― BEFORE DAWN ―
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「ああっ、良かった!塔矢、お前来てたんだ・・・助かった・・・。」

 振り返ると、前髪の金メッシュがダークな色のスーツにそぐわず、周囲からそこだけ浮いた様子の進藤が、安堵した表情で近寄って来る。
 まさかここで彼と出くわすとは、思ってもいなかった。

「君こそどうして今夜ここにいるんだ?告別式は明日あるだろう?」
「明日から地方に仕事なの。鈴木先生は森下先生とも親しくて俺も可愛がってもらったからさ。弔電とかだけで済ませたくなくって、思い切って一人で来てはみたんだけど・・・。」

 最後の方は段々消え入りそうな小声になる。
 なるほど。こういう場に全く慣れていないので戸惑っていたところに、運良く僕が現れたという訳か。

「一応あの、記帳っての?・・・したんだけど、その先がちょっと自信なくてさ。」

 さっき僕をみつけた時の顔といい、今のしおらしげな様子といい、いつも進藤が僕に対する時の強気一辺倒な態度とはかけ離れているのが、優越感をくすぐる。

「前の人がする通りに真似すればいいんだ。」
「そりゃあわかってるんだけどさ!」

 彼の声が妙に辺りに響いて、慌ててその袖を引いて促した。
 確かにこんなところで彼を苛めたって仕方が無い。たった一人でも、お世話になった先輩のお通夜に参列しようとやって来た彼の心根に免じて、少しは優しくしてやるか・・・。

「じゃあ、僕の後についてくればいい。君に見え易いようにするから。」

 後の方は小声になりながら、彼に言う。
 神妙に頷いた彼を従えて、僕は焼香の順番を待つ人々の列に向かった。






 焼香を済ませ、参列していた他の先輩棋士の方々への挨拶を終え、亡くなった鈴木先生のお宅の門を出たところで進藤が待っていた。

「さっきはどうもな!」
「お役に立てて良かったよ。」

 黒と白の鯨幕の前に立つ彼は、矢張りその前髪の明るさだけが浮き上がって見えて、再び僕の心に意地悪な気持が湧いて来る。

「ところで君はいつまでそんな前髪でいるんだ。スーツに似合わないし、こういう場には相応しくないとは思わないか。」
「っるせーっ!お前にだけは髪型のことでとやかく言われたくねーや。お前こそいつまでその頭でいる気だよ!?」
「き、君の知った事じゃない!・・・失礼するよ。」

 さっさと進藤の脇を抜けて歩き出した僕の後を、彼が追って来た。

「ちょっと待てよ!なあ、お前もJRだろ?俺もだからさ、駅まで一緒しようかと思って待ってたんだよ!」

 たった今憎まれ口をたたいた事など、まるで無かったかのように肩を並べて歩き出す進藤に、なんとはなしに違和感を覚えた。
 本来、僕らは碁会所でプライベートで打つことはたまにはあっても、それ以外で遊びに出かけたりすることも無かったし、棋院で会ってもお互いの仕事が終わるのを待って一緒に帰ったりする事も無かった。あくまでも、彼は僕にとって棋士仲間の一人であり、ライバルであった。おそらく、友達という範疇でさえないだろう。

「君、バイクで来たんじゃないのか?」

 突き放す様に言う僕に、彼は同じ歩調のまま答えた。

「え?だってお通夜だろ?それは不謹慎かなあとさすがの俺も思ってさ。」
「別に、門前に乗りつけるのでなくて、離れた処に停めておけば問題無いんじゃないのかな。」
「ふーん、そっか。でもおかげでお前と駅まで一緒に歩けるしさ。なーんかこのまままっすぐ帰るってのも寂しいっていうか・・・。」

 鈴木先生のお通夜の後なのにさ・・・と呟く様に付け足した彼は、矢張りいつもと違う印象を僕に与えた。

「ほら、精進落としっていうの?葬式の後とかに大人が酒飲んでぱあーっと騒いだりしねえ?酒って訳にはいかないけどさ。どこかでお茶でもして行かないか?」
「御焼香は知らなくても、精進落としは知っているんだ。君らしいな。でもそれはお葬式の後の話しじゃなかたっけ?・・・それより君、明日仕事で早いんじゃないのか?」
「大丈夫、茶ーするくらいの時間はあるって。それともお前この後なんかあるの?」

 僕のさりげない嫌味は無視して尚も誘いかけて来る彼に対して、何故だか今夜は僕も素直に向き合ってみたくなったのは、一人の棋士の、その人生の終わりのセレモニーに立ち会った夜だったからだろうか・・・。

 それとも、いつもと違う進藤ヒカルをもうちょっと見てみたいかも・・・という単純な好奇心に抗えなかったからだろうか・・・。






 とはいえ、ちっとも板についていないスーツ姿の若者二人で、コーヒーショップやファーストフード店に入るのも気恥ずかしく、結局進藤が缶コーヒーを、僕が日本茶の缶を買って、駅少し手前の公園へと足を踏み入れた。
 そこには塾帰りの中学生らしき集団がたむろしていたが、僕らには目もくれずそれぞれに話し込んでいた。
 月は雲に隠れていたが、街頭も明るすぎず暗すぎず程よくて、不思議な居心地の良さを感じる。僕は、自然に進藤と並んでベンチに腰掛けた。

「なあ、お前こそ明日じゃなくて今夜来てたのは何で?」

 当たり障りの無い質問から切り出した様だ。

「明日も参列するよ。緒方さんや芦原さん達と一緒に。ただ、両親が今中国だから、その代理というか塔矢門下の代表というか・・・。」

 この所、僕にはこういう父の代行的役割が増え、いくら小さい時からこの世界に馴染んでいるとはいえ、大人達の中に混じって父の名前を汚さないように振る舞わなくてはと、気の張る日々が続いていた。進藤、今夜君に会えて内心安堵していたのは、実は僕の方だったかもしれないよ。・・・言わないけどね。
 お前もなかなか大変じゃん!とか言われて、急に緊張の糸が緩んでいく気がした。

「君もこうしてお通夜に参列するなんて偉いじゃないか。」
「んー・・・ひと一人の死ってさ、本当に重大な事じゃん。鈴木先生、最後の半年は闘病で棋士もお休みされてたけどさ。俺、実は何回か見舞いに行って碁を打ったんだ。」

 初耳だった。
 そもそも進藤が年齢の離れた鈴木先生と知り合いだったことすら聞いた事も無かったが、改めて、僕らがお互いの行動や交遊関係に無関心である事実を突きつけられた気がした。

「それは知らなかった・・・。」
「最初は冴木さんや和谷達と一緒だったんだけど、病院を覚えちゃったからさ。近くまで行った時に寄ったりして、あそこの小学生の男の子、悠輔っていうんだけどさ、あの子と病院の中庭で遊んだりして。あいつがまた人懐っこくてかわいーんだよ。」
「うん・・・さっきご霊前で奥さんの隣できちんと座っていた、あの子だね。」

「・・・あいつ、頑張ってたな。声掛けらんなかったけど、こっそり目配せしといた。」

 そこで彼は、その瞬間の交歓を思い出してか、ほんの少し笑った。
 ふーん・・・。君はこんな優しい、穏やかな顔も出来るんだ。初めて知った気がする。

「あんな小さなお子さんを遺してなくなるなんて、さぞ心残りだったろうね。」
「うん・・・。でもあいつはお父さんから碁を教わってたからね。きっと大切なものをたくさん受け継いでいると思うよ。」
「・・・・・・。」

 僕はなぜだか言葉に詰まってしまう。

 その、自分でも説明のつかない沈黙を持て余していると、ややあって進藤が口を開いた。

「なあ、お通夜って必ずしも黒い礼服ってわけでもないんだな?俺、そういうの持ってないから母親にどうしようって言ったら、これでいいってさ・・・。」
「ん、ああ、そうだね。・・・そういえば、そのスーツ、新しそうだけど・・・?」
「あ、わかった?いや、そんなつもりで話しふったんじゃないんだけどさ。先月作ったばっかなんだ。今まで持ってたやつ、急に縮んじゃって手足つんつるてんで、肩幅とかもきつくなって・・・いや、俺の方がでかくなっちまったんか?あはは・・・。」

 そうなんだ。
 進藤はこのところ急に成長しているらしいと、薄々感じてはいた。
 中学生の頃は、僕の方が背も高く、手足も長かったし、声変わりも先だった。
 ところが、今夜新調仕立ての渋めの色のスーツに身を包んだ彼の肩幅は、とっくに僕を追い越した身長に見合うくらいがっちりとしていて、全体的に骨太な印象だ。
 おそらく彼は、世間的にはかっこいいイケてる男の子なんだろう。街を歩いていたら、確実に女の子が振り返るような・・・。

「似合ってるよ。今までの明るい色合いも悪くはなかったけど。」
「お?塔矢に誉められちった。まあ、お前よりは俺の方がセンスいいしな?」
「そうかな?単に趣味が違うというだけだろう。」
「趣味がねえ・・・ふーん、ま、そういうことにしといてやるか。」

 それから、とりとめもなく世間話のようなことをしていたが、ふと話題が途切れた。
 そろそろお開きにしようかと、声をかけようとしたその時・・・。

「俺達もいつか死ぬんだよな・・・当たり前の事なんだけどさ。」

 唐突に進藤が言った。
 トーンが急に変わって、何だか外国語を話しかけられたみたいに、一瞬理解できなかった。

「死ぬ時ってさ、俺もお前も自分らの奥さんとか子供とかに囲まれてんのかな?鈴木先生みたいにあんな風にさ・・・。」

 一拍遅れて、やっと話に頭が追いついて来た。

「それこそ予想もつかないよ。・・・大体君が結婚なんかするのか?」
「そりゃあ、いつかは・・・する・・・かなあ?わっかんねえー!あっ、お前はきっとあのお前のお母さんみたいな人と結婚しそう!小さい頃、言ってたんでねえの?大きくなったらママをお嫁さんにするー!っとかさあ?」
「そこまでマザコンじゃない!君こそ言いそうなセリフじゃないか。」
「んなこたねーよ!」

 その時だった。ふいに雲が切れたらしく、まるでさーっと幕が開いて、青白くほの明るいライトが舞台を照らし出したかように、僕らの周りがくっきりと浮かび上がった。彼も僕もつい顔をあげて、初冬の月の冷たくも清々しい色に、言葉を失ったまま見入ってしまった。
 綺麗だな、と思う・・・。
 何だか月の光が、ケンカごしの僕ら二人の間に割って入ってくれたみたいだ・・・。

 先に口を開いたのは、進藤の方だった。

「なあ塔矢、亡くなった人ってさ、どんな時に喜んでるのかな?」
「・・・え?」
「以前・・・友達が・・・亡くなったんだ。でもそいつの事ってさ、俺しか知らないんだ・・・あっ・・・いや、今俺の周りではって意味なんだけど・・・だから、誰かとそいつの思い出話をする訳にもいかないし。俺はどんな事もよーく覚えているし、記憶が薄れていくのが恐い訳じゃないんだけど・・・。」

 切ない声だった。恐い訳じゃないという言葉の意味とは裏腹に、口元が思わず震えて不安がにじんでしまったというような・・・。
 その声が、僕の心の深い深い所までゆっくりと沈んで来て、そうして気が付かされた。もしかしたら、進藤が今夜僕を誘ったのは、こんな話をしたかったからなんだろうか?

 急に、缶を持つ手の指先から血の気がひいていくような感覚がして、もう片方の手を重ねて強く握り込むことで、何とか平静を保とうと努める。

「その人の事を語り合う相手が仮にいなくても、君が心の中で想うだけでいいんじゃないのかな・・・。」

 僕の方こそ声が震えてはいなかっただろうか。

「それだけで?」
「うん・・・あとは・・・例えばその人が好きだった音楽を聴くとか・・・好きだったことをやってみるとか、想い出に繋がることをするなんてどうだろう。」
「音楽?うーん、そりゃあ覚えが無いけどさ・・・。そいつが好きだったことは、今でも嫌っちゅうほどしてるぜ!」

 話の流れで口をついて出た言葉が、いきなり核心に触れてしまったような気がして又もや僕自身がうろたえた。心臓がドキドキと早足で駆け出したみたいだ。

 それなのに、進藤の方はというと無邪気な様子で顔をほころばせている。

「そっかー・・・。それでいいのかな!!」

 勢い良く缶コーヒーを飲み干すと、彼はそれを少し離れたダストボックスに放る。
 放物線を描いて飛んで行く青い色の缶の色を目で追っていたら、ふいにあることを思い出した。

「そうだ!青い鳥っていう童話、知ってる?」
「青い鳥?聞いたことはあるけど?」
「その中で、主人公のチルチルとミチルが想い出の国にいる亡くなった自分達のおじいさんとおばあさんに会いに行くというシーンがあるんだ。そこで、おばあさん達はこんなことを言ってる・・・おや、今幸せな気持がしたから、きっと誰かが私達のことを思い出してくれたのねって!」

 僕は、探し物がみつかって大声をあげた子供みたいだったのかもしれない。
 だって進藤が、元々大きな目を更に見開いて驚いた顔をしたのがわかったから。

「お前ってホント物知りだなー。まさか童話まで守備範囲だとは思ってなかったぜ!」
「それはっ!・・・そのお、幼稚園の時に劇で青い鳥をやったからであってたまたま思い出したからであってええっと・・・。」
「えっ?劇やったの?塔矢は何の役やったの?」
「僕!?そんなことはどうでもいいじゃないか!!」

 折角いい話を思い出したというのに、何だか予想外の方向に会話が流れ出した。

「塔矢ってその頃からおかっぱ?もしかして、ミチルの役とかやってたりして・・・うわー!似合いそうでこええーっ!」
「女の子の役を僕がする訳ないだろう!!僕は・・・あれ・・・何の役だったか・・・な?」
「覚えてねーの?おばあさんのセリフは覚えてんのにい?」
「だってそれは・・・。」

 劇をやったことははっきり覚えてるのに、自分が何の役だったのか思い出せないなんてことあるんだろうか。いくら5、6歳の頃のこととはいえ・・・。

「お前やっぱミチルだ・・・そこらへんの女の子よりよっぽど可愛くって先生にえこひいきされてたんだ・・・そいで、お前は女の子役やらされたのがショックで、その記憶だけ封印してしまったのだ・・・。」
「君、最近何か変なマンガでも読んだろ?」
「っるせ!そんな連想させるお前のその頭がいけねーんだよ!」

 結局こうしてお互いの揚げ足をとったり、嫌味の応酬がケンカの引き金となり、後は行く所まで行ってしまうというのがこの頃の僕らのパターンと化していた。

 それでも今夜はまともな会話が続いた方で、いつもより随分マシだ。
 思い出せない役のことは引っかかるが、もうこれ以上進藤の相手をするのも馬鹿馬鹿しくなって、この辺が潮時かなと僕もお茶を飲み干して立ち上がった。

「あっと・・・悪い・・・怒っちゃった?髪の話はお互い禁句だったな!おい!待てよ、塔矢―!」

 甘えた様に語尾を伸ばしながら名前を呼ぶ進藤を無視して、駅へと向かい始めた僕の後を彼が追いすがって来る。それを目の端で確認したと思ったら、次の瞬間、腕を掴まれた。

「ごめん!塔矢。折角お前が俺の話に真面目に付き合ってくれていたのに・・・ほんとごめん。」

 次にはもう彼の顔が僕を覗き込むような位置にあって、僕は立ち止まるしかなかった。
 おそらく長い付き合いの中でも、そう何度も聞いたことは無いであろう彼の真剣な謝罪の言葉に、まるで呪文をかけられたかのように、動けないままに彼とみつめあっていた。

「ありがと・・・さっきの青い鳥の話・・・すっげ嬉しかった。ほんとにその通りだといいなって思うよ。」
「・・・・・・。」
「俺があいつのことを思い出すだけで、きっとあいつは幸せな気持になってるんだろうなって・・・。」

 そのアイツが誰なのか結局は聞けないまま、今夜も僕らは別れるのだろう。いや、君が話さないという意味においてではなく、僕が尋ねられないという意味において・・・。

「・・・行こうか。遅くなるよ。」
「ああ!」

 僕が特にコメントせずに又歩き出したことを、進藤がどう受け止めているのかはわからない。
 何も深くは考えてはいないのかもしれない。あるいは、もう既に僕が、彼の言う所のアイツが誰なのか予想をつけているとの前提で話したのかもしれない。
 僕が進藤との出会いの時からずっと追い駆けて来た、幻ではないと信じている何か-・・・。
 彼がある頃から胸の奥に仕舞い込んだ、なくしてしまった大事な友達の存在・・・。
 その二つが果たして、重なり合うものであるのか否か・・・・・。

 僕は、しばらく遠ざかっていた、進藤にまつわる謎が巻き起こす混乱の渦の中に、又足をとられて落ちて行きそうだった。






「あれ?あの音なんだ?おい、塔矢、お前聞こえる?」

 僕を物思いから引き戻したのは、不思議な音色のハーモニーだった。

「お琴と・・・何かの笛みたいだな。」

 駅前のロータリー広場に、ぱらぱらと人だかりが出来ていて、音はその中心から流れて来る。
 好奇心旺盛らしい進藤は、ずんずんそちらに近寄って行こうとするので、僕も仕方無しに彼の後に続いた。

 そこには、大学生くらいとおぼしき二人の男性がいて、一人はおそらく尺八を吹き、もう一人はお琴を弾いていた。

「へーっ!こんなストリートミュージックもありなんだあ!ねね、これ、何て曲?」
「うーん、僕も邦楽は詳しくないから。でもあの感じだと古典音楽じゃないね。」

 おそらく譜面通りに弾いているのではないのだろう。二人はまるでジャズのセッションを楽しんでいるかのように、体を自由に揺らしながら、時折二人で目を見交わしながら、何とも形容しがたい、不協和音の入り交じる不思議な音楽を奏でている。

「お琴ってすげーなあ!あんなにダイナミックな音が出るんだ。俺、春の海くらいしか知らねえから。おっ!あの人あんなことしてる!」

 進藤が春の海を知っているとはそれだけで驚きに値すると思っていたら、お琴の男性がやおら両の手の平で弦の表面を、まるで太鼓にするかの如くダンダンと叩き出して、呆気にとられてしまう。弦のあらゆる場所を叩いたり、弾いたり、爪でひっこすったり、その目まぐるしさに声も出ない。まさに現代音楽だ。
 その激しいパフォーマンスを引き継いだのは、何時の間にか尺八からもっと小ぶりの立て笛に持ち替えたもう一人の彼の清んだ音色だった。

「あれ、ケーナだね。コンドルは飛んでいく・・・だ、この曲。」

 ワンフレーズが終わったところでお琴も又加わったが、意外なことに、ラテン系の曲にお琴の乾いた弦の音色は合っている。ノリのいい曲なので、聞いていた人垣の中から手拍子が湧き起こった。進藤も勿論ノリノリで、体まで縦に揺らしている。
 その後も、アニメ音楽だの、演歌だの、色んなジャンルの曲をノンストップで演奏していく彼らの世界に、辺りはすっかり魅了されていた。

 最後の曲が終わり、彼らがお辞儀をすると、当然拍手喝采だった。

「塔矢!俺、さっき思い出した。あいつ・・・さっき話していたあいつさ、お琴弾けるって言ってたことがあったんだ!」

 今度は進藤が、大事なジグゾーパズルの、なくしていた最後のピースをみつけたかのような、嬉しそうな声をあげた。

「でも、あいつちっとも練習しなくって先生に叱られていたって、ははは、好きなことだけやりたいやつなんだよ。」

 ・・・その時、ただ進藤の横顔を眺めていることしか、もう僕には出来なくて・・・。

 だって、一体なにを言えばいいんだ?
 こんな、過ぎた日を懐かしむような透き通った目をした彼に・・・。

 そうしてる内に人垣は崩れ、人々がお琴の前に置かれている帽子らしきものに次々とお金を入れたり、丁寧に頭を下げるお琴弾きの彼に話し掛けたりし始めた。
 そうだ、僕もお金・・・とはっとしていたら、進藤が進み出て、お琴弾きの方に、お琴を触ってみてもいいかとずうずうしくも尋ねているではないか。

「進藤!失礼なんじゃ・・・。」
「いいえ、どうぞ弾いてみてください。素手で大丈夫ですよ。」

 お琴弾きの彼は、それまでの大胆だったり繊細だったり、変幻自在の演奏をしていた人とは思えないくらい静かな面持ちで言う。

「へへえー、んじゃ、ちょっと触らしてもらっちゃおうかなー?」

 進藤はおそるおそる人差し指でボン、ボンと弾いてみたり、弦を押さえつけてみたりしている。

「・・・こんな感じなんだ。んー、けっこ固いし力がいるもんなんだなあ・・・。」

 その横顔は、やっぱり僕の今まで知っていた進藤のものではなかった。
 どこがどう違うかなんて言えない。
 別人を見ているといっても良かった。
 だって、少なくとも僕には見せたことのない顔というなら、それは僕では彼にそんな顔をさせる力がないということで、だったらそんなものを見せて欲しくはなかったのに・・・。

 僕は、今夜進藤に出会った運命を、はっきりと憎らしく思い始めていた。

「面白いですか?それなら良かった。でも実際はこの爪を右手の親指と人差し指と、それと中指にはめて、弦をはじくんですよ。でも、この爪は私のサイズに合わせて調整してあるし、こうしてはめる時になめて湿らせたりするから、人には貸せないんです。」

 お琴弾きの彼は、実際に僕らの目の前で片手で口元を隠すようにすると、その陰でぺろっと自分の指先をなめたらしく、さっと爪を付け終わった。

 その動作はほんの一瞬のうちに行われ、それでいて流れるように自然で優雅な感じすらあった。決して、セクシャルな感じのするものではない。なめた瞬間が見えた訳でもない。
 ・・・なのに、ドキッとしてしまった僕は、ちっとも女性的なんかではない彼に対して、申し訳ない気がした。

 へーっ!これが爪なの?といつまでもその場から去りそうもない彼に、いっそここで失礼すると言ってしまえば楽になるのに、僕は何でそれが出来ないでモタモタしてるのだろうと、自分自身に苛立っていた。

「お話中悪いんだけど・・・こちらがCDにサイン欲しいとおっしゃってるんで、ハルトいいかな?」

 はっとすると、もう一人の笛を吹いていた彼の方が立っていた。どうやら、自主制作のCDも売っているらしく、数人のOLらしき女性達がにこにこしながらこちらを見ていた。
 華奢な体つきですっきりした顔立ちのお琴弾きの彼とは対照的に、笛の彼の方は、背も高くがっちりした体格で、話し方も朴訥だ。でも、二人ともとても好ましい感じがする。

「あっ!俺、独占しちゃってたかな。すいません!凄く楽しかったです、ありがとう!」

 やっと進藤も周りの状況を把握してくれたらしい。まだ名残惜しげにしている彼を促して、駅の改札へとようやく僕らは歩を進めた。






 ホームへと続く階段を昇り始めた時、背後から又かすかに尺八の音色が聞こえて来た。

「あっ!この曲・・・俺でも聴いたことある・・・ジャズのスタンダードでサックスで吹く曲だよな!えっと・・・確か・・・」
「テイクファイブ。尺八で聴いても味わいがあっていいね。」
「おっ、お前―!折角俺が今言おうとしてたのに何で先、言っちゃうんだよっ!」
「それは悪かったな。」
「あーもう・・・いい音楽聴いていい気分だったのにお前って奴は!」
「大体君、飲んでる訳でもないのに今夜はハイだよ。僕らがどこから帰る途中かわかってるのか?」
「わ、わかってるとも!」

 やっといつもの僕らの会話のテンポになって来た。矢張りこうでなくては。いつもなら鬱陶しい筈の展開が、今は何故だか有り難い。

「んじゃあさ・・・ハイついでということで・・・も一つ言ってもいい?」

 嫌な予感がした。一体何を言い出すつもりなのかと身構えていたら・・・。

「あの二人って、恋人同士だと思わねーか?」

 最初はかれの意図するところがわからなかったが、すぐにそれが、あの二人がゲイのカップルではないかと言っているのだと気づいて思わず・・・。

「何を馬鹿なこと言ってるんだ!!失礼にも程がある!!」
「なーんでお前が怒るんだよ。だってお揃いの指輪してたし、ピアスもおそろみたいだったし雰囲気良かったじゃん。」

 あの決して明るくはない街灯の下、短い時間の中でよくもそこまで観察していたものだと半ば感心、半ば呆れてしまう。

「二人でああだこうだ言い合いながらいっぱい練習してさ、気持ち高め合って本番に臨むのかなー・・・いいなあ・・・そういうのが上手くいった時ってさ、サイコーにエクスタシー感じそうじゃん!?」

 それを聞いた途端、僕は体がかーっと熱くなるような感覚に襲われ、丁度彼の言葉を遮ろうと息を吸ったところだったのに、そのまま固まってしまった。
 こ、この男に何と言ってやればいいのか!?

「あっ!べ、べ、別に変な意味じゃないぜ!音楽のことだよ、音楽の!エッチなことなんか想像してないって!」

 想像していないと言うことは、それはもう言った瞬間にその先を想像したと白状しているようなものではないか。
 そして彼の言葉を否定しようとしていた僕も、その瞬間に否定したくなるような種類の邪推をしたという点において、彼と同罪ではないか。

 愕然とした・・・。

 ここで又彼を怒鳴りつけ、いつもの言い合いのパターンに持って行くには、今夜の僕はもういっぱいいっぱいだった。我知らず、深いため息がもれる。
 進藤は顔を紅潮させ、慌てていた。

「塔矢、俺、お前のこと疲れさせちゃった?」

 もう口を開くのも億劫だよ。

「ああー・・・。折角、鈴木先生にお別れが言えてさ・・・悠輔の顔も見れて・・・お前と話せて・・・最後にいい音楽聴けて、今日は忘れらんない日になるんかなあって思ってたのに・・・。俺ってつい正直に思ったこと言い過ぎちまうのかなあ?」

 段々しゅんと萎れて来る彼が、それなりに哀れになって、僕はせめて無視するのはやめることにした。

「いや・・・確かに君はあけすけだとは思うし・・・気を付けた方がいいと思う時もあるけど・・・。」
「・・・・・。」
「今夜、君に忘れられない出来事が起こったと感じたのなら、それは鈴木先生から君へのお礼なのかもしれないね。きっと、感謝されているんだよ。」

 言った後に、何だか気恥ずかしくなるような詩的な表現をしてしまったと思った。
 こんなこと言うなんて、また茶化されそうだと落ち着かなくなってくる。

「なーんか今日はお前に一本どころか何本もやられましたって感じ・・・。」

 予想に反して、進藤は目を伏せると、口の端を歪めて乾いた笑い声を小さくあげた。それはいかにも照れくさそうな、嬉しそうな様子がにじみ出ていて、そうか、僕でも彼をこんな風にすることが出来るんだなと、初めて知った。






 今まで碁に関係の無いことでは、極力接触しないようにお互い避けていた節がある。

 確固たるポリシーがある訳ではないが、同じ門下や同期だというわけでもないのだし、何よりもお互いが、他のどの棋士より自分に相応しいレベルの高い一局を打てるライバル同士だと認めているからこそ、馴れ合ってはいけないと思っていた。
 それに実際、進藤とは碁が打てれば十分満足だったのだ。出会いからプロになって初対局するまでの長い葛藤の期間を経て、今は公式でもプライベートでも打つ機会が持てるのだから・・・。

 では、今夜の出来事は?

 進藤にああは言ったが、果たして亡くなった鈴木先生が、今夜進藤に何か不思議な力で働きかけたと信じている訳じゃない。僕はそれ程、空想家でもロマンチストでもないし、ましてや霊の存在だのオカルトだのにはしゃぐ方でもない。

 それなのに、どうして今夜進藤に付き合わされたのは、この僕なんだろう。
 どうして僕も、今夜のことは忘れられなくなりそうだと予感しているのだろう・・・。






 現実の沈黙は、僅かの間だった。
 すぐに僕の乗る電車がやって来て、いつも通りの短い挨拶を交わすと僕は電車に乗り込んだ。電車が動き出す時には、もうお互い目も合わさず、それぞれの世界に帰って行くかのようにそっぽを向いていた。
 ごくごくあっさりした別れだったが、この突然やって来た濃密過ぎる夜の終わりには、これくらいが丁度良い・・・。

 そのくせ、電車で一人になった時から、今夜見た進藤の様々な表情や言葉が繰り返し胸に去来する。

 ・・・この感情は、以前から知っているような気がする。
 例えば、進藤と初めて出会ってその圧倒的な棋力の前に打ちのめされ、無我夢中で彼を追いかけたあの頃。
 それなのに、まるで別人になってしまったかのように、低レベルの碁で僕を失望させたかと思うと、ひたひたといつの間にか僕の後に迫り来る彼を意識していたあの頃。
 碁を打たないと突然身を翻して、再び希望を抱き始めた僕を二度までも裏切った時には、でももう彼を諦めることは出来なくて、自分が碁を打つ姿で、彼をこの世界に引き戻したいとかすかな望みにすがったあの頃。
 彼に近づきたい・・・でも近づいたら近づいたで、触れてはいけないものに触れてしまいそうで、怖い・・・。

 関係が安定してきたこの頃では、もう過ぎ去った幼いだけの感情だと思っていた。
 でも。それは、「いつかお前には話すかもしれない。」と言った彼の約束の言葉によって、僕が勝手に封印してしまっただけの感情だったのかもしれない。
 進藤と碁を打てるだけでもう十分なのだと、僕は自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
 そのこと自体は間違いじゃない。
 ただ、今、こうして僕の心を占めているのは、彼の打つ碁そのものではなくて、碁を打つ進藤ヒカルという人間の姿や声や行動や、そんなものだった。
 電車の揺れに身を任せていると、その振動に合わせて重たいかけらが心の中にどんどん積み重ねられていくような、息苦しさを感じる。
 窓に映った僕の顔は、あきらかにこう言っていた。
 もう、進藤ヒカルとのこんな接触は、金輪際御免だと・・・。














― 続く ―







少しだけ説明を。
これは私が生まれて初めて書いた二次創作でした。もう、6年ほど前になります。
この一話目を書き終わった時、サイトを作っても大丈夫かな・・・
書き続ける粘りが私にも持てるかもしれない・・・と思えた作品です。
完結した際にもたくさんの方におめでとうを言っていただけ、記念に一冊の本にまとめました。
この物語の中のヒカルとアキラが、いつも私の心にいてくれたからこそ
同人活動の面白さと重みとを知ることが出来たのだと、二人に感謝しています。

ちなみに。
オリキャラのハルトさんは、当時好きだったア/イ/シ/ー/ル/ド/21の桜庭春人くんから。
お相手のカイさん(まだ、ここでは名前が出ていませんが、再び登場するのです)は・・・
ふと心に浮かんだ名前で出典はありませんでした・・・確か。
未来予想をしていた訳じゃありませんよ?(笑)


NOVEL


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