まったのは、多分それまでとは違う新しい関係だったんだ。
俺は、塔矢アキラの無二の親友になりたい。
アイツを誰よりも理解し、思いやり、アイツの幸せを願える俺になりたい。そういう深みのある関係に、アイツとはなりたい。
頑張れば、塔矢はいつか俺のことを親友だと思ってくれる日が来るだろうか?強く願って行動すれば、アイツにこの気持ちが伝わって・・・
だって俺はやっぱり・・・塔矢アキラの親友になりたいから―――