18歳以上でない方はお帰り下さいませ!
「絵のように美しい」
「あっ…ちょ、ちょっと待って!そのまま…」
「っ…?」
ヒカルの大声に、アキラが振り向く。
ベッドから降りようとしてシャツを羽織り、一旦、その縁に腰掛けてから立ち上がった。
一歩。また、一歩。
体のあちこちが軋み、違和感を感じなくもなかったが、ヒカルの声の方が強烈でアキラは固まった。
「スゲエ…」
「な、に…っ!」
あっ…と。アキラは喋ろうとしてようやく気付いたのだ、思うように声が出ないことに。
…というよりもむしろ、アキラの声は完全に枯れていた。
どれだけヒカルの名前を叫ばされ、鳴かされたのだろうか―――
そう思うとカッ…と、頬が熱くなった。
昨夜の濃い交わりが思い出され、頬だけでなく全身に熱が戻って来そうになる。
何度も挿れられた。痛くしないと言いながら、奥まで、隅々まで、犯された。
入り口が引き攣れて耐えられないと訴えると、ヒカルの舌と唾液で、優しく、執拗に、手当てされた。
「あと十秒…や、あと五秒でいいからじっとしてて…お願い…」
一体、どうしたんだと不思議に思っていると、ヒカルの視線がアキラの下半身に釘付けになっていることに気付いた。
途端に、意識がそこへ向かう。
「お前、今まで見た中でも最高にエロくて、綺麗―――」
昨夜は何度もヒカルの熱を受け入れ、その刺激によって自らも深く感じた。
叩きつけられたものはどのくらいの量あったのか、知る由もない。
肌に冷たいものを感じて見下ろすと、シャツの裾からのぞく己の太股に、白く濁ったものが静かに伝っていた。
それは恐ろしくゆっくりとした速度で、肌を辿って流れ落ちる…
そう…うっとりとした目でヒカルがアキラを見詰めていたのは、このせいだったのだ。
己の欲望の残滓が、アキラのスラリと伸びた足に細い道を作ってゆく様子は、えもいわれぬほどそそる光景なのだろう。
「はあぁ…その白い足が…俺ので、汚れてく…っ…」
目に焼き付けて死ぬまで忘れたくないと、妙に昂ぶった声で言われた。
ヒカルのその、屈折しているとも異常ともとれそうな愛情に、アキラの胸は張り裂けそうになっているのに、体はそれとは逆に、全く動けなくなってしまった。
ただ、その場に立ちつくすばかりだ。
ヒカルの視線に、昨夜の記憶に、犯されながら―――
※
この後、ヒカルがアキラの体を綺麗にしてくれたでしょうねv(2010・2・9再アップ)
「早く起きた朝は」
…何だ、これは……
目が覚めて見渡した部屋。
ベッドサイドの窓辺に、彼の煙草と灰皿。
その上に乗っかっているのは…高さ十五センチくらいの…
僕はそれをマジマジと見詰め、それからクスリ…と笑った。
くわえ煙草をしてるのなんて、初めて見たよ。
起き上がって、素肌にシャツを羽織る。
微かに残る、腰の辺りの違和感。
昨日の晩も激しかった…
幾度果ててもまだ足りないと、僕を離さなかった彼の情熱――
バスルームに行く前に水を飲もうと思い、キッチンに向かう。
冷蔵庫を開けると…ここにもまた!
今度は、さっきよりもこじんまりとしたものが…
指先でそれをつつくと、ジン…と指先に冷たさが走った。
水を飲んでから、今度こそバスルームに向かう。
脱衣所でいつも歯ブラシやシェーバーを置いてある棚を開けると…
ああ、そう…ここにも、ね…
ソープディッシュの上に、小さな小さなそれはあった。
さて、次はどこだろう?
浴室だろうかと思って扉を開けると、そこにはデカイやつがいた。浴槽の蓋の上に、鎮座している。
ちゃんと手まである。右手が僕の青い歯ブラシ。左手が彼の黄色い歯ブラシだ。
これでシャワーを浴びたら、溶けてしまうじゃないかと思いつつ…
僕は残り少ない命の彼らを哀れに、そして愛しく思い、そっと浴室を出た。
リビングを突っ切って、ベランダへ向かう。
予想通り…
そこには、さっきよりももっと体格のいいやつがいた。
あ!僕の愛用している、真っ赤なカフェオレボールを頭にかぶって!
ああ、僕のマフラーや手袋まで…大事なものなのに濡れるだろうが…
それに何だ、あの趣味の悪いサングラス…あれは君のじゃないか…
「おはよ…そんな格好してっと、また襲うぞ?」
「!!」
いつの間にか背後に忍び寄って来ていた彼が、僕を後ろから抱き締めた。
うなじに口付けられて、身震いが起きる。
「進藤。手を貸してみろ…。」
「あっ!いってえよ、引っ張んな。お前、力強過ぎ…。」
「やっぱり…こんなに冷たくなって!…まるで氷みたいだ…。」
向かい合わせになって、彼の手を握った。
引っ込めようとするその手を僕の頬へと導き、押し付け、温もりを移そうとする。
目を伏せ、祈るようにそうする僕を、進藤が静かに見ていた。
「一体、あといくつあるんだ?――雪だるま。」
僕の言葉に、彼が明るい笑い声を立てた。
その振動が頬にくっつけた彼の両手を通して、僕にも伝わる。
いくつ見つけたの?と、ニヤニヤした顔を近づけながら囁く彼に、僕も囁き返した。
知るか…たまに早起きしたと思ったら、こんな子供みたいなことを…
お前をビックリさせたくて…ねえ、黒石の目のやつもいるんだけど、それは見つけた?
ちょっと見つかりにくいところなんだよなぁ…と。
唇が重なる直前に言われたけれど、あっという間に答えるどころではなくなった。
甘く深い口付けに、薄布一枚に包まれただけの僕の肌は、小さな泡を立てては沸騰し始める……
――頭の隅で。
ああぁ…残念だけど、もう残りの雪だるまを見つけることは出来ないだろ…
彼と僕の全てがおさまる頃には、もうすっかり溶けてなくなってしまっているだろうと思うと…
ほんの少し淋しくもあった。
またいつか、この都会に大雪が降ることを願いながら
もう無邪気な子供ではない僕は
雪だるまの誘惑よりも彼と抱き合う方を選ぶのだった――
※
また、雪が降ったらいいのになあ…大雪でなくていいから…(2010・2・10再アップ)
「…使って?」 〜盗み聞きはいけません(笑) 〜
「え…もう見付けたの?そう、それそれ、俺からのプレゼントっていうのは」
…何だ、先約がいたんだ。
どうしようかな?電話したいからわざわざ来たんだけど。
私は電車の連結部分で、携帯電話をかけている背の高い若い男性と出くわした。
窓に向かってこちらには背を向けているから、後姿と、横顔が少し見えるだけだ。
それでも彼がかなりイケてる方だというのはわかるし、聞こえて来る声もなかなか良かった。
「もう使ってみた?…ってー!怒鳴るなよ、耳が痛いじゃんか。はいはい、そういうの使うのは夜の方がいいよな。暗くなって雰囲気出てから。まだ明るいもんな」
…使う?何を、だろう。
妙に気になって私は自分も携帯を取り出しながらつい、聞き耳を立ててしまった。
「だってお前、三日も出来ないんだからさ、体が困るじゃんか?この前だって―――がガチガチだったから、解すの大変だったもん。俺はすぐにでも!って気分だったから、スゲエ焦っちゃったよ。お前に酷いこと、したくなかったし。だから俺がいない間はそれを俺の代わりに―――」
…体?ガチガチ?ほぐす…すぐ、に…酷い…
何だか変なキーワードばかり。ストレッチ、か何か?
不思議に思いながら、私も電話をかける。
だけど、今から会う予定の遠距離恋愛中の恋人は留守だった。
んー、何てメッセ入れようか、あんまり可愛いこと言うのも悔しいなぁ。
駅に迎えに来てくれると嬉しいけど。駄目っぽいかな。…最近、ちょっと冷たいし。
「…なあ、やっぱ今、ちょっと試してみろよ。すぐに使えるようにしといたから。…え?俺が先に試したのかって…んな訳ねえだろ!それはお前専用。お前が―――る為。決まってるだろ?ばーか…」
再び男の声に気を取られた。
さっきよりも甘ったれた声じゃない?ばーか…の部分で特に。
「そこにいつもの―――もあるだろ?ゆっくり―――して、ゆっくり動かしてみればさ、大丈夫だって。俺がいない間はそれ使って。ちゃんと馴らしといて」
ゆ、ゆっくり動かすって…馴らすって…
一体何を…ちょっと、この男…
振動音が遮るから、途切れ途切れにしか聞えない。
だけど私が焦ったのは内容だけじゃなかった。
その声音が何と言うのか…
低く、掠れた様子で、凄く…凄く、色っぽくなって来たから…
「イイだろ?その動き…生々しくてたまんないよなぁ?見てるだけで想像しちゃうだろ?それ、お前の―――で動くからスゲエ、気持ちよくなれる。俺の指の動き、思い出すくらいにさ。…や、指よりはじれったくないかも。そういうのはストレートだから目的達成、早いぜ?」
もう電話どころじゃなかった。
私はそっと電話を切って、それでもまだ通話中のフリをしてその場に留まっていた。
後から考えたら心臓が縮み上がりそうに大胆なことだけど、その時の私は話の続きが聞きたくて聞きたくて、どうしようもなかった。
「え〜?道具使うのが怖かったら、最初は指、でな?グーッて思いきって入れてみな?怖がるなよ。俺だって初めての時はお前のこと、痛くするんじゃねーかってドキドキしたよ。でも平気だって。心配なら―――をたっぷりつけてさ…」
…息、止めちゃ駄目だ。
口を少し開いて、そう、だらしないくらいに…
何か垂れちゃっても自然なんだよ、そのままにしてろ…
そうだ!鏡の前でやってみたら?
自分では見えないとこも、きっとクリアに見えるぜ。
関節、曲げて。柔らかく、開いて。肝心な―――、さらして。
そういやお前の体って信じられないくらい、や〜らかいもんな。
俺がどんな―――を要求しても、ちゃんと出来る…
あ、動いてる最中に―――ら、駄目だぜ?ポイントにヒットしてからスイッチオン、ってな。
振動してる状態で―――なんてそりゃ、上級者だろうが。
慣れたらどんどん、強くしていけばいい…少しずつ、少しずつ…
あー、でもお前がそういうのクセになっちゃって、俺よりイイなんてこっそり使ったりしてたら、ヤダ!
プレゼントじゃなくて貸し出しにする。
俺が傍にいる時は、俺がする。
そういうのに頼らない、俺の方が何倍も―――って思わせてみせる―――
くっく…と忍び笑いが聞え、私は背筋がゾクゾクと震えた。
やっぱりそういうことなのだろうかと想像だけは逞しく膨らみ、落ち着かなくなった。
咽喉が渇く。目が潤む。
こんなイイ男に抱かれるって、どんな気持ちなんだろう…
いや、抱かれるだけじゃない、ちょっと意地悪なプレイもスマートに仕掛けて来る。
電話の向こうの相手はこの男にいいようにされて、それでも電話を切らないんだからよっぽどこの男に夢中なんだろう。
多少SMチックなことでも、受け入れちゃうんだろうな…
そんなことを考えていたら、急にトンネルに入った。
外が暗くなると窓ガラスが鏡に変わり、私は思わず我慢出来ずに彼を盗み見た。
そしたら!
目と目が合ってしまった!ヤバ!
だけどすぐには目をそらせなかった。
むしろ、釘付けになってしまった。
だって窓ガラスに映った彼の顔は、まるで私がそこにいるのを最初から知っていたよと言わんばかりに笑っていたから。
彼は心を凍りつかせるというよりも、心を縛るような強い光を放つ目をしていた。
凄く、いい…一度でもこんな目を向けられたら、絶対に落ちる…
愚鈍な天使にくどかれるよりも、甘い悪魔に犯されたい―――女性はいつだってそんな部分があるものだ。
「そうそう、ストレッチは慎重にな。初めてマッサージ器具を使う時は特に。背中とか太ももの裏側とか届き難いと思うけど、変な体勢をする時は気を付けろよ。筋とか痛めたら元も子もない」
…え?な、に?
やっぱりストレッチとかマッサージとか…そういう類の話だったの?
男はさっきよりも心もち大きな声で言うと、電車がトンネルから明るい世界へと出る直前に、私に向かってガラス越しのウィンクをくれたのだった。
慌ててその場を立ち去る。自分の恋人にメッセを残すどころじゃない。
私はまだドキドキする胸を押さえるようにして、席に戻った。
それにしてもいい声だったぁ…あの男。高くもなく、低過ぎもせず。
嫌味なほど美声という訳でもなく、でも、恋人への囁きには十分うっとりしてしまうような甘さを含んでいて。
あんな男にあんな声で「ヤらせて」なんて言われたら、きっと抵抗出来ないよねぇ?
あは、それだけで感じちゃいそうだわ!
…と。
マッサージじゃなかったっけ?
あ、あれ…やっぱり誤魔化されただけで、本当のところはそういうことなんじゃないの?
どっちなんだろ、とグルグルしているうちに、結局私は追払われただけのかもしれないと気付く。
思わず震える息を吐き出しながら、シートに深く沈みこんだ時。
電話が鳴った。最近つれない恋人からだ。
「今、電車の中だから長くは駄目。あ、そう、迎えに来てくれるんだ?嬉しい!…車?じゃあさ、私、すぐに行きたいとこ、あるんだけど…」
○●○
「可愛いネズミがいたんだ。ちょっと構ってやったら、スゲエ嬉しそうにしてたぜ。もう逃げた、チョロチョロってさ」
ヒカルはそう言うと、ゆっくりと携帯を右から左へ持ち変えた。
長くなると、ヒカルはよくこういう風に手を変える。その仕草も十分男っぽかった。
「いいから。お前は気にすんなって。それよりも今夜、言うとおりにしろよ。どうせそんなオモチャなんかじゃ、全然物足りないに決まってるけどなぁ?だってお前の体はさ、俺じゃないとイけないように出来てるから…」
暗示をかけるように、ゆっくりしたリズムで抑揚をつけずに言う。
すぐそこにリアルな肉体を思い描いているのか、右手の指先が窓ガラスの上で思わせぶりに這う。
「あー、やっぱお前に触りてえ…そんでお前の体からやーらしく紐が垂れてるとこ、早く見たい…引っ張って、いっぱい意地悪したい…」
スイッチ押したらさ、お前の膝がカクカクって可哀想に揺れるの…
もうそれだけで俺、興奮しそう………
そういうヒカルの顔に浮かんでいる微笑みは、決して他の誰にも見せない、遠く離れた場所にいる恋人だけに向けられたものだった。
※
当時、黒いヒカルが見たいと言われて書いたみたいです…ごみんなさい…(2010・2・11再アップ)
「涙」
その日、僕らはある棋士同志の結婚式に列席した。
教会で執り行われた式の間中、進藤はとても嬉しそうにしていた。
…しかし。
新郎新婦を真剣に見詰める彼には、ただ微笑ましいとか羨ましいとか、単純には割り切れない感情があることを僕は感じていた。
進藤の部屋に二人して戻ってからも、彼は機嫌が良かった。まだ昼間だったが、鼻歌混じりに酒の用意などしている。
「勝手に披露えーん!、の気分でさ。俺らはここで祝い酒だ。」
僕も仕方ないなと笑いながら、彼に付き合うことにした。
おそらく今日は進藤にとって…いや、進藤と僕にとって大切な日になるだろう…
気持ちのいい、秋の昼下がりだった。しばらく雑談をしながら、僕らはくつろいだ雰囲気の中で飲んだ。
開け放った窓から吹き込む風は少しだけ冷たくて、次にやって来る季節の気配を忍ばせている。
いつの間にか金木犀の香りも消えた。時期も終わってしまったらしい。
「…進藤。」
「ん?」
言いたいと思う瞬間は、不意に訪れた。
「そろそろ遊び人のフリは止めるのか?」
「…え?」
「あの子も結婚した。最近では、君の周りに本気の女性もいなくなった。そうじゃないか?」
「塔矢…おま…な、何が言いたい…。」
「二年前。」
「っは?二年前…って…。」
「そう、あんなに悪酔いした君を見たのは、初めてだった…。」
「塔矢…。」
静かに見詰めると、進藤も酒のグラスを机に戻して僕を見返した。自然と背筋が伸びる。
僕らの間に現れた沈黙は、互いが記憶を手繰り寄せるために必要な時間だった。
二年と少し前のことだ。おそらく、進藤の誕生日辺りだったろう。
急に呼び出されて打つのかと思えば、食事に付き合って欲しいと言う。それはつまり、酒を飲みたいと同義だった。
彼は荒れていた。
そして彼が荒れているその理由を、僕は知っていた。
酔っ払った彼がブツブツ言う言葉は断片的なものだったが、それを拾い集め、僕の知っている事実と繋ぎ合わせる。
すると大体のことはわかったし、翌日から彼が取った行動によってそれは疑いようもなく裏付けされた。
その少し前くらいだろうか。進藤は、ある女流棋士と親しくしていた。
彼女は森下先生の門下だったこともあって、彼がなにくれと世話を焼いていた。碁のことだけでなく、通っている学校を辞めるかどうかなど、重要な相談もされていたらしい。
二人が楽しそうに話しているのを、僕も何度か目撃していた。
そしていつしか、その女性は体調を崩したという理由で対局を休みがちになった。
その頃から進藤もどことなく元気がなく、沈んでいるように見え出した。
「っくそおぉ…俺は、スッゲエ馬鹿だ…どうしてもっと、ちゃんと、周りを見ねーんだよ…。」
僕は彼の愚痴には何も反応しなかった。黙って、横で飲んでいた。
彼は、僕に何かを求めていたのかもしれない。…そう、きっと僕に責めて叱咤して欲しかったのだろう。
だから僕を誘った。和谷君でも他の友人の誰でも良かったかもしれない相手に僕を選んだのは、彼なりに意味があったに違いない。
けれども僕は言葉らしい言葉を掛けなかった。ただ、黙って彼の横で飲んだだけだった。
彼が心から自分の軽率さを悔いていることも、これから先どうすべきか考えていることも、僕にはよく感じられたからだ。
その時の僕に実際出来ることと言ったら、悩む進藤に静かに寄り添っていることだけだった。
その日は明け方まで飲み続け、二人してベロンベロンになった。
そんなに酔ったのは、僕にしても初めてのことだった。
―――そして。
その女流棋士というのは、今日、結婚式を挙げたその人だった。
「…覚えてんだ…あの時のこと…。」
「うん。あれから君は劇的に変わったからね。あれはただの酔っ払いじゃなかった。」
再び、沈黙になる。しかし今度は短かった。
進藤が溜息をつくとまた、僕を見て重たい口を開いた。
「そっか…でも、凄いな。お前、二年も黙ってたんだ。…そういや俺がどんなに派手なことやらかしても、一度も…ほんとに一度だってお前は俺に説教しなかったな。―――俺に関心がないのかっつーくらい。」
彼の目が、僅かだが潤んでいる。見間違いではないだろう。
「そうだね。意図があってそうしているんだろうと僕の中で確信があったから、かな。…今にして思えば不思議だけど。」
「俺、評判悪くなっちゃっただろ?チャラ男のレッテル、この二年ですっかり定着しちゃったし。」
「そうしたかったんだろう?女性から………誰からも相手にされないように………振舞って来たんだろう………君は………」
自分で言いながら、言葉のひとつ、ひとつが、刃のように的確に胸を、刺す。
進藤ヒカルの二年間を想うだけで、痛くて痛くてどうしようもなくなる。
「君の態度は一貫していた…僕の前でも、誰の前でも、見事なくらい変わらなかった…驚きに値する…自分をいい加減な人間に見せるのは容易いことではないと思うよ?誰だって悪く思われたくないものだ。…だからこそ、君は凄い人だと思った―――」
異性から好意を持たれてもそれが困ったことにしかならないというのは、簡単に片付けられる感情でもないだろう。
進藤が合コンや飲み会には必ず顔を出しては女の子たちに気軽に触れたり、仲良く消えたりするという噂は、すぐに広がった。
携帯にもしょっ中メールが来るし、女性のアドレスは三桁をゆうに超えるとも言われていた。
そうやって自分のイメージを塗り固めようとしたのは、僕から見れば、彼が受け入れられなかった彼女のことをどれだけ重く感じているかの証に思えたのだ。
「お前にはお見通し、だったんだな。俺こそ全然知らなかった…。」
「それでいいんだ。僕だって全く揺らがなかったという訳じゃない。―――でも、あの涙を見た僕だけが君を…君の本当の姿を、信じられると思ったんだ。」
「…っ…え………なみ、だ?」
進藤が驚いた顔をした。僕は頷く。
「そうだ。二年前の君は、泣いていた。本当に涙を流したという意味じゃない。だけど、君は泣いていた。心の中で涙を流していると、あの晩の僕は感じた。君の心が、凄く、近かった…まるで僕の、手の届くところに、あるみたいだった………」
ゆっくりと、噛み締めるように、口にした。
二年以上も秘めて鍵をかけていた大切なことを、彼に告げているのだから。
「塔矢…お、俺…何て、言ったら…っ…。」
嫌々するみたいに首を振る。その心許ないような仕草に、僕は思わず手を伸ばしてしまった。
進藤の手を引く。そしてその指先に、震えながらそっと口付けた。
…ずっと。ずっとこうしたかったということを、僕はしている。
そうだ。これだ。
僕がしたかったのは、遠くから君の決意を見守ることだけではなく、君自身に触れて伝えること…僕の気持ちを。
「君が、いいのなら…自分を許せるのなら…どうか、僕に本当の進藤ヒカルをくれ。」
「あっ…っ…。」
「長い間、君が欲しかった。僕のものになってくれ…。」
何度も何度も。角度を変えつつ、進藤の指先に唇を当てた。
そのうちに僕の震えも止まり、今度は泣きそうになりながら、それでも僕は口付け続けた。
昨日まで友達だった人にこんな大胆なことをしている自分がどこか信じられなくもあり、どこか哀れでもあった。
…彼が応えてくれる保証など、どこにもないのに。
「そろそろ、限界だ…遊び人の…嘘で塗り固めた、進藤ヒカルを見るのは―――」
「塔矢―――っ!」
強い力で引き寄せられた。勢いがあり過ぎて、そのまま僕は横倒しになる。
進藤の逞しい体躯が覆い被さって来て、たった今まで僕が口付けていたその濡れた指先が僕の顎をしっかりと抑えると、すぐに唇が重なった。
急なことで頭はついていけない。
けれど不思議なことに、体は自然と応えていた。
初めての口付けはぎこちなくとも互いの想いを言葉以上に伝え、僕らは狂ったように互いの体をまさぐった。
強く吸われて、僕も吸い返す。痛いくらいだ。いや、実際に体のどこかを打ち付けたのかもしれない。
でもそんなことはどうでも良かった。気にもならない。
「好き…こんなに、お前が好き…おかしくなりそうだ…。」
「もっと早く言おうとは思わなかったのか?」
唇を離し、荒れる息遣いのままに言葉を交わす。
進藤が愛しげに僕の髪を撫でているのが、まるで心をそうされているようでとても気持ち良かった。
彼は目を伏せ、キッパリと首を振った。強い、意志があった。
…そうか。やっぱりそうなんだと、僕は思った。
君は自分が不用意に傷付けてしまったあの子のことが気になるうちは、決して自分の恋を成就させる方向へは動けなかった。
君は、そういう人なのだ―――――
僕の髪に触れ続ける進藤の手を握る。指と指を絡ませる。
目と目が合って、その瞳の奥底から今、本物の涙がスローモーションのように湧き上がって来る様子を、僕は無心に見ていた。
生涯でただ一人と決めた人の涙が、やがて僕の全てを満たしてくれるだろうと予感しながら………
〇●〇
進藤と僕は、二人だけで歩いている。
棋院からの帰り道だろうか。
どちらも打ち足りない気分だったから、進藤の部屋で打つことにでもしたのだろうか…
「もしお前が女でさー、俺の部屋に一人でホイホイ付いて来たりしたら、速攻ヤられちまうぜ?」
「…ったく、下らないことをっ!…評判どおりの軽さだな。」
「そうそう、この頃は一人で俺んち来るってことは、ああ、食ってもいいんだなってOKに取るからさ。」
お前、女でなくて良かったなぁ…
そこで進藤がウィンクをする。
しかし僕は異物が目に入りでもしたかのように、ぎゅっと目を細めて不機嫌を表した。
軽口を叩き合う表の顔とは違い、僕の心には小さな穴が開いている。
そこを、とても冷たいものが吹き抜けている…
…いつまで。
一体、いつまで僕は君の偽りの姿を見続けなければならないのだろう?
そしていつまで、それが真実の君ではないと信じ続けることが出来る――――
急に胸がムカついて、手で押さえた。気分が悪い。吐きそうだ。
進藤の顔を見て何か訴えようとするが、声にならず…
息苦しさは増し、呼吸もままならなくなり………
「塔矢っ!しっかりしろっ、塔矢…。」
「――っ!?…っ…っは…は…。」
目の前に、進藤の顔があった。凄く近い。息がかかるほどに。
「っぼ、く…は…。」
「ああぁ…良かった…お前、うなされてるから驚いちまった…もう大丈夫か?」
「ああ、平気だ…。」
「って、あんまり平気そうな顔じゃないぞ?水、持って来てやろうか。」
言い終わらないうちにキッチンへと立った進藤の後を追おうとして、まだ体が完全に目覚めていないことに気付いた。…全身が重い。
それでも必死に体を起こして彼の元へと向かうと、彼はペットボトルからコップに水を移し変えてくれているらしかった。
僕は待ち切れずに、その広い背中に背後から抱きつく。
「あれれ?ベッドで待ってればいいのに。」
「夢を見たから………離れたくなかった。」
「…えっ…あ、ああ…そう…。」
ストレート過ぎたのか、進藤が驚いたらしいのがわかった。振り向こうとしていたその動きが止まる。
「少しだけ…このままで…。」
「ん………。」
シンクに体を預けたままの進藤の背中に、頬をくっ付ける。腕は彼の胸元に回し、浮き出た鎖骨の辺りに指を遊ばせた。
「こうなったからって…君が急に変わる必要、ないから…。」
「塔矢?」
「遊び人の進藤ヒカルを急に止めようとか、無理をしなくても…。」
「ええっ、なーんだ!お前ってば、んなこと考えてたのぉ?」
進藤の手が僕の手に重なり、小さく擦られた。
ささやかで単純な仕草なのに、好きな人からされることは、どうしてこうも胸をときめかせるのだろう。
これが、人を好きになって、その気持ちに丸ごと応えてもらえる――――そういうことなのか。
「十分だ…。」
「え?」
「何年も待ったから、僕は辛抱強くなったのかもしれないけれど…こんな風にただ、君に抱き付くことが許されて、君に手を触ってもらえるだけで――――僕は十分幸せなんだ。」
これ以上、君にも、外の世界にも、何も求める必要を感じない。僕の中はこんなにも満たされているのだから…
「ばーか。無理は芝居をしてることの方だっつーの。そりゃ、俺もめちゃくちゃ幸せで、これ、夢なんじゃないかって思ったりもすんだけど…。」
そこで進藤は僕へと向き直った。抱き締め直され、僕は進藤の温もりと匂いに包み込まれる。
「君って思った以上に力がある…。」
「えっ?ああ、力って…痛い?ご免!」
「いや、そうじゃない。こんな風に力いっぱい、加減もせずに人に抱き締められること自体が、初めてだから。」
君がどんなに逞しい男性へと成長したのか、外から見ているだけではわからなかったことがたくさんある。
そしてそれを今、僕は存分に知らされ、味わっている…
うっとりとその胸に全身を委ねていると、進藤が不意に言った。少し、尖った声だった。
「あのさ…塔矢は気にならないか?俺がこれまでして来たこと…。」
「ん?遊び人の進藤先生のことか?」
小さく頷く。パジャマ同志の、衣擦れの音がした。
「芝居だったんだろう?」
うん、と。間髪入れずにまた、頷かれた。
「それにしては見事な化けっぷりというか…そう、どこからどう見ても君は立派なチャラ男だったよ。」
「立派なチャラ男って………どういうんだよ、それっ!」
「はははははっ…っふふ…。」
二人、顔を見合わせて大笑いする。
さっきまで胸をざわめかせていた悪夢の余韻は、すっかり吹き払われた。
抱き合ったまま全身を揺すって笑い続け、その波がおさまった頃、僕は進藤の頬を両手でそっと包んだ。
「見せてくれ…チャラ男の看板を下ろした君を…もっと、見ていたい…。」
「俺も…お前のこと大好きだって目で、見ていい…。」
言葉もなく、見詰め合う。キッチンの小さな灯りだけだったが、すっかり目が慣れて不自由はない。
ごく自然に顔が近付き、唇が重なろうとした瞬間。
…進藤が動きを止めて、少しだけ身を引いた。
「やっぱり、俺はもう嘘はつけない…。」
「進藤…。」
「遊び人は止めだ。お前がすぐには変えなくてもいいって言ってくれたって、嫌なものは嫌だ。お前のことは絶対に言わないけど、でも、誰かから突かれたらちゃんと言う…言いたい…好きなヤツがいるって。」
「…っ!」
彼の真剣な言葉に何か答えようと、あてもないまま口を開きかけた僕を、彼が遮った。
唇を唇で塞がれ、深く、探られる。
僕も暴れる彼の舌を必死で吸い返したが、それは弱いものでしかなかっただろう。
それでも彼は感じてくれたのか咽喉奥で呻き、それから一層激しいキスへと堕ちていった。
…これは。
ああ…これはただのキスではないと、腹の奥の奥がズシンと重たくなる。
もっと先へと進むための、いわゆる前戯と言われる類のキスに他ならないと、僕の本能が感じ取っていた。
止まろうなどとは思わない。
熱くなった腰を惜しげもなく進藤のそこにぶつけ、僅かだが腰をくねらせれば、薄いパジャマ越しのそこは直接的な刺激に固くなった。
「まっ…って…塔矢、俺…。」
「何を?待つって、何をだ…。」
「だって塔矢、こんなことしてたら…俺、止まらない…。」
泣き出しそうな声だ。
僕を締め付ける腕も、息が止まりそうな口付けも、そして荒れ狂う下半身の熱も、全てが大人の男のそれであるのに。
彼の声だけはまだ、躊躇いと未熟さを滲ませている。
そしてそんな彼が、愛しくて愛しくてならない…
「進藤。さっきキスまでで止めたよね?…それはやっぱり、女性とは全く違う、いかにも男ですって体に触れるのは…抵抗があるのか…。」
「ちっ、違うって!だって俺、ほんとはもっとしたくて…でも、いきなりじゃお前こそ嫌じゃないかって…。」
「本当に?」
「ほんともほんと!…っつか俺、マジで…い、いやらしいんだぜ?女の子相手じゃちっともその気になんなかったけど、いつも…いつもお前のこと、想像してた…抱いたらどんなになるんだろうって…。」
「だったらそうすればいい。…して欲しい。」
「馬鹿…簡単に言うなよ?だから俺、スゲエいやらしいこともイッパイ考えたんだって…きっと、出来るんだってば…。」
ドキドキする。心臓が飛び出しそうなどと言うが、本当にそうなりそうで胸が詰まる。息が出来ない。
今まで経験したことのないような昂ぶりに胸が高鳴って、これが心から好きな人と交わす睦言というものなのかと思う。
さっき感じた緊張が最高潮かと思っていたのに、まだまだ上があるとは――――
きっと進藤もドキドキしているのだろう。落ち着きなく目が泳ぎ、唇がもどかしげに震える。
それを見ていたら、「君がどれだけいやらしいか、僕が決める」と囁くのが精一杯だった。
「うん、今からお前の体に教えるから…でも今更、俺がいやらし過ぎるからって逃げたくなっても駄目だ………最後まで、抱くから…。」
やっぱり囁くようなゆとりのない声が聞えたのを最後に、僕らは縺れ合いながらベッドへと戻った。
そしてその夜僕は、彼がもう嘘つきではないことを体に刻まれるようにして知らされたのだった。
(2010・2.12再アップ)
「ドライブ」
突然、進藤が訪ねて来た。凄い形相で。
「どうした?何かあったのか?」
「何かあったのかはこっちのセリフだ!お前の車、大破したって!」
「ああ、そのこと…誰だ、そんな大袈裟なことを。大破なんてしたら、僕がこんなにピンピンしている筈ないだろう?」
笑いながら進藤を促す。
進藤はむっとした顔のまま、ドスドスと上がりこんで僕を正面から見据えた。
「本当に…ホントーに、お前自身は何ともないんだな?」
「だから…そう言ってるじゃないか…。」
恐いくらい真剣な眼差しに、僕は足がすくむような気がした。
碁のことだったら、こんな風に怯んだりはしないのに。
「前から言おうと思ってた。お前、運転するとヒトが変わるだろ?いや、本当はスピード出すの、好きだろ?」
「それは…男だからね。普通に好きだよ、運転は。」
驚いた。見抜かれているとは思いもしなかった。
実は、僕は結構好きなのだ。運転も、スピードを出すことも。
真夜中の高速だとか、難しい山道なんか、実はゾクゾクするほど好きだ。
碁とは違う昂奮を感じる。
だけど僕は交通ルールは守っているし、街中の一般道では荒い運転はしない。無論、命だって大事だ。
だから、進藤に気付かれているとはこれっぽっちも思っていなかった。
「じゃあ車のキーを出せ。今すぐ。」
「…は?キー?どうして…。」
「しばらく運転すんな。俺が車のキー、預かる。」
「何を馬鹿なこと…訳がわからない。」
「つべこべ言うな。さっさとキー、よこせ。」
「君にそこまでする権利がどこにある?第一、車はミラーが壊れて修理に出している。」
「ミラー?ミラー一個で済んだからって、何、偉そうに!」
「君こそ偉そうに何を言ってる!さっきからムチャクチャだぞ!…それは、自損事故は良くなかったよ。今後はもっと気を付ける。だけどどうして君にそこまで…。」
いきなり腕を引かれた。
視界がグラリと揺れ、体が何かにぶつかる。
「…し、んど?」
「どうしてって言うな。そんなのひとつじゃんか!お前が心配だからに決まってるだろうが…この、大馬鹿野郎…。」
今度こそ、驚きのあまり声も出なかった。
僕の体をグイグイと締め付けて来る相手は、進藤なのだ…
僕を包むぬくもりは、進藤のものなのだ…
「だから…キーよこせ。どうせスペアキー、あんだろ?修理から戻って来たらマスターも渡せ。」
「進藤…でも、僕の車だ…それじゃ運転、出来ないよ…。」
「いいんだよ、それで。お前は当分、運転すんな。…俺を…俺をハラハラさせんな。」
息が弾んで上下する進藤の胸に、僕の胸も押される。
つられて、僕の鼓動も一気に早まる。
目の前に進藤の柔らかい髪の毛があった。
進藤の匂いがしていた。
不意にこの男が…
この、理不尽ともとれる要求をする男が、無性に愛しくなった。
…いや、もうずっとずっと前から、僕はこの男が愛しくてならなかったのだと気付いただけかもしれない。
そして僕の車のキーは進藤のものになった。
代わりに僕はたくさんの「お守り」を持たされ、進藤が助手席に乗っている時にしか運転させてもらえない時期があった。
僕はそれに甘んじたのだ。
数年後に車を乗り換えた時、僕は記念にと、スペアキーをこっそりくすねた。
進藤が何週間も僕のことを思ってくれた証しは、今はどこのお守りよりも僕にとってご利益のあるお守りになった。
僕の命を守ろうとしてくれた人は、今も僕の大切な――――友達だ。
抱き締められたあの日から膨らみ続ける想いは、助手席に乗る横顔に無言で語り掛けることしか出来ないままでいる………
◆◇◆
「長い間、ご免。悪かったよ。」
そう言って進藤が車のキーを返してくれた。
彼の手から受け取った二本のキーは、まだ温もりを残している。
「わかってんだよ、俺だって。お前はさ、俺の子どもみてえな我が侭に、付き合ってくれたんだよな…。」
こんなことしても、お前を事故から守れるのかどうかなんて、誰だってわかんねえ。
でもお前は俺の気持ちが落ち着くならって、そう思ってくれたんだろ…
進藤の淋しげな笑顔は、僕に二度と危ない運転はしないと誓わせるほど切ない色をしていた。
僕は手の中の二本のキーを、ぎゅっと握り締めた。…そうせずにはおれなかった。
「ねえ、進藤。ドライブに行かないか?」
僕の申し出に、進藤は静かに頷いた。
そして僕らはそのまま車に乗り込み、夕暮れ時のベイブリッジに向かった。
どこでも良かった。彼を横に乗せていられるなら。
今、僕こそが彼の命を預かっているのだと思えばゾクゾクした。彼に委ねられていることが、こんなにも危うい喜びだったとは―――!
「うん…お前、ちゃんと安全運転してるな。」
「僕は最初から安全運転だよ。それでも事故は起こるんだから。」
「懲りねえヤツだな。」
「それに君を乗せている時だけ、猫をかぶっているのかもしれないよ?」
「コイツッ!」
「アハハ…嘘だよ。制限速度も守るし、滅多なことでは運転しないから。」
「可愛くねえの。」
それから暫く僕らは無言だった。
時間と、それから景色だけが、僕らの脇をすり抜けてゆく…音もなく………
「車ん中って…喋らなくてもいいのな。碁に集中してる時もそうだけど、言葉がいらないって楽っつーか…なんか、いいな…。」
「そうだね…。」
「俺さ、お前の運転、ホントは嫌じゃないよ。安心出来る。」
「へえ…お墨付きをいただいたって訳だな。」
「…っつかさ、お前の横だから落ち着くのかなぁ…。」
ライトを点けるかどうか、迷う時刻だった。
そして迷った時こそ、まさにライトを点けるべき狭間に立っているのだ―――
「わぁ…めっちゃ綺麗…。」
横から聞こえた感嘆の声に、はっとなる。
進藤は、僕の横顔を見ていた。
…いや、横顔越しに車窓の夕景を見ていた。
「ビックリさせるな。僕のことを言ったのかと思った。」
「…え?」
「僕の顔を見て綺麗なんて言ったら、膝をつねってやるところだ。」
「こっ、こえ〜っ!…っつかさ、綺麗なんて言う訳ねえだろ!男が男に!そっちの夕焼けの海に決まってるじゃんか〜。」
車内に響く僕らの笑い声は、僕がそっとアクセルを緩めたことを、彼に気付かせなかった。
勿論、それは安全運転のためなんかじゃない。
その時の僕が、このままこの道がどこまでも、永遠に、続けばいいのにと、まるで少女のような震えを抱えてハンドルを握っていたことを―――彼は何年も知らずにいたのだった。
「お前、女の人乗せてる時、えらく優しいじゃんか。」
「…ええ、そうかな?」
進藤の拗ねた声が、左耳から飛び込んで来る。たった今、市河さんを送って降ろしたばかりだ。
「そうだよ!元々スピード狂のくせに、紳士ぶりやがって。」
「おい、その言い方は聞き捨てならないな。そもそも、君が何年か前に僕の運転にケチをつけたのが始まりじゃないか。あれから用心してるんだぞ。事故も全くないし。」
「そういうんじゃねえよ!」
「じゃあどういうのだ!」
「だからっ…っ…女の人だとドア開けてやったり、静かに発進させたり、何か…何かカッコつけてっから…。」
―――ああ、そういうことか。なるほど。
そろそろ言い出すんじゃないかと、待っていた。
この頃、やけに僕を見ている。黙って見ている。いや、正確には見てから、黙り込むという感じだ。
そしてその時間が、次第に長くなっているだろう?
言いたいことがあり過ぎて、だから言えないというのは、特殊な状況だ。誰に対しても起こる感情ではない。
…恋、かもしれない。
長かった。
ずっとずっと、君の横にいた。
君が女性に注目され出しても、僕は黙っていた。
君の望むように安全運転をして、僕はただ、君の横にいた。
君がいつか僕の気持ちに気付き、君の気持ちを僕に向けてくれるまで。
それは、他人から横槍が入って運命が望む方へと動かない危険と隣り合わせの、緩慢だけれど確実に忍耐を強いられる時間だった。
「君が変なことを言い出すから走りたくなったじゃないか。付き合え。スカッとするよ。」
モヤモヤしたものを抱えているらしい進藤に、僕は提案した。
彼が頷くだろうということは、十分にわかっていた。
環状線から西へと伸びる高速に入る。市河さんを送った一番近くの高速だというだけで、他に理由はなかった。
あてもなく、車を走らせた。
こういう時、僕は音楽もラジオも聴かない。エンジン音だけがいい。
夏休みも終わった高速は業務用のトラックばかりで、すいていた。いくらでも好きに飛ばせそうだ。
…勿論、進藤が目を光らせているから安全運転の範囲内でのことだが。
どれくらい走っただろうか。
僕の運転好きの魂がすっかり満足した頃、進藤は語り出した。
「俺さ…お前の横に乗るの、好きなんだ。だって、ここでは不自然じゃないだろ?二人っきりでも。車ん中なんだからさ。」
「……。」
「打ってる時は真向かい、だろう。打つ時の手も、反対側から見る。だけどギアチェンジする時なんかお前の手はいつもと違って、面白い。」
「へえ…そんなこと、思ってたんだ?」
「意外か?」
「うん…僕の手なんて、どこが面白い?」
「俺にはそうなんだって。それでいいだろ。…それに―――」
しばらく間があった。
進藤は、何かを溜めている風でもあった。
「それに、お前の運転する横顔も、好き。チラッと見えると、それだけでドキッとする。何度も見たくなるけど、俺にとっては毒かもしれないって我慢しながら…時々見る。その時々がまた、たまらないんだ。」
「褒められているのかな?それは…好意的な話、だよね?」
「違う。」
軽い感じで問い掛けたのにスパッと否定され、こちらが酷くびっくりさせられる。
僕はステアリングを握り締め、息を詰めた。
やがて。
進藤の声が、エンジンやエアコンや車が生み出すあらゆる音を縫って、静かに聞こえて来たのだった。
「違うよ。褒めるとか好意とか、そういう段階じゃねえ。―――俺はお前が好きなんだ。」
何年も待ち侘びた瞬間が、拍子抜けするくらい呆気なくやって来たようだった。
◆◇◆
僕は、進藤に気付かれるのも構わず深呼吸をひとつ、する。
それから言った。
「じゃあ、高速を下りてあそこに入ってもいいか?」
「…はあっ?」
僕は顎をしゃくって、進藤に「あそこ」を示す。
きらびやかというよりもどぎついネオンに彩られた建物を見て、彼が絶句する。
沈黙を切り裂くように、僕はギュギュッと派手な音を立ててハンドルを切った。
「あっ、あっぶねえだろっ!?」
「悪い。車線変更、ギリギリだったから。」
「昔のお前の運転、思い出しちまう…くそったれ。」
「悪かったって言っただろう。口が悪いな。」
「お前は人が悪い。っつか、いきなり何だよ、強引過ぎ。大体…。」
「はい?」
「お前の方が先にこういうトコに連れ込むなんて、それもめちゃくちゃ悔しい。」
「ぷっ…男同士で連れ込むも何も、ないだろう?」
本当に可笑しくなって笑った。
笑うと少しだけステアリングが揺れて、進藤がまた目を剥くのがわかる。
彼が何か言い出す前に、僕は手近なホテルへと車を突っ込んでエンジンを止めた。
この期に及んでとは思うが、ここまでしておきながら僕はすぐに進藤の方を見れなかった。
運転中はいい。助手席の人間の顔を見ずに会話していても、許される。行き先だって自由といえば自由だ。
そして僕は、そういう関係性に慣れ切ってしまったのかもしれない。それほど僕は、進藤ヒカルを待ち続けていたのだ。
…車内に立ち込めた沈黙は、ほんの数秒だったろう。
「お前が運転してる時の横顔、俺だけのものにしたいと思ったんだ。誰にも見せたくない。独り占めしたい。」
「ははは…それってまるで、専属運転手みた…っ!?―――っ…」
手を出すのは俺からだと、低い声が耳を掠めたと思ったら、引寄せられて唇を奪われた。
最初から深い。進藤の熱い舌が、無防備な僕の唇を容赦なく割り、荒々しく探る。
ああ…君はこんな風にキスをする人なんだ。これが君の、キスなんだ…
うっとりと受けながら、僕も返す。
ねっとりとした水音が耳にダイレクトに響き、手も、互いの髪や首筋や背中をまさぐる。
離れた座席だから顎が上がり、腰も浮く。それでも互いを離さない。離せない。
抱き合う時の衣擦れの音がこんなにも淫猥だということを、僕はこの歳になるまで知らなかった。
「し…ん、もう…っは…苦し…。」
「だめ、まだ、だめ…黙って…喋っちゃだめ…もっと、キスさせて…したい…だってずっと…。」
我慢してた―――と。
最後の言葉は、重なった唇を通して伝わった気がする。
僕が必死で身に着け続けたヨロイが、音を立てて真っ二つに割れた。
なりふり構わず進藤に縋り付き、息継ぎは最小限にして、僕からも激しく貪る。
「はぁ…っは…塔矢…好き、凄く、好き…あぁ…。」
「僕、も…っん…ん、ん…も、行こ…そこ、ドア…。」
「待って、お願い、もちょっと…キス…んー…。」
すぐそこに部屋へと続くドアがあるというのに、初めて交わすキスは僕らを愚か者にした。
一体、狭苦しい車の中でどれだけ長い時間、そうしていただろう。エアコンも切った後だったから、当然汗だくになる。
「ふふふ…俺ら、ケダモノ………って…あ、塔矢?」
「…?」
ようやく離れた進藤が、息のかかる距離で僕を見ている。
駐車場の灯りはひっそりとしていて、目を凝らさねば細かい表情までわからなかったが、彼が目を見開いた後、クシャリ…と顔を歪めたのは見て取れた。
彼の震える指先が、僕の頬に触れる。
「お前、泣いてたの?」
「ぁ…。」
まさかと手を伸ばせば、冷たいものが僕の指を何本も濡らす。
その途端、自分の中で限界まで張り詰めていたものがいつしか切れてしまったことを悟った。
「お前も―――ずっと我慢してた?」
進藤が、小首を傾げて訊ねた。心のこもった声が沁みてゆく…
しゃくり上げ始めた僕はひたすら首を縦に振るだけで、もう何も言えなくなってしまった。
…そう。
僕も君が思うよりもうんと長い時間、君を待ち続けていたのだと、声なき声で訴える。
僕が落ち着くまで彼は僕を抱き締めてくれ、やがて移った部屋の中でも、僕らはとても優しく、深く、愛し合ったのだった。
翌朝。
帰り道には進藤がどうしてもと主張して僕の車を運転してくれたこと、それも大変な安全運転だったことは、オマケの想い出となる―――
※
(2010・2・13再アップ)