― 桃の花 桃の夢 ―
進藤美津子はその日、何度も溜め息をついていた。
買い物に出ても、テレビを見ても、あちこちがひな祭りで賑わっている。
男の子しかいない美津子には、この日は複雑である。
街の華やぎや、春の訪れを予感させるあれこれは好きだが、最後まで諦め切れなかった女の子の母になるという夢を否応なく思い出すからだ。
最近、美津子はパートに出るようになった。
昼間だけの簡単な事務だが、ヒカルを産んでから何年も専業主婦だった美津子には新鮮な毎日だ。この頃では携帯も持つようになった。
一人息子のヒカルが一年ほど前に独立してからは、時間が有り余っている。
息子の仕事を知ろうと碁を習ってみたり、こうしてパートに出たりすると、なかなかいい気分転換になった。
さて、今日も夕闇が迫る頃、美津子は帰宅する。
すると…
家の前に人影を見た。
客の予定などないから不審に思うが、明らかにその人物は自分の家の前に立っている。
一歩。一歩。
その人物に近付くと、次第に控え目だけれど甘やかな香りが漂って来る…
「塔矢君!?」
「あ、お帰りなさい…お久しぶりです。」
進藤家の前にいたのは、塔矢アキラだった。
深々と頭を下げる。黒髪がサラ…と流れて、その端正な顔に影を作った。
アキラは塔矢行洋の一人息子で、ヒカルの同い年の同業者だ。
何度も遊びに来ているし、ヒカルも四六時中彼の話をする。付き合いも長い。
美津子もすっかり、ヒカルだけでなくアキラの戦績まで気にするようになっていた。
夕闇の中、西日を背にして立っている塔矢アキラは、美しかった。
美津子は素直に、彼を美しいと思った。
まず、姿勢がいい。
やや細めのまっすぐと伸びた体のてっぺんには、綺麗な黒髪に縁取られた小さな頭が乗っている。
磁器のようにツルリとした印象の肌は白く透き通り、ほどよく尖った顎も、理想的な輪郭も、人形のようだと思った。
良く見れば、名人の筆が一刷毛したかのように整った眉も、黒々とした切れ長の目も、人形のようではないか。
そうだ…まるで最高傑作のお雛様のよう…
美津子は雛人形を買うのが夢だった。
女の子が生まれたら、どんなに余裕がなくても段飾りのお雛様を買おうと心に決めていた。
それを夫に言うと、だったらヒカルが結婚して女の子が生まれたら、その子の為に長年の悲願とばかりに心を込めて選べばいいさ、と。
こともなげに言われ、美津子は押し黙るしかなかった。
…あの人はわかってない…いえ、まだわからない方がいいんだけど…
だって、もう仕方ないわ…塔矢君はこんなに綺麗で、中身も申し分ない立派な青年だもの。
ヒカルの気持ち、全くわからない訳でもない。
自分とこんなにもかけ離れた完璧な人物が傍にいたら、そりゃあ色々な意味で惹かれてしまうのも当然だもの…
「あの…突然でびっくりされましたよね?ついでがあったものですから、急にこちらに寄らせていただいて…実はこれを…。」
美津子は、自分が目の前の青年に見とれていることに気付いてはっとなった。
塔矢アキラは、はにかんだような表情で腕の中のものを差し出す。
――それは、桃の花だった。
腕に抱えきれないほどの、たくさんの桃の花。
ちょっと派手なくらいにピンク色がきついその花は、アキラを引き立てる小道具のようにも美津子には見えた。
こんなに花が似合う青年もいない。
きっとバラだって百合だって胡蝶蘭だって、似合うだろう。その背にしょって、何の遜色もないだろう。
それに比べてヒカルなんか…ヒカルなんか、似合いそうな花はひまわりくらいだ。
いい年してまだ、まっキンキンの前髪なんだからっ!
美津子はさっきまでとは違った意味で溜め息をつきそうになるが、気を取り直して言った。
「まあ、見事な桃だこと!随分長めに切ってあるのねぇ。持って来るの、大変だったでしょう?ヒカルに届けさせれば良かったのに。」
「いえ、進藤…君は明後日まで地方なんです。うちにたくさんいただいたので飾り切れなくて…母も是非、進藤さんの御宅へと言いましたので。」
「まあ、ありがとうございます。お母様にも宜しく仰ってね。…さあ、上がって。」
「いえ、これからまた回るところがありますので、今日はこれで失礼します。」
美津子は心から残念に思った。
うるさいヒカルがいなくて、アキラと二人だけで話しが出来るならどんなにいいだろうと、一瞬、夢を見たのに。
玄関を開けた美津子に続いて入って来たアキラは、そこに花を置くと丁寧に挨拶をしてから去って行った。
最後の最後まで凛々しいその姿。立ち居振る舞い。
どんなに桃の花が彩っていても、アキラが去った後の玄関先は、美津子には何故だかもの淋しく感じられたのだった――
もう本当に仕方ないわね…
ヒカルの娘なんて、もう本当の本当に望めないわね…
お雛様を選ぶ夢は、諦めるしかないんだ…
美津子にはわかっていた――ヒカルとアキラは恋人同士らしいということ。
最初はまさか、そんな…と否定もしたが、そこは母親のカンだ。
ヒカルの部屋に行くとどうもアキラが半分住みついているみたいだし、二人の間には隠しても隠し切れない空気が流れていた。
…いつしか。
美津子も納得せざるを得なかった。
ただ一つ、ヒカルの子供…自分の孫を抱きたいという願いだけは未練がましく残ってはいたが、それはそれで美津子を責められることでもないだろう。
あ〜あ、もう一人…子供が…女の子が欲しかったなぁ…
全てをわかっていても、つい、ぼやきのように呟いてしまう美津子だった。
それでも勿論、一人息子のヒカルの幸せを祈る気持ちだけは変わりない。
ヒカルが選んだ道ならば私は見守るしかないのだと腹を括る美津子に、桃の花は優しく薫るのだった。
しかし、ここで神様は粋な計らいをしてくださる。
一年後の桃の節句の進藤家には、美津子念願の雛人形が飾られたのだ。
それも豪華七段飾り、美津子が選びに選び抜いた、お気に入りのお顔をしたお雛様だ。
そう…
美津子は念願の女の子を授かったのだ。
四十を越えての妊娠、出産は大変だったが、それは兄になろうとするヒカルの献身によって支えられた。
妹に対するヒカルの溺愛ぶりは凄まじく、恋人であるアキラの嫉妬を買うほどであった。
しかし勿論、アキラとて小さき命が可愛くない筈もない。ましてや愛しいヒカルの血を引いた妹だ。
この子には二人の兄がいるようなものね…と。
口にこそ出さないが、美津子は満足だった。
美津子の選んだ雛人形の面差しがどことなくアキラに似てなくもないとヒカルが気付くのは、何年もその人形を飾り続けて後のことである――
「塔矢〜、おせ〜よ、早くしろよ、早く〜、ももが待ってるだろっ!」
「待ってくれ、今、大事なメールが…やっと終わった。待たせてご免…って、進藤、君…また買ったのか、お土産…。」
「な、何だよ、その目っ!?いいじゃんか〜、俺がももに何買ったって。妹なんだからさ。」
「いいけど…今度は何だ?」
「えへへ〜、すげー可愛い髪飾りがあってさ〜、ヘアバンドにリボンのセットなの。ピンク色で…ついでに、それに似合う洋服も買っちゃった。」
「買っちゃったって…君、どれだけつぎ込んでるんだ…。」
進藤ヒカル七段がその収入のかなりを費やしているのは、生まれて一歳ちょっとになる妹への貢ぎもの…もとい、贈り物であった。
いつ、どこで何をしていても、例えラブラブの恋人であるアキラと一緒にいる時でも、妹のことは頭から離れないらしい。首っ丈。夢中。
二十歳も離れて、神様の気まぐれのようにいきなりポコ…と現れた妹である。
溺愛ぶりも致し方ないと最初は微笑ましいくらいに思っていたアキラも、ここへ来て半ば呆れている。
…というか、ムカつくこともある。
昔から実年齢よりも大人びてはいるものの、ヒカルへの執着に関しては碁界のプリンスの品行方正、容姿端麗な顔など、どこ行っちゃったんだ〜とばかりに凄まじさを見せてきたアキラだ。
恋人同士として関係が安定し始めた頃。
期せずしてヒカルの母美津子が女の子を出産し、二人の間にも微妙な変化が起こりつつあるとかないとか…
今日も今日とて、妹のお祝いだからと二人連れ立ってヒカルの実家に赴くことになり、アキラの家へとヒカルが迎えに来ていたのだ。
アキラは急用でメールを打っていたのだが、部屋に入って来るなりヒカルは急かし始めた。
もう一刻でも早く、妹に会いたくて会いたくて我慢出来ないのだ。
それこそ電車の中でも走ってしまいたいくらいの勢いで、会いたいのだ。
「お前さ、そんな呆れた顔するけど、これは節句のお祝いなんだから。そういうお前だってどうせももに何か用意してるだろう?」
「ああ、それなら…僕は絵本にしたよ、今は一歳くらいからでも、視覚に訴えるいい本があるんだね〜。ほら、あの愛子さまもご愛読された素晴らしい絵本だって本屋の店員さんが言ってたよ。」
「絵本〜っ!?まだそんなのはええって。どうせももにベ〜ロベロ舐められて噛み噛みされてさ、本なんてグチョグチョにされちまうのがオチだって!」
「何だとぉ?…僕はももちゃんの将来を考えて…君みたいに猫ッ可愛がりしたらスポイルされてしまうんじゃないかと大変心配だっ!!大体、ももちゃんのあの薄毛で、髪飾りもへったくれもないだろう?…っは!」
「ううううう薄毛言うなーっ!ももはハゲなんかじゃねえっ!ちょ、ちょっとばかり髪の毛がポヤポヤしてるかもしんないけど…俺だってあかんぼの時はそうだったけど、ちゃんと生えて来たもん!」
「誰もハゲとまでは言ってないだろう?…ふんっ!ももちゃんは女の子なんだぞ、失礼だな。」
アキラの不機嫌を受けて、ヒカルもちょっとばかりシュン…となる。
アキラと喧嘩したい訳じゃない。アキラは大事な恋人だ。
何せ、手に入れるまでどれだけ頑張って来たか!
あの男らしさが服着て歩いているようなアキラを、自分の下でアンアン言わせるまでには想像を絶する困難を極めた。
血の滲むような(!?)努力で漸く落としたのである。
今ではアキラが通い恋人となって、ヒカルの部屋で半同棲しているようなもの。いちゃいちゃし放題。
アキラの涼し気な顔がとろんと緩み、ヒカルの名前を掠れた声で呼んではしがみ付いて来る時間は、ヒカルの至福だった。
――だがしかし。
妹の存在は違う。全く違う。違った至福をヒカルに与えてくれる。
歩き出したばかり、赤ちゃん言葉を口にし始めたばかりの小さな命は、ヒカルのみならず周りのもの全てを甘い幸福に包んでくれる。
アキラだって可愛がってくれてはいるが、そこは血の繋がりのあるなしが微妙に影響していたかもしれない。
アキラの本来持っている独占欲だの激情だのを、まさか他の女性(もしくは男性)の影によってではなく、ヒカルの身内の存在によって呼び覚まされるとは…
ヒカルにもアキラにも、全くの計算外であったのだ。
「あのさ…塔矢。ももの名前だけど…どうして十二月生まれなのにももなんだろうって、不思議だって言ってたじゃん?お袋が絶対にももがいいって…でも、理由はずっと教えてくれなかったんだけど…。」
コートを羽織り身支度をするアキラからは、不機嫌オーラがユラユラと立ち昇っている。
ヒカルはご機嫌をとろうと、最近母から聞きだした話を持ち出した。絶対にアキラの機嫌を直せる秘策でもある。
「…ん?ももちゃんの名前?」
お、良かった…こっち向いたぞ、と。ヒカルは内心ガッツポーズをする。
「そうなんだよ〜、それがさ、お袋ってばこの前、お雛様の支度を手伝った時に打ち明けやがって…。」
こら、親のことをそういう言い方するんじゃないと、アキラの目が光る。
ヒカルが肩をすくめて流すのも、二人の間では何度となく交わされたやり取りだ。
「お前、昔俺んちに桃の花、持っていったろう?覚えてる?」
「…ああ、そう言えば…。」
「あん時さ、桃の花がすご〜く綺麗で妙に感激しちゃったんだって。桃ってさ、子宝の象徴なんだって。それでお袋ってば、年甲斐もなく子供が欲しいって桃の花に真剣に祈っちゃったらしいぜ。…んで、霊験あらたか、すぐにご懐妊〜!お前が桃の花を持って来てくれたお陰だから…絶対に『もも』って付けたかったらしい。」
「へえ…あの花がそんな役に立ってたなんて…そう、そうだったの…。」
アキラが、はにかんだような微笑みを見せた。
機嫌はどうやらヒカルの思惑通りすっかり直ったらしい。やれやれ…
ヒカルの話は美津子が語った通りであったが、そこには息子には言えない部分もあったのだ。
美津子はあの日、桃の花を抱えたアキラを心底美しいと思った。
それは見た目の美醜だけではない…内面から滲み出るこの青年の、人としての真っ直ぐで高潔な魂をも表しているようで。
心のどこかで、いつかヒカルがこの青年に飽きられて捨てられるのを待とうと(ヒカルがアキラを捨てるとは微塵も想像出来なかったらしい)暗い望みを抱いていた自分を恥じ、二人を恋人同士として認め、見守って行こうと決意した。
同時に――
だったら神様、私にもう一度子供を産むチャンスを与えてくださってもいいんじゃない?某作家だって四十三歳で産んでたわよ〜。こう見えても私、まだ若いのよ〜。やっぱり諦め切れないわ〜と…
桃の花の前に正座し、恨みがましい視線を送りつつ願ったのも本当だった。
こうして授かった娘は、美津子の希望通り「進藤もも」と名付けられた。
ヒカルのことは「ヒカにいに」、アキラのことは「アキにいに」と呼ばせようと、ももが言葉を喋り出す日を虎視眈々と狙って(用法が違うだろうか…)は、毎日ももに向かって「パパ」「ママ」などそっちのけで二人の呼び名を語りかけている美津子であった。
ももがその名前を呼んで、二人がとろけそうな笑顔で喜ぶ日を想像するだけで、美津子はクネクネと身を捩っては昂奮するのを禁じえない。
…すっかり、アキラの母親気取り…というよりも、アキラのファンと言っていいヒカルの母、美津子であった。
「塔矢、お前もももの兄貴として認めてやるよ、そうすりゃいいだろ?お前も俺とおんなじくらいもものこと、可愛がってもいいぜ〜。」
「君の許しなんかもらわなくても、もうお母様から塔矢君はもものお兄さんだからと言っていただいている。僕のことも兄としてももちゃんに教えるそうだよ、はっはっは…。」
「げげげぇ〜、やなヤツ、お前って!ももは渡さねえからなっ!」
「舌の根も乾かぬうちに…。」
「あ〜あ、もももいつかお嫁に行っちゃうのかな〜、がーっ!やだやだやだ、ももが他の男のものになっちゃったら…おっしゃ!ももには絶対に、ヒカルお兄ちゃんのお嫁さんになる〜と言わせるぜっ!」
「…ふうううん…お嫁さん、ねえええ…君って笑っちゃうくらいベタなこと言うなぁ…ははははは…。」
アキラの運転で、ヒカルの家に向かう車の中である。
さきほどのいさかいなぞすっかり忘れて、再びヒカルの心は妹へと飛んでいるらしかった。
その様子に、アキラの心にも再度意地悪な黒雲が湧く…
「確かに幼稚園くらいまではいいだろうね、そういうのも可愛くて…………でも…。」
「う、何だよ…お前…。」
アキラの運転が荒くなった。
アキラは典型的な「ハンドルを握ると人格が変わる」タイプだが、ヒカルに言わせると優等生の仮面が剥げて、本来の凶暴で直線的な性格に戻るだけだと言う。本性が出るとも言う。
ギュギュギューッとカーブを曲がって一息ついてから、信号待ちで止まった。
助手席のヒカルがガックン…と、頭を前後させる。
「成長したらももちゃんも知るだろう…二つの大事なことを、ね。」
「な、んだよお〜、大事なことって…。」
ヒカルは首をコキコキと動かしているが、アキラはそちらを見もせずに続けた。
「本当の兄とは結婚出来ないということと…。」
「…う。」
ヒカルの動きが止まる。冷ややかな声がする…
「それから――僕は本当の兄じゃないということ。」
「…へ?おま…まさか…。」
そこでアキラはゆっくりとヒカルの方に顔を向け、極上スマイルでトドメを刺した。
「ももちゃんがアキラくんと結婚する〜とか言い出したら…君、どうなっちゃうんだろうね?」
「――っ!!??」
ヒカルが声なき悲鳴を上げたと同時に、車は発進した。
その急発進ぶりは常のアキラ以上に激しく、タイヤが路面を擦る音が長く大きく響き…
そしてそれは、アキラの高らかな笑いにも似ていた。
アキラの予言どおり。
ヒカルが妹に対して(或いはアキラに対して?)嫉妬を掻き立てられるようになる逆転劇は、そう遠くない将来に起こるのだった――