― 桜幻想 ―








 春、真っ盛りの頃である。日によっては汗ばむ陽気だ。

 アキラは父が世話になり、今は一線を退いて郊外に隠居しているという人物の元へ指導碁に出向いた。
 都下とは言え、山深い地である。行きは駅まで迎えの車が来たが、帰りはまだ日もあるし、すぐ近くにバス停があるからと見送りの車を辞退した。

 アキラの待つバスはすぐに来た。乗客はアキラ一人。

 春のうららかな日差しと、久しぶりに遠出した疲れからか。乗り物の振動に揺られると、すぐにまどろみ始めた。






 ふと、目が覚めた。
 何かに頬を撫でられたような、或いは肩を叩かれたような。
 軽い刺激で覚醒したアキラは、目を見張った。辺りを見回す。

 …ここは、どこだ?
 先ほど利用した駅ではない。周りは山に囲まれており、しかも霞がかかっているようにぼんやりしている。

 まさか…こんな時期、こんな時間帯に…霧?そんな…と、アキラが呟いていると、前方の運転手が声を掛けて来た。

「お客さん、このバスは一時間後に駅に向けて出発するから。遅れないで戻るんだよ。」
「…え…戻るって…あ、あのっ!このバスは最初から駅に行く筈じゃ…どうして一時間も回り道を…。」

 そこまで言って、アキラは悟った。
 あの運転手に何を尋ねても変わらないのだ。己が置かれた状況は、何一つ。
 乗り間違えたとしてもこんな山奥、車一台通る訳でもないだろうし、彼が一時間後に駅行きのバスが出ると言うのだったらそれを信じて待つしかない。

 覚悟を決めると、アキラは立ち上がった。
 前方のドアから外へ出る時、運転手に軽く会釈した。…彼も黙って、帽子を目深に被った頭を揺らしたように見えた。



 一時間後と言われて、バスの中で待つことも出来たろう。棋譜をなぞることでも本を読むことでも時間は潰せる。
 それなのにアキラが誘われるように外に出たのには訳がある。

 窓の外。一本の桜の木が見えたのだ。

 都内ではとっくに葉桜になっているのに。この地方は気温が低めで、桜の開花時期がずれているのだろう。

 薄暮の中に佇む桜は、辺り一帯を薄紅色に染め上げるような迫力があった。



 一歩、一歩、その桜に近付くにつれ気が付いた。
 木の下に、人影がある。
 しかし、戸惑うことなくアキラは歩を進めた。踏み止まろうという気持ちは、不思議と湧いて来なかった。
 その堂々たる一本桜の情景はどこか夢の中のようでもあり、足元はフワフワとして、アキラの中から現実感が薄れて行こうとしていた…



「待っていましたよ。一局、お手合わせ願えませんか?」



 涼やかな声が、風に乗って運ばれて来た。
 同時に、かきわりのように動かなかった桜の木全体がうねるように大きく揺らぎ、花びらが舞った。
 目を開けていられないほどの花嵐だった。

 ――それまで時間を止められていた全てが息を吹き返し、鼓動を打ち始めた如くであった。



 ようやく一息ついて、アキラは目を開ける。
 まだ辿り着いていないと思っていたのに、桜と、そこに立つ人物は目前にいた。まるで、全てがアキラの前に瞬間移動で運ばれたみたいだ。

「あなたは…どうしてそんな格好を?」

 初対面だというのに、挨拶も忘れて真っ先に尋ねてしまった。
 口にしてから何て不躾なことを…と、はっと顔を赤らめたが、時既に遅し。

 相手は微笑み、それからゆっくりと両手を広げた。羽のように翻る、衣の袖。
 教科書やドラマの中でしか見たことのないその装束は、上から下まで真っ白。長い黒髪は腰まで流れ、頭頂の帽子に至っては何とも…言葉を失う。

「私の姿が見えるのですね?面白いですか?まるで仮装のよう?ふふふ…あなたのように私を見て驚いた少年がいました。でも、反応は随分違いますねぇ…。」
「少年…。」
「その話はおいおい…そう、これは衣装です。平安時代の貴族の衣装。もうすぐこの辺りで時代祭りがあってね、私は笛を吹くのですがこれはその為の衣装なのですよ。」
「ああ、お祭りの衣装…そういうことでしたか。」
「ええ、ええ、そういうことにしておいてくださいな。」

 クスリ…と。口元を袖で隠して首を捻った彼は、何やら茶目っ気も感じさせる。

 アキラは出会ったばかりのこの異形の人物を、既に好ましいと受け入れ始めていた。
 衣装のせいもあるのだろう。物腰は上品で、優美。
 そのせいか、見ているこちらまでゆったりした気持ちにさせられる。時の流れが変わった気がする。



「さあ、時間がありません。早速。」

 促された先にはいつの間にやら緋もうせんが敷かれ、そこには碁盤が鎮座していた。座布団まである。

 あれ?さっきは目に入らなかったのかな?と、アキラが訝しく思っていると、相手はもどかし気に再び誘う。

「さあさあ、打ちますよ。互先ですけれど先番は譲りましょう。」

 意外とせっかちらしい。
 気が付けばアキラはその人物の対面に座し、頭を下げていた。

 碁盤に目をやると、盤上に花びらが落ちかかる。まるでアキラの初手を誘うように。
 吸い込まれるように手を伸ばし、石を置いた。



 パチリ。



 音らしき音と言えば会話する声だけだったが、石の音は森閑とした空気を震わせた。
 アキラも身震いする。

 対局中にこんな感覚に襲われたことは一度もない。
 有無を言わさず始まった対局。どこの誰ともわからぬ謎の人物。
 全てが夢のようであるのに、その夢を心地良いとさえ感じ始めている。

 アキラは心のままに、石を置いたのだった。



 その初手を見下ろして。
 相手は、これまたいつの間にか手にしていた白い扇子を左の手の平に受け、微笑んだ。
 今度の微笑みには碁を打てる喜びが滲んでいると、アキラの碁打ちとしての直感が思わせた。

 わかる。
 打つ前から、わかるのだ。
 相手が相当の手練であることは、碁盤の向かい側に坐った時の気迫から感じられる。

 この感覚…
 いつか、どこかで、感じたことがある…

 背筋が伸びて、体の芯が熱を帯びる。昂奮がせり上がって来る。
 そうでありながら、頭は澄み切って先を先を見ようと高速で回転し始める。



 あ、そうか…お父さんと打つ時も、最初にこんな風にいい具合の緊張感に包まれるんだ。



 アキラは納得した。
 そうか、この懐かしさ、慕わしさは、相手が父に似ているからなのだと。
 そして盤面が進むにつれ、相手が父をも凌ぐ打ち手であることを悟る。

 驚いた。この奇妙な状況もさることながら、相手の棋力に心底驚嘆した。

 段々周りの異常さなど気にもならなくなり、アキラは盤面に没頭して行く。
 時計などないから長考すると果てしなくなりそうだが、これがまた、相手がいいタイミングで咳払いをしたり扇子を広げたりするので、アキラもはっとなって石を掴むのだった。

「あ、そこは…まあまあ、この形は先日のヒカルとの名人戦予選で打ちましたね。」
「…ヒカ…………え?ヒカルってまさか進藤…。」
「そう、ヒカルはヒカルですよ。」
「あなたは進藤を知っているんですか?道理で…。」
「道理で?」
「いえ、その…何だか、どこかでお会いしたことがあるような感じがして…今、気が付きました。進藤の碁と、雰囲気が似ている…進藤を指導したことがおありなんでしょう?」

 その質問には答えず、彼は遠くを見てから歌うように語った。

「…本当はね、ヒカルに会いに行こうかとも思ったんですけど、ヒカルにはもうあなたがいる…自分の足で歩き出している…。それでね、あなたの父上と打ちたいなと思ったんですが…。」
「父と?」
「ええ、そしたら…何と!塔矢は塔矢でも、あの者ではなくて…息子の方が呼ばれてしまいましたねぇ…。」
「父もご存知なんですか?ああっ!そうだ、きっとそうですね。あなたほどの打ち手を父が知らない筈はないものっ!」

 そこで彼はまた微笑んだ。
 今度の微笑は、少しだけ淋しげだった。目が、悲しそうだとアキラは思った。

 何か自分がマズイことでも言ったのかと不安になり、身を乗り出して相手を伺う。
 この歳になっても機会を逸しておかっぱのままの黒髪が揺れ、相手の視線がある一点に集中した。
 そっと…長い袖に覆われた腕が伸び、アキラの髪に触れる。
 花びらを取ってくれたのだとわかったのは、それを彼の指先が掴んで見せてくれたから。

「でも、良かったのかもしれない。桜があなたの方を連れて来てくれて…。」

 相変わらず、アキラには意味不明の言葉だった。

 それでも、彼の声音が優しさに満ちていることだけは感じられた。
 相手は今、自分と出会い、打てることを喜んでくれている。そして、アキラ自身も無論、この廻り合わせが嬉しい。



 アキラが安らかな気持ちのままに次の石を置くと、彼は静かに言った。

「…ねえ、最近のヒカルを、あなたはどう思いますか?」

 思わず顔を上げた。
 アキラの視線の先には、彼の深い色の瞳が待ち構えていた。



 嘘はつけないと思った。誤魔化しもきかないと思った。
 この瞳の前ではただありのままを伝えるしかないのだと、アキラは本能に従った。

「進藤は…少し変わりました。大人になったというのとは、違うような気がします。」

 でも、僕には本当のところはわかりませんと言った最後の言葉は、風に千切れて消え入りそうなくらいに弱々しかった。



 アキラと、平安装束の彼と。
 二人の間を踊るように左右に揺れながら落ちて行く花びらは、ゆっくりと時間をかけ、やがて石の代わりのように碁盤の交点に着地した。

 目はその行方を追いながらも、心はヒカルのことで一杯になってしまったアキラだった。









 ヒカルとぎくしゃくし始めて、もうどれくらい経つだろう。
 はっきりと気付いたのは、遅くまでアキラの家で碁を打って泊まって行かないかと誘った時だった。

 明日が早いから帰るというヒカルに、ここからだっていいじゃないか、僕のシャツとスーツを貸すよと引き止めた。
 当然、ヒカルが、あ、じゃあそうすると答えるとばかり思っていたアキラは、ヒカルに無言のまま睨み付けられて、怯んだ。

「お前さ、そんなに俺と打ちたい?俺の碁が必要?自分が強くなる為に?」

 いつものヒカルではないと、その時ようやくアキラは気付いたのだった。

 …いつの頃からか。
 進藤は大人びた表情を見せるようになり、そこには何らかの影が付き纏うようになった。
 普通に打っていたかと思えば、ふっと苛立ちのこもった目で僕を見ている…それも、盗み見るように、密かに…だ……

 そしてそれが自分の思い違いではないということを、ヒカルの瞳に宿る強い力によってアキラは思い知らされることになった。



「難しいところですねぇ…。」

不意に降って来た声に、アキラは弾かれたように顔を上げた。

「進藤が、ですか?」
「…ヒカル?ふふ…いえいえ、こっちですよ。」

 扇子が指し示す先には、碁盤。
 花びらが散り掛かって、白と黒の世界をいつもと違う華やぎが彩る。
 こんな盤面を見たことがないと、アキラは苦笑した。その笑いには、己に対する自嘲も含まれていたかもしれない。

「ふふ…そうですよね。碁のことですよね。僕と来たら…。」
「あなたはいつもそんなに…。」
「はい?」
「ヒカルのことばかり考えているのですか?」
「えっ…それは…。」

 予想もしていなかった切込みに、アキラは自分の表向きの顔が崩されていくような気がした。
 頬が紅潮する。…乾いた唇をそっと噛んで俯いた。

「可笑しいんです、僕は…進藤と打てるだけで良かったのに…。」

 今はそれだけでないことを、誰よりも自分が知っている。
 ヒカルの碁だけではなく、ヒカル本人のことが気になる。その行動。言葉。秘めた本心。
 おそらくヒカルに対する己の「欲」は、碁だけにおさまり切れなくなっている――

 アキラの様子を見ていた彼は、手にした扇子を手招きするような仕草で動かした。優雅な手付きだ。

「ふふ…そんなに考え込むこともないですってば。ヒカルだっていつもいつも、あなたのことを意識していました。あなたがいたからこそ、ヒカルは道を見つけた。進んで来ることが出来た。決して私の存在だけでは、ヒカルはここまでの棋士にはなれなかったと信じますよ。」
「え…進藤が…僕のこと、を…。」
「ええ、ええ、それはもう…懐かしいですね。あの頃のヒカルが…。」

 …本当に可愛かった…ヒカルと過ごした時間は、私にとってかけがえのないものでした……

 平安装束の彼が、懐かしそうに目を細めた。
 遥か遠くを見る、透き通った視線――
 それを見るアキラの胸にまで、懐かしいような切ないような想いが込み上げて来る……

 アキラはもう一度、彼の顔をマジマジと見た。
 細面で切れ長の瞳。色白で、碁石を持つ手まで白い。豊かで真っ直ぐな黒髪は艶やかに流れ、耳には紅いものが見え隠れしている。

 こんな人物がヒカルの身近にいたなんて、信じられない。進藤ヒカルとは余りにもかけ離れているではないか。

 それなのに。彼の慈愛に満ちた表情を見ていると、水が上から下へと流れるような逆らい難い自然さで納得してしまうから、それもまた不思議だ。
 この人に導かれたからこそ、ヒカルは碁の道を進んで来たのだと。
 そしてその結果、自分の前に現れてくれたのだと思うと、目の前の人物に対する敬意が湧いて来る。

「――さあ、次の一手を。」
「あ、はい…。」
「盤上で語り合いましょう。あなたも私も、そしてヒカルも…碁に魅せられ、碁に囚われた者…その運命に抗えない。どんな悩みを抱えても打つことは止められない。ヒカルが一度は捨てた石を再び握ったように…。」
「ええ…。」
「あの頃と比べたらあなた達は随分大人に近付いて、もつれた糸は簡単にはほどけないでしょう。悩ましい季節だと思いますよ。…だからこそ打ちましょう…打って、前へ進みましょう。」

 アキラは深く頷くと、石を置いた。アキラの手が起した空気の揺らぎによって、盤上の花びらがフワリ…と移動する。
 こんなにも軽く、儚い命であるのに、強い存在感で人に訴え掛けて来る美しさがあるのは、何故だろう……

 美しいものを前にすると、虚勢が崩れる。鎧が剥げる。
 アキラは目の前の彼に聞かせるともなく、抑揚のない声で呟くのだった。

「進藤だけが変わったんじゃないのかも…きっと、僕の方も変わってしまった…。」
「アキラ?」
「それまで気付かなかったことに、気付いてしまった。そしてそれを、無かった方が面倒がなくて助かるのにって…そんな風に受け取ってしまった。」
「……。」
「多分、進藤はそのこともわかっている…だからこそ、僕の彼を遠ざけようとする態度に苛立っている。僕のせいだ…僕が彼に、あんな荒んだ目をさせた…あれは、大人になってしまった目じゃなくてむしろ…傷付いた子供の目なんだ…。」

 アキラの声が、湿り気を帯び始めた。
 相手は言葉を掛けるでもなく、盤面を見下ろしている。

 やがて次の一手を置くと、彼はアキラに向かって微笑んだ。

「長考も時には必要ですからね。ゆっくりと行けばいいんですよ。」
「長考…そうですね。でも、僕は今、長考の末に答を見つけられるのか…そのことが不安なのかも…。ほら、碁だったらこうして終局までは…どこかに道を探せるのに…。」

 パチリ。

 アキラが置いた一手に彼が目を見開き、それから小さく唸った。

「これはこれは…う〜ん…腕を上げましたねぇ…悩みは人を大きくさせるのかもしれない。それは魂を強くし、碁にも影響するのでしょう。」

 勿論、だからと言って進んで悩み事を抱える必要もないし、渦中にあっては苦しいばかりでしょうけれど…

 優しい声が、アキラを包んだ。

 そして優しくされればされるほど、アキラの気持ちは防ぎようもなく崩れ始める。
 自分を責めても、運命を恨んでもどうしようもない。流れを変えることなど出来ない。

 今まで、何にも迷うことはなかった。
 確かにヒカルに出会ってからは、生まれて初めて制御出来ないほどに彼を渇望し、その果てに一時は渾沌としたこともあった。
 そんな若い時代を経て、やっと望んだ関係になれたと思ったのに。



 ――わからない。

 今は、もっとわからない。

 大人に近付いているだけに、昔の自分のように激しい落胆故にヒカルに背を向けるという単純な反応をする訳にもいかない。

 ヒカルを二度と失いたくないと思うだけに、アキラの懊悩は深刻だった。



 碁笥に手を入れたまま、アキラは固まる。
 次の一手が浮かばないのではない。いくつか浮かぶ数手の中で、どれを選ぶべきか。迷いがアキラの足元を大きく揺らがせ、不安定にさせるのだった。

「アキラ…。」

 その時だった。
 アキラの目の前がほんの少し翳り、続いて甘い香りが漂って来た。
 声を上げる間もなく、体が温かい空気によって包み込まれ…力が抜けていく……

 平安装束の彼が音もなく滑ってはアキラの目前に迫り、そしてアキラの体をそっと柔らかく抱いてくれたのだった。

 …驚いた。
 こうして抱かれたことではなく、まるで自分がそうされるのを待っていたかのように、自然に受け入れていたことに、だ。

「嬉しい…こうしてあなたを抱けることが、奇跡のように嬉しい…あまねく神よ…素晴らしい計らいに感謝します…。」

 彼の声も、掠れ、震えていた。
 アキラはそれを聞きながら、静かに頬を濡らす。今まで押さえ込んで来た感情が、堰を切ったように溢れた。

「僕は…僕、は…。」

 何が言いたいのかわからぬまま、うわ言のように言葉を零すアキラの頭を、彼は優しく撫で続けた。

「綺麗な髪ですね…健やかで真っ直ぐで…まるであなたの本性、そのものですね。…そうそう、あなたの父上も、若い時はこんな黒髪だったのでしょうか…。」

 うっとりとした声音に、アキラは心が癒されるのを感じながらも、胸が詰まって答えられなかった。
 心中で頷く。

 …ええ、父も艶のある黒髪だったと祖父母に聞いたことがあります…

 するとその声無き声が届いたのか、彼は腕に力を込めた。

 …そう、そうですか。いずれあなたの父上と打てるその日が来るのを、あちらで楽しみに待っていますよ…

 アキラは思う。いや、願うと言った方が近いだろう。
 このまま彼の腕に身を預け、心を委ね、安らいでいたいと…
 いつまでもいつまでも…そうしていたいと…

 そして――
 もしかしたら昔の進藤も、こんな風に彼に癒され、いつまでも傍に居て欲しいと願っていたのではないだろかと…ふと、過ぎった。胸が更に熱くなる。

 すると。今度もまたアキラの心を読み取ったかのように、しっかりとした声が聞こえた。

 ―― ヒカルの元へ帰ったら どうぞ私があなたにしてあげたことを ヒカルにしてください…
 私が今日 あなたにしたことは 全て私からヒカルへの 伝言です ――

「…え?でも…何を…僕は何を、すれば…。」
「それは自分で考えてくださいな。…ありがとう、アキラ。今日、私はあなたと実りある豊かな時間を過ごせました。」

 あなたもそうであるなら、私も幸せ……

 アキラは涙を流しながら、そのまま目を閉じて彼に縋り付く。
 幾重にも重なる装束に身を包んでいるのに、彼のぬくもりはこれ以上はないくらい確かなものとしてアキラには感じられるのだった。



 パパパーーーンッ!

 突然。高らかなクラクションの音が響いて、思わず跳ねたアキラの体を、今度は一斉に舞い上がった花吹雪が取り巻いた。

 アキラは彼の名前を叫ぼうとして、まだその名を聞いてもいないことに気付く。
 叫びたいのに。彼の名を叫んで、自分もありがとうと言いたいのに。

 息も出来ないほど激しい花嵐は、もがくアキラの全身を翻弄し、縋るべき彼の体が既にそこにはないことを思い知らせるのだった。



 …そしてアキラは、暗闇へと吸い込まれて行った。



 もう一度彼の姿を見ることも、桜の大木を見ることも叶わないまま――










                    










 目が覚めた時、アキラはバスの中だった。終点である駅に着いたと、運転手に揺り起されたのだ。
 見上げる彼は、先程までの運転手とは違うと本能的に思ったが、それを追求してどうなるものでもあるまい。

 僕はここへ戻って来た。
 それは最初から決まっていたことで、あの時間は桜の老木が見せてくれた一瞬の夢だったのか、本当にあったことなのか、その真偽を問う意味などない。

 大事なことは、受け取った。
 受け取って、そしてどう伝えるのかは自分次第なのだと――

 不思議な時間と空間にいたと、アキラにはわかっている。それでも、経験した内容の尊さを疑うことはなかった。

 ただ淋しいことに――アキラの記憶は、恐るべき速さで失われつつあったのだ。
 東京に着く頃には、共に打った相手の顔もおぼろげだった。端正な顔立ちの男性だったとは思うが、何歳くらいの、どんな顔の…とは、具体的な映像が浮かばない。
 結局、打ち掛けのままになった碁も少しずつ薄れていくような気がして、アキラは焦った。

 すぐにヒカルに連絡を入れる。
 家にいたヒカルに今すぐ話したいことがあると告げると、アキラは返事も聞かずに電話を切り、目的地へと向かった。

「どうしたんだよ…珍しいじゃん、お前がこんな強引に…。」
「そうかな。昔はこういうことも、もっと頻繁にあったんじゃないか?」
「…何?おまえ、何が言いたいの?俺に何を…。」
「急に来たのは悪かった。でも、すぐにでも会わなければ駄目になると思ったんだ…。」
「塔矢?」

 ヒカルの顔に、戸惑いと不審の色が浮かぶ。
 無理もない。この頃では二人きりで話すことも、ましてやプライベートで打つことも間遠になっていた二人だ。

「今から並べる碁を見て欲しい。さっきまで僕が一緒にいた人から、君への伝言だ。」
「…お前、どうかしちゃったの?何か…雰囲気違う…。」
「うん、わかってる。でも今だけは…お願いだ…。」

 僕も、もっともっと君と話したいよ、話すべきことだってたくさんある――それに今の僕は、君と本心を見せ合って話すことに惧れはないから。

 アキラの決意を示すかのように強く睨まれ、ヒカルは何をか悟った。
 人の世にありながら、人の智恵を超えた世界があることを身を持って体験したヒカルであるからこそ、アキラの尋常ではない雰囲気にゾクゾクと身の内から震えが起きるのを禁じえなかった。

「…初手はここ。」

 ついに、打ち始める。
 それは言うまでもなく――桜の大木の下で平安装束の彼とアキラが打った、先程の一局であった。



 打ち進めて行く内に、次第にアキラの心も鎮まって行く……



 ヒカルもいつの間にか正座になり、真剣な眼差しで盤面を追っていた。



「…ここで打ち掛けになった…残念ながら…この棋譜が完成することはないだろう――君が代わりに打つのでなければ…。」

 思ったままを口にしてしまうと、アキラは大きく溜め息を吐いた。
 最後まで並べられた。覚えていることが出来た。まだ…間に合ったのだ……

 緊張の糸が緩んだアキラは、つい、笑いながらヒカルを見た。

 ――そこには、アキラを驚かせるヒカルの姿があった。

 ヒカルは泣いていた。
 声もなく、静かに涙を零していた。
 昔のように、顔をクシャクシャに歪めて号泣するのではない。

 静謐な涙は見る者の胸を締め付け、その内部にまで染み入って来るようだ……

「塔矢…これ、誰と…ぅ…まさか…。」
「誰…それは多分、君の方が知っている…あの人が何者なのか、僕は真実を知らないまま打った…。」
「ああ、ああぁ…そうだ、な…こんな打ち方…アイツしか…。」
「わかるんだな…矢張り…言葉で説明なんかしなくても…君には…。そう、そうなんだ、あの人は素晴らしい打ち手だった。今まで僕が出会った誰よりも…。」

 アキラも堪え切れなくなった。目元に熱が集まる。唇がわなないて、溢れたものが頬を伝った。

 ヒカルは正座のまま、俯いた。膝の上に力いっぱい押し付けられた拳が、震えていた。
 握り締められ張り詰めた手の甲に、いくつもいくつも透明の雫が落ちるのをアキラも見ていた。

「な、ぁ、塔矢…アイツ、元気そうだった?――わ、笑って…た?」

 途切れ途切れに言うのが精一杯のヒカルに、アキラも必死で声を出した。

「うん…うん、進藤…笑ってくれたよ、何度も…。」
「うう…っ…。」
「あの人がとても純粋な人だと、よくわかる…見ているだけで…打つだけ、で…。こちらまで心が澄み渡るような…そんな美しい人だった…。」
「そ…か…良かった…。」

 その時、アキラの中に蘇って来た。彼が告げた言葉が。



 ―― 今日 私があなたにしたことの全てが 私からヒカルへの 伝言です ――



 そして、彼の微笑み。崇高なまでに美しい、微笑み。

 言われた最初は伝言とは何かわからなかったアキラも、無心になって彼と打った碁を並べた。
 そして、今。
 彼が伝えて欲しいことは、それだけではないとわかったアキラがすべきことは、ただ一つ……

「…そしてこれが…もう一つの、彼からの伝言だ。進藤…受け取ってくれ。」
「え?」

 手を伸ばす。ヒカルの体に触れ、引き寄せる。
 壊れ物を扱うように、そっと抱いた。
 しゃくり上げるように大きく息を飲む音が聞こえたが、構わず腕を回したまま、何度もヒカルの背中を撫で擦った。



 ――彼が伝えて欲しかったのは、碁だけではなかった。この抱擁こそが、彼の進藤に対する愛情の全て――



 溢れ出す想いがアキラの腕に一層力を込めさせ、ヒカルもアキラの背中に腕を回した。

 今――アキラがヒカルを抱いている。そして、ヒカルはアキラを抱いている。

「進藤…これが、彼が僕にしてくれたことで…そして、本当なら彼自身が君にしたかったことだと…思う…。」
「うんう、ん…わかった…すげえ伝わったよ、塔矢…このぬくもりはお前の体温だけど…でも…それだけじゃないんだな…ありがと…。」

 アキラも頷く。ヒカルは手の甲で涙をグシ…と拭うと、顔を上げて言った。

「塔矢――俺、お前が好きだ。」

 不意打ちを喰らったのに、アキラは驚かなかった。
 知っていた。もう、その感情が何と呼ばれるものか、知っていた。
 ただ、どう受け止めるべきか心が定まらぬうちは認めることすら怖かったのだと、アキラは自分の弱さを自覚していた。

「いつの間にか、お前のことばかり考えるようになってた…時々、夜も眠れねーくらい頭にくることもあるのに、でもすぐに会いたくなる…そのうち打っても打っても足りないことに気付いた…好きなんだって。お前のこと、すげえ好きになっちゃったんだって…。」

 ははは…バカだよなぁ…どうしてこんな気持ちになっちゃったんだろ?有り得ねえよ、絶対にって、自分のこと殴りたいくらい…
 苦しかった。
 ずっとずっと…こんな気持ちになった自分が凄く汚い人間に思えて、苦しかった……
 お前がなーんにも知らないで、俺に無邪気に笑えば笑うほど、俺のやりたいようにやってその顔を歪ませたいって…ヒデーことまで思った……

 ヒカルは目を逸らさなかった。アキラも、必死で踏み止まった。

 こんなにも赤裸々なヒカルの告白の前に、本当はこの場から逃げ出したいほどいたたまれない筈だ。
 昨日までの自分だったら確実にそうしていただろう。ヒカルを殴り倒してでもそうしただろう。

 しかし――もう、逃げない。
 不思議を起してまでも自分の前に現れてくれた、あの人がくれた力。
 それが僕の胸の奥に火を灯した。決して消してはならない、守っていくべき大切な火だ。

 言葉を切って、アキラの返答を待つヒカルの瞳は不安げに揺れている。
 その瞳が、何故か先程の彼に重なった。全然違う顔立ちなのに、澄み切った深い色がどこか似ていると思った……

 さっきも感じた。この瞳の前では嘘がつけないと。
 今も同じことを――ヒカルに対して、真実を告げるしかないとアキラは心を決めた。

「僕も好きだよ、君のことが…でも、やっぱり僕もわからないんだ…この、好きという気持ちをどんな形に育てて行ったらいいのか、わからない…だから…。」
「うん…。」
「ねえ、進藤。ゆっくりやって行かないか?焦らないで…時間をかけて考えて行きたいんだ。君とのことは僕にとって、とても大事だから…生き方に関わるほど…。」
「塔矢!」

 言えた…やっと、言えた……
 安堵する余りに力の抜けたアキラの体を、今度はヒカルが支えるように抱き締め、アキラの頭に自分のそれを擦り付けた。

「塔矢塔矢…とう、やぁ…ありがと…嬉しい…。」
「進藤…く、るしいよ…。」

 それでも一向に力を緩める様子もなく、アキラの名前を呼び続けるヒカルを、アキラもまた限りない愛しさで包んだ。



 ――おそらく、もう二度とあの平安装束の棋士と会うことはないだろう…生きているうちは。
 アキラにはそのことが確信としてあった。

 しかし同時に、次第に薄れていく記憶を惜しいとも思わなかった。
 もしかしたら何年後かにヒカルに尋ねられても、もうこの出来事を覚えてはいないかもしれない。え、そんなことがあったけ…と答えては、ヒカルを失望させてしまうかもしれない。

 それでもその時、自分は間違いなくヒカルの横にいるだろうと思えば、それで十分だった。
 忘却が最初からの約束ならば、その約束を受け入れる。逆らわない。
 こうしてヒカルの大切な人に出会え、大切な役目を果たせたことを、今はただ、誇りに思おう……

 薄れていく彼の残像を名残惜しげに胸の中で追い掛けつつ、アキラは呟いた。ありがとう、と。
 その言葉が何を意味するのか、ヒカルにはわかっていた。

「…この先を、俺が打ってもいいんだよな?」

 そう言ってもう一度強く、深く、抱き締められて、アキラも答えた。

「ゆっくりでいいんだ…言ったろう?僕らの先は長い。碁も、それ以外も…時間をかけて大切に…ゆっくりと…。」
「うん…お前の気持ち、よくわかった。きっとアイツも、どこかで笑いながら俺達を見てる…。」

 ヒカルがアイツと発する声に、計り知れない愛情を感じ――アキラの彷徨い続けていた心も、ようやく満たされる場所へと辿り着いた。



 桜の季節も終幕を迎えようとしていた、ある春の、夢のような出来事だった。











NOVEL