― BEFORE DAWN ―
( 12 )
進藤に抱き締められた。まるで夢じゃないかと思った。
最初、進藤が抱き締めて慰めてやらなくては・・・と哀れむくらいに、僕は情けない顔をしていたのかと思った。
その後で。
そうではない、この腕の力の込め具合は、そこに進藤自身の僕に向かう何らかの気持ちがあるのかもしれないと、微かな想いが芽生えた。
―――もしかしたら、彼も僕のことを?
それは、酷く甘美な妄想だった。・・・そう、妄想でしかあり得ないだろう。
彼は少し前まで、幼馴染の女の子と付き合っていた。上手くいかなくて恋人関係は解消されたらしいが、進藤は普通にそういうことを繰り返して、やがてこの人ならと思う女性と出会い、大人の付き合いも覚えていくのだ。
いや、もしかしたら僕が想像している以上に、進藤は大人なのかもしれない。考えたくはないが・・・そういう経験があるのかもしれない。
苦しかった。
進藤に、若い男性なら誰もが経験する性的な衝動、それを具体的に向けていく相手やプライベートな時間があることを思うだけで、胸の奥が焼ける。
今、こうして僕を包み込んでくれる彼の腕が、空港からの帰り道、電車の中でそっと重ねたあの手を思い起こさせる。
あれは、僕のことを心配して空港まで来てくれた進藤に、それまでのわだかまりへのお詫びの気持ちも込めて、僕の方から彼の手を握ったのだ。
あくまでも友情の範囲内で、決して僕の本心を悟られないギリギリの行動だと感じていたからこそ出来たことだ。
人気のない車両の中で、重ね合った手から感じたものも、矢張り進藤の僕に対する友情だった。
きっと、彼は相手が和谷君でも誰でも、親しい友人の乗った飛行機が落ちたかもしれないなどという非常時には、どこにいても駆けつけて心配するだろう。そんな、友情に篤い男なのだ。
僕に対しては、他の誰よりも強い友情を感じてくれているにしても、それは本当に少しばかり・・・の差でしかない。
彼のその強い友情が、今こうして、女性関係に疎くて頼りなさそうに見える僕のことを心配させ、抱擁で慰めたいとの行動に繋がったのではないだろうか。
そうだ。きっとそうだ・・・。
そんな風に考えると、納得が出来るような気がした。
異性には不器用なくらい余裕のない僕のことを、先輩面するなと僕本人から言われた進藤は、ただ優しく包み込んでくれているだけなんだ。
言葉で慰める代わりでしかないんだ・・・
そうは思っても、だ。
進藤の行動に納得出来る・・・というのと、彼の抱擁を僕がどう感じるか・・・いうのは―――哀しいことに一致しない。
進藤が僕に感じているのは、強い友情でも。
僕が進藤に感じてるのは、そうではない。
彼が好きだ。彼を独占したい。彼の関心も、時間も、全部だ。それが、僕の浅ましい本音だ。
だからこそ、悦びと絶望が、同時に襲って来る。
思わず、僕の口から零れ出た彼を呼ぶ声は、制御出来ない心の惧れをそのまま音に変換したかの様に、酷く震えていた・・・。
―――抱擁を解かれた時。
彼の高い体温が去って、休息に僕の体も冷えた。それは、身震いがするほどの温度差に感じられた。
こんな風にこれから先、彼の体温を感じることがあるのだろうか?
そしてその度に、好きな人に触れられる悦びと、その温もりの源が友情でしかないことを確認させられる絶望と。
二つの相反する炎と氷を抱かされるのかと思うと、僕は泣き出しそうな顔をしていたのかもしれない。
離れたところで僕を見る進藤は―――
自分で自分が何をしたのか、僕の心に何を引き起こしたのか、ちっともわからないといった様子で、ポカンとしていた。
本当に、彼は何もわかっていないんだなと、その表情が僕を絶望へと突き落とす。
エレベーターが完全に開く前から、先に出ようとドアの前で身構えていたのに、進藤の方が僕よりも先に飛び出して行った。
押し退けられた拍子に、小さくだが声が漏れた。
しかしいつもの彼らしくなく、僕を振り返りすらせずに・・・進藤は僕の前から去って行ったのだ。
次に会った時は、ごく普通に話した。いや、話せたと思う。
たまたま地方が続いた僕と、入れ替わりの様にして地方へ行ってしまった彼と。顔を合わせる機会が伸び伸びになってしまった。
僕らには、それで良かったんだろう。
もし、あのエレベーターでの出来事からすぐに顔を合わせていたら、僕らはぎこちなさを感じたかもしれない。
しかし、久しぶりに会った進藤は何事もなかったかのように振舞っていたし、僕もそうした。二人きりではなくて、大勢の中だったことも助けになった。
だって。
そうするしかない。相手が仕掛けて来る深い意味などない行為を、いちいち問いただす必要はない。
そんなことをして波風を立てるよりも、手の中に今あるものを守り抜くことが、僕には何よりも大事だったのだから・・・。
やがて、年末年始の慌しさに紛れ、僕らは会う機会を持てないままでいた。
帰国していた両親と一緒に過ごしたり、父が連れ帰った内弟子にするという台湾の九歳の少年の世話をしたりで、僕はそれなりに忙しかった。
二度だけ、進藤からメールが来た。僕の誕生日と、元旦と。おめでとうの言葉と、簡単な近況報告だけのメール。
僕も、それに対して返事を送っただけだった。
何度も何度も。
暇だったら打たないか?というプライベートな誘いを打ち込んでは消し、消しては打ち込むということを繰り返し、結局は溜息と共にその文字を消し去ってから送信した。
近くにいない時は、それなりに忘れていられるのに。
ただ進藤の気配を小さな携帯の画面の中に感じるだけで、僕は真っ直ぐに彼へと向かおうとする己の想いの強さを思い知らされるばかりだった。
いっそこのままずっと会えない状況が続き、そうする内に、あの抱擁の生々しさだとか、やっぱり真意を知りたい衝動だとかを、全部綺麗さっぱり忘れてしまえたら・・・。
悶々とする僕のことなど知りもしない進藤だが、その彼が僕の返信の中で興味を示したのは、父の内弟子になったばかりの少年のことだった。
林 躍珍(りん ゆえじぇん)君は、彼の父親が僕の父、塔矢行洋の心酔者だということで、どうしてもと直談判されて弟子入りした台湾出身の子だ。本来はもう内弟子など取らないと断り続けていた父が承諾した理由は、彼の棋力だった。
ゆえ君の(僕の母が勝手に彼に愛称をつけた)実力には僕も驚愕させられた。僕が九歳の時と比べて・・・などという甘い話ではない。彼の力は日本のプロ棋士、それも高段者並だと思われた。
僕からそのことを知らされた進藤は、是非ゆえ君と打ちたいと言って来た。
父をどことなく苦手に感じているらしく、両親が日本にいる時は僕と疎遠になりがちな彼がそこまで言ったことに、僕は少しばかり驚いてもいた。
父が接待で出掛けた夜、僕はゆえ君を連れ、進藤が誘ってくれた和谷君の部屋での勉強会に出向いた。
ゆえ君は、碁を習うと同時に日本語も習って育って来た。簡単な会話なら不自由はない。むしろ、ボキャブラリーの貧困な若者よりも、よっぽど言葉を知っていた。
皆が次々とゆえ君と打っては彼の力に驚嘆し、ひとしきり騒ぎがおさまると、さて宴会ということになった。
僕はゆえ君もすっかり周りに馴染んだらしいことを確信すると・・・元々、ひとなつこい少年だ・・・買出し係りを申し出た。父から、ゆえ君を連れて行くなら皆で美味しいものでも食べなさいと、小遣いを渡されていた。
玄関を出ようとした時、近所を案内するよと言ってくれた和谷君を制した者がいた。
・・・進藤だった。
「ふい〜、さむっ!あっという間に年越しちゃったなぁ。」
「そうだな。いつもこの時期は慌しい。」
「あの子、スゲーな。お前が絶賛する通りだ。プロになったらすぐに北斗杯に出て来そう。」
「うん、しみじみ世界は広いと思ったよ。僕らも負けていられないな。」
「今日はありがと。ゆえ・・・だっけ?あの子を連れて来てくれて。他のメンバーにもめちゃくちゃイイ刺激になったと思う。でも、すぐに塔矢先生にくっついて中国に行っちゃうの?」
「うん、明後日には日本を経つことになっているから。」
少し遠いが、コンビニではなく大手のスーパーがあるということで、僕らはそこに向かって歩いていた。まだ、人通りもある時間帯だ。
「塔矢先生、また行っちゃうんだ。一回倒れたなんて嘘みたいだな。どっから力が湧いて来るんだろ?」
「きっと、ずっと求めているんだよ。・・・いや、探してると言った方がいいかな。」
「探してる・・・そうか、きっとそうだな。俺にも何だかわかるよ。」
「君にはわかるだろう、父の気持ちが・・・。ゆえ君を内弟子にしようと思ったのも、今いる世界中のどの棋士より彼を強く育てたいという気持ちがあるんだと思う。強い棋士は、もっと強い棋士を生む。」
「そうだな。そしてさ、強い棋士は、もっともっと強い棋士を惹き付ける・・・。」
「うん・・・。」
「俺が去年の今頃は、あんまり碁に熱心じゃなかったの、覚えてるだろ?理由はわかんないけど、何となく煮詰まって・・・遊んだりサボったりしてた。二回目の北斗杯でさ、絶対に勝ちたいって頑張ったのに思った通りの碁が打てなくて・・・まあ、それがキッカケだったかもしんない。」
急に真面目なことを語り出した進藤に、少しばかり驚いた。彼の横顔をそっと見る・・・。
息が真っ白になる冬の夜。彼の鼻の頭はほんのりと赤くて、幼く見えた。
「それがさ、一年とちょっと前、鈴木先生のお通夜でお前と偶然会って話してから・・・俺、何かが吹っ切れたっつーか、前に進もうと思えたっつーか・・・。」
「そうだったな。あれは月が綺麗な夜だった。君と、碁以外のことをじっくり話したのは初めてだったかもしれないね。」
「だったよなぁ?あれから俺、昔を取り戻す感じでもっかい頑張ろうって思えた。一度そう思えたら、ありのまんまの気持ちを回りの連中にも話せるようになって・・・実は話してみたらさ、和谷にも気付かれてたんだ、俺がちょびっと荒れてたこと。」
「そうか・・・彼はいい友人だな。でも長い棋士人生、そういう時期もあるんじゃないか。特に僕らは若い内にプロの世界に入ってしまったから、精神的にはまだまだ未熟で当然だろう。」
「うん、それはそうかもしれないけど。でも、俺には受け継ぐべきものがあって、絶対に忘れちゃいけない人の気持ちってもんがあったのに・・・回り道は、いつまでもしてちゃいけねえのに・・・。」
流れるように会話が進んでいた。不思議なくらい自然に言葉が出て来る。
それは、僕らの間に碁がちゃんと存在していることを改めて意識出来た夜だったからかもしれない。
―――僕は、よこしまな恋情の混じることのない澄んだ心で、進藤の言葉を受け止めようと決めた。
「忘れちゃいけないのは、あのお通夜の夜に君が話してくれた大切な友達のことか?」
「塔矢・・・覚えてたの?俺の話・・・。」
「何故びっくりしてる?君こそ、僕が忘れたとでも思ってたのか。」
「いや、そうじゃねーけど・・・でも、覚えてくれていると期待してた訳でもねえ・・・。」
「君が僕に大切なことを話してくれたんだから、忘れないよ。碁に関係ある人かなって思ったし。」
「うん、そう。」
進藤が空を振り仰いで、遠くを見た。透き通る様な表情の横顔だった。
「俺が碁を始めたのはもっと後だったけど、今日ゆえ君を見ててさ、俺もこのくらい小さい頃から打ってたらどんなんだったろうとか・・・何だか久しぶりに懐かしい気持ちになった。それにあの子の打ちっぷりは、スゲー刺激になった。」
「そうだろう。僕も同じ気持ちがしたよ。あの子は、今までの碁打ちの遺産を受け継ぎながら新しい感性も持っていると、僕の父も絶賛していた。あの子はまさに、今と未来を繋いでいく碁打ちになるだろうな。」
「負けてられない。負けるもんか。そうだろ?塔矢、お前も。」
「うん、当然だろう。僕らは一生打っていく。ただ漫然と打っていくんじゃない。僕らが打ちたいのは、未来に繋がる碁だ。」
君と僕とが目指すのは、そういう至高の世界だ―――
話しているうちに、不思議な高揚感が僕らを包んでいく・・・。
今、僕らの目の前に碁盤はない。ただ、真冬の街中の喧騒があるだけだ。
でも、進藤がいる。僕の前には、進藤ヒカルがいつもいてくれる。
それは僕と打つ為に。共に、神の一手を極める為に。
―――今なら言える、と思った。
今、言ってしまって、そして道を決めてしまおう。それ以外の選択肢を一切捨ててしまえば、もう悩むことはないだろう。
僕が口を開きかけたその時、進藤が先に言った。
「塔矢。これからもずっと、俺たちはライバルで友達だ。一生、変わらないでいようぜ。お前、俺に置いてかれんなよっ!」
「あ、ああ・・・。」
明るく言われて、反射的に頷いた。
頷く以外に何も返せなどしない、余りにも屈託のない笑顔であり口調だった。
―――先に言われてしまった。これからも変わらない僕らでいようと、そういうことを彼に伝えたかったのに。
先手を打たれてしまうと、僕の心が彼に見透かされてかわされてしまったのではと、妙な猜疑心が生まれる。
進藤は僕の態度にこれまでとは違うものを感じて、僕をけん制したのだろうか。或いは、若くて驚異的な打ち手の出現に、互いを励ます意味で言っただけなのだろうか。
自分から言い出すのと相手に言われてしまうのとでは、同じことでもこんなにも受け止め方が違う。
おそらく、進藤に対してはどんな些細なことでも優位にいたいというプライドが、彼を好きだと意識した今でも、僕の胸の奥にはくすぶっているのだろう。
そういう、器の小さな人間なのだろう、僕は・・・。
進藤は、それからも僕の隣にいた。
僕は彼の顔を見ているようで見ていなかった。話も機械的にしていたと思う。
僕らは一緒に買い物をこなしたが、僕の心はフワフワと頼りなく、まるで現実感の感じられない空間を漂っているかの様だった。
進藤は、そんな僕に何の不信感も抱いていないのだろう。話し掛けては来ても、僕の方をきちんと見ていなかった気がする。
僕は、進藤ヒカルに取り残されたような虚無感に、一人で勝手に囚われていたのだった―――
逃げても。時を置いても。ただそれだけでは何も解決しない種類の感情だと、改めて知った。
進藤の横に、純粋な碁打ちとしての僕で並んでいる為には、このままではいけないのだ。
彼の言動に一喜一憂し、己をコントロールするのに消耗してしまう僕のままでは、絶対に駄目なのだ―――
その想いは、日本を去る躍珍君と最後に打った時に一層強くなった。
それまで何局か打った時も冷や汗の出る思いを味わったのだが、最後に僕は完敗した。置き碁だったから僕にハンデはあったものの、内容的にも彼が僕をしのいだことは一目瞭然だった。
ショックでもあり、同時に、現実を見せてもらえたのだと感謝もした。
そして僕が感動したことに、終局した時にゆえ君は嬉しそうにしなかった。それどころか、今のは置き碁だから今度は互い戦で勝つと、たどたどしい日本語ながらもキッパリと宣言した。外国人だから、日本語の表現がどうしてもストレートなのだ。
僕はそんな彼を見て、思った。
壁を乗り越えた人間にとって、たった今乗り越えて来た壁はもう障害ではあり得ない。乗り越えたことを喜ぶよりも、真っ先に次の壁を見据え、それに挑む自分をイメージしている。
本来、高みを目指す人間はこうあるべきなのだ。幼くとも、彼には一流を極める人間の在り方が備わっている。
僕は自分に足りないものを教えられた気がして、焦りを覚えずにはおれなかった。
少し前から考えていたことだが、僕は、日本を離れて勉強しようという計画を実行に移すことにした。好きだと意識したからこそ進藤と離れたいというジレンマだけでなく、碁打ちとして更なる成長を遂げたいとの気持ちも大きかった。
棋院で、若手を交換留学生のような制度で中国や韓国に送ろうという計画が進められていることを内々に聞いていた。早速僕は、事務局の人に訊ねてみた。
しかし―――事務局の人から返って来た答えは、僕を打ちのめした。
「ああ、あの交換留学みたいな制度ね。あれ、もう少し煮詰めたら発表しようと思ってたんだけど、実は進藤君に行ってもらおうと思って。彼からも是非にと申し出があってね、今、日程の調整をしているところだよ。」
一時、声も出せずに固まっていた。ゆっくりと、内容を理解しようとする。
僕は必死で平静を取り戻し、その人に訊ねた。
「進藤が?自分から・・・。」
「そう、凄く熱心に立候補してくれてね〜、感心したよ。まあ、塔矢君みたいにリーグ戦に絡むような若手だとさ、こちらも簡単には調整きかないんだけど、進藤君だったらすぐにでも送り出せそうだ。」
「すぐにって・・・いつ、ですか?」
「んー、そうだな。ビザの関係が上手く運べば、来月末にでも・・・。」
そんなに早く?そんなに・・・。
「あれ〜、塔矢君は聞いてなかった?まあ、こちらも内密にとお願いしてたし。彼が強くなって帰って来たら、塔矢君の本当の意味でのライバルになってくれるだろうって、僕らも期待してるんだよ。」
事務局の人に挨拶をして、その場を立ち去る。
どこをどう歩いて帰ったのか・・・気付いたら、家に戻って自室で碁盤の前に坐っていた。
気持ちを落ち着けようと思う時、僕はいつも碁盤の前に坐る。そして、棋譜を並べる。
その日対戦され、ネットや新聞に載った棋譜を並べたりパソコンに打ち込んだりする作業だけで、一日四〜五時間は費やしていた。
しかし、今日は無駄だった。集中しようと思っても、進藤のことばかりが浮かんでくる。
石を持ったまま宙をさまよった指先から、段々力が抜けて。
・・・僕は静かに、その石を碁笥に戻して目を閉じた。
どうせ払っても払っても浮かんで来るものなら、思いっきり彼のことを考えようと諦めた。
彼の顔。
彼の言葉。
彼と打った碁。
彼と僕とが辿った、この六年間の日々。
それから・・・彼と初めて深いことを語り合った、鈴木先生のお通夜の晩から今までの、この一年余りの密度の濃い時間。
その全てが一体となって押し寄せ、思い出の大波はどこまでも僕を翻弄してくれた。
進藤・・・君は、僕を置いて行くんだな。そう決めたからこそ、この前僕にあんなことを言ったんだな。
僕が、君に対して抱いてはならない感情を持て余し、足踏みをしていた間に、君はもっと遠くを見詰め、そして歩き出していた。
この前、取り残されたような寂しさを感じたのは、既に僕よりも先を行く君を何とはなしに感じ取ったからかもしれない。
でも、今僕が感じているのは寂しさだけでなく、どちらかというと怒りに近かった。何も言わずに、僕を置いて新しい場所へと飛び立とうとする、進藤ヒカルに。
そして、それを引き止めるほどの碁の力も、純粋な友情も持ち合わせていない―――僕自身に。
唇を噛み締め、碁盤を睨み付け、僕は大声で喚き出したいような感情を抑えていた。
そこに、図ったようなタイミングで携帯が鳴った。着信は、今僕が最も話をしたくて、でもしたくない・・・そんな相手。
―――進藤ヒカルからだった。