以下の小説は、「塔矢アキラ誕生祭8」に参加させていただいきました。
主催様、ありがとうございました。

2009年のヒカルの誕生日小説「満ちるとき」から続いているお話ですので
宜しかったらそちらもお読み下さると嬉しいです。











― 溢れるとき ―







今、アキラは家路を急いでいた。
鍵を渡したヒカルの方が先に塔矢邸で料理の準備を始め、仕事帰りのアキラを出迎えてくれることになっている。
今夜はアキラの23回目の誕生日―――今年、ヒカルの誕生日をアキラが手料理で祝ったお返しにと、今夜はヒカルが料理を用意する約束だ。
ヒカルの一人暮らしの部屋の狭いキッチンでは大したことも出来ないというので、塔矢邸での誕生会になった。

アキラが駅に降り立って歩き始めると、メールが着信した。

『ボルシチがいい匂いさせてるぜ!お前の帰宅と同時にリゾットも始めるからな。楽しみにしとけよ』

ご丁寧にも最後にはハートマークの乱舞だ。乙女か、君は…と、心の中で突っ込む。
アキラは少しだけ口角を上げて微笑むと、携帯を仕舞いながらこの三ヶ月弱の流れを思い出していた。

つき合い始めてからは、想像以上に濃い時間を過ごして来た。
我慢していた年月が気が遠くなるほど長かった(ヒカルの弁である)せいもあるが、許されてからの二人は貪り尽くすかのように求め合った。
それは昼間も、夜も、碁と最低限の日常と、それ以外の時間を共有し合うことに繋がった。一緒にいる時はそれまでのように打つだけでなく、体を重ねる時間も当然含まれる。

…というか。

熱狂的な時期は仕方がないのだろうが、打つ時間よりも裸でいる時間の方が長いなどと日もあったし、最初に抱き合って満足してからでなければ碁に気持ちが向かないという有様のこともあった。
若いな、と自嘲してもどうしようもない。
アキラとて他人からは呆れられそうな熱も一時的なものだと自覚しているし、いつかは落ち着くだろうとも思っていた。

ヒカルのメール攻勢もまた、アキラの予想を遥かに超えていた。恋人になったらそれまでの三倍…いや、五倍はメールや電話の量が増えた気がする。

「僕にそんなことする暇があるなら、棋譜のひとつも見ればいいのに」
「迷惑なの?」

拗ねたような口調で訊ねられれば、正直に「迷惑じゃない」と答えてしまう。
すると。勢いを得たヒカルが、さも嬉しそうに言うのだ。

「お前だって勉強の合間にブレイクするだろ?一日中碁漬けじゃねーんだから」
「それにしても君は多い…」
「だってさ、それまではただ漫画読んでポテチ食ってた下らねえ時間をさ、お前に電話したりメールしたりする時間に変えただけじゃん?」
「…そうか」
「まだ、足りねえんだけど、俺。大体、今まで友達だからって我慢して来たんだぜ?もっと色々したかったけど、ウザッタイって思われたくないっつーかさ…」

あっ…お前が返信しなきゃとか、そういう気遣い一切なしな!俺がしたいだけで、お前はお前のまんまでいりゃあいい。
第一、しょっ中携帯弄ってる塔矢アキラなんて有り得ないっつーの!似合わねえっ!

(全く君という人は…僕が思っていた以上に情熱的だし可愛いし………知っていたようで、知らなかった顔がこんなにもある)

ヒカルがくれる満面の笑みが、アキラの胸に甘い記憶として広がった頃―――アキラは自宅前に着いた。
玄関を開けた途端いい匂いがして、ポッ…と、心に灯りがともるような気がする。温かくなる。

昔は調理の匂いが染み付くのが、どちらかというと好きではなかった。
生活臭に惑わされることはないが、それでも碁に集中するにはシンプルな佇まいの中での方がいいような気がしていた。
ところがこうしてヒカルと行き来をするようになり、一人暮らしが「一人半暮らし」くらいの感覚になると、その猥雑さが悪くないどころか、むしろ日常が活気付き、碁に向かう時の集中力だとか、前向きな思考だとか、そういう方面にもプラスになっているような気さえする。

(こんなベッタリな付き合い方をしてるから、いい方に考えないと自分で自分に申し訳が立たないのかもしれないな…)

これも、アキラ特有の自嘲の一種であった。
このままでいいのだろうかという想いも、小さな棘のように胸に刺さってはいるものの、言うほど簡単には心のコントロールがきかないのが恋愛なのだと、アキラは思い知らされているところだった。



先に手を洗ってうがいをし、それからまだアキラの帰宅に気付いていないらしいヒカルに「ただいま」と背後から声をかければ、料理をしていた広い背中が跳ねた。

「おおっと、ビックリした…お帰り!どうだった?」
「勝ったよ。手伝おうか?」
「いや、いい。そろそろだろうと思って始めてた」
「ふうん…」

ヒカルの利き手はフライパンを軽快に操っている。
だから左肩の方にちょこんと顎を乗っけるようにしてその手元を覗き込むと、アキラの鼻腔は一層いい匂いに刺激された。

「美味そうだろ?」
「うん。これは…キスかな?」
「っそ!さすが塔矢、よくわかったじゃん。三枚に下ろしたものをソテーしてんの。これをリゾットの上にアスパラと一緒に乗せてさ」

とうとう魚までさばけるようになったヒカルの進歩に、アキラは舌をまく。
しかしこの上達ぶりもアキラと付き合うようになった二ヶ月ほど前からだというのは、アキラも気付いてた。
元々ヒカルよりもアキラの方がレパートリーはあったのだが、最近のヒカルはそれを追い抜きそうな勢いだ。
しかし、料理上手の恋人とは決して悪くはない。
身も心も…などというが、その上「舌まで」甘やかされてしまっては、ますますアキラはヒカルに夢中になるばかりだ。

「何か手伝おうか?」
「いや、座ってろよ。お誕生日ボーイはさ」

それから電話でもメールでも散々祝われたが、「誕生日おめでとう」と再び言われた。
面と向かって言われると妙に照れ臭いアキラは、短く「ありがとう」とだけ答え、さっさとヒカルの背中から離れようとした。
それを阻止しようとヒカルの左手が下から持ち上がって来ては、アキラの頭を抱え込む。

「料理中に引っ付くなよ…ばか」
「だから離れようとしたんじゃないか。油でも跳ねて危ない?」
「そっちじゃねってば。…こういうこと、したくなるだろうが」

ヒカルの右手はそのまま調理を続けているが、器用に動く左手に導かれ、アキラの顔はヒカルのそれに近付けられる。
最初は表面に触れるだけの小さなキスを繰り返していたが、そのうちに舌がアキラの中へと挨拶するみたいに入り込んで来た。
アキラもそれをゆっくり絡め取ると、控え目に吸う。

ディープキスの強弱は大事だ。
今は本格的なキスに落とす訳にはいかないから、アキラは意識的に「また、後で」と宥めるみたいな柔らかい吸い方に留めておく。

ところが。舌の表面をユルユルと擦れ合わせるキスは、実は激しいキスよりもかえって体の深奥に沈んでいた官能を攪拌し、舞い上げ、呼び覚ます力があったらしい。
ヒカルが一度大きく鼻で息を吸い込んだかと思うと、急に強く吸い始めた。前戯に近い激しさを帯びたキスは、心構えのなかったアキラにとって腰にクる悦さだ。
だからこそアキラは必死で理性をかき集めると、空いていた両手でヒカルを押し戻し「こら」とたしなめた。

「…っ、わかってるけどさ。続きが出来なくて残念…ふうぅ…」
「当たり前だろう」
「この前、俺んちでは乗って来たくせに…」
「乗ってって………っ!」

ヒカルの言っていることはわかる。「乗って」には、二重の意味があるのだ。

…先日のことだ。
ヒカルの部屋で二人で料理をしていたら、最初は揉めたりもしていたのに、そのうち変な気分になってしまった。
気付いたら縺れるようにして抱き合い、キッチンのテーブルに押し付けられて体のあちこちを貪られたアキラは、まるで自分の方が料理よりも先に食べられ、ヒカルの口内で溶かされてしまったかのように全身がとろとろになってしまった。

恥ずかしい…明るいキッチンで声を我慢することも出来ずにヒカルを受け入れては、散々感じてしまった自分が。それを余すところなく見せてしまったことが。
すぐ傍にあったオイルを肝心な場所に使われたり、ワインを口移しで何度も飲まされては舌の付け根までしゃぶるようにされたり、思ってもみなかった夜になった。

「…そ、それを言うな!」
「じょっ、冗談だってば〜」

バシッとヒカルの背中を叩くと、アキラは身を離す。
すると目の端に映ったフライパンに気付いたアキラが焦げるよと目で示せば、ヒカルも「ヤバッ!」とフライパンに戻り、事なきを得た。

確かに、恋人になる前は料理中に喧嘩ごしになることも多々あった。
実際、ヒカルの誕生日には餃子を包みながらカタチが悪いだの、あんが多過ぎてはみ出るだの、子どもっぽい言い合いになり、それがまたひどく楽しくもあった。

だが最近では喧嘩どころか最中に甘い雰囲気になってしまって、そのまま料理は中断、一旦体が鎮まるところまで行き着いてからでないと食欲の方が戻って来ないこともある。

ヒカル宅のキッチンでいたしてしまった時だってそうだった。
力の抜けたアキラをお姫様抱っこしたヒカルはそのままベッドに連れ去り、頭のテッペンから爪先まで丁寧に愛した。
キッチンでの行為で十分解け切っていたアキラだったが、今度は背骨がなくなってしまったかのように頼りなくなったばかりか、意識までなくしそうなくらいに蕩かされたのだ。

記憶が繋がった時には、すっかり冷めていた料理を仕上げて用意を済ませていたヒカルに薄く笑われた―――そんなに悦かったの?と。
「俺さ、料理もだけど、コッチの腕も上がった?」などと若者らしからぬ口をきいては、アキラの汗ばんだ太ももの内側を意味深に撫で上げたヒカルを殴りたいと真剣に思ったが、悔しいことにそうするだけの力はその時のアキラには残っていなかった。



「さ、出来たぜー!食おう食おう!」

ヒカルの明るい声に促され、テーブルの支度をしていたアキラも席に着く。

「本日の献立は〜、キスのソテーとアスパラガスの乗っかった、パルメザンチーズたっぷりのリゾットに〜、ビーツの赤い色も鮮やかなボルシチに〜、リンゴと水菜と松の実のサッパリサラダだぜ!」
「凄いな…」

リゾットに使ったチーズは、塊で買ったものを専用のチーズおろし器で削ったばかりのフレッシュだ。そういう調理器具を見て回るのも、最近の二人のデートの楽しみになっていた。
キスもアスパラもバランス良く盛り付けられているし、ボルシチにはちゃんとサワークリームがこんもりと乗っていた。
サラダからはごく僅かではあるがレモンの酸味が漂って来て、食欲をそそること、この上ない。

「ほんとはさ、ビーツの残りと茹でたジャガイモでサラダにしようかと思ったけどチーズもこっくりしてるしな、サラダはサッパリ系にした。ボルシチはたくさんあるから明日まで食えるぜ」
「ありがとう…正直ここまでとは想像していなかった…」
「お前の誕生日の頃は寒くなる時期だからさ、体があったまるものを作れるようになっとこうって、ずっとメニュー考えてたんだ」
「魚を下ろすのだって慣れないと怪我しやすいだろう。指は平気か?」
「大丈夫大丈夫!心配すんなよ。へへっ…さ、食おうぜ。あったかいうちに食うのが一番だ」
「うん」

アキラの23回目の誕生日ではあるが、アキラ本人の希望で今日のバースデイケーキはなしになった。
クリスマスになれば碁会所や仕事先で付き合わされる機会が増えるのは例年のこと、だから今はいいというのがアキラの説明だった。

その代わり、シャンパンはいいものを選んだ。
少し前に仕事で一緒になった緒方とシャンパンの話題になり、アキラへの誕生日祝いということは伏せたまま、ヒカルは緒方の薀蓄をあれこれ聞いたのだ。

「クリュッグのクロ・ド・メニルが最高峰と言えばそうだが、お前みたいな小僧には勿体無い。ああいうのは通が味わうもんだしな。そうさな、お前が飲むなら…ベル・エポック辺りか。エミール・ガレくらいはお前だって知ってるだろう?ガレのボトルのアネモネが美しいんだ。これを贈られた方は、まるで花まで贈られた気分になる…」

緒方の最後の言葉がやけに印象に残ったヒカルは、そのベル・エポックを買い求めた。緒方が最高峰と称したものは軽く十万円を越えるが、こちらは三〜四万円の価格帯だったのもヒカルとしては有難かった。
シャンパンそのものもさることながら美しいボトルにも感激しているアキラに、それが緒方の見立てであると、ヒカルは忘れずに告げた。

細かい泡をシャラシャラと立てる美しいシャンパンで乾杯しつつ、「おめでとう」「ありがとう」と交わせば、気恥ずかしさにモジモジしたくなる。だからすぐに料理を口に運び、その話題で盛り上がろうとした。

好きな人と、同じ食卓で、同じものを食べる―――そのことがこんなにも幸せだとは、ヒカルもアキラも知らなかった。

「俺、お前と一緒に料理すんの好きだな…碁を打つのとは全然違うけど…一緒にいるって感じがスゲエする…」

何口か飲んだところですぐに頬を染めるヒカルは、そんなに酒が強くない。
対してアキラは、顔に出ないまま飲み続けるタイプだ。ヒカルよりは強い。

「僕もだ。君と協力して作ったものを食べる時って、それが血になり、肉になり…こう、何て言うのかな…栄養が細胞に染みこんで行くような感じがするよ」
「っ、うん!わっかるなぁ、それ!俺もおんなじ!お前みたいに上手に言えねえけど、気持ちわかる」

言葉の通りのことを、アキラも思っていたし、ヒカルも納得だった。
そしてそれ以上に初めてで不思議な感覚は―――皿から顔を上げれば、目の前で恋人がさも美味しそうに食べているその姿が目に入り、そのこと自体がアキラの栄養になっている気がするということだ。

食べるという行為はただ、口に運んで咀嚼して飲み込んでという一連の作業を指すのではないのかもしれない。
目でも耳でもいい…五感をフル活動させることで、体だけでなく心にもダイレクトに栄養を与えることが「食べる」という行為の真髄なのではないかと、ヒカルもアキラもしみじみ思うのだった。










「じゃあ、そろそろ俺…」

片付けが終わってからはゆっくりとグラスを傾けながら、二人は静かな時を過ごしてた。
だから零時に近付いた頃、不意に時計を確認して立ち上がったヒカルを、アキラは心底驚いた顔で見上げた。

「えっ…君、帰るのか?」
「うん、お前の誕生日なのに悪いな。まだ終電に間に合うから送らなくていいぜ」
「でもっ…」

でも、と。反論したくなるのは当然だが、そこから先、何と言葉をつげばいいのか、アキラにはとっさにわからなかった。

―――でも。

でも、いつだって泊まっていくじゃないか。
でも、僕は帰したくない。一緒にいたい。
でも、君はそれで平気なのか。

誕生日の夜だからって、それだけじゃない………

何を言ったとしても、ヒカルの「帰る」という決断の前にそれはアッサリと吹き飛ぶような軽さに思えた。
だったら。せめて理由を知りたい。
わかるような気はするものの、ヒカルの言葉でそれを聞かせて欲しい。

アキラが口を開きかけた時、メールが着信した。
見ろよ、待ってるからとヒカルが笑顔で促すから、アキラも渋々出る。それは芦原からだった。

「えっ…今夜、ここに?」

部屋の鍵をなくしたので明日、不動産屋が開くまで家に入れないから、一番近いアキラの家に一晩泊めて欲しいというのが、芦原からのメールの内容だった。

「…そっか、じゃ、ますます俺、帰らなくちゃな」

アキラを諦めさせるいい口実が出来たとばかりに、ヒカルがほっとした顔を見せた。そのことにアキラがカチンと来ない筈はない。

「それは理由にならない!君がいても芦原さんは遠慮なんかしないし、君だってそんな必要はないだろう!…そうじゃない、進藤、君は自ら今日は泊まらないと言った理由を、もっと僕を納得させるように言うべきだ」

恋人との会話だというのに何て詰問調で可愛げのない言い方をするのだろうと、アキラは自分で自分が嫌になる。
それでもこのままヒカルを帰せない。別れたくない。
芦原が泊まりに来るにしても、その前に納得出来なければ、この誕生日が台無しになるだけだ。

「進藤、言え。どうして今夜、泊まって行かない?」
「あー、それは…だって俺、泊まったら絶対に抱きたくなるし」
「…え?」

アッサリと核心に触れる答えが返って来て、拍子抜けする。

「だからっ…我慢出来ねえ。お前のこと、襲っちまう。芦原さんがいてもいなくても、それは多分、変わんねえ」
「襲うって…僕はいつも君に襲われてるのか!変な言い方するな!」

勢いよく踏み込んで来たアキラを除けようと、反射的にヒカルが仰け反った。

「大体君は…いつも、自分が主導権を握ってる風な口をきいて…そういうのは気に食わない!」
「塔矢っ、な、なに切れてんだよ!?…え…―――ッ!?」

ヒカルの目が零れそうなくらい見開かれた時、アキラは既にその両腕をガッシリと掴み、ヒカルに口付けていた。
歯と歯がぶつかる音を、耳でなく骨で聞く。
いきなり与えられた深い…というよりも乱暴な口付けに、二人は本音を見せ合うきっかけを得たのかもしれない。
どんなに好きであっても付き合いが長くても、本当の気持ちを伝え合うのはどうしてこうも難しいのかと、互いに歯がゆく、もどかしく、いっそ暴れ出したいくらいの情動を覚える。
やがて、ヒカルはアキラの頬を両手で掴むようにして無理矢理唇を引き剥がすと、恋人の目を見詰めながら語り出した。

「この前の対局の日にお前、顔色悪そうで…俺、前の晩に泊まってったからそうかなって。ほら、最初の頃にさ、対局前夜とか大事なことの前にはそいういうことすんの控えようって話したりもしたけど、結局はなし崩し的っつーか…どっちがどっちに来ても帰るなんて、んなこと出来ねーし…」

…ああ、確かに。アキラには思い当たる節があった。
先週、ヒカルと抱き合った後、多少体調不良を感じながら対局に臨んだ。見ていた芦原にも元気がなさそうだけど、ちゃんと食べてるの?と、訊ねられるくらいに。
でもそれはヒカルのせいだなんてこれっぽっちも思わなかった。自分の管理能力の問題だとしか、アキラには考えられなかったのだ。

「お前、これから暮れまで仕事が詰まってて大変じゃん?もうすぐお袋さんたちも帰国するし、年末年始は仕事だけじゃなくて家の用事でもどんだけ忙しいか…友達として去年までを見てっから…」

ヒカルの大きな手がアキラの頬、顎と、優しく撫で降りる。そのまま首筋、鎖骨へと流れ、首裏に差し入れられた温かい手は、今度はアキラの髪をサラサラと弄んだ。
されるがままに、アキラもヒカルの目を見詰め続ける。アキラの瞳にはもう、先ほどまでの激情はなかった。

「会ったら抱かずには離れられない俺が悪い。お前のこと、好きになり過ぎた―――」

明らかに底なしに甘い愛の言葉であるのに、それを口にするヒカルの表情はまるで苦いものを飲み込んだ時のそれだ。
アキラも、胸をきつく引き絞られるような感覚に襲われた。

「もっと大切にしたいって思うのに…」

言いながら、ヒカルの腕が今度は大きな羽のようにたおやかで優しい動きを見せて、アキラを包み込んだ。
こんな風に大切に…と、濡れた囁き声がアキラの耳をくすぐる。
足元から波のような震えがせり上がり、それは今感じたばかりの胸の痛みと同様、歓喜というものだとアキラは思った。
…人を愛し、人に愛されたゆえの、胸苦しいまでの歓びだ。

「それは君のせいなのか?君だけの意志だとでも?」
「…っ」
「どうして僕らは一緒にいるんだ?それぞれ勝手に、自分のやり方で相手を愛するためか?」
「塔矢…」
「君と抱き合いたいって、会うたびに思うのは僕だって一緒だ。体に負担をかけ、碁にも影響があると思うのなら、僕は君に応じたりしない。君に流されてる訳じゃない。僕をみくびるな」

どうしてそんなことすらわからないんだとばかりに、アキラは背中に回した手でヒカルの腰の辺りを軽く叩く。
それが悪戯を見咎められた子どものような気持ちにさせるから、ヒカルは身を捩って笑うしかなかった。

「俺は俺なりに、必死だったんだけどな?どうすれば、お前のこと大切に出来るのかなって―――」
「それを自分だけで悩むのが間違いだって、そう言ってるだろう」

進藤、僕を好きか?と、大真面目な口調と表情で訊ねられれば、泣きそうな顔でヒカルが頷く。

「じゃあ泊まって行け。遠慮したら許さない。一人で勝手に僕らのことを考えるな。…捨てるぞ?」
「捨てる、って…止せよ、塔矢!コイツ、俺を驚かせるようなこと言いやがって!」

ヒカルがおどけたように叫んでは、そのまま抱擁を深くした。
重なる鼓動もぬくもりも全てが溶け合えば、二人の胸には否応なく込み上げるものがある…

「いいのか…」

溜息のようなヒカルの囁き声が、どこか切なくアキラの耳に響いた。

「何が………進藤………」

アキラも、聞き取れないほど小さな声で聞き返した。

「お前の誕生日を二人っきりで祝ってさ、泊まってくの…友達だから別に変に思わないのが普通だろうけど、もしかしたら…」
「わかってる。親しい人ほど僕らの変化を感じ取るかもしれないな。だからいつも人前では友達の顔でいようと、今までだって確認し合わなくてもそうして来た」
「うん…うまくやれてるのか、自信はねえけどな」

甘えるように、ヒカルが頬を頬で撫でようとする。まるで愛撫のような仕草を、アキラはおとなしく享受して色のある吐息を零した。

「ん…っ…これまで触れてはいけないことのように避けて来たけれど…いつか、誰かに、知られる。その可能性が、ある」

僕らの関係はと、アキラがゆっくりと声に出せば、それはヒカルの顔にも真剣な表情を呼んだ。

「当然だよな。俺ら、これからもずっと一緒に生きて行くんだし。それだけは決まってる―――」
「うん…だから、自然でいいんじゃないか?」
「自然…」
「芦原さんには君が祝ってくれたこと、隠したくない。勿論、付き合っていることを言う必要もない。ただ、ありのままの僕らでいないか?」

殊更、嘘をつき続けて知られないようにすることはないと潔く言う恋人に、ヒカルは感動さえ覚える。

「そうだな。お前の言うこと…わかるよ。そんな俺らを見て芦原さんがどう思うか、それは俺らにはどうしようもねえことだしな」
「うん。それにこれからもきっと、同じようなことを潜り抜けて行くんだ。そうやって、僕らは生きて行くんだ」

だったら、覚悟を決めよう。周囲と向き合おう。
たとえすぐには無理でも、僕らの生き方は貫き通すことでしか示せない、受け入れてもらえないんじゃないだろうか―――

己に言い聞かせるように言葉を選んで語るアキラに「うん、うん」と頷きながら、ヒカルは抱擁の腕に一層力をこめることで愛情を注ごうとした。



ほどなく呼び鈴がなった。アキラの返信を待つ余裕もなくやって来た芦原であることは間違いない。

「きっと凍えてるよ、今夜は冷えるから」
「そうだろうなぁ…良かったらシチュー、すすめてみるか」
「それはいい。芦原さんも料理好きだし、喜ぶんじゃないかな」

全てをわかり合ったかのように穏やかな微笑みを交わし、それからヒカルとアキラは身を離した。
しかしその代わりにと、手と手を繋ぐ。

「あったけえ…お前の手…」

ヒカルがうっとりと言う。

「君の料理のおかげだ。体の芯まで、まだ温もってる。ありがとう」
「そっか…良かった。そう言われただけで、なんか勇気が湧くな…どうしてだろ…」

偽りのないその言葉に、アキラも頷いた。



ヒカルの誕生日の夜、二人は友達で居続けることを止め、新しい関係に踏み出した。
それは友達よりは遥かに難しいけれど、遥かに深く、尊い、永遠の関係を得たいと互いが切望したからだ。そうせざるを得ないほど、心がいっぱいになってしまったからだ。

数ヶ月を経た今になって、溢れ出した想いは確実に二人を運命の河へと押し流し、決して後戻りの出来ない流れに乗せてしまったのだということを、改めて知る。

玄関のすりガラスの向こうに揺れる芦原の影に向かって歩み寄ろうとしたアキラの手を、ヒカルは最後にもう一度ぎゅうっと強く握り締めてから。



放した。














アキラさん、お誕生日おめでとう!!
今年も塔矢アキラお誕生祭に参加させていただき、皆さんとお祝い出来て嬉しいですv

メニュー協力:ヒカル誕生日に引き続き東のGさま(もう足を向けて寝られません!!ありがとうありがとう!!)

NOVEL