― もしもと言う君 ―
(ヒカルサイド)









「進藤…進藤?…し、ん、どーーーっ!!いるのかっ!?いるならとっとと返事をしろっっっ!!」

………んー…

うるせえなぁ…

あの声は…塔矢だな…
って…どうせこの部屋の鍵を持ってるのはおふくろと塔矢しかいねーんだし、おふくろは滅多に来ねえしな。

アイツ、また来たんだ………

「まだ寝てるのかっ!?全く…どれだけ携帯鳴らしても出た試しはないし…。」

ガチャ…バン…ズカズカズカ…

ふううぅ…と。ここで一回、溜め息らしき音が入って。

バシン、ドン…ドカッ…

最後のは、塔矢が布団ごと俺を蹴った音だ。

「ってーなぁ…お前、乱暴だっつの…。」
「このくらいしないきゃ起きない君が悪い。」
「今、何時ぃ?」
「8時だ。いくら手合いじゃないとは言え、仕事は仕事なんだから遅れるな。さっさと支度しろ。」
「へ〜い…。」
「相変わらず足の踏み場もないな…コケかキノコでも生えそうな部屋だ…。郵便物もポストから抜けないくらい、みーっちりだったぞ!」

塔矢の憎々しげな声を聞きながらモソモソと起き出すと、俺は布団の上で伸びをした。
既に俺の視界から消えてるアイツは、おそらくキッチンで朝食の準備を始めたんだろうな。



シャワーに行こうと下着を探す…けどぉ…
そもそも洋服ダンスっつーもんが俺んちにはないんで、下着も服もテキトーに積み上げてあるんだけどさ。

…ないや、どこにも。
そういや最後に洗濯機回したのって…いつだったっけ?
同じパンツだってバレたら、塔矢に怒鳴られるかなぁ…

仕方ないからそのまま風呂場へ向かった。
風呂場のドアの前には洗濯物の山があって、げ…そっか、やっぱ溜まってたんだと思い出した。

山を移動させて、やっとドアを開ける。
風呂場に入ってシャワーを浴びようとしたら、シャンプーが切れていた。ポンプを何度押してもスカッ…て情けない空気音がするだけで中身は出ない。

そうだ…
最後に風呂に入った時、新しいの買わないとなーって思ったんだよ。それがいつのことだったのかは思い出せないけどさ。
仕方ないからリンスで洗っちゃおう…どうせ一緒だし。



風呂から上がると、俺のワンルームにはいい匂いが充満していた。
今朝は洋食か…卵がバターを纏って固まっていく時の、何とも言えない匂いだ。
スパイシーな香りもするから…俺の好物のチョリソーもつけてくれたのかな。

「何だ、まだ下着もつけてないのか。そんな格好で物を食べるな。」
「このタオルを探すだけでも大変だったんだぜ〜、下着なくてさ。素肌にジーンズ履いたら痛えかな?きん○ま…あ、毛、挟んじまうか…。」
「―――なっ!また馬鹿なことをっ!…どうせそういうことかと思って、朝食の用意がてらコンビニで新しいものを買って来たよ。」
「ええっ、お前…エスパーみてえ…どうしてわかんの?」
「コンビニの中をうろうろしてたら、妙に下着売り場が気になって気になって…ああ、進藤が呼んでるのかもって…。」
「ううう嘘だーっ、んなこと………あ、あるかも、お前なら…。」
「あはは…ちゃんとレシート取ってあるからな!僕の選んだパンツに文句を言うなよ。」

高らかに笑う塔矢は器用に片足で丸まった洋服の山を掻き分けると、二人分の坐る場所を作り、運んで来た皿をテーブルにのせた。
食卓なんてないから、リビングのローテーブルの上を片付けて使うんだ。

「一体、何日掃除してないんだ…この雑誌や紙類の束…ここでハムスターでも飼えそうだな。…というか、君―――何日くらい記憶が飛んでる?」
「ん〜?…そんな何日もってこたねえよ。ちゃんと週にニ、三回は手合いがあるんだし。研究会だって覚えてりゃ行くよ。まあ、ちょいと記憶が飛び飛びになって間が抜けてる…な〜んてこともあるけどさ。」

そこで塔矢は眉をひそめた。心なしか声も低くなる。

「笑い事じゃないぞ。神経を病みそうだな…そういう暮らしは。」
「お前だってあるだろうが、夢中になっちまうこと。」
「でも、君ののめり込み方は僕以上だ。その上、この部屋をまーったく整理整頓しないから、渾沌に拍車がかかってる。どうだ…このプリントアウトされた棋譜の山…この部屋にある碁盤も、六つとも石が並べられたまんまだったぞ。」

塔矢が、散らばった中から無造作に一枚を拾い上げる。

「あーっ!それそれ!いい手を思いついたの、126手目から変化する手!絶対にお前も唸るって。」
「わかったから。後で道すがら聞こう。まずは…食えっ!!」



―――これが今の俺

そして

塔矢と俺の関係―――



俺は碁のことで夢中になると、周りが見えなくなってしまう。

一人暮らしを始める少し前から、どうも碁に没頭すると他がどうでもよくなってしまい、気が付いたら数時間とか半日とか、あっという間に経っていた。
そのくらいならいいが、この頃では時間の感覚もすっ飛んでしまって、当然目覚ましなんか役に立たない。遅刻スレスレだったことも数知れず。

見かねた塔矢が、こうしてたまに来てくれるようになったのは最近のことだ。



「あ〜、食うの、面倒臭え。この時間に今、思いついた一手を再現したいぜ。勿体無い。」
「………。」
「あ、そうだ。塔矢、お前、俺の口にあ〜ん…てしてくれたら俺の手があく…。」

ふざけて口をあーんと開けた俺に、塔矢の罵声が飛んだ。

「進藤っ!いい加減にしろっ!!」
「冗談だってばよ〜。シャレのわかんねえヤツだな。」
「君が言うと冗談にならない…聞こえない………もう少し、現実世界にも目を向けろ。」

当然お怒りのようだったが、その声にはしんみりしたものも混じっていた。

「またそこに話は戻る訳?…わかってるって。俺もこんなんいつまでもやってたら身が持たねえかなって。でもさ、仕方ないんだ。…一度、深〜いトコで捕まっちまうと、碁盤と石しか頭の中になくなるの…。」
「うん…僕だってそういう時間があることはわかってる。生活の中心は碁だ。さっきもそれは認めただろう。でも…。」
「でも?」
「君は尋常じゃない。時々…君を見ていると怖くなる―――」
「ははははは…それって前も言われたな、お前に。…あれ?もう何回も言われたこと、あった?」
「あるよ。何度も訴えた。でも君はいつも忘れる。碁以外は、君にとって取るに足らないものなんだろうな。」

その先に続く言葉を、無視しても良かった。
塔矢も言いたいような、言いたくないような、複雑な気持ちもあるかもしれない。



俺は皿から顔を上げて、塔矢の目を見た。

塔矢も飲んでいたコーヒーのカップを置き、静かに俺を見詰め返す。

視線が絡まったのは、ほんの数秒もなかっただろう。



…やがて。
薄く笑いながら、俺は正直に言った。

「お前は違うよ?お前のことはいつも…盤の向こうに感じてる。」
「いいよ、そんな…とって付けたように言わなくても。」
「んなんじゃねえよ。わかってるくせに。俺は嘘やおべっかは言わない。」
「うん…そうだったな。」

拗ねたように目を反らした塔矢の横顔はどこか寂しげで、その分、綺麗だと思った。
コイツ、本当に綺麗な男になっちゃったなぁ…と、俺はまたその場の流れにそぐわないことを思ったりした。



俺の言葉に嘘はない。

だけど塔矢だってさ…俺がご機嫌取りで言ったのかどうかわかっているくせに、こんな切り返し方しかして来ない。

そう仕向けているのも俺なんだろうということも…哀しいけど、ぼんやりとわかっていた。



塔矢と俺の関係は、年齢を重ねるごとに目に見えないところで静かに変化していった。
最初の頃の、めちゃくちゃなエネルギーのぶつかり合いからは、随分遠いところまで来てしまった気もする。

このままいくとマズイよなぁ…と何となく思ったのは…いつ頃だったっけ…
特別な事件があった訳でも、互いに色っぽい話が持ち上がった訳でもないけど。

気付いたら―――塔矢の碁ではなく、塔矢自身のことを考えている自分がいて。
遠くない将来、俺は大切なものを壊すのではないかという恐怖にも近い焦りに陥った。

そうならない為にはどうしたらいいだろうと考えた時、俺の目の前には碁があった。
碁しかなかった。

俺はそれまで以上に碁に没頭した。

…碁に逃げたとも言う、か。ははは………



そう。俺がますます碁中毒みたいになったのには、ちゃん理由があったんだ。
―――最初はね。

部屋に置く碁盤も折り畳みも含めてどんどん増やし、自分でパソコンを扱い、棋譜を集めたりネット碁したり出来るようにもした。
持ち運ぶ時も一局分では足りなくて、マグ碁も三つある。

部屋のあちこちに、ただ碁の気配だけを置いた。
碁だけに、囲まれていたかった。

海外棋戦が続き、日常を離れ、碁だけで忙しくなったのも良かった。
俺は記憶が飛ぶくらいに碁に塗り潰された毎日の中で、塔矢との理想的な距離感を掴みかけている。

…っていうか、ぶっちゃけその途中って感じだけどな。



「ほら!ジャムが零れてる。シャツにつくぞ。」
「ああ、ホントだ。ヤバイな、ワイシャツこれしかねえのに。」
「髪もとかせ。ネクタイもたまにはアイロンかクリーニングに出せ。」
「はいは〜い…。」

塔矢が溜め息をついて、それから少しだけ優しい声で言った。

「…やっとこっちの世界に戻って来たって顔だな。寝起きの時は別人みたいだった。」
「ははははは…違いないや!」

塔矢の言うこっちとは、まだ俺には見極めがたい、不安定な世界だ。

碁の世界の方がうんと楽で、うんと安らげる。

少なくとも、今の俺にとっては―――









「なあ、塔矢。」
「ん?」

俺たちはようやく支度が整い、部屋を出た。

手馴れた様子で鍵をかけ、確かめる、塔矢。
ポケットに俺の部屋の合鍵を仕舞う、塔矢。

石を持ったところしか見たことのなかった細く、長い指が、今、全部、俺の為に働いているんだ………

それをうっとりとした気持ちで眺めていたら、何か言いたくなった。
今まで咽喉まで出掛かったけど、結局は言えずに来たことを言いたくなっていた。

「お前さ、もしも…もしも彼女が出来たり結婚したりしても、俺を連れ戻しに来てくれるか?」

あっちの世界からさ…と、おどけた調子で言う。



応答はなかった。
塔矢の息を飲む気配だけがした。
何か考えているのか…或いは、気に障ったのかなと思った。

俺は答えがないことには構わず、塔矢の方を見ないままエレベーターへと向かう。
背後で塔矢の靴音が聞こえた。

何も言わない。
塔矢はまだ、答えをくれない。

あ〜あ…聞かなかったことにされちまうのかな、と―――虚しく諦めかけた時。
塔矢が口を開いた。

「君のその質問は間違っている…いや、ねじれていると思う。僕にそんなことを訊ねる前に、君こそ自分が嫁さんを貰うことを考えるのが先じゃないか。」

どうして僕にそんなことを―――

と、責めるような言葉は真っ直ぐに俺に向けられてた。
サク…と、深く切り込まれる。一拍遅れで胸に痛みが走る。

でも、血を流しているのは俺ではなく、それを言った塔矢の方じゃないのかと、ふと思った。



「そうだな…やっぱ俺ってねじれてる、よなぁ…。」



塔矢を追って碁を始めた。
そのうち塔矢自身に執着しないようにと、碁だけを求めた。

でも。

やっぱり俺は運命に嘲笑われるように、塔矢から離れられない。今度は塔矢が俺をほっとけなくて引き寄せられている。



これから先、俺たちはどこへ行くんだろう…

どこへ辿り着けば、気持ちも体も、そして碁打ちの魂も、全てがあるべき場所におさまるんだろう…



塔矢と俺にとって

生きるということ

幸せになるということ

それは一体、どういうことなんだろう―――



答えは全然見えなかった。

詰め碁なら必ずある筈の答えが、ここにはない。

日々変わっていく想いに、振り回されるだけだ。俺は未熟で、そして無力だ。

だからあんな「もしも」という問い掛けをしてしまう………



その時。
エレベーターのドアが開き、俺たちは乗り込む。まず、俺。それから、塔矢。
すると今度はドアに向かって塔矢が前、俺が後ろに立つことになった。

「さっきの質問、僕からも返していいか?」
「…ん?」
「もしも、僕が家庭を持ち忙しくなって、ここへ君の面倒を見に来なくなったとしたら…君は今よりもしっかりと現実を生きるのか―――ひとりでも。」

塔矢の背中が小さく揺れた。珍しい。…緊張のせいなのかな。
それでもその背中は真っ直ぐに伸ばされ、塔矢らしい後姿だと思った。



「…いやぁ…俺のことだからな、お前が来てくれなくなっちまったら今よりももっとヒデエことになるんじゃね?三日くらいは平気で、風呂も食事も…布団で寝るのも忘れそう…こっちの世界に帰って来れなかったらどうするよっ!」

馬鹿みたいに声をあげて笑ったら、丁度エレベーターが階下に到着した。

ドアが左右均等に開き、ゆっくりゆっくり、白い光が目の中に飛び込んで来る。



振り向いた塔矢は泣き笑いのような不思議な顔で俺を見ると、小さく頷いた。











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