― BEFORE DAWN ―
( 11 )
ハルトさんとカイさんのライブは、原宿にある小さなライブハウスであった。
塔矢も一緒にって誘われてたけど、アイツはその日は泊まりで囲碁ゼミだから、どうせ来られない。ハルトさんたちにはそう言って、俺は特に声も掛けなかった。
この頃では塔矢との間がぎこちなくて、見掛けても反射的に身を隠すのがクセになっちまっていた。
・・・ぎこちなくさせているのは、俺か。ははは・・・。
うん、俺だって、俺の方の気持ちの変化のせいだって自覚はあるけど、どうしようもなかった。
中国から無事に帰って来た塔矢と、帰りの電車でポツリポツリと話した。
塔矢の疑問に答える俺の本音と、それから絶対にアイツに知られては困る気持ちとを関連付けられないようにと、用心深く話すのは骨が折れた。
塔矢が俺の手に触れた時には、驚いた。
その場の流れとしては不自然じゃなかったし、アイツが俺の心配を理解して、それに対して感謝していることは伝わった。そういう方面の匂いを感じさせない、ただ、優しくて穏やかで、友情だけを伝えてくる触り方だったし、そういう温度だったと思う。
でも、塔矢と別れて一人になると、途端に自分が変わった。百八十度変わったんだ。
―――あの手を。
塔矢の乾いて薄い手の平。俺よりも長くて、節の目立たないスラリとした指。
それを自分の指で絡め、逃げられない様に握り締め、人気のない車両の座席に押し付けてそれから・・・。
それから先を考えてはいけないから、またこっそりと親に隠し持っていた酒を煽ってそのまんま寝た。だから余計に、夢は酷いもんになったんだろう。
夢の中で、現実では断ち切った筈の妄想の続きを存分に見てしまった。逃げる塔矢の顔を追って、いつかあかりにしたみたいに唇を合わせ、アイツの悲鳴を閉じ込めて、それだけでは足りなくて舌を使って舐め回して・・・。
もっと酷いことを―――合意がなければ絶対にしちゃいけないことを―――塔矢にする自分に愕然となった。
目が覚めた時、自分の体に起こっていた変化に追い討ちを掛けられ、更に絶望した。
ハルトさんとカイさんは、邦楽の演奏家だ。今日のライブは、外国から来たジャズピアニストと共演するというものだった。
演奏はマジで素晴らしかった!
ジャズピアノってスッゲーパワフルで格好良かったし、それがハルトさんのお琴やカイさんの笛に絡んで来ると、今まで聴いたことのない世界に連れて行かれたみたいだった。俺はポカンと口を半開きにして聴き入ったり、夢中で拍手したりしていた。
こんなにいいんだったら塔矢も誘ってやれば良かったな・・・って思ったら、屈託無くそう出来ない自分が嫌になった。
ライブがはけても興奮がさめない俺は、ずうずうしくも楽屋を訪ねてみた。
すぐは忙しいかなと少し時間を置いてから覗くと、カイさんが気付いてくれた。ちょっと待ってて、と言われる。
打ち上げとかあるんだろうか、いや、きっとそうだよなぁ・・・と思ってすぐに失礼しようかと楽屋の隅っこにいたら、ハルトさんが何やら共演したピアノストと揉めているのが見えた。
遠目だけど、ハルトさんの顔色は悪くて猫背になっている。
そう言えば・・・演奏には感じなかったけど、ライブの時のMCはいつもより元気がなかったかも。ストリートと違ってライブハウスだから、緊張してんのかなとも思ったけど。
アメリカ人だというピアニストは、文句を言っている様にも見える。あんなにスゲー演奏だったのに、気に入らないことでもあったのかな?
不思議に思っていたら、ハルトさんの体がユラリと崩れて、それをカイさんが抱きとめた。
うわ・・・大丈夫かなぁ・・・気を失ってはいないみたいだけど、貧血か何かだろうか?ハラハラしつつも、部外者は入っていけない雰囲気に遠慮していたら。
ハルトさんの体を支えたまま、カイさんがピアニストに向かって英語で話し掛けた。カイさんが謝っているらしいのはわかる。英語はマジで大嫌いだったけど、そのくらいは想像出来る。
その男性ピアニストは、両手をこちらに向けて開くとわかったよというみたいなアクションをしてから、カイさんとハルトさんの肩を叩いて頷いた。
もう怒ってはいないのかな?う〜ん、英語がわかればいいのになぁ・・・。
それを受けて、カイさんが抱いているハルトさんに向き直った。
「ハル。お前、自己管理がなってないぞ。しっかりしろ。」
声が鋭かった。それを聞いて、さすがの俺もちょっとビビる。周りにいる人たちの動きも止まった。
カイさんっていつも物静かだからわからなかったけど、声が低くて、その気になればいくらでもすごめる人なんだ。
・・・ハルトさんはご免と小さく呟いて、うな垂れていた。
結局、俺が申し出て、具合の悪いハルトさんをタクシーで家まで送ることになった。
カイさんと出演者、スタッフ(外人も何人かいた)は全員で打ち上げがあるし、どうしてもカイさんはそれをキャンセル出来ない。ハルトさんがこういう状態だから、余計に二人揃って欠席なんて出来ないんだろう。
関係者でも何でもない俺は、喜んでその役を引き受けた。
ハルトさんのマンションは、新宿から少し離れた私鉄の駅の傍にあった。高級そうなマンションで驚いていたら、ここは音楽する人専用で完璧な防音がしてあるんだ、それなりにお金がかかると説明された。
部屋はさすが音楽家という感じで、パソコンやキーボード、お琴に笛に打楽器までところ狭しと置かれていた。譜面があちこちに散らばってる。
着替えて水と薬を飲んでからベッドに横になったハルトさんが、まだもう少しいてくれと言うので、そのまま泊めて貰うことにした。
今日の演奏にスッゲー感動したと言うと、ハルトさんは恥ずかしそうに言った。
・・・実はミスだらけだったんだ・・・トムとカイがフォローしてくれてたから、観客には余り気付かれなかったかもしれないけど・・・先走り過ぎだった。音楽的にというよりも、セッションとしては最低だったかもね・・・それに体調が悪かったことが重なって、全然打ち合わせ通りにいかなかった・・・トムが文句言うのも無理ないんだ・・・。
眼鏡を外しながら呟くハルトさんは心底悔やんでいる様に見えて、ちょっぴり気の毒だったなぁ・・・。
暫く、とりとめもなく話した後。
俺もベッドの傍、ラグマットの上に敷いた布団の上で、話が途切れた隙にうつらうつらしていた。
電気もベッドサイドのもの以外落としてあるし、ハルトさんからも寝息が聞えて来た。ああ、俺ももう寝ちまうな・・・と思ってたら。
誰かが鍵を開けて部屋に入って、それから真っ直ぐにこちらに向かってくる気配を感じた。
え?・・・ど、泥棒?・・・と一瞬身を固くしたけど、鍵を廻す音がしたということは合鍵で・・・そうか、もしかしたらカイさんが様子を見に来たのかなと、眠い頭でぼんやりと考えた。
薄目を開けて伺うと、本当にカイさんだった。
俺の存在なんか気にもしない様子で、ハルトさんの眠るベッドの脇に膝まづくと、間近でその顔を見下ろしていた。
ライトを少しだけ動かして、角度を変える。ハルトさんの顔がもっとよく見えるようにしたんだ。
俺は、いけないと思いつつも止められなくて、その様子を見ていた。
ハルトさんを眺めながらカイさんは、その髪を撫でたり、頬を片手で包むようにしたりしている。
その手付きはとても優しい。心配していたんだなぁ、ハルトさんのこと。
カイさんの横顔がもっと見えるようにと、俺が身じろぎした瞬間。
ゴメン・・・という小さな声が聞えて、それから目を閉じたカイさんが、ハルトさんの髪にそっと唇を寄せた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。寝ぼけて見ている夢だったと思ってもいいくらいの。
・・・ああ、そうか。そうなんだと、改めて理解した。
人前では、あくまでも一緒に音楽を仕事にしている相棒で、どんなに厳しい態度をとっても―――こうして二人きりになったら、全然立場が違うんだ。
ハルトさんをとても大事に思ってる。一番近くにいながら守ってやれなかったことで、自分を責めてる。
さっき、人前で自己管理がなっていないなんて怒った人は、今は完全に恋人の顔をしてハルトさんの寝顔に詫びていた。
うん・・・二人は、恋人同士なんだな・・・もう、俺にだって、子供の俺にだってそれは痛いくらいにわかったんだ・・・。
ふうーっ・・・と。我慢していた息が漏れ出て、こちらを見たカイさんと目が合ってしまったのは、その直後。
わわっ・・・マジイ・・・盗み見てたことを見られた!
そこで目を瞑ればいいのに、馬鹿正直に会釈なんかしちゃった俺に、カイさんは苦笑いをした。き、気まずい・・・。
ところが、一泊置いて目で合図された―――外に出ようと。
俺達はぐっすり寝込んでいるハルトさんを残して、静かに部屋を出た。
空には、ぽっかりと浮かんだ月。秋の月はよそよそしくて、寒気すら感じさせる。ジャケットをもう一段温かいものにしたいくらい、空気も冷えていた。
誰もいない近所の公園で、俺達は缶コーヒーを飲みながら話した。
「ハルトさん、大丈夫だよね?一人にしても。」
「うん、アイツよくあるんだよ。こういうの。だから余計に気を付けろって言ってるのに。」
「でも、演奏のことでいっぱいで、仕方なかったんじゃないの?」
「体調管理が悪くて演奏に響いたら本末転倒だろう?最後の最後までアレンジに夢中でろくに寝てなかったんだろう。俺が泊り込んで何度か無理矢理布団に押し込んだんだが、仕事で出ている間は管理してやれなかった。」
「うん・・・カイさんって、ハルトさんを怒っているようで、自分のことも責めてんだね?」
そこでつい笑ったら、カイさんが面食らった顔で俺を見たので、逆に俺の方がびっくりした。
「ヒカル君?そんな風に俺は見えるか?」
「ああっと・・・言っちゃっても、いいかな?俺、さっきカイさんがしたこと、見えちゃった。」
俺の言葉に頭を抱えたカイさんは、年上とは思えないほど可愛らしかった。
「二人は・・・恋人同志なんだね?」
もっともっと、カイさんは頭を抱え込んで地面に着きそうなくらい沈んでしまって、俺はやっぱり笑ってしまった。
カイさんは二人のことを、口下手なりに少しずつ語ってくれた。
「ハルが帰国子女だって知ってるだろ?高校の時に帰国して同じ男子校だったんだ。小さい頃から邦楽の会で何度も会ったことがあるから、すぐに親しくはなったけど・・・元々性格も正反対だし、喧嘩も多かった。ただ、音楽のことでわかり合えるのはアイツだけだったし、何よりも『帰国』ということでどうしても浮いてしまうアイツを、ほっておけなかった・・・。」
いつの間にか。気が付いたら、お互いを一番大事に思うようになっていた・・・。
紆余曲折もそれなりにあったよ、男女だってそういうものなんだろうから、男同士となればもっと色々とね・・・。
そして、それだけじゃなかったと聞かされ時、俺は驚いた。
「ヒカル君、僕らはね、それぞれの音楽の師匠に破門されたんだ。」
「え?・・・破門って・・・。」
二人の師匠という人が、全然タイプが違って反目しているという話は聞いたことがあった。カイさんの師匠は正統的古典派で、ハルトさんの方は前衛的な芸術家だと。
「こういう世界は今でも上下関係が厳しいんだ。特に俺は上京して師匠のところに内弟子として住み込んでいたから、周りからも後継者として扱われていた。女性が圧倒的に多い世界で、男の子でプロを目指していることだけでも貴重がられたし・・・。だからね、学校でハルと親しくしていることすら隠していたんだけど・・・。」
ある時、とうとう二人は岐路に立たされた。それぞれの流派をとるか、二人で組んで新しい音楽を追求していくか。
随分悩んだ末に、それでも道はおのずから決まっていたと思うと、カイさんは微笑んだ。
僕らがストリートで演奏するのもなかなか表舞台に出られないからだし、今夜初めて本格ライブをするということで妙に力が入ってしまったのも、やっと認められ始めたという喜びがハルにあったからだ。
カイさんは、少し苦い顔をした。
多分、ハルトさんの方が芸術家肌でエネルギーを持て余してしまい、カイさんがその混乱を収拾して曲へと結び付けていく役目なんだろうかと、想像してしまった。
「・・・あのさ、もう師匠とは全然関係ないの?破門って・・・どういう感じだろ?」
つい訊いてみたくなった。碁界とは違うシステムだとは思ったけど、興味は引かれる。
「んー・・・出入りはもう出来ないね。演奏会にも出演出来ないし呼ばれないし。でもね、辛いのはそういう事実じゃない。子供の頃からずっとお世話になって来て、こんな演奏家になりたいと尊敬していた相手に、マイナスの感情を持たれているということかな。師匠を裏切ってしまったという負い目は、一生背負うことになるだろう・・・。」
ハルも俺もそれを覚悟で、それでも一緒にいたかったんだと言うカイさんは、淋しそうに目を細めた。
「それって・・・お互いを好きになっちゃったから?」
うん、ぶっちゃけて言えばそうだよ。師匠よりも恋人をとったんだと、俺のストレートな質問に明るく応えてくれた。
―――師匠よりも、恋人をとった・・・
その表現が、やけに胸に堪える。頭に、塔矢と塔矢先生のことが浮かんだ・・・。
「ハルの師匠は自分も新しい流派を立ち上げたくらいの人だから、それほど締め付けもなかったんだけどね。俺の方は結構叩かれて・・・大学も笛で入っちゃったし。でもシンドかったのは俺の方じゃなくて、ハルの方だった。こうなってみて初めてわかったんだ。アイツはいっつも自分のせいで俺の人生変えちまったと、後ろめたく思ってる。」
「ええっ!?そんな・・・そんなの変じゃん?だって、カイさんだって自分で選んだんだろうし、全然ハルトさんのせいなんかじゃないじゃん?」
「その通りさ。誰だって理屈ではわかってる。でも、こと当事者となるとね。やっぱりそれだけでは済まされない感情が湧いて来るというか・・・そのことで、随分喧嘩もしたよ。大体その話題を蒸し返して揉めるのは、ハルや俺の調子が悪い時なんだ。思う様に曲が出来ないとか、演奏にもノレないとか・・・。」
「うん。人間って一つ調子が狂うと、暗い方に引き摺られちゃうのかな?」
「そうだろうね。この頃では自主製作のCDも売れて、こうして初ライブも出来て、そういう喧嘩もなくなっていたけど。」
「でもさ、俺は素人だから全然参考になんないと思うけど、今夜の演奏だってめちゃくちゃ良かったよ〜。二人の息もすっごい合ってたし。」
ありがとうと照れ臭そうに言うと、カイさんがまた微妙にトーンを変えた。
「ヒカル君は、気持ち悪いとか・・・思わないのか?君が凄く自然に聞いてくれるから、俺もついつい口が軽くなった気がするんだけど・・・。」
その話題には、ちょっとまごついた。
確かに、二人が信頼し合ってる様子を間近で見ちゃったから、特に気持ち悪いとかは思わない。カイさんの言う通り、ナチュラルに会話してたなぁ・・・。
「うん、全然思わないよ、そんな馬鹿なこと。だって、二人は凄くいい雰囲気じゃん?最初に会った夜から思ってたし・・・今時さ、男同士とかゲイとかそんなん、珍しくも悪いことでもないじゃん?」
俺の言葉を受けて、カイさんはふっ・・・と、頬を緩めた。
嬉しそう・・・というのでもないみたい。もっと深い、複雑な色がその目に浮かんでいる気がした。
「多分、それはヒカル君がまだ色々具体的に想像していないからだろうな。実際に自分の家族や親しい人間に自分らのことを認めてもらえるのかとか、それから音楽家として活動していく上で社会的にどう見られるのかとか・・・。」
「うん・・・。」
「僕らは一生女性と結婚しない。わかるかい?僕らは・・・男同士で愛し合ってる。その意味が丸々全部、わかるかい?」
心臓がぎゅうっ・・・と縮んだ感じ。途端に息が、苦しくなる。
男同士で愛し合う―――それは、体も含めてという意味なんだろう。 ハルトさんとカイさんは、男女のカップルでもするようなことを、ちゃんとしているんだ。
「それは・・・体のこと?二人はエッチもするんだ?」
やっぱりここは、出来るだけ軽く言葉にした方がいいだろうと思った。
カイさんは俺をしっかりと見て、静かに頷いただけだ。
もうそれ以上は訊いてはいけないんだろうと思った。思ったけど、止められなかった。時々俺は、踏み込んではいけない場所に、それを承知で足を踏み入れるクセがある。
小さい時から好奇心が強いとか遠慮がないとか言われてきたそれは、俺の人生をいいものにしているのか、悪い方向に向かわせているのか、未だにわからない。
塔矢のことだって、あと数年、いや、せめてあと一年我慢していれば、アイツに彼女が出来るとか、俺の気持ちがおさまるとか、そういう破壊的ではない方向に流れていくかもしれない。
それなのに、抑えられない。塔矢を好きだと自覚して、塔矢の心も体も独り占めしたいと、具体的な場面を描くことをする。
自分が思っている以上に、俺は崖っぷちかもしれない。思い描いてるだけでなく、行動を起こす一歩手前なのかもしれない。
「答えたくなかったらいいんだけど・・・エッチはやっぱりどっちかが、女の人の役目をすることになるの?」
「ヒカル君は、知りたいのかな?どうして?」
「ご免・・・単なる好奇心とかだったら、かえってノーコメントってカイさんも言い易いかもしんないけど。そうじゃないんだ。俺にはとっても大事なことかもしんない・・・。」
「君・・・。」
その言葉は、スルリと俺の口から出て来た。
「―――うん、俺の好きなヤツも男なんだ。だから・・・。」
まさかそんな日が来るとはこれっぽっちも思ってなかったけど、人に言ったらどうなるだろうと考えなくはなかった。
軽くなるのか、気まずくなるのか―――それは相手次第だろうけど、カイさん相手だとそういう告白による気持ちの大きな変化は感じなかった。
カイさんが、その黒目がちな切れ長の目を細めて俺を見たのを感じた。びっくりして俺の顔を見た、というよりも、俺の気持ちを汲み取ろうとしてくれてるのがわかった。
「確かに形だけを考えると、どちらかが男役でどちらかが女役かもしれない。でも、気持ちの上ではそう単純な感じではないよ?どちらかがリードするというよりも、両方が協力しないと出来ない面がある。男女の場合にはない気遣いとかも必要になるし。・・・ヒカル君はその人と、どうしたい?」
「え、ええっ・・・どうしたいって・・・どうしたいのかは多分もう決まってるんだけど。それは、そのぉ・・・エッチするならってことで、現実にそうなるかどうかは全然予想出来ない。と言うよりも、現実にはならないと思う。絶対にそういうことに踏み出すタイプじゃねーんだ・・・。」
「んー、じゃあ今のところは君の片想いか。でも、これだって男女の場合と一緒だけど、君はその人とどういう関係になりたいんだ?一緒にいれればいいとか、もっと進んでステディになりたいとか、それは体も含めてだとか・・・具体的には考えてるかい?」
「それは・・・。」
決して問い詰められている訳じゃないのに、俺は初めて言葉にして相談したことで、自分がどうしたいのかわかっていなかったことに気付いた。
塔矢をどうこうする夢を見つつ、でも気持ちを知られてはならないとそれだけは決めていて―――もっと深く、突き詰めて、塔矢とどんな関係を築いて行きたいのかなんて、考えていなかった。
そんな余裕なんて、全然なかった。
塔矢を好きだと気付いてからの俺は、それをどう隠すかだけに必至で。
後ろめたい妄想をすればするほど、必至で―――
「カイさん。俺、考えてなかった。うん、ソイツを好きなことは疑いようがないんだけど・・・でもこんな気持ち、受け入れてもらえないって最初っから思ってるから、両思いになればいいとか抱けたらいいとか・・・そんなこと、考えもしなかった。考えられないよ、マジで・・・。」
「じゃあ今、考えてご覧。俺も、ハルとこんな未来があるなんて思ってもみない時期があったよ。でも人生、わからないぜ?君はまだ若いし、先は本当に長い。」
「わからない・・・急に考えようと思ったって・・・俺ってアタマわりいし・・・。」
「はははっ!アタマ悪いって、囲碁はアタマをフルに使うゲームじゃないか?その囲碁でプロやってる君がそんなこと言うなんて・・・可笑しいなあっ!」
カイさんは体を震わせて本気で笑っていた。俺もむくれた顔をするしかない。
「だって、ホントなんだって。碁と人間関係って違うんだもん。俺ら小さい時からこの世界にいるけど、高校も行かなかったし同年代少ないし・・・あっ!女の子が少ないから男に走ったとかそういうんじゃねーよ。アイツ、対局の時は俺のこと親の仇みたいに睨んで来るし、特別俺に優しいとかそんなことじゃなくて・・・。」
・・・と。ここまで言ってしまってから、あちゃ〜と思う。
もう俺の相手が、同じ碁界の人間だってバラしたも同然だ。
「いいよいいよ、そんなに心配そうな顔するなよ、ヒカル君。俺は誰にも言わない。君が嫌なら、勿論ハルにだってこのことは内緒にしておくから。」
カイさんが、俺の背中を優しく叩いてくれた。
仕方ねえ。ここまでバレちゃったら、もう腹を括るしかないや・・・。
「なあ、そういうことで、俺もちょっとは興味が湧いて来たんだが。君らの世界も門下とかあるんだろうけど、勝負事とこういう音楽は違うんだろうなぁ・・・。」
「えーっと、そうだね。門下とか師匠とか言っても、勝ち続けていけば誰とだって対局する可能性があるんだ。それで必ず勝ち負けが決まる。音楽はそういうのってないよね?」
「そうだな。音楽の場合はコンクールとか特別な状況でなければ、勝ち負けではないよ。勿論自分自身と闘うという状況はどんな世界でも一緒だろうけど。僕らの場合は、自分達が追求していく音楽を人に聴いてもらうことに存在意義があるし。いつか・・・師匠の耳にも届いて、何かを感じてもらえる日が来るといいなって思ってるよ。」
カイさんは、月を見上げて深く息を吐き出す・・・。
その横顔は、自分の道を見つけて、愛する人を見つけて、真っ直ぐに歩いて行く人の力強さに満ちていた。
一晩で、色々なことを考えちまった。
グルグルしたけど、一つだけ確実にわかったことは、俺は今まで考えることから逃げてたって、そういうこと。
塔矢を好きな気持ちは引き返せない場所まで来ているのに、その気持ちの持って行き場を考えようとしてなかった。逃げるのは一見そうするしかない苦しみがある様でいて、でも実は楽な方に流れているのかもしれない。
自分のあんまり信用出来ない忍耐力と、時間の経過に何とかしてもらおうと思ってたのは、本当だ。
勿論、塔矢も俺のことを・・・という選択肢は有り得ないから、それだったら俺はどうすりゃいいんだろう?
多分・・・コップの水は溢れる寸前まできている―――
そんな想いが悶々と渦巻いている時に、水が溢れるどころかコップごと粉々に砕かれる出来事が起こった・・・。
それは偶然だった。棋院の一般対局室を通り掛った時に、塔矢と、塔矢に話し掛けている親子連れを見つけた。
今までの俺だったらスルーだ。でも、カイさんと話したばかりということもあって、一旦足を止めてそちらを見た。
・・・あれ・・・あの子供、どっかで見たことがある様な・・・。
記憶を辿っていた俺の存在に最初に気付いたのは、その子供だった。
「あっ!進藤ヒカルッ!」
「まあっ、この子ったら。!みません、言葉遣いがなっていませんで。」
「進藤、いいところへ来た。君、覚えてるか?以前イベントで僕と対局した渡辺タカシ君だよ。」
「ああーっ!思い出した!塔矢と対局するの渋って、ごねてたヤツだな?お前っ!」
塔矢が横で、君の方こそ言葉遣いがなってないよとブツブツ言ってたけど、俺は無視してタカシとやらとイベントの時の話で盛り上がっていた。
その間塔矢は、如何にもコイツの方が信頼出来そうと踏んだタカシのお母さんから、碁の勉強について相談されていたりして。
目出度く院生になったという渡辺君親子を交えて話すことが出来て、塔矢も俺もリラックスしていたんだろう。
「ねえねえっ!俺ね、碁が強くなったらモテるようになったんだぜっ!好きな子もさ、渡辺君ってステキーって言うんだよ〜、参っちゃって・・・。」
「おま・・・生意気なガキだな・・・。」
「進藤プロはどう?ねえ、やっぱ碁が強くなるとモテる?女の子、いっぱい寄って来るの?」
「俺?くー、お前そういうこと、訊くなよっ!」
「そっか〜、強いだけじゃあな。やっぱ顔も良くねーと。塔矢プロだったらスゲーモテそうだけど?」
「どこまでもクソ生意気だな・・・渡辺タカシ・・・。」
俺がタカシの頭を抱え込んでウリウリしていると、塔矢とお母さんが横で声を立てて笑っていた。
塔矢とそういう明るい雰囲気の中で、一緒にいられたことが嬉しくて。無性に嬉しくて・・・。
そこで止めておけば良かったのに、舞い上がって調子に乗っちまったんだろう。渡辺親子と別れて、上に行くという塔矢と一緒にエレベーターに乗ることになった。
俺が先に、じゃあ俺は上だから・・・と言ってしまった手前、塔矢が僕もだ、と返して来た時に、ああ、先に塔矢の行き先を聞けば一緒になることは避けられたのにと、後悔した。
仕方ない。もう遅い。
俺は観念して、エレベーターに乗り込んだ。するとこれも間の悪いことに・・・誰も乗っていない。
扉が閉まって二人きりになる。ん〜、マズイな・・・何か話さなきゃマズイ・・・。
「なあ、タカシってマジで生意気なガキだよな?俺らも小学生の頃ってあんなんだったっけ?碁が強くなるとモテるかなんてさぁ。そう言えば、塔矢先生は笑って誤魔化してましたけど、どうですか?モテますか?」
思いっきりふざけて、見えないマイクを突き出すみたいなポーズをする。
塔矢は苦笑いをしながら、言った。
「僕の周りは小さい時から碁打ちだらけだからね、碁が上手いとモテるかなんか比べようがないよ。そんなこと、考えたこともないし。」
「ええ〜、でもさ、お年頃でイケてる塔矢先生のことだから、それなりのアプローチはあるんじゃないんですか〜?」
そしたらそこで、俺のおふざけに付き合い切れなくなった塔矢に一刀両断されることになった。
「モテるとかそんなことは全然興味がない。僕は、僕の好きな人に、本当の僕を好きになってもらいたい。その人だけ、いればいい―――。」
塔矢の、俺よりも少し低めで、どうかするとハスキーがかって聞える声が、静かに、ドラマティックに告げた。
「・・・その人しか、見えない・・・欲しくない・・・。」
俺の方に体ごと向き直ったアイツに、正面から見据えられた。
その黒々とした瞳が、綺麗に揺らいでいる・・・。
塔矢の視線の先に自分がいることが―――自分だけがいることが、不意に切なくなった・・・。
そして俺は、とんでもないことをしでかした。
―――二人きりの狭いエレベーターの中で、塔矢を抱き締めたんだ。
時間が止まっていた。
もうすぐにでも、この箱は止まり、ドアが開き、箱は密室でなくなるのがわかっていながら。
一瞬で、強く激しく、俺の全身で、塔矢を包む様に、抱き締めた。
真っ白だった。
何も考えてなかった。考えられなかった。
ただぎゅうっ・・・と両腕で締め付けて、塔矢の体温と鼓動を自分に写し取るようにしていた。
信じられないことに、塔矢の腕がゆっくりと上げられていく。それが俺の背中に廻された。
抱き締め合うとこんな風に擦れ合う服と服の音がするんだと、生まれて初めて耳にするその音に酔った。塔矢の骨ばった細い体は、実際に抱くとこんな感じなんだと、その未知だった感触にも果てしなく酔う。
やがて。小さく掠れた声が俺の耳元に零された。
「しんど・・・。」
それは俺が塔矢と知り合ってから、初めて聞く声だった。
その一言で、その三文字で、塔矢の気持ちが堰を切ったように俺の中に押し寄せて来る。
「と、や?お前・・・。」
まさか。
まさかと思うけど。
塔矢も・・・俺のこと・・・。
だってそんな自惚れを抱いちゃいそうなくらいに、塔矢の声は溜息混じりで、甘かった・・・。
その時、エレベーターの上昇が止まったことを体が感じて、反射的に俺達は身を離した。同時にお互いの腕を解き、顔を逸らそうとした瞬間にはっきりと絡ませ合った―――熱い視線。
塔矢の瞳はさっきよりももっと潤んで、そして哀しそうに見えた。
うん・・・何度思い出しても、それはやっぱり、喜びや感激じゃなくて。
哀しい色だったと思う・・・そうは思いたくないけど・・・。
例え一瞬でも、あんなに熱い抱擁を交わしたのに、塔矢には哀しみしかないなんて―――知りたくはなかった・・・。
でも―――本当にそうだったんだ。