― 夜明け ―









「塔矢。俺、帰らないから。今夜。」

 アキラは、そうか、やっぱり……と、思う。予想していた通りだった。

「そう……行くところは決まってるのか?」
「うん、大丈夫。もう決めてるから。」
「わかった。じゃあ、気を付けて。」

 それ以上、訊く必要はなかったし、そのつもりもなかった。
 アキラは電話を切ると、リビングのソファに深く沈み込む。

 今夜のヒカルは自分といたくないのではと、そう思っていた。
 だから、きっと今夜はこの部屋で一人きりで過ごすことになると。
 それもアキラには、よくわかっていた。





 ―――難しい相手を好きになってしまった。





 アキラは天井を仰いで、深い溜め息をつく。
 前髪をかきあげると、そっと……静かに目を閉じた。





 ヒカルとアキラが秘密裏に付き合い出して、およそ半年。最初からヒカルは、一緒に住みたいと言っていた。
 その彼の願いを受け入れて同居を始めたのは、ふた月ほど前のことだ。
 アキラも散々逡巡したあげくの決断だったし、どのような困難が起こるか頭の中でシミュレーションもしていた。

 だから。
 今夜ヒカルが同居を始めて以来初めて、仕事以外で外泊するだろうということもアキラには予想がついた。

 今日の昼間。アキラとの直接対決に、ヒカルが負けたその時に―――





 この二ヶ月は、概ね上手くいっていた。

 小さな行き違いや喧嘩はあったものの、暫く口をきかないでいれば、半日顔を見ないでいれば、結局は耐え切れなくなってどちらからともなく碁盤を持ち出す。
 そしてその先に進むことが許されさえすれば、恋人しての甘い時間を重ねることで全ての負の状況が無かったことになる。

 だが。
 もしも二人が公式戦で戦うことになれば、それは今までとは全く異なった問題を孕んでいる。ヒカルもアキラも棋士である以上、必ずやって来る、それも近い内にやって来るだろうとわかっていた。

 昨日の夜も普通に過ごしていた。朝も、いつも通り先にアキラが、少し後にヒカルがこの家を出た。





 そして。

 勝者はアキラで。

 敗者はヒカルで。

 それは、白黒が残酷なまでにはっきりと分けられる、厳しい世界。





 碁の内容が酷かった訳ではなかった。
 いや、むしろ近頃ではなかったほどの緊迫感であり、とても二十歳の二人が作る棋譜とは思えないとまで絶賛された。
 対局後の脱力感は、今思い出しても体の末端に痺れを起させる。

 だからこそ、ヒカルの悔しさは如何ばかりかと思う。途中、アキラが劣勢に立たされ、涼しい顔を歪ませた瞬間だって幾度となくあったのだ。





 自分でも、きっと同じ気持ちになった。
 仮に自分が負けたとして。
 ヒカルのように外泊して同居する家に戻らないということはなくとも、せめて顔を見ずにさっさと自室に引き篭っただろう。





 ―――矢張り、とても難しい恋を始めてしまった。





 誰よりも欲しいと、彼無しには生きられないと思う、その相手と、ギリギリの高みにおいて命を削るほどの戦いを強いられる。
 たった一戦ですら、こうだ。タイトル戦ともなれば、数ヶ月に渡って五戦、七戦と戦うことになる。

 そんなことが可能だろうか。
 同居云々だけでなく、愛し合っていくことにだって疲れ果てる日が来るのではないだろうか。

 もしも違う家に住んでさえいれば、こんなことまで一気に突き詰めて考えなくても良かったかもしれないな……





 想いが通じ合って、まだ半年。本当だったらもっと甘いだけの時期だろう。
 それなのに、自分達が棋士であるばかりにもうこんな胸苦しい夜を迎えなければならないなんて……





 酷い。これは酷いんじゃないか?

 どうして僕らだけが、愛し合うことに専念出来ない。

 最初からこの夜が定められた上での、恋の始まりだった。





 そう思うと、アキラは再び溜め息が漏れるのを禁じ得ない。
 そして、小さく笑った。自嘲の笑いだった。





 馬鹿だな……どうしてこんな弱気になる。
 たったこれだけのことで……まだ歩き始めたばかりの道で、もう足を留めて引き返そうかどうか後ろを振り向くなんて、自分らしくない。全く自分らしくない。

 それもこれも―――相手が進藤ヒカルだから。





 ……いや、待てよ。

 友達同士が同居して、それから恋人になったのではなく、恋人になったから同居したということは、ある意味僕らがこれから超えていくべき問題をいち早く浮き彫りにしてくれたのだ。
 同居しているからこその功罪は色々あれど、もしかしたらこれは功の方なのかもしれないな……





 アキラは、恋人の去った部屋を見渡した。

 それぞれの部屋があって、十畳ほどのリビングは共有地帯だ。その横に、僅か四畳半の畳の部屋が続いておりそこで打つ。

 リビングには、ヒカルの置いていったCDや雑誌が転がっていた。コーヒーを飲んだ後のカップも空にはなっているものの、テーブルの上にそのままだ。

 ヒカルが今朝、そのカップに口を付けて飲んだのだと思うと、思わずカップの淵辺りに視線が引っ張られた。
 ヒカルの口元が蘇る。少しすぼめて、突き出すようにカップに寄せる口元が。





 途端に―――
 口元だけだった夢想が、ヒカルの全体像を想起させた。
 一瞬だったが、まるでそこに腰掛けて伏目がちにコ−ヒーを啜っているヒカルがいるかのような生々しい感覚に襲われたのだ。





 ヒカルの残した生活感の漂う空気が、アキラを一層憂鬱にさせてくれた。





 ……もしかしたら。
 彼はもう、帰って来ないなんて、ことに……

 このまま一晩のつもりが、そのたった一晩が埋めようの無い溝を作って、彼が帰り辛い気持ちの方に引き摺られてしまったら……

 引き止める気はない。
 恋人でなくなる日が来たら、未練を一ミリだって見せずに手を放そうと決めている。
 それも、同居を始める前に行ったシミュレーションの内にあった。





 アキラは何も感じないようにと心を無にしたまま、ヒカルの残した痕跡を簡単に片付けると、自室へと戻った。











 眠れない。

 体は疲れているのに、頭は昼間の対局の興奮と、最後に聞いたヒカルの声のせいで目が冴えてしまっている。

 ……どうしようもなかった。
 こんな風に眠れない夜を必死で越えることが、自分たちに課せられた試練なのだとしたら。

 誰を、何を恨むというのでもなく。
 ただ進藤ヒカルを愛さずにはいられなかった自分が、ひたすら無力で辛いだけだった―――





 アキラは布団の中で、今夜何度目かの寝返りをうった。





 ―――その時、携帯が鳴った。

 ビクッ……と、体が揺れる。
 部屋の隅。充電器に置かれた携帯が光る。暗闇で光る。

 アキラはゆっくりと起き上がると、その電話に出た。
 見なくてもヒカルからだということは歴然だ。時間は午前四時を回っていた。





「ご免……寝てたよな?起しちゃった?」
「いや、眠れなかった。布団には入っていたけど、起きていたよ。」

 正直に告げた。気を遣う必要も、取り繕う必要もないと思った。

「そっか……お前も。あのな、俺、夕方から森下先生んとこで検討して、そこには白川先生たちもいて、その後、和谷んちに流れて伊角さんや越智も来て、また検討して…………ああっ、もう何時間したんだろっ!何回並べたんだろっ!!」
「…………。」

 電話の向こうで、ヒカルが今「どんな顔」をしているのか―――アキラには見える気がした。





 夕方棋院をでてからだとすると、既に十数時間も彼は起きて、放浪し、そして今日の一局をなぞり続けていたのだ。



 それが。

 それがどれだけ大変であるか。

 身を削り、精神を疲弊させるか。

 同じ棋士であるアキラにはわかり過ぎるほどに、わかる。



 凄まじいまでの執着―――

 おそらく周りにいた誰もが、ヒカルの熱に巻き込まれて大変な時間を過ごしたのだろうということは、想像にかたくなかった。



 これが進藤ヒカル。
 棋士である進藤ヒカルの、揺ぎない本質だ。

 アキラはヒカルの姿勢に感動を覚えながら、その一方で、自分の心に冷たく覚めた部分も厳然と存在することに気が付いていた。

 どうして―――ヒカルの熱に巻かれるのは、この自分ではないのだろう…………





「でもさ、どれだけ検討しても、たくさんの意見を聞いても……駄目、なんだ……どこかで何かが違う……ほんのちょっとだけど……ズレみたいなものを感じる……埋まらないものがあるんだ…………。」

 ヒカルの話には先があることを知り、アキラは黙って聞いた。
 この先にヒカルが何を言おうとも、ただニュートラルな精神状態で聞いていたかった。





 ヒカルが一拍置いてから、大きく息を吸った。

「……お前と検討したい。お前とじゃないと、駄目なんだ…………だってあれは―――塔矢アキラと俺の碁だから。」





 言葉に込められた想いの深さを、尊さを。

 アキラはしっかりと、その胸の奥で受け止める。



 誰も届かない。誰も覗けない。

 大事な場所を揺さぶるのは、世界中でただ一人。

 進藤ヒカルだけだと―――その望外の幸せに眩暈すら覚える。





「……僕もしたい。君と、今日の検討を。並べたい―――何度でも。」
「じゃあ、今から帰ってもいい?」
「当たり前だ。ここは君の家だろう。」
「うん、そうなんだけど……。」
「待ってるから。」
「あっ!塔矢、もう一つだけ、聞いてくれるか?」

 再びアキラは黙った。碁盤の前へと走り出す心を、懸命に抑えながら。

「こういう日もあるだろうって、俺わかってた。……っつか、お前だってわかってたろ?でもさ、俺ら余り同居を決めるまでに細かいこと、話さなかったよな?」
「そうだな……多分、実際に始めてみないとどうせその時にならないとわからない、そう思ったんじゃないか?」

 アキラは、実際には自分の方は色々な揉めごと、障害までもシミュレーションしたなどどはおくびにも出さずに言う。
 自分のことでなく、ヒカルの真意を想像して口にしてあげたのだ。

「確かにそういう部分だってあるよ。上手くいかなけりゃ、別れる必要はなくてもちょっと離れたとこに住みゃ〜いいじゃん?そしてまた、上手くいく時期まで待てばいいって、さ。離れて色々考えて、消化して、うん、オッケ、もう大丈夫って思えたら、もう一回、一緒に住めばいいことだって。……そうだろ?」



 アキラは、絶句した。
 ヒカルの考えていたことは、アキラとは全然違ったということが、今、初めてわかった。

 ヒカルの方がより柔軟で、芯が強い―――いや、逞しく、したたかだとも言えるだろう…………



 たった一度の直接対局で最悪の事態まで思い描く自分の方が、臆病で懐疑的な人間なのかもしれないと、アキラは知らなかった己の姿を見せられた気がする。

 同時に、ヒカルを凄いと思う。
 さっきは碁のことだったが。今度はもっと広く、深い意味で。



 自分が愛した男性は、こんなにも大きな人物だったのだ。





「進藤……僕、今少しばかり感動している。君ってやつは、凄いな……。」
「……へ?」

 アキラはまた、素直に口にした。
 アキラの美徳は、思ったままの賞賛の言葉をてらい無く相手に伝えられるところである。

「いや、何となく僕は、こういうことが繰り返されたらお互い磨り減って……まだ早かったのかなとか、やっぱり止めた方がとか、マイナスの考え方ばかりに支配されそうな気がしていたのに……。」



 凄いよ、君は―――



 アキラの声は本当に感嘆に満ちていて、ヒカルを戸惑わせるほどだった。



「止せよぉ〜、何か恥ずかしいじゃん。まだ言いたいことあったのに、言いにくいぜ〜。」
「照れるような性格だったっけ?君……まだ何か、言いたいことが?」
「うん、俺さ、さっきの話に繋がるんだけど、始めてみればどうにかなる、みたいな簡単な気持ちで同居しよって誘ったんじゃねーからな。どうにかならなくても、ちゃんと修正してやり直すつもりでいた、最初から。……一緒に住むことはさ、普通に付き合うよりももっと違うトコを見せ合うって……どっちかっつーと他人には見せたくないようなトコを……だろ?」
「うん、そうだな。確かに。」

 アキラが相槌をうつ。
 ヒカルは思い当たることでもあるのか、電話の向こうでいたずらっぽい笑い声を立てた。

「……んでもさ、一緒に住むってことは相手に責任持つってことだと思った。一緒にいると、相手の好調不調もわかる。全体的なことで、だよ?人間だから、波だってあるしさ。その波がお互いズレちゃうことも、絶対にあるよな。」
「わかるよ。」
「そういうの全部ひっくるめて、一緒に住むって大事だと思うんだ……相手の人生にも関わりたい。責任、持ちたい。……そういう種類の好きだと思うし、俺にとってはそうなんだ―――。」





 また、絶句させられた。



 声が出ない。咽喉奥に熱いものが詰まっているようだ。
 今、何かを喋ろうとしたら、絶対に情けない声になる。泣いてしまう。

 それだけは避けたかった。



 だから平静を取り戻そうと携帯を持つ手に力を込めようとするが、その手はアキラの意志を裏切って小さく震え出した。





「あ、あれ?何か俺、外しちまった?……っつか、重た過ぎるか?まだお前には……。」
「ぃや……そうじゃ、ないが…………。」

 歯を食いしばって泣き出すのを堪えるなんて、一体いつ以来だろうと振り返る。
 でも、思い出せない。それどころじゃない。





 彼がこの部屋に着くまでの僅かな時間に、僕は死ぬほど泣こう。

 目が腫れて彼にはバレてしまうかもしれないが、せめて泣き顔だけは見せずに済むだろう。





「塔矢、碁盤、用意しといて。すぐだから。」
「え?和谷君の家だろう。彼は確か千葉の……。」
「それが……もう、家の前。ドアの前にいる。」
「進藤っ!君はっ……もうっ!君ってやつ、は……。」

 声が上ずってしまう。
 しんと静まり返った夜の部屋に、アキラの叫び声が響いた。



「ごめ……。」

 その後にヒカルが何と続けたのか、アキラにはわからなかった。

 携帯を切ることも忘れたまま放り出し、顔を覆っては溢れるものをその手に受け止め続けた。それだけで、精一杯だった。





 ―――進藤。

 僕は、思い違いをしていたのかもしれない。



 君が、僕に出会ってくれたんじゃない。

 僕が、君に巡り合う為に碁打ちの家に、塔矢行洋の息子に生まれたのかもしれない。



 それくらい。
 僕は進藤ヒカルを凄い人だと思う。大きくて、吸引力のある人だと思う。



 そんな君を愛した自分を褒めたいし、君に愛された自分を誇りたい―――





 ベッドの上で背中を丸め嗚咽するアキラの肩に、夜道を急いで冷たくなってしまった愛しい人の手が乗せられたのは、その数秒後のことだった。





















 ヒカルが目を覚ました時、アキラが丁度シャワーからあがって着替えに戻って来たところだった。
 結局。昨日はアキラの部屋でそのまま雪崩れ込むように抱き合ってしまい、検討どころではなかった。致し方ない。
 おはようと歩み寄って来るアキラに、ヒカルの手が「おいでおいで」をしてみせる。アキラも素直に従った。
 ベッドの中から上目遣いの視線が注がれる。

「お〜い……泣き虫塔矢……。」
「ばか……。」

 ヒカルの笑い混じりの声に、アキラがそっぽを向いた。
 しかし伸ばされたヒカルの手に引き寄せられ、アキラは自然とベッドの淵に腰掛ける格好になる。そこはアキラの重さの分だけ沈み、ヒカルはさも嬉しそうに跳ねて見せた。
 ヒカルは、寝起きのぼんやりとした無防備な瞳でアキラを見詰めた。アキラも柔らかい表情で受け止める。
 昨日、あんなにも凄まじい戦いを盤上で繰り広げたもの同士だとは、とても思えない。
 そして。激しい葛藤の末に、互いの愛情を体と心の全部で確かめ合った二人だとも―――
 今、ここに流れる空気はなんて温かいのだろう。

 ……やがてヒカルの指が、恋人の頬を突付いた。

「昨日びっくりした……お前、ぐっちょぐちょなんだもん。」

 昨夜の痕を辿るみたいに、ヒカルの長い指がすべる。
 ここを……この滑らかで綺麗な肌の上を、幾筋もの涙が濡らしていたと、その指が思い出させる―――

「うん、僕も自分でびっくりした。」
「はははっ!お前ってば可愛いじゃん!」 

 アキラもつられて微笑んだ。

「あのさ、昨日の対局の後、足掻きまくってみっともねえのは俺の方だと思ってたのに、お前もグルグルしてたんだよな……俺、ここに戻って来るまで自分のことでいっぱいいっぱいで、お前の気持ちまで考えらんなくて―――悪かったよ。昨日の涙見てたら、すげえ胸が痛くなったもん。」

 ヒカルの真っ直ぐな想いが、アキラの心を溶かしてゆく。恥ずかしそうに俯く横顔が、まだ湿って光る黒髪に隠された。

「幻滅したか?―――あれくらいで泣くなんて。」
「あ?今、ちょっと拗ねたの?幻滅とかそういう方向の話かよ。ちげーだろ。」

 ヒカルの頭がアキラの肩に乗り、強く押し付けられた。

「そりゃあ、驚いたと言えば驚いたけど。でも、よく考えたら嬉しい。だってそういうお前も初めて知ったもん。結構考え込むタチなんだなって。」
「そうかな?いや、性格的にはそうでもないと思うよ。こうと思ったら迷わない方じゃないかな。……でも君とのことは、次元が違う問題だから。」

 アキラの手も、ヒカルの頭を優しくあやすように撫ぜる。

「そっかそっか。確かに楽天的な俺でも昨日はさ、改めて俺らの始めたことってシンドイ部分もあるかなって思った。」
「うん、そうだね。―――君はどうしたい?」
「どうって……塔矢ぁ、ま〜たアホくせえこと考えてる?同居、やめようとか何とか……。」
「だって君も昨日電話で言ったよね。同居がお互いを駄目にしそうだったら一度離れて、また時が来たら……。」
「まだ早いだろっ!まだ一回だけじゃんか、公式戦。お前〜、気が早いよ、すぐに結論出すな、このせっかちめ。」

 ヒカルがアキラの腰に手を回し、力一杯引いた。続いてその首筋に鼻を埋め、上気した肌を吸う。

「んん〜、シャンプーと石鹸の匂い……お前の、匂い……。」
「こら、止めろ……ん……まだ約束の検討をしていない。」
「ああ?そうだったっけ。記憶、飛んじゃってるかも。」
「そうだっけじゃないだろう!呆れた……。」

 このままベッドに引き摺り込まれてはかなわないとアキラも抵抗する素振りはあるものの、ヒカルも執拗だった。
 アキラの弱い部分である鎖骨からうなじ、耳うらへと、なれた舌で誘う。触れ合うだけのキスを数え切れないほど繰りしては焦らし、やっと熱い舌で深く分け入って来た。
 二人同時に、感電したように背中を揺らす……
 そうやって、ヒカルはアキラを懐柔しようとしたのだが。

「駄目だ駄目だ、今朝はもう待ち切れない。飢えているんだ。―――今すぐ君と打ちたい。」

 碁打ちの進藤ヒカルに戻れ―――

「あ、ああぁ……それを言われると俺も弱い。昨日、お前に負けた碁が蘇って来るじゃんか!」
「いいんだよ、それで。所詮僕らは甘い仲である前に、厳しい関係なんだから。」
「すっかり碁打ちの塔矢アキラだ……ヤラレタ〜。」
「それでいいじゃないか?本当は君もそう思っているんだろう。碁打ちであることが何よりも先に来る。それがアイデンティティというヤツだ―――僕らの。」

 アキラの言葉に、おどけていたヒカルも溜め息で答えた。





 数分後。
 風呂からあがったヒカルはすっかり碁打ちの顔になり、アキラと対峙していた。
 並べていくに従いヒカルもアキラも昂奮して、ここはこうだ、あそこはもっと……と、どんどん白熱して来る。
 そのうち―――ふとヒカルの手が止まり、石を掴む指先が盤上で小刻みに震え出した。

「進藤?……え、君……。」
「ははは……っ……俺ってば、変なの。昨日のお前が乗り移ったのかな。何かこういうの幸せだって……お前のこと、スゲエやつだわ、俺、お前が好きで好きでたまんないかもって思うと……溢れて来る…………。」
「そうか、そうだろう?誰かの生き様に感動して、自分の幸せに酔って―――人はそれで泣くこともあるんだ。昨日の僕みたいに。」

 それに、本来は君の方が泣き虫の筈だし?昔っから―――と、アキラは言うと同時に、ヒカルの涙を指先でそっと拭った。

 その愛情深い仕草に、もう一度ヒカルの目尻から熱いものが大量に溢れては流れ落ちた。             











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