― おちる ―

深夜、進藤がいきなり僕の家に押し掛けて来たと思ったら、散歩に行こうと言い出して面食らった。
半ば強引に引っ張られる格好で外に出たら、近所の公園に連れて行かれた。
こんな時間に人などいやいない。
いや、いないからこそむしろ怪しまれて煩わしいことになるのではないかと、おまわりさんが巡回しているのを知っている僕は思う。
そういう意味でも、碁とは関係のないことに時間を割かれるという意味でも、僕は苛立っていた。
何よりも、進藤のわがままとも言える行動に抗えない自分が、最も嫌悪の対象だったかもしれない。
その公園には、いわゆるモンキーバーとか、うんていとか僕らが子ども時代に呼んでいた遊具があった。
両手でそれにぶら下がり体を揺らし、その勢いを使ってバーを二つ飛ばしくらいで渡って行くのだが、進藤は僕にもやってみろという。
渋っていると「どうせお前、運動が苦手なんだろ?筋肉なんてついてないだろから」などと馬鹿にするようなことを言うから、僕もついムキになる。
気付いたら、バーに飛びついていた。
思いっきり体を動かすというのは不思議なものだ。
僕は前を行く進藤の背中を追い、一旦端まで行くと降りた。それから再び飛びついて反対方向へと戻る彼を追った。
互いの息遣いと体が風を切る音だけが、夜の公園に響く。
そうやって全身を使い、ただひたすら往復すれば、頭の中で渦巻いていたモヤのようなものが晴れていった。
「塔矢っ、誰か来たっ!…飛べっ!」
「えっ…あっ!何でっ、飛ぶって…」
「いいからっ!」
「―――ッ!」
僕の前を行っていた進藤が急に頭を捻って大声で叫ぶから、手を滑らせてしまった。
一瞬の空白の後、僕は派手にしりもちをついて転んだ。目から火花が散った。
転んでも大丈夫なようにバーの下は砂場になっているから痛みは大したことないものの、かなり高いところから体が投げ出された感覚があり、僕はそのことに驚いた。
「大丈夫か?」
涼しい声が聞えた。
頭に血が昇った。
僕がこんな目に遭ったのは進藤のせいなのに、ちっとも慌てた様子がない。
それどころか彼は余裕のある態度で片膝をついてしゃがみ込むと、そのまま僕の目を覗き込んで来た。
僕は足を投げ出した格好のまま彼の視線を受け止め、その琥珀色の大きな瞳を探り―――
そして僕は、進藤がわざと僕を落としたことを悟ったのだ。
「どうして…」
「ん?」
「最初っから、この公園に来るつもりだったんだな…君の足取りには迷いがなかった!…そして僕にこんなことをさせて…」
「なあ、塔矢」
「なんだっ!?」
「落ちるって案外、気持ちいいもんじゃね?」
「っ―――!」
そう言って進藤が、ぐっと顔を近付けて来た。もう、二人の間は三十センチもなかっただろう。
反射的に仰け反った僕は、その拍子にゴロン…と、後ろへと倒れた。つまり、背中が砂場についてしまったのだ。
細かい砂が舞い、髪にかかった感触が気持ち悪かったが、ひんやりとした砂場に全身を預け四肢を投げ出す感覚というものは、思いのほか悪くはなかった。
…もう、怒る気力すらない。
久しぶりに運動して汗ばんだ情けない額を進藤に見られようが、どうでも良かった。
すると急に僕の頭はクリアになり、さきほどの彼の言葉が僕へと戻って来た。
―――落ちる。
そうだ。
進藤はそう言った。
―――落ちるって案外、気持ちいいもんじゃね?
それは単に物理的なことを示しているのではないだろう。
例えば今、バーから手が離れた僕が重力に従って落ちたのとは違う。
僕は胸の奥へと染みこんでいく彼の言葉を、その意味を、静かに考える………
「っしょっと!」
すぐに進藤も、僕の横にゴロン…と寝転んだ。
砂場なのに自分から…何て馬鹿な…と、僕は吐き捨てるように言ったがそれには反論もなく、彼は言った。
「お前、いっそ落ちればいいじゃんか」
「……」
「気持ち良くなかった?落ちる瞬間ってさ、ふわっと体が浮き上がるじゃんか。そういう感覚、どうよ?」
「そんなのっ!身勝手な、っ…」
「おまっ、耳元なのに声がデケエよぉ…」
「大体君がっ…」
二人で寝転んだまま下らない言い合いをしながらも、僕はわかっていた。
この頃の僕の碁に対して、進藤が何かを感じていること。
そしてそれはいいものではなく、僕に対して目を覚まさせようとしていること。
実際、僕は微妙なスランプに陥っていた。
勝てないのではない。ギリギリの線では踏ん張ってはいる。
だが、内容は良くない。
崖っぷちであがく僕の碁は次へと繋がる碁でなく、ほどなく崩れることは自分でも予想出来ていた。
落ちてみればいい―――――
それは、頑なに張り詰めた糸をプッツリと切ることで僕自身が楽になればいいのにという、進藤ヒカルなりの好意であることが、ようやくわかったのだ。
だからこそ、僕は彼に言う。
「でもっ…」
「…んー?」
「落ちたのはただ、痛かっただけだ―――でも」
「うん…」
「こうやって見上げる空はいいな…冷え込んで空気が澄んでるせいか、星が綺麗に見える」
「ああ、東京の空にしてはくっきり見えてんな、珍しいや」
「砂場なんかに寝転がって見る羽目になるとは、ね」
「いいじゃん!砂場に寝転ぶなんて、滅多にあるこっちゃねえしな?」
「こらっ、しゃあしゃあと言うな!君のせいだろう!」
クスクスと笑い、手足を思うままにバタつかせる。
自然と体が動くのは、心もざわめている証拠だったのかもしれない。
進藤の足先と、僕のそれが軽くぶつかった。
互いに謝る訳でもなかったが、さり気なくぶつかった足を引っ込める。
「…いいかもしれないな、こういうのも」
「高いところから落ちるの?」
「いや…正確には、落ちることを怖がらないってことかな」
「そんなに高いと思わなければ?下にさ、落ちてく先があるって気にしなければいいんじゃないか」
進藤の言葉を瞬時に飲み込み、考え、そして僕は自分の意見を述べた。
「いや、それでは意味がない。自分が高いところにいるんだってことは、自覚してしかるべきだ。その恐怖を知って尚、落ちることを怖がらずに打つのが重要なんだ」
「なるほどね…そっかー、恐怖と紙一重?…だからこそ、いい。ゾクゾクするってもんだよな!お前、急にポジティブ!」
澄んだ空気の中に揺らめいては消える、僕らの息。僕らの言葉。
だけど心には、しっかりとした質量を持った何かがゆっくりと沈んでいく………
―――その時だった。
進藤の言葉が終わるか終わらないかのうちに空に流れた星を見つけ、僕らは大声をあげた。
後からわかったことだが、それは一晩中薄明るい東京の空ですら見えるほどの立派な流星群が到来していた貴重な時期だったのだ。
「う、あァ…俺、生まれて初めて見たかも…っ、たーーーっ!!」
…僕の数倍もはしゃぐ進藤を見るにつけ、思う。
いつの間にかこんな風に人を気遣える人間に成長した進藤ヒカルに対する僕の感謝の念は、流れ星くらいで彼が嬉しそうにしていることを、僕もまたひどく嬉しくてならない気持ちへと繋がっていくのだと。
そして彼がいつまでも屈託なく笑っていてくれたらいい、僕の傍でと。
言葉にこそしなくとも僕の胸に溢れた想いはとても熱く、確かなものだったのだ。
数年後には手と手を取り合い、許されざる恋の淵へと真っ逆さまに堕ちていくことになるとはユメユメ思わない十代の僕らに訪れた、それは小さな―――けれど忘れられない―――流星降る夜の、出来事だった。
NOVEL
(BGM 空中ブランコ 一青窈)
――帰り道。
アキラの髪についた砂を払う手が思わず震えてしまったことを、必死で隠していたヒカルだった・・・
ちなみに一青さんはヒカルと同じ誕生日♪