― 満ちるとき ―







その匂いはヒカルが入り口に着く前、塔矢邸の塀沿いを通っている時からヒカルの鼻腔を刺激し、喜ばせていた。否応なく、期待も高まる。

「ちーーーっす!塔矢、来たぜ!」

元気いっぱい玄関を開ける。鍵が開いていたのは、携帯であらかじめ知らせていたからだ。

「君、相変わらずだなぁ…一体、いくつになったと思ってる」

その大声、乱雑な開け方、子どもみたいだと憎まれ口をきく当のアキラは、エプロンをつけたままでヒカルを出迎えた。

「おっ…マジで?料理中?」
「マジもマジ。君の誕生日だ、腕によりをかけたぞ」

軽く胸をそらすような真似をしてヒカルを見下ろしたアキラだったが、ヒカルがそのエプロンの裾をおどけた様子でピラリ…とめくると、さっと身を引いた。

「こらっ!進藤、何するっ…」
「だってお前のエプロン姿、何度見てもちょっかい出したくなる〜」
「ちょっかいって…すっかり見慣れたんじゃないか?僕も自炊をするようになって長いし、君だって…」
「まあな、俺たちすっかり一人暮らしが板についちまった」

ヒカルは「料理をしてくれる彼女もいない」という意味あいも含めて自嘲気味に言ったのだが、別に悪いことではないと答えるアキラは、実に堂々としたものだった。



今日、二十三歳の誕生日を迎えた進藤ヒカルも、約三ヶ月遅れで同い年になる塔矢アキラも、今では自活している。

海外に拠点を移した両親に実家を任された格好のアキラ。
十八歳になるや否や実家を出たヒカル。

多忙な毎日の中にも互いに行き来を続け、つかず離れずの関係を保っていると当人同士も周囲も見ていた。

台所に入ると、換気扇が全開状態だった。きっとそこからいい匂いが外に流れ出ていたのだろうと、ヒカルは鼻をクンと動かしながら台所中を見回した。

「…鍋?」
「ああ、季節的には気が早いけれどね、正確には参鶏湯(サンゲタン)の入った韓国風なんだ」
「さんげ…ああ、あの鶏が丸々入ってるやつ?」

韓国には遠征で何度か行ったことがあるが、その時は必ずと言っていいほど、スヨンやヨンハに案内されて本場の韓国料理を食べた。
子どもの頃はどちらかというと好きなものには偏りがあったヒカルだが、今ではエスニック系もいける。

「美味そう!」
「良かった。鶏自体は母が韓国から持ち帰ったレトルトなんだけど、これが案外いけるんだ。野菜と一緒に和風のダシで煮込んでみた。…あ、少し具が減ったら餃子も入れようと思って、それを今、包んでいたところだ」
「へえ!レトルト!便利だなぁ…」
「興味があるなら、今度母に君の分も頼んでもいいぞ」

ラッキーと、ヒカルは無邪気に声をあげる。
それを背中で聞きながら、アキラはまた料理へと戻った。

ヒカルは勝手知ったるでさっさと手を洗い、アキラの横で餃子のあんを包み始めた。
アキラの手元を見ては、それを真似てあんを包んでいくヒカルと、少しだけ嬉しそうな顔を見られたくなくて、俯き加減になるアキラ。
最初は「君、具がはみ出てる!汚い!」とか「お前のは品が良過ぎて、ちっせえ!」とか、やいのやいのと言いつつだったが、次第にコツも掴めて来るというものだ。

やがて、黙々と包んでいく二人に言葉はいらなくなった。手だけを動かせば、無心になる。なれる。
流れる空気は温かく、秋の夕暮れは静かに夜空を連れて来る…

やがて二人の前に出現したのは、山盛りの餃子の皿。

「作り過ぎたかな…こんなになるとは…」
「達成感ってやつだな!塔矢!」

嬉しそうにアキラに肘をぶつけて来るヒカルに苦笑しながら、残りは進藤にお土産に持たせようとアキラは心の中で思う。

「そろそろ始めるか、前菜は用意してあるんだ」

座敷の方へと移動すると、テーブルには既に見慣れない形の皿があった。

「クジョルパンと言うんだ。母から教わって。というのも母は今、韓国ドラマにはまってるから、皿まで本場で求めて来てさ。ほら、何種類かの具を回りに置いて、真ん中にはこの薄皮を置くように出来ているだろ。今日は野菜だけじゃ物足りないかなと思って、プルコギもあるよ。ついでにナムルも用意したし、今日の献立は野菜たっぷりだ。…しっかり食べていけよ、進藤」
「これも美味そうだ!へえ…この皮、クレープみたい」

しげしげと眺めるヒカルに向かって、アキラがそれも興味があるならレシピをメールするよと言う。

「いや、俺は食べる専門でいいや。あ、でもさっきの鶏は欲しいかも。レトルトなんだろ?」
「それを連発されると…誕生日のお祝いに悪いな」
「何言ってんだよ!こんなにいっぱい作ってもらって…嬉しいんだからな、気ぃ、遣い過ぎんなよ!」

明るいヒカルの笑顔に促されたアキラもエプロンを外し、最後の仕上げとばかりに酒の用意をした。









二人だけの誕生日の宴は、いつもと変わらず楽しかった。

飽くことなく喋り続け、食べ続け、すっかり鍋の具もさらってしまった頃には、これもまた韓国のものだという日本酒にも白ワインにも似た「ペクセジュ」という酒も、ほどよく回っていた。

「最後は雑炊…と思って用意もしてあったけど」

アキラがヒカルの顔を覗き込むと、ヒカルは両手を挙げて降参のポーズを取る。

「もー、無理!鶏も野菜もめっちゃ美味かったし、餃子、食い過ぎた!」
「あの山がほぼ、なくなったものなぁ・・・」

アキラが感心するように言ってヒカルの方を見れば、ヒカルも得意そうに片目を瞑って見せた。

「うん…久しぶりに底なしの食欲、感じた」

この夏が暑かったせいか食べられなくなってたから、今日は嬉しいとヒカルが呟くと、アキラもそれは良かったと淡々と答えた。



「…なあ、どうして韓国料理?」

酒のグラスを口に運びながら、ヒカルは何気なく言った。本当に、それは何気ない一言だった。
てっきり、覚えたてだからとか、材料が揃っていたからとか、そういう答えが返って来ると思っていたヒカルは、そこでアキラが沈黙したことにまず、驚いたのだ。

「ん?どした…塔矢、俺、何か変なこと、聞いた?」
「いや、そうじゃないけど…」
「けど?」

いつになく歯切れの悪い塔矢アキラに、ヒカルの方が驚きを越して不安になった。

―――どうしたのだろう?
これまではいつもと寸分変わらぬ時間が流れていたのに、急に色が変わった気がした。

ヒカルは息を詰めて、アキラの言葉を待つ。

「さっき、君も言っていたじゃないか…食欲がって…」
「あ、ああ…夏バテっつーか…ちょっと忙しかったからさ、ここんとこ」
「ちょっと?」

アキラの声に険が混じる。しかし、続けて発せられた言葉にはそれはなかった。むしろ、心配そうな様子が滲んでいた。

「相当忙しかったよ、君は!仕事、引き受け過ぎだ。会うたびに顔色が悪くなって、しかも…」

アキラが一旦言葉を切って、ためらいがちに言った。細い、声だった。

「痩せた…君…見ているだけでもわかる―――」

ふと、アキラの視線が鋭い針のように感じられて痛みを覚えたヒカルは、さっと身を固くした。
そこまで知られていたとは。全て、お見通しってヤツか。

ヒカルは深い溜息をひとつ、つくと、アキラの方へと向き直る。

「ありがとな…そうだ、俺、スゲエ疲れてた…下手すると、近いうちにぶっ倒れてたかもしんない…今朝も起きるのシンドかったけど、お前が誕生日祝ってくれるっつーから、元気が出た」
「そうか」
「料理、体に良さそうだったもんな。薬膳、っつの?お前、考えてくれてたんだ。心配、してくれたんだな。さっきの韓国の酒だって、元は薬酒だってお前が言った時、気付けば良かったんだ…俺ってば…」

最後の方は、どことなく湿っぽい声音だった。泣いている訳ではないだろうが、気持ちが緩んでいる時のヒカルは時折こんな話し方になるのを、アキラは知っている。

ヒカルは俯くと、頭をかきながら再び礼を口にした。

「ありがとな…ありがと、塔矢………俺、ちょっとキた…」
「進藤?」
「いや、ちょっと、じゃねえな。ヤバイ…俺、もう、限界かも」

お前のそういうさり気ない優しさは、俺にはある意味「毒」だ―――引き返せないところまで、俺の背中を押しやがった。

ヒカルの独り言が聞えたのかどうか、アキラは立ち上がって台所へ向かおうとした。
それを逃げと取ったのかどうか、一瞬で判断した訳ではないが、ヒカルも反射的に立ち上がる。空気が一気に動いた。

「待って、塔矢!」

切羽詰った声に弾かれて、アキラは振り返った。
揺れる大きな薄茶色の瞳にぶつかり、それはアキラを動けなくさせる力を持っていた。何度もという訳ではないが、この真剣な瞳に出会う時は何かが動き出す時だったかもしれないと、アキラも緊張する。

それなのに、ヒカルの口から発せられたのは―――

「なあ、塔矢、どうする?そろそろどうするか、決めるか…」

弱々しい声だった。まだ、どこかで迷いが払い切れないでいる、声だ。
それがアキラの神経を逆撫でした。怒りではないが、言い出した責任くらいは負えと、アキラの表情が一層強張る。

「どうするかって…どうにかする気があったのか?君―――」
「っはあぁ?あるに決まってるだろ?何、言ってんだよ」

アキラの返事にかえって弾みを得たのか、ヒカルは意を決したように話し出した。その胸には、己が辿って来た心の変遷がぼんやりと蘇る…

「何度もあったさ、どうにかしたいって思った時は。そうだな…一度、大きなヤマがあった…二十歳になった頃だ。成人式とかあってさ、俺たちとっくに社会人だったけど改めて大人になったんだって思ったら、お前とのこと考えちゃって」
「へえっ…」

アキラは心底驚いたような声をあげた。碁の検討でも、最近はこんな声をあげたりしない。よほど、だったらしい。

「結局、何もしないまま流れちまった。そこを越えたら楽になって、それからまた、ここまで来ちゃったって言うか…」

ヒカルが遠い目をするから、アキラも負けじと言いたくなった。
勝手にヤマを越えたなどと偉そうに言うが、こっちだってそんなことはあったのだと、食ってかかる訳ではないが、アキラとて黙っていられない。
元々、負けず嫌いの二人だ。どんな場面でその炎が燃え上がるかは、当人同士にとっても定かではなかった。

「僕だってあったさ!爆発してしまいそうな時が」
「そなの?」
「一番酷かったのは、君が一人暮らしを始めた頃だな。君、解放感たっぷりだったろう?誰彼構わず家に誘って、泊めて…その頃、女性にモテ始めていたし、きっとそのうち、君の部屋に行ったら女性の影でも見つけるのかなって」

女性と付き合い始めた君を前にしたら、いくら覚悟をしていたとは言え、きっと平静ではいられなかった、身を切られるように辛かっただろうと、アキラは言葉にはせず、胸の内で続けた。

「でも俺、別に女なんか作らなかったじゃん?」
「そうだな…」

ヒカルが安心させるように笑いかけて来るのが、また、憎らしくてならなかった。
アキラは核心へと戻る。

「だけど、どうして今日なんだ?今、なんだ?」
「それは…」
「てっきりもう、君は動く気がないと思っていた。だって僕等は知り合ってから十年以上だぞ?どうにかなるなら、とっくにどうにかなっているだろう」
「じゃあ、お前は?どうしてお前は動かなかったの」
「……」

柔らかい笑顔がヒカルの顔からさっと引っ込み、深い色がその瞳に戻る。

「わかってるさ…言葉にしなくても。俺と同じだ。お前が動かずに関係を壊さずに来た理由はさ、俺と同じなんだろう」

よく、わかっている―――同じ理由で動かないなら、このまま安定状態でもいいと、ヒカルの言いたいことはそういうことだろうか?

その時、今日になって突然抉じ開けられたアキラの胸の奥の扉が全開になり、おさえ込んでいたものが放出され始めた。
アキラはその両腕を広げると一歩を踏み出し、ゆっくりとヒカルを抱き込んだのだ。

それは、とても穏やかな抱擁だった。
どちらも口をきかない。派手な動きもしない。

二つの鼓動だけが互いを追いかけるように、重なった胸と胸の間で響き合う。

十二年近くの年月を経て、二人は初めて抱き合っていた。
友情としては決して長くない。
しかし、恋情を育んで来た月日としては、それは短くもなかった。
相手を求め、独占したいという狂おしい時期を越え、その傍で相手の幸せを願う普遍的な愛へと変化を遂げてもおかしくないほどに。



「―――このままでも、良かったんだ…」

ヒカルの肩の辺りに埋められたアキラの頭が揺れ、そこからくぐもった声が聞えて来た。

「ん?」

先を促すように、ヒカルは愛しげにアキラの髪を撫でる。

「親友でライバルで…それだけ。普通の友情よりも濃い関係かもしれないが、おそらく生活を共にすることも、生涯寝ることもない。…ただ―――」
「ただ?」
「それでも君は僕の、ただひとりのひとだ。僕は女性とも…誰とも僕は添わないけれど、君に何かがあったら一番に飛んでいける場所にいたいと、そう願っていた…」

平たく言うと、そこに落ち着いていたんだ。…ああ、あんまり平たくもなかったかな、言葉が過剰で分かり辛い?

アキラが言い終わらないうちにヒカルは身を離し、アキラの頬を両手で包むようにして目を合わせて来た。
こんなに近くで相手の目を見るのも初めてだ。

アキラがはにかんだように微笑んだのは、本当に照れがあったからだろう。近過ぎる距離もさることながら、長年心に描いていたことを伝えるのも、案外気恥ずかしいものだった。

「わ、笑いやがって…お前…そんな話を、笑顔で言うか…俺の胸で、さ―――」

俺だって大体は似たようなこと考えてたけど、お前の方がもっと悲愴な感じがするぜと言うと、ヒカルは目をすがめた。
そうすると、ますます真剣に見詰められている気がして、アキラの胸も詰まった。

「壊そう。もういいだろ。壊しちゃえ…や、壊すんじゃねえな、今まであったものの上に、新しい関係を上乗せすりゃいいんだ」
「そうだな…君のいい分じゃないが、限界だったのかもしれない」
「好きだ…塔矢…これからは、二人一緒だ」
「僕も君が好きだよ…ずっと、好きだっ………っ!」

ここでもやっぱりヒカルの方が堪え性がないのか、アキラの語尾を吸い取るようにして、ヒカルの唇が重ねられた。
最初は驚いて目を見開いたアキラも、すぐに目を閉じて初めてのキスに集中する。
熱い舌を使って奥の奥まで探り合えば、その生々しさに眩暈を覚えるが、簡単には止められなくなった。



…激しいキスが解かれたのは、随分経ってからだ。

アキラの濡れた唇を見るとすぐさまキスに戻りたくなるが、ヒカルはそれを耐えるように、たった今まで自分のものだったその薄い唇に、震える指を名残惜しげに滑らせた。
アキラもまた、ヒカルの潤んだ薄茶色の大きな瞳に吸い寄せられては、その瞼にも、目尻にも、キスを落としたいと強烈に思った。

だが、長年に渡り気の遠くなる我慢を重ねて来た二人は、ここでも我慢強かった。

「食べたものの味がするのかと思ったが、そうでもないな」

アキラが荒れる息で言うと、ヒカルはもっとストレートに返した。

「うん、ちゃんと甘かった。お前の舌、甘い」
「…ばか。きっと何を食べた後でも、こういうことをすれば甘いんだろう。だからもう、二度と言うな。言わなくてもわかるから」

軽く睨むような目付きで見られたが、ヒカルには堪えない。

「恋人になって最初の甘〜い会話がこれかよ…ま、俺たちらしい、けどな」

クシャッと悪戯っ子みたいに微笑んだヒカルに、アキラもまた極上の微笑みで返した。









その夜。二人は朝まで共に過ごした。
まどろみの中、重ねた手に力を込めながら、吐息と言葉とを交互に混ぜ合う。
もう、急ぐ必要はなかった。長い時間をかけて辿り着いた場所は、思ったよりもうんと心地良く、満ち足りていると二人ともが感じていた。

「あのお酒、日本語で百歳酒と書くんだ。祝い事にはピッタリだろう」
「へえっ…百歳!すげえや…長生き出来そうだな?」
「百は、永遠に通ずる数字だそうだよ」

アキラの囁きはヒカルの耳に厳かに響き、だからこそ正直に言ってしまう。

「永遠って、どこにあるんだろう…」

するとアキラが大きく目を見開き、それからゆっくりと泣き笑いのような顔になった。その手が伸ばされ、ヒカルの裸の胸を優しく撫でていく…

「ここに―――」

アキラの掌が乗せられた部分が酷く熱いと思った途端、また、ヒカルの胸にも溢れるものがあった。
そのまま溢れるものをアキラにも注ぎいでしまえと、ヒカルはしっかりとアキラを抱き締め直した。

「長生きしろよ、塔矢」
「君こそ」
「あの酒を一緒に飲んだんだ。お互い、百歳を目指そうぜ?」
「ああ…死ぬまで、一緒だ…」

素肌で聞く鼓動も息遣いも、そして永遠を願って交わす口付けも、何もかもが甘かった―――

















大大大遅刻ですが(汗)ヒカル、お誕生日おめでとう!!
今年も進藤ヒカルお誕生祭に参加しました。皆さんとお祝い出来て嬉しかったですv

レシピ協力:東のGさま(THANKS!!)

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