― おまじない ―
「やーらーーーっ!れっらいにやらやらやらっ!」
「ヒカル、いい加減にしなさい!それ以上ほっといたら顔が爆発して、死んじゃうわよ!」
「ひんれも、いいっ!歯医者、いーやーらーーーっ!!」
いきつけの歯医者でのことです。
大声で泣き喚いては入り口で抵抗している子どもを見て、アキラは驚きました。あんなに嫌がっている子どもを見たのは初めてでしたから。
確かに歯医者は苦手な子どももいるようですが、アキラは全くそんなことはありません。
むしろ清潔感に溢れ、ツン…とかすかに薬品の匂いがする病院系は、アキラにとって気持ちのいい場所でした。
「塔矢アキラちゃん、どうぞ。」
「はいっ…。」
アキラの名前が呼ばれました。お母さんと一緒に治療室に入ろうと立ち上がります。
その時、アキラは気になってチラと後ろを振り向きました。そして、まだ怪獣のように暴れている子どものことを盗み見しました。
ほっぺが、まるで真っ赤に熟れたトマトみたい…
とっても痛そうだなぁ…
アキラはその子が可哀想になりましたが、どうすることも出来ません。心残りではありましたが、結局その場を後にしました。
「はい、アキラ君、終わりだよ。」
「ありがとうございました。」
アキラは椅子を降りて、深々と頭を下げます。
アキラの歯は丈夫な上にとてもよく手入れをしているので、虫歯なんかひとつもありません。だから今日はフッ素を塗ってももらうためだけに来院したのです。
「先生…最近この子、とても強く歯を噛み締めたりするみたいで。負担がかかっているんじゃないでしょうか。」
「ほう、それは碁のせいかな?」
先生も大の碁好きです。アキラお父さんの後援会にも入っています。
実はこの治療室の片隅にも、ちゃんと碁盤と碁石が置いてあるのでした。
「はい。難しい詰め碁を考えている時や、恥ずかしい手を打ってしまった時には…。」
アキラは、はにかんだように目を伏せました。
「そうなんですのよ、歯をギリギリしているみたいで。良くありませんわよね?」
「ははは…アキラ君らしいですな!でもそのくらい負けん気が強くなくては、塔矢行洋の後は継げますまい。…いや、スポーツの衝撃などに比べたら大丈夫ですよ、自分で噛み締めるくらいのことは。」
先生は優しい顔で、アキラの頭を撫でてくれます。
アキラの健やかな黒髪が、嬉しそうにサラサラと揺れました。
―――その時です。
アキラの頭にいい考えが閃きました。
「先生!ここに碁石はありますか?」
「碁石?どうしてだい?」
「アキラさん、どうしたの?」
「お願いがあるのですが。」
アキラは真っ直ぐに先生を見て、話し出しました。
ドアの向こうからは依然、あの子の盛大な泣き声が聞こえていました。
「はい、これを握り締めてごらんよ。」
「―――っ!?」
アキラは、その子に向かって手を差し出しました。
その子はいきなり知らない子に話し掛けられて、びっくりしています。涙で濡れた大きな目が、もっともっと大きく見開かれます。
「白と黒っていうのはね、一緒にすると不思議な力が生まれるんだ。だからこれをしっかり握っておけば、全然痛くないから。」
「まあっ、おまじないなのね?ありがとう、ぼく!」
「…ほんろ?ほんろに、いらくない?」
「うん。」
そしてその子はアキラの手の平から受け取りました―――白石と、黒石を。
「あっらかい…。」
アキラの体温を移した碁石が二つ。
その子は本当に気持ちがスーッと落ち着いていったのでしょう。腫れ上がって形まで変わった顔に必死に笑顔を浮かべていました。
ありがとうと素直に言えなかったのは痛みのせいだけでなく、ちょっと恥ずかしかったのかもしれません。
だって、自分と同じくらいの年のアキラはちっとも歯医者を怖がっているようには見えなかったのですから。
アキラもわかっているよ…とでも言いたげに微笑みました。
「アキラさんがあんなことを考え付くなんて、お母さん驚いたわ。偉かったわね。」
「えー、僕が考えたんじゃないよ?緒方さんがね、教えてくれたの。」
「まあ、緒方君が?白黒のおまじないを…。」
「緒方さんも色々あるんだってー。大人になっても痛いのって、やっぱり怖いのかな?」
「そ、そう…。」
アキラと手を繋いで歩いていたお母さんは、さり気なくアキラから顔を逸らしました。何だか、笑いを噛み殺しているみたいです。
「あの子…。」
「え?」
「碁を打つようになったらいいのにな―――」
アキラの声は弱々しかったのですが、それでも何がしかの期待が滲んでいるようでした。
「ほほほ…そうね。それこそ、碁石のおまじないね。いつかあの子が、碁を打つようになりますようにって。」
「うん!もっとたくさんの人が碁を好きになればいいのに。」
「アキラさんのライバルが増えるのも、嬉しいことですものね。」
「ライバル?」
「そうよ。同じ年くらいでしょ、あの男の子。同じ年頃のライバルはね、とても大切なものなのよ。」
「ふうん…僕は別に、緒方さんでもいいけど。…んー、強かったら誰でも!」
「ほほほほほ…。」
それから。
その後、アキラのあげた碁石がどうなったのか、その子がどこの誰なのか何もわからないまま、その小さな出来事はアキラの記憶の底に沈んで行きました。
アキラはずっとずっと丈夫な歯を保ち、それは乳歯から永久歯になっても変わりませんでした。
だから。
まさか。
甘いもの好きの恋人がこっそり歯痛に泣いているのを見つけ、呆れるやら心配になるやらで、子どもの頃お世話になった歯医者に無理やり引っ張って行くことになるなんて、全く想像もしていませんでしたとさ―――――
・・・子どもヒカルのその後?
「やっぱり痛いじゃんか!あのオカッパ、嘘つき!」なーんて、折角もらった碁石を投げたりして^^;
それでも後から悪かったとそれを拾って、どこかに仕舞ったのかも。
数十年経って行ってみればこの歯医者さんも建物は古ぼけ、先生も老いたことでしょう。
でも、二人でそこに足を踏み入れた途端、なんとな〜く懐かしかったり・・・
勿論、どちらもこれっぽっちも覚えてなんかいないのでそのまんま。
そんなもんです(笑)
NOVEL