― 12月24日・25日・28日 ―
クリスマスツリーを飾るなんて、子供の頃しか縁のないものだと思っていた。
実際、僕が小学生くらいまでは母が小さいものを用意してくれたが、僕はキリスト教の私立の学校に通っていたから、校内に飾られた大きなもみの木で十分だった。
その絶えて久しい習慣を復活させて、僕が数年ぶりに家にツリーを飾ることになったのは、進藤のせいだ。
彼はホームセンターで安売りしていたというツリーを僕のうちに持ち込み、僕に有無を言わさず飾ってしまった。
飾りつけを終えると、彼は満足そうに自分の作品を見ては頷いていた。
オーナメントはごくシンプルで、オーソドックスなものばかり。
どうしてこれが?と、改めて問われればわからないような、キャンディケインやボール、リボンや綿や、ライトやベルや…
ああ、こうして見ると混沌としているな。
「やっぱお前んちくらい広くねーとこういうもんは映えねーな。一番デッカイサイズにして正解だったぜ。」
「畳の部屋にツリーはどうだろう…しかも君、既に今日はイブだ。遅くないか、今更。」
「だーっから安売りしてたんじゃんか。いいのいいの。来年も再来年も、永久に使えるんだから。」
「え、じゃあこれ、来年も飾るのか?」
「なんだよ〜、そんな顔すんなよ。来年もその先も、俺が飾りつけ手伝ってやるからさ。」
「ふ〜ん、その言葉忘れるなよ。」
そんなやり取りを、暗くした部屋の中で点滅するツリーの灯りを見ながらした。
ちか、ちか、ちか…規則的に光る、色とりどりの灯り。
何だか懐かしいような切ないような、不思議な気持ちにさせられる……
「街のデッカイやつもいいけどさ、こういう家の中で見るのって子供ん頃を思い出していいよな…。」
「うん…。」
「俺、昔こういうの全然知らねー友達と一緒に街歩いてて、スッゲーそいつがはしゃいでさ、面白かったな、あれは。どうして異国の行事を祝うのですかって…でも、とても綺麗ですねって気に入って、さ…ははは…。」
「そうか…そうだな、どうしてだろう…。」
僕は、その友達が誰なのか訊かなかった。
また暫く、僕らは黙ったままその光を見詰めた。
「なあ、外国の映画とかでツリーの下にプレゼント置くじゃん?今夜がイブっつーことはさ、今夜中には置いて、それから明日の朝に開けるもんだよな?」
「だから今更…って言っただろう。それとも君、何か僕に置いてくれるのか?プレゼント…。」
「うう〜、それは………そうだっ!俺が一晩中、この木の下にいるってのは?俺がプレゼント。ナンならリボンも結ぶぜ。」
「はははっ!それはいいね、ナイスだ。毛布くらいは貸すよ、この部屋寒いし。そして明日は一日中僕と打ってくれるんだな?」
「へ〜い、わかってますって。どうせ俺をあげる…なんて迫っても、お前が喜ぶのは俺の碁だもんな。そんなのわかってるって…。」
進藤のぼやきは聞こえていたが、やっぱりその意味を深く問うことはしなかった。
―――僕らの間には、暗黙の了解というものがいくつも存在し、そしてそれが次第に僕らを真綿でくるむようになっていくのがわかっていた。
わかってはいたけれど。
でもまだ、だ。
今はまだその時でないと思うから。
僕は、言わないままに互いに感じ合って来たことを大事にしたい、今のこの関係を大事にしたいと。
…そう思っていた。
「うっそ〜、やっぱ一晩この木の下にいるなんて馬鹿らし〜、寒くて風邪ひいちまうぜ、お前んち隙間風ビュウビュウだもんな!」
明るく言い捨てて、進藤は帰って行った。
僕は。
イブの夜に一人残されたが、淋しいとは思わなかった。
初めから一人で過ごす予定だったし。
いつもと何もかわらない夜だと言えばそうだし。
進藤が飾っていったツリーが、まるで彼そのもののように賑やかに輝いていたし…
それに。
明日になったら、進藤ヒカルがやって来る。
きっと、やって来る。
だから僕は、安心して眠りについた。
何年かぶりにサンタがやって来ることを信じて。
果たして彼は次の日もやって来て、そして僕に小さなプレゼントをくれた。
「それ、一個だけ残ってたの。昨日あの後さ、開いてる店探し回って大変だった…。」
有名なクリスタルメーカーが出している、ガラスのオーナメント。
雪の結晶をかたどったそれは、滑らかな質感で、透明度が高い。
ありがとうと言う僕に、進藤が飾ってみろよと促す。
こういうものはコレクションするものじゃないかと思ったが、惜しげもなく飾るのもまたいいだろう。
「…綺麗だね。」
「ここの、毎年新しいデザインが出るんだって。お前が気に入ったら来年も…。」
そう言い掛けた彼の腕を引いて、僕は碁盤へと導いた。
「さあ、進藤。約束どおり一局。」
「一局?馬鹿言うな、今日は打って打って打ちまくるぜ〜。」
力強く笑い掛けると、進藤もクシャ…と、その顔を崩して言った。
いつか遠い日。
クリスマスには僕らも、碁以外のことをするようになるかもしれないという予感に密かに心躍らせながら、怯えながら…
僕らはツリーの下で、その華やかさには似つかわしくない白と黒が織り成す世界に没頭したのだった。
暮れも押し迫った頃になると、うちでは恒例行事が行われる。
門下の人たちが一年お世話になったお礼にと、大掃除や買出しの手伝いをしてくれるのだ。
今年も両親はその日に合わせて帰国し、早朝から年中行事は始まった。
「塔矢〜、ツリーの片付け終わったぜ〜、どこに仕舞うの?」
「ああ、それはね……。」
今年は進藤もいる。
ツリーを持ち込んだ彼が片付けもするよと申し出てくれたのを、どうせ28日の大掃除の時に全部やっちゃうからいいよと断ると、じゃあ俺もその日、掃除を手伝うと言い出したのだ。
断っても結局押しかけてくるのは目に見えているから、好きにさせた。
「何ていうのか……どうもさ、こういうのって真昼間に明るいところで片付けてるとちょっとばっか……淋しい感じだよな。」
「うん、そうだね……。」
君がくれたこのツリー、来年も再来年も飾ることが出来るだろうか。
そして、それを君と一緒に見ることが出来るだろうか……
その想いを、進藤も僕も口にすることはなく。
僕らは傘のように折り畳んだツリー本体と、飾り物を入れた箱を納戸へと運んだ。
「なあ、塔矢……えっと、さっき片付けしてて気が付いたんだけど……俺が25日に買って来たあのオーナメント……。」
「あ、言い忘れてた。それなら僕が別のところに仕舞ったんだ。」
「え……どして。気に入らなかった?」
「はぁ?違うよ!だって、あれは君がわざわざ選んでくれたものじゃないか。特別だと思うから……。」
「そっか……良かったぁ……なくなっちゃったのかと思って、訊くのドキドキしちゃった。」
「そんなことっ!僕がなくす訳ないだろう、君がくれたもの……。」
「や、それならいいんだ。そんな高いもんでもねーからさ……。」
ぶっきらぼうに言って背を向けた進藤。
彼の背中を見ると、急に胸の奥が引き絞られるような感覚に襲われた。
クリスマス・イブの夜も。次の日に彼が現れた時も。
この頃ではよく、こんな風にどうしたらいいのかわからない、何を言えばいいのかわからない、そんな気持ちにさせられる……
「あのさ、塔矢……えっと……。」
「……ん?」
僕がボンヤリしていると不審に思ったのだろうか。進藤が僕の顔を覗き込んで来る。
僕は何事もなかったように、口の端をクイと上げて僕にしては愛想笑いに近い顔を作ってみた。
進藤は何か言いたげな様子で、暫く口を開けたり閉じたりを繰り返して。
……それから、不自然なほど明るいトーンで言った。
「あのさ〜、こんな風に自分ちでもじいちゃんちでもない家の大掃除を手伝うなんてさ、想像もしてなかったぜっ!俺、掃除って大ッキライで〜、俺の部屋、まだめちゃくちゃなのにさ〜、へっへっ……。」
進藤の言葉に、ついさっきまでの妙な緊張感は和らいで、顔がほころんだ。
そう。彼は、昨日も森下先生のお宅のお手伝いをして来たらしい。
「そうだよね。どこでもそうじゃないと思うし、時代が変わればこういうこともなくなるかもだけど……森下先生のところやうちは、古株のお弟子さんたちがしっかりしてらっしゃるから……。」
「そうそう、ビックリだよ〜、緒方先生ってば、あの車でお前のかーさんと買出しに行っちゃうんだもん!高級スーパーに乗りつけるとさ、まるでホストのおつかいみたいじゃん?」
「あはは……ホストって何だ、それは。まあ確かに……余りかさばるものを運ぶには適さない車だと思うけど。緒方さんは意外と僕の母のお気に入りだから。」
「ひゃ〜、あの緒方さんが?」
「だって僕が生まれる前から毎年手伝ってくれているんだよ?緒方さんにとっても外せない年中行事になってるんじゃないか?まだ家庭持ちじゃないからさ、こっちも気を遣わなくていいし。」
「ほ〜んと、独身って年末年始淋しいんじゃねーの?」
「こらっ!進藤、お前何を人のこと噂してる。」
「わ〜っ!緒方先生っ。お、かえりっ!買い物ご苦労さま〜。」
「お前に言われたくないな。さっさと車から荷物運ぶの手伝え。後から配達もあるからな。玄関から台所へ運ぶのはお前の役目だ。」
「は〜いはい。塔矢んちの台所って玄関から遠いんだよな。」
「あ、でも配達の人はお勝手口に直接来てくれるよ。そっちにインターホンもあるし。」
「そうだ、お前んちって台所の脇にお勝手なんちゃらがあるんだった!」
「何だ?それは……くく……。」
そうやって僕らは、一日中働いた。
時々はお喋りしてさぼったり、そしたら緒方さんに見つかって小突かれたり、ワイワイ騒ぎながら過ごした。
楽しかった。
凄く、楽しかった…こんな風に進藤と無邪気に過ごせる時間が、とても大事な時間のような気がして。
何故だろう―――
いずれは失われてしまうかもと畏れているから、そう感じてしまうのだろうか……
時々。本当に時々だったが、進藤が僕をじーっと見ていたり、それでいて僕と目が合うとスッ…と逸らしたり。
様子が変だなと伺うと、明るく振舞っては誤魔化そうとしているようにも見えた。
最後に僕らがした仕事は、碁石洗いだった。
これは、弟子の中でも一番若い人がすることになっていて、僕も小さい頃から必ず手伝っていた。
この頃ではすっかり僕の役目だ。
「そういや俺、部の先輩と一緒に碁石洗いってしたなぁ……。」
「へぇ……。」
夕闇が、静かに忍び寄って来るころ。
僕らは洗面所のシンクで、流れ作業のようにして洗った。
窓から差し込むオレンジ色の光が、急速に柔らかく、暗いものへと変化し、部屋は翳ってゆく。
楽しい時間の終わりに必ず訪れる、不思議にもの淋しい時間。
その中に、僕らはただ静かに佇んで、過ぎてゆくもの全てを感じていた。
一つ、一つ。
洗われていく石は冷たく無機質な感触なのに、僕らが触れた途端に息吹を感じさせるものへと変わっていく気がする……
「塔矢……何、考えてる?」
「……え?」
「今、お前、うっすら笑ってたぞ?顔が……。」
進藤は俯き加減で、こちらを見てはいなかった。
カチャカチャと碁石のぶつかり合う音の間を縫うようにして、彼の声が静かに響いて来る……
「そう?……そうかな。うん、そうだね。今、碁石って綺麗だな、生きてるみたいって思ってた。」
「ふうん、面白れーの。俺もさ、似たようなこと思ってた。」
「そうなの?どういう……。」
「うん、いつもは全然意識しないけどこうして改めて見るとさ、コロンとした形が可愛いじゃん?とか、白って言っても深い色してんなぁとか……。」
「へえ……君でもそういうこと、思うんだ。」
「馬鹿にしやがって……。」
「ふふ……そんなんじゃないけど。そう言えば昔、誰だったかなぁ……お弟子さんが小さかった僕に言ったっけ。洗う時は、今年一年ありがとうって、来年もいい碁を打たせてくださいって、石に感謝しながらやりなさいって。」
「へえ、誰?そういうこと言うの?芦原さん?」
「いや、芦原さんはもっと僕が大きくなってからの入門だから。」
「じゃあ、やっぱ……。」
「うん、そうだな……多分。」
「あの人?」
「そうじゃない?」
「マ、マジ?あの人がそんなオトメなこと、言う?」
「だって他には……。」
「考えらんねーっ!今の緒方先生からはっ!」
そこで僕らは大爆笑した。
腹がよじれるほど、涙が滲むほど、思いっきり笑った。
明るく笑っているうちに、日はちゃんと沈んでいったようだ。僕らが淋しいと感じる間もなく―――
締めくくりは全員でお鍋を囲んで、それこそ賑やかな一日の最後に相応しい夕べを過ごすのが慣例だ。
今日はたまたま父が所用で出掛けていたが、手伝ってくれた人全員がお腹をすかせて座敷に集まっていた。
ところが進藤は、明日も仕事が入っているからと夕飯を待たずに帰ると言う。
あんなに何か言いたげだったのに、呆気なく帰るわと言われて僕が言葉を失くしていると、背後から緒方さんが進藤の肩を掴んだ。
「おい、進藤。夕飯はどうでもいいが、俺の褒美を受け取ってから帰れ。」
「は〜、褒美って、今日のお手伝いの?」
「そうだ、塔矢門下でもないくせになかなか見上げた心がけだ!アキラ君に取り入ろうとしているのは見え見えだがなっ!はっはっは〜。」
「緒方先生……もうお酒飲んでんの?ひゃ〜、くっせぇ……。」
「確かに酒臭いな。いただいた二十年ものの紹興酒があったけど、その匂いだ。」
「塔矢ぁ、さっきの碁石洗いの話の人と、本当に同一人物なのかよ〜、夢が壊れる〜。」
進藤のふざけた口調がおかしい。
僕も苦笑するしかなくて口元を抑えていたら、緒方さんは進藤の肩だけでなく頭まで強く叩いた。
「おいっ!さっさと来い、進藤!碁盤を用意しろ!」
「ええぇ〜、今から打つの?だって俺、もう帰らないと……。」
「そうですよ、緒方さん。お酒だって入っているのに。」
「やっかましいぞ〜、アキラ君!酒が入ってて丁度いいんだ、進藤相手なら!」
「俺、やだ〜、酔っ払いと打つのが褒美なんて……。」
僕も相槌を打って、緒方さんに抗議をしようとしたその時。
進藤が、あっ!と大きな声を上げたので、驚いてそちらを見た。
明るい瞳が見開かれ、どこか遠くを見ている。
呟くような声は、僕にも誰にも聞かせようと思ったものではなかったらしい。
「そうだ……昔、酔っ払いの緒方先生と打ったことがあった……。」
「進藤?」
「―――わかったよ、打つ。今度は俺が相手だ。酔っ払いになんか負けるかよ。覚悟してな、緒方先生。」
強気の言葉とは裏腹に、笑顔はどことなく曖昧で。
そして大人びていた―――
驚いた。
進藤の顔つきが変わるのには慣れていたけれど、しかしさっきの茫洋とした風情には久しぶりに驚かされた。
心が一瞬でどこかに飛んで、そして一巡りしては戻って来たかのような。
彼の心の旅の真相は、誰にもわからない。
ああ……
そうか。また、か。
クリスマスツリーを見ながら彼が語った、想い出の断片。
僕だから話してくれたであろうあの話と同じく、先ほどの呟きも「彼」に繋がる何か―――なのだろう。
その想い出がどれだけ彼の中で大きいのかと思うと、僕は自分の無力さを思い知るが、それだってどうしようもない。
そう……進藤と一緒にいるようになって、僕はどうしようもないと思うことが出来た。
それは進藤が教えてくれたことの、一つだ。
―――人生にはどうしようもないことがある。
そして、ただ時を待つしか出来ないこともまた、世の中にはある―――
己の精進だけで何とでもなると邁進して来た道に、初めて彼の存在が突きつけて来た衝撃であり、大きな壁だった。
楽しいだけではなかった。
今日みたいにワイワイと歳相応な時間を過ごすのと同じくらい、この数年で進藤ヒカルが僕に教えてくれた感情はたくさんある。
そしてそれは淡いものから凄まじいものまで、実に様々だった―――
緒方さんと進藤の碁は、途中から緒方さんが酔いをさますべくペットボトルの水を飲み干すほどの勢いで流し込んでは真剣に向き合い始めたことでもわかるように、緊迫した展開になった。
酔っ払いを言い訳に負けるには、余りにも悔しいと思わせるほどの碁だ。
「な〜んだ……緒方先生ってば、本気になっちゃったのぉ?」
茶化しながらも、進藤も嬉しそうだった。茶色の瞳が、イキイキと輝いている。
時間がないから持ち時間はなしの早碁で、それもまた酔っ払いには不利だったが、明らかに進藤は優勢を保って最後まで突っ走った。
居合わせた全員が熱く検討に加わり、僕も打ちたくて打ちたくてたまらない気持ちを押さえ込むのに必死だった。
「いい碁だった。惜しむらくは緒方さんが最初からシラフだと良かったのに。」
「はは、あれはあれでいいじゃん?丁度いいハンデになったし。」
進藤を玄関まで送ったが、まだ話したりない気がして今度は道端までついて行く。
二人で、とりとめもない話をポツリポツリとする。離れがたい気持ちが高まる。
……やっぱり。
最後に見た碁の印象が強くて、その興奮が尾を引いているのかな?
「僕も打ちたかったな、君と。今年最後に見た君の碁が、暫くは忘れられないと思うよ。」
「ああ?そっかなぁ、そんなにいい碁だったっけ?ふぅ……お前は碁のことになると、恥ずかしげもなくそういうこと言うよな、全く……。でも、そっか……今年会えるのもこれが最後、かな。」
「うん……。」
沈黙が降りる。
いたたまれない気分になって、僕はまた碁に戻った。気詰まりな時は、碁を持ち出せば何とか会話は続く。
「ねえ、さっきの中盤の手だけど、ほら、右上のシマリにツケた……。」
「ああ、もうっ!お前って碁ばっか―――いいよ、もう、あれは。じゃあなっ!」
「あ、ああ……ご免、引き止めて。」
投げやりに言い捨てると、進藤は大きく手を振った。
今時あんな大袈裟に子供でも振らないよと思いつつ、彼の姿が小さくなって消えるまで、僕もその場に立ち尽くして見送った。
部屋に戻って一息つく。
流石に今日は疲れたなぁと腰を下ろした時、携帯がなった。
驚いた。それは、進藤からだった。
「どうした?忘れ物?」
「いや、そうじゃないんだけど……あ、やっぱそうかも、忘れ物。」
「え?気が付かなかった、ご免。何だろう?」
「モノじゃないんだけど……。」
「え?どういう……。」
「忘れ物は、そういうんじゃなくってさ……。」
「……ああっ!そうか、君もやっぱり打ち足りなかったのか?だったら何とか時間を作ろうよ。そうだなぁ……30日は碁会所に挨拶に行くから……。」
合点がいった。
彼がずっと何か言いたげだったのは、きっと僕と打ちたかったんだろう。
頭の中で時間のやり繰りを考え始めた僕に、進藤が慌てた声で言った。
「違うって。違うんだって。」
「はぁ?違うって……碁のことじゃないのか?」
「だから……打つのなんかいつでも出来るじゃん!本当にそうしたかったら、緒方先生なんかほっといてお前と打ったよ。」
「じゃあ……。」
「碁なんかいいんだ……打つのなんてどうだって……んなことより……その、俺、お前と行きたいなって……は、つもーで。」
「はっつもう?……何だ、それ?」
「馬鹿っ!お前ってホント、馬鹿………………初詣っ!お前、俺と一緒に初詣に行かないかなって!そ、それを言いたくて……。」
「初詣……あ、ああ、そういうこと……。」
表面的には冷静さを装っていたが、心の中には嵐が巻き起こっていた。
―――馬鹿っ!
馬鹿は君だ、君の方だっ……進藤の、大馬鹿野郎っ!!
どうして。どうして、そんなことを、言うんだ……
ずっと言いたくて、でもなかなか言い出せなくて、時間ばかりが過ぎて、結局一度はさよならと手を振って別れて、それでもやっぱりどうしても言いたくて言いたくて仕方がないから、今やっと、ありったけの勇気をかき集めて電話をして来たんだという雰囲気をいっぱいに漂わせて。
どうして、もっと軽くテキトーな調子で誘って来ないんだ!?いつもみたいに誘って来ればいいじゃないかっ!?
そんな風にされたら、僕も同じ重さで応えなくてはならないと……
応えたいと、思ってしまうじゃないか…………
僕と打つよりも、ただ僕と一緒にいたいなんて―――初詣なんかに行きたいなんて。
君が僕と打ちたいと言うだけでも十分嬉しいのに、打つことが目的ではなく、僕と一緒に過ごしたいだけだと。
そんな……そんな思ってもみなかったことを決死の想いで言い出だす君に、僕の全身で、心の全てで、応えたいと思ってしまう―――
碁打ちの塔矢アキラより、ただ一人の人間である僕を求めてくれる。
そのことが、僕を震えるほど幸せな気持ちにしてくれることを。
君は。
君は、わかっているんだろうか…………
「塔矢?」
はっとなった。
ああぁ……マズイ。
この沈黙は、マズイ。
こんなに間を開けてしまっては、僕が彼の申し出に過剰に反応し、それについて考え込んだことを表しているじゃないか。
もっと軽く切り返さなければ。そうしなければいけなかったのに。
変な間が出来たことで、進藤に僕の心の嵐がわかってしまったらどしようと慌てた。
進藤といると、時として自分のことすらコントロール出来なくなる。情けない。
「もしかしたらお前、家族と行くからそれで……。」
「初詣ね、家族とは確かに元旦に行くけど。君が言うのはいつのこと?」
「あ、良かったら……大晦日に会って、除夜の鐘を聞きながらっていうのがらしくていいかな。」
「いいよ、行こうか。たまにはそういうのもいいかも。」
「ほんと?本当に?」
「うん、別に初詣くらい……。」
「じゃあ、また連絡する!」
「あ、進藤。三が日のうちに、僕のうちにも寄ったら?門下の人たちもお年賀に来たら必ずいただくんだけど、お父さんからお年玉がもらえるよ、きっと。」
「へ?俺にもくれるかな?」
「勿論。いや、君にこそあげたいんじゃないのかなぁ?」
「……お年玉って……何か、や〜な予感がする。」
「はっはっは……現金じゃないよっ、確かにっ!でも、塔矢行洋に打ってもらえるんだから、棋士としては最高のお年玉じゃないのか。」
僕が高らかに笑うと、進藤が電話の向こうで大袈裟に叫ぶのが聞こえた。
僕はようやく安堵すると同時に、少しばかり愉快な気持ちにもなれたのだった。
また、会える。
年が改まる前に、君と会える。
年をまたいで、君の横にいられる。
嬉しい。
君と二人で初詣に行くんだ。
嬉しい。
碁と関係のないお出掛けなんて、多分初めてだ。
嬉しい。
凄く、嬉しい……
通話を切った後も、手の中の携帯がいつまでも温かく感じられた。
僕は手の中のそれをそっと胸に当てて、握り締めた。
その時。
進藤と洗ったばかりの碁石が入った碁笥が目に入り、僕は無性にその石に触りたくなって、本当に手を伸ばした。
打つ以外の目的で石を触りたいなんて思うのは初めてのことで、そんな自分にとても驚かされる……
それはあと数日で今年も終わろうとしていた日の、出来事だった。