−お年玉−









明け方から降り始めたみぞれは、すぐ、雪に変わった。

静かに。とても静かに。

今年の残り時間が刻々と減っていく中、街は次第に白く染められてゆく…

今日までの慌しさが嘘のように、今、僕らの周辺も凪いでいた。



「雪の大晦日なんて、珍しいよな。この東京で。」
「そうだね。記憶にはないな。」

傍らにいる人を、僕はそっと見詰める…



長い間、この顔を見ては愛しさに心を震わせた。

すぐにも手が届くところにいるのに、そうしてはならない。

拷問にも等しい状況に、何度胸を掻き毟ったことだろう。心を軋ませて泣いたことだろう。

永遠にも続くかと思われた日々は、果たして今日、終わりを迎えるのだろうか――――



「お前んちも、五年ぶりだ。改めて見るとちゃんとおっきな門松が飾ってあって、立派な門構えだよな…。」

僕の家の玄関に着いた時、進藤は噛み締めるように言った。

「変わってないだろう。いつまでもこの家はこのままだ。」
「人も?人も、五年の間に変わらなかったのかな。」
「人?住んでる人間という意味か…さあ、どうだろう。」
「それがわかるのかな…これから…。」
「うん…少なくとも、僕も両親も五年分は歳をとった。」
「お前は見た目、変わんないよ。」
「そうかな…。」

そこまで話した後、進藤は懐かしそうに玄関を見回し、それから腰を屈めた。
脱いだ靴をキチッと揃える彼の手は筋張っており、完全に大人のものだった。

「何だか僕の方が慣れない…いや、懐かしい。この家にいる君を見るのが。」
「俺も。やっぱりここはお前の生まれ育った…塔矢先生も育てた家だって感じがする。」

そう言うと、進藤は深呼吸をした。

匂いも、変わらない。お前を抱き締めると、いつもこの家の匂いがするって思ってた、と。

彼が嬉しそうに笑って僕を見たことが、僕も嬉しかった。とても。






「いらっしゃい。進藤さん。」
「ご無沙汰しています。」

座敷には母が待っていた。進藤は正座をし、深々と頭を下げる。

対局では散々見慣れているというのに、彼が今、僕の家の座敷で、しかも僕の母に向かってそうしているのだと思うと、半ば夢を見ているような心地で落ち着かなかった。

これは現実、なんだな。
進藤は、本当に五年ぶりにこの家に足を踏み入れたのだ。

僕が密かな感慨に浸っている間に進藤はゆっくりと頭を上げ、それから真っ直ぐに僕の母を見た。



あ。

ああ…

この光景。見たことがある。

そうだ。五年前。

僕の目の前で起こった出来事が、全ての始まりだった。



「どうしたの。アキラさんもお座りなさい。」

母に促され、進藤の横に腰を下ろす。クラリ…と、目の前が傾いだ気がした。血が下がる。眩暈がする。

「大丈夫か?顔色、悪くない?」
「いや、大丈夫だ。ちょっと…慣れなくて…。」

君が今、とても自然な様子で僕の横にいることに――――



皆まで言わずとも、彼には伝わっただろう。首を傾けて、おどけた表情を見せた。
…どうやら、彼の方が僕よりもうんと余裕がありそうだ。

母も僕に向かって、そんなに緊張しなくても…と揶揄した。

「今日は大晦日で一日早いけれど…明日の一便で中国へ行くものですから、今夜は成田泊まりなの。だから…。」

そこで母は、僕らの前に二つの小さな袋を差し出した。

僕にとっては小さい頃から見慣れた、母の手書きの文字が見える。毛筆でしっかりと書かれた「お年玉」の文字が。

「これはお年玉です。アキラさんはわかっているけれど、塔矢の家の伝統では、結婚して新しい世帯を持つまでは子どもにお年玉を上げます。例えいくつになっても。去年…正確には年が改まっていないから、今年のお正月も渡したわよね。」
「はい…。」
「これは来る年のお正月の分です。一つはアキラさんに。もう一つは進藤さん――――あなたに。」
「…え?俺…。」

母の言っていることの真意が、すぐには飲み込めなかった。
いや、見極めこと自体が怖く…出来なかったのだ。

もしも僕の思っていることと違ったらどうしよう…ぬか喜びに終わったら、立ち直れない…と。
防衛本能の方が勝った。



母は愉快そうに顔をほころばせ、それからいざって僕らとの間合いを詰めた。

「これがアキラさんにあげる最後のお年玉です。そして、進藤さんに差し上げる最初で最後のお年玉ということになるわね…多分…。」
「お母さん?」
「まあ、ポカンとした顔をして…ふふ、アキラさんのそんな顔、久しぶりに見た気がするわ。案外、気持ちのいいものねぇ。」

それから母は、もう一度お年玉の袋を僕らに押し付けるように、きっちりと揃えた指先で前へと差し出す。

「受け取ってくださる?これがお父さんと私の気持ち。二人とも、どうかお幸せに…。」

母の晴れやかな顔は、この人も僕らと変わらぬくらい地獄にも似た五年を過ごしたのだろうということを、強く、僕に意識させた。



僕は、思わず頭を下げる。
両手をついて、深々と。頭を畳に擦り付けるほどに。

感謝の気持ち。その深さが僕にそうさせたのだった。



横で。進藤が息を飲む音が聞こえ、僕は頭を上げた。



そして目にしたものは――――



目を潤ませた母の顔と、そして、正座をした膝の上に両手を突っ張り、俯いて激しく嗚咽する、最愛の人の姿だった。












ことの始まりは、遥か昔に遡る。

いつしか愛し合い始めていた進藤と僕の仲は、当然周りには秘密だった。

しかし、この愛が真剣であればあるほど隠し続けることは苦痛でしかなく、ある日とうとう僕は母に告白した。
進藤ヒカルを愛している。彼と人生を歩いて行きたいと。

それを聞いた母は俄かには信じられないようだったが、さすがにその日はもうこれ以上聞きたくないといった苦い顔で僕の前から立ち去った。

覚悟はしていた。簡単に認められる筈もないことは。



数日間は年末年始の忙しさに紛れ、ほとんど母と口をきかない日々が過ぎたが、とうとう進藤と僕は揃って母に呼び出された。

それは忙しい三が日が過ぎ、我が家が落ち着いた頃だった。



「五年…。」
「そうです。五年は我慢していただきたいわ。」

母の言い出した言葉に、僕は耳を疑った。
隣で正座している進藤も、言葉を失くしている。

母が進藤と僕に告げたのは、こういうことだった。



これから五年の間、僕らの交際を止めること――――



つまり。
仕事以外の接触、つまりプライベートで二人だけになることを禁じる。
その間にお互いの気持ちが変わらなければ、五年後に二人の関係を認める。
一度認めたら、もう何も口出しはしない。



「そんな…。」
「そうね。有り得ないくらい過酷な条件でしょう。アキラさんがそんな顔をするのも無理はないと思うわ。…でもね、私もお父さんと出会ってから結婚するまで、七年も待ったの。まだ十代の半ばだったから学校を卒業するまでは…って。それこそ手も握ってもらえなかったのよ?」
「だけどっ!お母さん達と僕らとは…同じじゃない…。」
「そのくらいの覚悟がなければあなた達の仲なんてすぐに駄目になるでしょう。勿論、交際を止めていただく五年の間はそれなりに様子を見せていただくし、碁に関しても精進を怠っているようなら認められません。」
「お母さんっ!」

思わず中腰になって母の名を叫んだが、僕とて何を言ったらいいのかわかってはいなかった。

「…進藤さんは、どう思うの?」

母は僕を無視し、正座で背筋を伸ばしたまま膝をずらして進藤の方へと向き直った。
その真っ直ぐな視線、言葉を受けた進藤は、矢張り真っ直ぐに母を見返した。

「わかりました。」
「…進藤?」
「そう。もしも約束を破っていることがわかったら、そこでこの話はお仕舞いです。永遠に認めるつもりはありませんから。」
「ちょ…ちょっと待って!お母さん………進藤!?」

今度は母ではなく、進藤へと詰め寄った。

彼は、怖いくらい真剣な目をしていた。それは対局の時に見せる、勝負師の目と同じだった。
眉間に小さなシワを寄せ、相手を睨み付ける。
唇はかたく引き結ばれていたが、僅かに震えているように見えた。

その彼に手を伸ばそうとして、僕は思い止まる。進藤が何かを言おうと、深く息を吸ったからだ。

「でもこれだけは言わせてください。俺は塔矢を…あなたの息子を愛しています。一生、コイツだけだと思っています。」

だから五年なんて、きっと長くない――――



「進藤…。」

彼がここまで言ってくれるとは。
僕は切迫した状況にも関わらず、彼の態度に感動していた。

だがしかし。
母の条件を飲むのか飲まないのかは、それとは別問題だ。



「余計な話をするつもりは一切ありません。」

それだけ言うと母は立ち上がり、踵を返した。衣擦れの音をさせながら去って行く。

背後の僕らには一欠けらも関心がないかのような、実にキッパリとした後ろ姿だった。






「進藤…どうして…どうしてあんな馬鹿な条件を…。」
「わかって。塔矢。俺はお前とのこと、一生ものだと思ってるから。」

当然、僕らは言い合いになった。
いや、そんな生易しいものではない。自分たちの将来がかっているのだ。お互い、一歩も譲りたくなかった。

こんな馬鹿げた条件を飲むよりも、例え親子の縁を切られてもいいから僕は家を出て君との付き合いを続けると主張した。



しかし――――進藤も頑迷だった。



こんな形で家を出るな、親と喧嘩するな、いつか絶対にわかってもらえるから。

じゃあ君は本当に僕と別れて五年も我慢出来るのか、その間、心変わりしたりしないと誓えるのか。

お前、俺の気持ちが信じられないのかよ?それとも、自分の気持ちに自信が持てねえのか!

売り言葉に買い言葉。
まるで、母はこれを意図したのだろうかと思うほど最悪のやり取りを繰り返し、間には棋戦での直接対決まで挟まり、僕らの仲はドロ沼化しそうになった。

それでも。
相手を嫌いになれる筈もなく、最後は、母の申し出を受けることを二人で納得して決めたのだった。



それからの日々は、とても言葉なんかで言い表せない。

最初の頃が一番しんどかった。
何度も進藤にこっそり会いに行こうか、或いは彼がそうしてくれないだろうかと、わざとチャンスを作ったりもした。

彼の周辺に女性の影を感じるたび、或いは僕にお見合いの話などが持ち込まれるたび、心安らかではいられなかった。

幾夜も、眠れぬ夜を泣き明かした。



…ただ、信じていただけだった。

相手の気持ちだけでなく、何よりも自分を。

だって、進藤以外の人間に惹かれることは有り得ない。それだけは、もし進藤が僕の元から去ったとしても有り得ない。

僕の魂が求める、ただ一人の人だと知っているから。



そうするうちに、僕らは碁で大変な時期に突入した。
そして碁に専念することで、ある程度は愛し合えない辛さを紛らわせることが出来ると実感し、すがる想いで――――五年もの日々を駆け抜けた。












今、僕の隣に座る進藤は正座こそ崩さないが、丸めた背中は大きく波打っていた。
その姿を見ただけで、僕の目からも視界がぼやけるほど大量の涙が溢れる。拭っても拭っても、溢れる。止まらない…

大の大人が人前でこんなに泣くのを僕は初めて見たし、初めて自分で経験した。



「正直なところ、まさか本当に五年も待てるなんて…思ってはいませんでした。若いあなた方のことだもの。いつかどこかでほころびるだろうって…。でも――」

母の声色はいつもと違っていたが、毅然とした態度は変わらない。

「あなた方はこの五年、棋士として素晴らしかった。それは誰もが納得するところでしょう。実はね…少し前から認めてあげようかとお父さんと話してはいたんだけど、棋士として大切な時期だからもう少し様子をみようって…その方がきっと後から考えても、二人にとって良いだろうって。」

本当はもっと早くから認めてあげたかったけれど…多分、今で正しかったのでしょう。

…よく。
よく、耐えたわね。

あなた達の棋士としての成長を優先させたが故に、人としては辛い想いを長引かせて…ご免なさいね――――



母の言葉に力を得て、ようやく僕は進藤の背中を擦ってやろうと手を伸ばしかけ…果たしてそうしてもいいものかと、もう一度母を伺った。

涙でぐちゃぐちゃの息子の顔を見て、母は一体何を思っただろう。

しかし、母はやっぱり自分も泣き笑いのような顔で、いいのよ、その手を伸ばしても…と許してくれた。



宙に浮いていた僕の手が、緩やかに進藤の背中へと降りる。

ビクッ…と感電したみたいに跳ねた彼は、ああ、ヤバ…と、初めて声を上げた。

どうしたのかと訝しく思っていると、彼は目の前のお年玉の袋に自分の涙が落ちかかっているのを見て慌てたのだとわかった。

「どうしよっ…折角の、お年玉…汚しちゃって…すみませんっ!俺、もう、いっぱいいっぱいで…あ、ああっ…これ…。」
「ほほほ…馬鹿ねえ、進藤さん。その袋は汚れてなんかいないわ。」

だってあなたの涙、とっても綺麗ですもの………



母の言葉には、限りない優しさと受容が滲んでいて。

僕はまたそこで、涙が一気に零れるのを感じた。



「塔矢………っ………俺、涙の止め方………忘れたぁ………っく………ぅ………。」

僕が思っていたのと同じことを呟く進藤の声は、鼻声で、幼かった。

我慢が出来なくなり、母の前だというのに彼の首に縋り付く。なりふり構わない。
僕らは一つに丸まって共に震えながら、その場で、声を限りに泣いて泣いて泣いて…

泣き続けた――――



いつの間にか。
母は席を立ち、僕らを二人だけにしてくれたようだった。









一日早くもらったお年玉を、進藤は大切に仕舞った。

彼の涙だけでなく、僕の涙も吸ったに違いないその袋は、墨が滲んでお年玉という文字も判別出来ないくらいだった。
中身のお札の惨状だって、恐ろしくて確かめることも出来ない。

絶対にこの袋ごととっておく、一生捨てられるもんかと言う進藤を、僕は更に愛しいと思うばかりだった。



その小さな二つの袋は、僕らにとって永遠に続く幸せの象徴になったのだ――――





















「ありがとうって…何度言っても足りない時ってあるんだな…。」
「僕の両親に?進藤…君って案外ヒトがいいな…滅茶苦茶な条件を出して来たのはアッチだぞ?」
「でも、いいんだ………だって親なら当然だろ…。」

こんな言葉をさり気なく言えてしまう彼を、僕は少しのくすぐったさとともに誇らしく思う。

―――離れている五年の間に、彼は本当に大人になったのだ。実感する。

「…そうだったな。僕もこれから、君のご両親に…。」
「あ、それは大丈夫。俺、もう話してある。」
「え…ええっ…一体、いつ…。」
「去年くらい…俺があんまり女っ気のない暮らししてるから…怪しんでたみたいだな。碁バカにもほどがあるって、探りを入れられたり…。」

僕はそんなに驚いた顔をしていたのだろうか。
進藤が、ツン…と僕の髪の毛を引っ張った。

昔、彼はよくこんな風に茶目っ気たっぷりに僕にイタズラしたものだ。
体のあちこちを突付かれたり、碁盤の向こうから変な顔を見せられたり。
そしてそうされるのが、僕は嫌いではなかった。

…いや、失くしてから僕が最も懐かしんだものは、むしろそんな他愛のないやり取りだったかもしれない。

再び許された懐かしい仕草は、力をくれる。今の、僕に。

「それで?どうだったんだ…ご両親は…何か僕のこと…。」
「いや、お前の名前までは言ってないけど、俺の好きなヤツは男だって…一生ソイツだけだから、女と結婚はしないって宣言した。」
「宣言…そう…。」
「変だなぁくらいには思ってても、さすがに息子が同性を好きだっつーのは驚いたみたい。でも、昔っから俺、言い出したらきかないし、さっさと棋士になっちまったし…どっかで諦めてるんじゃねえの?」
「…君が時期が来たと思ったら、きちんとご挨拶に伺いたい。いいだろう?」
「うん、そだな…そうしよう。」

進藤の手が、僕の肩を撫ぜる。
恋人同士は言葉だけでなく、仕草でも会話を交せるのだと思い出させてくれる。優しい、馴れたような手付き。



進藤の胸に、頭を乗せた。裸の、胸に。
鼓動が聞こえる。…しっかりとした、鼓動が。

上下する彼の胸に合わせ、僕の頭も揺れる。
すると髪が素肌の上を滑り、彼がくすぐったそうに身を捩った。

それでも僕は放さない。彼の胸に耳を強く押し付けたまま、目を閉じる。

僕は、噛み締めていたかった。好きな人の裸の胸に、好きなだけ手を這わせることの出来る幸福を。いつまでも。



トクン  トクン  トクン  トクン  トクン………   

ねえ、進藤…君の心臓まで、喜びの音楽を奏でているみたいだなぁ。



その音に包まれながら、僕はさっきまでのことを思い出す―――――









進藤は、泣きながら何度もありがとうございます、と繰り返した。母が席を立った後も、なお…

目の前に相手がいようと、いまいと。
彼は心から伝えたかったのだろう。ありがとうと、言い尽くせぬ感謝の気持ちを。

認める方だって、どれだけ悩んだかわからない。

僕らが人生でもパートナーになるということは社会的なことだけでなく、もっと身近で切実な問題も孕んでいる。僕は塔矢本家の跡取りなのだ。
そして勿論、進藤だって一人息子だ。

でも、今は。
今はただ、ようやく認められた愛に思いっきり溺れていたいと…それだけを思った。いっぱいいっぱいだった。



仕事の関係で一足先に空港に向かった父と合流し、今頃二人は中国に着いているだろう。
泊まっていっていいのよと進藤に言ってくれたのは、母の方だ。
言葉もなく立ち尽くしている僕らを残して、母は笑顔で家を後にした。



戸が閉まった後。いいのかな…と、僕の方を見もせずに呆然と彼は呟いた。
その背中に抱き付きたいという衝動が湧いたのは、その時だ。

だがしかし、僕は何故だか足がすくんで動けなかった。
躊躇いというよりも、余りにも間が開き過ぎて、どんな風に僕らが恋人の距離に踏み込んでいたのか―――体が思い出せなかったのだ。

僕の方を振り向いた進藤も、同じだったのだろう。
僕らは母を見送ったまま玄関先で、ただ黙って見詰め合っていた。



…静かだった。



家の中には、何の生活音も聞こえず。
雪が降りしきる音さえも壁越しに聞こえて来そうな、そんな静けさだ。



コトン…



何の音だったかはわからない。家の奥で物音がした。
僕らはビクリ…と体を揺らすと、もう一度視線を合わせ直し。

やがてどちらからともなく伸ばした手は、絡み合うツルのように互いを引き寄せ、衣擦れと、深い溜め息だけが耳に響いた。

「塔矢………会いたかったぁ………。」
「うん、僕も………仕事で顔を合わせても…打っても…君は遠かった…とても…遠かった―――」



それから、僕らは縺れ合うようにして部屋へと急いだ。
灯りを点けるのももどかしく、布団を敷く余裕もなく。

「…あっ、ま、待って…まだ…。」

まだ何も抱き合う準備は出来ていないと言いたかったのに、容赦なく引き倒された。
冷たい畳の上で圧し掛かられ、その重みが幸せで幸せで。眩暈がしそうだ。

進藤の厚い唇が、僕のそれをくるむように触れた。
眩暈だけじゃない。頭の天辺から足先までが、ジンジンと痺れ出す。



五年ぶりに交わす口付けの熱は、五年前のあの日に凍った記憶を急激にとかしてくれるだろうか………



僕らは、まるで初めて抱き合った十代の頃のように余裕がなかった。
引き千切るみたいに相手の服を脱がせ、その合間にも唇を、舌を求め、せわしない空気が僕らの背中を更に押した。

もっと。もっと。
その先へ。その奥へ。

「…あ、ぁ…しん、っ…苦し…ん…や…。」
「ああぁ、俺、急過ぎる?激しい?…ご免、でも、駄目…思い出せば思い出すほど…体が止まらない…引き摺られちまう…昔の、俺に…。」

空白を埋める為に、体は暴走を始める。
封印されていた扉は開かれ、そこに怒涛のように雪崩れ込むものは、行き場を失くしていた五年分の欲望の塊だ。一気に埋め尽くされる。

やっと全裸になり、互いを隔てるものが何一つなくなったというのに、やっぱりまだ足りないと心が悲鳴を上げている。
…いや、むしろここからが始まりだ。

互いの肌を探り合っていると、もうそれだけで涙が溢れそうだった。唇がわななき、息が速まる。
何かを言いたいのに、何も言えずにただ闇雲に全身を摺り付け、思うままに体を動かす。

気が付けばいつしか唇は隙間なく重なり、絡まった舌先は甘く、とろけそうで、二十本の指は交互に握り合わされ、互いを拘束する鎖となった。



五年ぶりの逢瀬。五年ぶりの交わり。



すぐにも達してしまいそうなのに、僕らは快感を引き伸ばし、味わい尽くし、久しぶりに触れる互いのものに決定的な刺激を与えなかった。

勿体無い。
すぐに頂上を見てしまのは、勿体無い。

示し合わせた訳でもないのに、どちらかのものが痙攣したら手を緩め、どちらかが喘いで仰け反ったら身を離し、頭の芯がぼーっとなるまでそうしていた。



そんな風に悦びを分かち合った後だから、達した瞬間はもう至福でしかなかった。
互いの腹の間で、驚くほどビクビクと跳ねるものをぶつけ合い、熱いほとばしりを混じり合わせ、ああ、ああ…と、ケダモノみたいな嬌声までも重ね………

一瞬。
意識が飛んでしまうほどの快感は、目尻からも涙となってとめどなく溢れた。









一度達した後、荒い息を鎮める間もなく次が始まっていた。

「覚えてるかな…お前…。」

進藤の指は、確実な意図を持って僕の秘所に触れる。
急だったから何も用意がない。久しぶりに開かれるには、最悪の条件かもしれなかった。

「塔矢、こっちも触って…も一回…お願い…。」

僕が押し黙っていると進藤の手が僕の手を引き、達したばかりなのに力を取り戻しつつある欲望へと導いた。

ぬるりと。さっき二人分の液にまみれたものは、まだぬめっている。
握らされたら、反射的にそのままゆるくすき上げてしまった。

う…と顎を引いて目を瞑った進藤は、僕の腰を更に引寄せ、丸みを揉むように掴んだ。

…これを、入れてもいい?入りたい…ここに…お前の、中に………

低く、掠れた声は、今まで聞いたどんな彼の声よりも色気があった。



結局。
求められる性急さとは裏腹に、根気良く丁寧に解された僕の体は愛されていた頃の記憶を呼び覚まされ、進藤を悦びを持って迎えると、中で震える彼自身をどこまでも締め付け…

再び昇り始めた時には、どんなに手を強く握っていても、どんなに深く口付けていても、羽が生えて身も心もどこかに飛んで行きそうだと感じていた―――――









「長かった?五年っていうのは、さ…。」
「さあ…今となってはわからない。僕らの運命が試される時間として、それが十分であったのか………でも。」
「ん?」
「…ぁ、ん…っ…。」

足首を絡められる。髪を、優しく梳かれる。
進藤のほんの小さな仕草も僕の抑えた喘ぎを誘い、それが彼に嬉しそうな顔をさせるのがたまらなかった。

「最初は…どれだけ辛かったか…きっと君もだろう?」
「うん…そりゃあね。でも、俺、結構執念深いっつーかさ…絶対にいつかわかってもらえる、もらおうって思ってたし。」
「ふふ…そうだね。僕にも意地はあったし…ねえ。どんな時が一番辛かった?どんな時に―――僕に会いたくなった?」

何気なく訊ねただけなのに。
眩しい光でも目に飛び込んで来たかのように、進藤はさっと目を細めた。
そのまま顔を逸らし、僕のうなじに埋める。…表情はもう見えない。

「バカ…訊くなよ。そんなん、まだ口にするのも…思い出すのも…ヤだ…簡単に吹っ切れるか…今までのこと…。」
「あ…ああぁ…ご免!そんなつもりじゃ…進藤、ごめ…っ…。」

僕は、自分の無神経さを呪った。

「気にすんなって…や、別にさ、俺もそんなにヤワじゃねーんだけど…ははっ…。」

乾いた笑いは、照れ隠しかもしれない。
少しだけさすらうように遠くを見てから、進藤は語り出した。

「なあ、塔矢。俺、すっごく折れそうになった時があってさ…ほら、お前、長谷川さんと噂になったろ?」
「長谷川さんって…ああ…。」

それは二年くらい前だろうか。
父の親しい友人の紹介もあり、初めて女性のお弟子さんが門下に入った。見た目も可愛く、碁も強いひとだ。
その為か、僕のお嫁さん候補などとまことしやかに囁かれていたらしい。

「何でもないに決まっているだろう。」

軽く言った。
しかし僕は、当時、進藤がその噂を気にしているかもしれない、いや、いっそ気にして何か破壊的な行動にでも出てくれれば…と、密かに暗い期待を抱いた日もあったのだ。

「うん…お前のことを信じたいと思う反面…毎日イライラして息苦しくって…いっそお前らが本当にくっついちゃえば、俺はお前を恨める。思いっきり憎める。…そして忘れられるんじゃないかって―――卑怯なことも考えた。」

進藤の正直な告白に、虚をつかれた。言葉を失う。

僕と同じように…いや、もしかしたら僕以上に、彼も、心の深遠を覗き込むような地獄を渡って来たのだ―――

「あ、そんな暗い顔すんなって!なあ、塔矢。続きがあるから聞いて?…でさ、そん時、俺、夢を見たの。…友達が、俺と打ってくれた夢。」
「友達?」
「うん、もう今はいない…でも、お前と俺の碁を知ってて…俺たちを多分…いや、きっと見守ってくれていた…。」

遠い目が、懐かしい目に変わったと感じたのは、僕の思い込みじゃないだろう。
進藤は、その夢の記憶を懐かしむように穏やかな口調で話し続けた。

「ソイツ、喋ったりはしないけど…夢に出て来たのは二回目だった。俺と打って、ただそれだけで消えちゃった…。」
「そうか…。」
「目が覚めた時、丁度窓から月が見えた。綺麗な、ピカピカの月だった。…アイツ、励ましに来てくれたのかなぁ…。」

僕もその光景を想像しながら、ぼんやりと進藤を見ていたが。
急に進藤が立ち上がったので、驚いた。

「…えっ…なに…。」
「塔矢っ!雪が止んでる!―――月が…。」

どうしてそのことに気付いたのかはわからないが、進藤は窓を開け、雪が止んで空に真冬の月が昇っていることを僕に知らせた。

彼は、勿論まだ全裸だった。
やっと敷いた布団に、暖房が効き始めた部屋で、温もりを分け合っていたのに。

流れ込んで来る冷たい空気に震え上がることもせず、彼は生まれたままの姿で窓際に立ち、雪明りに白く輝く庭を、そして天空にかかる月を見ていた。

…綺麗だった。

進藤の一糸纏わぬ後ろ姿は、どこもかしこも引き締まって見え、淡い光を弾き、心から美しいと思った。



僕は被っていた毛布にくるまったまま彼に近付き、そのまま一緒に窓の外に視線を送った。
彼も嬉しそうに頬ずりをしてくれ、一つの毛布は大の男二人には小さいから、必然、僕らは密着することになる。

彼がその夢の後に見たのは、こんな冴え冴えとした月だったのだろう…

「…夢からさめて見たあの月は、神様からのヒントみたいだった。だってさ、その時、俺、わかったんだ。俺がお前を好きなのは、俺が碁を捨てられないのと一緒だって。…もっと言うなら、どんなにお前に酷いことされても、裏切られても…俺はお前をどうやったって嫌いになれない。愛してる。それは、あの月がこんなに綺麗に空に出ているのと同じくらい、当たり前のことなんだって―――」

…その日から、俺、嘘のように楽になった。

どうせどんなに足掻いたって俺はお前のこと、嫌いにもなれないんだ。バカみたいに頑固に愛し続けるだけなんだ。
だったら待つことは愛することそのものだって、思えるようになった―――



そこまで言われて、舞い上がらない人間がいるだろうか。



例え、僕が彼を好きじゃなくなっても。僕らが結ばれなくても。

彼は僕だけを生涯愛するのだと―――それは彼の意志というだけでなく、動かし難い未来永劫の真実として伝えられたのだから。



全く、今夜は何度言葉を失えばいいのか。
君という人は、どこまで僕を喜ばせたら気が済むのか。



やっと口を開いた時には、僕の声はすっかり鼻声で息もうまく吸えなくて、ああ、僕ときたら先に泣き出してしまったんだなと、ヒトゴトのように思うばかりだった。

「…愛してる…僕も…二度と会えない運命が…待っていたとして、も…僕も、君しか、愛せない…。」
「塔矢…お前、泣きべそ…。」
「君に言われたく、ない…。」
「確かにっ…っはは…。」



互いに、相手を愛する為だけに生まれて来たのだと感じ合えることは、奇跡だ―――

濡れた頬と頬を寄せ、鼓動を重ね合わせ、僕らはその奇跡の只中で抱き合っていた。
新しい歳の新しい月が照らす、白銀の庭の前だった。












NOVEL