― リストランテの夜 ―
その店のドアは、今夜も闇に沈んでいた。
ねっとりと絡みつくような熱帯夜を歩いて来たアキラは、そこで立ち止まった。
それから深呼吸をひとつ。
思い切って開けたドアは、昨夜よりも遥かに重たく感じられた。
「いらっしゃいませ。」
「こんばんは。」
店は、カウンター席だけ。
シェフも一人だけ。
今夜も客は、アキラしかいなかった。
「今夜はもう?」
「大丈夫ですよ。前菜に、お好みのパスタくらいなら…ああ、それから子羊の旨いのがあります。…どうですか?」
「それを。…酒はいいです。」
「かしこまりました。」
アキラはすすめられた椅子にかけると、無造作に指を差し込んで、少しだけネクタイを緩めた。
店内の涼しさに、肌が喜ぶ。汗がひく。
金色の前髪の歳若いシェフは、コックコートなど勿論着ていない。ごくありふれた白いシャツに、ギャルソンのような黒いエプロンを着けているだけだ。
しかし、カウンターの向こうに見える手さばきは見事だ。動きにも、一切の無駄がない。
ステップを刻むようにして、今、冷蔵庫に行ったかと思えば、次の瞬間にはフライパンをあおっていた。
やがて出された料理を、アキラはゆっくりと口に運んで味わった…
「どうして…。」
「…はい?」
今、アキラの目の前には、食後のカプチーノが置かれている。
それまで二人の間には、料理の説明以外の会話は一切なかった。必要なかった。
アキラには、料理人としての彼を見ているだけで感じるものがあった。
一方の彼は、パフォーマンスすら料理の一部だという自負でもあるかのように、雄弁に振る舞っていた。
…だから。
アキラが投げかけた言葉に、彼は心底面食らったようだ。
「どうして昨日も、そして今夜も僕をこの店に入れてくれたんですか?」
「……。」
「あれからネットで調べて…ここが、一晩一組限定、完全予約のお店だと知りました。」
「そうですか。」
「お店の情報は非公開なんですね。僕も、ここに来店したお客さんのブログで知りました。でもそこにだって連絡先はなかった。確かに、あなたの料理はその若さからは想像も出来ないほど深い…。」
「ありがとうございます。今夜もご満足いただけましたか?」
彼は、薄暗い店内を照らすような光りのある微笑を向けた。
アキラは、とりつくシマはなさそうだと小さな溜め息をつく―――だがしかし、諦める気もなかった。
「時間的にも昨日は店仕舞いだった筈だ。そして今夜も…。予約もしていない僕を、どうして?」
「昨日も飲みませんでしたね。疲れていらっしゃいました?酒が全く駄目という訳ではないですか?」
今度はアキラが面食らう番だった。
戸惑いがはっきり顔に出たと思うが、何とか首を振った。
「飲めます。」
「良かった。」
彼はそれだけ言うと、さっとグラスを用意し、赤ワインを注いだ。
やっぱり流れるような動作で、アキラの前に差し出す。
料理人にしては意外に綺麗な指だと、アキラは彼の手を見ながらぼんやりと思った。
「極上とは言いません。だけど、俺の好きなワインです。」
「え…でも、ワインは頼んでない…。」
「今から俺が言うことで、あなたを不快にさせてしまうかもしれないから、これは俺からのお詫び…みたいなものだと思ってください。」
何事が始まるのだろうと、アキラはゴクリ…と咽喉を鳴らした。
「あなたを見た瞬間に、俺は店仕舞いなんか出来なくなった。あなたと一緒にいたかった。…俺の料理を、あなたに食べて欲しかった。」
でも、と。
彼は続けた。
「まさか今夜も来てくれるなんて思ってもいなかった。二度と会えない運命だって…。だから言います。」
生まれて初めて、男と寝てみたいと思いました―――
沈黙は夜の中に溶け出しては、辺りの空気を濃密にしていった。
アキラはやっとの思いで、声を絞り出した。
「それはつまり、僕と…ということ?」
「今夜、これから俺に付き合ってくれる気がないなら、それを飲んで帰ってくれていいです。でも…もしも…。」
「ここは二丁目じゃないと思ったけど。君はゲイなのか?こんな風にいつも客を物色しては…誘うのか?」
アキラの言葉に、彼の顔が強張る。
それはすぐに、泣き笑いのようなつかみ所のない表情へと変わった。
…あ。
こうして見ると、どことなく幼い感じもする…
そう感じた途端に、アキラの胸はひどく痛んだ。
明らかに、自分の言葉が彼を傷付けたのだとわかった。
「俺だって覚悟して言ったんだから、何と思われても仕方ないです。」
そう言って、彼は背中を向けた。
黙々と、片付けを始める。
その背中を見詰めているうちに、アキラの覚悟も決まった。
二晩続けて、吸い寄せられるようにしてこの店に足を運んだことが、既に己の気持ちの全てを物語っているではないか。
出会ったばかりの彼と離れがたいと、自分は明らかにそう思っているではないか。
アキラはグラスに手を伸ばすと、一気に赤ワインを流し込んだ。
はっと気付いた彼が振り向き、アキラを見た。
アキラの、上下する男らしい咽喉の辺りを、彼はじっと見ていた…
カツンと、高い音を響かせてグラスを置き、アキラは財布から金を払った。
「ありがとうございました。」
彼は、既に無表情に戻っていた。静かに頭を下げる。
「片付けは終わりか?すぐに出られるのか?」
「―――はい?」
「だからっ…もう、一秒だって待てないって言ってるんだ。」
「ちょ、ちょっと待って…たった今、ワイン飲み干したじゃないか。支払いだって…。」
「急にこんなことを言われて、こっちにその気がなかったら、確かに不快極まりないさ。ワインなんて、さっさと君の顔にブチまけて帰るところだ。」
「じゃあ…。」
「僕に言わせれば、酒でも飲まなきゃ…とてもこんなことに踏み出せやしない…。」
男性となんて、僕の人生でも正真正銘、初めてなんだから―――
既に震えていたアキラの息を吸い取るように、カウンター越しに体を伸ばして来た彼の唇が、重ねられた。
鮮やかとも言える、一瞬の出来事。
そして
永遠に忘れられなくなる、出来事。
「あとはあなたのグラスだけだ…でも、片付けは明日の朝…で、いいだろ?」
「ん…。」
息がかかる距離で、目と目を見合わせながら交わした。
もう一度、そしてもっと深く、激しく、口付けたいと、心も体も同時に燃え上がった夜―――
その夜も、店のドアは静けさの中に佇んでいた。
金色の文字で書かれた店の名前も、目を凝らさねば読み取れないほど、小さく、ひっそりしている。
アキラはいつものようにドアを押した。
そしていつものように、客を送り出して片付け中の彼がそこでアキラを迎えてくれた。
「いらっしゃい。」
「こんばんは。」
いつもと同じだ。短い挨拶を交わす。
そして彼の仕事が鮮やかに始まるのを、アキラは黙ったまま見守るのだった。
この頃では、料理は完全にお任せになっている。肉か魚か、メインを訊かれるくらいだ。
「これは…。」
「アスパラのリゾットです。」
「美味い…。」
「アスパラは元気になる野菜なんです。たっぷり使いました。」
温かいものが胃に入った途端、体の緊張が解け、隅々まで緩んでいく。
アキラは、ほっ…と息を吐いた。
「メインは煮込んだ頬肉です。ナイフなんかいらないくらい、柔らかい筈です。顎が疲れませんよ。」
笑っているのだろうか。
視線を彼にではなく料理に注いでいるので、アキラにはわからない。
でも―――彼の声には笑いが滲んでいる気がする。
料理の説明をする彼の口調は常に淡々としているが、今日はそれだけではないと、アキラは感じたのだ。
優しさ、だろうか―――
こんなことをしてもらう資格が果たして自分にあるのだろうかと自問自答しながらも、アキラはしっかりと噛み締めて彼の料理を平らげていった。
最後は、ハーブティーまで出て来た。
さすがにここまで来れば、完全に見抜かれているとわかる。
「今夜は来るべきじゃなかった…。」
「料理、お気に召しませんでしたか?」
「そうじゃない。完璧だ。申し分ないさ。君の作るものは全て…今夜の僕にピッタリだった。」
「……。」
「僕が疲れていること、一瞬で見抜いたんだな。」
「あなたが入って来た時、全身からそういう空気が漂っていたから。俺は別に鋭い方でもないけど、今夜は特に…。」
その言葉を聞いて、アキラは一日の出来事を反芻する…
激しい戦いだった。体も、精神も、全てを消耗するような。
相手の気迫に呑まれまいとすれば、こちらはそれ以上のエネルギーを要するものだ。
特に今日は昔から知っている、宿敵とも言える相手だったせいか、アキラの虚脱感は一層強かった。
幼い頃から、そんな世界で生きて来た。当たり前のように。
疑問に思ったことなどないが、こんな夜は、もしも自分が他の人生を歩んでいたらどうなっただろうと、目の前の同年代の青年シェフの姿にふと、有り得ない想像を重ねてみたりもする…
「どうかしました?俺の顔に、何か面白いことでも描いてありますか?」
「…あ、ああ、いや…そうじゃないけど…何だか…もしも君と僕が同じ職業だったらって…考えてしまって…変かな?」
彼は驚いた顔をして、それからすぐに小首を傾げて微笑んだ。
「面白いことを言いますね。」
人の微笑が乾いた心に染みるという感覚を、アキラはその時初めて味わっていた…
そしてその笑顔を味わい尽くした時、アキラは正直に彼に告げた。
「ここへ来るのは、君の料理を食べたい時か、或いは………セックスしたい時だけのつもりだったのに…。」
彼の顔色が、微妙に変わる。
「じゃあ今夜はそれ以外のものを求めて、ここへ来たんですか?」
「…っ…。」
「いや、答えなくていいです。別に知りたい訳じゃない。」
優しい態度を取ったからといって、彼は全部が全部、アキラを受け入れている訳ではない。
そのことを、彼が静かに叩き付けた本音からも感じられる。
―――何と言っても二人はまだ、互いの名前すら知らないのだから。
初めて体を重ねた次の朝、彼はアキラよりも先に起きて出掛けていた。
すぐ近くにある、彼のアパートの一室。
置き手紙には「仕入れに行きます。鍵はかけなくていいから。」とだけ書かれていた。名前はなかった。
そう言えば最中は夢中だったし、終わってからも夢中だったし、一秒たりとも余裕がなかったと振り返る。
同性との交わりは初めてなのだから無理もないと、アキラは彼のベッドで膝を抱え、溜め息を漏らした。
彼にも自分の名前を訊かれなかったし、アキラも訊ねなかった。
そして一度そうやって夜を過ごしてしまうと、もう、どちらからも訊ねることは出来なくなるものだ。
それでいいのだ…そのくらいが、丁度いいのだ―――
相手を知りたいから始めた関係ではないと、何とはなしに理解している。
だからこそ、こんな風に優しくされるといたたまれない気がするのだ。
相手を深く知らずとも、人は人に優しく出来るし、したい時もあるのだと、アキラには実感が持てない。
「ダメなんだ…。」
「…はい?」
「ダメなんだよ、僕は…こんな風に労わられるのが嬉しい反面…どこか、辛い…だから君にベッドでも優しくなんかされたら…もう、ダメだ…苦手なんだ…そういうのは…。」
アキラは、自分で自分に驚く。
何があっても生まれてこのかた、決して人には言わないで来た類のことを、どうして今、ここで、ペラペラと喋っているのだろう?
苦痛に歪んだアキラの顔に、冷たいものが触れた。
水を扱う彼の手は、いつだって冷たい。
カウンター越しに伸びて来た手は、アキラの頬から顎、そして髪に差し込まれ、耳の裏までを愛撫した。
…そう、それは愛撫の手付きだった。
「俺と寝たくないの?」
「……。」
「俺は寝たいよ。今すぐにでも抱きたい。ここででも、抱ける。」
「まさか…この店は君にとって、大事な場所じゃないのか?」
「大事な場所?どうしてそう思うんだ?俺はそんなこと、一度も言ってない。」
俺はまだあなたに、たった一つのこと以外、意味のあることを言ってはいないよ。
あなたとセックスしたいって、ただそれだけしか―――
アキラは項垂れた。
深く、静かに。
体が熱を帯びるのを感じる。
「帰ろうと思ったのに…だってやっぱり、こんな風にされたら…。」
今にも消え入りそうな声で言うと、頬を行き来する彼の手に、自分のそれを重ねた。
…温度差のある、男同士の手と手。
「心配しなくていいのに?言っとくけど、俺はどんなにあなたが疲れてても、ベッドで優しくする気はないから。…やりたいようにやるよ。」
料理で人に優しくすることはあっても、セックスまでそうだとは限らない…
力強い声で宣言され、アキラは顔を上げた。
体の中を風が通り抜けたみたいな、胸のすくような言い方だった。
「そうしてくれ。」
彼の目を真っ直ぐ見て、一言だけ返す。
すぐに唇が押し付けられ、舌が絡まり合うのに時間はかからなかった。
ヒカルはグラスを丁寧に、ゆっくりと拭いていた。ひとつ…また、ひとつ…
予感がしていた。今にも、彼がその重たい扉を押して入って来る予感が。
彼を初めて見た瞬間の衝撃を、ヒカルは忘れられない。天使が舞い降りたかと思った――――
ヨーロッパを放浪していた頃、美術館や教会を随分見て回った。
どれも長い歳月を経てそこに存在するという事実だけで、十分圧倒される。何時間も立ち尽くし、或いは固い椅子に座り、ひたすら見ていた。
教養がある訳ではなかったが、心は素直に感じる。
ヒカルはそれがどんな歴史的価値があるのかということとは無関係に、好きな美術品を、好きなように楽しんだ。
その客には、当時見たどんな聖母にも、どんな天使にも、負けない美しさがあると感じた。見た目だけではない。内面から滲む、静謐で孤高な魂の輝き。
瞬時にして心奪われたヒカルは、既に閉店した筈の店に彼を招き入れた。
そして帰り際、彼がヒカルに「美味しかった」と礼を言った時、ヒカルの中には無上の歓びが湧いたのだ。
…俺はこの男に食べさせる為に、料理人の道を歩いて来たのかもしれない――――
その感慨はすなわち、ヒカルが彼に会う為に生まれたということと同義だった。
同時に、ヒカルに忍び寄った暗い感情も、ヒカル自身を混乱させた。
…ここまま帰したくない。
いっそこの扉を永遠に開かないようにして、彼をここに閉じ込めてしまいたい。体ごと、丸ごと、自分のものにしたい。
独り占め、したい…
そんなことをしたら犯罪だという理性はちゃんとあるから、さすがに思い止まった。
けれど二度目があれば…彼がここにもう一度現れた時は、多分、玉砕覚悟で手を伸ばしてしまうだろうという予感も、しっかりとヒカルの中に芽生えたのだった。
果たして。
彼は再び、ヒカルの店へとやって来た。明らかに、前回のヒカルの様子に不審と疑惑を抱いて。
それは、彼が自分へ並々ならぬ関心を抱いてくれた証しでもあり、ヒカルは歓喜に震える心を必死で押し隠し、その夜も彼の為に料理をし、彼を愛した。
男と寝た経験はなかった。
海外ではしつこいくらいに声をかけられたし、二丁目辺りを歩けば視線を感じるが、その気にはなれずに上手くかわして来た。
女性ともステディな関係になったことはない。誰と寝てもお付き合いの真似事をしても、のめりこめない。
心のどこかで、己の求めているものと違うことを感じ取ってしまう。
そしてそれでも良かったのだ。
納得のいかないことは絶対にしないという性格は、小さい頃から変わらない。
これだという宝石に出会うまでは、どんなきらびやかなものを見ても自分を飾る気にはなれないように、運命を感じる出会いまでは、誰にも、何にも、縛られようとは思わなかった。
料理人の世界に身を投じた時ですら、道を究めたいとの志は持っていたものの、最高級の料理を作ること、ましてや最高の賛辞を得ることが目的ではないと、ヒカルは感じていた。
だから。
その客に出会った途端、まるで世界が反転したかのような感覚に、誰よりもヒカル自身が驚いた。
男に対してここまで欲望を感じるなんて、生まれて初めてだった…
初めて抱いた夜は、無我夢中だった。
相手には余裕があるように見せかけていたが、真実はそうでない。知識はあっても男性とは全く経験がないのだから。
自分から誘ったからという訳ではないが、抱きたかった。彼を。この手で。この全身で。
ヒカルは、彼が自分の手で乱れるさまを出会ったその夜に幾度となく妄想し、次の夜にはベッドの上でそれをひとつひとつ、現実に変えようと躍起になった。
そして彼は、本当に乱れた。
彼が、羞恥に焼かれながらも燃え上がる体を隠せない痴態に、ヒカルはすっかり煽られた。
彼を自室に引き込んだ途端、抱き締めて口付けた。同性の唇だということは既にヒカルの意識にはなく、ただ、乾いた人間が目の前の果実から水分を奪い取るかの如く、性急に味わった。
自分の料理を食べたばかりの唇。
自分の気に入っているワインを飲んだばかりの唇。
名前も素性も明かさない唇。
狂ったように貪れば、最初はヒカルの熱に飲まれていた相手も次第に大胆になった。
そしてそのまま、最後まで体を重ねたのだった。
「もう、こんな時間か…。」
思わず、声に出してしまっていた。
最近では彼のことばかり考える。こうやって、料理を作る以外の作業の時は彼との時間を思い出すのが習慣になってしまった。
最初の出会いからこれまでの全てを正しい順序でなぞり、「こんばんは」と囁くような彼の落ち着いた声や、椅子に座るまでの品のいい物腰を思い出す。
食べる時にわずかに揺れる黒髪や、長く優雅な指がカトラリーを扱う動きを思い出す。
そして食事の最後、ヒカルの差し出した一杯のワインを飲み干したら、二人はカウンター越しに一度だけ、口付けるようになった。
彼はグラスを置くと、静かにヒカルを見詰める。
ヒカルも、彼の黒々とした瞳に向かって問い掛ける。
今夜も美味かった?
今から抱いてもいいの?
するとその人は眩しいものでも見たかのように少しだけ目を細め、それを合図にヒカルがカウンター越しに身を乗り出すのだ。
甘くて、刺激的な、キス…
ヒカルは磨いているグラスに目を落とし、ふと、手を止める。
そう…このリムの辺りに彼の薄めの、形のいい唇が触れるのだと思うと、その絵を早く見たくて仕方なくなる。
会いたくて会いたくて、たまらなくなる…
ヒカルは、店に置いてある時計を見やる。己の予感は外れるのだろうかと、苛立ちを覚え始めた時だった。
ガチャリ…
ドアの開く音がして、ヒカルの胸は高鳴った。
「こんばんは。」
「いらっしゃい。」
いつもと変わらぬ挨拶を交わし、いつもと変わらぬ流れるような動作で彼が席に着く。
それと同時に、ヒカルの料理人としてのスイッチも入る。
彼の顔色を見て、その体調と気分を察してメニューを組み立てる。実際は限られた食材なのだが、ヒカルなりに調味料の分量や料理の固さなどを加減するのだ。
ヒカルは、先ほどまで念入りに磨いていたグラスを差し出した。
この瞬間を想像しながら磨いていたのだと振り返れば、ヒカルは自分が滑稽に思えた。
こんなにも彼でいっぱいになっている自分を、目の前の美しい男はわかっているのだろうか?
…いや、想像もしていないだろう。
自分だってそんな様子はおくびにも出さないし、言うつもりもないのだから。
ヒカルは苦笑したいところを堪えながら、水はガス入りとそうでないのとどちらがいいか、彼に訊ねる。
すると今夜の彼は柔らかく微笑み、炭酸を…と答えた。
「さすがにもう、この時間だったら閉まっていると思ったんだ。だから驚いた。…僕が来る日はわかるのか?」
ヒカルは何と答えようかと一瞬迷い、やっぱり同じような微笑を返した。
「閉まっているだろうと思ったのに、どうして来たんです?」
こういうやり取りは、何度か交わされた。
相手に質問されて答えられない時は、質問で切り返す。すると相手もそういうことか…と納得して、それ以上は求めない。暗黙の了解とでもいうのだろうか。
そもそも、互いの本名も素性も知らないのだ。
こんな時代だ。ネットで検索すれば、ある程度のことを知る可能性はあるだろう。現に、彼はヒカルの店に来た客のブログを読んだという。
しかしそこにも、料理以外の詳しい情報は一切なかった筈だ。
何も知らないから、いいのだ。
目の前にいる相手との、とるべき距離感。
その日、その時だからこそ醸し出される空気。
それがあれば、二人には充分なのだ。
「…っふ…美味しいな、これ…スフレみたいなもの?」
「冷えて来ましたからね。」
「確かに…最初にここを訪ねたのは、蒸し暑い夜だったのに。」
そうだ…あれからもう、数ヶ月が過ぎたのだ。
その間に、確かに口にはせずとも彼に関して察する点はいくつかあった。
学生ではない。暑い日でもほとんどがスーツだし、身なりがいい。
しかし、普通のサラリーマンという感じでも当然ない。教師。エンジニア。…いや、違う。研究職か、或いは専門職。
何にせよ、特異な世界に生きているのではないだろうか…
おそらく彼は、外の世界では非常にストイックな生き方をしている。それは彼から漂って来る、鋭利な雰囲気で感じられる。
だからこそ。
この店に来ると、彼は変わる。別の自分になる。
ヒカルにはわかっていた。彼がもう一人の自分になる秘密の夜――――ヒカルはその夜の、名もない案内役であり、パートナーであるのだ。
今夜もワインを飲み干した彼が、ヒカルを見た。
手早く片付けを終えていたヒカルは、満足げに見返す。
すると、いつもと違うことが起きた。ヒカルの方から伸ばすべきなのに、相手の方が先に手を伸ばしヒカルを捉えた。唇がしっかりと合わせられる。
瞬時に広がった甘いワインの香りに、慣れている筈のヒカルも軽い眩暈を覚えた。
「…えっ…。」
「何?何を驚いているの?」
「いや、その…。」
いつもは余裕を見せているヒカルが、キョトンとしているのがよほど可笑しいのか、或いはしてやったりなのか、その人は至近距離で極上の微笑みを見せた。
「君が悪い…まさかと…店の前で、灯りの消えたドアを見て帰ることになると思っていたのに…ここに入った途端、僕のことを嬉しそう見るからだ…。」
…君はいつだって無表情に僕を迎え、僕の来訪になど関心がないという顔をして見せる。
それが今夜はほんのちょっとだけど…嬉しそうにするものだから、僕を有頂天にさせたんだよ…
はにかんだように目を伏せる。頬が紅潮している。
たまらなくなってヒカルはカウンターに手をつくと、ヒラリ…と乗り越えた。男らしく、俊敏な動きに、相手は立ちつくしたまま目を見張っている。
ヒカルは彼を椅子から立たせ、カウンターに押し付ける格好で強く、荒々しく抱き締めた。
すぐに口付けが始まる。
こうなると、言葉など邪魔だ。何も言う隙間など与えない、激しい口付け。
すっかり片付いている店の秩序と静けさを壊すのは、ピチャピチャと響くいやらしい水音と、忙しい衣擦れの音だけになる。
カウンターの縁に預けられた彼の細い上半身は、口付けと愛撫の間に段々と仰け反っていき、そのしなる背中を支えるようにして、ヒカルの手が大きく、幾度も、行き来した。
薄いシャツを通して彼の熱を上げていくのは、ヒカルにとっても心地良かった。
「ん、もぉ…そういう可愛いことを言うと、ここでするよ?」
「うん…構わない…。」
恥ずかしそうな声が零される。
そして彼の白い手に導かれた股間では、彼の纏った衣服の中が変化を見せていた。上質な布地を押し上げているそこは、固さを持ち始めている。
「何だ…食ってる時から、こんなに昂奮してたの?全然わかんなかった。」
「だって悔しいじゃないか…君の料理を味わいながら、君のセックスを思いだしているなんて、わかられたくな――あっ!ああぁ…。」
泣きそうな声が上がったのは、ヒカルが彼の腰を抱え上げて、その体をカウンターにすっかり乗せてしまったからだ。
そしてその上を引き摺るようにして、彼を壁際まで滑らせる。黒髪が乱れる。整った顔が歪む。口元がしどけなく開く。
「落ちないように気を付けてろよ。これからスゲエ気持ちよくなるから。」
今度は舌じゃなくて、こっちを悦ばせてあげる…と、声に出したかどうか、本人にもわかっていなかった。
けれど彼が細く、長い声を咽喉からほとばしらせてヒカルの髪を強く引いたことは、ヒカルの下半身にきた。
夜はまだ、いくらでも闇を濃くする用意があるのか、しっとりと更けていく。
その中で溺れるのは、外の世界で得た穢れを流す以上の何かが潜んでいるようで、二人はお互いにしがみ付いたまま、濃密な夜を泳ぎ切ろうとしていた。
アキラがその店に現れたのは、彼がドアに施錠している時だった。店の名を照らしている灯りも消え、階上へと続く細い階段は静まり返っている。
そこへ靴音が響いた。
「店仕舞い、か…さすがにそうだろうなぁ…。」
「…っ!」
その店の若きシェフが、驚いた顔でアキラを見上げた。
階段の壁にだらしなくもたれかかっているアキラは、見るからに酔っていた。
「飲んでるんですか…そんなになるなんて珍しいですね。」
「うん…本当はさっきまで、ベッドで休んでた。まだ、フラフラする。…でも―――」
「危ないっ!」
踏み外しかけたアキラを、すかさず手を伸ばして彼が支えた。どちらからともなく身を寄せ、互いを腕の中に捕らえる。階段の途中という不安定な場所で。
するとアキラは両手で彼の頬を包み、軽いキスをした。
どちらも目を閉じない。薄目を開けたまま相手の反応を窺う、戯れみたいなキスだ。
ちゅ…と吸い付くような音の後、囁かれた。温かい息がかかる。
「どうしたの…あなたからなんて…。」
「いけないか?」
「店の中と違って、ここだと誰かに見られるかもしれないよ?」
「見られたら困る人でも待っているのか…君には…。」
アキラは、消え入りそうに細い声を彼の胸に落とした。
しかし。予想通り、答えは返って来ない。
これまでもそうだったが、プライベートに少しでも関わる話には彼は決して乗って来ないのだ。
彼はただ黙って、アキラの髪を撫で付け始めた。コックコートの上にジャケットを羽織っただけの彼からは、今夜の仕事の匂いがする。
「僕にこんなことをさせるのは、君だ。君がここにいるから。…まさかいるとは思っていなかった。」
「いないと思っていたのに、また来たの?」
「いないと思っていたよ…だってそうじゃないか、今夜は―――バレンタインだ。急いで店仕舞いをしているんじゃないかと…もしかしたら店自体、休んでいるかもと…。」
アキラがしどけなく彼の胸にもたれかかると、彼は小さく肩をすくめた。
「俺は料理人ですよ?バレンタインだろうと何だろうと、予約が入れば店は開ける。」
「そうか。」
「あなただって、今夜はたくさんチョコレートを抱えてるかと思った。」
「へぇ…君こそ、僕がここへは来ないとでも思ったの?君でもそんなこと、考えるんだ。」
「さあ…。」
曖昧な微笑みでかわされる。
こういうことにもすっかり慣れたアキラは、構わず続けた。
「最初は来ないつもりだった。バレンタインなんてクソッ食らえ!大嫌いだっ…。」
それだけ言うと、アキラは深く息を吐き出す。
すると彼はアキラの上半身を抱え直し、しっかりと腰を支えた。
「あなたらしくない口のきき方ですね。」
アキラの言動を面白がっているように、彼の薄茶色の瞳が動いた。近くで見ると、色素の薄そうな彼の瞳は外国の血でも混ざっているのかと思う。
前髪の奥に秘められたその好奇心いっぱいの明るい瞳は、寡黙な料理人の時には見ることが出来ないものだ。
アキラは吸い込まれるように、その瞳に見入ってしまう…
「ふうん…上等な香水の匂いがする。これも珍しい。銀座にでも行ったの?」
やがて彼が、アキラのうなじに鼻先を埋めた。
特に不快という口調でもなさそうだ。表面的にはいつもと変わらず淡々としている。
「違うけど。…いや、似たようなものかな。うんざりする、この匂い。君が消してくれるんだろう?」
答えは、キスで返された―――今度こそ、目を開けてなどいられないほどの激しいキスで。
数時間前。アキラは、とあるホテルで催されたパーティ会場にいた。バレンタインなどというあからさまな日には、出来るだけ仕事を入れることにしている。誰に誘われても言い訳がたつように。
今夜のパーティには兄弟子も同席していた。彼には、アキラをからかって面白がったりするといういただけない癖があるのだが、今夜のいたずらは度が過ぎていた。
アキラは体調が今ひとつだったこともあり、飲まされ過ぎて気分が悪くなった。少し休めばいいと兄弟子に連れて行かれた部屋で、そのままほっておかれるのかと思ったら、いつの間にかベッド脇に女性が立っていたのだ。
…彼女のことは知っている。自分に好意を寄せているという噂を、小耳に挟んだことがあった。
「お願い…今夜一晩だけでいいんです。」
ドラマのような台詞とともに、彼女がアキラに抱き付いて来た。予想もしていなかった彼女の大胆な行動に、さしものアキラもしばし固まる。
彼女は、既に緩めてあったアキラのネクタイをもっと崩し、シャツの前を開けた。アキラが肘をついた隙に今度は自分のブラウスの前を開き、フロントホックのブラジャーまで外した。
「―――さんっ?止せっ!」
相手の名を叫んだ。自分の大声に頭がガンガンした。
女性は止めなかった。それどころか、アキラの手を自分の乳房に押し当てたのだ。
…柔らかい。女性の体を全く知らない訳ではないが、あのシェフのところへ通うようになってから彼以外とは寝ていない。
女性の乳房の弾力を生々しく感じながら、皮肉にもアキラは、彼のかたい胸板をはっきりと思い出していた。
我に返ったアキラは、彼女の手を振り払う。
ところが今度は、アキラの胸に乳房を乗せるようにして彼女が倒れ込んで来たのだ。
ベッドのスプリングがはねる。羽枕に頭が沈み、ますます女性がアキラに重みをかけた。
その時、アキラは思った―――軽い、と。女性の体とは全身を預けられても、こんなに軽いものだったろうか?
正直、物足りなかった。僕が欲しいのはこんな軽さでも、こんな柔らかさでもない。僕が本当に欲しいと焦がれるように思うのはそうじゃなくて―――
アキラはむきになって体を擦り付けて来る女性の肩を、そっと押した。優しい仕草にはっとなった彼女が、アキラの目を見る。
そしてアキラは彼女の手を自らの股間へと持って行くと、そこを触らせたのだ。
「塔矢先生っ………ぁ…。」
「ね?君がどんなに頑張っても、僕はその気にならない。例え今、君が僕の目の前で服を全部脱いで裸になっても、僕のここは役に立たないんだ。…ご免なさい。」
アキラを媚びるように見詰めていた女性の目に、はっきりと失望の色が浮かんだ。それを見たアキラは、今からあの店に行こうと決めた。
「…っう―――ああっ…ん、んっ!もっと…近くに………いっ…いいっ…。」
「近く?こう…こうして欲しいの?」
店の近くにある彼の部屋で、背中から抱かれているアキラはいつになく乱れた。
酒が残っていて、快感をコントロール出来ないせいもあっただろう。こういう時は昇り詰めるのは早いが、そこから先は緩慢な悦さが続き、突き抜ける瞬間を捉え難い。
達したいのに、達するほどの刺激を得られない。すぐ目の前にある波に乗り損ねる。もどかしい。
首を捻って、肩越しに背後の彼を見上げた。涙目で訴える。
…もっと。もっともっと、欲しい。もっと、確かな重みを僕にくれ、と。
アキラの渇望を理解したのか、金色の前髪の向こうで彼がふっ…と解けるように笑い、体を更に深く折って来た。うっすらと汗の浮いたアキラの背中に、矢張り汗ばんだ彼の胸が重なる。
体勢的には楽ではないが、アキラも彼が重なり易いように腰の高さを合わせ、シーツの上で突っ張っている彼の手に自らのそれを重ねた。
指と指を交互に絡ませ、しっかりと握り合わせれば、二人の間に強い絆でもあるかのように胸が高鳴る。
ああぁ…今夜のあなたはどうしてそんなに色っぽいの?俺、もたない…どうすればいいんだ…
耳朶に歯が当たるくらいの近さで吹き込まれ、背筋がブルブルと震えた。前を弄られもしないのに、先端から滴り落ちるものがシーツに染みを作っているのもわかっていた。
キスの代わりとばかりに彼がアキラの滑らかな肩に強く吸い付けば、それにも深く感じた。
もう、なりふり構っていられなかった。自ら腰を使って彼を導く。
ほどなく絶頂を迎えた彼はアキラの背中で獣のように呻き、全身を硬直させた。
アキラの中で幾度も跳ね上げる彼の欲望に、アキラ自身の感じる部分も擦られ、やがて内部が熱いもので満たされていく…
弛緩した彼が、大きく息を吐きながらもう一度アキラの背中に降りて来た。ピタリと重なった背中に、ズシリと彼の体重がかかる。遠慮のない重みが、ひどく心地いい…
「これだ―――」
「え?」
「ああっ…これがいい…これが、欲しかった…この重さでなくちゃ、駄目だ…僕は…。」
訝しげに覗き込んで来る彼に向かって、アキラはベッドに突っ伏していた顔をノロノロと横向けた。
シーツを擦る音がする。黒髪が、頬にも額にも落ちかかる。
「僕もイッちゃったみたいだ…汚してご免…。」
彼を身内に咥え込んだまま、アキラが腰を揺すって知らせた。
「うん…凄かったよ、今の…いつものあなたじゃないみたいだ。」
ポーカーフェイスを貫く彼の本当の顔が、夜の闇に見え隠れする。
だから事後は好きだ。
そして事後は怖くもある。
自分も、こんなに欲まみれの姿をさらしているのかと、羞恥に身悶えしたくなるのだ。
しかし、今夜はそれだけではなかった。
事後の甘ったるい疲労感の中で、彼のしっかりした重みと、彼の男性らしい骨ばった肉体が、アキラを安らかな境地へと誘ってくれた。
陶酔に揺られながら、アキラは彼の指を舐めた。ゆっくりと含み、少しだけささくれ立った料理人の指を味わう。
「チョコレートの香りがする…。」
デザートにチョコレートを使ったのだろう。バレンタインの夜なのだから当然と言えば当然だ。
「今夜はこれで十分…チョコの香りがする、君の指で…僕はもう…。」
アキラは音を立ててしゃぶった。髪を振り乱して、しゃぶり続けた。
「…っ―――…どうしよう…今夜はヤバイな、俺…。」
切なげな声が、アキラを振り向かせる。
彼が震える指でアキラの黒髪をかきあげ、整え、そして耳に掛けてくれた。
「壊しそうだよ…あなたのこと…。」
言葉とは裏腹な優しい声と仕草に、アキラの体は一気に熱くなる。
いいよ、好きにすれば…と言い終わらないうちに、彼がアキラの唾液で濡れそぼった指でその胸を掴んだ。
上半身を持ち上げられながら、同時に尖った先をつままれる。
ふと、彼がデザートの仕上げに甘い実を飾る時の、繊細な手付きをアキラは思い出した。
「あ―――っ…ぅ…ん…。」
「このまま、またするよ?いい?」
穿たれたまま、抱き起こされた。自らの重みで最奥へと彼を招き入れる格好になり、アキラは悲鳴に近い声をあげた。
けれど容赦のない彼の足は、アキラの股間を裂いた。彼がますます深く挿り込んで来て、一旦は萎えかけたものが内部で膨らむのを感じる。
そのうち、後ろから回り込んだ彼の手がアキラの胸を這い回り、二つの実を掠めるのが、はっきりとつままれる以上の快感を引き出した。
その手は更にいやらしくうごめき、胸、脇腹、股間へと降りていくと、アキラのものに辿り着いた。
背中を前後左右、踊るようにしならせ、アキラも与えられる快感に酔ったのだった。
二度目とは思えない早さで昇り詰めた後、アキラはけだるさを抱えたまま、彼に告げた。
「やっぱり…。」
「え?」
「今度は…前から、して…君の重みが欲しいんだ。」
「いいよ…何度でも出来そうだ…いいの?」
「うん…僕も、だ…まだ、したい…。」
今度は向かい合わせで抱き合った二人は、どんな果実よりもスイーツよりも甘いキスを始めた。
グラスを磨く時間が、ヒカルは好きだ。
鍋をピカピカに磨き込むのも厨房を隅から隅まで掃除するのも全て、料理を美味しく食べてもらうためだと思えば苦にならない。
ただその中でも、グラスを磨く時はより無心になれるというのだろうか。ヒカルはとりわけ好きなのだった。
…今夜は来るだろうか。
あの人には二週間以上も会っていない。そろそろ限界だ…
去年の夏の衝撃的な出会いからずっと、ヒカルと彼とは互いの名前も知らずに逢瀬を重ねて来た。
最初にヒカルが彼を抱いてから、肉体的には彼がヒカルを受け入れている。そしてその交わり方がすっかり定着し、互いの体も馴染んで行ったのだった。
だが、ここに動かしがたい事実がある。
彼が店に来ない限り、ヒカルから彼に会いに行くことは出来ない。
抱く時はいくらでも自分から手を伸ばせるし、どんな恥ずかしいことだって仕掛けられるのに。
それに関してだけは、ヒカルの方が受身なのだ。―――待つしかないのだ。
彼がヒカルの店を訪ねる間隔は、まちまちだ。かなり開く時もあれば、一日おいて現れたこともある。
仕事の関係だろうと思うが、それ以上は詮索しない。例え、心の中であっても。
それが二人にとって今や何よりも大切な、そして唯一のルールなのだから。
グラスを全て磨き終わり、ヒカルは満足だった。思わず、笑みが零れる。
ヒカルは、整然と並んだグラスの中のひとつを手に取った。
今夜彼が来たら、どんな料理を出そう。それに合わせて、どんなワインを薦めよう。
ワインの紅い雫が、細長い糸となってグラスに落ちていく瞬間を思い描くだけで、ヒカルの体には静かな火が熾るようだった。
…そう言えば。
手にかざしたグラスの輝きを目にしているうちに、ヒカルはふと、あることを思い出した―――それはこの前、彼と自分とが食後の甘いキスを交わしていた時のことだ。
「…っは…ぁ…んん…っ…。」
「ほら、舌、縮こまってる…もっと、俺に預けて…こっちへよこせって…。」
酒で痺れて上手に動かせないのだろうか。ぎこちない彼の舌を思いっきり吸い上げ、容赦なく引きずり出す。
ヒカルは彼の舌を、自分の口内で柔らかく、強く、或いは長く、短く、変化をつけながら吸った。
更に舌の付け根の窪みをくすぐってやれば、彼が長い睫を震わせて感じているのが、薄目を開けていたヒカルには見えた。
息のあがるような執拗なキスは、いつも凛と背筋を伸ばしている彼から理性を奪う。
彼の細い腰が小刻みに揺れ始めたのを合図に、ヒカルは彼の上半身を支えながら限界まで反り返らせると、そのままカウンターに押し付けた。
たった今まで彼が食事をしていたそこは、食器もひかれてはいない。その生々しい場所に、彼の両手をはりつけにした。
―――今度はヒカルが彼を貪り尽くす番だ。
しなる彼の体はカウンターに半分乗り上げた状態で、ヒカルの激しい愛撫にも面白いくらい反応した。
はだけたスーツの前。コロンの薫る白いシャツ。上質の布越しに乳首を舐め上げると、ああぁ…と切ない声がヒカルの耳を打つ。
わざとネクタイすら緩めてやらずに、ズボンからシャツを引っ張り出した。上半身はキッチリと着込ませたまま、下半身だけを淫らに晒すためだ。
キスだけで彼の前は充血し、かたくなっている筈。
日に日に感度の上がって来る彼の体を、ヒカルはよく知っている。
その時だった。
ヒカルの手が下半身に伸びたのを機に、自由を得た彼の腕がカウンターの上を泳いだ。それがグラスにあたり、大きな音を立てて割れたのだ。
二人とも慌てて身を起こす。一斉に首を捻って、音のした方を見た。
すると彼はとっさに右手を庇うように引き、胸の前で抱いた。
その目は恐ろしいものでも見たように大きく見開かれ、粉々に割れた破片を凝視している。
カウンターからずり落ちそうになった彼を支え、ヒカルはその体を抱き起こした。
「怪我はない?」
「あ、ああ…大丈夫。」
彼が右手を気にしているのは、今の動作でわかった。
さり気なく擦って見せた後、彼はその手をそっと隠すようにした。
「利き手を怪我すると、マズイの?」
「えっ…あ、いや…不便なだけだよ…君の料理も食べ難くなるしね。」
「そう…じゃあ、続きは部屋でしよう?」
頷いた彼は、もうすっかり潤んだ瞳でヒカルを求めていた。
―――利き手を大切にしたい、そんな商売なんだな。
誰だって手は大事だ。どんな職業だって手は使うだろう。
しかし、ほんの一瞬だが彼が見せた怯えのような色は、ヒカルにはとても尋常ではない気がしたのだ。
多分、彼にとって右手の…というよりも、右手の指先の感覚は大切なものなのだ。ヒカルの直感がそう確信させた。
例えば怪我でもして左手で代用することになれば、そのごくごく僅かな感覚の違いさえも精神力に影響するのだろう。
そのくらい、彼は特殊な世界にいる人。
神がかり的な感覚すら、時には降りて来るのかもしれない。
そしてあなたには、そんな世界が何て似合うのだろう…
ヒカルもまた、僅かな体調の変化すらも味に影響すると身をもって知っている料理人だからこそわかる。
いつも同じコンディション、同じ体の使い方をするからこそ、味にブレがないのだ。
それだけにヒカルは神経質なくらいに体調に気を遣う。それはプロとして厨房に立つ以上、最低条件であり、同時にプライドでもある。
…右手を、指を、怪我させなくて良かった。
きっとあの人は今日もあの優雅な手指で、己の世界を渡っているんだ…
想像してはいけないと思いつつ、それでもヒカルは彼がどんな職業のどんな人間なのだろうと、空のグラスを軽く揺らしながら考えていた。
それは次第に、今夜彼が来ますようにと祈る気持ちへとすり変わってゆくのだった…
きっと。
今夜こそ。
会える。
あなたに。
…会いたい。
あの指に口付けたい…
―――そんなヒカルが彼の真実を一方的に知ることになる日は、刻々と近付いていた。
ヒカルが店以外で初めて彼の姿を見たのは、意外な形であった。
それは、春爛漫のある日のこと―――
ヒカルの店は、特に店休日を決めていない。予約の状況によって、或いは自分の都合によって、適宜休むことにしていた。
完全予約の店だからそういうことも可能なのだ。
その日は珍しくキャンセルが入り、朝からゆっくりすることにした。
昼と夜は他の店を食べ歩き、その合間にはカフェに寄るのもいい。新しいメニューも考えたいし、美術館も覗きたい。
一日の計画を立てながらシャワーを浴びるのも、休みの日の習慣だ。
熱めの湯を浴びれば、頭がクリアになってゆく。
彼がここに来るようになってからヒカルは念入りに風呂掃除をするようになり、常備するバスグッズにも凝るようになった。
この前、彼がここを使ったのはわずか二日前。
まだ、彼の気配が残っているような気さえする。
そう言えば、日に日に大胆になる彼が時折見せる自虐的な顔。
それがヒカルには気になると言えば気になる。
…もっと…もっと酷くしてくれ…
壊しても―――汚しても―――いいから…
最初は抵抗感があったらしい行為の数々も、今では激しく求めたりする。男が男に強いるには、肉体的にも気持ち的にも切ない行為すら。
そんなことばっかりしてたら、あなたが壊れてしまうよ?と、意地悪く言ったことも一度や二度じゃない。
けれど彼は何も言わず、一層濃い交わりに没頭しようとする。
どこか無理があるような、むしろ痛みを誘っているような愛し方は、彼がそうすることでバランスを保とうとしているようにも感じられた。
思えば自分たちの間にはタブーが多い。
…いや、たったひとつのタブーが、余りにも重たいと言えるだろう。
会っている時間だけが、二人にとって全て。
それ以外の時間を相手がどういう人間としてどういう過ごし方をしているか、決して尋ねても語ってもならない。
淋しさを感じる時、ヒカルは聞けない分、丁寧に彼を愛した。彼の求めに応じ、そしてそれ以上に愛した。
ヒカルの愛撫に、彼は静かに涙を零すことがあった。
悲しいのではない。嬉しいのでもないだろう。
ただ、気持ちよさが真っ直ぐに彼の涙腺に届くのだ。
その混じりけのない透明な涙すらも、ヒカルは大切に舐め取るのだった…
風呂から上がったヒカルは、エスプレッソを飲みながらまだ彼のことを考えていたが、手は無意識にテレビのリモコンに伸び、チャンネルを探る。
そしてふと、ヒカルは動きを止めた。
―――手。
チャンネルを変えているうちに、ある手が目に入ったのだ。
手だけ?手のアップだけが映されている画面なんて…何だ、これは?
『塔矢名人、七の13』
画面から聞こえて来たのは、パチ…という何かを打ちつけるような音と、続いて女性の落ち着いた声。
ヒカルは固まった。
息をするのも忘れて、画面に食い入る。
そして、次にヒカルが目にしたのは―――
「…っ…!」
黒髪に縁取られた、ほっそりとした顔。強い光を放つ、切れ長の目。
あの人だ!
ヒカルは、テレビの前から動けなくなった。
彼の姿が映し出されるのは放映中、時折でしかない。
しかしその時折を求めて、ヒカルは微動だに出来なくなってしまったのだ。
…そうだったのか。これがあなたの世界―――
囲碁の対局だった。
彼の手が画面に映し出されると、白石が置かれる。それと交互に、反対から伸びた相手の手が黒石を置く。
ヒカルには見覚えがあった。急に記憶が蘇る。
ヒカルには碁を打つ祖父がいた。ヒカルが小学校高学年になる頃に父の転勤で東京を離れるまではよく、数駅先の祖父母の家に遊びに行ったものだ。
あの頃。
祖父はヒカルに碁を教えたがったが、ヒカルはそれどころではなかった。
テストの成績が気になり、そしてそれによって決まるお小遣いの額が気になり、碁は年寄りの道楽としてしかヒカルの目には映っていなかった。それが日常だった。
―――もしも。
もしもあの頃、自分が祖父に碁を習っていれば。
もしもその後も碁を打ち続けていれば。
もっと早く、あなたと会えたんだろうか―――
けれど、そんなことを考えたのは後になってからだ。
今、ヒカルは固唾を飲んで画面に見入っていた。
「この目………。」
ヒカルは思わず、声に出していた。
彼はヒカルの前では、こんな目を見せたことがない。
彼はヒカルの料理を丁寧に味わい、ヒカルと激しく抱き合い、そしてまた穏やかさを取り戻すと、ヒカルの元を去って行く。
「彼の世界」へと帰って行く。
盤面を見下ろす彼の目を見ているうちに、ヒカルは思った。
綺麗だ。この目。
俺に見せてくれたどんな目よりも澄んで、美しい…
普段、美しいなんて言葉を使うことは滅多にない。
元々、人を褒めそやすボキャブラリーがある訳でもないヒカルにとって、こんな言葉が口をついて出てしまうのは、いかに感動しているかの証でもある。
そして少しばかりの悔しさも滲む。
どうして今までこの目を知らなかったのか…
しかしどうしようもなかった。
小さな偶然の積み重ねを運命と呼ぶなら、ヒカルが碁を知る機会がありながらそれを逃してしまったことも、今、この年になって彼が星の数ほどある飲食店の中で、ヒカルの店を訪れたことも―――そして、互いに同じ強さで惹かれ合ったことも。
全てが運命のなせる技なら、今、ここでヒカルがテレビを通して彼を知ったこともまた、運命。
抗い難い、運命なのだろう。
彼の手が再び盤上に伸ばされる。
石を置く指先から、特別な光が放たれているようだ。
この人は、強い…
局面がわかる訳ではないが、ヒカルには彼が勝つだろうと信じられた。
彼の目は、静かに燃えていた。彼の手は、揺ぎなく一点に向かっていた。
『塔矢名人、236手目で中押し勝ち。』
テレビから聞こえて来た感情のない声。
続いて二人の対局者の顔が映し出され、深々と礼をする。
彼の絹糸のような黒髪が揺れる。
そして彼は頭を上げた途端、緊張の解けた顔で…笑った。
ヒカルの目の前が、雲間から差し込む日差しで照らされたみたいに、明るく開けた。
その瞬間。
塔矢アキラという名前よりも何よりも、対局中の彼の鋭い瞳と、勝ちをおさめた後の微笑みのコントラストが、ヒカルの胸には鮮やかに刻まれたのだった。
気が付けば、手に握りしめていたカップの中のエスプレッソはすっかり冷めていた。
「起きてたの。」
「あ、うん…。」
外はまだ薄暗い。空が明け染めるほんの少し前の時間だ。
ベッドの上、アキラは薄い毛布を腰から下に掛けただけ、そしてその膝を抱えるようにして背中を丸めていた。
目を覚ました隣の彼が、そっと上半身を起こす気配がした。
背中から抱かれる。腕に少しずつ力が込められるのが鬱陶しいどころか、アキラには心地良かった。
二人とも何も着ていない。素肌が触れ合うのは好きだと、アキラは思う。
…いや、正確にはそうじゃない。
彼だから。
相手が彼だから、裸を見せ合うことも肌を合わせることも、全てがアキラには好ましいばかりなのだ。
少し前に、念願のタイトルを獲った。
幼い頃から期待されながら、アキラには何かが足りないと散々言われ続けて来た。
ハングリー精神と言ってしまえばそれまでだが、そんな簡単な言葉で片付けられる境遇も、それを跳ね除けられない力不足も、そして更にそれら全てのせいで荒れ狂うことすら出来ない行儀のいい生き方も、アキラの中のもう一人の自分は、倦むような気持ちで傍観していた。
実力は小さな頃から折り紙付だ。
それでも大きなタイトルを、あと一歩のところで逃していた。
一生「無冠のプリンス」などと揶揄されてたまるものか―――
そう誓ってはいても、時折、運命の深い深い谷を覗き込むような恐れに襲われることがある。
そしてそんな時期に、アキラは彼と出会ったのだった。
彼との逢瀬がアキラを変えた。
彼と抱き合うことが、アキラの中に存在する薄い膜のような、アキラ自身にも捉えどころのなかった壁を壊した。
…人生なんて一寸先はわからないものだな。
まさかこんな出会いが待っているなんて、想像もしていなかった…
背中に感じる彼の息遣い。
くすぐったいけれど、生きている人間と触れ合っているのだという実感が湧く。
まさか男とこんな関係になるなんて思ってもみなかったし、無論周囲の誰にも打ち明けられない。
けれど彼と出会ってこんな関係になったことはどこにも無理がなく、アキラにとっては信じられないほど自然な成り行きでしかなかった。
彼の店のドアを押すことに、今はもう、何の躊躇いもない。
「…あれを見てるの?」
彼があれと言ったのは、壁に掛けられた一枚の写真。
彼の部屋は殺風景そのものだ。
料理に始まって美術関係の本や人物や風景、中には動物の写真集なども本棚には並んでいたが、他は服とパソコンくらいだ。
壁に掛けてあるのも、その写真一枚きり。
彼の部屋に泊まれば必ず目にしたけれど、そしてその度に心惹かれたけれど、話題にするのは初めてだった。
夜明け直前という、中途半端な時間に目が覚めたせいかもしれない。
「こんなに碧い海があるなんて…。」
その嘆息に応えるように、彼が後ろからアキラの耳に口付ける。
「ナポリの海だよ…夢みたいに碧い…。」
「うん…本当に、夢みたいだ…。」
彼の声が耳朶をくすぐり、前に回された手がゆるゆるとアキラの肌を撫でる。
「いろんなところを旅したけど、全部、俺の目に焼き付けた。記憶だけで十分だって思ったからさ。…だけどこの海だけは違う。」
断崖絶壁から覗き込む、この世のものとは思えない碧い碧い海原。
写り込んでいるのはその海と空と、端っこに少しの大地。余分なものも、足りないものもない、完璧な一枚。
どうやってこの写真を撮ったのだろうと思うが、アキラは尋ねなかった。別の質問をする。
「これを見ていたら、また行きたくならないのか?」
沈黙が降りる。
暫く待ったが、彼は応えない。ただ静かにアキラを抱き締めるだけ…
それがじれったくて、アキラは首だけを捻って後ろの彼に向いた。そして片腕を斜め後ろに伸ばして彼の頭を抱えると、口付ける。
彼が抵抗する筈もなく、柔らかく、温かい舌が絡まり合うと、首の後ろがゾクリと震えた。
その瞬間―――アキラの脳裏に広がったのは大海原。
「…っ!」
「ど、したの?」
キスの間、アキラは目を閉じるが、彼は時折薄目を開けているらしい。
ところがキスの真っ最中だというのに弾かれるようにパッと目を開けたアキラに驚いたのか、彼は唇を離して小首を傾げた。
「今、頭の中に碧い海が…。」
それこそ夢見心地に言うアキラを、彼はじっと見詰めた。
「写真を見てすぐに目を閉じたんだろ…残像かな?」
「違う。写真じゃない。はっきりと、自分がそこに立って海面を見下ろしていた―――」
海面に反射する光に、目が眩む。潮風が頬を撫で、髪を翻す。
体がフワリと浮き上がるような感覚に襲われ、波しぶきの音が足元から誘う。引っ張り込まれる。
アキラは海鳴りのする方へと落下しそうになる………
その感覚を思い出しただけで、アキラは思わず彼の手にしがみついた。
彼はそんなアキラの前髪を優しくかきあげると、細かく震えるまぶたに、唇の端に、なだめるような口付けを落としていく。
「俺のキスのせいかな?本当のことを言うと、俺も今、ナポリにいたよ…だからあなたにも口移しで見せてあげられたのかも…。」
言っていることはキザなのかもしれないが、アキラにとってそれは妙な説得力を持っていた。
そうだ…口付けのせいで、彼の想い出のシーンが僕に流れ込んで来たんだ…
嘘のようなことを考えながら、彼の温かい唇を素肌で受け止める。
―――そう言えば。
彼が自分の過去を語ることは全くと言っていいほどない。
だから彼が例えわずかでも、真実に迫る一端を見せてくれたことがアキラには嬉しかった。
「そうか…うん、あの海に君は似合う。だけど僕は…。」
「似合わないって?どうして?」
「そうだな。僕は真っ黒な髪だから…南の太陽にも碧い海にも嫌われそうだ。」
「っふ…そうかな?俺はそうは思わない。…多分、あなたはきっと、どこにいてもあなただ。あなたのままで、どんな世界にもちゃんと溶け込めるよ…。」
アキラは驚いた。
彼が決してその場の世辞で言っているのではないことはわかる。具体的な話でもなく、観念的な意味で言っていることもまた、わかる。
自分に与えられた場所は世界中でひとつしかないのだし、そこから出て行くつもりもなかったが、改めてそんなことを言われると、それまでは存在すらしなかった扉が目の前に忽然と現れた気がした。
「じゃあ僕も、君と並んでこの海を見ることが不自然じゃないだろうか?」
彼は微笑んだ。頷く代わりに、彼は笑うことがある。
「その逆はどう?」
「…え?」
「俺がもし、もっと早くあなたに出会っていたら…例えば同じ職業だったりしたら…どうだろう?似合いそう?」
不意を突かれ、アキラは答に窮した。
今度の問い掛けは、先ほどの会話よりももっと予想外だった。
内容もさることながら、彼が互いの素性に触れるような質問をすること自体、アキラには戸惑いだった。
「どうしてそんなこと…。」
「んー、そうだな。あなたと俺は多分、年も近い。住んでいるところや学年が一緒だったりしたら、もっとガキの頃に会ったかもしれないし…ほら、漫画なんかであるだろ?パラレルワールド…っていうの?どこか別の、この世界と並行して存在する世界では、あなたと俺は今の俺たちとは全然違う関係かもしれない…。」
彼の言葉が、ゆっくりとアキラに染み渡っていく。
それはとても不思議な感覚だった。初めての感覚でもあった。
どこか遠い世界から生み落とされた予言のようにも聞こえる―――
アキラは必死で頭を回転させた。
そして、もしかしたら彼は自分のことを知っているのかもしれないと思った。
アキラは好むと好まざるとに関わらず、雑誌やテレビなどのメディアに露出することがあるから、この数ヶ月の間に知る機会はいくらでもあっただろう。
だけど…と、アキラの中で生まれそうになった暗い気持ちは、すぐに掻き消される。黒雲など寄せ付けもしないだろう、あの碧い空のように自分の心はクリアだ。
アキラは彼が知っていようとそうでなかろうと、今の自分たちの関係に何の影響もないと確信した。
アキラは彼の不思議な言葉を胸のうちで反芻しながら、正面から彼に向き直った。ベッドの軋む音が薄暗闇に響く。
黙ったまま彼の両頬に手を滑らせ静かに見詰めれば、彼もそれ以上は何も言わずに全身で応える。
すぐに、言葉を超えた濃密な時間が始まった…
…もう一度、あの海を見せて…
アキラの目がねだると、彼の声が直接脳に響いた。
…口移しで?
…それだけじゃ足りない…もっともっと、深いところで繋がりたい…
…望むところだ…
二人、同じ海を見ながら溺れていく口付けは、果てのない恍惚だった―――