― 未来から吹く風 ―
ふと横を見ると、進藤がいた。僕は歩く速度を緩める。
「あれ、もう帰り?」
「そう。お前も?」
「そうだけど・・・相変わらず凄い袋だね。」
進藤が手に提げた二つの紙袋は、はちきれんばかりに膨らんでいる。
「お前こそ!人のこと言えるか。・・・なあ?俺ら、これ抱えて電車乗るの、ちょっと嫌味ってヤツじゃねえ?」
「あははは・・・確かに!じゃあタクシーにする?」
「いや。これから俺、道玄坂行ってお裾分けするからさ。」
進藤は、彼が昔から通っている碁会所の名前を挙げた。
久しぶりに耳にするその名前に懐かしさが込み上げ、僕はいつになくずうずうしいことを言ってしまった。
「ああ、僕も実はこのチョコレートをどうしようかと思ってたんだ。今年は両親もいないし。良かったらそちらに便乗しようかな。」
「・・・え?来るの、お前。」
「急に迷惑かな。」
「いやあ・・・道玄坂は俺だってここんとこ行ってないからパニックするかなって・・・いや、いや、やっぱ行こう!マスターも皆も喜ぶと思うよ!そうだ、河合さん呼ぼっかな。」
「ああ、あのタクシーの・・・楽しい人だよね。」
「タクシー、もう引退するってさ。まだ若いんだけど、腰に来ちゃったみたいで。結構シンドイ商売だよな。」
「そうなの。何度か乗せてもらったよね?」
「うん・・・根っから運転、好きみたいだけどな。腰が悪いと駄目なんだって。デスクワークに変わるってさ。」
頷く進藤の横顔は、どことなく寂しそうだ。
彼がほんの中学生の頃から可愛がってくれた人だから、その老いを感じさせるような話題が辛いのだろうと思った。
「・・・俺ら、幸せだよな。一番好きなこと、仕事に出来て。」
進藤がポツリと言った。
「本当だね。感謝してもし足りないと思う時があるよ。」
「お前でも?碁打ちの子供に生まれて、当然のように棋士になったお前でもか・・・。」
「そりゃあ、噛み締めるよ。この幸運を―――」
「ふうん・・・。」
・・・噛み締めているのは、それだけじゃないよ。進藤。
君と出会えたことにもどれだけ感謝を覚えているか―――当の君自身は知らないかもしれないけどね。
口には出来ない事柄が増えたのも、僕らが二十歳を越え、大人になったからだろうか・・・・・
道玄坂の碁会所には実に数年ぶりで連れて行ってもらったのだが、僕は人々に気さくに迎えられ、楽しい時間を過ごした。
しかし、進藤と僕とが店に入った最初の瞬間は本当に驚かれた。
進藤は当たり前のように振舞っていたが、矢張りバレンタインという日の夜に気軽にこんな場所をたずねるのは、おじさん連中とは言え驚くものらしい。
「ねえねえ、進藤プロも塔矢プロも、こんな日にいいの?あの〜彼女、とか・・・。」
「あ、俺、今はいねえから平気。」
「ええ、僕も特に予定はありませんから。」
マスターが心配そうに訊ねてくれるが、僕らは相手が拍子抜けするくらい即答してしまったらしい。
その場に居合わせた皆が、肩をすくめるようにして笑った。
帰り道は、外の冷たい空気が心地良かった。
「はあ、結構打ったな。お前、疲れた?」
「いや、そんなことはないよ。楽しかった。凄く、楽しかった・・・。」
「そうか、良かった。うん、今日は良かったよ、俺も・・・。」
「暖冬だなんて言うけど・・・やっぱり冷えるね。」
「うん、でも・・・気持ちいいーっ!冬の夜はさ、こんくらい寒くねえとなっ!」
・・・ああ、僕も今ね、同じことを思っていたよ・・・・・
また、心の中で彼に語りかける。
彼はその声を聞いた訳でもないのに、僕の方を見て微笑んだ。白い息が、フワリと立ち昇り、僕らの間に霞をかける。
偶然がもたらしたささやかなささやかな幸福に、僕は眩暈がしそうだった。
―――いつの頃からだろう・・・
心に響くものを見たり聞いたりすると、君に伝えたくなる。
別れたすぐから、今度はいつ会えるんだろうと次が待ち遠しい。
そんな相手は君だけだった。
それが僕にとって何を意味するものかずっとわかっているくせに、日常の中に紛らせて見ないことにしている。
別にそれでもいいじゃないか?
だって、君も同じだ。
何も言わない。そう・・・肝心なことは、何一つ言わなくなった。
特別な事件でもあれば別だろうけど、僕らの日常は淡々と石を打っているうちに過ぎてゆくのだから。
「・・・なあ、やっぱり俺、今年もお前に負けてたな。」
「は?」
「チョコの数。」
「何だ、それか・・・。」
さっき、いただいた贈り物の包みからカードだけを抜き出し、中身はかなりの数を碁会所の皆さんに持ち帰ってもらった。
その時、進藤が数えていたのを知っていたが、張り合うのもそろそろ止めにしたらいいのにと、僕はただ苦笑しただけだった。
「・・・あっ、そう言えば・・・君って、毎年数えてなかった?必ず僕のことを追って来て、袋を覗いてただろう?」
「へへ・・・。」
「いつまで続ける気だ。全く・・・。」
「そうだな・・・俺がお前の数を追い越したら、もう止めるわ・・・数えるの。」
「本気か?」
「ははははっ・・・どうだろ・・・まあ、気にすんなって・・・。」
随分軽くなった紙袋を振り回しながら、軽い足取りで僕の半歩前を行く。
髪が夜風に吹かれ、進藤の匂いがうっすらと漂って来た。
胸の奥。
何かがコトンと音を立て、僕の気持ちの在り処を知らせる。
進藤。
ねえ、進藤。
君がそんなにたくさんチョコレートを贈られるような男性に育ったことを
きっと誰よりも、僕が一番複雑な想いで見ているよ・・・と言ったら
君は
君は驚くかい?
進藤。
こっちを向いて。
僕を見て。
そして
何か、言ってくれないか・・・・・
「なあ、塔矢。俺は・・・どうすればいいんだろうな?」
不意に、進藤が振り返った。
突然のことに彼が何を言いたいのか掴めず、僕はポカン・・・としてしまう。
「お前がもらうチョコの数、追い越したらさあ・・・目標なくなっちゃうよ。」
「まだ言ってる・・・。」
僕は呆れたように眉を寄せ、しかめっ面を作ってみせた。
でも・・・本当に不快に思ってる訳でもないよ?君が僕のことを気にしているうちは、まだいいような気がするんだ。
チョコレートの数を張り合うなんて子供っぽい、今年は一番大切な人と過ごすからと、僕の前を女性の肩を抱いて君が通り過ぎて行ったとしたら、どれだけ苦しいだろう。僕の胸には、ポッカリと大きな穴が開いてしまうに違いない。
「塔矢。」
「ん?」
「だからさ・・・俺はこれからどうすればいいんだろ・・・。」
「え・・・。」
言葉に詰まった。
僕を見る進藤の瞳は、モノ言いたげに強い光を揺らしている。
碁が絡む時でも、彼は昂奮が募るとこんな風に瞳を潤ませることがあるが、今日も打ったせいなのだろうか?
それとも・・・・・
「俺たち、もう二十歳だぜ。いい大人になっちまったな。お互いバレンタインの夜に一人っつーのもどうかと思うけど・・・でも―――」
「でも?」
「・・・いや、いい。」
「言えよ、進藤。」
「ワリイ。何が言いたかった訳でもねえよ。変なこと切り出してご免な。」
「そうか・・・。」
僕らは、とうとう黙り込んだ。
もうすぐ駅だ。
人並みが増え、その只中で揉みくちゃにされ、僕らは近くを歩くことすら出来なくなる。
これだけ混み合う街中なのだから、喋るどころではない。沈黙も不自然じゃない。
それでも僕は言いようのない焦燥に駆られ、進藤と何かを話したくてたまらない気持ちが溢れそうになっていた。
駅前に着いたら、タクシーを拾う予定だった。
だからそこに辿り着くまでの我慢だと、必死で自分を宥める。進藤に何か言いたくて言いたくて、でも、何を言ったらいいのかわからない自分をもどかしく思いながら。
「あのさ、塔矢!俺、やっぱ電車にする!お前はタクシーん乗れ!」
「・・・え、ええっ・・・進藤!?」
「バイバイ!」
「待って・・・しん・・・。」
声は彼に縋るが、体は人波に阻まれる。もの凄い人出だ。バレンタインの夜、若者の街なのだから無理もないが。
思いたくはなかったが―――彼は僕が追って来れない場所まで来てから、僕に不意打ちのさよならを告げたのだろうか?
どんなに心の中で彼の名前を叫んでも、進藤はもう僕の方を振り向かなかった。二度と。
だのに。
だのに、どうしてなんだ?
風に乗って、その声が僕の耳に届いた。
距離もあったし、人の数も尋常ではなかったのに。
はっきりと彼の声だった。
空耳でもなければ、人間違いでもない。
それだけは確信出来た。
―――塔矢・・・俺、どうしたらいいんだよ・・・・・
その声は彼の迷いを訴えているようで、でも、僕の心には別の意味が染み渡っていった・・・
―――塔矢・・・俺に、どうして欲しい?お前は・・・これから、どうしたいんだ?
風に千切れてどこかへ消えた切ない声は、僕の胸に決して消えないものを刻んだ。
僕らの未来に待ち受けている様々なものが、徐々に、その形を僕らの眼前に現そうとしているのだと―――彼の、静かで厳しい背中が僕に教えてくれている。
その時、バレンタインに浮き足立つ雑踏に取り残された僕は手にしたチョコレートの紙袋が重たく感じられ、持つ手を変えたのだった。